48.愛の律法
愛は律法を完成するものである。(ローマ13:10)
1.イエスは、今私たちに必要なのは二つの律法だけであると言われた。すなわち、神を愛し、他の人を愛することである!−−神の唯一の律法は愛である!(マタイ22:37-39)
2.すべての事が、愛の観点から判断されねばならない。
3.主はしばしば、御自身の規則に対して、愛と憐れみと許しによって、例外的な場合のための余地を与えたり、例外を定めたりされる。
4.律法は基準であるが、規則には常に例外がある。ことに、神がその例外を定められる方であるならなおさらである!
5.愛とは義以上のものであり、憐れみは正義よりも偉大である!
6.私たちは、十戒を守る以上の事を行うことを信じている。イエスの愛の律法は、はるかに厳しく、はるかに困難なのである!
7.恵みが与える啓示や、恵みが与える自由や恵みが与える新しいワインを、人々が喜んで受け入れない時、彼らは常にそれが律法や聖書に基づいておらず、モーセやパウロにもよらないのだという彼らの主張を証明するために、彼らの法律主義や律法に戻るのである!
8.主は、新しい日々、新しい時代のための新約聖書を書かれているのであり、私たちはもはやパウロに基づいて判断しなくてもよいのである!
9.あなたは、最後まで恵みによって行かなければならないか、最後まで律法によって行かねばならないかのいずれかである!
10.何でも愛によって成されたことは正しい。
11.神は今、私たちに愛があるか、あるいは私たちに愛がないかによってのみ、私たちを裁く!
12.私たちはモーセの律法から解放されている。モーセの律法よりも偉大なイエスの愛を学んだからである!
13.私たちは、何でも愛によって行なわれたことで、聖句によって厳密に禁じられていないことは、完全に合法であると信じている。
14.神の唯一の律法は愛である! 何でもあなたのしている事が、愛によるものであり、誰も傷付けていない限り、どうしてあなたは間違い得るだろうか?
15.神が規則を作られるのであり、もし彼が望まれるのであれば、彼はそれらに例外を設け、何か非常に異例なことを行うことができるのである。
16.明らかに、もしも主が宜しいと決めるなら、あなたは何でもやりおおすことができる! しかし、あなたは主がそれをお決めになるのを確認した方が良い。
17.生命を与えるのは、人々を自由にする愛の律法である!−−人を奴隷にする、 「人を殺す文字」 ではなく。(Uコリント3:6)
18.御言葉によれば、愛によって行なわれたことは、法に反していない−−「これらを否定する律法はない」 。(ガラテヤ5:23)
19.すべての規則には常に例外がある。
20.愛の王国には、愛を除いては何の律法もなく、愛を与える者たち以外の市民は誰もいない! だから、言葉であれ行いであれ、何事をするにも、すべて愛の栄光のためにすべきである。
21.それら真に御霊の内にいる人々にとっては、愛が唯一の規則である!
22.神は規則を作られるが、もしそう望むなら、神はそれを破ることもおできになるのである。
23.私たちを救うことによって、神自ら御自身の律法を犯しておられるのである! 神は、犠牲の代わりに憐れみを、審判の代わりに愛を宣言しておられるのである!
24. これだけが、私たちの進む
すべての道に必要な真理の格言:
愛には、私たちに必要なすべての律法があり、
キリストにおいてのみ、私たちは神を知る。
25.神の唯一の律法は愛であり、神の唯一の王国は、天国的な王国である!
26.もしあなたが、神の新しい愛の律法に応じないのであれば、彼は、昔の審判の律法を適用されねばならない。
27.愛が、今は律法なのである!−−神の唯一の律法は愛である!
28.至福千年は、愛の鉄の規則をもってでさえ、法律を制定することによって人を義にすることは出来ないということを証明するようになる!
29.それは他の者たちにとっては罪であるかもしれないが、あなたにとっては正しいことであり得るのである。それはすべて、実際にはあなたの心の動機によって判断されるのである。
30.神の愛を学んだので、私たちはモーセの律法から解放されている。
31.たとえ一つの点においてさえ、あなたが律法に戻るなら、あなたには律法全体を守る義務がある。(ヤコブ2:10)
32.神の律法は愛であり、冷たく、柔軟性のない、伝統的で、独善的な奉仕ではない。
33.神の愛は、神の律法よりも大いなるものである!−−神の憐れみは、彼の正義に取って代わるものである!
