宝 P148-154
教会−−信者の集まり!
クリスチャン同士が集まって交わりを持てるというのは、素晴らしいことです! そういった交わりは、私達が心から願うはずのものです。一日中−−あるいは数日間、あるいは一週間ずっと、イエスを信じない人々と一緒にいて、数多くの問題に直面してきた後、私達には、自分と同じように信じ、主を愛し、主に仕え、主のために生きている人達と一緒に過ごす必要があるからです! 現代世界において、クリスチャンとして生きるのは必ずしも簡単なことではありません。ですから、他のクリスチャンと交わりを持ち、神の言葉を共に読み、勉強し、歌を歌い、主を賛美し、団結して互いのために祈り、個人的な問題や必要のために祈りを求めるというのは、まさに祝福なのです。またそうした交わりの時というのは、共にコミュニオン (聖餐)をするのにも良い時です。
ヘブル10章25節は、「ある人達がいつもしているように、集会をやめることはしないで、互いに励まし、 (イエスが戻って来られる)かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではないか」と告げています。自分達が力づけられ、心を新たにし、主の御言葉によって強められるには、他のクリスチャンと共に交わりを持つ必要があると、主は知っておられたのです。また、先の聖書の節にあるように、共に集まるのは、互いに励まし合う時でもあります。さらに、団結には大いなる力があり、団結した祈りや交わりには何らかの力があって、主はそれを本当に祝福して下さいます!−−使徒行伝4:32-33参照
けれども、共に交わり、心を新たにするための集まりは、−−教会の建物の中であれ、大聖堂の中であれ、普通の家の中であれ、わらぶき小屋の中であれ−−主のための「奉仕 (サービス) 」ではないということを理解するのは大切なことです。と言うのも、特に、格式ばった教会の多くでは、交わりのための集まりが「礼拝 (サービス) 」と呼ばれているからです。これによって、人々は間違った印象を受け、単に教会に行って献金するだけで、神に対する義務を果たしたと考えています。つまり、クリスチャンとして、神を喜ばすためにしなければならないのは、「礼拝 (サービス) 」に出席することだけだと考えているのです。
当然、それだけではありません。イエスが私達に命令された通り、クリスチャンとしての任務は、「すべての人に福音を宣べ伝える」ことだからです!−−マルコ16:15 主のための実際の仕事や奉仕は、毎日主の為に生き、他の人に証しをし、他の人と主の愛を分かち合い、彼らに救いについて教える事です。そうする事こそ、神への私達の奉仕なのです!そしてそれはまさしく仕事であり、それには、献身的態度と、ある程度の自己犠牲が要求されます。それに比べたら、一時間か二時間、共に集まって交わりを持つというのは、本当には喜びとリラックスの時であるはずです! 新たな活力を得て、やる気を奮い立たせ、新しい週の戦いに備えてエネルギーを充電し、力をつける時であるはずなのです!
マルコ6章7-13節には、イエスが弟子達を、人々に証しをするために送り出すところが書かれていますが、証しというのは大変な仕事で、彼らが奉仕(サービス)を終えた時には、30-31節にあるように、「使徒たちがイエスのもとに集まってくると、イエスは彼らに、『あなたがたは、人を避けて静かな所へ行って、しばらく休むがよい。』と言われた」ほどでした。今日でも、主のための奉仕(サービス)と、私達が新たな活力を得るために「イエスのみもとに集まり」、「人を避けて休む」ことには大きな違いがあるのです!
この聖書の節からわかる、もう一つの興味深いことは、クリスチャンがお互いに交わりの時を持ったり、主と交わる時間を取るのに、きれいな宗教の建物や、聖堂や、いわゆる「神の家」に集まる必要はないということです。キリスト教が始まって最初の200年間、キリスト教の建物というのはなく、クリスチャン達はただ、どこでも集まれるところで集まりました。イエスは、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」と言われています。−−マタイ18:20
新約聖書の時代、教会は成長し、教会の建物や「神の家」がなくても、立派にやっていました! 森やカタコンベ(初期キリスト教徒の地下避難所または礼拝所)の中で秘密の集まりを持つのを別にしたら、クリスチャンはいつも、自分達の家で集まりました。使徒パウロは、繰り返し、「あなたの家の教会」という言葉を使っています−−ローマ16:5、第一コリント16:19、コロサイ4:15、ピレモン2。家自体が教会なのではなく、「教会」が自分達の家で集まったのだということに注目して下さい!
新約聖書は最初にギリシャ語で書かれ、翻訳されたのですが、「教会」という言葉のもともとの意味を知ると、役に立つでしょう。「教会」という言葉が出てくる節を見ると、原語ではほとんど「エクレシア」となっていて、それの文字通りの意味は、「召された者、選ばれた者」、あるいは「信者の集まり」だということを知っていましたか? 神の真の生きた教会とは、神を信じ、イエスに従う真のクリスチャン−−新しく生まれ、救われたキリストの体−−のことであって、建物や宗派のことではないのです!
