クリスチャン・ダイジェスト

 

恨 み それとも 赦 し?

 

  この小冊子の読み物は様々な書物の抜粋で、有名な著者によるものもあれば、さほど知られていない著者によるものもあります。このクリスチャン・ダイジェスト特別号のために要約された本や読み物に共通していることは、クリスチャンの間でさえひどくはびこっている深刻な霊的問題、つまり、恨みや憤りという猛毒をテーマとして扱っていることです。

  ここに出てくる著者は各自、この問題に取り組み、それを克服することに成功しました。この霊的な病気の治療法として著者たちが勧めている幾つかの具体的なステップには、それぞれ小さな違いが見られるものの、全員が揃って強く勧めているもの、それは、決して失敗することのないもの、つまり神の愛と赦しです。「愛は多くの罪をおおうもの」なのですから。

 

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 目 次                                  

恨み:その有毒な根を抜き取る....   

心の傷と恨み............   

赦し−−人間関係に欠かせない要素..   

過去に受けた傷の影響を克服する...10 

恨みは私の問題...........12 

どのようにして憤りを取り除くか...13 

今も赦すことを学んでいる......14 

赦しのうちに見いだした平安.....16 

苦い根についての聖書の言葉.....19

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恨み:その有毒な根を抜き取る

ジム・ヘンリー著

 

  恨み(bitterness)とは、誰かが故意にあなたのことを不当に扱った時、あるいは不当に扱われたように感じる時に、心の中に忍び込んでくる憎しみと悪意に満ちた苦々しい思いです。この言葉を辞書で調べてみると、味、感情、または思いが辛辣であることと定義されています。それは古い英語の言葉から来たもので、その意味は「味の辛辣さ」なのです。

  誰かがあなたを怒らせるようなことをして、その事についてずっと恨みを持ち続けたという辛い経験をしたことがあるなら、それが精神的にいかに悪いものかわかるでしょう。心の中に憎しみの感情や思いが込み上がってくるのです。それが恨みというものです。そして神の言葉は確かにその事について語っています。

 

恨みを認識する

 

  恨みはどのようにして現れるか知っていますか? 少なくとも三つの形で現れます。

  恨みの一つの形は、直接神に向けられたものです。愛する人を亡くした、友から金をだまし取られた、自分が昇進するに値すると思っていたところ、他の人が昇進した、あるいは夫が家を出て他の女性と一緒になってしまった、などといったことから、神に恨みを抱く事があります。

  あなたは怒り、こう言うことでしょう。「主よ、もし私を本当に愛しているなら、どうしてこんな事が起こったのですか? もしあなたが祈りに答える事ができるなら、どうして私の祈りに答えて下さらないのですか? あなたにはそのような力がないか、きっと私の事を気にしておられないのですね。どちらにしても私はあなたに対して怒っています!」

  二つめの恨みのタイプは、他の人に向けられたものです。例えば、両親が自分を不当に扱っていると思って、反抗して家出をする子供の持つ恨みがあります。また、「夫が私をこんな風に扱い続けるなら、精神的にまいってしまう。いつか仕返しをしてやるわ。」と言う妻の待つ恨みがあります。

  また、「やつらのした事を赦すというのは、不公平だ。やつらは赦しになんか値しない。しばらくはこの恨みを持ち続ていよう。その内に彼らも、自分達が私にどんなひどい仕打ちをしたかを悟るだろう。そしてやつらの身にも何かが起こる事だろう。」といった恨みを抱く人もいます。

  私達の誰一人として、他の人に対する恨みや憤慨心を持ち続けるような余裕はありません。恨みは、他の問題の根となるだけだからです。

  恨みは、直接自分自身に向けられる事もあります。たとえ神があなたを赦していても、自分自身を赦せないという形で恨みが現われるのです。あなたは恨みの重荷を背負いながら、このように言います。「これは当然の報いだった。だが、この責めは自分で負いきれるから、この重荷を背負うことによって、自分で償いをしよう。」 自己中心的なプライドがあなたの心にまつわりつき、他の人や神からの赦しを拒絶するのです。

  これが原因で、自己憐びんの人生を送る人もいます。「わかった、私はこれを受けて当然だ。神が私を裁いておられるのだ。私はこれらの事をすべきではなかった。だから今私は当然の報いを受けている。ただ殉難者のようになり、これを背負って生きていかなければならないのだ。」 そして恨みや憤りを抱き、神や誰かに対して悪感情を抱きながら、人生をとぼとぼと歩むのです。あなたはそれを背負って生きていき、しまいには、自分も、まわりの人達も皆、悲しむ事になります。どうしてでしょうか? それは、あなたが一度も自分の恨みの問題に取り組んだことがないからです。聖書には、「苦い根がはえないよう気をつけていなさい!」(ヘブル12:15)とあります。

 

苦い根は見えない所からはえ始める

 

  苦い根がはえていないかどうか、気をつけて見ているだけではいけません。見えない所からはえてくるので気づかない事もあり、気づかないでいると、とりわけその危険にはまり込んでしまいがちです。

  この聖書の節を読んで下さい。「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出ることのないようにしなさい。」 さて、根はどこにあるでしょう? 普通土の中です。見えませんが、ちゃんとあるのです。私の庭には幾らか雑草がありますが、雑草はどんな場所にもはえ、煉瓦の隙間にまではえてきます! 地下のどこかに根があるのです。日陰であろうと日なたであろうと、その根から雑草が成長してきて、私にはそれを取り除くことができません。根は見えませんが、地下に根があるという証拠は、あらゆる所に見られます。

  苦い根は、目に見えない敵となり得ます。あなたの心と霊の中で、悪性の腫ようのように大きくなってくるのです。聖書は、それに用心するようにと警告しています。それが目に見えないからといって、存在していないということではありません。

  苦い根とは、まだ刈り取られていない怒りから生じるものです。そして時が来ると、その姿を表すのです。民数記32:23には、「その罪は必ず身に及ぶ。」とあります。

 

苦い根はその芽を出し、問題を引き起こす。

 

  聖書は、苦い根が芽を出すことについて警告しています。その芽が出る時、何が起こるのでしょうか? 何か良い事が起こりますか? いいえ! 喜びですか? いいえ! 愛ですか? いいえ! 平和ですか? いいえ! 「気をつけていなさい、苦い根が問題を起こす事のないように!」

  苦い根は、正しく処理されないなら、問題を生じさせます。少なくとも2つの方法で。

  まず、それは肉体的な問題を引き起こします。「None of These Diseases」という本の中で、著者のS.I.マクミラン氏は、「怒りをためこんでいると、少なくとも50種類の病気を引き起こす。」と言っています。

  ビオラ大学の心理学教授であり、クリスチャン著作者でもあるノーマン・ライト博士は、マクミラン氏に同意しています。ライト博士は、「神は、私達の体に喉から直腸に至る9メートルほどの管を造られました。そしてその長い管は、恨みや怒りによって正常な働きが乱されると、大腸炎や下痢、潰ようを引き起こすのです。」と言っています。(編集者注:もちろん、そのような慢性の病気はしばしば、恨みや怒り以外の様々な原因によっても引き起こされます。) 私達が怒り、その怒りを正しく処理しないなら、肉体的に影響が出てくるわけです。

  苦い根はまた、私達の精神的状態にも現れます。苦い根とは、実際には怒りに取って代わるものです。私達は、苦い根が原因となっているとは知らずに、他の事や他の人、または他の仕事に対して怒りを覚えることがあります。私達のエネルギーも思考も、怒りのムードに入り込んでしまっており、精神的に影響を受けるのです。憤った気持ちがあるために、私達の生活に、何の喜びも創造性も建設的な力もないのです。

  また、苦い根が取り除かれていないと、霊的にも影響を受けます。どのようにでしょう? 神の愛を受け入れる事ができなくなるのです。苦い根のせいで、自分の神との関係に疑いを抱くようになる事があります。レイ・バーク氏は「Anger −Diffusingthe Bomb(怒り−−爆弾を放散するもの)」という本を書きましたが、その中で、神が自分を愛していることに疑いを抱いている人と話すたびに、その人には、神、あるいは自分自身や誰か他の人に対する、苦い根がずっとあったことを発見したと言っています。そして、この苦い根を処理し、解決した時に、彼らは再び神の愛と赦しを受け入れることができたのです。

 

どのようにして、苦い根を克服するか?

