GN583--DFO

 

 1. 「神は人をかたよりみない方!」

 6. 人種差別を学ぶ子供達

  8. 偏見と分け隔てすることについての節

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「神は人をかたよりみない方!」

−−使徒10:34  1/94

−−マリヤより   DFO

 

  1.最近、オーストラリアにいるファミリーの子供達の中に、そこのアボリジニに対して悪感情を抱いている子たちがいると聞いて、残念に思いました。ただダッドが「香港グーラゴン」(ML#980)で、オーストラリアのアボリジニ(オーストラリア原住民)の間で妖術や悪霊つきがはびこっていると書いたからというだけで、哀れなアボリジニ達をさげすんでもいいんだと解釈するべきではありません! 私達が悪霊つきのことについて聞いたら、悪魔が彼らをそれほども支配してしまっていることを悲しみ、彼らのために祈り、気の毒に思うべきであって、彼らが悪霊に取り付かれるのを許してしまったからというだけで、嫌悪するべきではありません。私達だって、彼らの状況にいたなら、おそらくそうなってしまっていたことでしょう。だから、「神の恵みがなかったら、私も同じ状況に陥ることだろう!」という態度を取るべきです。

  2.敵のワナに陥ってしまった人たちに対して、彼らが救われるよう、福音と真理を与えようと最善を尽くす時に、私達は愛と親切心をもって接するべきです。「主の僕たる者は争って(喧嘩腰になったり、論争したりすること)はならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。」−−2テモテ2:24-26。

  3.また、ダッドは、オーストラリアのアボリジニが全員悪霊に取り付かれていると言った訳ではないことを覚えていて下さい。けれども、その人たちは、もう何百年も前から、霊的な暗黒と悪魔主義に入り込んでしまっているので、悪魔から強く影響されている人たちが大勢いることは十分考えられます。けれども、主からすれば、その状況については、彼らよりも、彼らに福音をもたらさなかった人達のほうが罪ありとされるかもしれないという事も頭に入れておくべきです。後者は、悪霊に取り付かれてはいなかったでしょうが、「貧しい者に福音を宣べ伝え、心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ…すべての悲しむ者を慰め、灰にかえて冠[英語では、「美しさ」]を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂の心にかえて、さんびの衣を与える」(イザヤ61:1-3)事をしなかったために、「より大きな裁き」を受けることでしょう。

  4.その一方で、アボリジニが、またこの点については誰であれ、福音を知らされたのに拒むなら、人を正しく導くために光がこの世に送られたのに、光よりも闇を愛したために、その光を拒んだことにより、裁かれるのです。光を受け入れるのを拒む人はすべて罪に定められます。(ヨハネ3:19-21参照)

 

体制の人種差別の見本にならうべきではない!

  5.政府の差別政策や弾圧や迫害から、個人の無神経な冗談や敵意のこもった振舞いに至るまで、体制は絶えず少数人種や少数派宗教グループ(私達も含めて)やあらゆる種類の少数派を差別していますが、だからと言って、私達もそのお粗末な手本に従う必要はありません。白人でない人々に対するオーストラリアの人種差別の歴史や、今でも至る所で見られるアボリジニに対する偏見に満ちた態度を考えてみれば、そこの私達の子供達の一部がその態度に陥ってしまっているのも理解できます。

  6.私は、WSの調査係達に、オーストラリアでの人種関係についての歴史を調査するよう求めました。彼らの集めた情報から、アボリジニに対する政府の待遇は、とても理想的とは言えない事が明らかでした。それらの情報は事実をかなり明らかにしていると思います。例えば、「オーストラリアはまず人権問題の解決を急げ」と題された1993年4月付のロイター通信の記事は以下のような内容です。

 

  「オーストラリアは、アジア−太平洋諸国からの尊敬を望むのであれば、自国の人権問題を解決しなければならないと、新しく就任したニック・ボルカス移民局長官は、月曜に、シドニーで開催された、人種差別に関する第一回アジア−太平洋諸国連合会議で以下のように語った。『わが国が、自国の問題も解決できないまま、他国の問題を独善的に非難するのであれば、諸国からの信用確立は困難である。』 ボルカス長官は、先住民を弾圧するオーストラリアのお粗末な人権の歴史によって、アボリジニは貧困に悩み、慣例化している差別主義に直面している、とも述べた。」

 

  7.私達の調査係は、オーストラリア政府が近年になるまで、「白豪(ごう)(白人優位)主義」移民政策を推進し、白人以外の人種がオーストラリアに定住するのを大幅に禁じていたことを報告してくれました。第二次世界大戦中に、オーストラリア北部のダーウィン市が日本軍の爆撃を受けたため、米国の部隊が、オーストラリアを防衛するための援軍として上陸した時にさえ、オーストラリアの移民局の係官は黒人の米軍兵士の入国を拒否したそうです!しかし、ついにオーストラリアの戦時内閣が緊急会議を開き、黒人入国禁止令は、オーストラリア防衛のために上陸する黒人米軍兵のために一時的に施行停止にされることを決定しました。同国の「白豪」移民政策は、1970年代に至るまで断固として貫かれたのでした。