「教会」という言葉の本来の意味は、今日その言葉が持つ意味合いとは全く違っています。現代人に「教会」とは何のことかと尋ねたら、彼らが最初に頭に描くのは、「教会の建物」でしょう! けれども、教会は決して建物のことではありません! 教会とは、人々、真の信者の集まりのことで、コンクリートや鉄骨からなる、生命のない建物のことではないのです! また、何十万ドルものお金を無駄に使って建てられた大聖堂のことでないのは、言うまでもありません! そうした多額のお金は、世界中の、イエスを知らない何十億もの人々に、福音を宣べ伝えるために使うこともできたし、また、貧しい人々に、食べ物や服や住まいを与えるために使うこともできたはずなのです!
しかし悲しい事に、教会は次第に建物に興味を抱き始め、この世での自分達の目的やゴールを見失い始めたのでした。そして徐々に、教会は、世界の人々をイエスへと勝ち取ることではなく、建物−−又、一週間に一回その建物に通うこと−−に重点を置くようになりました。教会にとって、何と悲しい変化の時だったことでしょうか! その頃までは、初代教会のクリスチャン達は本当に立派な仕事を成し遂げていたのです。けれども、彼らが土地や建物を得ることばかり考えるようになってからというもの、彼らは教会の真のゴールを見失ってしまったのです。福音を聞いたこともない何千万というさまよえる人達を、イエスへと勝ち取るというゴールを!
例えば、「キリスト教国」であるはずのアメリカにある教会で、福音を宣べ伝える宣教師を援助するために費やされている額の平均が、教会の全収入のたったの5%だということを知っていましたか?その一方で、55%が、新しい教会の建物を建てたり、古い建物を維持したりするために費やされているのです。毎年、何千万ドルものお金が、新しい教会の建物を建てるのにつぎ込まれています。しかしそれは、教会に行く人の数が増えたためではありません。それどころか、今ある建物いっぱいに人を集めることさえできないでいるのです! それなのに、より大きく、凝った、豪華な建物を建てるために、巨額のお金が使われており、愛と救いについての神の教えを、この世のさまよえる人々に伝えるのは、なおざりにされています!
そうした何千万ドル、何十億ドルものお金があれば、世界の宣教の地においてどれだけのことが成されたであろうか、考えてもみて下さい! けれども、実際、そのお金は、福音に飢えてさまよう人々のためには使われていないのです! 教会がそのお金を、世界の人々に福音を宣べ伝えるために使い、宣教師を援助したり、文書を印刷したりし、さまよえる人々に、神の愛や真理をもたらしていたなら、今日の世界は、全く異なった場所となっていたことでしょう! しかしそうではなく、数え切れないほどの国々において、何千万ドルもかけたような巨大な聖堂や凝った建物のあるすぐ隣に、貧しく、抑圧された、栄養不足の人々の住むみすぼらしい小屋があったりします。「兄弟達よ、このような事はあるべきでない。」−−ヤコブ3:10
教会が、毎週教会に通いなさいと要求するので、世界の人々は間違った考え方を植えつけられ、教会の建物に行かない人はクリスチャンではないと考えています。多くのいわゆる「罪人」ががっかりして、「私はクリスチャンにはなれない。仕事のせいで日曜日も働かなければならないから。」と言うのを何度も耳にしたことがあります。人々が誤って導かれ、神を喜ばすには、クリスチャンは皆、週に一度、どこかの建物に通わなければならない、と信じるようになってしまったというのは、本当に残念なことです! 実際は、新約聖書を読めばわかることですが、イエスも使徒も、クリスチャンは「日曜日に教会に行きなさい。」という命令などしたことがないのです。一度もありません!
新約聖書を初めから終わりまで読んでも、教会の建物という言葉はどこにも出てきません。イエスは、ご自分に従う者達は特定の建物、つまり、今日間違って「神の家」と呼ばれている所で集まるべきだなどとは、一度も教えられませんでした。実際、イエスは、全く反対のことを教えられました! どこで礼拝すべきかと人々に尋ねられて、こう答えられたのです。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたがこの山 (の宮)でも、またエルサレム (の宮)でもない所で、父を礼拝する時が来る。そしてそれは、今である! まことの礼拝をする者達が、霊とまこととをもって父を礼拝するのだ! 父は、このような礼拝をする者達を求めておられるからである!」−−ヨハネ4:23,24
殉教者ステパノが、自分達を迫害する宗教家達に向かって言ったように、「いと高き者である神は、手で造った宮の内にはお住みにならない」のです!−−使徒行伝7:48-50 「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたは、わたしのためにどんな家を建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか。わが手はすべてこれらの物を造った。」−−イザヤ66:1-2 主が古代のユダヤ人に宮を建てることを許されたのは、ユダヤ人が宮を建てると言い張ったからでした。(サムエル記下7:1-13)けれども、それは主が考え出されたことではなかったのです!−−サムエル記下7:5-7 その宮を建てた後でも、ソロモン王は、神がそこに住まわれてはいないことを正直に告白して、こう言いました。「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたを入れることはできません。まして、わたしの建てたこの宮はなおさらです。」−−列王紀上8:27
豪華な大聖堂や宮や教会の建物はすべて、中に人がいなかったら、もぬけの殻にすぎません! 建物が「神の宮」なのではありません。なぜなら、神の住まわれる真の宮とは、人の心−−あなたの心、つまり主を知り、主を愛している人みんなの心−−だからです! −−第一コリント3:16-17、第二コリント6:16、黙示録3:20 聖書を読めば、神が住もうとなさるのは、死んで冷たく、生命のない建物の中ではなく、人々の心の中だということが明らかなのです!