 

  幸いな事に、誰でもこの恨みの霊を克服することができます。神は私達がそれを取り除くよう励ましており、エペソ4:31では、「すべての苦い根、憤り、怒りを捨て去りなさい。」と言っています。

  聖書はとても実際的で、もし私達が、苦い根を克服することについて神が教えておられる事を行うなら、その苦い根による束縛から解放されるとはっきり述べています。

 

神への恨み

 

  まず、神への恨みを取り除きなさい。次のようなステップを踏むのは助けになることでしょう。

  最初に、神の知恵を信頼することです。でも、この地上で起こる事がすべて良い事だと信じるべきだと言っているのではありません。罪はこの世にはびこっており、サタンは今なお「空中の権を持つ君」です。けれども神が、あらゆる物事が起こるのを許されたのだと信じなければなりません。たとえそれが、神ご自身も好きではなく、また私達も好きではないことであったとしても。神は、ローマ8:28の約束に従って、その知恵の内に、いつか、神の子供達のためにそれを益として下さるのです。

  次に、神に、この事を通して何を教えようとなさっているのか尋ねなければなりません。聖書は、私達はイエスの弟子であると言っています。弟子とは何でしょう?−−学ぶ者です。聖書には、天の父が教師であり、私達は弟子であるとあります。私達は学ぶ者なのです。この人生での経験は、私達に色々な事を教えてくれます。時々私達は、早く目的地に着きたいとあせるあまり、その途中で、喜びを味わうことを忘れてしまうことがあります。苦い根があって、神に対して怒りを覚えそうになったら、あなたに、何を教えようとしておられるのか、神に尋ねなさい。

  三番目に、神の約束を自分の状況に当てはめることです。

  四番目には、自己憐びんに陥るのを拒絶することです。あなたは「『かわいそうな私』病」にかかったことがありますか? 「何てかわいそうな私。私に起こった事を考えてもみて。」といつも言っている人が、あなたの回りにもいることでしょう。誰も、そんな悲しみにくれた人のまわりにずっといたいとは思わないものです。そんな人といてもちっとも楽しくないのですから。だから、このシンドロームに陥ってはいけません。

  五番目として、時がたてば状況は変わるという事を、頭に入れておきなさい。あなたが今味わっている困難な経験も、怒りや恨みを抱かせるような状況もすべて、時がたてば過去のものとなるのです。

  六番目は、いつもすぐに感謝を捧げる事です。最近私は、「賛美は素晴らしい事を成してくれる」という短い歌を学び、私は朝起きるとすぐに、それを歌い始めます。その歌はこうです。

 

状況がどんなにひどくなろうとも

イエスは私の心を歌で満たしてくれる。

賛美は素晴らしいことを成してくれる。

 

  神に恨みを抱きながら、同時に賛美を口にすることはできません。こぶしをあげて神に怒っている時に、神を賛美することなどできないのです。だから聖書には、「すべての事について、感謝しなさい。」とあるのです。−−第一テサロニケ5:18。主に感謝を捧げ、主の御名をほめたたえることを学びなさい。そうすれば、賛美は驚くほどに素晴らしいことを成してくれます。

 

自分自身に対する恨み

 

  多くの場合、私達は自分自身に対して怒りを覚えます。それは色々な形で現れます。拒絶されたように感じたり、自己憐びんにふけったり、自己イメージがひどくくずれたりするのです。

  過去に犯した罪や失敗が原因である場合もあります。過去に戻ることができたとしたら、100万円もらってでも、同じ罪や失敗は犯すまいと思います。しかし、現実にはそれをしてしまったのであり、自分を赦すことができないでいるのです。  さて、これにはどう対処したらいいのでしょうか?

  私は最初に自分の罪を主に告白します。そして、「もしわたしたちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」という主の約束を信じるのです。--第一ヨハネ1:9。神が自分を赦して下さったと知るなら、私も自分を赦すことができます。

 

他の人への恨み

 

  他の人への恨みはどのように対処すればよいのでしょう? 一つすべきことは、自分の怒りを一時的なものとすることです。エペソ4:26で神は、憤ったままで日が暮れるようであってはならないと語っています。もし今日誰かに腹を立てたなら、日が暮れる前に怒りを静めるべきです。もし日が暮れても、それに対処していないのなら、一晩中、怒りを煮え立たせ続けることになり、次の日には怒りと恨みが倍になっていることもあります。ワシントン・アービィング氏は、辛らつな気性だけは、年を取るにつれて角がとれていくことがないと言っています。だから日が暮れる前に自分の怒りを静めなさい。いつまでも持ち続けないことです。

  もう一つの重要な部分とは、口です。聖書は、口は小さな部分であるが、多くの問題を引き起こしうると言っています。自分が言わなかった事のために、トラブルにはまり込むことはありません。だから、自分の見聞きした事に関して、心の中で「NC」のスタンプを押しておくのが、しばしば最善なのです。何の事かわかりますか? 「No Comment(ノーコメント)」です。そうすれば、困った羽目に陥らないよう自分を守ることができます。自分の言葉に気をつけなさい。毒舌は、使えば使うほど鋭くなってきます。だから用心することです。

  私達はまた平和を追求するべきです。「すべての人と相和すように努めなさい。」−−ヘブル12:14 「平和を求めて、これを追え。」−−第一ペテロ3:11 私達は犬がきつねを追うように、平和を追い求めなければならないのです! それをしなさい! ピリピ4:5 は、「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。」と命令しています。優しくしなさい。殆どの人に、あるいは、ある人々に優しくするのではなく、すべての人に優しくしなさい。穏やかに生き、平和を求めなさい。

  また、あなたが何か間違った事をしたために、誰かがあなたに傷つけられたと感じ、怒りや恨みを心に抱いていると知っているなら、積極的に一歩踏出して、和解を求めたらいいでしょう。マタイ5章23-24節でイエスは、供え物をささげようと主の御元に来る場合、兄弟が自分に対して何か恨みをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を置いて、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさいと言っています。だから主は両方の側面について話しておられます。つまり、私達が誰かに対して恨みを抱いていたり、赦していない時にその人の元へ行くように言っているだけではなく、私達に対して恨みや怒りを抱いている人の所にも行くようにと告げておられるのです。

  もう一つ大切な事があります。それは、赦して、忘れるということです。頭にこびりついているいやな出来事を、どうやって忘れることができるのでしょう? 聖書には、神は私達の罪を覚えておられないとあります。しかし、全知の神である方が、どうやって忘れることができるのでしょうか? すべての事をご存じでありながら、どうやって忘れることができるのでしょう? その秘密はこうです。赦し、忘れると言う時の、忘れるというのは、神のように、もうその過ちのことで、相手に悪感情を抱いたりしないということです。神はもう、罪のことで私達を訴えることはなさいません。それについてもう覚えておられないのです。もちろん、あなたと同じように、それについて知ってはおられますが、その件を再び持ち出すことはなさらないのです。それが私達のすべき事です。過去の事をほじくり出したりしないで、過去のことは過去のこととして水に流しなさい。

