RR315

 

ティーンと一緒に笑おう

−−バイロン W.アーレッジ著

 

責任感のある子供を育てる

 

  家庭裁判所でカウンセラーとして働く内に、私は、殆どの人が子育てという仕事の為の準備ができていない事に気づきました。ここで私がご紹介する秘訣は、どんな人間関係にも適用できるものです。しかし今回は、普通の親子関係に焦点をあててみましょう。

 

  段階1:友達になること。責任感があり健全な子供を育てたいと思うなら、子供たちの生活の中に入っていき、良い親子関係を築くようにしなければなりません。

  カウンセリングの時間の90%は、良い関係を築く事に費やされると思います。良い関係ができあがっていないなら、有意義なカウンセリングなどできません。カウンセルを行う時は、ハンバーガーでも食べながらする方が、机をはさんで向かい合いながらするよりも効果的です!

  イエスは弟子たちを教え、指導することができました。それは、弟子たちがイエスの友達だったからです。

  私達がイエスの見本に従うとするならば、他の人々とかかわり合いを持たなければなりません。とりわけ自分の子供たちと。友達になる事は、断然最も大切なステップなのです。良い親子関係を築き、子供と友達になるための5つのステップを、ここに提案したいと思います。

  1.祈る事。毎日のように、どこかの親が私に、自分が子供にしてあげられる事は何もないと言いましたが、それは間違いです! 私達はいつも子供のために、そして自分自身のために祈ることができます。子供がまだ生まれない内にも、また小さな赤ん坊の頃にも祈ってあげることができるし、子供と一緒に毎日祈ることもできます。子供のために祈り始めるのに遅すぎることはありません。

  2.親切であること。子供と友達になるための第二のステップは、親切である事です。いらいらし、説教をしたくなるような時に、子供に親切にするには、神の助けが必要ですが、「互いに親切でありなさい。」という言葉は、子供に対してもあてはまります。

  親切にすることについて、もう一つ覚えておかなければならないのは、私達は、子供に対しても、少なくとも隣人に対してするのと同じぐらいに礼儀正しくなければならないということです。

  3.耳を傾けることと話すこと。私達は子供の言葉に耳を傾けるだけではなくて、子供の行動にも「耳を傾ける」必要があります。言葉は、子供が表現することのほんの一部にすぎません。5歳、10歳、また15歳の子供にさえも、大人のように言葉で自分を表現する事を期待することはできません。だから、子供の行動や振る舞いを観察しなければならないのです。子供は家で何かしますか? 家に火をつけますか? 子供の行動は、子供の語る言葉以上に多くのことを私達に伝えてくれます。16歳の子供の親は、75%の時間を子供の話を聞く事に費やし、話すのは25%だけにすべきだと私は信じています。関心を引こうとしたゲールを例にとってみましょう。裕福な家庭の16歳になるゲールは、万引きのかどで家庭裁判所に送られてきました。彼女の父親は、私の机をドンドンたたきながら、ゲールに向かってこう怒鳴りつけます。「6時以降は出かけてはならん! デートも禁ずる!またこれからはいっさい車を使ってはならん!」 父親の説教は長々と続きます。ゲールはにやにや笑いながら、父親の話を聞いています。私は彼女がにやにやしているのに気づき、不思議に思ったので、どうして笑っているのかと尋ねました。

  すると彼女はこう言ったのです。「お父さんが私に話しかけてくれるなんて、本当に久しぶりなの。一年ぶりのことよ!」

  そして、父親の方を向いて、こう言いました。「やっとお父さんの関心を引くことができたわ。」

 

  関心を与える事を、過小評価すべきではありません。「彼女は、ただかまってほしかっただけなんだ。」といって済ますことはできないのです。父親は、娘との時間が取れない程忙しかったことを打ち明けてくれました。私もその通りだと思います。

  さて、この場合の解決策は、二人にある種の療法を紹介することではなく、父親と娘が一緒に楽しい時を過ごすようにさせることでした。私達は、自分の子供に起こっている事に「耳を傾け」、その事について話し合い、それから行動に出るようにしなければなりません。

  4.子供にほほ笑ませること。友達になるための四番目のステップとして、私達は「子供がほほ笑むように」しなければなりません。そうする為に、漫才学校に行ったり、ボブ・ホープをまねる必要はありません。しかし、リラックスした雰囲気を家庭にもたらす事が大切です。私達がほほ笑むようになるなら、成果があがり、子供たちの関心を引くことができます。

  5.スキンシップ。「今日、子供を抱き締めてあげましたか?」というのは、ただの新聞広告のようなものではなく、非常に重要な事柄です。子供を抱き締めてあげる事で、子供と友達になる事ができるのです。たいてい子供というものは、ステップ1〜4がなされた後で初めて、スキンシップを快く受け入れるものです。抱き締められると、子供は、少なくともほほ笑むか、喜んでいる事をそれとなく示す事でしょう。

  友達になりたい事を子供に示すのに、たくさんのスキンシップが必要というわけではありません。少しのスキンシップでも、幸せでない子供にとっては、とても大切なことなのです。一日に一回の握手なら簡単にできます。すべての子供は、背中を軽くたたいてあげたり、言葉で激励してあげることが必要なのです。

  殺人の容疑で、裁判所に送られて来る若者の内で、何とかして私を彼らに触れさせようとする者がいかに多いかには全く驚いてしまいます。足を出して私をころばせようとしたり、私の首にかかっている十字架を引っ張ったりするのです。かと思えば、後ろから回って来て肩をつかんだり、話をしている時、私の腕に触れたりします。また脇腹をつっついたりする時には、今まで見た事もないほどの顔いっぱいのほほ笑みを浮かべるのです。

  スキンシップが必要なのと同時に、視線を合わせることも大切です。こちらが相手の目を見ながら話すと、真剣に聞いてくれます。若者は大人よりもそのことに敏感なようです。若者にとってそれは、人間関係を築き上げる手段であり、誠実さと正直さを示すものだからです。

 

  段階2:子供が考えるのを助けること。考えること、つまりじっくり考えることは、友達になった後のステップです。それから現在の行動について質問すればいいのです。質問の目的は、小休止を入れる事で、それには意味があります。小休止の間、若者が考えるのを待つのです。私達がその若者に代わって考えることはしません。この小休止の間は、「忍耐強く主を待ち望む」技術が必要となります。

  まずは考え、それから小休止を入れる事は、いわゆる「常識」、又は「良識」だと考える人もいます。実際的に物事を考える術を子供に教える為には、車で旅をしている時に「もしそうだとしたら?」という質問をしてみたり、テレビを見ながら、そこに出て来るいろいろな状況に関して、「おまえだったらどうする?」と尋ねてみるのもいいでしょう。

 

  段階3:子供に判断を下させる事。さて次に、子供にこう尋ねなければなりません。「おまえがやっている事は、おまえにとって良い事なのか?」これは難しい一歩です。子供は、自らそれを判断しなければならず、私達が代わってしてあげることはできません。両親、牧師、学校関係者、そして裁判所の職員が皆、その判断において正しいとしても、変わる必要があるのはその人達でありません。彼らは少なくとも「当事者」ではないのです。

  私達は、子供の能力以上に、また子供が喜んでしたいと思う以上に、子供に押し付けることも、また子供をせきたてることもできません。たとえ私達が判断を下して、それを子供に押し付けても、そこからは何も良い結果は生まれないのです。私達が人や天使の言葉を使って話したとしても。

  きびしいお仕置きが怖いが為に、ただ「良い子」にしている子供というのは、行儀良くする事の真の価値を学んだとは言えません。その代わりに、お仕置きを与えると脅している人に対して、たいていは敵意を抱いてしまうようになるのです。

