Raise'em Right!

幸せな子供を育てるために!

 

ハグとキス、それからおしりにポン パート1

 

しつけのトラブルを防ぐための建設的なアプローチ

                            ケイ・カズマ博士著

 ハグとキス、それから・・・

 

「ケビン、ちょっと手を貸してちょうだい」 

 あるあわただしい朝、私はこう言いました。

「あと15分で行かなくちゃいけないのに、ママ一人では全部終えられないの」

「でも、手伝いたくない」

「どうしたら、手伝ってくれる?」

 何か特別な物と取引するチャンスを見て取った9歳のケビンは、目を輝かせてこう言いました。

「何かくれる?」

 ケビンをだまして、できそうにない事を約束したくはなかったので、私はハグ(ぎゅっと抱くこと)してあげると言いました。

「それだけじゃ、だめ」とケビンは答えました。キャンディーと10セントが息子の目の前にちらついている様子でした。

「わかったわ。何か他の物をあげなくてはね」

私は交渉することにしました。

「何くれる?」 

ケビンが熱心に聞きます。

「ママを手伝ってくれたら、ハグだけじゃなくて、キスもしてあげる!」

 期待外れの答えが返ってきたので、ケビンは、「まだ、だめ」と首を横に振りました。

 私は、(でも、もう甘いお菓子なんかあげたくないし…。これじゃあ、交渉するだけで15分たってしまう)と思い、こう言いました。

「ママを手伝ってくれたら、ハグとキスをして、それからおしりをけってあげる」

「ええっ?!」 ケビンは驚きました。

「おしりにポンと」 私は繰り返しました。

「だめだよ」ケビンは笑いながら首を振ります。

「それでもまだ足りないもん」

「オーケー、本当にほしいなら、何か他のものをあげるわ」

「何?」とケビンが聞いてきます。

「ええとね。」私はためらいながら、こう続けました。

「ハグとキスと…おしりにポンと一けり、それから…耳を一かじりしてあげる」

 それが母親の言う言葉かと、ケビンはあっけにとられました。それから大声でこう言ったのです。

「オーケー、それで決まり!」

 さて私は、子供がお手伝いを嫌がって困るという親たちに、おしりをポンとけってあげることが解決策だと言うつもりはさらさらありません。おそらくあなたの子供にその手は通用しないでしょうし、ケビンにも、また通用することはないでしょう。でもそれは楽しいゲームでした。少なくとも、その時必要だった事をケビンにさせるだけの効き目があったのです。時々ゲームのようにするなら、人生ははるかに楽しくなるでしょう。子供が従おうとしない時、ほとんどの親は子供を脅したり、大声を張り上げます。でも、そうやってしつけをしようとしても、親子双方に不愉快な思いが残るだけです。知恵がきいていて、楽しく、愛のこもった方法で、親の言うことをきくよう教えられるなら、その方法を使ってみようではありませんか。

 

 

 ひも戦術

 

 私は、子供の性格は、生まれた時から子供によって異なると信じています。大人にとって受け入れやすい性格とそうでないのがあるのです。

 子供の性格や態度の中に、扱いにくい特徴が幾つか見え始めると、大人は子供に、自分が望むような「完壁」な子供として振る舞うことを強制しがちです。しかし、神が子供に与えて下さった特徴を尊重することなく、子供に過度の期待をかければかけるほど、ますます子供は変わることを拒むものです。そしてもっと反抗的になります。

 これについてわかりやすく説明するために、ひものたとえを使ってみましょう。子供はひものようなものだからです。

 一本のひもをまっすぐ置いてみましょう。次に、後ろの端を持って、ひもを前方に押してみて下さい。ひもはあなたが押している方向にまっすぐ動くでしょうか? もちろん動きません。ぐにゃぐにゃになり、そのまま押し続けるなら、丸まってしまいます。でも、そのひもをあなたの引っ張りたい方向に引っ張るなら、ひもはついて来ます。

 

 子供は、ひものようなもの。押し付けられたり、無理強いされると、反抗する傾向があります。

 頑固で反抗的な態度を和らげさせるための鍵は、子供はひもに似ていると覚えておくことです。あなたの望む方向に子供を押しても、子供はその方向には進みません。

 ひも戦術を使って、子供を押すのではなくて導いてあげるのは、誕生の時から、子供の人間としての権利を尊重するという形で始めるべきです。赤ちゃんからおもちゃをひったくったり、突然口の中に哺乳びんを押し込んだり、あるいは、まるで感情のないぬいぐるみ同然に抱き上げたりして、乱暴に赤ちゃんの邪魔をしてはいけません。赤ちゃんには選択の余地がないからといって、自分の意志を無理やり押し付けてはいけないのです。

 そうではなく、まずは落ち着いて、赤ちゃんを観察してみましょう。もし赤ちゃんが何かに興味を示すなら、それを尊重してあげることです。まだ答えられなくても、話しかけてごらんなさい。「今、ママと一緒に行けるかな? 抱いていってあげるわね」と言って抱き上げるのです。

 あなたが赤ちゃんにさせようとする事に対して、赤ちゃんの心を準備しましょう。赤ちゃんの関心を引いて、これからすることについて話してあげるのです。おむつを替える時には、替えながら何をしているかを話してあげたらいいでしょう。そうすれば赤ちゃんの関心を100%引くことができ、体をよじらすという反抗のしるしも見られなくなるでしょう! それから「ママの言うこと、聞いてくれてありがとうね」と言って、いい子にしていたことをほめ、抱き寄せて、キスしてあげるのです。子供に親の望むことを無理強いし、反抗心を抱かせる結果になるよりは、言うことをきいたことで子供をほめてあげる方が、はるかに効果的です。

