プラス思考マスター法

 

ポール・フォークナーの著書からの抜粋

(ダラス州テキサス:ワードブックス、1993年)

 

 両面価値が至る所に存在するこの世界で、様々な問題を克服していくにはどうしたらよいでしょうか? (冒頭から難しい言葉を使いましたが、要するに、『混乱しているこの世の中で』という意味です。) 苦あり楽あり、人生は問題だらけ。しかも、一つずつ順番に起こるならまだしも、問題が全部ごちゃまぜになって襲ってくるのです。それを自分で解決しなければなりません。でも一体どうやって? どこから手をつければいいのでしょう?

 

  心の持ちようを変える

 

 誤った状況を改善したい、本来あるべき状態に戻したい、正しい行動を取りたい、そう思っていますか? では、自分の見方から、心の中から変えていかねばなりません。あなたの人格や行動はすべて、人生に対するあなたの心の態度の産物だからです。

 神が造られたものは皆、どこに行っても、独自の「雰囲気」を持っています。あの、白黒のしま模様のスカンクがそばに来れば、スカンクはその場の雰囲「気」を一手に取り仕切ります。スカンクの場合は、必要に迫られてそうするのですが、あなたの態度が鼻につき、まわりの人の雰囲気を台無しにしているのなら、それはあなた自身が異臭を放つことを選んだからです。態度が間違っているならば、それを正せるのですから。

 というわけで、心の持ちようによって、雲泥の差が生じます。プラス方向か、マイナス方向に分かれるのです。あなたは、まわりの人からまるでスカンクのように避けられていますか? それとも、夜空に輝くたった一つの星のように頼りにされていますか? 「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。」(聖書:ピリピ人への手紙2章14、15節)

 正しい心の態度は、人生の成功への礎(いしずえ)です。現在のあなたや今日あなたが取る行動は、きのうまでの考えや態度の集大成です。そして明日は、今日自分の心と精神が切り開いた道を歩むのです。心のスクリーンに描かれた思考・イメージ・ものの見方は、将来を築くための青写真です。

 聖書には、「人はその心で考える通りの者になる。」と書かれています。(箴言23章7節) また、「油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉はこれから流れ出るからである。」ともあります。(箴言4章23節)

 聖書の言わんとするところがわかりますか? 使徒ペテロは魔術師のシモンを見て、こう言いました。「お前の心は神の前に正しくない。」(使徒行伝8章21節) また、イエスはエルサレムの人々に、こう言いました。「その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ15章8節) 心の問題が、人生を台無しにすることもあるのです。

 有名な精神科医カール・メニンガーは、「ものの見方は、事実(見かけ)より、もっと大切だ!」と言いました。しかし私達は、人を見かけ(事実)で判断してしまいがちです。預言者サムエルがエリアブを見て、「神は必ずやエリアブを王として油注ぎをする」と思った時もそうでした。エリアブは容姿端麗で背が高く、好青年に見えました。しかし神は、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」と告げたのでした。(サムエル記上16章7節)

 心の中が正しくない人は、一目でわかります。思い通りにいかないと、すぐフグのようにふくれ、いつも不機嫌で、ぶつぶつ言ってばかりです。声を出してこれを読んでみて下さい。「ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ...」 全く気が滅入りますね。

 ほら、聞こえてきませんか? たとえば、「芝生を刈りなさい」と言われて、ぶつぶつ言いながら庭へ向かう少年がいます。聞こえるでしょう? 私は子供の頃、時々母から、「おまえ、態度が悪いわよ」と言われたものです。何と答えたかは、想像がつくでしょう。「そんなことない!」と言い張ったのです。

 こんな話を聞いたことがあります。ある人がぶつぶつ言っていると、友人がこう尋ねました。

「寝起きが悪かったのかい?」

 するとその人はこう答えました。

「いや、女房が悪かったんだ!」 

 自分の不機嫌な態度には気づかないのに、他人の態度ははっきりと見えたのです。よくある話でしょう?

 あなたが神と正しい関係にあり、神に対して正しい心の態度をもっているなら、対人関係に悩まなくてすみます。おのずとうまくいくものなのです。

 あなたは神に対して正しい心の態度をもっているでしょうか? もしそうなら、家族や友人、同僚に対しても、正しい態度を取っていることでしょう。しかし、神に反抗しているなら、まわりにいる人ともうまくいかないものです。

 

 先入観

 

 まだ会いもしない内から、その人のことを好きになるはずがないと、決めてかかったことはありませんか? まだ行ってもいないのに、「そこは絶対気に入らない」と信じ込んでしまったことは? あるいは、会社のピクニックがあると、行く前から「退屈だろうな」と思ったことは? そしてたいていは、その通りになるのです。先入観によって、最初から物事の見方が決まっているからです。

 では、ある二つの家庭を比較してみましょう。一つの家庭では、朝、夫が目を覚まして妻を見ると、髪にはヘアカーラーが巻かれ、顔はコールドクリームで真っ白、よれよれのネグリジェは穴まであいています。そこで、しみじみ考えます。「一体どうして、こんな女と結婚したんだろう!」 さて、お隣でも目を覚ました夫が妻を見ると、同じ光景が目に入ります。カーラーを巻いた髪に、コールドクリームをべったり塗った顔。ネグリジェもよれよれです。しかし、この夫はこう考えます。「たいしたもんだ。朝飛び起きると、自分の事は後回しで、朝ご飯を作って、子供を学校に行かせる! やっぱり結婚して良かった!」

 この違いはどうやって生まれるのでしょうか? 見方が違うからです。心理テストによると、私達の他の人への反応は、相手が実際にしたことよりも、むしろ私達の心の持ちようによって決まるそうです。すべて、ものの見方次第なのです。

 例えば、子供がミルクをこぼしたとします。たまたま上機嫌だった母親は、こう言います。「まあ、ミルクがこぼれちゃったわね。ナプキンでミルクが床にこぼれないようにするから、早くふきんを持ってきて。一緒に拭きましょう。」 母親の機嫌がいいと、その関心は、子供にではなく、こぼれたミルクという問題に向けられます。

 二週間後、同じ子供がミルクをこぼしました。すると、母親はヒステリックに叫びます。「ミルクをテーブルの端に置いたらだめって、言ったじゃない! 何度言ったらわかるの?」 今度は、母親はミルクではなく、子供の行動を問題としたのです。そのように叱られた思い出はありませんか? 首を振ったらいいのか、泣いたらいいのか、死んだフリをしたらいいのかわからなくて、途方に暮れたことでしょう。

 誰かが何かをしくじった時、どうしますか? 「何回言ったらわかるの?」と叱りつけますか? 倒れている人を、踏んだり蹴ったりするのでしょうか? それとも優しく抱き上げて泥を払い、立ち直るのを助けてあげますか?