  8.「タイム」誌は1992年5月に、「オーストラリア:自らを探る」と題された記事で以下のように書いています。

 

  「オーストラリア政府は、1976年に白人移民だけしか受け入れないという政策を放棄したものの、アジア人の心には、何十年にも渡るオーストラリアのゼノフォービア[外人嫌い]が記憶の中に深く刻まれている。香港やマレーシアのTVでは、オーストラリアはよく、人種差別の国として描かれている。その一方で、オーストラリアは今でも、連邦政府の女王の代理であるビル・ヘイドン総督が最近、『東洋のファンタジー』と呼んだ、エキゾチックでエロチックで暴虐的なアジア人という古くさいイメージをぬぐい去れないでいる。」

 

  9.1993年に、人権擁護監視組織である国際アムネスティーが、オーストラリア全土で、刑務所に入れられるアボリジニの割合は、他のオーストラリア人よりも17倍も高いと訴えています。西オーストラリアやビクトリア州では、それが何と27倍にのぼるのです。アムネスティーはこう報告しています。「アボリジニの人々は、地元の多くのパブでもホテルでも歓迎されず、酒類販売免許を持つ自分達のクラブもない。しかし、町で彼らが酒を飲み、他の人々とつきあうと、警察に捕まるのである。」 ニューサウスウェールズ州では、下劣で侮辱的な言動を禁じる法律が、アボリジニを投獄するために乱用されていたと、その報告は付け加えています。

  10.ワールドブック・エンサイクロペディア(百科事典)にさえ、こう書いてあります。「現在、アボリジニには正式にオーストラリア市民となったものの、その大半は未だに、日常生活での差別や偏見に直面しており、経済的にも、社会的、かつ政治的にも恵まれていない。」

  11.というわけで、私達のオーストラリアの子供達の一部が、アボリジニに対して、愛に欠け、偏見をもった態度を持っていることはそれほど驚きではない一方で、クリスチャンである私達は、人種や宗教にかかわらず、すべての人に同じ愛と思いやりと気づかいを抱くべきです。神の御言葉である聖書はこう告げています。「神は人をかたより見られる方ではない。」 これはまさしく、「神は分け隔てしない!」ということです。−−使徒10:34。

  12.けれども、体制では、オーストラリアにとどまらず、偏見や差別が根強い国が少なくありません! ほとんどすべての国で、貧富や、教養のある者と無学な者、優勢な人種と少数人種、主流宗教とより小さな差別される宗教との区別が明確につけられています。主流の「現代の風潮に合わせて正しい」多数派というのは、たとえ人々から嫌われようとも多数意見に反対して確信を貫くことを選んだ少数派の勇敢な人々をけなし、さげすむのです。

  13.ボスニアは、現代世界に横行する人種的かつ宗教的な恐ろしい差別と憎悪の、何よりの見本です。終わりの時について、聖書には、「多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)と書いてあり、社会はますます憎悪に満ちているのです。報道機関は、多数派とは異なっていたり、異なる見解を持つ人々に向けられた偏狭(へんきょう)や残忍さやヘイトクライム(偏見や差別による犯罪)といった見出しのニュースで占められてきています。

  14.私達は、異なる人々に対する社会の扱いによって影響されたり、それに陥ってしまってはいけません。神は私達によりよい方法を与えられました。それは互いに愛し合うことです。他の人達と接する時には、「うわべで人を裁かないで正しい裁きをする」べきです。−−ヨハネ7:24。何かの状況や誰かのことについて悪い事を聞いた時に、その状況あるいはその人の内に何か良い所があるかもしれないという可能性をさっさと否定するなら、私達は、一部始終を聞く前に答え、あるいは裁いているのであって、「愚かであって、恥をこうむる」のです。−−箴言18:13。兄弟の皆さん、こうあるべきではありません! あなたがたは自分にしてほしいと思うことを他の人達にもすべきです。

  15.何かの状況や個人やグループについて何か悪いことを聞いたからと言うだけで、それに基づいて結論を下してしまうのは賢明ではなく、たいていは正しくありません。これは、例えばファミリーの誰かの問題について、たった一つの情報源から聞いただけで、その人がただ一時的に経験している困難な時期や試練の時のことに基づいて、その人のことを全体的に判断してしまうのと似ています。残念ですが、ファミリーでもこれは頻繁に起こっており、何かの一時的な問題について聞いただけで、本人にレッテルを貼ってしまうことがあまりにも多すぎるのです。これは大変悲しいことですし、軽率で不公平な判断をしてしまう人々にとって不名誉なことです。

 

罪びとを愛し、罪を憎め!