 子供にやる気を起こさせ、励まし、導き、良い方向に進ませるには、時間がかかります。けれども、あなたの言う事には何でも頑固に抵抗するよう子供を仕向けたり、反抗心を起こさせるのではなく、あなたの求める事を喜んで受け入れるようにさせるのに、この方法はとても効果的です。以下に、あなたの望み通りに子供を導くための方法を幾つか挙げてみます。

 

 1.大好きな遊びに夢中になっている子供に、何か他の事をするようにと言わない。子供は大人以上に邪魔されるのが好きではありません。

 2.今している事をもうすぐやめなければならないことを、子供に公平に警告してあげること。「あと10分で積み木を片づけてね。じゃあ、タイマーをセットするわよ」という具合に。

 3.協力を求めること。「テーブルにお皿を並べるの手伝ってくれない?」

 4.できるだけ子供に選択させる事。「買物に出かける前にしなければならない事が三つあるの。その内のどれを手伝いたい?」

 5.楽しく一緒に仕事すること。子供はあなたのしている事をするのが好きです。あなたが楽しく一緒に仕事をしてくれるなら。

 6.ユーモアと演技力を使って、衝突を予防すること。からまった髪の毛をとかす時は、美容院ごっこをしたり、食物に好き嫌いのある子供とは、レストランごっごをするのもいいでしょう。

 7.ひたすら励ましてあげること! 往々にして、従わない子供というのは、落胆している子供が多いものです。ひもの戦術を覚えていさえすれば、反抗的な子供を、素直に言うことをきく子供に変えることができます。

 

 愛のコップの原理を適用すること

 

 愛は、子供の健全な成長に欠かせません。また、否定的な態度を肯定的な態度に変える大切な要素でもあります。それどころか、愛は多くの場合、子供の態度を変える上で、罰よりも効果的です!

 愛のコップの原理は、その事をうまく説明しています。子供をコップにたとえると、コップがいっぱいの時は、他の人に与えるに十分なほど愛にあふれているわけで、子供はあなたにも他の人たちにも愛をこめて接し、行儀良く振る舞う傾向にあります。

 子供にとっては、関心イコール愛です。だから子供は、空っぽに感じると、関心を引く事で満たされようとします。しかし関心を引くための努力が、結果的には相手を怒らせてしまうことがしばしばです。親はたいてい、こういう否定的な態度は叱るべきだと判断しますが、愛のコップが空っぽなために子供が悪い行為をしているのなら、叱っても効果はありません。まず、子供の愛の必要が満たされなくてはならないからです。

 ローリーの話は、愛のコップの原理を実生活でどう生かせるかをよく示しています。

 その日は、七歳になるローリーにとってみじめな一日でした。だだをこねたり、ふくれっ面をしたり、妹のリサを押したり、リサの大好きな人形をひったくったりしていました。

 我慢できなくなった母親は言いました。「ローリー、一体どうしたの? いいお姉さんになって、リサに優しくしてあげて。でないと、お仕置きよ!」

 しかしローリーは母親の脅しなどお構いなしに、リサに意地悪を言い続けたのです。夜、寝る時に、母親は、ローリーが意地悪なことばかり言っていたので、とても悲しく思ったとローリーに告げました。でもその言葉で、ローリーはますます怒ってしまいました。「ママは、私よりリサの方が好きなんだわ」と鋭く言い返すと、むっつりしながら寝てしまったのです。

 翌朝もローリーは起きた時から機嫌が悪く、ローリーのからまった髪の毛をとかしていた母親に不平ばかり言うのでした。母親はかたわらで、一体ローリーはどうしたのか考えていました。

 愛情のこもった関心を寄せてもらってないことが原因ではないでしょうか? 母親はローリーを呼ぶと、こう言いました。「ローリー、あなたがどうしてそんなふうなのか、わかったわ」

「ほんと?」 当惑した様子でローリーが尋ねました。

「ほんとよ。あなたの愛のコップが空っぽだからよ。さあ、いらっしゃい。コップをいっぱいにしてあげるから」

 母親はローリーを自分のひざの上に座らせると、彼女を抱きしめキスをしながら、彼女が特別な存在であることを告げたのです。ローリーはびっくりしましたが、明らかに母親から関心を寄せてもらえたことを楽しんでいるようでした。そのすぐ後で母親はローリーに、愛のコップがいっぱいになったかどうかと尋ねました。

「まだ、ここまでよ」と言って、ローリーは胸のところを指さしました。

 母親は再びローリーを抱きしめ、愛を沢山与えてあげました。「もういっぱいになった?」

「まだ。でもあごのことろまできたわ」

「すごいじゃない」と言うと、母親はローリーを抱きしめました。 

「コップからあふれ出るくらいいっぱいにできるかしら」

 ついにローリーは微笑みながら、コップがいっぱいになってあふれていると言ったのです。

「そんなにいっぱい愛があるなら、リサにも少し分けてあげたら?」と母親が提案しました。

「そんなこと無理よ。きっとリサは私を押しのけるわ」とローリーは答えました。リサに対して本当に意地悪だったことを思うと、そんなことにもなりかねないと母親も思いました。でも、ローリーにやってみるようにと励ましたのです。ためらいながらも、ローリーは妹の所に行き、「リサ、愛してるわ」と言って、抱きしめました。すると、リサもローリーをぎゅっと抱きしめたのです。それから二人で手をつないで、朝食を食べに行きました。

 この話にはまだ続きがあります。二〜三週間後、今度は母親のほうがひどい一日を過ごしていました。ぶつぶつ文句ばかり口から出て、子供たちにもきつい態度で当たりました。しばらくするとローリーはこう言いました。

「ママ、ママがどうしてそんなふうなのか、私知ってるわ。ママの愛のコップが空っぽだからよ!」 そう言うとローリーは母親の首に抱きついて、大きなキスをしたのです。さて、母親の愛のコップがどうなったか、おわかりですか? それはあっという間にあふれる程にいっぱいになり、幸せな母親に戻ったのでした!