 それはすべて、あなたが人生や他の人の内に、あら探しする傾向があるか、それとも良い点を探す傾向があるかにかかっています。しかし、いずれにしろ、自分の見方が事実までも左右するのです。

 人や物事を否定的にしか見ないなら、状況をありのままに見ることができません。それで、実際に起こったことや、誰かのした事よりも、自分が抱く否定的なイメージが優先してしまい、軽率で理不尽な反応をするのです。

 

 状況を変える

 

 人生に対する態度を変える秘訣は...? もちろん、人は、態度を変えることができます。それどころか、どんな状況でもできるのです。たとえば、キリストの横で十字架刑にされた強盗がいました。十字架に釘づけされ、極限の苦痛にあえぐ姿は、控えめに言ってもひどい状況です。さて、この強盗は、それまではキリストをののしっていたようですが、心を入れかえ、考え方を変えました。最悪の状況下で、誤った態度から正しい態度へと変わったのです。あなたも、いかなる状況下でも態度や考え方、心を変えることができます。

 エラ・ウィーラー・ウィルコックスはこの真実を詩にしました。

 

吹く風は全く同じでも

ある船は東へと、ある船は西へと航海する

なぜなら進路を定めるのは、

風ではなく帆だから

 

我らが人生を航海する時

吹く風が運命

しかし、人の行く先を決めるのは

風や嵐ではなく、人の意志

 

 使徒パウロはこう言いました。「私はどんな境遇にあっても足ることを学んだ。」(ピリピ人への手紙4章11節) これは、むち打たれ、投獄され、石を投げられ、町から町へと追い出され、船が難破までした人物の口から出た名言です。その一方で、何不自由ない生活を送りながら満足できない人がいるのはなぜでしょう? 「心の態度」、それが違いです。

 

 思い通りにいかない時

 

 人生は、なかなか思い通りにいかないものです。それが人生です。災難や問題が次から次へと降りかかり、それを解決していかなければなりません。まるで迷路に迷い込んだネズミです。入り口も出口もちゃんとあるのですが、途中に袋小路や乗り越えるべき壁が幾つもあります。壁にぶち当たったら、態度と心と行動を正さなくてはなりません。壁は微動だにしませんから、進行方向を変えないと、壁にぶつかり続けることになります。

 人生を変える、これはあなた次第です。思い通りにいかない時に、それを正しく変えるかどうかはあなた次第なのです。そして、神は人にその力を与えられました。「私を強くして下さるキリストによって、何事でもすることができる。」(ピリピ人への手紙4章13節)

 

 感情ではなく、意志力

 

 ロバートは身体障害者です。筋肉の動きがコントロールできないので、車椅子の生活を送っています。話す言葉もきわめて不明瞭だったので、それを理解するのは大変でした。そう言うと、読者の方々は、「かわいそうに。悲惨な人生だ」と思われるかもしれません。でも、早合点は禁物!

 ロバートは私が教えていた大学の学生で、とても好感が持てる青年でした。その明るい態度のゆえに、学生たちの間でも人気者でした。ロバートは自分の「意志」によって状況をコントロールし、人生を満喫していました。

 ロバートは字を書けなかったので、講義にはいつもカーボン紙を持ってきて、隣りの学生がノートを取る時に、その下にカーボン紙を敷かせてもらいました。その学生がしっかりノートを取れば、ロバートのノートも良し、ちゃんと取らないと、ロバートのノートもお粗末、ということです。 

 自分で車椅子を前進させることができなかったので、周りに押してくれる人が誰もいないと、くるっと後ろ向きになって肩越しに進行方向を見ながら、足で床をけってバックで進みました。

 ある日、学生課の建物で、階段に近づきすぎて、ロバートは車椅子ごとすさまじい音をたてて階段から落ちてしまいました。ロバート自身も、車椅子も、本も何もかもが、ガラガラ、ガターンと階段から転げ落ち、車椅子はそのまま廊下をカタカタと進んで行きました。ロバートは大の字になって床に倒れていましたが、さいわいケガはありませんでした。学生たちが心配しながら駆け寄ると、ロバートはこのぶざまな体勢のまま、声を立てて笑ったのです。「僕のダンス、なかなかだったろう!?」と言って。

 ロバートはクリスチャンで、まわりの人達にキリストの教えを告げたいと願っていました。ある日曜日、彼は教会で千人以上のクリスチャンにスピーチをしました。聖書をひざの上に乗せ、車椅子で演壇にあがったのです。だらんと垂れ下がった腕を押さえながら、わかりやすく話そうとするのは、至難の業で、その日、ロバートが実際語った言葉を全部理解できた人はほんのわずかでした。しかし、彼が伝えようとした神の愛のメッセージが理解できなかった人は一人もいませんでした。スピーチが終わった時には、誰もが目をうるませていました。そして一人残らず、「自分は何とつまらない言い訳によって、神の愛を人に知らせなかったのだろう」、そう考えながら帰途に着いたのです。もしロバートがモーセと同じこんな言い訳をしたとしても、おかしくはなかったでしょう。「主よ、私はうまく話せません!」と。でも、彼はそうしませんでした。

 最後に耳にしたのは、ロバートが宣教師の一団と海外に行ったということです。彼は、車椅子の横にポスターを貼ってもらい、人通りの多い通りの角にとめてもらいました。そこで毎日、一日中、自分にとって大切な方、主についてのトラクトを通行人に配ったのです。彼にはまさにキリストの心がありました。そして、彼がなろうと望み、堅く決心していたダイナミックな伝道師となったのでした。

 だから皆さん、ロバートは一見満足するのが不可能に見える境遇においても満足することを学んだのです。自分の持つものを最大限に発揮し、持たないものについては気にしませんでした。ロバートは、状況に支配されるのではなく、自分の態度によって状況を支配したのです。

 

 間違いばかりの世界でどう生きるか

 

 私達に必要なのは精神的な姿勢、それも人生に起こり得るどんな出来事にも左右されない、揺るがぬ確信です。そしてこれは、たとえ苦難を克服できなくても、神の助けによって苦難の中で獲得できる勝利です。苦難の中の勝利、これこそ唯一私達に必要な勝利です。「天におけるあなたがたの報いは大きい」のですから。(マタイ5章12節)