  16.ファミリーにさえ、一時的に悪霊に取り付かれたり、控え目に言ってもかなり影響を受けた人達がいますが、罪を憎んでもその人達は愛し、その人達が解放され、幸せになり、正気になれるよう、悪霊を取り除くためにできる限りのことをしてあげました。イエスが悪霊つきに遭遇(そうぐう)した時には、何かされました。悪霊を追い出されましたが、その人を取り除かれはしませんでした。主の目的は、その人を救い、罪を取り除くことだったからです。主は罪を取り除かれましたが、罪びとを取り除かれはしませんでした。この両者に明確に区別をつけておられたのです。

  17.私達はこの区別を常にはっきりさせる必要があります。特に子供達に対してはそうです。罪のせいで、罪びとに対する愛が打ち消されるべきではありません。「愛は多くのとがをおおう」からです!−−1ペテロ4:8。私達は罪によってすべてを判断すべきではありません。聖書には、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3:10)とあります。だから、私達皆が持っている罪を越えて、私達皆が持っている良い所も見なくてはいけません。完全にすべて悪いという人はいないし、完全に悪いものというのはありません。私達は人々や状況の内に良い事や可能性を探さなくてはいけないのです。

  18.私達が人々をいかに主に勝ち取ってきたかを考えてみてください。私達は彼らに優しく求愛し、愛と可能性を見る目をもって彼らを見ようとするのであって、彼らを神から隔てている恐ろしい罪のゆえに罵倒(ばとう)したりはしませんね? 私達は神の御子イエスを通して、彼らと神とのかけ橋となるよう伸ばしておられる神の愛のこもった御手を強調しています。イエスは、「世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるために」来られたのです。−−ヨハネ3:17。

  19.ですから、たとえアボリジニが悪霊崇拝や悪魔崇拝というワナに陥っているとしても、それでも私達は罪と罪びととの区別をつけなくてはいけません。罪は憎んでも、罪びとは愛さねばならないのです。そして、誰かが黒人であろうと、白人であろうと、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、仏教徒であろうと、ヒンズー教徒であろうと、何であろうと、関係ありません。主が嫌われるのは罪であって、人種でも、肌の色でも、社会的地位でもないのです!

  20.希望マガジンに載っていた、ティーンの証し人達が、二人のホモセクシュアルに会って証ししたストーリーでも、私達は罪と罪びとに区別をつけました。そのストーリーの最も重要なポイントは、私達の若者達に、ソドミーは罪であっても、ホモセクシュアルの人自体は人間であって解放されることができること、またイエスは彼らを愛し、救いだしたいと思っておられることを教えることだったのです。ダッドがソドミーの罪にかなり強く反対しておられることを言われたことを、私はよく承知しています。けれども、ダッドが、ソドミーの霊に病んでいる人達と一緒に座り、優しくその人達に証ししているのを見たことがあります。彼らの悩みを聞いてあげ、励ましとなる御言葉を分け合い、彼らの問題に対する理解を示してあげたのです。

  21.ですから、私達はぜひとも、この罪と罪びとの違いを理解し、子供達に教えねばなりません。この原則は、私達が証しする刑務所の犯罪人すべてにもあてはまります。罪がいかに重くとも、彼らがイエスの元に来るなら、イエスはゆるして下さるでしょう。イエスは、「誰でもご自分を信じる者」に愛を提供しておられるのです! 彼らはただ受け取ればいいだけです。

  22.罪びとを愛するよりも罪を呪うほうにもっと強調をおき始めるなら、赤信号です! 神はきびしい手段をとられる前に、まず、人々を愛して御国に導き入れるようと、できるだけの事をされます。あなたをイエスに勝ち取ったものは何でしたか? 自分の罪が一つ一つ暴露されて、「汚く、腐った罪びと」と言われたからですか? 自分がしたすべての過ちのゆえにけなされ、批判され、責められたからですか? それとも、過去に何をしたとしても構わない、あなたを深く愛している、素晴らしく、愛に満ちた父がおられ、天のご自分のおそばにあなたの場所を作って、あなたがご自分と共に幸せと安らぎの永遠の時を過ごすためにはどんな代価を払うのもいとわないでおられる、と言われたからではありませんか? この事を覚えていて下さい。「まだ罪人であった時、私達のためにキリストが死んで下さったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである。」−−ローマ5:8。

  23.人々が私達から愛されるようになるには、まずその罪から解放されなくてはいけないとしたら、一体誰が愛されるようになるでしょうか? 私達が罪に基づいて人々をふるい分け始めるなら、誰が残るでしょうか? 「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、誰が立つことができましょうか。」−−詩篇130:3。神の愛なしには、私達全員が無きに等しい者です。私達を救えるのは神の愛だけです。