  親子のふれあいが深まっていくにつれ、私達は自分の意見を言う事ができるようになります。もしそういったふれあいがないなら、若者は私達の意見になど耳も貸しません。私達の意見は、オープンで正直であり、また個人的なものであって、簡潔であるべきです。そしてその後で、段階1の全てのポイントの中で実行できるものを行うようにしなくてはなりません。

  最後に、良い親子関係が築かれた後なら、子供は、自分が悩んでいる事を自由に話せるという気持ちになるかもしれません。この瞬間こそ、私達が祈り求めていた時なのです。その時こそ、怒ったり、深く落胆したりしてはいけません。そうする代わりに、ステップ4に進むのです。つまり計画を立てる事です。

 

  段階4:計画を立てることを助ける。この段階において、カウンセラーはもう少し積極的な態勢に出始める事ができます。「この状況をより良くするためには、二人で何ができるだろうか?」と尋ねてみるのです。計画を立てるのは若者の方であり、それはカウンセラーとの相談の上でなされるべきです。若者自体、いろいろ苦労しながら多くの事を学んでいるはずなので、何とかその状況に対処する事ができるでしょう。

  どんな計画が使われようとも、それは、現在若者が悩んでいる事柄に関連することでなくてはいけません。またその計画は、状況に対し現実的なものであるべきです。現在の必要に合っており、シンプルで、大抵2〜3行の文章で表わす事のできるものがいいでしょう。そしてそれほど多くの時間を必要とせず、最初の内は2日以上かかるものであってはいけません。

  後になってからは、それをもう少し長くしてもかまいません。あまり大切ではない細々した事、たとえば、髪の長さだとか、自分の部屋の整頓などあれこれ付け加えて、計画を複雑なものにしない事が大切です。条件は大切なものから先に書き、一つの条件に対し、ひとつのテーマでまとめましょう。

  たぶん一番大切な事は、その計画が簡単に達成できるものであるべきだということです。そうすれば若者がそれをやり終えるチャンスがもっと多くなるからです。計画は、その若者にとって現実的なものでなければなりません。自分にはそれができる

と、若者が感じなければならないのです。

  世界一だめな主婦。ブレンダを例にとってみましょう。ブレンダは19歳の花嫁で、自分は世界一だめな主婦だと思っていました。いつも何かを探すのにとても時間がかかったからです。彼女は電話に出た事がありませんでした。というのも、電話がどこにあるのかを探さなければならないのが、いやだったからです。カウンセルを受けるための準備をするのに、一週間かかったと彼女は言っていました。

  しかし、ブレンダは変わりたいという意欲を十分持っているようでした。家をきれいに片付けるのに、彼女にできる事はないかと尋ねた時、彼女はこう答えたのです。「それならもうわかっているわ。今すぐにでも家に帰って、家中をきれいにすることだってできるわ。」 彼女は以前も何度も同じ事を言ったにちがいありません。そこで私は、彼女が毎日、それぞれの部屋の掃除に5分ずつ時間をかけてみることを提案しました。次第に、彼女はそれを立派にやり遂げるようになったのです。

  ブレンダには、自分でも達成できる計画が必要だったのです。彼女は時計を使って時間ごとに部屋を掃除していきました。ひとつの仕事が終わるごとに、彼女はこう繰り返すのです。「終わったわ。5分間、この部屋を片付けたわ。見て、こんなにきれいになった。」まもなくブレンダは自分の家と自分自身を心地よく感じるようになりました。そしてここに新しい女性が誕生したというわけです!

 

  段階5:約束をかわす。この段階では、たいてい結果が目に見えてわかります。緊張感はしばしば和らぎ、快活さが戻ってきます。約束をかわすには、普通、契約書という形がとられ、正確に書かれることが必要不可欠となります。契約書は、計画を最終的に承認するという目的を果たすものです。また契約書は次のふたつの役割を果たします。まずは緊張を和らげる事、そして現在の優先順序をはっきりさせるのです。

  普通、契約書には3つ以上のゴールを掲げてはいけません。可能なら必ず署名されるべきです。

 

契 約 書

 

子供:バン・ウースリー(16歳)

両親:チャールズ・ウースリー夫妻

日付:1985年5月3日

 

1.バンは学校に出席すること。家族の決断は全て、バンが学校でどのくらいよくやるかにかかっている。

 

2.全員一致の上、夜の門限は10時とする。しかし金曜と土曜は11時。門限を厳守すれば、時々例外も認める。

 

3.バンの部屋でのプライバシーを尊敬する事。バンには、自分の部屋をきれいに片付けておく絶対的な責任がある。

 

4.上記の任務を遂行した時には、週5ドルのこづかいを与える。決められた以上の仕事を進んでした時は、余分にこづかいを与える。

 

 

バン・ウースリー    チャールズ・ウースリー 

 

 

ウースリー夫人     バイロン・アーレッジ博士

 

  子供にとって契約書にサインすることは、大きな意味をなします。子供は、自分の名前の重さを感じるからです。契約書にサインする時、子供はそれを最後までやり通さなければならないという気持ちになるものです。私も契約書にサインしますし、また両親にもしてもらいます。それから私は子供に、その契約書のコピーを、自分の部屋のドアや浴室の鏡、また冷蔵庫のドアなど、目に見える所にはどこでも貼っておくようにと言います。そういう風にしていつも自分のかわした契約のことを忘れないようにしておくほうが、両親からそのことで、がみがみ言われるよりもずっと効果的だからです。両親に反抗したいという願望を持つと、契約を最後まで守り通すことの妨げになります。

  もし最初の契約書が、その子に合ったものでなかったなら、もう一度作り直すことです。もう少し規制を緩め、しかしなおかつ、契約のゴール、子供の役割、そして親の役割を再び強調しておくのです。

  契約書には、いつもそのゴールが巧みに述べられていなければなりません。ボーナスの条項の所を見て下さい。可能な限り、契約書は建設的な言葉で書かれるべきです。なるべく短く現実的で、子供が達成できる程度のものにしましょう。すぐに達成でき、満足感を得られることが、いかに子供にとって必要かは、どんなに強調してもし足りないくらいです。子供は、それがどんなにわずかなものであっても、達成感を味わう必要があるのです。少なくとも一週間に一度は、契約書を読み直しましょう。また、当事者は、オープンにそして正直にそれについて話し合いをすべきです。

 

頑張り続けなさい

 

  段階6:新しい計画を作るのを助ける。ほとんどの場合、よく練られた計画はうまくいくものです。しかしさまざまな理由から、うまくいかない時も出てきます。

  計画がうまくいかない時、両親やカウンセラーはしばしば挫折感と落胆に襲われます。また最初に戻って、段階1「友達になること」をもう一度しっかりとやり直すには、特別な力を必要とします。しかし頑張り続けなければいけません。私達があきらめてしまうなら、子供もきっとあきらめてしまうでしょう。そして以前よりももっと悪い状態になってしまうかもしれません。

  学校をさぼっていたマーティーを例にあげてみましょう。私達が、最初の計画がうまくいかなかった言い訳をそのまま受け入れる代わりに、新しい計画を立てるとびっくりする子供もいます。12歳のマーティーは、一学期の半分以上も学校を欠席してしまいました。段階1〜4を彼に試した後で、マーティーはこう言いました。「僕はこれから一生涯、学校に行くことにするよ。」 しかしそれは、あまりにも先が長いように思えたので、私は彼に、次の日まではなんとか学校に行ってくれるようにと頼んだのです。マーティーは、次の日までは何とか頑張るという契約書にサインをし、次の日に晩7時に私に電話をよこすと約束しました。