  時々私達は、結婚相談所に駆け込んできたある男のようになってしまいます。「私の妻を何とかして下さい。早く、早く! 彼女はヒストリカル(歴史的なこと)なんです。」 「えっ、ちょっと待ってくれ。ヒステリカル(ヒステリックなこと)じゃないのかね。」「そうじゃなくって、ヒストリカルなんです! 過去の出来事を何から何まで持ち出してくるんですよ!」

  中には、誰かと最初に知り合った時にまでさかのぼって、それ以来、その人が自分に対してした傷つけるような事をすべて、起こった順に並べたてたりします。もしあなたがその人を赦しているなら、そうした過ちを忘れ去り、決して再び持ち出したりしてはいけません。過去のことをくよくよ考えていてはいけません。そして過去の出来事があなたの心に居座るようなこともないようにしなさい。

  南北戦争後、ロバート・E・リー将軍は、ケンタッキーのある家を訪れた時、その家の夫人が、庭の前にある、砲撃されて枝のなくなった木を指さして言いました。「北軍がここに来る前は、それは素晴らしい、立派なモクレンの木でしたの。ところが彼らに大砲で爆破されて、これしか残っていないんです。どうお考えになりますか?」  彼女は、将軍が同情を示し、北軍を非難することを期待していたのですが、その代わりに将軍は彼女を見て、ただこう言ったのです。「切り倒して、忘れてしまいなさい。」

 

あなたはどうですか?

 

  あなたの人生には、苦い根をはやした木が立っていますか? 神への恨みですか? それとも他の人、または自分自身に対する恨みですか? 何にしても、それを切り倒して、忘れてしまいなさい。

  自分の恨みの霊を取り除いてしまおうと決心することです。「すべての苦い根、憤り、怒り、騒ぎ、そして、またいっさいの悪意を捨て去りなさい。互いに情深く、あられみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。」−−エペソ4:31-32

 

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心の傷と恨み

ビル・ゴサード

 

  心の傷というのは、今日私達が抱える主要な問題の一つに違いありません。ひどく傷つくのがいやで、全く感情抜きの人間になろうとすることもあります。こんな事を言う女性たちに会ったことがあります。「もう傷つくのはごめんだわ。もう二度と誰も愛すもんですか。」 そこでかたくなになり、冷めた態度になってしまうのです。それは、苦痛に堪えるための一つの方法です。二度と傷つくことがないよう、自分の内に引きこもってしまうのです。けれども、あなたがイエスを受け入れる時、神はあなたの心を癒し、その冷めた心を取り去って下さいます。だから、再び心を開き、誰かを愛することができるのです。

  クリスチャンでさえ傷つくことがあります。傷つくこと自体は罪ではありませんが、それに対するあなたの態度が極めて重要です。傷つくだけでも十分に大きな問題なのですが、その傷ついた気持ちを正しく処理しないなら、苦い根が生えてきます。最終的にあなたをだめにするのは、「傷ついたこと」ではなく、その苦い根なのです。

 

苦い根に気づく方法

 

  苦い根に気づくのはさほど難しいことではありません。ひどく深刻な苦い根を持っている人の性質の幾つかを考えてみましょう。

  1.人への思いやりに欠けている。苦い根を持っている人は、他の人のことをほとんど気にかけない。

  2.繊細で怒りっぽい。例えば、二人の人が話をしている部屋に苦い根を持っている人が入って来た時に、その二人が静かになるなら、苦い根を持った人は、「私のことを話していたんだ」と考える。

  3.友人が少ししかおらず、彼らに対する独占欲が強く、真の親友はめったにいない。また、友人を失うことに対して不自然なほどの恐れを持っている。

  4.新しい人に会うのを避ける傾向にある。

  5.ほとんど、あるいは全く感謝を示さない。

  6.よく、空虚なお世辞や、きつい批判の言葉を言う。

  7.しばしば長い間、人に対して恨みを抱く。赦すのが極めて困難。

  8.しばしば頑固でむっつりした態度を取る。

  9.普通、なかなか物を分け与えたり、誰かを助けたりしようとしない。

  10.極端なむら気−−高揚して幸せだったかと思うと、次の瞬間にはすっかり落ち込んでしまっている。

  (編集者注:これらはしばしば苦い根の症状ですが、他の原因から来ることもあります。)

 

苦い根:地獄の種

 

  苦い根について悪いことは、それが止まるところを知らず、悪化の一途をたどることです。最初は、傷ついた思いという小さな種にすぎなくても、大きくなって非常に危険なものになってしまうのです。一人の人の苦い根によって多くの人が傷つくこともあります。(ヘブル12:15 を参照)

 

「頭の中のファイル・キャビネット」

 

  苦い根があると、あなたは、その「ひどい人」が、自分にしたことだけを考えてしまいます。その本人の名前と、「この人が私にしたひどい事」というラベルの貼られたキャビネットを作るのです。さて、これは大きなファイル・キャビネットで、その人が、自分を傷つけたり、自分の気に入らないささいなことをする度に、それを、自分の傷ついた他の出来事の記録と一緒にファイルに入れるのです。私達は普通、そういったキャビネットを幾つも持っています。

  とどまることのない執ような苦い根の原因の一つは、人を責める事によって自分の罪を差し引きゼロにしようとする事です。私達はこう言ってしまいます。「そうだ、私も間違っているが、彼らはもっとひどい。私には苦い根を抱く十分な理由がある。彼らが私にしたことをあなたは知らないんだ!」 そのようにして私達は、自分が良心の呵責をそれほど感じなくて済むようにするのです。

  苦い根を持つことで相手に対して復讐したいと思う人が多くいます。私達が苦い根にしがみつくのは、時にはそれが理由なのです。「見ていろ、今に後悔するからな。」 でも最初に後悔するのは誰でしょうか? あなたこそ自分をだめにしているのです! あなたは霊的、感情的に傷ついただけでなく、肉体的にも傷ついています。苦い根や憤りは、潰瘍や高血圧などあらゆる種類の病気の原因となることがよくあります。心の奥深くまで苦い根を持っている人は、おいしい食事を楽しむこともできません。食事の席についても、自分を傷つけた人の事しか頭にないので、どんなおいしいものを食べようとも、それを味わうことができないのです。

 

苦い根のわなから抜け出る

 

  主の祈りにはこうあります。「神よ、私が他の人をゆるしましたように、わたしの罪をもおゆるし下さい。」 傷ついた思いが苦い根に発展する原因は何かと言うと、傷ついた時に神が与えて下さる助けを受け入れないことです。誰かを赦すというのは、傷つかなかった振りをすることではありません。キリスト教はそんな振りをするように教えてはおらず、そんなのは気違いじみたことです。あなたは自分に正直になり、自分が傷ついたことを認める必要があります。では、どうやって傷ついた思いを克服するのでしょう? ここに、基本的なステップをあげましょう。

  祈って、あなたの苦い根と赦さない態度を赦していただくよう神に求める。これは簡単なことですが、辛いこともあります。一人で少しの時間を取る必要があるかもしれません。時間を取って、実際に自分が神と他の人をどのように傷つけてしまったかのリストを書き、主にあなたを砕いていただくことです。それらの事に対して、一つ一つ神の赦しを求めて下さい。そしてそれが終わったら、リストを破り捨てるのです。本当にすっきりします。焼いてもかまいません。