 紀元一世紀、使徒パウロはこの原則を実践しました。ピリピにいる同志たちにこう書いたのです。

「私はどんな境遇にあっても、足ることを学んだ。」(ピリピ人への手紙四章11節)

 パウロはかなり悲惨な目に合いました。虚偽の訴えをされ、むち打たれ、投獄されました。しかも手足には「かせ」をはめられ、「奥の獄屋」に入れられたのです。(いわゆる超厳重警備がなされた監獄です。) しかし、パウロは何と、真夜中に歌を歌い始めたのでした。「誰も私みたいな災難に遭った者などいない」と嘆くどころか、神をほめたたえたのです。(使徒行伝16章25節を参照) このような悲惨な状況にあって、なんと見事な態度でしょうか。けれども、心が神の前に正しければ、状況など関係ありません。さて、これを聞いてもあまり画期的な意見には思えないかもしれませんが、だんだんこの考え方がわかっていただけることでしょう。「どんな状況においても幸せになれるまでは、どんな状況にあっても幸せになることはできない。」 遅かれ早かれ、誰もがこの真理と格闘しなければならなくなるものです。

「そんなことはない」と思い込むのは皆さん次第ですが、人生の幸福と満足度は、まわりの状況ではなく、心の持ちようによって決まるのです。

 

 心の態度をどうやって変えるか

 

 どんな状況でも満足するには、どうすればいいのでしょう? どうすれば、この人生の重大なゴールを達成できるのでしょう?

 

「自分にはできる」

 答えは簡単です。「自分にはできる」と信じるのです。心理学者なら、「人間自身の力で幸福と満足感が得られる」と言うところでしょう。心理学者からすれば、人間は、他からの助けなしに、信念を達成するための道具も手段も自分で作り出せる独立した存在です。しかし、私はこの概念に疑問を抱いています。神の力も、また自分以外のどんな力も借りる必要はないと考える、「何事も自力でなす」人を大勢見てきましたが、「どんな境遇においても」満足することを習得した人には、まずお目にかかったことがないからです。神ははっきりと言いました。何であれ私達が達成するものは自己の力によるのではなく、「神の霊によるものである」と。(ゼカリヤ4章6節)

 使徒パウロは、どんな境遇においても満足することをどう学んだのでしょう? 自己に備わった力によってでしょうか? 絶対に違います。逆にパウロはこう言っています。

「どんな、いかなる境遇にあっても足る秘密を学んだ。・・・私を強くして下さる方[キリスト]によって、何事でもすることができる」と。(ピリピ人への手紙4章11〜13節)

 パウロのこの驚くべき言葉はどういう意味でしょうか? 文字通り、「キリストの助けがあれば何でもできる」という意味ですか? そう受け取る人もいますが、果たしてそれはパウロの言葉の意味に沿っているでしょうか? 祈ってキリストの助けを求めれば、ビルをひとっ飛びし、銃弾を歯で受けられるスーパーマンになれる、とパウロが言っているとは思いません。むしろ、「キリストの強さによって、人生で遭遇するかもしれないどんな境遇にあっても満足できる。神が望まれることなら何でもできるよう、御霊が助けて下さるから。」という意味でしょう。これは、献身したクリスチャンなら誰もが言える言葉です。

 

輝かしい手本

「満足」をマスターするうえで、もう一人模範となる人物がいます。それは預言者ハバククです。ハバククは、こう語りました。

「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、私は主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。」(ハバクク書3章17、18節)

 これは確かに、不幸な出来事によって、自分の幸せまで台無しにしてしまうような人から出た言葉ではありません。

 エディス・リュースは、苦難の数々を経て、主による大きな力を見出したクリスチャンの一人です。妻であり母であったエディスは、狼瘡(ろうそう)[皮膚結核]で34歳の若さで亡くなりました。死ぬ前に、彼女はこう書いています。

「喜びとは、人生における苦難でさえ、神は栄光と私達の益のために使って下さると知ること。人には全体像は見えないけれど、苦しみさえも安堵の内に神に感謝できます。神はわざと私達を苦しませるようなことはなさらず、今でも御座におられ、万物を支配しておられるという保証が、私達にはあるからです。喜びとはこの安心感なのですが、それ以上のものでもあります。喜びとは、私達がどのような状況にいようとも神もまた共にいて下さるという、魂の目を開かせる深い知識なのです。私達が喜ぶ時、神も喜ばれます。泣く時には、神も泣かれます。神は、私達に自分の意志で行動させられます。たとえそれによって私達が傷つくと知っておられても・・・。そんなにも愛して下さっているのです。神はいつもそばにおられます。インマヌエル、神われらと共にいます。私の知る限りでは、これが究極の喜びです。死や憂うつ、疑い、狼瘡(ろうそう)の悪化も、この喜びに水を差すことはできません。これ以上の喜びなどあるでしょうか? その可能性に驚き、胸踊る思いです。」

 死に直面しても満足すること・・・。それは失ったものではなく、自分に残されたものを見る能力です。穴ではなく、ドーナツに目をやることです。コップの水が半分ないと考えるのではなく、「半分ある」と考えること、人生の明るい面を強調し、暗い面を取り除くことです。

 さて、もう一度、自分に言い聞かせましょう。

「心の態度を変えるには、キリストによって自分にはできると信じなさい。」

 

 意志の力で、欲求を制御する

 

 心の持ちようを変えることができると信じ、どんな境遇にあっても満足することを学んだならば、次は、「自分は変わるんだ」と決心しましょう。実際、意志の力によって変わることは可能です。「意志力」によって「欲求」を制御し、人生を変えてしまうのです。したい、したくないといった欲求にかかわらず、意志の力によってするのです。

 アブラハム・リンカーンはこう言いました。「人は幸福になろうとする決意の堅さに応じて幸福になれるものだ!」 確かにそうですね? 宗教を持たなくても幸せな人はいます。どうしてでしょう? それは、他の人よりも、もっと分別ある姿勢で人生に取り組んでいるからです。欲求が意志力によって制御されているので、しっかりとした人生が送れるのです。

 

比べる者に満足なし

 満足感は、自分の持つものに満足し、他人が持つものを気にしないでいられる能力のあるなしにかかっています。人生はこの類のものでいっぱいです。自分よりはるかに給料の良い友人がいませんか? 家ももっと大きく、車も立派です。(もちろん、頭脳や才能の面では、あなたの方がずっと上でしょうが。) この差をどう扱うかは、あなたの態度しだいです。自分の状況と他人の状況を比べてばかりいると、いつも不満だらけでしょう。あなたの幸せや満足感をぶちこわす、自己憐憫(れんびん)に時間を費やすことになってしまいます。しかし、他人の幸運を喜ぼうと決めることもできます。そうすれば、「どんな境遇にあっても足る」楽しい人生が送れることでしょう。