34.イエスはただ愛を宣べ伝えたのであり、彼は誰も傷つけないように努めていた。しかし、彼の人生と彼のメッセージそのものが、偽善者や有罪の者たちを暴露したのだった。何故ならそれは、白に対する黒、あるいは暗闇に対する光のように、彼らの真の姿を明らかにしたからである。
35.あなたは、完全な命と愛と解放と霊の自由を任せられるだろうか? それとも、自分自身の肉欲や愛の欠如によってのみ支配された罪人として、律法のおりの中に閉じ込められていなければならないか?
36.それは、神の御仕事のために良いか? それは神の体のために良いか? それはあなたのために良いか? それは神と神の体に栄光を与え、あなた自身の魂のためになるか? それは、あなたか、誰か他の人が、主のためにより良い仕事を行うのを助けるか? あなた自身の益のためにそれが必要でさえあるか?
37.愛の内に行なわれたことは何も間違っていない!−−何でも愛の内に行なわれたことは正しい!
38.私は十戒を信じてはいず、イエスの愛の律法を信じている! これは、はるかにずっと大いなるものであり、もっと難しく、事実あなたは、あなたの内にイエスがなければ、すなわち、あなた自身を愛する以上に他の人を愛する力を与えてくれる神の御霊があなたの内にない限り、十戒であれ、イエスの愛の律法であれ、守ることはできないのである。
39.古い律法によって、神は人に、人が自分だけではできないことを示された。神の新しい愛の律法によって、神は、神が古い律法以上に正しく、さらに多くの愛と憐れみさえ持っておられ、そしてそれ程まで善であることは人にとってとうてい不可能であることを、さらに一層示されさえしたのだった。
40.私たちは、キリスト・イエスにおける愛の律法によって、罪に対する非難の束縛から解放されている。だから、もしそれが愛の内に行なわれているなら、その時には、神に関する限り、それは法にかなっているのである。
41.あなたは、最後まで恵みによって行かねばならないか、あるいは最後まで律法によって行かねばならないかのいずれかである。 (ローマ11:6)
42.弱く、心の狭いクリスチャンをつまずかせないように、証しをすることを控えさえしなければならない点に達する時、その時、あなたは限界を定めて前進しなければならないのである。もしそれが、小さなことにこせこせする心の狭い独善的なクリスチャンの単なる狭量な腹立ちの故に、あなたが神の御心を行うのを妨げ、それを阻止するためにあらゆる種類の障害物が置かれるということになるなら、その時には彼らのことなど忘れてとしまいなさい! 単にある人々が、あなたの方法を非難するというだけで、あなたは魂を救うことを止めることはできない。単にある人々があなたの方法を非難するというだけで、あなたは、あなたの奉仕やメッセージを止めることはできないのである。もし神が、良い実をもって、その方法を祝福して下さっているなら、その方法は良いのである。
43.愛は、義よりも優れていて、憐れみは正義よりも偉大である。
44.あなたは、神があなたを規則から解放できる程、神の愛によって支配されているか? それとも、神の恵みによる自由を任せることができないために、業の律法の下につながれていなければならないだろうか?−−答えはあなたにかかっている!
45.あなたは、人生を心行くまで生きることのできる十分な自由を任せられる程、十分な愛を持っているか?
46.誰であれ、モーセの律法に従って善良になることは不可能である!
47.今、愛以外の律法は存在しない。もしそれが愛の内になされ、全ての関係者が互いに愛し合っているが故に、同意しているなら、そこに罪は存在しない−−それが愛だからである!
48.愛の律法は、他の全ての律法を破棄している! イエスは、愛の律法が如何にモーセの律法よりも、さらに厳格なものであるのかを示そうとしておられた。愛の律法は、ユダヤ人による、憐れみのない、正義の律法を破棄している!
49.教会の律法と人間のある律法は、神の律法、すなわち愛の律法を無にする。
50.もし自分が愛の内に行動していることを知っているならば、神の御言葉に従って、信仰により先へ進むことができる。そして他のどんなものも必要ではない。
51.あなたが行っていることが何であれ、それを愛の内に行っている限り、神の律法に従っていないという罪を犯していることにはならない。
52.人間の律法は、必ずしも神の律法に、特に神の愛の律法にそぐうことは限らない。
53.私たちは、私たちが行うことが何であれ、言葉によると行いによるとを問わず、全て神の栄光のために、また全て愛の内に行うべきである。(Tコリント10:31)
54.もし神の愛の律法を守っているなら、私たちは誰かを傷付けたり、あるいは気を害したりしないようにと努めるであろう。そして私たちは、私たちの最善を尽くして、愛の内に生きるよう努めるであろう。 55.私たちの愛の全教義は、教会の教義とは相反している。それは律法と憎しみの教義であり、その教義を、恐れと戦慄とをもって、強制することである。
56.私たち、愛と主とを愛する者たちが、律法と律法尊重主義者とを愛する者たちと衝突することは避けられない。私たちは到底彼らを喜ばせることはできない。
57.愛は愛であり、律法は律法である。そしてこの両者は決して合意することはない!