  ファイルを処分する。他の人に傷つけられた事のリストを覚えていますか? あなたの頭の中のファイル・キャビネットを開けて、すべてのファイルを取り出し、それらを処分するのです。リストを粉々に破くなり、焼くなりして下さい。それらをすべて神に向かって放棄するのです。赦しとは、ファイルのキャビネットを神の御前に開き、負債を帳消しにすることです。「私はもはやこれらの事で彼らを恨まない。記録しておくことさえしない。」 全く記録を残さないのです。それこそ、神があなたに対してされることです。あなたは、主に、赦してもらったすべての負債を覚えていてほしいと思いますか? もちろん、違います。だから、あなたも同じ事をするのです。聖書にはこうあります。「もしも、あなたがたが、人々の過ちを赦すならば、あなたがたの天の父も、あなたがたを赦して下さるであろう。もし人を赦さないならば、あなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦して下さらないであろう。」−−マタイ6:14,15 。人を赦すというのは、神があなたを赦して下さることに応えて、あなたが選ぶべき選択です。あなたはそうすることを選びますか?

 

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赦 し

−−人間関係に欠かせない要素

チャールズ・スタンレー著

 

赦しと自由

 

  赦しとは、「あなたに対して過ちを犯した人を、その償いの義務から解放してあげること」です。例えば、あなたから借金をした人の返済の義務を免除してあげるなら、その負債を帳消しにしたことになります。

  ですから、赦しには三つの要素がかかわってきます。損害、損害から生じる負債、そして負債の取り消しの三つです。赦しが行なわれるには、この三つが揃っていなくてはなりません。人を赦さないことで苦しんでいる人々の大半は、赦していないことが自分の問題の根源であるのに気づいていないと私は思います。

  赦さない人は常に、恨まれている人よりもはるかに人生の敗北者です。赦さないことは、まさに、クリスチャンの生活において多くの事を達成するのを妨げ、事実上、御霊によってではなく、肉によって歩むことを余儀なくさせるものです。

  赦さない霊の破壊的な性質は、一つの関係にとどまりはしません。憤りや他の否定的な感情は、それ以外の関係にも影響を及ぼすのです。これは、赦さない人のほうが、人生の敗北者となる第二の理由です。

  一人の人に敵意を持っていると、他の人たちとの関係にもヒビが入ってくるのですが、残念なことに、ほとんどの人はこのことに気づいていません。他の人たちとの問題を解決して、折り合いよくやっていこうとするのですが、うまく行きません。問題の真の根源に気づいていないのです。そういった人は、うまくやっていこうと努力するのに疲れてしまうと、自分は他の人々の感情に対して鈍感な性格なんだと言い訳をし、そういった自分の問題を人々が大目に見てくれるよう期待します。自分を受け入れてくれようが拒もうが、どっちでもいいといった態度を取るようになり、そのことで、自分の一番愛している人達を傷つけてしまうのです。

  赦さない人が、人生の敗北者となる、第三の理由は、他の理由に大いに関係しています。夫婦間であれ、仕事上のことであれ、友人関係や他の人間関係であれ、何かのことで不当な扱いを受けた人は、自分は拒絶されたという思いを抱いてしまうのです。

  赦さない人の人生が荒廃したものになってしまう第四の理由があります。それは、赦さない人は普通、相手が謝りに来るのを待っており、待っている間に本当に長い時間が経過してしまったりすることです。そしてその間に、肉の思いによる行動パターンや間違った思考過程を築いてしまうのです。赦さない態度が正された後でも、二次的な問題を完全に克服するには何年もかかることがあります。特に人間関係においてはそうです。(編集者注:−−神の奇跡による以外は。)

  これは皮肉なことです。赦すことを拒み、相手の謝罪を待つことによって、自分の進歩や成長を、そもそも好きではない相手の決断に委ねることになるのですから。そういう人は、自分がいわば人質になるのを許しています。「もし彼が謝るなら。」「もし彼女が戻って来るなら。」「また雇ってくれるなら。」「招待されるなら。」と言うのです。相手が最初に何かをするのを待つというゲームをしており、その間に、赦さない霊が心の奥底に深い根を降ろすのを許してしまうのです。

  いつまでも、心の傷にこだわっているのは、ガラガラへびのしっぽをつかんでいるようなものです。結局、それに噛まれてしまいます。苦い根の毒が、あなたの人格にどんどん染み透ってくると、あなたは死んでしまいます。−−それは肉体的な死よりひどいものです。あなたの周りの人たちまで、破滅に陥らせる可能性があるからです。(編集者注:苦い根が、それを抱く人にとっていかに破壊的であるかを認識するなら、それは、自分が誰かを不当に扱ったり、傷つけた場合には、その相手に謝ることで、相手が自分を赦し、どんな敵意もなくすのを、容易にしてあげなければと思う助けとなるはずです。)

 

赦しと告白

 

  もし私達がすでに赦されているのであれば、聖書はどうして私達に罪を告白するよう教えているのでしょう? 告白することにはどんな役割があるのでしょうか? 

  私達が告白と言っているギリシャ語の言葉には、「同意する」という意味があります。私達が天の父に自分の罪を告白する時、私達は神に同意することになります。つまり罪は神に相反し、人生に対する神の目的を破壊して、その結果は苦痛を来すものであるという、罪に対する神の考え方に同意するのです。

  告白にはまた、私達が自分の行動の責任を取っているという意味もあります。つまり、自分の行動を他人のせいにはしていないのです。

  告白は必要不可欠なものです。告白によって私たちは、罪悪感、緊張、プレッシャー、情緒的なストレスからの解放を経験します。罪を告白しない限り、そういった不必要な不快感が続くのです。

 

他の人を赦す

 

  赦すことは、私達一人一人が、いずれにせよ取り組まなければならないことです。自分を束縛する恨みや憤りに取り組むことを拒むなら、天の父との当然あるべきフェローシップを持つことはできません。

  まず私達は、次のことについてはっきりさせなければなりません。誰かの行動を正当化したり、理解したり、説明したりすることは、その人を赦すことと同じでしょうか? 「私の兄弟」が顧客の面前で私に声を張り上げた時、彼がかなりのストレス下にあったことは私にも理解できます。しかし、理解していることで私は彼を赦しているでしょうか? 確かに違います。相手の状況を理解することは、赦しの過程に入りますが、あくまでも一部に過ぎません。

  時が経てばすべての傷が癒えるというのも、間違った概念です。日常よく聞かれる言葉で、これほど間違った言葉はありません。時の経過が自然に赦しにつながることはありません。

  最後になりますが、他の人を赦すには、直接その人のところに行って、自分が赦していることを告白しなければならないというのも間違いです。相手が赦しを求めてもいないのに、自分から相手のことを赦したと言いに行くなら、問題を解決するどころか、悪化させてしまうこともあります。

  (編集者註:私達を傷つけるようなことをしたものの、赦しを求めてはいない人に対して、自分から赦していると告白することは、確かに、必ずしも必要ではないし、益となるとは限りません。けれども、これが絶対的な決まりであるとは言えません。「私達は、お互いに肢体」(エペソ4:25b)、「兄弟の番人」(創世記4:9)であり、クリスチャンの愛はしばしば、私達が謙遜になり、正直になって、他の人のところに行き、その人に対して傷ついた気持ちや苦い根を持っていたことを赦してくれるよう求めることを強いるものだからです。そうでないと、その人は、人を傷つけたことを知らないまま、あなただけでなく、他の人をも傷つけ続けることになるかもしれません。