  24.神の預言者として世界にその邪悪さを警告し、その罪を告げ、悔い改めるように警告し、神の裁きを預言しなければならないのは真実です。しかし、神は罪に対する憎しみを説かれる一方で、私達一人一人に対してされたのと同様、罪びと一人一人に対して大きな愛を示しておられます。、

  25.ところで、「罪を憎んで人を憎まず」という言い回しはファミリーが元祖ではありません。昔からある言葉です。実際、聖書が教えていることです。私達自身の子供達に対しても、彼らを深く愛する一方で、彼らの罪に対しては断固とした立場を取ることができます。その罪のゆえに子供達を叱ったり懲らしめなくてはいけなくとも、子供達への愛のゆえにあなた達は胸が張り裂ける思いがすることでしょう。

  26.ですから、子供達に、誰も見下してはならず、神が憎んでおられるのはその罪なのだと認識するよう教えなくてはいけません。そして、罪びとに救いの手を伸ばす時に、必要もないのに、その罪に対する神の嫌悪を示すことは、必ずしも私達の仕事ではありません。人によっては、もしかしたら、その罪を私達が快く思っていないことを示さなくてはいけないこともあるかもしれませんが、いつもそうとは限りません。私達が愛の内に彼らに接し、神の愛と彼らの罪全体に対するゆるしが受けられることを伝えるなら、たいていは、具体的に罪を厳しく非難する必要はないのです。罪に対する神の憎悪ではなく、罪びとに対する神の愛を私達が示せるなら、そちらのほうがはるかによいのです。

  27.大人である私達は、罪と罪びととを混同して、語っているのは罪についてであって、その気の毒な人達ではないということを明らかにしないまま、その人達について非難がましく語らないよう気をつけなくてはいけません。私達は頭の中でその区別がついていても、子供達はそうではないことがよくあります。彼らは、何もかも一緒くたにして、大人が見下し、軽蔑し、反感をもって、批判的に、あるいは非難的に話している人達に対して偏見を抱くようになるでしょう。私達は神の愛のファミリーであって、世界に神の愛を示しています。ですから、反対の印象を与えないよう細心の注意を払ったほうがよいでしょう。

 

(少し後で:)

神は万人を平等に愛される!

  28.ファミリー・メンバーの中に、他の人達を実際ほど良いように見ない人達がいると聞いて、とても悲しく思っています。また、子供達に、神は様々な人々を創造され、彼らをすべて愛しておられ、私達には優越感を持つ理由などないことを教える代わりに、私達は他の人達よりも優れているという印象を与えていると聞いても悲しく思います。誰かに対して少しでも「優位」なところがあるとしたら、それはただ神の恵みのおかげで、主がご自分の仕事をするために私達を選ばれ、仕事を行うための力と技能と御言葉の知識を授けて下さったからにすぎません。

  29.けれども、神の偉大なる愛と恵みは、主の創造物すべてに平等に注がれます。神からより多く愛される人と、より少なく愛される人を造られもしませんでした。神は、色白で金髪の人を最も愛されるように定めたり、褐色の肌の人はより少なく、黒い肌の人はさらに少なく愛されるように定めてはおられません。だから、私達が他の人達に、そのような偏見や軽蔑や、見下した態度を示すなら、神はたいそう心を痛められるに違いありません。

  30.私達は、ファミリーではいかなる偏見も差別も存在しないことを世間に伝えようとしているのに、それでは反対ではありませんか。私達はすべての人を同様に愛するべきです。イエスがすべての人のために死なれ、その命を捧げられたというのが、私達の信条です。イエスがユダヤ人のために命を捨てられ、また異邦人のためにも捨てられたというのに、一方を他方よりも愛することができるでしょうか? イエスはその両方のために死ぬことで、最高の愛を示されたというのに。

  31.私達の子供達が、特定の人達に偏見と軽蔑の態度をとるなら、私達はこの面の訓練に失敗していると言えます! そして、直ちにその状況を正したほうがいいと! 私達に対して、そのように偏見的な態度をとらないでほしいと他の人達に言っておきながら、私達自身がそのような態度を示しているのですから!

  32.私はユダヤ人の友人や弁護士を、クリスチャンの友人や弁護士と同様に愛しています。ユダヤ教の「思想」にはそれほど賛成できず、それが好きではないかもしれませんが、ユダヤ人の大半はイエスが神の御子ではないという誤った教えを受けてきたのです。けれども彼らのためにもイエスは死んで下さったのですから、私達の異邦人の友人に望んでいると同様、彼らにもイエスを知ってほしいと心から願っています。私の心はユダヤ人の友人達を深く思い、異邦人の友人に対するのと同じぐらい、あるいはそれ以上に深く思っているほどです。その多くがずっと昔から、イエスに反対する教義を教え込まれてきたがゆえに、彼らにっとて、イエスを信じるのはたいてい生やさしいことでないと知っているからです!