 良い子がどれだけ関心を寄せてもらえるでしょうか? それほど度々ではありません。ほとんどの子供は、悪い子になったほうが関心がもらえる、あるいは、大げさに振る舞ったり、ふざけたり、物をこわしたり、いたずらをしたほうが関心がもらえると知っています。時々、子供は関心をもらうことがどうしようもなく必要になるので、たとえ悪いことをしてでも関心を引こうとします。大声で怒鳴られたり、たたかれたりするほうが、無視されるよりはましなのです。子供が、悪いことをしてまでも親の関心を引こうとしなくてすむよう願います。

 次回、誰かが意地悪になってきたら、愛のコップの原理を思い出して下さい。コップが空っぽになった時、ちょっと余分に愛を与えること、つまり積極的な関心を寄せてあげることほど、素早く相手の態度を変えるものはありません。子供と一緒に楽しい時を過ごし、励ましてあげたり、感謝の言葉を言ってあげましょう。そうすることで、違いがでてくるかどうか、子供が否定的な振る舞いをする必要が減るかどうか、見てみてはどうでしょうか。

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 子供が生きがいある人生を送るために、ほめてあげることは、親切や愛のこもった行為と同じくらい大切である。子供にとって、誠実なほめ言葉は、花にとっての太陽のようなものだ。

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 基本的な三つの戒め

 

 子供達は何千もの規則を守るよう求められて育ちます。しかも、それらの規則は実に細々としています。けれども、子供がその規則を覚えていることもできないなら、何の役に立つでしょう。子供が、「でも、そんなこと言われたの、覚えてないよ」と言うなら、その子が覚えていられないほどたくさん規則を与えている可能性が大いにあります。規則だけでは、よくしつけされた子供に育てることはできません!

 規則を作るだけで、子供が善悪を学んでいくことはありません。どんな行為が正しくて、どんな行為が誤っているのか、はっきりわかっていないなら、自分で正しい決断を下すようにはならないでしょう。

 ですから、細々とした規則はすべて取りやめにすることです。子供と親であるあなたのために、振る舞いの基準となる三つの戒めを設定しましょう。以下がそれです。

 

 1.他の人を傷つけたり、ケガさせたりしない

 2.自分を傷つけたり、ケガする事をしない

 3.物を壊さない

 

 沢山の悪い振る舞いが、この基本的な三つの戒めに含まれ、子供が決断を下すのに必要な基礎を教えます。この三つの規則がないなら、子供は愚かな決断を下してしまいます。たとえばジャックが前庭で遊びたがっているとしましょう。古い規則について考えますが、親が「前庭で遊んじゃいけないよ」と言ったかどうか思い出せません。「庭でフットボールをしてはいけない」と言われたのは、覚えています。でもこの場合は、前庭ですし、フットボールではなく、野球です。だから「大丈夫だ。やろう」と決断するのですが、数メートル離れた所に窓があるということは考えもしません!

 けれども、三つの戒めをこの状況にあてはめて考えるなら、こう思うことでしょう。「前庭で野球をすると、誰かけがをするかな? 誰もしない。僕がけがするだろうか?いや、しない。物を壊すだろうか? そうだ、あの窓を壊すかも。じゃあ、前庭で遊ばないほうがいいな」

 家庭で子供の行動に様々な制限をもうける際に、親が一貫してこの三つの戒めをあてはめるなら、子供はすぐに原則をのみこみます。幼い時からこの規則をよく教えておけば、すべき事とすべきでない事について、早い内にこの規則をもとに判断できるようになるのです。すると、しつけははるかに楽になります。

 

 子供の行動を分類する

 

「子供に何もかも一度に教えることはできない」というのは、別に驚きではないでしょう。一度に何もかも教えようとすれば、絶えず小言を言うことになり、嫌な思いをするだけです。まず第一にあなたは否定的になり、いらいらし、子育ての喜びなど失ってしまいます。第二に、子供がつらい毎日を送ることになります。たいていの子供は、押しつけがましい親にはあまり長く耐えられず、じきに反抗的になるものです。

 けれども、一番の問題は、いっぺんに何もかも教えようとするあまり、小さな事で注意したり、叱ったりするのに忙し過ぎて、いざ大きな事が起こった時に、適切な対応をするエネルギーも時間も残っていないということです。つまり他の人や自分をけがさせたり、傷つけることをしない、また物を壊さないという基本的な三つの規則に違反するような行いをした時に、しっかり対応できないのです。そうなると、この三つの規則はあまり大切じゃないんだと子供は考え始め、あなたの権威に対する尊敬の念を失うようになります。

 というわけで親は、その時その時に何が一番大切かを判断し、それを教えることに集中しなければなりません。いったん子供がそれを学んだら、次に移るのです。経験から、子供の振る舞いを三種類に分類すると役に立ちます。