 

考え方を変える

 さあ、あなたは「自分は変われる」と信じ、変わる決意をしました。それでは考え方を変えなくてはなりません。基本的には、私達の目標はキリストの考え方を学び、その思考を自分のものにすることです。聖書はこのような表現をしています。「すべての思いをとりこにして、キリストに服従させる。」(コリント人への第二の手紙10章5節)

 デービッド・マクセランドは、ハーバード大学での25年に渡る調査研究の結果を、こう語っています。「考え方を変えることで意欲を起こさせ、行動を改善することができる。」

 

額縁を変える

 考え方を変える一つの方法は、自分を取り巻く環境を、違う額縁にはめて見ることです。一番前向きで有利な考え方ができるまで、そうするのです。画家は何の変哲のない絵でも、色の良く合ったきれいな額に入れて、見違えるほどにできます。額縁に入った絵を見た人は、「へえ、こんなにきれいな絵だとは思わなかった!」と思うほどです。それが画家の持つ才能です。自分の作品を最も魅力的に飾る方法を知っているのです。人生の額だって変えられます。まわりの状況を違った額縁に入れて、それを一番良く見えるようにするのです。

 

聖書の額縁

 ヤコブの手紙では、考え方をこういう額に入れ替えるよう説いています。「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい!」 全然論理的には思えません。どうして災難を喜ぶべきなのでしょうか?

「あなたがたの知っているとおり、信仰が試されることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、できあがった人となるように、その忍耐力を十分働かせるがよい。」(ヤコブの手紙1章2〜4節)

 コリント人への第二の手紙4章7〜9節では、これが再び強調されています。

「しかし私達はこの宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、私達から出たものでないことがあらわれるためである。私達は四方から患難を受けても窮しない。途方に暮れても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」

 けれども、とてもひどい、全くの惨事が身に降りかかったらどうしますか? あなたはその惨事を違う額に入れることができますか? さて、私の友人は暴漢に襲われ、顔を銃で撃たれました。

 しばらく前に彼女に会った時、会話がこの過去の事件のことに移っていきました。

「さぞかし犯人を恨んでいるでしょうね!」と言うと、驚いたことにこんな答が返ってきました。

「いいえ。そんな思いを克服するよう努力したのよ!」

 それからニコっとして、あごを指さしました。

「ほら、えくぼができたの、わかる?」

 あなたの身にこんな災難が降りかかったら、どうしていたでしょう? このような出来事に、残りの人生の幸せと満足感をすべて奪わせたままにしてしまう人が多くいます。けれども、この友人はそんな必要などないことを教えてくれました。考え方を違う額に入れ替え、災難の中に「えくぼ」を見つけましょう。

 

顔に「YES」と書いてある

 トーマス・ジェファーソン大統領が、数人と乗馬をしていました。大統領が増水した川にさしかかると、一人の男が誰かの馬に乗せてもらって急流を渡ろうと、川岸で人が来るのを待っていました。そこで大統領はその男の頼みを聞き、向こう岸まで馬に乗せてやったのです。

 そこにいた人が聞きました。

「どうして、大統領に馬に乗せてくれと頼んだりしたのかね?」

「あの人が大統領だったなんて、知りませんでしたよ。ただ、顔に、『Yes』って書いてある人たちと、『No』って書いてある人たちがいて、あの人の顔には『Yes』って書いてあったんですよ!」

 心にあることが態度や行動に表れます。キリストの心があるなら、顔にも行動にも、「Yes」というキリストの態度がにじみ出るでしょう。必要最低限「以上」の思いやり、親切さ、憐れみ、同情を持つことです。それを実行し続けなさい。そうすれば、まわりの人はあなたの顔に書かれた態度に気づき始めるでしょう。

 

 使うか、さもなくば失うか

 

 腕を三角巾でつり、動かさないでいると、まもなく筋肉が弱って腕が使えなくなります。マンモスケーブという鍾乳洞にいる魚の目が見えないのはなぜでしょう。目を使わないからです。信仰による行動を止めると、信仰は死に絶えます。希望を捨てると、希望は途絶えます。使うか、さもなくば失うか、それが教訓です。

 妻や子供に感謝の言葉をかける時、彼らに対する私の感謝の態度も強まります。努力して、自分よりも他人の益になることをすれば、その人に対する好意も高まります。神の愛を行動で示すと、神への愛の態度が開花します。だから神の助けによって、自分が身につけたいと望む美徳を実行してみましょう。そうすれば、実際に自分がそのような人間になっていくのに気づくはずです。

 

 意欲があるかのように行動する

 

 しなければならないことを、いつも乗り気でできれば最高ですね。

「あなた、庭の芝刈りをしなくちゃ。犬の糞も掃除して下さらない?」

「そりゃいい。ちょうどしようと思っていた所だ!」

「この服にアイロンをかけてくれないか。風呂も掃除が必要だぞ!」

「いいタイミングだわ! 今やろうと思っていたの。」

 人生こううまく行けば、問題なんてほとんどないでしょう。ところが現実は厳しいもので、乗り気でなくても、乗り気であるかのように行動せざるを得ない状況に置かれることがあります。気分次第で行動すると、大切な事をやり残してしまいます。感情はあてにならず、無茶を犯して惨たんたる結果をもたらすことが、往々にしてあります。でもいい事を教えましょう。たとえ物事がうまく行かなくても、実際の気分よりも意欲的に行動すれば、問題をプラスに持っていけるのです。

 

 とにかくやってみる!