  33.そればかりか、私達のために戦ってくれているユダヤ人の弁護士達に対して特別な称賛さえ抱いています。彼らは、幾つかの主要な事柄について私達に同意していないにもかかわらず、私達に親切で、私達の信じることや生き方を尊重してくれているからです。彼らは、私達がなるべき良いお手本でもあり、称賛に値します。宗教の自由など、彼らが戦っている原則と、私達のクリスチャンとしての信条のような、彼らが完全には賛成はできない、依頼人の特定の信条とを区別しているのです。彼らは私達の教義に同意できず、好きでもないかもしれませんが、それを私達が実践する権利のために喜んで戦おうという気持ちがあるのです。神が彼らを祝福されますように!

  34.メナヘム・ベギンやアリエル・シャロンやイツハク・シャミルなど、現代世界で高い地位にある何人かのユダヤ人について話す時に、そのような愛や思いやりがあらわれないのは、彼らがいたく強情で、他の人達に残忍なことをし、それでいて、神の選民だと主張するほど偽善的で独善的だからかもしれません。彼らの場合には、罪と罪びとの区別をつけるのが少々難しいのです。けれども、イエスは彼らのためにさえ死なれ、彼ら全員が悔い改めることを願っておられます。イエスは、これらの人々でさえ、一人でも滅びることを喜ばれないのです。(2ペテロ3:9)

 

万人のための神の愛と、従順な者に対する報酬!

  35.神が私達を非常によく世話され、ほとんど甘やかさんばかりであるために、私達は人によって、受け取る神の愛のレベルが異なるに違いないと考えたくなることがあるかもしれません。しかし実際には、神はすべての人を平等に愛しておられ、一人一人のためにその御子を与えられたのです。

  36.あなた達が親であれば、自分の子供達全員を心から愛し、一人一人に同じだけ与えることでしょう。住む所、暖かく暮らせること、服や関心など必要なものを子供全員に与えます。それぞれの必要に応じて、できる限りのことをしてあげることでしょう。それぞれの子供のために自分の人生を捧げるのです。それぞれ違いはあっても、一人一人に惜しみなく愛を注ぎます。

  37.けれども、もしその中でとりわけ親と親密で、一生懸命親を喜ばせ、従おうとする子供がいれば、その子供または子供達に、より沢山の感謝と称賛を与えることでしょう。別に命令されたわけではないのにそうしてくれ、親がしたことに対して愛と感謝を一生懸命表してくれたからです。

  38.主のために生き、主のために人生を犠牲にしようとしている主の献身した子供達に対して、主はこのようにしておられるのだろうと思います。主は、ご自分に対する彼らの愛のゆえに報いて下さるのです。けれども、大まかに言えば、主は彼らを余分に愛しておられるというわけではありません。もともと主はすべての人のためにご自分の命を捧げられました。それ以上の行為などありません。それよりも大いなる愛などあるでしょうか? しかし、とりわけご自分を愛していることを主が知っておられる人には特別な報酬を与えられます。けれども、主が従順な子供達に与えられる祝福や報酬は、すべての創造物に対する神の愛や、すべての人が悔い改めに至り、主とその天の御国を永遠に楽しむことができるようになってほしいという切実な願いとは切り離して考えなくてはいけません。

 

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国際エイズの日に奉仕する

  (国際エイズの日の催しで、パフォーマンスするようにと、赤十字によって招待されたタイのファミリーに対するママのコメント。)

  39.赤十字が主催している国際エイズの日でパフォーマンスするようにとの招待をあなた達が受け入れたことを私達は喜んでいます。拒否するなら、あなた達の友人達は理解に苦しんだことでしょう。私達はエイズを人々の罪に対する神の裁きと考えているものの、それでも罪びとを愛しており、一部の人達を勝ち取れるかもしれません。それに、エイズはホモセクシュアルの人達だけでなく、その他の人達もかなり大勢かかっています。

  40.ですから、あなた達が要請を受け入れたのは正しい選択だったと思います。エイズが神の裁きだからと考えて拒否するなら、地震が起こった時に、そこにいる人々が邪悪で、神が彼らへの裁きとして地震を使われたという理由で、その被災地に行くのを拒否するようなものでしょう。

  41.ソドム人達がエイズ患者の中で大きな割合を占めているからといって、私達がそのような催しで奉仕するのがソドム人を是認している事にはなりません。ですから、主をほめたたえましょう。私達は、主が扉を開かれるなら、いつでもどこでも証しになれるのです!

 

失われ、死にかかっている人に証しする!