  また、誰かが自分に過ちを犯したと思い、その事で、その人に傷つけられたと感じ、苦い根を持ったとしても、実際には、自分が誤解していたか、思い違いをしていたということもあります。その人のところに行って、何かの事でその人に悪感情を抱いたことを告白することで、誤解が晴れるかもしれないし、その人が結局は何も悪い事をしていなかったのがわかるかもしれません。ですから、やはり、たとえ相手が赦しを求めているわけではなくても、自分が赦していることを相手に告白することが益になることもあり、そうした益のほうが、生じる可能性のある否定的な結果よりも大きいといえるでしょう。)

  時間が経過するにつれて自然と赦そうという気持ちが生ずるわけではないし、簡単な祈りをすれば赦せるというわけでもありません。赦しとは、それを越えるものなのです。神が自分を完全に赦して下さったことを理解し、それと同じことを、自分を傷つけた相手にすることなのです。

  赦しとは、次の5つのステップを経て、意思を行動で表すことです。

  1.私達は赦されている。第一に、私達は、自分が神によって完全に赦されていることを知る必要があります。自分の罪がどれほどひどいもので、それが自分を神からいかに隔ててしまったかを知り、そんな自分との交わりを回復するために、神がどれだけの犠牲を払って下さったかをかいま見るなら、私達は当然、躊躇することなく、他の人を赦すよう努められるはずです。

  2.負債を赦す。第二は、自分を傷つけたことで、自分に負債があると思う人の、負債を取り消しにすることです。相手の負っている、精神的、情緒的、時には肉体的な負債をも解消してあげなければなりません。自分の内にある敵意をすべて心の中で束にして、キリストに明け渡すことです。

  私達はこれを、相手に面と向かって話すか、あるいは誰か他の人に告白するかのどちらかの方法ですることができます。

  3.他の人を受け入れる。第三のステップは、他の人をありのまま受け入れ、その人があなたの必要を満たさなくてはいけないという責任からその人を完全に解放することです。時には、誰かがあなたにどれほどの関心を示してくれるかによって、あなたの一日が幸せなものにも、ひどいものにもなりえます。(編集者注:もちろん、これはあなたが、自分の幸福を他の人に依存しているか、それとも神に依存しているかにかかっています。) 相手を赦すと決めた時、私達は自分の必要を満たすという責任からその人を解放するのです。

  4.他の人々を成長の為の道具として見る。第四に私達は、赦した相手を、自分が成長し、神の恵みを理解するのを助けてくれたものとしてみなす必要があります。

  旧約聖書のヨセフは、この真理を理解していたに違いありません。兄弟が彼にあれ程ひどいことをした後でも、彼は彼らを赦すことができました。神が、自分をエジプトに行かせ、さらには、あのような権威ある地位につかせて、飢饉で作物が全滅してしまった時に、家族を救えるようにするための道具として、自分の兄弟たちを使ったということを悟ったのでした。

  5.和解する。最後にしなければならない事は、自分が仲たがいしてしまった者と仲直りすることです。これは状況によって異なるでしょう。それをどんな方法で行おうとも、私達は自分を傷つけた相手と再び親しくやっていけるよう、できる限りの事を行わなければなりません。完全に赦したのであれば、和解ははるかに容易なものになります。

  赦しの5つのステップを全部した後は、この簡単な祈りを祈るといいでしょう。

 

  主よ、私は(具体的に相手のした事)のことで(相手の名前)を赦します。私は敵を制し、(相手の名前)に対する私の態度のゆえにサタンに明け渡してしまった心の中の領域をイエス・キリストの御名と聖霊の力によって取り戻し、それを再びイエス・キリストのものとします。

 

  赦すことは、自分のためであるということを忘れないで下さい。相手の人の振る舞いは決して変わらないかもしれません。その人を変えるのは、私達のすることではなく、神のすることです。しかし、赦そうとしない態度からくるプレッシャーと重荷から自由になるかどうかは、私達にかかっているのです。

  赦しの過程を全部終えると、幾つかの事が起こります。第一に、私達の否定的な思いが消えます。以前、街頭やオフィスで相手に出会った時に感じた思いはもうありません。無情な思いは、愛と思いやりと憐れみと同情に取って代わり、憤りは消えたのです。

 

  第二に、自分を傷つけた人のことをはるかに容易に受け入れられるようになるでしょう。その人のことを変えなければと感じたりはしなくなり、彼らをありのままに受け入れられるのです。彼らがどうしてそのように振る舞ったか、またどうして引き続きそのように振る舞うかがもっと理解できます。

  第三に、他の人が自分にした事を思い煩うよりも、その人の必要をもっとずっと思いやるようになります。自分や自分の必要よりも、彼らの方に関心を寄せることができるのです。

  私達の心の痛みや状況がどんなにひどいものだったとしても、そういった人を赦そうとしない態度をもう一日として貫き通すことはできません。私達は他の人を赦すステップを踏み始め、真に自由であることの意味を見いだす必要があります!

 

自分自身を赦す

 

  しばしば、こういう事を耳にします。「神が自分を赦してくれたのはわかる。そして、自分に過ちを犯した人達も確かに赦している。でも、それでも心の中にわだかまりがあって、何かがまだおかしい。」 しばしばこの心の乱れは、神がなさったことのゆえに神を赦していないためでもなければ、他の人達がしたことのゆえに彼らを赦していないためでもなく、自分自身を赦してないためかもしれません。しかし、犯した過ちについて自分を赦さない限り、心の中に平安を持つことはできません。

  そういう、赦そうとしない霊を持っていると、まず、自分を絶えず罰し続けるようになります。どのようにでしょうか? 自分の罪を絶えず思い出す事によってです。サタンがそれを始めるのですが、愚かにもそれを続けてしまうのです。

  聖書の中で神が、「‥‥以外のすべての罪」は赦すなどと言われているところは一箇所もないにもかかわらず、私達は霊的に自分自身を監禁状態に追いやってしまいます。イエスはすべての罪を肩代わりして下さったのです。ご自身の身に私達の罪をすべて負って下さったわけで、例外はありません。

  自分を赦さないことの第二の結果として、不確かさという雲の下で生きることになります。神による赦しを受け入れず、疑問を抱き続けるわけです。自分を赦せないので、神が自分を赦して下さったと確信を抱くこともできず、罪の重荷を常に背負っていることになってしまいます。

  自分を赦さない第三の結果として、自分は価値のない人間だと考えるようになります。罪があるために、自分には価値がないと思うのです。このことは、私達の祈りの生活や神との親しい関係や奉仕を妨げます。

  自分を赦さないことの第四の結果は、衝動的な振る舞いをしたり、何かに過度にふけることによって、罪の意識を克服しようとすることです。自分に対する絶え間ない罪の宣告から逃れようとするのです。中には実に莫大な量のエネルギーを仕事につぎ込む人もいます。−−長時間、ひどくがむしゃらに働くのです。

  自分を赦さないことの第五の結果は、神によって有罪の宣告が下され、永遠に罪に定められたように思い、わざとらしい謙遜を持つようになることです。自分自身をあまりにも神に仕えるにふさわしくない者とする時、私達は謙遜は謙遜でも、見せ掛けの謙遜を身に付けてしまいます。そして、「謙遜な表情」のマスクによって、自分の真の姿が見えなくなってしまうのです。