  夜の9時にマーティーから電話があり、彼は約束をきちんと果たしたと言ってきました。と言っても、それは5時限目までの話だったのです。その日は晴天で、4人の子供は授業中、窓から外を眺めていました。もちろん先生の話はつまらなく、それに、先生はマーティーのことなど大嫌いだったのです。そこで誰かが、許可なしに学校を抜け出すことを提案したと言うことでした。私は、前もってしっかり練習したらしいもっともらしい言い訳には、何の返答もしませんでした。そして話の腰を折り、こう尋ねたのです。「明日、半日だったら頑張れると思うかい?」 次の日の昼、マーティーは興奮して私に電話をよこし、彼が約束を果たしたこと、そして午後も授業が全部終わるまで頑張るつもりだと話してくれました。

  子供が自分に自信を持ち始めると、責任感が強くなり、自制心がより発達します。自制心を持つことは、子供にとっては最も困難な事のひとつです。自制心を持てるようになるまでは、大人とは言えません。いかにその人が自制心を持っているかで、その人の成熟度が計られます。自分は価値ある人間なのだと感じれば感じるほど、自制心も強くなるというものです。

 

  段階7:しつけ。しつけをすることは、第7段階にあたり、段階1〜6までを行なったその後で初めて、効果を現します。しつけをするのは、まず子供との良い関係を築いてからでなくてはいけません。(段階1) 私達はカウンセラーとして、自分の時間の75%以上を、良い関係を築くことに使います。そうすることで、25%の時間をしつけることに使えるチャンスが出てくるからです。

  しつけは、相手に希望を与えるのが目的であり、それと反対に、罰を与えることは、相手に恐れを植えつけることが目的です。罰を与えることによって、罰する側は気分が良くなります。罰は、罰される者を痛めつけるためのものです。罰を与えることからは何も生まれませんが、しつけは、将来、相手に良い成果をもたらすことを目的としています。

  森の散歩:ある母親は、病院に電話をしてきた時、かなり取り乱していました。15歳になる一人息子が、自殺を図ったからです。彼女は脅えて、早口で話しまくりました。それから突然話すのをやめたかと思うと、ゆっくりと、しかし断固としてこう言ったのです。「どうやってトムに罰を与えたらいいのか、教えてほしいわ。」

  私はどうか待ってくれるようにと母親をなだめました。彼女の質問は間違っていたからです。そして他にもっと良い方法があるからと言いました。私は母親に、トムが笑ったのを最後に見たのはいつだったかと尋ねました。

  母親はしばらく考えた後、トムが森に散歩に行って帰って来た後、彼が笑ったのを2回程見たことがあると言いました。もちろん、トムが森の中で何をしていたかは、母親は知るよしもありません。

  私は思い切って賭けてみることにしました。そして母親に、息子の調子が大丈夫なら、次の日に彼を誘って一緒に森に散歩に行くよう提案したのです。そして、散歩した翌日に、二人そろって私に会いに来るようにと言いました。

  母親はこの計画にあまり乗り気ではありませんでした。息子には罰が必要だと感じていたからです。しかし私は、まず彼に必要なのは生きることだと思いました。

  母親が散歩のことを持ち出した時、息子は母親をじっと見詰めるばかりでした。しかし、とうとうその事に同意したのです。ふたりは、いつもの道を言葉少なに歩いていきました。それから、枝が雪に覆われた木の下まで来ると、そこで立ち止まりました。すると母親は、さっと枝に手を伸ばし、ほほ笑みながら枝を揺すって息子の頭に雪をかけたのです。

 

  最初はびっくりした息子も、顔にほほ笑みを浮かべました。雪玉を投げて、それが母親にあたると、彼は笑いました。母親は、どうやって雪玉を作るかさえ忘れていたほどでした。母親が的を外していたのは、雪合戦の時だけではなかったのです。母親としての子供に対する接し方も、かなり的を外れていたのです。

  カウンセルをしている間、私はトムに、生きがいは何かと尋ねてみました。彼は少しほほ笑みを浮かべて、何のためらいもなく、こう答えたのです。「僕のお母さんだよ。お母さんは僕の頭に雪をかけたんだ。」

  母親はしつけをすることを学びました。そしてトムは母親に従うことを学んだのです。ふたりは楽しい時を共に過ごし、いっしょに笑いました。ここで親子のふれあいが築かれたのです。ふたりは自分自身に対して自信が持てるようになり、またお互いに対しても信頼を抱くようになりました。

  私達は、家庭裁判所で、次にあげた「しつけのガイドライン」を、訓練の手段として時々使ってきました。

 

制限を定める時のガイドライン:

 

  1.子供に制限を明確に伝える。子供が事の善し悪しを理解したのを確かめた上で初めて、言い付けを守るのを期待することができます。説明しないうちから、彼らが理解していると思い込んではいけません。子供は、学ぶという過程を経て初めて理解できるのです。善し悪しの違いを学ぶには時間がかかります。説明し、時にはやり方を示し、なおかつ説明を繰り返すといった事が必要です。新しい状況においてはなおさらのことで、ここで肝心なのは忍耐です。

  2.必ず子供のいるところまで行って直接話す。部屋越しに話したり、階下にいる子供に向かって大声で話さないこと。穏やかで快い声の調子で話しましょう。子供の身長に合わせて、かがむか、ひざをついて話すようにします。このようにすれば、話している間、必ず子供の注意を引くことができます。

  3.短く、理解しやすい、意味のある文で話す。不必要な説明は避けること。

  4.許可できない時は選択を与えない。子供がどうしてもしなければならない事であるなら、こう尋ねてはいけません。「セーター着たい?」子供がセーターを着なくてならないのなら、「寒いわね。セーター着た方がいいわ」と言うのです。はっきり明確に話すなら、選択の余地がない時に、無意識に選択を与えてしまうことがありません。

  5.提案や指示は肯定的な言い方で。「ボールは床の上で弾ませましょう」などと言いましょう。正しい事を強調することによって、子供には何をしたら良いかがわかります。「窓ガラスにぶつけるな」というのは、否定的なアプローチの仕方です。それでは、子供にしてはいけないことしか告げていません。肯定文を言うと、幼い子供は反抗的になる可能性が少なくなります。「いけません」とか「やめなさい」という言葉は、子供がしていることを素早くやめさせる必要のある緊急事態の時のためにとっておくと良いでしょう。

 

  しつけの程度は、そのしつけを必要とする悪い行動の程度に合わせるべきです。体罰は最後の手段であるべきです。

  隔離が、しつけの効果的な手段となることもあります。

  ローラの泣き声: 2歳の時、娘のローラはかんしゃくを起こして大声で泣いたり、わめいたりしたものです。幸い、それほど頻繁ではありませんでしたが、それが起きると、妻も私も当惑させられたものです。いつもよりもっとひどく怒ることもありました。妻と私は、このかんしゃくになかなかうまく対処できないでいました。ある時、行き詰まった気持ちと怒りから、私はローラを寝室に連れて行って、怒鳴りつけ、お仕置きしました。

  けれども、泣き声は益々ひどくなるばかりでした。下唇は震え、彼女は傷つき、私も傷ついていました。

  ゆっくりと、慎重に娘のそばに腰を降ろし、娘の腕を軽くたたいたのでした。涙越しに私を見詰める娘を抱き寄せ、「愛してるよ」とささやき、それから、こう言ったのでした。「泣きやんだら部屋から出て来てもいいよ。パパはすぐドアの外にいるからね。」

  私がドアの方に行くと、娘は、相変わらず大声で泣きながら、走り寄って来ました。私は、彼女をまた部屋に戻すと、目を見ながら、ささやき声で、しかし断固とした声で、「愛してるよ。泣きやんだら部屋から出て来ていいからね」と言ったのでした。