だからといって、霊的に養われ、活力を得、団結して祈るといった交わりを定期的に持つ場所のために、クリスチャンが建物を所有したり、借りたりするのがいけないと言っているのではありません。個人の家では、みんなを招くには大きさが十分でないことが多いからです。
教会の建物も、週に一度だけではなく、常時使うのなら、神の栄光のために最大限に使うことができます。メンバーが日々、神の言葉を勉強し、またいかにクリスチャンとして生活するかや、いかに他の人に証しするかを学ぶための場所として使えるのです。しかし残念なことに、ほとんどのクリスチャンは、週に一度しか霊的に養われていません。また、週に一度集まった時でさえ、真の霊的なトレーニングや世話という点からすると、教会のリーダー達は、集まったクリスチャン達にほとんど何も与えていないのです。こうした悲しい状況のゆえに、多くの誠実な教会のメンバーは、主を愛してはいるものの、どうやって主に仕えるかとか、どうやって他の人を主へと導くかということに関しては、何も、あるいはほとんど知らないのです!
事実、多くの教会では、牧師や司祭が、教会に集まったクリスチャン達を真に霊的に牧したり、トレーニングしたりしていないので、多くの人は、自分を霊的にどのように世話したらいいかさえも知らないのです! 彼らは、いかに神の言葉によって自分の心を養うかも知らないし、ましてや、教会に属さない人々をいかに養い助けるかに至っては、何一つ知りません。何と残念なことでしょう!
イエスは、「全世界へ出ていって、すべての人に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われましたが、それは、イエスに従う者は皆、イエスの教えを広めるためにできるだけのことをしなさいという意味でした。仕事や、他のすべき事があるかもしれませんが、少なくとも自分の家族や友達に、自分がどうやって救われたかという、良き知らせを話すことはできるはずです。でも、人々がそうするように教えられていなかったら、あるいは、そうするのが彼らの義務であり、彼らがそうするのを、神が望んでおられるということを聞いていなかったら、キリストの命令に従うことを、どうして彼らから期待できるでしょうか? 彼らが、自分で聖書を読んで、自分の羊飼いである牧師が、自分達に真実を告げていなかったということを悟り、彼らの霊的なリーダーのひどい手本にもかかわらず、一歩踏み出して、他の人にイエスについて話し始めるほどの、信仰と勇気と率先性が彼らにあるのでなければ、そんなことは期待できないのです。
今日の教会クリスチャンのほとんどは、教会に定期的に出席することの重要性を教えられており、また教会に対して寛大な援助を捧げるように言われているのも確かですが、教会の建物の外にいる困っている人を助けるために、自分の信じていることを証しするにはどうしたらいいかということを教えられた人は、何人いることでしょうか? 神に感謝することに、救いの教えや神への奉仕について実際に説いている教会も中にはあり、さまよえる人々に福音を伝える宣教師を何人か援助している教会もあります! でも問題は、ほとんどの教会がそういうことをしていないということです! あなたの教会はどうですか? そして、あなたはどうですか?
初代教会のクリスチャンが、実行して本当にうまくいった本来の計画とは、真の信者が皆一つになるというものです。ただ、教会の建物の中で一つになるのではなく、主を愛し、活発に主に仕え、救いという良き知らせを、他の人々に伝えるという共通の大義のもとに、一つになることなのです! 私達は、それを手本として、私達の宣教の仕事を形作ってきました。
初代教会と同様、私達は、お金の浪費である教会の建物や、高額の広い土地や財産を持っていなくても、クリスチャンが今でも、イエスの最初の弟子達のように信じ、福音を宣べ伝え、そして神を最優先し、主に仕え、他の人に証しすることに自分達の心、人生、時間、お金を注ぎ込みながら生きていくことができるということを、過去20年間、立派に証明してきました! 何千万人にものぼる私達の改宗者は、イエスからしか得ることのできない愛や、平安や、真の満足感や、永遠の救いを見つけてきましたが、そのすべては、贅沢な、何千万ドルもかかるような無駄な建物がなくても得られたのです! 私達が、世界の人々に、真の愛と救いに関する神の教えを伝えるのに必要なものは、イエスとイエスの言葉と、何でも喜んでしようという心だけだということを、神の助けによって、20年間にわたって証明してきました! ハレルヤ!
あなたは、イエスのために生きていますか? あなたが主の愛の真の見本になれるように、あなたは、どこにいようと、あなたの内にいますイエスに輝いてもらっていますか? それとも、あなたのキリスト教は、いわゆる「教会の建物」の中に閉じ込められてしまっていますか? いつも行動している生きた教会の一部として下さいとイエスにお願いしてはどうでしょうか! 「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ‥‥神に喜ばれる」ように。−−第一ペテロ2:5