 カテゴリー1:大人が良いと認め、子供がやるのをもっと見たいと思う振る舞い。例えば、礼儀正しくする、玩具を他の子供に使わせてあげる、洗濯物を色物と白い物に分ける、赤ちゃんが寝ている時には静かにする、など。

 カテゴリー2:他の人、または本人をけがさせたり、傷つけたりしてはいけない、また物を壊してはいけないという基本的な三つの戒めに反するので、認められないふるまい。兄弟をかむ、家の中で物を投げる、など。

 カテゴリー3:好きではないけれど、大目に見ることができる振る舞い。例えばベッドをきちんと整えることができず、シーツがベッドの端から出る、お皿の最後の一口を指を使ってフォークにのせる、など。

 このように子供の振る舞いを分類すると、それにどう対応するか準備するのは簡単です。

 カテゴリー1に対して:良いと認めた振る舞いにはほうびを与える。

 カテゴリー2に対して:認めることのできない行動は正す。

 カテゴリー3に対して:好きではないが、大目に見られる振る舞いは、無視する。あるいは、あからさまに指摘することなく、より適した振る舞いを建設的に教える。

 カテゴリー3の振る舞いに対する最初のステップは、それがあなたを煩わせる度合いに応じて分類することです。「今」正すことが大切なのはどれかを判断しましょう。ベッドを整えるのは大切な事かもしれませんが、歯をみがく事や、礼儀正しい話し方をする事ほど大切ではありません。だから歯をみがくことや、不作法な話し方をしないことに集中することです。一旦これらの事が習慣になってきたなら、その他の振る舞いを建設的に教えることに移ったらいいでしょう。

 自分自身と子供を注意深く観察しましょう。子供をほめるよりも、注意したり、叱ったりすることのほうが多いなら、何かが間違っています。

 

 容易な従順を教える

 

 子供と楽しく過ごすのは良いことだと思いますが、だからと言って子供の誤った振る舞いに無関心であったり、必要な時に明確な規則を定めるのをためらってはいけません。むしろその反対です。しつけの建設的なアプローチは、親が子供の行動の制限をもうけ、それを維持し、守らない時にはしかるべき処置をとるぐらい堅固な態度を取って初めてうまくいくのです。そうしてのみ、子供は自分の置かれた環境において安心感を覚え、親を尊敬して、言うことを聞こうとします。

 子供に従うことを教えるのは、必ずしも厄介な仕事ではなく、楽しいものになり得ます。しかし子供の行動に基本的な規則を定めない限り、子供と共に笑って、ゲームをし、冗談を言い、なおかつ従順を期待することはできません。

 従順は子供が学ぶべき最も重要なレッスンであり、子供のうちに喜んで従おうという気持ちを芽生えさせることがゴールです。子供に従順を教えるための第一の必須事項とは、あなたの要求する事を一貫して守らせる事によって、子供にあなたの権威に対して尊敬の念を抱かせることです。

 子供が生れて数年は、親であるあなたの権威をわからせる時期です。そのためには、従わない場合には直ちに従わせるための措置をとらなくてはいけません。でも、子供が実行可能な事だけを指示したり、命じたりするようにしなくてはいけません。多くの親は、実行不可能な事をさせようとして、従うことを誤ったやり方で教えています。例を挙げましょう。「泣きやみなさい。もう泣くのは許さない。今すぐ泣きやまないなら、お尻をたたかれて、もっと泣くことになるぞ」「その野菜も食べて。食べなさいと言ったでしょう。絶対、口から出しちゃだめよ!」 聞き覚えがありませんか?

 こういった類いの要求は、強いることができません。顔を真っ赤にして怒鳴ったり、脅したり、物でつったりすることはできますが、泣くこと、食事、眠ること、排泄に関しては、子供が最終的な決定権の持ち主です。現実的な要求から始めることです。つまりあなたが強いることが出来るようなものから。例を挙げます。

「中においで」(外に行って、子供を中に連れて来る)

「顔と手を洗いなさい」(子供を洗面所まで連れて行って、石鹸とタオルを渡す)

「自転車を片付けなさい」(手をつないで、自転車のところまで連れて行く。そして子供が自転車を片付けるのを手伝う)

 何かの指示を実行させることができると判断したら、以下がその手順です。

 1・あなたの求める事を一度子供に告げ、子供がそれを聞き、理解していることを確かめる。

 2・子供が従うなら、感謝の気持ちを言葉で伝える。「ママの言った事をちゃんとしてくれると、とてもうれしいわ」 あるいは、ハグやスマイルによって特別に愛を示す。

 3・子供が反応を示さない時、してほしい事をもう一度繰り返して言い、それを絶対に実行させるようにする。例えば:「夕ご飯だから中に入ってきなさいって言ったでしょう」 そして喜んで従わせるために必要な事は何でもするのです。例えば家の中に入るゲームを使います。「裏口までかけっこしましょ。ママの方が早いわよ!」「食卓のテーブルまで何歩あるか、数えてみましょうか」 あるいは手をつないで、玄関までスキップしてもいいでしょう。

 子供が、従わずに済ませようとして、あるいは従うのを後回しにしようとして使う手段、つまり大人の気をそらせようとするテクニックに気をつけて下さい。「ゴミを捨てるのは、私の番じゃないわ」「私はこの間、したわ」「そんなの不公平だ」たとえ子供が「ママ、愛しているわ」とか「今、何時?」と言ったとしても、それはあなたの注意をそらそうとしているのかもしれません。そのようなテクニックは、要求している事を子供が行なうまで無視すべきで、その事に関して子供と話し合うべきではありません。子供がそのようなテクニックを使う時には、要求している事をただもう一度繰り返して下さい。