  (フランス人フィービが、ファミリーにジョインする前にメイトだった人がエイズで死にかかっているため、彼を訪問したいというリクエストを出したことに対するママのカウンセル:)

  42.人生のあらゆる事と同様、それをするにも危険が伴いますが、死にかかっている人に証しするために、主はあなたを保護して下さると私は確信しています。あなたの動機が純粋であって、自分の命や健康が危険にさらされるのはできれば避けたいと願っているものの、このかわいそうな人が最後の証しを受けられるよう、主のためにそれをしたいと思っていることを私達は知っています。主は絶対にあなたを守られると思います。ただ、彼にキスしたり、自分の顔に息を吹きかけられたり、咳をされたりするのを避けたほうがいいでしょう。また、歯を磨いてやったり、髭をそってやったりまではしないほうがいいでしょう。

  43.そのような訪問には常に危険が伴うことはわかっていますが、あまりにも心配しすぎて、死にかかっている誰かに証しするようにとの主の導きに従えなくなるのはよくありません。世界中にいる親愛なる看護婦達は、ただ人が苦しんでいるのを見て、それを和らげるために何かしたいと思うがために、犠牲を払っているのです。それなら、クリスチャンでイエス・キリストの大使である私達はなおさら、少々危険に身をさらしてでも、孤独で絶望にうちひしがれて死んでいこうとする人に主の愛を分け与えようという気持ちを持っているべきではないでしょうか? もちろん、敵は私達を攻撃しようと躍起(やっき)になっているので、とても祈り深くしなくてはいけないのは確かです。けれども、神は敵よりもはるかに大いなる方で、私達が主とその御心に近くとどまっているなら、主の保護が約束されています。

  44.私達は、こんなことは言えないのではありませんか? 「この人は邪悪で罪深いに違いない。死にかかっているのは、神の裁きだ。だから、罪の内に死ぬにふさわしい。悪すぎて神にも救いようがなく、神は彼を愛していないに違いない。彼がそんなに悪いのに、どうして神は彼のためにイエスを送って死ぬようにされたのか?」 イエスが死なれたのはまさしくそのような人達のためです! 罪びとのためです! あなたも私もその仲間です! イエスは、義人ではなく、罪びとが悔い改めるように来られました! 罪のゆえに死にかかっている人達こそ、神のゆるしを受け入れる可能性が十分あります。ですから、孤独で死にかかっている人の呼ぶ声に答えないでいることなどできるでしょうか? 彼の罪は大きすぎるという事ができるでしょうか?神はそうは言われません。危険が大きすぎるという事ができるでしょうか? 神はそうは言われませんでした。イエスは言われました。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわそう。」−−ヨハネ20:21。御言葉にはこうあります。「キリストも、御足(みあし)の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」−−1ペテロ2:21。それを考えてみて下さい。

  (−−アァメン!−−D)

"GOD IS NO RESPECTER OF PERSONS!"--JAPANESE.

 

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人種差別を学ぶ子供達

ボブ・トレビルコック

「レッドブック」、1993年10月

 

  最近のトップニュースや毎晩のニュースを考えてみよう。人種暴動や、十字架を燃やす、殴打するなど、まるで1960年代が戻ってきたかのようだ。

  1993年の今になっても人種的憎悪が健在であるばかりか、さらに悪質になり、子供達の成長に悪い影響を与えている。教育者が日常茶飯事とさえ言うほど、高校での人種的暴力事件が急増している。

  「生徒の座る席の差別は撤廃しても、心の中の差別はなくならない」と語るのは、昔から人種的トラブルが続いているカンザスシティー教育委員会の人間関係主任のミラス・「ドク」・バスである。

  アラバマ州モントゴメリーにある南部貧困法律センターによれば、1990年の5月から1992年の5月までに、ヘイトクライム(偏見や差別による犯罪)が212件発生している。しかもその数字はさらに増加の一途をたどっている。1992年の上半期の発生件数は、1991年の同期の4倍である。あらゆる地域で、あらゆる経済的な階層で、あらゆる学校で、白人が多数であろうと、黒人が多数であろうと、あるいは半々であろうと、関係なく発生しているのだ。人種的対決は大半が黒人と白人の間でだが、ティーンエージャーが関与するヘイトクライムは、ユダヤ人やスペイン系、アジア系の者達及びホモセクシュアルに対して向けられている。

 

私達は人種差別主義者を育てているのか?