  自分を赦さないことの第6の結果は、神が私達に楽しむよう望まれている事柄を、自分から取り上げてしまうことです。自ら何かを取り上げるのは、衝動的な行動をしたり、何かに過度にふけることとは反対です。生活の楽しみを自分で節制することで、赦しを得ることはできません。赦しに「値する」ために私達が何かを節制することを神は求めてはおられません。

  ではどうやったら、自分を赦せるのでしょうか? どれだけ長くそのような束縛下にあろうとも、私達は聖書にのっとった4つのステップに従うことによって自由になることができます。

  1)問題を認める。今なお、自分で自分を束縛しているという事実を理解しなければなりません。「主よ、私は自分を赦しておらず、その事で自らを捕らわれの身にしているのが分ります。」

  2)罪を悔い改める。自分で自分を赦す事のできない罪を悔い改める必要があります。自分の罪を主に告白し、主の赦しを感謝しなければなりません。「イエスよ、私が自らを捕らわれの身にしてしまい、あなたから自分を差し控えて、最大限にあなたに使われる事ができなくなってしまっていた事を赦して下さった事を感謝します。」

  3)信頼を改めて宣言する。自分が聖書の言葉に信頼を置いているということを改めて宣言しなければなりません。「東が西から遠いように、主はわれわれのとがをわれらから遠ざける。」(詩篇103:12)「主よ、神の御言葉に私の信頼と信仰を置いていることを改めて宣言します。」

  4)自由になれることを認め、そうなろうと決意する。自分は自由であると認め、あらゆる束縛から解放されることを決心する必要があります。「主イエスよ、あなたの御言葉に基づき、私の意志と信仰によって、今ここで自らを赦します。あなたはすでに赦して下さっているからです。自分が赦されている事を心に信じ、今この瞬間から、自らに対して抱いていた恨みから自由になる事を選びます。どうか、あなたの聖霊の力によって、私が自由になった事を示して下さい。」

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  赦しは解放ですが、時には痛みを伴うこともあります。自分が内に抱いていた罪や苦い根や怒りの重い荷から自由にされるのだから、確かに解放ですが、自分の過ちの為に、自らと神と他の人達に面と向かう事は困難なので、痛みが伴うのです。たとえ傷つき続けても、他人のせいにして、自分は正しいという立場を守り続ける方がもっと容易に思えるでしょう。けれども、赦さない霊の毒は私達の内にすっかりゆき渡り、神や友人達から私達を隔てるので、こういった霊を持つことを正当化するなど決してできません。私達の霊的、情緒的な幸福や健康まで破壊するのですから。

  あなたは今でも、自分を深く傷つけた人を赦せずにいて、心に傷が残っていますか? あなたはいつまで、自らの赦さない霊の囚人でいるつもりでしょうか? イエスは、赦す力、癒される力、自由になって人生を最大限に生きるための力をあなたに与えることができます!

 

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過去に受けた傷の影響を克服する

ジョン・ウィンバー著

 

内面的な癒し

 

  感情的、心理的な痛手は、苦い思い出(過去に自分が傷つけられたという思い)として長く残り、個人的な成長を妨げます。また私達をあらゆる形の罪へと導き、情緒的な問題を抱えたり、身体的な病気にかかることもあります。

  感情的、心理的な痛手は、そして苦い思い出もそうですが、自分自身の罪と、他の人が自分に対して犯した罪の、両方が原因で起こります。単に肉体的な目に見える外面の癒しとは違って、そうした過去の痛手が癒されると、その人の内面(目に見えない、見ることのできない部分)が回復します。従って、この過去の痛手から立ち直ることは普通「内面的な癒し」と呼ばれています。

  作家のデイビッド・シーマンズ氏によれば、内面的な癒しとは、「傷ついた感情や、まだ癒えていない思い出に対して働きかけ、祈ること」です。

 

診 断

 

  内面的な癒しの専門家らによれば、傷ついた思い出が原因で起こった問題に対して、キリストの恵みと赦しによる治療を施していない人には、振る舞いや感情について同じようなパターンが幾つか見られるということです。次に挙げるのは、内面的な癒しを必要としている人によく見られるケースです。

  自分のひきずっている心の傷みのせいで、内にある建設的あるいは生産的エネルギーが消耗し、罪悪感を抱き、自分は価値がなく、希望もなく、ぼろぼろで、赦しようのない存在だと感じてしまいます。

  この重荷の及ぼす破壊的影響力がそれだけにとどまったとしても、十分ひどいものですが、実際にはさらにどんどんひどくなるのです。この悲観的感情は、ある期間を経ると態度に出るようになり、私達の内に否定的な振る舞いのパターンを作り始めます。そして過去が現在を破壊し始めるのです。極端に悲観的な人は、自己を破壊したいとまで思うようになり、自己破壊や罪を犯す習慣を形成してしまいます。

  それには、幾つかの主要な兆候があります。たとえば、自分や他の人にきつく当たったり、強制するような態度をとる独断的な霊、不可能を要求するような完全主義者的態度、将来に起こることに対する極端な恐れ、決断の時になるといつも寂しく見捨てられたように感じること、自分自身の罪の意識で頭が一杯になること、地位や成功を競い合う強迫観念的反応などです。普通は、新しい霊的な自由に向かって成長しようという希望や、その自由への突破口が常に存在するのですが、その人の心が痛んでいるために、それがないのです。

  どんな形であれ、過去の痛手によって、自分が抑制されていると気づくなら、それは内面的な癒しが必要だというしるしです。過去に形成され、パターン化してしまった、異常な恐れ、心配、強迫観念などは、どんなものでも祈りによって打ち砕くことが出来ます。しかしそのためには、クリスチャンにふさわしい生き方をしようと最善を尽くさなければなりません。実に多くのクリスチャンが、人生においてたびたび生じる、自分は無価値だという思いや、異常な発作的怒りや、突然の悲嘆、心配や異常な恐れ、その他、変わりたいと思い、悔い改めようと決意しても、それでも変われないといった問題によって妨げられています。

  クリスチャンは、たとえ他の人々を導く立場にある人でも、やはり内面的な癒しを切実に必要としています。何に対処する必要があるのでしょうか? ここに幾つかの例があります。例えば、自己尊厳の欠如、自己嫌悪、神が自分を愛しておられないという気持ち、他人に対する憎悪、自分や他人を赦せないこと、やたらと自分の権力を拡大しようとすること、自己中心主義、かんしゃく、批判的態度、肉体的や精神的また情緒的ハンディキャップから来る困惑、孤独感、拒絶、悲嘆、迫害、離婚、誤った罪の意識、様々な性的問題などです。

  傷付いた思い出の感情的、あるいは心理的影響が適切に処理されていないと、偏頭痛や、蓄のう症、消化不良、悪夢、めまい、その他の様々な肉体的問題が生じてきます。

  (編集者:上記のように「診断」されるなら、それは確かに、心の傷や恨みから内面的に癒される必要があるというしるしかもしれませんが、他の原因によっても同様の兆候が現れることがあります。)

 

過去の思い出

 

  何らかの形で、過去の辛い思い出を正しく処理しない限り、そうした痛手が原因となって生じている、誤った態度や感情を正すことはできません。この態度や考え方が私達の心の中に深くとどまっていると、無意識の内に、平安や慰め、また過去からの霊的解放に関する神の約束を信じないようになってしまうのです。

  過去の辛い思い出から来る罪の意識や、心の傷に邪魔されていると、神が私達に与える準備が出来ているだけではなく、喜んで下さろうとしている多くの霊的祝福を受け損ってしまいます。傷ついた心は、辛い思い出による束縛から解放されることによって癒されます。その癒しの過程には、聖霊の導きによる赦しや感情の復興があります。