  そしてドアを閉めました。彼女はすかさずドアを開けましたが、私はそこに立っていて、同じ事をささやき声で繰り返すと、再びドアを閉めたのでした。しばらくすると彼女は泣きやみ、部屋から出て来た彼女を、私達は沢山の愛と称賛をもって迎えたのでした。

  ローラがすぐに泣き止むことを学ぶまで、私達はこれを幾度か繰り返し行ったのでした。

  子供達はしばしば、親を喜ばせたいという願望を生まれながらに持っているようです。この欲求が満たされないと、問題を免れません。しかし、肝心なのは、私達がどういったしつけの方法を選ぶかです。

  罰に対する恐れは長続きしません。しかし愛はいつまでも続きます。救いというのは、神の怒りではなく、神の愛に基づいたものなのです。

 

  ステップ8:あきらめは禁物。子供の事で絶対にさじを投げてはいけません。常に祈り、頑張り続けなければいけません。希望を持ち続けられないなら、断念すること以外に方法はないからです。

  子供の行動パターンを変えるには何年もかかることがあります。子供が17歳だとすれば、現在の行動パターンになるまでに、長い年月が経っていることになります。何年もの歳月を経て、他人を信用しないという厚い壁ができあがってしまったのです。その壁を数か月で壊せると考えるなら、重大な間違いを犯すことになります。

  子供が悩みを打ち明けてくれなくても、あきらめてはいけません。私達を信頼できるようになるまで待つ必要があります。「おまえの問題について話そう」ということはしません。そうではなく、「ハンバーガーを食べに行こう」とか「何か一緒にしよう」と言うべきです。

  「あきらめは禁物」というのは、実際には子供が心を開くのを待つことを意味します。子供に対して、忙し過ぎるとか、真剣に耳を傾けないといった印象を与えるようなタイプの大人であってはいけません。例えどれだけ長くかかろうとも、愛と忍耐を持ち、最後まで喜んで助けようという態度でいる必要があります。子供自身があきらめてしまっている時にも、率先して意志の疎通を計り、世話をすることです。他に何もできなくとも、思いやりを示すだけでも、いつか子供は心を開いてくれるでしょう。

  初めての言葉: ある母親から電話がありました。息子のことで、何か−−あるいは何でもいいから−−私にしてもらいたいと思ったのです。彼女が「あらゆる手だて」を尽くしても、8歳の息子は自分の言う通りにせず、自分はもうさじを投げたと言ったのでした。また、娘のことでもあきらめたい気持ちになっていました。

  その母親は私の所に8歳の息子を連れてやって来ました。この子は学校にも行かず、他にも多くの問題を抱えていました。母親は、2歳半になる娘も一緒に連れて来ました。そして椅子に座らせ、足がまっすぐになるように、彼女を背もたれの方に押しつけたのでした。そして、「そこに座って。動くんじゃないよ!」と言ったのです。

  苦悶に満ちた表情で、母親はその少年がいかにひどいかを私に話し始めました。15分も経つと、私は、娘がゆっくり椅子の前方に動いて、足をだらっとさせているのに気付きました。すると母親は、「動くんじゃないって言ったのに! ゴミ箱を頭の上にのせるからね!」

  私は、むしろ母親の頭の上にゴミ箱を置いてやりたい気持ちでした。

  素早く幼い少女の方に行って話しかけたのですが、彼女が顔をあげたのはそれが最初でした。彼女の目には、16歳のティーンにもめったに見られないような、傷ついた思いが溢れていました。

  私は自分の机の引き出しにいつもお菓子を入れておきます。一つ取り出して、その女の子の前に屈み込み、彼女がまっすぐ私の目を見るようにしたいと思ったのでした。

  お菓子が欲しいかと尋ねると、彼女は承諾を求めて母親の方を見ました。彼女にキャンディをあげてから、私は「ありがとう」を2度程繰り返したのでした。すると、その子が「ありがとう」と言うのを期待しているのかと母親が尋ねたので、そうだと言うと、母親は力のこもった声でこう言いました。「この子は、生まれてこのかた一言も口をきいたことがありませんよ。話させるのなんて、もうとっくの昔にあきらめているんです。」

  その時私は、息子の方に向かって、「お母さんに何か優しい事を言ってあげたことはあるかい?」と静かに言ったのでした。そして、「お母さんに食事を作ってくれてありがとうって言ったことはあるかい? 今週お母さんに料理のことで何か言ってあげることはできるかな?」と続けて尋ねたのです。彼はそれに同意してくれました。お母さんに良い事を言ってあげればあげる程、お母さんは幸せになるんだと、私は彼に言ったのでした。もちろん、実際には母親に対して間接的に話していたのですが、このアドバイスを彼女に与えることはできませんでした。彼女は自分を防御することで頭がいっぱいだったからです。

  次の週にその少年が来ると、彼はすっかり興奮して、その前の夜に母親に食事が「おいしかった」と言ったことを話してくれたのでした。彼は目を輝かせ、舌を半分突き出しながら、「しかも、レバーだったんだ!」とつけ加えたのでした。それからまるで叫ぶかのように、「そして、知ってる? きのうの夜、母さんは僕をベッドに寝かして、キスしてくれたんだ!」と言ったのです。

  彼が話す間、妹はその回りをちょこちょこ歩いていました。それから私の机の引き出しの上に手を置いたので、キャンディが欲しいのか尋ねました。私は栄養や白砂糖やそのとりすぎで過度に落ち着かない子供たちのことを知っていますが、この場合にはそれは二の次でした。私は母親と息子にオフィスからしばらく出ているよう求めました。そして、このかわいい少女をひざの上にのせ、キャンディを食べる間、私の吸取紙に自由に絵を描かせてあげ、絶えずほめてあげたのです。後で戻ってきた母親は、この子の夕食がまずくなると私をとがめましたが、彼女の一生が台なしになるよりはどんなにかましなことでしょう。

  彼らは帰り始めました。ところがまたちょっとして、その女の子がドアの所まで戻って来ると、私に向かって手をふりました。そして、彼女の前に屈み込んだ私に、突然ささやき声で、「ありがとう」と言ったのです。彼女の生まれて初めての言葉でした!

 

良い親の条件

 

  ローラと自転車: 娘のローラが6歳の時、自転車の補助輪を外してほしいと言って来ました。まだ無理だと分かっていましたが、どうしても、と言うので補助輪を外してあげました。ローラが自転車をふらふらと走らせる間、私は自転車のハンドルと荷台をしっかりと握っていました。

  スピードが増してくると、私は追い付いていけなくなってきましたが、手を離すにはかなりの勇気がいりました。ローラが転ぶのは、確実だったからです。しかしとうとう、「神様、あまり痛くないように助けて下さい。」と祈りつつ、手を離しました。

  転ぶとすぐに、ローラを抱き起こして自転車に乗せ、彼女の涙を拭きながら、「一緒に頑張ろう。すぐに乗れるようになるよ。」と言ってあげました。

  また走ろうとした時、ローラがこう言いました。「お父さん、そんなに強くつかまないで。」

  「でも、また転びそうになったらすぐに助けられるように、そうしているんだよ。」

  「お父さん、それは私が転ぶ時にして。でも転ぶ前に私をおさえるのは、やめて。」

  良い親になるのは難しい事です。子供達をしっかり監督すべき時もあれば、手綱を少しゆるめるべき時もあります。そして、その区別を毎日何百回もしなければならないのです。子供達を保護し、導き、責任感のある大人に成長していくように祈るのは、親として当然です。しかし保護しすぎるなら、子供達はいつまでたっても親に頼るようになってしまいます。かえって、次第に自由を持たすようにする方が、責任感のある大人に成長させるのに効果があります。肉体的には、子供達が巣立って行くのに甘んじなくてはならないとしても、霊的に彼らを手放してしまうようなことがあってはいけません。