 

 あなたはあのぬるぬるしたオクラがお好きですか? そうです。ねばねばする、ゆでたオクラです。私も子供の頃は嫌いでした。それでも緑のぬるぬるオクラを食べ、好きになる方法があります。自分自身にこう言い聞かせるのです。「ゆでたオクラは体にいい。だから、本当に好きになるまで、好きなふりをして食べるぞ。死ぬ思いをしたって構わない!」

「好きになりたいという態度」プラス「それを実行に移す決断力」は、六割方はうまくいきます。(あっさりあきらめないなら、九割方です) とにかくやってみること。実際の気分に関係なく、意欲的に行動するのです。

 

 フリをして立ち直ろう

 

「気が乗らないのに、そんなフリをするなんて、偽善じゃないのか!」 こう思われる方もいるでしょう。でも偽善というのは、なるつもりなどさらさらない人間に自分を見せかけることです。良いクリスチャンになるためではなく、契約を取ろうとして教会に通う保険セールスマンがそうです。逆に、模範となる人を見て、その立派な資質を身につけたいという理由から、そのような「フリ」をするのは、純粋な動機からであって、偽善ではありません。

 アルコール中毒者更生会のメンバーは、次のようなスローガンを使って励まし合っています。「『フリ』をして立ち直ろう!」 メンバー達は、この「フリ」という言葉を、「ごまかし」とか「偽善」という意味では使っていません。動機は、中毒を克服することです。日々、「飲みたくない」と自分に言い聞かせ、アルコール中毒から立ち直ったかのように「演技」することで、完全にお酒を断つに至る道へと自らを押しやるのです。

 

偽善ではなく、仮定に基づく行動

 仮定に基づく行動とは、こういうことです。「したくないことでもしたいかのように行動し続ければ、いつかするのが好きになり、したくなる時が来る!」

 O・H・モーアーはこう言いました。「行動によって感情を高める方が、感情を高めてから行動するよりもはるかに簡単である!」

 ウィリアム・ジェームズのこの言葉も、私は気に入っています。

「幸せだから歌うのではなく、歌うから幸せになる。」

 

意欲満々になるのを待つ?

 意欲満々になるのを待っていると、すべきことをしないですます可能性の方が、圧倒的に大です。

 正直言って、今朝、私が意欲がわくのを待っていたなら、朝六時に起きて、この文章を書いてはいなかったでしょう。性格や体質からすると、私は早起きが苦手の夜型人間だからです。まず片足をベッドから出し、そのまま続けばもう片方の足を出します。それから腕。でも、ついに何とか体全体を起きあがらせると、「やった」と誇らしげな気分になります。早起きする気にはなれなくても、起きてしまうと気分上々なのです。

 イギリス人の音楽評論家アーネスト・ニューマンは、こう言っています。「偉大な作曲家たちは、意欲がわいたから作曲に取り組んだわけではない。取り組んだので意欲がわいたのだ。ベートーベン、バッハ、モーツァルトは、毎日毎日、来る日も来る日も、作曲中の作品に取り組んだ。彼らはインスピレーションがわくまで待って、時間を無駄にするようなことはしなかった。」

 

 自分の望むものであるかのように行動する

  --自己変革の動力

 

 行動を変えることで、実際に自分の態度や考え方を変えることができます。ある心理学者はこう述べました。「行動は態度を形成する。人間の心と思考を変える最も効果的な方法は、その行動を変えること…これを立証する証拠は十分ある!」

 自分の望むものであるかのように行動することによって、もともとの性格や傾向を越えて、変わることができます。自然にはできないことが行えるようになるのです。

 

 気分を良くするには代価がかかる

 

イエス・キリストは、私達のためにすべてを捧げ、十字架上での死という代価を払われました。神は私達が地上で気ままに暮らすことを望んでいる、などという考えはどこから生まれたのでしょうか? 神が私達に約束されたのはふかふかのクッションではなく、十字架であり、勲章ではなく戦いの傷です。キリストは、幾度も幾度も自分を十字架につけ、感情とは関係なく行動し、私達には、キリストに従うという特権ゆえにその代価を払う気がないなら、初めから従わない方がましだ、とはっきり言いました。神は、なまぬるの、中途半端な態度を喜ばれたことなど、一度もありません。(黙示録3章16節を参照)

 

「決意」の力

 カリフォルニア医科大学のチャールズ・ガーフィールドとそのチームは、成功を収めた人、五百人にインタビューし、次のような結論に達しました。「長い目で見て、成功するための最も強力な要素は、『決意』、つまり明確なゴールを目指す情熱である。」

 精神科医のアリー・キーブは、このように書いています。「逆境を克服した人の人生を観察して幾度も気づいたのだが、彼らはゴールを定め、障害をものともせずにゴール達成に全身全霊を傾けている。心の中で目標を決め、具体的なゴールを目指して全エネルギーを傾ける決意をした瞬間、彼らは最も大きな障害を乗り越え始めた。」

 

 あきらめるな

 

 トーマス・カーライルは、フランス革命史の著作を終えた後、近くに住むジョン・スチュアート・ミルに校正を頼みました。数日後、ミルは悲劇的な知らせを伝えに来ました。ミルのメイドが誤って、カーライルの原稿を、暖炉の火を起こすのに使ってしまったというのです。

 カーライルは数日間、怒り心頭に達していました。まる二年間、すべてを打ち込んできたというのに、それが消滅し、二年という月日が灰となってしまったのですから。この悲惨な手違いゆえに、カーライルは「もうこりごりだ、二度と執筆などできない」と思いました。

 ある日、カーライルは二階の窓辺に立って、家々の屋根を眺めていました。道の向こう側では、石工が崩れた壁を辛抱強く築き直しています。石を一つ一つ積み重ね、とうとう新しい壁ができあがりました。この時初めて、カーライルは不運な間違いを受け入れ、原稿の書き直しを始めました。一度に一ページずつ、毎日少しずつ、彼は勤勉に書きつらね、ついには彼の最高傑作と呼ばれている本が完成したのでした。

 物事がうまくいかない時に問題を正すには、毎日少しずつ、人生の石を一つずつ慎重に積み重ねていかなければなりません。

 

 過去を克服する

 

 数え切れないほどつまずき、失敗したけれども、過去を克服して、よりいっそうの情熱と活力をもって今を生きている、あなたもそんな人に出会ったことがあるでしょう。一体、どうしたらそのようなまねができるのでしょう? あなたの場合はどうすればいいのでしょう?