  多くの人は、辛い思い出に直面することができません。それをするなら必ず、精神的ショックを受けることになるからです。過去を直視し、そうすることによって自らを解放し、現在と将来とをフルに生きるようになるには、聖霊の力と、信仰の賜物が必要です。このように理解すると、「思い出の治療」は、辛い思い出を自分の意識から消すことではなく、神の御霊がそのとげを取り除き、感情的ダメージを癒して下さることなのです。

  悪い思い出を治療することについてのもう一つの考え方は、神は、その思い出を消し去って下さるわけではないものの、その思い出がもはや自分たちの感じ方や考え方、行動の仕方などに、重大な影響を与えなくなるようにして下さるということです。その痛みは背景へと遠のいて行きます。私達は、自分たちをキリストにおける新しく作られたものと考えることができるのです。過去の痛手の餌食としてではなく。−−それがどれほどひどく不当な経験であったかにかかわらず。

 

赦 し

 

  内面的癒しのための祈り、つまりもっと深い思い出や、それに関連して私達がキリストにあって自由になるのを妨げている心の傷や恨みなどをも癒す祈りに最も欠かせない要素は、悔い改めと赦し(自分と他の人を赦すこと)です。

  マタイによる福音書18:21-35にある、憐れみのない僕のたとえ話は、赦しを受けることと与えることの重要性を描写しています。このたとえ話は、自分に対して罪を犯した人を何度赦したら良いかについてのペテロの質問がきっかけとなりました。「7度までですか?」とペテロは尋ねました。イエスは答えて言われました。「わたしは7度までとは言わない。7度を70倍にするまでにしなさい。」(21、22節) イエスはそのたとえ話によって、誰かが私達に犯した罪で、私達が赦すことの出来ないものはない、と言われたのです。そしてそのたとえ話を通して、イエスは私達にこう教えておられたのです。私達はどんな時でも他の人を赦すことが出来る、なぜなら、神は、私達が他の人を赦さなくてはならないよりも遥かに多くのことについて既に私達を赦して下さったのだからと。

  このたとえ話の中で、1万タラントの負債のある僕が、決算のために王の前に引き出されました。その僕は返せなかったので、王はその人自身とその妻子とを売って返すように命じました。そこで、この僕はひれ伏して借金返済のための期間延長を哀願しました。すると王は、「憐れに思って、彼を赦し、その負債を免じてやった」のです(27節)。1万タラントは数十億ドルにも値するもので(当時のパレスチナの国民総生産は、おそらく1,000タラントだったでしょう!)、とても個人が稼げる額ではありませんでした。

  主は赦されない罪をも、赦して下さいます。要点は、自分が神や他の人を傷つけた時、自分の罪が、どれほど大きなものであろうと、赦しを受けることを、学ばなくてはならないということです。

 

  ところで、このたとえ話には他の教訓も含まれています。その僕が王の前を去った後、出て行って「100ペンス(デナリ)を貸している一人の仲間に出会い」ました(28節)。100デナリとは、たったの3ケ月分の給料ほどで、王が免除してくれた額と比べると、ほんのはした金に過ぎません。ところが最初の僕はその仲間をつかまえ、首をしめて「借金を返せ!」と言ったのです(28節)。そこで、この仲間は返済のための期間をくれるように頼みました−−しかしその僕は何の憐れみもなく、彼を赦すことを拒み、投獄してしまったのです。王がこのことを聞くと、「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。私が憐れんでやったように、あの仲間を憐れんでやるべきではなかったか?」と言いました。そして、こう続きます。「主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引き渡し、拷問にかけさせた。」(32-34節)

  王が立腹したのは、僕が自分が赦されたように仲間を赦さなかったからです。その100デナリの借金をした人は、赦しを乞うたのではなく、ただ返済のための期間を求めただけだったことに注意して下さい。イエスは私達が赦しを示すべきだと教えられたのです。(そして赦しを求めていない人にさえ、そうすべきであると。) なぜでしょうか? 私はこう確信しています。つまり、憐れみや赦しを示さないことは、敵がい心(他人に向けられた怒り)や罪の意識(自分に向けられた怒り)、そして思い煩い(妥当な対象物のない恐れ)などといった障害を引き起こす、大変な重荷となるからです。

  最後に、赦さないなら、地上におけるあらゆる個人的苦悩にさいなまれるようになるとイエスは教えられました。−−つまり、霊的、精神的、情緒的、身体的、社会的な苦悩です。

  神は私達に憐れみを垂れて下さいました。だから私達も他の人に憐れみを示しても良いはずです。そして、他の人を赦すにつれ、私達は引き続き神の赦しを経験することが出来るのです。

  赦しについて最後に、情緒的な健康状態を維持するのに必要な、もう一つの原理を挙げたいと思います。つまり、一人一人のクリスチャンは、赦しを受けたり与えたりすることによって、すべてのいざこざを正す責任を負っているということです。赦しを差し控えたり、受けるのを拒否したりする権利は私達にはありません。なぜなら神が私達にその憐れみを示して下さったからです。

  マタイによる福音書5:23-24で、イエスは、私達が誰かに対して罪を犯すならあやまる責任があること、つまり赦しを求め、必要とあれば損害賠償すらしなくてはならないことを明確にされました。

  イエスはまた、もし誰かが私達に対して罪を犯したなら、やはりその本人のところへ行って、和解する責任があることも教えられました。(マタイ18:15を参照。) これらの状況において、赦しを表すことは和解に不可欠なのです。

 

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恨みは私の問題

ノーマン・ビンセント・ピール著

 

  恨みは深刻な問題になり得ます。不幸せになる  だけでなく、病気になってしまうこともあります。医師によれば、恨みが疾患の要因であることがよくあるそうです。ある医師は一人の患者についてこんなふうに言いました。「この人は心から憎悪を取り除いたら健康になります。」

  恨みを排除するための第一段階は、自分の恨みは正当であるといって自分を欺くのをやめることです。おそらく、自分が傷ついた原因はたくさんあることでしょう。でも恨みが正当化されることは決してないのです。最近の分析結果によれば、恨みは、溜め込んでいると、現在自分が経験している心の痛みよりもずっと大きな害を及ぼすことになります。

  自分の恨みを心の中から完全に取り除いてしまいたいと思うようになるまで、自分に働きかけなさい。時には、人間の内に潜むマゾヒスト的な要素のゆえに、ちょうど痛んでいる歯でものを噛むように、不幸でいる事にひそかな快楽を覚え、恨みを大事に育む事もあります。しかし、精神的な健康を本当に心から求め、自分の恨みを完全に取り除いてしまいたいと思うまでになりなさい。

  自分自身に正直になりなさい。自分の抱く恨みが自分自身の失敗に対する罪の意識から来るものなのか、自分に問うてみなさい。自分で自分が失敗したと認めるのを拒み、理屈をこねて、正当化しようとし、恨みを抱くことで、自分の欠陥を他人のせいにしているのでしょうか。

  祈ってそれを追い出しなさい。祈り始め、恨みが消え去ったと感じられるまで祈り続けるのです。ある人は、自分の恨みを完全に取り除くまでに167回も祈らなくてはならなかったそうです!それは消え去り、再び戻って来ることはありませんでした。おそらくこれが理由で聖書には、「絶えず祈りなさい」と書かれているのでしょう。その過程は単純です。心と魂が祈りで満たされているなら、恨みが入り込む余地がないのです。祈ることで、心にイエス・キリストの恵みがもたらされ、それが内面を清めてくれるのです。