  ママ「くず籠の中のゴミを捨ててきてちょうだい」

  子供「え、やだぁ」

  ママ「くず籠の中のゴミを捨ててきてちょうだい」

  子供「どうして今しなくちゃいけないの」

  ママ「くず籠の中のゴミを捨ててきてちょうだい」

  子供「この間したばっかりだよ。不公平だ」

  ママ「くず籠の中のゴミを捨ててきてちょうだい」

  子供「いつ外に遊びに行けるの」

  ママ「くず籠の中のゴミを捨ててきてちょうだい」

 

 わかりますか? まるで壊れたレコードのように感じるかもしれませんが、注意をそらすやり方がうまくいかないと知るなら、子供はもっと容易に従うようになります。

 あなたの要求したことを子供が絶対に行うようになるには、時間がかかります。けれどもあなたが一貫していないなら、子供から50%の従順しか期待できないでしょう。

 例えば子供に毎朝ベッドを整えさせるのはとても大切だと、ママが考えているとします。子供もママがそう感じているのがよくわかっていて、その規則に従うべきだと知っています。でもママは朝とても忙しく、息子の部屋をよくチェックし忘れます。それにママがベッドをチェックして、ベッドが乱れたままになっていても、スクールバスが迎えに来る前にベッドを整えさせようと余分な努力をするより、子供が従わなかった事を無視する方が簡単だと感じたりもします。だから子供が学校から帰るまで待とうと決めるのですが、家に帰って来た頃には、二人ともベッドの事など忘れてしまっているのです。

 さて、ママはそれでも子供がベッドを整えるのは大切なことだと考えていて、自分がどう思っているかを子供にはっきりと言ってあります。でも子供にそれを実行させるのに、それだけで十分でしょうか? 子供は自分が何をすべきかはっきりと知っています。じゃあ、どうしてしないのでしょうか? その理由は、ママが首尾一貫して、子供に自分の要求する事をさせることをしていないからです。

 もしママが断固として、子供に自分の期待する事をさせ、子供がそれをするのが習慣となるまで徹底してやらせるなら、子供は朝起きて、「さあ、ベッドを整えようかなあ」と思うことでしょう。それから子供は自分の選択によって何が起こりうるかを考えます。(「今しないなら、どっちにしろ、朝ご飯の前にさせられる」)そして賢い選択をするのです。(「今しておいたら、もうこの事でわずらされなくてすむ」)

 

 子供を正しく訓練したいなら、彼らの行きたい道に従ってではなく、彼らの行くべき道に従って訓練せよ。

 

 パパ、ママ、おじいちゃん、いとこのジョー、ベッツィーおばさん、それにベビーシッターの人まで子育てに携わっていると、首尾一貫したしつけは決して楽ではありません。子供はそれを最大限に利用します。そして自分のやりたい事を通すために、大人同士で反目し合うように仕向けます。子供に、分裂させて征服する手段を覚えさせる必要などありません! 子供の行動の限界が何かを皆で決め、子供にそれ以上のことを断固として許さないなら、子供は、不従順をやってのけることはできないと悟ります。

 

 従うのが可能である境界線を定めること

 

 従順とは、他の人によって定められた境界線の中で生活しようとすることです。私達は社会のあらゆるレベルにおいてそうした境界線があることを知っています。それを無視すると、素早く困った羽目に陥るのです。規則に従うことの重要性を学ぶのが早ければ早いほど、子供は幸せになります。そしてあなたの子育て業も、より充実します。「子たちよ、両親に従いなさい」(エペソ6章1節)は賢い助言です。けれども、なかなか従おうとしない子供がいるのはどうしてでしょうか?

 規則に対する子供の反応は、大人と同じです。子供は、罰が十分に厳しければ、もうそれはやるまいと思い、規則に従います。不従順のゆえに起こる社会的結果を恐れているなら、守ろうとするのです。けれども、その結果がたいしたことがなく、皆が制限を無視しているなら、子供は、その制限から出てみようとするでしょう。そして境界線がはっきりしていないなら、つまり、何か一つの事柄についてはっきりと述べられていても、ちょっとした不従順に対して何も罰がなく、規則を絶対に守らせるという首尾一貫性に欠けていると、子供はその限界にあえて挑戦しようとするだけではなく、境界線をさっさと越えてしまうものです。

 以下は、規則が「従う事が可能」かどうかを決める際に自問するとよいチェックリストです。

 1.規則は明白ですか? 子供に芝を刈るように言う時、正確にはどんなつもりで言っていますか? 芝を刈るだけでなく、刈り取った芝を集めてゴミ袋に入れてほしいのでしょうか? また、芝を刈った後で、芝生の縁をきれいに刈り揃えることも望んでいますか? もしそうなら、具体的に子供に言いましょう。

 2.いつ子供に従順を期待しますか? 制限時間ははっきりしていますか? それは、あなたと子供の両方にとって道理にかなったものですか? 子供もこの制限時間に同意していますか?

 3.不従順に対する罰は、子供がもうそれはすまいと思うくらい厳しいものですか? 罰が何かはっきりと子供に教えてありますか? まだあなたがどうするか決めていなくとも、少なくとも何か罰が与えられるということを子供に知らせましたか? そのようになった場合、自分の言葉通りに罰を与える準備ができていますか? 