 過去については、自分自身にこう言ってはどうでしょうか。「過去はもう過ぎ去った。変えることはできない。現在の問題に取り組むだけで手一杯なのだから、過去と格闘するのにエネルギーを浪費するヒマなどない!」

 シェークスピアの「大あらし」の終幕で、主人公のプロスペロはアロンゾにこう言います。「過去の憂いによって、我らの記憶をかげらすことはすまい。」 ビビアン・ラリーモアも詩「鍵」で、同様のアドバイスをしています。

 

私は過去へと続く扉を閉じた

悲しみや間違いと一緒に

さあ、鍵は捨ててしまおう

新しい部屋を探して

希望と笑顔と、

色とりどりの春の花で飾り付けよう

私は過去へと続く扉を閉じた

鍵はもう捨ててしまった

明日への恐れはない

今日を見つけたのだから

 

 過去の未解決の問題や障害にこだわり、今日のスケジュールに将来の重荷や心配を持ち込むのは馬鹿げています。私達の肩は、一日分以上の荷を背負っていけるほど広くも強くもありません。ただ神の恵みによって一日分を背負えるだけなのです。

 

 一日ずつ

 

 アルコール中毒者更生会には、「一日だけならできる!」というスローガンがあります。それが、彼らがやり遂げる唯一の方法なのです。アルコール中毒者に、これから九ヶ月間禁酒しなさい、などとは言えません。プレッシャーが大きすぎ、とても不可能だと思って挫折してしまうでしょう。けれども、「今日だけ飲まないように」と言えば、可能性があります! 「一日だけならできる」のです。

 神の力は、一日一日自分の意思を神の意思に委ねることによって来ます。「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」(詩篇118篇24節)

 イエスも明確に言っています。「手をすきにかけてから後ろを見る者は、神の国にふさわしくない者である。」(ルカ9章62節) その理由は? 今日、神があなたにさせたがっていることから目を離し、過去の悩みを振り返るなら、神の国の今日の仕事にふさわしくない者となるのです。

 どんなに頑張っても、私達は一度に一日しか生きることができません。そして、その一日とは今日のことです。昨日とは、変更も取り返しもきかない過去です。過去に戻ったり、新しく変えることなどできません。未来も、過去同様、私達の自由にはなりません。将来に備え、計画することはできますが、今、将来を生きることはできません。その時が来たら、将来は今日という日に変わります。だから今日を生きましょう。

 

 憤りとは

 

 リゼントメント(憤り)の語源を知っていますか? これはラテン語のリゼントから来ていて、本来はリ・フィール(感情の再現)という意味です。誰かに深く傷つけられたとします。一時的には、そのいやな経験を潜在意識下に隠せるでしょう。ところが、後になってから何かがきっかけとなって、痛々しい記憶がよみがえります。すると、その苦悩や痛みが再現されるわけです。他人に怒りをぶつけることによって、それらの感情が表に出ることもあるでしょう。

 夫婦はこれの常習犯です。過去のゴミだめを徹底的にあさって、相手を傷つける武器になるような口論の種を見つけ出すのです。故意に、相手の過去の間違いを激しく非難し、古傷をさらけ出すことで気分を晴らします。ひどい話ですね。それほども憤り、傷つけるのですから。そこから得るものなど何もありません。

 子供の頃、家庭に「残飯入れ」なる物がありませんでしたか? ほら、臭いが漂わないよう、台所の目立たない所に置いてあった、あのバケツです。フタつきのものもありました。私の祖母は、料理中、何度も食べ物のくずをバケツに捨てたものです。肉の脂身、じゃがいもの皮、腐った牛乳、残り物など…。

 それから、二、三日おきに誰かが残飯でいっぱいになったバケツをブタのえさ箱に入れに行きます。まだ残飯を入れている最中なのに、待ちきれなくて、上から落ちる残飯に頭をつっこむブタさえいました。でも、実は、人は自分専用の残飯入れを持ち歩いていることを私は知りました。特に夫婦はそうですね。ただし、この場合は「感情ゴミ」です。私達は、口げんかの後に残った感情や情動を「残飯入れ」にため、昔のいざこざや意見の食い違いなどの切れはしをそのバケツに投げ入れます。ずっと前からのありとあらゆる感情ゴミを全部、「残飯入れ」に集めるのです。

 そして時折、感情の高まりが目前の問題よりも大きくなると、私達は残飯入れをつかんで、夫や妻、子供や友人の頭にぶちまけるのです。過去の残飯を全部ぶちまけ、それで「今」を台無しにするのです。ひどい話です。私達は、「ゆるし」よりも憤慨や妬みの方に、はるかにたけています。

 

キリストは自分からゆるした

 率直に言って、強い確信がなければ、「自分を憎んでいる人をゆるす」ために、自ら十字架で処刑されようという気にはなりません。あなたを愛し、あなたのために命を捨てた方キリストへの愛が迫ること、それだけが、「ゆるしたい」という思いを起こすのです。

 これがクリスチャンの概念です。「人から不当に扱われ、心に反発が高まっても、相手にその感情を見せてはならない。キリストがあなたをゆるしたのと同様に、自分のほうから相手をゆるすのだ。全世界の人をゆるしたいと願うキリストを、あなたの行動の内に示しなさい。」

 

あなたも自分からゆるしなさい

 自分のほうからゆるしましょう。あなたを不当に扱った人をゆるすのです。その人がゆるしを求めようと求めまいと。罪悪感を取り除くより、憤りを取り除く方がずっと難しい理由はこれです。「ゆるしを求められるまでは相手をゆるさない」ことが、あなたの心をかたくなにし、人間関係の扉を閉ざして、憎しみを抱き続ける理由を与えてしまいます。まさに、心の中で正当化されてしまった憎しみです。

 私が今まで誰かから不当な扱いを受けた時に、それをしたことで相手への憤りがなくなったことなどありません。それどころか、相手が頑としてゆるしを求めて来ないので、ますます憤慨したものです。「相手が謝ってくれば、ゆるしてやろう」という戯れごとをしても、心が静まるどころか、問題が増えるだけでした。人を愛し、不当な扱いをされても善行をするよう教えている聖書の言葉はどうなるでしょう? そんな言葉は無視して、自分を傷つけた相手に反感を抱き続けるのでしょうか?

 ゆるすのは大変です。高い代価がかかるからです。要するに、不当に扱われても相手が与えた苦しみに耐えて、ゆるしによって相手を祝福してやる、ということなのです。自分のほうからゆるす人は、非常に高い代価を払うことになります。たとえば、誰かがあなたを中傷し、評判を落としたとしましょう。あなたは、「主がただでゆるして下さったように、ただでゆるしてやる」ため、評判が傷つけられることに甘んじなければなりません。これは至難の業です。けれども、神の助けがあれば可能です。それに、あなたのためにキリストは、自分の評判をどれだけ犠牲にしたことでしょう。

 

 どう克服するか

 

 憤りという問題はどう克服すればよいでしょうか? その解決策は? この聖書の箇所が頭に浮かんだ人もいるでしょう。「なんじの敵を愛せよ。」「迫害する者に良くしてやりなさい。」「善をもって悪に勝ちなさい。」「悪をもって悪に報いず…かえって、祝福をもって報いなさい。」 この意味は、難なく理解できるはずですね。しかし、この素晴らしい教えを自分の日常生活で実践するという、厳しい決断を下さねばならない時に、私達はたじろいてしまうのです。