  子供達は愛を必要としています。過去の自分ではなく、親の期待するような未来像でもなく、ありのままの自分を愛してもらう事を。その子供達が自分の子供達だからこそ、有りのままの彼らを愛するのです。子供がひどい事をする事もあるので、これが常に容易であるとは言えません。しかしその行動はゆるすべきでなくても、子供達自身の事は愛するのです。愛し、子供をそのあるがままに受け入れないなら、親と子の双方とも言動が悪くなる事もあります。しかし受け入れるなら、子供達の自己に対する意識が向上し、行動を改める助けになります。

  良い行いを重視し、悪い行いは小さく扱うべきです。悪い行いを無視するべきではありませんが、それを大げさに取り上げるべきでもありません。何がいけないのか教えたいのは親として当然の事ですが、否定的な面を強調し過ぎる事も良くありません。良い面をもっと強調するべきです。

 

  愛。「取って来いフレディー」: 男性が新聞を目の前に大きく広げて読んでいるシーンで始まるテレビのコマーシャルがあります。新聞のかげから見えるのは、彼の足だけです。次に、プラスチック製の犬のおもちゃで遊んでいる可愛い子供達が画面に登場します。「ボールが転がって来ると、『取って来いフレディー』が、上手に受け取ります。」と宣伝しています。

  その通り。転がって来たボールを、「フレディー」がうまく受け取っています。すると大きなボールが、どこからともなく転がって来て、「フレディー」に当たりました。そこで、女の子達はあたりを見回し、顔を輝かせてながらこう叫びます。「わあ、お父さんだ!」

  父親も一緒に遊び始め、最後に子供達を優しく抱き締めます。そのコマーシャルのテーマは、「『フレディー』で、みんな一緒に遊びましょう。」のようでした。

  クリスマスに私は、サンタクロースの代理として、子供へのプレゼントを買うために沢山のデパートを回りましたが、「取って来いフレディー」がその年大流行していました。「フレディー」を手に入れさえするなら、ただ足のはえた新聞に過ぎなかった父親が一緒に遊んでくれると、子供達の多くが思ったようです。

  わが国の少年院にいる少年達の多くは、両親が一緒に遊んでくれた事など一度もなく、両親から愛されていると感じた事もないと、証言しています。愛を示すには、子供達のレベルまで降りて来て、抱き締めてあげ、一緒に遊んであげる事が大切です。

  信仰:子供を正しく育てる為に、愛の次に重要なものは信仰です。正しい事をしたいと言う意志を持つには、まず自分自身と神に対する信仰が必要です。「共に祈る家族は、共に暮らす。」と言われていますが、全くその通りです。

  信仰は、神の御言葉を聞く事から来ます。知恵に不足している時は、いつでも神に求める事が出来る事を子供達は知るべきです。大人と同じように、子供達も又、救いのステップを通して罪から救われます。

  親は、子育てについて、主に従おうと決断すべきです。クリスチャンであるからと言って、自動的に良い親になる訳ではありません。しかし、信仰を持つ事は、良い親となる為に非常に重要です。子供達を怒鳴りつけるのは容易です。しかし、子供達を褒めてあげるには、神のみが与える事のできる力を要します。子供達に自信を持たすには、褒めてあげる事が絶対に不可欠です。人々は子供を褒める材料など何も見付からないと言ってきます。なぜって?それは彼ら−−つまり両親−−の方が、すっかり頭にきているからです。

  靴を履いた子供達:最善のしつけは、まず褒めてから。

  ある日、17歳の少年が腕組みしながら、のろのろと相談室に入って来ました。そして説教など聞きたくもないという様子で、椅子にだらしなく腰かけたのです。その口は堅く閉じられていたものの、歯ぎしりが聞こえました。先週万引きした事について警察からの報告が入っているのを、その子は知っていました。いつも喧嘩ばかりする事についても、学校側が私に話した事も知っていました。その上、父親が電話で私に何を話したのかを心配しているらしく、歯ぎしりはさらに大きくなっていました。

  その子は私と対決する様相でした。何を話しても、自分には一切通用しないぞという顔付きをしていました。そこで、私は彼にほほ笑みました。たいてい私は、相談室に来る若者たちにほほ笑みます。特に相手が喧嘩ごしの時は、なおさらそうする事にしています。ほほ笑まれて、少年は不意をつかれた様子でした。心を少しでも開いてほしいと思うなら、まず何でもいいから褒めてあげる材料を見付けなくてはなりません。そこで、「君は左の靴の紐をちゃんと結んでいるね。」と話し掛けました。

  全く間の抜けた言葉のようでしたが、それを聞いた少年は驚いた様子で私を見つめ、「うん、そう、そう」とうなずきました。褒められるなんて全く期待していなかったし、何かの事で褒められる事も、きっと長い間なかったに違いありません。彼自身、後でそう言っていました。私はまず、建設的な関係を作らない事には、否定的な事柄について話しても何の役にも立たないだろうと知っていました。

  その子は、自信を持つ必要がありました。つまり、自分にも良い所があるんだという自信をつける必要が。初めはおどおどしながらほほ笑み返してきました。やがて元気に、「ほら、両方とも紐が結んであるんだ。」と言って、その靴を私に見せました。「黒のカジュアルシューズも持ってるよ。でも、それは結ばないんだ。」

  彼がいろいろな靴について話し、母親の部屋の暖炉の上にあるブロンズの靴の事まで話し続けて行く内に、ほほ笑みは、笑い声に変わっていきました。10分ぐらいして、親しさという靴を「履いた」あとで、初めて肝心な話を始める事が出来ました。「先週は全くついてなかったんだ。」 ゆっくりと話し始めました。私はただうなずきました。私と少年は問題について良く話し合い、彼の更生を助けるための処置や規則を決定することができました。

  子供に自信をつけさせるには、まず何よりも褒めてあげる事です。良い事をしてほしいのなら、もう既にしている良い事について何度も褒めてあげるなら、もっと良い事をするようになります。しかし、悪い行いについて何度も繰り返して言うなら、子供はもっと悪い事をするようになってしまいます。何と言う違いでしょう!

  何らかの事で成功を収めると、子供は自信を深めるものです。そして責任感を学んでこそ、成功を収める事が出来ます。責任感は、一夜にして身につくものではなく、序々に学んでいくものです。ただでもらえるものではなく、努力して身につけて行くものなのです。

  中には、子供の責任を肩代わりし過ぎてしまう親たちがいます。そして不思議なことに、子供がしくじると、「悪い」のは親になってしまいます。16歳の少年が父親に、「僕、自分の車がほしいんだけど」と言ったとします。普通なら、「なに寝言を言っているんだ」と言うところでしょうが、そうせずに、ほほ笑み、背中をぼんとたたいて、こう言うのです。「もちろん、いいとも。」 後で、夕食の時に不意にこう言って来るかも知れません。「マッシュポテトを取ってくれる? そして、いつ僕の車を持てるの?」 その時には、心の中で祈り、ほほ笑みながらこう言うのです。「ほらポテトだ。でも、いつおまえが車を持てるようになるか、父さんには分からんな。おまえはいつまでに、車を買うための金を稼ぐつもりなんだ?」 子供にその責任がある事を示すのです。自分で努力して得た物なら、もっと大切にします。

  子供達は、自分にはそれを行う能力があると悟ると、精神的に成長し、もっと多くの責任を負う事を学びます。だから、責任ある行動によって物事を達成すると、もっと自信を持つようになり、自信を持つともっと多くの物事を達成できるようになって、どんどん進歩を遂げていくというパターンを通るようになるのです

 

  楽しみ。ピクニック志向:責任感ある子供を育てるのに必要な、第三番目の条件は、楽しくする事です。愛情深い親とは、冷たい石のようではなく、とても暖かみがあるものです。

