――― 輝くひととき 51  ――― PDFファイル49-52

 

偉大さとは何か?

 

真の偉大さ、真のリーダーシップとは、他人をその地位から引き下ろすことによってではなく、自分を無にして人に仕えることによって得られる。

 

 1912年のある日、アン・リンドバーグの父、ドワイト・W・モローは、友人たちに、カルビン・クーリッジは大統領になる見込みがあると話していた。しかし友人たちは、クーリッジはおとなしすぎるし、個性や政治的な素質に欠けると言って、こぞって異議を唱えた。「クーリッジは誰にも好かれんさ」とさえ言う者もいた。

 しかし、当時6歳だったアンが口をはさんだ。「私、クーリッジおじさんが好きよ。」 それから、ばんそうこうを貼った指を見せて、こう言った。「私の指のこと尋ねてくれたのは、クーリッジおじさんだけだったもの。」

 モローは娘の答にうなずいて言った。「さあ、これでわかっただろう?」

 

 かくしてカルビン・クーリッジは1923年から1929年まで米国大統領を務めた。

 

 知名度や評判を偉大さと混同してはならない。現代社会で立派な肩書きを持った人々の中には、実力に関係なく、その富や名誉を手に入れた人々が大勢いる。

 一方、私は全く人目につかない仕事をしている偉大な人たちに会ったことがある。偉大さとは、その人が築いた社会的地位ではなく、その人の精神によって判断すべきものだ。人は取るに足らぬ存在であって、人が他の人に偉大さを授けることなどできない。偉大さとは賞与ではなく、人は自らの行動を通して偉大さを身につけるものだからだ。だから、ビルの清掃をしていようと何をしていようと、どこかの高い地位にある人と同様、偉大さという冠をかぶることができる。

−シャーマン・G・ファインシルバー

 

誰であれ、他の人の荷を軽くしてあげているなら、

その人は世の中の役に立っている。

 

この世は、人の偉大さを、富や雄弁さ、知性、あるいは戦場での武勇伝によって判断する。しかし、神の基準はこうである。「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」

−J・H・ジャウエット

 

 主が天で報酬を手渡される時、誰が本当に偉大であったかを知って、私たちは大いに驚くことだろう!自分のことなど二の次で、すべてを犠牲的に与え尽くしたのに、一度もその功績を受けたことがない全く無名の人たちがいる! しかし、神は大きな記録書をお持ちで、すべてをご存知だ。そこには、すべてが書き記されている! そして、善であろうと悪であろうと、その行動に応じてすべての人に報われる。

 イエスが死なれる前に、油を注いだ女性に言われた言葉を覚えているだろうか? イエスは、「この女はできる限りのことをした」と言われた。

 あなたは、自分には大したことはできないと思っているかもしれない。しかし、少なくとも自分にできることをすればいい! あなたが忠実でいれば、いつか裁きの御座に立つ時に、神は大いに報いて下さるだろう。(ローマ14章10節)

 だから、この人生が終わった時に、自分は最善を尽くしたという確信をもって主の御前に立てるよう、良い行いに励みなさい! そうすれば、永久に残ることを成し遂げたという純粋な達成感をかみしめながら、永遠の報酬と栄光を待ち望むことができる!

−デービッド・ブラント・バーグ(1919-1994)