 

傷つくのを恐れない

 憤りを断ち切るには、傷つくことを恐れてはいけません。嫌悪に愛を、憤りにゆるしを、呪いに祝福を返すなら、何人かの人からの無慈悲でひどい扱いに身をさらす可能性があります。でも、その価値はあります。危険を犯さないなら、愛を知ることもありません。

 拒絶を受け入れることです。拒絶は人生につきものですから。拒絶を、一歩上に上がるための踏み台として使う人こそ、成功するのです。

 

ゆるす

 次に、あなたを不当に扱った人をゆるさなければなりません。過去を捨て、「うしろにあるものを忘れ」なければならないのです。パウロは「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつある」と言いましたが、文字通り過去を「忘れ」なさいという意味ではありません。過去に対して正しい態度を持つように勧めているのです。人から受けた無慈悲で不当な扱いは、確かに忘れることなどできません。けれども、そのような扱いによって生じた憤りを大事に育てあげる必要はありません。

 これは、昔からある傷跡を眺めるのと少し似ています。まだ生傷のころは、ズキズキ痛みます。でも今は傷跡になって、痛みは忘れました。事実、傷のことなどほとんど考えもしません。けれども、傷跡はまだ見えます。これと同様に、過去の憤りからの痛みを忘れることは可能なのです。

 イエスはこのように言いました。「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ…人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」(ルカ6章27〜31節)

 簡単? とんでもない。可能? そうです。「人にはできないが、神にはなんでもできない事はない。」(マタイ19章26節)

 

痛みを取り去るには?

 さて、残念ながら、生涯つきまとう痛みもあります。けれども神に感謝することに、その痛みを使って同じような経験をしている人を助けることができます。

 心に痛みを抱いているのはあなただけではありません。あなたと同じような経験をした人は他にも大勢います。不当な扱いを受けた人、不運な人が大勢いて、あなたの助けを必要としています。

 ですから、あなたは痛みを違う額に入れて、強みに変えることができます。肉体のとげを原動力にして、災難をえくぼに変えてしまうのです。

 自分が過去に受けた心の傷や不当な扱いを、今、同じことに直面している人のために使いましょう。自分も同じような経験をしたと話し、その人の問題の「ウミ」を出して、治癒の過程へと移るのを助けてあげられます。彼らが、「絵」をありのままに見れるよう、あなたと、あなたの「額を変えた心の痛み」が必要なのです。

 最近、息子を突然亡くした大学教授からこんな話を聞きました。その人は、ある警察官にその話をしたのですが、その警察官も息子が自殺したのだそうです。「話すことによって、私達は二人とも、息子を失うという問題に対する解決と心の安らぎを見い出せました。」

 だから、あなたの心の痛みを使いなさい。それは傷ついた人を助けるための、神からの贈り物なのです。

 

愛は過去を消し去る

 人生で受ける拒絶や不当な扱いを、さらなる強さへの踏み台とする、これが私達が学ばねばならないことです。

 ルイス・B・セメデスが、著書「ラブ・ウィズン・リミット」で達したこの結論は、実に素晴らしく感動的です。

「愛は過去を消し去る。たとえ過去の問題が解決されなくても、愛は新しいスタートを与えてくれる。愛には、昔の誤解すべてを解く必要はない。過去のこまごまとした事も、もう関係ない。新しいスタートだけが大切なのだ。うまく説明もつかず、意見の相違も解決されていないかもしれない。計算も合わない。問題の発端についての記憶も、人によってまちまち。過去は混乱のままだ。しかし、大切なのは将来だけだ。愛の力は、小うるさい歴史家を造り上げたりはしない。愛は、正しいことも間違いも全部、過去の未解決の問題を、ゆるしというふところに包み込んでしまう。そして、私達を新しいスタートへと押しやるのだ。」

 

 他の人を助けなさい

 

 カール・メニンガーは、カンザス州で有名な「メニンガー精神科クリニック」の創設者ですが、一度こう質問されたことがあります。「悩みで気が狂いそうだ、と思ったらどうしますか?」

 彼はこう答えました。「外に出て行って、自分より不幸な人を助けますよ!」 人生というものは、自分よりも深刻な悩みを持つ人を助けると、はるかに有意義になってくるようです。それにどういうわけか、助けられるよりも人を助けるほうが、ずっと元気がわいてきます。たとえば、通りを歩いていると、両足のない男性が歩道に座って鉛筆を売っていたとします。その缶に一ドル札を入れ、鉛筆一本買えば、立ち去る時には、「俺の人生もまんざらではないな!」と思えてくることでしょう。

 すべて、あなた自身をどう見るか、そして他人をどう見るかによるのです。互いに助け合うことから良い人間関係が生まれます。人を助けるというのは、自分を助けることです。さあ、何か人の役に立つことをしましょう。

 

 隠れた親切

 

 隠れた親切とは、自分がしたと知らせずに人に良いことをしてあげることです。

 ビリーという少年がいました。何をやってもダメで、学校では特にそうでした。得意なことが何一つないのです。あなたにも心当たりがあるでしょう? ほら、どんなチームにも選ばれないような男の子…。誰もビリーと遊びたがらず、生まれながらの敗者のようでした。先生もそれに気づき、いったいどうしたものか、と思っていました。

 ある日、その先生が歩いて帰宅していると、ビリーが自転車で先生の横に来て、先生と同じ、ゆっくりなペースでこぎ始めました。とてもゆっくりなのに、自転車は傾いたりふらついたりしないことに、先生は気づきました。それで、試しにわざと歩調を落としてみました。するとビリーもやはりスピードを落としましたが、自転車はまっすぐで、ちっともぐらつきません。その先生がどんなにゆっくり歩いても、ビリーはしっかりついてきたのです。「すごいわ」と先生は思いました。

 翌日の休み時間、先生は言いました。

「ねえみんな、今日は変わったことをするわよ。自転車の遅乗り競争をしましょう!」

 誰が勝ったと思いますか? そして誰がビリーを有頂天にしてあげたでしょう? それは「隠れた親切」をした先生でした。

 

 まず自分がする!