 4.回りの環境は、子供が規則に従う助けとなっているでしょうか? あるいは他の子供達が規則を破っているので、あなたの子供もなかなか従えないでいますか? また、規則に従っているなら、回りの人はそれをほめてくれるでしょうか。また従っていないなら、回りの人は眉をひそめるでしょうか?

 5.子供は定められた規則を理解していますか? 要求事項を子供が自分の言葉で言うことができますか? 子供が読めるように、それを紙に書いてあげましたか? 

 子供がさっさと規則を破るなら、あなたは自分の言ったことは本気で実行するということを子供にはっきり知らせなくてはなりません。

 

 子供に自分で責任をとらせよ

 

 ビリーは放課後遊びほうけて、帰りが遅くなったので、友達とバスケットボールの試合に行けませんでした。友達は待つことができなかったのです。 

 スーは学校の課題で庭に二十日大根を植えましたが、水をやるのを忘れてしまったので、枯れてしまい、その課題で落第点をもらいました。

 ジムは、大切なミットを芝生に一晩中置きっぱなしにしてしまいました。自動噴水機が作動し、翌朝にはミットはびしょぬれでした。その日の午後、ジムは決勝戦で、レフトフライのボールをキャッチしそこねて、相手側のチームが優勝してしまいました。ジムは借りたミットにあまり慣れていなかったからです。

 結果。それらの成り行きは厳しすぎるように思えることがよくあります。どうしてビルの母親は、ビルが大好きなチームの試合を見逃さないように、放課後、彼を探さなかったのでしょうか? スーのお父さんは二十日大根がしおれ始めた頃、なぜ代わりに水をやらなかったのでしょうか? ジムの両親はどうして、ミットを家に入れるようにジムに忠告しなかったのでしょう? その代価はかなり高くつきました。

 では、どうしてでしょうか? この賢明な親たちは、子供の行動を改善する最善の方法の一つは、適切でない行動をとった時に、その結果どうなるかを子供自らが経験することだと知っていたからです。つまり、間違いから学ばせることだと。これは、子供に軽く注意したり、警告しても、誤った行動をやめない場合に特に効果があります。子供に悪い結果を身をもって経験させるのは、最も手っ取り早い方法で、長い目で見れば、子供に正しい決断を下すよう教える方法としては、最も痛みの少ない方法です。

 子供が自分の行動とそれのもたらす結果の因果関係がわからないと、自分のしたい事は何でもやって構わないと感じるかもしれません。例えば非行少年は、法に反する行為をしておきながら、とうとう刑務所に送られるととても驚くことがあるのです。

「どうして僕がこうなるんだ?」と非行少年たちは尋ねます。

「おまえが法律を破ったからじゃないか!」

「そうだけど、今までは、ずっとそれをしてても何も起こらなかった。どうして今度はこんなことになったんだ」

 結果には二つの種類があります。自然と起こるものと、親や他の権威をもった人々によって強いられるものです。

 自然に起こるものは、子供が自分の「滅びにいたる」道を行き続けるなら、すぐに起こります。例えば、まだ青いりんごを食べた自然の結果として腹痛を起こしたり、部屋を散らかりっ放しにしておいたために、先生が家庭訪問に来た時に恥ずかしい思いをする、といったことです。子供は、人をたたいてはいけないことを、自分がたたき返されるという結果によって学びます。また、自転車に鍵をかけ忘れて盗まれたことから、ちゃんと鍵をかけることを学ぶ場合もあります。

 自然の結果は、子供に危険を及ぼす場合もあります。例えば、通りで遊んでいて車にひかれたり、マッチで遊んでいてやけどをしてしまったりなどです。親は子供にこのような恐ろしいことが起こらないよう守る必要がありますが、同時に、子供に自分の行動の責任をとる事を教えなくてはいけません。他の行動(自分の部屋を掃除しなかったりなど)は、そのままにしていても、自然に何か悪い結果が起こるということはあまりないので、親が何らかの結果を作り出さなければなりません。子供にその結果の責任をとらせるのです。子供が、その罰は自分が違反したからだとわかるよう、納得のゆく罰則にしましょう。

 私の子供達が学んだ最大の教訓を振り返ってみると、それらは、自分の行動がもとで起こった自然の結果に苦しむことによって学んだ教訓です。

 例えば、キムとケーリーとケビンが就学前の年令の頃、パパの誕生日プレゼントに、パパの好きなクッキーを買うことにしました。そう決めると、興奮して、すぐにでも買いに行きたがったので、お店に連れていきました。子供達は棚の上にクッキーを見つけると、大事そうにレジまで運び、ブタの貯金箱から出し合ったお金で支払いをしました。

 こうしてクッキーを家に持ち帰ったのですが、私にはそれをすぐに包むための時間がなかったので、棚の一番上に置いておきました。そこなら安全と思ったからです。

 ところが、子供たちは私がそれをどこに置いたか見ていたのです。そしてその日の午後、一人が言いました。  「うーん、パパのクッキーはきっとおいしいだろうな。僕も一つほしいな」

「私も」 彼らは皆、賛成しました。

「一つぐらいとってもパパ気づかないよ」

 そこでキムは背の高い踏み台にのぼり、クッキーの箱を取りました。キムは一つ出して、包みをあけ、一口かじってみました。そして残りをケーリーにあげようとしたら、ケーリーは「いや、自分のがほしいもん」と言いました。