  地元の神父さんと私は、「少年院のやっかい者」と言われる事がよくあります。そのわけは、私達が不良少年達をからかったり、一緒に遊んだりするからです。もちろん、彼らを馬鹿にしたり、恥をかかすべきではありません。初めの内、子供達はとても驚いていました。警戒心の強い子供が入って来ると、私達はたいてい初めの二、三日間、その子を「からかい」、特別楽しい事をします。やがて、唇がほころび、ほほ笑み始めます。それから初めて、心の通い合う話しができるのです。

  子供達と一緒に楽しく過ごす事がいかに大切かはいくら強調してもし足りません。

  少年院に送られて来る子供達の多くは、楽しみ方を知りません。その殆どは、家族みんなで楽しむという経験がないのです。彼らは楽しみ方を学ぶ必要があります。

  私の保護下にある子供達に、よくこういう質問をします。「何をするのが好きなんだい?」 たいてい「何にも」と、元気の無い返事が返ってきます。楽しみを持つ事は、人生に大きな違いをもたらします。子供達はどうしてある行動をしたのかわからない事があります。ただ衝動に駆られてしまうのです。不良行為も、ただ面白いと思ってしたという場合が多いのです。

  自然に楽しみを持つようにはなりません。楽しむコツも学ばなければ習得できません。殆どの不良少年は、両親や先生、牧師等、誰からも、そういう楽しみを教えてもらった事がないのです。

  現実から逃避しようとして、子供達が麻薬に走るという誤った通説を私は信じません。現実から逃避しようとしているのではなく、現実にない何かを求めているのだと思います。

 

  PTAの母親:ある母親がPTAの会合で手をあげて、子供が何も言う事を聞かない、と訴えました。「朝も起きたがらないし、布団もたたまず、朝ご飯も食べようとせず、時間通りに学校に行けたためしがありません」と。話し終える頃には、涙を流していました。

  その子の年令を尋ねると、

  「7歳」と言う事でした。

  私はその子をほほ笑ますように努めているかどうか尋ね、こう説明しました。「まず幸せにしてあげないのなら、子供に何かをさせるのは、とうてい無理でしょう。」

  愛と信仰を教えるのを怠り、子供がほほ笑むような楽しい事を一緒にしようとしないなら、あなたは将来その子を少年院に送るようになるかもしれません。

 

  希望。希望は、責任感のある子供を育てる第四の条件ですが、おそらく最も困難なものでしょう。人生は良いもので、生きていく価値があると、子供が知る事は大切です。何もうまく行かないと思うなら、とてもみじめな存在になってしまいます。

  自分を厳しく裁く神ではなく、自分を愛してくれている神が一緒にいて下さると分かるなら、子供はもっと自分自身に希望を持つようになります。ある日娘のトリナが、ジョージ・ビバリー・シャー氏の歌う「神はあなたを世話される」という曲に聴き入っていました。しばらくして、この3歳児が、「神様って誰なの?」と聞いてきました。私は喜んで、神様はイエス様のお父さんで、私達の天のお父さんなんだよ、と話してあげました。「神様が、わたしを世話してくれるの?」とトリーナが聞いたので、「そうだよ」と答えました。すると娘は飛び上がって言いました。「よかった。それなら、あした保育園に行かなくてもいいのね。」

 

 感情的な問題を防ぐ方法

 

  失敗ばかりの子供。失敗ばかりする子供は、生れつきそうなのではなく、長いこと、徐々に失敗を重ねていくことによってそうなってしまうのです。しかも、失敗ばかりする子供が成功する子供になるには、さらにそれ以上の時間がかかります。神は、子供達一人一人に大いなる可能性を授けられました。他の子供達よりも沢山努力しなくてはいけない子供達がいますが、どの子供も、可能性ある何らかの能力を秘めているものです。

  自分は失敗者だと感じている子供に対しては、短期目標を設定して一緒に頑張らなくてはいけません。最初のカウンセルでは、たいてい、一日で達成しやすいゴールを定めるようにします。そうすれば子供は、本当に小さな仕事であっても、達成感を味わうことができるからです。この方法は、家庭でも使えます。子供は成功を経験していくことで、自分の可能性に目覚め始めるのです。

  落ちこんでいる子供。ふさぎこんでいるのは、心の中に何らかの感情がうっ積している証拠です。子供は、愛されていない、信頼されていないと感じたり、人生での楽しみや希望がないという苦痛に堪えるよりは、ふさぎこむほうが楽に思うのです。しかし、子供は一人だけぽつんと座って、眺めているだけでは居心地良くは感じません。だから、落ち込んでいる子供は時々、落ち込んでいる大人よりももっと活動的に見えることがあります。そんな子供には、他の子供達とどんどん交わり、自分の問題を忘れてしまうように励ましましょう。そうすれば、問題はみるみるうちに小さくなります。

  憎悪を抱いている子供。私達は大勢の人々が憎悪を抱いている時代に生きています。人々は近所の人に怒り、子供達は親に怒り、親は子供達に怒り、子供は教師と折り合いが悪く、教師は子供にいらいらしています。憎悪は至る所にあるのです。きっと、憎悪を抱くほうが、愛や信頼や楽しみや希望の欠如という心の傷みに堪えるよりは楽なのでしょう。大勢の子供達は、ただどうしたら自分のエネルギーを楽しい事柄に注ぎ込んだらいいのかを知らないから憎悪を抱くと私は確信しています。

  子供は故意に悪意を抱くわけではありません。全ての子供はエネルギーを持っていて、そのエネルギーを使わなければいけませんが、残念なことに、大人は、子供の心をいやすために、困難な過程を子供と共に経験するよりも、その子供は憎悪でいっぱいの見込みのない子供なのだと最初からレッテルを貼ってしまうほうが楽に感じて、そのような態度をとるという場合があまりにも多くあります。

  自殺志向の子供:生命を救った手編み。自殺志向のティーンにカウンセルする時、私は常に、緊張感を伴う切迫した状況に置かれます。私がプロテスタント青少年カウンセリング・サービスでカウンセルを始めてわずか数か月後のことです。若い女性の相談者がやってきて、「さようなら、4回のセッションをありがとう。」と言いました。彼女は、空の薬ビンを持っていました。それは、もう数分で彼女は死んでしまうというしるしだったのです。私は急いで医者に胃の洗浄をさせるようにと求めましたが、救急車を呼んだら逃げると彼女は言いました。ただ話したかったのでした。

  私は素早く、キリストの測り知れない富のことや、神が彼女を愛していることを話し始めました。しかし、彼女は宗教的な話にも、心理学的な話にも耳を傾けようとはしませんでした。

  さて、彼女は肥満体で、それにユーモア好きだったので、私はこう言いました。「棺桶をかつぐ人はかわいそうだね。みんなヘルニアにかかってしまうよ。」

  これは注意をひきました!