  研究によれば、子供の人種的自覚は大勢の両親が考えるよりも早い時期に始まっている。子供達は、2歳にして人種に違いがあることを知り、6年生になる頃には、それを十分認識するのである。

  無論、ただ認識するだけなら、有害ではないと、専門家は言う。それが攻撃的になると問題なのだと。グアテマラ生まれでマサチューセッツ州のアトレボロ高校に通うグラディスは、9年生(日本の中学3年生)になるまでは人種間の対立について気づいていなかったと言う。白人が大半を占める彼女の学校が、人種問題から生じた学生間の喧嘩によって、分裂してしまった後で、彼女はこう語っている。「学校の雰囲気全体が、寛容から憎悪に変わってしまったのを感じたの。」 彼女が長いこと友達づきあいしてきた二人の少年は髪の毛を剃り、スキンヘッドになってしまった。「あの人達の目をまっすぐ見る事もできなくて。」と彼女は言っている。

  実は、思春期こそ、人種的不和が始まる時である。ティーンエージャーは、自己について不安定であるために、何かのグループの一員として受け入れられることを求めることがよくある。皆が同様であることを要求し、「外部者」を遠ざけるグループである。それを考慮するなら、1990年に、様々な人種の1,865人の高校生を対象に行ったルイス・ハリスの調査からの、愕然(がくぜん)とさせられる報告も説明がつくかもしれない。その調査結果によれば、30%が、「暴力的な人種的対決を見たら、攻撃側の味方につく」と言い、17%が、攻撃されているグループは攻撃されて当然だと直ちに結論づけると答えている。

  人種融合に対する親の不安は、子供がティーンエージャーになると、さらに目立って来ると、ハーバード大学医学部精神科のアルヴィン・F・ポーセント医師は語っている。「親は、わが子が別の人種の友達を作っていることに気づいている。これは、わが子が思春期を迎え、デートするようになると、警戒心に変わる。黒人は危険で、悪く、不潔で、汚らわしいというイメージが社会にできあがっているからだ。白人の親は、子供が黒人とデートするのを望まない。家族に黒人の血が混じるのを恐れ、黒い肌の孫をほしくないからだ。」

  「25年前には、人種平等や融和に向けての着実な進歩を目指すことがアメリカの理想であるという考え方が一般的だったということを、現代の若者が教えられたかどうか、あるいはせめて聞いたことがあるかどうかも疑わしい」と、ヘンリー・G・シスネロス、アメリカ住宅・都市開発長官は発言している。「若者が聞くことと言えば、大都市犯罪に対する苦情か、郊外の住民を全部白人にする必要があるなどと言った事柄である。これでは時代を逆戻りしている。」

  ミルウォーキーのベル中学校(その地区の住民は白人がおもだが、生徒の大半が黒人の学校)に通う、白人で13歳のアンジェラは、学校では黒人の友人が沢山いるが、家庭ではその友情に水をさされている。「私の両親は、黒人の友達を信頼するなと言うの。」と、アンジェラは言う。同じ学校に通う、白人で14歳のライアンは、住民の大半が白人の地区で、ある家のガレージに泥棒が入った時のことをこう語っている。

  「大人はすぐに、『多分、黒人がやったんだろう。』と言ったんだ。警官までね。ママに、『彼らのことをよく知りもしないのに、どうして彼らのせいにするの?』と聞いたんだ。」 それから彼は肩をすくめてこう言った。「黒人はみんな悪いと、大人は思っているんだ。」

  黒人の親の中にも、子供が白人とつきあうことを同じように望まない親がいる。「私のママから、これは白人の世界なんだって、耳にたこができるほど聞かされたわ。そして、ありのままの自分の姿に誇りを持ちなさい、でも他の人達は自分に対して違った扱いをすることをしっかり覚えておきなさい、って。」 アトレボロに住む高校2年生の黒人のガリエッタは言っている。「私のパパは、私が強姦されるか、黒人としての誇りを失うか、『白人になる』んじゃないかって、心配しているの。」

  「偏見は家庭で覚えるものである。子供が親の考え方をそっくり受け継いでいることがよくある。」と、ポーセント医師は言う。「大勢の親は、自分が偏見を抱いていることに気づいてさえいない。さらに、多くは偏狭であることに満足している。彼らは、世界が当然あるべき姿になっていると考え、それが変わるのを望まない。」 何かの変化を起こそうとするなら、「最初にまず、問題があることを直視しようという気持ちを持ち、それについて何かしようと望まなくてはいけない。しかし、まだその段階にさえも至っていない親達が大勢いる。」とポーセント医師は語る。

 

帰ってきた憎悪

  現在のように人種的憎悪が猛威を振るうようになった原因は何なのだろうか? 経済も大きく加担している。景気後退によって、労働者は職がますます減っているのに、移民がどっとやって来ると心配している。「人々が、経済的利得が目減りする中で、何とか自分の取り分を失うまいと必死になると、人種間の緊張が高まる、」と、偏見と民族的暴力に関する研究センターの調査室のハワード・J・ユーリッチ博士は語る。