58.私たちに関する限り、また新約聖書で言われていることに関する限りでは、もし私たちの全てのセックスが主の愛の内になされたものであるなら、私たちにとってはもはや姦淫といったようなものは存在しない!
59.あらゆる場合に、私たちがそれに従って行動することのできる唯一の規則とは、「それは愛だろうか?」 ということである。
60.イエスは、今では主の愛の律法が全ての預言者たちであると同様に、また全ての律法でもあると言われた。(マタイ22:37-40)
61.イエスは、何もかも一切、すなわち聖書全体が、今では全て愛の律法の内に成就されていると言われた!
62.神の唯一の律法は愛である!−−今では他に律法はなく、モーセの律法も、教会の律法もなく、セックスに反する律法もない。私たちに関する限り、そういった昔の律法は存在していない。 Tテモテ1:9の中でも主が語っておられるように、 それらはただ神を敬わない者たちを規制するためのものである。
63.何であれ、成された事が愛の内に成されたかどうかに関して、全てのケースは一つずつそれ自体の真価と、それ自体の情況とに応じて判断されなければならない。
64.クリスチャンであり、神を持ち、主の愛を持っている私たちは、もはや律法の下にはいない。しかし救われておらず、イエス・キリストを拒み、その心の中に神を持たず、神の愛をもっていない罪人は、未だにその律法の下にいる。それが違いである。
65.救われていない者たちは、今でも旧約聖書の律法に支配されている。何故なら律法は、神を敬わない者、不義な者、法に服さない者のために定められているからである!(Tテモテ1:9)
66.私たちは愛を学んだので、モーセの律法から解放されている。愛はモーセの律法よりも大いなるものだからである。
67.もし私たちが愛、すなわち神の愛を持っており、私たちの行う全てのことを愛の内に行うなら、その方がモーセの律法よりも優れている。
68.神の唯一の律法は愛である。そして何かが愛の内に、すなわち真の非利己的で、更には犠牲的な愛、つまり神の愛によってなされている限り、神の目にはそれは全く合法的である。
69.モーセの律法は、愛を持っていないが故に、まだそのもとにいる他の人々のために、今もなお存在している。
70.神の愛は、神の律法よりも大いなるものである。(ローマ13:10)
71.たとえ一つの点においても律法に立ち返るなら、律法全体を守る義務がある。(ヤコブ2:10)
72.主が、本当に好まれたのは、全てが恵みと信仰とによって始められることだったのであり、それが主の元来の計画だったのである。しかし人々が、恵みと信仰と愛とに従わなかったが故に、主よ、規則を設けて、厳重に取り締まらなければならなかった。しかし規則を守ることは、彼らを救いはしなかった。それはただ彼らがどこで誤ったかを彼らに示しただけだった。
73.結婚を崇拝する人々は、それを一つの神としてしまっており、また律法と律法尊重主義の形態を崇拝してしまっているのである。それは愛や許し、また憐れみの崇拝ではなく、むしろ律法の崇拝である。
74.結婚に関する法律を崇拝することは、律法尊重主義である−−つまり法律は、犯すべからざるものだと語っていることなのである! 律法尊重主義者たちは、律法に取って代わることのできるものは何もないと言う−−愛や憐れみ、あるいは神の恵みでさえも!−−そしてもし人が律法を破るなら、その人が許されることはないと語るわけである。 75.律法学者やパリサイ人は愛よりも律法を崇拝する! 彼らは、神の義よりも彼ら自身の自己正義を崇拝する! 彼らは憐れみよりも、裁きを崇拝する。そしてとどのつまり、彼らは愛よりも復讐を崇拝するのである!