  「それに、棺桶に横たえられている時に、あごがおかしく見えることだろう。」と言ってから、自殺する前に体重を減らすよう提案しました。

  彼女は考え始めました。

  私は彼女の家族について尋ねると、「みんな大嫌いよ」とぶっきらぼうな答えが返ってきました。

  そのことを家族に言わないのは不公平じゃないかと、私は言いました。

  それから、幼い息子のことも尋ねました。

  息子を愛していると、彼女は答えました。

  彼女がその子供を残して死んでしまうなんて不公平だと思うと私は言いましたが、彼女は、自分がいないほうが子供のためになると信じていました。そこで私は、その子供に自分が愛していたことのしるしとして、きれいなアフガンのセーターを編んでやってはどうかとアドバイスしました。

  これはうまくいきました! 彼女は病院に行き、胃の洗浄をしたのでした。

  そこで私達は簡単な計画を立て、彼女は以下のことをやり終えることになりました。(1)10キロ痩せること。(2)母親に大嫌いだと告げる。(3)夫の数々の欠点を夫に言う。(4)息子にアフガンのセーターを編んでやる。(5)ヨハネの福音書を読む。

  私は、何かが起こって彼女の人生を変えるよう祈っていると彼女に告げました。

  爆発寸前まで溜め込んでいた感情を夫にぶちまけたことで彼女は胸がすっとしました。そこで、母親にも同じことをしたのでした。

  そして、とうとうその最初の計画とその他幾つかのことを完了し、それが成功した後は自殺志向の兆候は消えたのでした。

 

  悲しみにくれる子供。風船ガム・ボーイ。大勢の子供達が悲しみをまぎらわすために攻撃的な態度を取ります。ある14歳の男の子が祖父に無理やり連れられて、私のオフィスにやって来ました。この子供は、明らかに裁判所と私を嫌悪しているということを私に目つきで伝えていました。祖父は子供にガムを捨てるようにとささやきましたが、子供は下を向いて、腕を堅く組んで座ったままでした。

  私はほほ笑み、自分の名前を言ってから、子供の名前を聞きましたが、何の返事もありません。

  彼はますますしかめっ面をし、ガムをかんでいました。

  それから、ガムをかむのは楽しいかと尋ねました。

  無言です。

  それから、風船を作れるかと尋ねてみました。

  するとその子供はチャンスとばかりに、私の目を見ながら懸命にガムをかみ、ガムに包まれた舌を突き出しました。

  私はほほ笑みました。

  すると子供はまたガムに取り組み、ゆっくりと小さな風船をふくらませたのです。

  私はほめてやりました。

  この子は、もっと上手にできると言って、ガムをもっと素早くふくらませ、もっと大きな風船を作りました。

  私はまたほめてやりました。

  すると、もっと上手にできると言い、それを証明して見せました。4個目の風船はその子の顔くらい大きくふくらんだのです。でも、破裂して、髪の毛や右目にべったりとくっついてしまいました。私は腹をかかえて笑いました。

  すると、子供はくっついたガムの下から私を見、ゆっくりと笑い始めたのです。

 

  祖父は涙ぐみながら、6か月前にこの子の祖母が死んで以来、この子の笑った顔を見たのは初めてだと言いました。さらに幾度かカウンセルをした後で、この男の子の心の問題はなくなりました。

 

問題児

 

  一般に、「問題児」というのは、振る舞いが「悪い」のでそう呼ばれています。感情的な問題を持つ場合と同様、振る舞いの問題を持っている子供の場合も、愛されていない、信頼されていないとか、楽しみや希望の欠如を感じることが原因であることがよくあります。子供の「悪い」振る舞いは、たいてい、心の傷みが原因です。心の傷みに苦しむよりは、「悪い」子でいるほうが楽なのです。

  そんな問題が生じるのを防ぐためには、それにつながるような環境を作らないようにと、読者の皆さんにアドバイスしたいと思います。悪い振る舞いを変える方法を探すよりは、振る舞いの問題が最初から起こらないようにするほうが楽です。

  手に負えない子供。消しゴムを投げる子供の場合。学校で問題を起こす子供というのは、しばしば家庭でも問題を起こします。

  ある5歳の男の子は、消しゴムを幼稚園の教師の後頭部に投げるクセがあるので私のところに連れてこられました。どこからそんなに沢山の消しゴムを手に入れたのか不思議なくらいです。

  昔からのカウンセルのやり方は、うまくいきませんでした。

  私は自分の相談室に、おもちゃを置いています。そこで一緒にミニカーで遊びました。二人で大いに楽しみ、この子供は良い子にしていました。けれども、母親は私達が何をしていたかを聞くと、「私は、そんなことのためにお金を払っているんですか?」と言いました。

  母親と教師は、子供にどうして消しゴムを投げるのかと、しつこく聞いていたのですが、「どうして」と聞くのは役に立たないことを、私は知っていました。問い詰められると、子供は自分を防御しようと必死になり、すぐに心を閉ざしてしまうからです。子供の答えはたいてい、「ぼく知らない」でしたが、これは、本当に知らなかったからであるのは言うまでもありません。

  子供は、理由などわからずに何かをしている事がほとんどで、ただ無意識にやってしまうのです。

  それで、その子供の振る舞いについて質問してみました。「消しゴムを投げるとどうなるんだい?」

  すると子供はニヤッと笑って答えました。「先生が僕の名前を呼ぶの。」

  先生はいつもそうするのかと私は聞きました。

  「ううん。顔を真っ赤にして、何かもごもご言うこともあるよ。」

  私はその子の言うことを信じました。彼は自分の名前を呼ばれるのが大好きだったのです。その子供にとって自分だけのものと言えるのは、名前だけだったからです。

  私達が子供をほめる時には、子供の名前を言ってやるべきです。反対に、叱る時には名前を口に出さないほうがいいでしょう。

  私はこの子供と先生と取り決めをしました。子供は週に2回黒板消しの粉払いを5分間することになりました。それは適切な仕事だと私は思いました。そして、授業が始まる前に先生は、その子供の仕事がどんなに大切かを、子供の名前を言いながら言うのです。

  すぐに子供は消しゴムを投げなくなりました。また、一緒に車で遊んでいる時に気づいたのですが、待合い室で両親が互いにわめき合っている声が聞こえると、子供はいらいらしたのです。

  その内に両親は結婚のカウンセルにも訪れるようになりました。そして、子供と両親は家庭でのデボーションをするようになったのです。両親は仲良くなり始めました。そして、その子供は完全に消しゴムを投げるのをやめたのです!

 

   ――――――――――

「もう一言も聞きたくないわ!」

娘の叱る声が聞こえる。

「まあまあ、遊び好きな3歳の子にしては

随分と厳しいのね!」と私は思う

娘は上を向いて

軽蔑の溜め息をつく

「あなたって本当にしょうのない子ね。」

娘の人形がお小言を聞いている

「座りなさい! じっとして! 

手はきれい?

どうしてそんなにゆっくり歩くの?

おもちゃを片付けなさい! 

歯を磨きなさい!

ニンジンは全部食べなさい! 

鼻をかみなさい!」

最近娘に、母親はどんなに

優しくあるべきかを

話し始めた私だったが

突然、恥ずかしくなってしまった。

そうか、娘は私のまねをしていたんだ!

  −−バーバラ・バロウ

   ――――――――――

 

  放蕩息子。毎年、この国で家出する少年少女の数を推定することなどとても不可能なくらいです。

  心に深い傷を持ち、とにかく親から逃げるためなら、何にでも誰にでも行こうとする子供達がいるのはどうしてでしょうか? イエスは、家出少年のことを放蕩息子のたとえの中で話されました。

  放蕩息子の父親は、「聞くんだ。私の家にいる限りは、私の言う通りにしろ。」と言うこともできたでしょうし、あるいは、口答えは一切するな、罪深い生き方などさっさとやめろと言うこともできたでしょう。しかし、そのような要求は親子の深いつながりなしには、何の効き目もありません。

  どうして父親が息子を行かせたのだろうかと言う人達もいますが、このような人達は、そんな子供を持つことの辛さを経験したことが全然ないに違いありません。

  もともと父親が息子が行くのを許したのです。息子は家を出ただけでなく、父の祝福や金まで持って行ってしまいました。実のところ、父親は息子に行かせただけでなく、その為の費用まで払ってやったと解釈してもよいくらいです。