  しかし、アメリカには大勢の移民がいるのに、なぜ今なお憤りの大半が黒人に向けられるのだろうか? 「白人が、移民達によっておびやかされてくると、身近にいる黒人を攻撃することでうっぷんを晴らそうとする」と、ポーセント医師は語る。「さらに複雑なことに、ラテン系やアジア系の新しいグループも、白人社会で成功しつつあり、多くの黒人が仕事を取られてしまった。そこで、黒人は、これもまた自分達に対する白人の非常に根深い人種差別だと考える。」

  ポーセント医師はさらに、それと同時に若いアフリカ系アメリカ人達は、親とは異なるる期待をもって大人になってきていると語る。「私が学生だった60年代には、人種差別が公然と行われている、白人主体の教育機関に通っていた。予想はしていたし、それに耐えた。しかし、現代の若い黒人は、自分達の意見をもっと強く主張する。もはや、不平等の環境でじっと黙って座っていようとは思わない。変革を要求し、それが達成されないと、怒って声を大にして抗議する。」 そして、人種的不平等は市民権拡大という立法措置よってすでに解決されたと感じている白人は、黒人がまた要求ばかりしていると怒るのである。

  しかし、問題は経済面にとどまらない。ポーセント医師は、保守派の反動が起こったレーガン政権時代に、国家精神に冷淡さが忍び込んだと信じている。当時、政治家達は、黒人や少数人種も必ず特定の割合以上、会社や学校が受け入れることを義務づけることや、「福祉の女王達」(何人も子供を産み、それで得られる福祉手当に頼って生活する独身の母親など)を非難していた。学者や知識人の間では、正しい事が盛んに語られるかもしれないが、その他の至る所には、偏見が逆戻りしたようだ。

  「憎悪がかっこいいことで、不寛容が流行になっている。」と語るのは、ヘイトクライムの研究をしてきた、ノースイースタン大学の社会学と犯罪学教授、ジャック・レビン博士である。ラップ音楽やヘビーメタル音楽に出てくる、暴力を栄光化する歌詞や、アンドリュー・ダイス・クレイのような、「攻撃パフォーマー」のコメディーなどが憎悪の文化に貢献しており、それらを見聞きするのは若者達なのである。「60年代には、上層階級や権力者が攻撃対象だったが、現在は、その矛先が社会の弱者に向けられている。つまり、女性や黒人やヒスパニック(ラテンアメリカ系)やゲイである。」と、レビン博士は語る。

  また、攻撃はますます暴力的になりつつある。「20年前には、若い男性が酔っぱらうと、車のハブキャップを盗んだものだが、現在では、酔っぱらうとぶちのめす相手を探しに出る。」

 

子供達は友達になれるだろうか?

  以上のような問題にもかかわらず、楽観的な見方をする人々は多い。プリンストン大学のアフリカ系アメリカ人研究室主任であり、「Race Matters」の著者でもあるコーネル・ウエスト教授は、彼が「意味深い進歩」とみなすもののゆえに希望を抱いている。「60年代には、非常に醜く、アパルトヘイト的な状況にあったが、90年代には、人種を越えた人間関係、つまり友情や結婚が何万と見られる。これは、60年代には想像もできず、違法であり、異常とみなされていたことだ。」

  「思春期の子供達は、公平さについて鋭い感覚を持っている」とポーセント医師は語る。偏見にこり固まってはいないという。その年齢ではまだ変化に対して受容的で、明るい人種的見方を植え付けようとするのは手遅れではないと、ポーセント医師は感じている。それどころか、現在のティーンエージャー達ほど受容的な世代はいないかもしれない。彼らは公民権運動や学校での人種融和政策の後に生まれた最初の世代だからである。高校に入る頃には、大勢の子供達が、異なる人種や民族的背景を持つ子供達との付き合いが、親よりも多い。

  「年上の世代は、人種に関して問題を抱えているが、私達には克服可能だ。私達は新しい世代であり、より良いものを求めている。現代の若者は融合するようになる。」と、リンカーン大学予備校3年生で黒人のラションダは言う。

"READING, 'RITING, 'RITHMETIC...RACISM"--JAPANESE.

 

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偏見と分け隔てすることについての節

 

  「さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。」−−レビ19:15。

  「見よ、神は力ある者であるが、何をも卑しめられない、その悟りの力は大きい。」−−ヨブ36:5。

  「これらもまた知恵ある者の箴言である。片寄ったさばきをするのは、よくない。」−−箴言24:23。

  「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」−−マタイ5:45-47。

  「ペテロは彼らに言った、『あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。』 そこでペテロは口を開いて言った、『神は人をかたよりみないかたで』」−−使徒10:28,34。

  「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。」−−ローマ10:12。

  「わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。」−−1テモテ5:21。

"VERSES ON PREJUDICE & PARTIALITY"--JAPANESE.