「僕も」とケビンが言いました。そこでキムはもう二つクッキーを出し、ケーリーとケビンに渡しました。キムは箱を見て、誰もなくなってる事に気づかないと思いながら、棚にしまったのでした。

 でも翌日、子供たちはまたクッキーのことを思い出し、また取りに行ったのです。キムは三つ取り出しました。そしてとうとう空っぽになるまでそれをし続けたのです。でも子供たちは私に何も言いませんでした。ですから、父親の誕生日に私は箱を取り出し、何も知らずにそれを包みました。

「パパへのプレゼントに何が入っているの?」と子供たちが包みを見て尋ねたので、「あなたたちがパパのお誕生日のために買ったクッキーよ」と答えました。

「でも」と、唾をごくりと飲みながら、子供達が言いました。

「パパの誕生日にそれはあげられないの」

「どうして?」

「空っぽなの」

「空っぽ?!」私は驚きました。

「うん」と子供達は言いました。

「私達みんな食べちゃったの。何か他のものをパパにあげなくっちゃ」

「もうそんな時間はないわ。それにお金もないでしょ。あなた達はパパに空っぽの誕生日プレゼントをあげるしかないわ!」

 そしてその通りの事が起こったのでした。夫は包みをあけて尋ねました。

「これはなんだい?」

「空っぽのお誕生日プレゼント」

 子供達は恥ずかしさにうなだれていました。「私達みんな食べちゃったの。本当にごめんなさい。もう今度からは空っぽのお誕生日プレゼントはあげないから!」

 彼らは二度としませんでした。

 私は子供に、盗んではいけないことについてお説教をし、パパのためにプレゼント出来ないのは本当にひどい事だと話すこともできたし、お仕置きをすることもできたでしょう。罰を与えることもできました。それに、またクッキーを買ってくることも出来たでしょうが、それでは、同じ効果はなかったことでしょう。

 子供に自然の成り行きを経験させるのは時々難しいものです。なぜなら「良い」両親は子供に最善のことを望むからです。私が知っているある母親は、毎朝早起きして息子のためにお弁当を作ります。たとえそれが息子の仕事であってもです。どうしてでしょうか? 息子にお腹を空かしてほしくないからです。母親が助けてくれるので、その息子は自分でお弁当を作ろうなんてしないでしょう。というわけで、息子がお腹を空かせるという自然の結果を経験するのを母親が望まなかったために、息子の責任が母親の責任になってしまったのです。

 自然の結果がない場合や、自然の結果が危ないものである場合には、親は、子供の行動が愚かであったことに気づかせ、経験を通して教訓を学ばせるために、何か違った罰則を与えねばなりません。2才の子を通りで走らせる事はできません。成り行きとして、その子は死んでしまうかもしれないからです。10才の子に許可なしに近所の家のりんごの木からりんごを取らせるわけにもいきません。近所の人は子供を叱りつけるかもしれないし、警察に連れていくかもしれません。あるいは、盗みがばれなかった場合は、これからもやってもいいと子供は思うかもしれません。

 そんな場合は、両親が罰則を設ける事によって何が正しくなかったのかを子供に教えなければなりません。例えば、「道路で遊んだりしたら、もう裏庭の柵の内側でしか遊ばせないよ」「近所のりんごを取ったら、おこずかいから10ドル罰金をもらうからね。そして、一緒にジョンソンさんの所へ行って、そのお金で弁償させるよ」

 こう言う親もいるでしょう。「私は親が罰を与えるという方法をしょっちゅう使っていますよ。子供が窓ガラスを割ったら、お仕置きします。ケンカした時も、ミルクをこぼした時も、お仕置きをします」 これらは親が子供に与える罰ですが、子供がした事に関連した納得のゆく罰とは言えません。

 もっと効果的にするために、親による罰は、子供のした行動に直接、関係したものでなければなりません。子供が窓ガラスを割ったら、その子に片付けさせ(その子がガラスで手を切ってしまわないくらい大きい子の場合)、持ち主に謝らせ、弁償させるのです。子供がケンカをするなら、「仲良くできないなら、二人とも離れて座るか、仲直りする椅子(向かい合って座る椅子)に座りなさい」と命じるのが、理にかなった罰です。子供は仲直りするまでその椅子に座っていなくてはいけません。幼い子供ですら、こぼしたミルクをふいて、不注意だったことの結果を学ぶことができます。

 自然で理にかなった責任のとらせ方をする事の素晴らしい点は、子供が「不公平だ」と言えないところです。子供は、その罰が自分の行動に見合っており、その結果苦しむのはやむを得ないということを学び始めます。

 

 違反に見合う罰を与えるように! しっかり忠告したり、脅かしたりしても、悪い事をし続けるなら、その子を罰しなさい。そうすれば子供は、態度を改めないならどうなるかを知る。一貫し、決して怠らない事。そうすれば、してはいけないと言われた事をすると、必ずその報いが来るのを知るようになる。

 

 子供は、沢山経験を積まなくとも、自分の誤った行為に対する公平な罰則は何かがわかります。だから、親がどうして良いかわからない場合や、子供が大きくて、罰に対して反抗するかもしれないと思う場合には、神がダビデ王にしたように、子供にどんな形で責任をとりたいか選ばせたらいいでしょう。神はダビデ王に人口調査をしてはならぬと言ったのに、ダビデは自分の王国がいかに偉大であるかを知りたかったので、神の言い付けを破って、それをやってしまいました。神は従順の大切さを教えるためにダビデに責任を取らせようとし、ダビデに選択を与えました。3年間の飢饉か、3ヵ月間、戦いで敵に追われて逃げること、あるいは、その地への三日間の致命的な疫病(聖書、サムエル記下24章参照)です。

 子供に、罰が不当であるという反感を抱かせる危険をおかすよりは、たとえその子の選択が甘すぎるように思えても、選ばせることが出来ます。いったん教訓を学んだのであれば、罰の厳しさの程度は問題ではありません。

 建設的に子供を罰する人は、ただ子供をたたいたり、打ちのめしたりはしません。従う事は割に合うという、子供の心に一生残るような教訓を学ばせる罰を注意深く考慮します。だから「罰」を「違反」に見合うものとして、子供がその結果から何か学べるようにしていってはどうでしょうか?