  父親は多分、息子のためにできる限り良くしてやっていたけれども、とうとう限界に達して、無念な思いで、「よし、それなら行くがいい」と言ったことでしょう。

  自分で悪い経験をする以外に学ばない子供達がいます。彼らは、向こう側の芝生が思ったほど青くない事を自ら知らなくてはいけないのです。大勢の子供達は、全ての人が親がしてくれているように自分を受け入れてくれ、家庭に迎えてくれ、何年にも渡って養ってくれるわけではないと知らなくてはいけません。

  放蕩息子の話の中で最も重要な事柄は、とうとう息子が、自分で自分の人生を破滅に追いやっている事に気付いた事です。生きるために苦労しながら無一文になり、ついにどん底に落ちた時に、聖書には、「彼は本心に立ちかえった」と書いてあります。

  時には、私達が子供達のためにしてやれることは、子供が出て行ってしまうまで一緒にいてやることしかない場合もあります。本当につらく、無念なことです。多分、自分が心から愛する子供が本心に立ちかえるまで待つことは、私達にとって一番辛い経験かもしれません。

  放蕩息子は、自分が罪を犯したと悟りました。そして父に赦しを求めようと決心したのです。

  その父は冷たい父親ではありませんでした。いつまでも待ち、いつまでも息子として受け入れてくれていたのです。そして何千回となく、息子が戻ってくるのではないかと道を見た事でしょう。ついに自分の息子らしい人の姿を発見したのでした。

  遠くから、それが息子とわかった時、この上もなく喜んだことでしょう。父親は息子が戻ってきて謝るまで待ったりはしませんでした。その父親にはプライドなど問題ではなかったのです。

 

  大勢の親はプライドが邪魔してしまうため、自分を傷つけた子供が戻ってきて、子供のほうから謝ってくるのを望みます。

  放蕩息子の父は、自分のほうから息子の所に駆けて行きました。息子を一目見ると、深い同情がわきあがったのです。

  父は何も言いませんでした。ただ走って行って、息子を抱き締め、キスしました。そして、最初に口を開いたのは息子のほうでした。父に赦しを求めたのです。それに対して父はどんなに息子が迷惑をかけたかを話したり、これぞチャンスとばかりにとっておきの説教をぶったりもしませんでした。そうではなく、祝いの宴を開くことにしたのです。

  その父が「甘やかされたガキ」に良くしてやりすぎていると言う人もいるかもしれません。家出した子供を閉じ込めてしまう親がよくいますが、実際にそうされた子供の多くは、次回にはさらに遠くへと家出してしまいました。

  父は息子に、最上の着物と指輪と靴を与えました。父親は息子が戻ったことを、ひたすら喜んだのです。

  この話は、ハッピーエンドで終わっています。「それから祝宴が始まった」 これこそ誰もが望む結果です。

  その一方で、待つ事は辛いものです。子供が本心と、神に立ちかえるまで待つのは、大変な苦労です。しかし、放蕩息子のたとえには希望があるのです。

  責任。子供に責任を自覚させるのが難しい時もあります。子供は徐々に訓練されて、13歳になる頃には自分の部屋について完全に責任を負えるようになるべきだと私は信じています。日常生活に即した私の神学は以下の通りです。「これはおまえの部屋だ」と言い、ドアを閉め、そこを去り、それからはただ子供のために祈る、と言うのはなかなかたやすいことではありません。しかし、子供に自分自身のレベルに合った責任を見つける機会をぜひ与えて下さいということです。15歳の時に自分の部屋の世話も始められなかった子供に、18歳で自分自身の人生について全責任を負うことなど、どうして期待できるでしょうか?

  あなたが気持ちをぐらつかせたりせず、13歳の子供に対してきっぱりとした態度を取るなら、その子供は自分で成功したり、あるいは失敗しながら学んでいくことでしょう。子供は必然的に、自分の部屋を掃除し忘れるなら、どうなるかを知るようになります。特に、自分の押し入れに、何かの生き物を見つけた時には!

 

  代わりとなる行動。時に社会は、二者択一をせざるをえないかのように思えます。つまり、子供達が麻薬によって気を静めるようにするか、飲酒によって乱暴になるかのどちらかを選ばなくてはいけないかのように。暴力犯罪が増加すると麻薬犯罪は減少しますし、暴力犯罪が増加すると麻薬犯罪が減少するからです。しかし、神の恵みにより、それ以外の選択の余地があるのです。私達が子供達から何かを取り上げる時には、必ず、もっと良いものを子供が得るのを助けなければなりません。ただオウム返しに、「酒を飲んではいけない、マリワナを吸ってはいけない、セックスしてはいけない、不良になるな、手に負えない子供になるな」と言うだけでは何もなりません。子供が、建設的で充実感のある代わりの行動を見いだすように助けてやらなくてはいけないのです。

  代わりの行動には、イエス・キリストの力と家族の力が含まれていなくてはいけません。救いは、罪悪感や罪を取り去ってくれますが、だからと言ってその人の心に、空洞ができるわけではありません。聖霊によって満たされるのです。私達は、子供達が麻薬やアルコールやその他の悪癖に代えて、純粋な宗教的経験をするように助けなくてはいけません。

  それらに代わる行動とは、イエス・キリストを信じることです。救われた子供は、悪い生き方をやめて良い生き方を始めます。イエス・キリストは若者が望み、必要としている安らぎと満足感をもたらすのです。

  ベイビー・ステップ:私達の赤ん坊のトリナが泣き始めると、妻のアンか私が抱き上げて、慰め、問題を解決してやったものでした。そうするとトリナは、愛と安心感を覚え、泣きやみました。何か問題があると、私達がそれを解決してきました。キスが「慰めになる」というのも確かにその通りですし、トリナにお気にいりのおもちゃを与えることもしました。少なくとも、そういう行為はトリナの注意をそらすことができました。

  トリナがオーブンを触りそうになった時には、「だめ!」と叫びました! その代わりに鍋かフライパンなどをトリナに手渡してやったのです。子供達が成長していっていても、私達はやはり、何かより建設的な他の選択に子供の注意を向ける必要があるのです。

  ある日トリナは立って、よちよち歩こうとしました。私はほんの10数センチだけ離れて座り、トリナの方に手を伸ばしていました。そして「ダディーの方においで。きっとできるから。」と言ってあげました。トリナは一歩歩きました。そこで私は彼女を、愛をこめて抱きしめました。そして、私はもう10数センチ下がりました。かなり真剣なやり取りの後で、トリナは今度は二歩、歩きました。そこで私はまたぎゅっと抱き締めてあげました。そして今度は1メートルちょっと下がりました。トリナは私を注意深く見守り、それから床に座り込んで、頭を自分の手でおおってしまいました。あまりにも遠すぎ、多すぎ、早過ぎたのです。代わりの行動は、達成しやすいものでなくてはいけません。そうしないと、子供は完全に欲求不満になってしまいます。その夜10歳になるローラが、学校のミュージカルのオーディションについて話しました。ローラは、「やってごらん、おまえならやれる。」と言ってもらう事を赤ん坊よりも必要としていました。いつの日か、彼女が初めてガレージから車をバックで出す時に、私は端にいて、「やってごらん、きっとできるから」と言っているのかもしれません。

  これこそ、子供達が一生に渡って必要としている励ましです。

 

   ――――――――――

私の手は大きく、子供のは小さい

そして、これ以上に重要な使命は

この地上にない

それが私に任されている

私は主に求める 

子供を正しく導くための知恵を

そして、子供の必要はすべて

私にかかっている。けれどもあなたが

私の導き手となって下さい

子供の傍らを歩きながら

子供のために正しい道を選ぶことが

できますように

歳月人を待たず

行いと言葉に気をつけていますように

私達が進む時、主よ、

子供の手は私の手を

しっかりつかんでいます

そして、いつも主よ、私の手は

あなたの手をつかんでいます

  −−グレース・ノル・クロウェル

   ――――――――――