 

 率先して何かをしたり、隠れた親切をするのは必ずしも容易ではありません。特に、自分を利用したり、不公平な扱いをした人に対してはそうです。それでも長い目で見れば、これは良いことなのです。

 これは、ウォッチマン・ニーが語った、ある中国人クリスチャンの話です。彼の水田は、共産党員の水田の隣りでした。水田に水を引くため、このクリスチャンは足踏みポンプで近くの水路から水をくみ上げていました。自転車に乗ったような格好になってこぐポンプです。すると毎日、クリスチャンが水田に水を引いた後、共産党員がやってきて、水田の水をせき止めていた板を取り外し、自分の水田に全部水を流しました。そうすれば自分で水を引く必要がありません。

 さて、来る日も来る日も同じ事が続きました。ついに、クリスチャンは祈りました。「主よ、これが続くと、米もとれないし、もしかしたら田んぼまでダメになってしまうかもしれません。どうすればよいのでしょう?」

 祈りの答として、主はそのクリスチャンにあるアイデアを与えました。翌朝、クリスチャンはいつもよりずっと早い夜明け前に起き、まず共産党員の水田に水を引きました。それから、板を外して自分の水田に水を引いたのです。数週間の内に、水田にある稲は両方ともよく育ち始め、その共産党員はキリスト教に改宗したのでした。

 このような状況の対処法は二つあります。片や、怒り狂って、相手を罵倒(ばとう)し、憎悪に任せて行動するか、あるいは、しもべとなることです。相手が神の福音に耳を傾けるまで、愛し、仕え続けるのです。これが、「誤った状況」を「正しい状況」に変える方法です。

 私も、しもべになりなさいと言ったり、このような本を書くのはむしろ楽であることは、十分承知しています。難しいのは、実際に外に出て、足が痛くなるまで働き、自分を不当に扱っているあのイヤな共産党員の水田に水を引いてやることです。でも、そこにも喜びがあります。ついに水を引き終えた時、「ああ、自分がずっと仕え続けていたのは、あのイヤな共産党員ではなく、キリストにある同志だったのだ」と知るようになる喜びがです。そして相手は、あなたが水を引いた水田の収穫を喜んで分かち合ってくれるでしょう。

 たとえ不公平に思えても、とにかくまず自分がしなければならない時があるものです。ぐっとこらえて、まず自分から親切をしましょう。ぎくしゃくしていた人間関係がうまく行くようになった時、親切をしたかいがあったとわかるでしょう。

 

耳を大きく開けて聞く

 耳を大きく開けて聞く人がいます。私はこの表現が気に入っています。こんな言い方はしないかもしれませんが、注意深く相手の気持ちをくみ取って聞くには努力を要することを示しています。全神経を集中させて、エネルギーと関心を注がなければなりません。しもべの耳は、語り手に熱心に耳を傾け、その語調や声の起伏の中に、相手が必要としているものを敏感に感じ取ります。そういう人は、あなたに深い関心を寄せ、心の内を引き出す機会を探します。

 男性と女性の違いは、そこにも表れます。女性は実に良く配線されています。感情のアンテナが四方八方に突き出ていて、音声と双方向通信用の配線がされています。そして、送受信の両方をします。相手の線につないで、その人の感情や必要を「耳を大きく開けて」聞くのです。

 それに引き替え、私達男性は配線されていないも同様です。線が二本ばかり出っ張っていますが、曲がっていることがよくあります。スピーカーは普通はきちんとつながっていますが、受信機は壊れています。だから、私達男性は女性よりも余分の努力を払って「耳を大きく開け」なければなりません。男性と女性の配線は違うのです。

 しもべは聞き上手です。チャンスを求めながら聞いています。相手の心の傷をいやし、喜びを分かち合おうとして聞いているのです。「耳を大きく開けて」聞きましょう。そうすれば、その効果に驚くことでしょう。

 

 気の向くままに?

 

 成長し、変わり、愛の内に生きていきたいなら、「この人なら変えることができる」という人物が一人だけいます。誰だか見当がつくでしょう? 私に変えることのできる人物とは、唯一、私自身です。つまり、人間関係に変化が必要ならば、まず自分を変えなければならないのです。

 自然主義と呼ばれるおとぎ話が流行っています。これは、「本能のままに行動する」のが正しいとする主義です。本当ですよ。そして、自分を変えたり、順応させたりしなければならない、となると、それは自然でも現実でもないのだそうです。何たるたわごとでしょう。多くの結婚生活が、このおとぎ話によって苦しんでいます。「Vitalizing Intimacy in Marriage(結婚生活をいきいきと)」で、著者パットとロバート・トラビィス夫妻はこう語っています。「夫婦の関係を向上させなければならないと知って罪悪感を抱く夫婦がたくさんいます。まるで、夫婦関係を向上させるということを、結婚がうまくいっていないか、『自然に』愛し合っていないという意味に取っているようです。」

 このおとぎ話は、「そして、二人はいつまでも幸せに暮らしました」という結びの延長にすぎません。この世で唯一の伴侶が自然に見つかり、まるで川が海に流れるように、何もかも自然にうまく行く、と言っているのと同じです。何と馬鹿馬鹿しい。人生はそんなにうまくはいきません。人生の良きもののほとんどは、達成に努力を要します。数学や英語の勉強ならば、宿題をしなければなりません。自転車乗りも、水泳も、テニスも、練習が必要です。「良き人生」には、成長と、学習と、誤りに気づくことと、学び直すことが要求されます。人生は句点であり、終止符ではありません。どんどん続いていくものなのです。

 

 リスクとスリル

 

 人生は危険なビジネスです。事実、生きてそこから抜け出ることはできません。けれども、危険を冒すことに伴う結果を避けたいあまり、両手をひざに置いてじっと座っているわけにもいきません。

 ちょうど、サーカスの空中ブランコと同じです。ブランコ乗りは、ブランコにつかまって前後に揺れます。でも、それだけではスリルがなくて、観客も全然おもしろくありません。観客が立ち上がって拍手喝采するのは、ブランコ乗りがブランコから手を離して、フワリと空中を舞うその瞬間です。人生を面白くするのは、手を離すこと、もう一つのブランコが一寸違わぬタイミングで手元に来ると信じて危険を冒すことです。

 確かに、落ちるかもしれないという危険は常につきまといます。けれどもブランコにしがみついたままで絶対に手を離さないブランコ乗りは、手を離して空中に舞う人が味わうような爽快な気分を味わえないでしょう。長生きするかもしれませんが、良い人生は送れません。

 

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クリスチャン・ダイジェストは、全く営利を目的としない出版物です。この小冊子は私的な出版物であり、特定の人々に無料で配布されています。よって非売品です。

 

CD20--"MAKING THINGS RIGHT"--JAPANESE.