76.あなたが誰であれ、あるいは何者であれ、あるいはまた何を持っていようと、愛なしに愛のファミリーに加わることはできない。
77.律法は、モーセを通して与えられたが、恵みと憐れみと許しと愛と真理とは、私たちの救いであるイエス・キリストを通して与えられた。(ヨハネ1:17)
78.イエスは、新しい愛の律法を、すなわちイエスの恋人たちのための、神の唯一の律法をもたらされた! 今、私たちにとって神の唯一の律法とは愛であり、それはモーセの律法を成就して、なお余りがある。
79.イエスは、律法を廃されたのではなく、それを成就され、その終わりとなられた!(マタイ5:17) それ故に、律法はすたれ、もはや存在していない。今私たちは、ただ神の愛の律法を、つまり神の唯一の律法を守らなければならないだけである−−そしてそれは、愛であり、モーセの律法よりも強い律法である!
80.全ては、あなたがモーセの方をもっと信じようとしているのか、あるいはイエスの方をもっと信じようとしているのかに煮詰められる!
81.イエスの愛の律法は、昔のモーセの律法よりも大いなるものであり、より厳格なものである。何故なら、今では行なわれる全てのことが主の愛の内に成されなければならないからである! あなたには、律法よりも多くの憐れみと多くの愛とがなければならない。
82.律法や規則を作られた神は、あなたが憐れみと許しと救いを持つことを望まれる!
83.私たちは、モーセの十戒を守ることを信じていない!−−イエスの愛の律法を守ることを信じているからである!
84.私たちは、キリストの愛の律法を信じている: 互いに愛し合いなさい。 そうすればキリストの律法を全うするであろう。 (ガラテヤ5:14,6:2)
85.どんな愛しかたをしても、一つの魂をキリストに勝ち取ろうと努めるためであるならば、それが違法となってしまうようなことはあり得ない!
86.神の唯一の律法は愛である。だからもしあなたの行っていることが、愛の内に成されたものであり、罪のない関係者を誰も傷付けていないのであれば、神の愛の律法によると、それはあなたにとっては、全く合法なのである。
87.もし女性がその夫に自分自身を与えることを差し控えるなら、有罪であるのは、その男に当然与えるべきものを与えていない彼女の方なのであって、その必要に際して、彼を助けてあげている人の方ではない。聖書は、メイトが互いに自分の体を与えることを差し控えるのを明確に禁じているので、どんな女性であっても、その夫に自分の体を与えることを差し控えているのであれば、彼女は愛の律法と、新約聖書の律法とを破っているのである。(Tコリント7:3-5)
88.分け合う際に、もし関係者全員が同意せず、また承諾していない場合にはそれは間違っている。しかし関係者の内で有罪であり、その原因の一部であるところの誰かが、賛成しない場合には、それは全く別問題である。あなたはもっぱら、愛に従って行動しなければならない。あなたは、 「でもそれは妻を傷付けてしまいます」 と言う。もしかしたら彼女には傷付くのが当然であるのかも知れず、彼女にはそれが必要なのかもしれない、もしかしたら彼を拒んだのかもしれない! その妻が彼の必要としている類いの愛を与えていない限り、男がどこか他の場所に愛を探し求める理由があるだろうか?
89.その夫に自分の体を与えることを差し控える女性は誰であれ、その夫を愛してはいない。だからもし夫が、妻から愛を得られない場合には、神の愛の律法によれば、彼はどこか他の場所でそれを見付けても構わないのである! それが神の御言葉であり、それが真理である!
90.もし一人の女性が、 今でもなお一人の男性の妻であることを公然と装っていても、彼女が夫を性的に拒み、夫の権利を彼に対して拒否しているのであれば、一体何の違いがあるだろうか。もし彼女がベッドの中で彼の妻であることを拒んでいるのであれば、彼女は妻ではない!
91.夫が当然受けるべきものを、その妻が与えるものを拒んでいるのであれば、たとえ夫がそれを何処か他の場所に捜したとしても、それは彼女自身の過失である。
92.もし女性が神の愛を持っていないのであれば、一体どのようにして夫に非利己的な愛を与えることができるのか? そしてもし彼女がその愛を持っていないのであれば、たとえ彼がそれをどことか他の場所で得たとしても、何一つ間違ったところはない。そしてそれは彼女自身の過失であり、彼女の方に罪があるのである。
93.もし女性がその夫を本当に愛していても、彼が必要とするものを与えることができない場合には、もし本当に彼のことを愛しているなら、彼女は彼がそれを手に入れることのできるどこか他の場所へ行くことを望むはずである。
(No.302A,302C,531,576,591,592,594,635,647,648,719,1253 も参照。)
(律法対恵みかに関する聖句を参照。)