 

 ノーと言う代わりにイエスと言う

 

 あなたがノーと言ったために、子供がふくれっ面をしたり、駄々をこねたり、わめいたりで、とうとうイエスと言わざるをえなかったという経験はありませんか? そんな時には、もっと良い方法があるに違いないと思ったことでしょう。今度子供が何か要求してきたら、どうしてもノーと言わなければいけない場合以外は、まずイエスと言うことです。

 次にあげる例から、このイエス方式がいかに効果的かがよくわかります。これはレストランなどでよく見られる光景です。

 母親(幼児に向かって)「ハンバーガーを食べなさい」

 子供「あの乗り物に乗りたい。行ってもいい?」

 母親「だめよ! お昼ご飯を食べなさい」

 子供(ふくれっ面をする)「でも遊びたいもん」

 母親(イライラしてくる)「ハンバーガー食べなさいって言ったでしょう」

 子供(足をばたばたさせて、嘘泣きをする)「あそびたいよー」

 我慢できなくなった母親は、テーブルの反対側にいる10才の娘の方を向き、「シェリー。あなたの服のベルトをちょっと貸してちょうだい」と言い、ふくれっ面をして座っている息子をにらみながら、ベルトを握りしめて、脅しの態度をとります。息子は仕方なしに、そろそろとハンバーガーに手を伸ばし、一口かじります。そして母親は友達との会話に戻ります。

 2、3分後に息子は、食事を終えたお姉さんがアイスクリームをもらったのに気づき、くずります。「ぼくもアイスクリームほしい」

 母親はそれを無視し、「さっさとハンバーガーを食べなさい、そうじゃないと、このベルトでたたくわよ」と叱るのです。

 息子は黙って口をとがらせ、椅子からおりると、母親に体をすり寄せておねだりです。とうとう母親は息子にコートを着せ、上の子に向かって、「この子を外に連れて行ってあげて。よく見ててちょうだいね」と言ったのでした。

 ついに自分のしたかったことができるようになって、男の子は外にある楽しそうな遊具施設のほうに駆けて行きました。後で残りのハンバーガーを食べに戻ってきて、アイスクリームを片手にそこを出ます。

 これは、親が最初にノーと言った時に非常によく起こる現象です。子供は、親が折れるようにと、ふくれっつらをしたり、うるさくせがむ方法を心得ているのです。もしこの母親がイエス方式を使っていたなら、どんな違いが生じていたことでしょうか。例えば、こんな風になっていたかもしれません。

 母親「ハンバーガーを食べなさい」

 子供「あれに乗りたい。行ってもいい?」

 母親「あと3口食べたら行ってもいいわよ」

 子供はハンバーガーをかじってから、楽しく外で遊びます。その間、ママは落ち着いて食事ができます。さらに子供は戻ってきてこう尋ねるかもしれません。「ママも来て一緒に遊ぼうよ」 ママがイエス方式を使い、「ええ、食べ終わったらね。あなたももう少し食べる?」と言うと、息子は、また遊びに行く前に、ついでにもう2、3口食べるかもしれません。

 イエス方式は、優柔不断でなくてはいけない、ということではありません。いつも子供に好き勝手なことをさせるというわけでもありません。でも、この方法だと、みんなが満足します。例えば、さっきのレストランの話に戻りますが、イエスと言うことの利点を見てください。母親は落ち着いて食事ができたし、子供も遊ぶことができ、それに加えて、お仕置きすると脅かされてしぶしぶ食べたのと同じだけハンバーガーを食べる結果になりました。姉のほうも、ふくれっ面の弟のご機嫌取りをするのではなく、機嫌のいい弟と遊ぶことができました。それに、全員が食事を楽しむことが出来たのです。

 あなたもイエス方式を採用する必要があると思ったなら、まず、「イエス、だけど」という応答の仕方を練習してみてはどうですか。

「おもてで遊んでもいいわよ。だけど長袖のシャツの上に厚手のジャケットを着てから、ブーツをはいて、耳パッドをしてね。そして45分だけよ」

「新しい服を買いに行ってもいいよ。だけど自分でそのお金をためなければいけないよ」  

「テレビを見てもいいけれど、暴力についてのルールは知ってるでしょう。暴力のシーンが出たら、すぐにテレビを消さなくてはいけないわよ」

 子供の要求に対して親が、イエスよりもノーと答える方が頻繁であることはよく知られています。大した理由もなく、自然にノーという答えが口をついて出てきてしまうのです!

 ですから、創造力豊かな親の皆さんのために、良いルールをお教えしましょう。それは、親の考えを変えさせるために、子供がふくれっ面したり、しつこくせがむのを望まないなら、ノーと言うのは、絶対にノーで、どんな状況でもあなたの気持ちが変わらない場合だけにする、ということです。

 

−−パート2へ続く−−