  まず初めに、自分が恨みを抱いている人のために祈るだけの恵みを求めて祈りましょう。これは重要です。最初は、自分が相手のために祈るなど偽善的だと感じるかもしれません。でもそのための恵みを求めて祈るなら、新しいレベルの霊的な理解と力によって引き上げられることでしょう。このより高いレベルにおいて、あなたは心から誠実に祈ることができるのです。

  明白に、全身全霊を込めて、謙遜になって誠実に祈りなさい。そして自分が恨みを抱いている相手の名前を言うのです。しかし、自分が相手を赦せるようにと祈るだけではいけません。相手に素晴らしい祝福が来るようにと祈りなさい。その人が人生において充実感や豊かさを経験できるようにとの願いを込めて祈るのです。その人が「改善」されるようにとは祈らないよう注意しましょう。そんなことをするなら、敬けんな振りをして単に相手を批判していることになるからです。

  その相手に対して親切な思いを持ち、その人を思いやる優しい気持ちを表現する機会を探しなさい。

  相手にも、あなたに親切な行いをする機会を与えましょう。人間性とは不思議なもので、私達は、誰かに何かをしてあげて、その人がそれを心から感謝し、いつかお返しをしたいという気持ちを表してくれるなら、その人のことが好きになるのです。互いに敵対心を抱いていた二人の隣人についての、こんな話があります。一人のかまどが壊れてしまい、その人はいやいやながらも、喧嘩相手に助けを求めました。その相手はかまどの専門家だからです。この事がきっかけで、その人の能力がわかり、同時に、自分が相手に依存している事を感じるようになりました。素晴らしい庭師であったこの人は、夏が来ると、お返しに野菜を贈り、そして二人の間に友情が生まれたのです。

  人の長所を探す習慣をつけましょう。誰にも必ず何か良いところがあるのですから。

 

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どのようにして憤りを取り除くか

−−心に悪感情を抱いている人々のための、ガイドポスト誌の精神療法

 

ジェームス・A・ストリンガム医師

 

 

  中年女性のアリスは、ぜん息やできもの、その他の病気を患っており、年に4回ぐらいも病院に入院しなくてはならないほどです。

  若い教師のステラは、家主が自分のことを「好きじゃない」という理由から、下宿を転々としていました。同僚の教師の中にも友達はおらず、自分の受け持っている2年生が悪い振る舞いをするのも、自分を困らせるためだと信じていました。

  ジムは、ビジネスの失敗を繰り返し、何度も胃潰瘍を患っていました

  この3人の患者、それに私のカウンセリング・ルームに来た何十人もの人は、見たところはそれぞれかなり違っていたのですが、精神療法をしていく内に、皆が、心の奥底には基本的に同じ問題を抱えていることがわかりました。誰もが、心の中に憤りや恨みを抱き続けていたのです。

  憤りや恨みという意味の英語の「Resentment」という言葉は、2つのラテン語からきており、その意味は「再び感じる」ということです。憤りや恨みを抱いている時には、最初に傷つけられた時、あるいはがっかりさせられた時や、裏切られた時に感じた否定的な感情が、その出来事のずっと後になっても繰り返しよみがえってくるのを許してしまいます。そして、そうした悪感情が何度も何度も、その毒でもって私達の体や精神を満たすのです。それが人間の思いや体に及ぼす影響は大きく、憤りや恨みの感情を抱く原因がいかに正しくても、それを正当化することはできません。15年間、開業医を務め、その後27年間、精神科医として働いてきたのですが、私は、憤りや恨みの感情を、人の性格を犯すガンとみなすようになりました。このガンは、肉体のガンに劣らぬほどの破壊力を持っています。

  私はまた、自己認識と神への信仰の二つが共に働くことによって、この憤りや恨みというガンがいやされるのを見てきました。先に述べた3人の患者には、もう一つの共通点がありました。3人とも、憤りや恨みの感情を取り除いたのです。彼らは、そうした悪感情を乗り越えたのでもなければ、それを潜在意識下に隠してしまったのでもなく、ここにまとめてある原則に従って、それに対処することができたのです。

  多くの人が憤りや恨みから解放される助けとなったテクニックを幾つか挙げてみましょう。

  最初にこう自問して下さい。私は憤りや恨みを抱きやすいだろうか? 誰かに仕返しをしてやりたくてたまらないと思っているだろうか? ある過去の出来事を思い出すと、怒りで腹わたが煮えくり返るような思いがするだろうか? 

  憤りや恨みは、姿を変えることがあって、自分でもそれとわからないことがあるということを覚えておいて下さい。特に、自分が愛していると思っている人、あるいは自分が愛しているべきだと思っている人に対して憤りや恨みを持っている場合には。ひどく厳しい上司に恨みを抱いている場合のほうが、自分にあまりにも期待をかけすぎる父親に恨みを抱いている場合よりも、解決がより容易と言えるでしょう。そうした悪感情の原因がどこにあるかを突き止められるよう、神に助けを求めなさい。

  ほとんどの人がそうですが、自分が二つ以上の恨みを持っていることに気づいたら、この精神療法をためしてみるために、一つを選んで下さい。そして後で、他の憤りや恨みについても、同じステップを踏むのです。

  1.あなたが憤りや恨みを抱いている相手の良い性質や優れた点をすべてリストアップしなさい。それができるよう主の助けを求めて祈ることです。

  2.どうしてその人が、あなたを憤慨させるような行動をしたのか、考えてみて下さい。こうして理解する事がしばしば、赦しへの第一歩となります。その人が、あなたを傷つけようとわざとこれらの事をしたのかどうか、自分に問いかけてみるのです。自分を相手の立場に置いてみるなら、あなたはその状況で、違うように行動したでしょうか?

  3.何か次のような決断をすることです。「主よ、この人に対して私が抱いている感情が間違っていることを知っています。それは、あなたの愛のおきてに反するものだからです。その人が何をしたかは関係ありません。私はこの気持ちを変えたいのです。でも、自分の力で変えることはできません。だから私自身とこうした感情をすべて、あなたに委ねます。あなたが赦すように、私も赦せるよう教えて下さい。」

  4.自分の心から憤りや恨みの感情がなくなるまでは、相手の所に行って赦したと言ったりしないこと。結婚して間もない頃に浮気をした夫を赦せないでいた患者の例を挙げましょう。ある日彼女は、意気揚々として自分が書いた手紙のコピーを持ってきました。それは残念ながらもうすでに夫に送られていました。その手紙の出だしはこんな感じでした。「親愛なるアレックス、私はあなたを赦すことにしました‥‥」 しかしそれから、アレックスの短所や失敗を長々と並べあげていたのです。その手紙からは、赦しというより、むしろ、夫を傷つけたいという気持ちがありありと読み取れました。読み返してみると、彼女にさえ、そのことが明らかだったのです。

  5.その人に対する愛で満たして下さるように、聖霊に求めなさい。もしこれを根気強く、心から行うなら、激しい怒りに満ちた復讐心に取って代わって、段々と思いやりや気遣いが芽生えてくるのに気づくことでしょう。そしてあなたの人生がより良いものになるのです。

 

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今も赦すことを学んでいる

 

「隠れ家」の著者が、「あなたの敵を愛しなさい」の真の意味を学んだ思い出をつづる

−−コリー・テン・ブーム

 

  彼に会ったのは、ミュンヘンのとある教会でのことです。その痩せた金髪の男性は、グレーのコートをはおり、手には茶色のフェルト帽を握っていました。地下の部屋いっぱいに集っていた人々は、今、木のベンチ沿いに後ろの出口へと向かっていました。1947年のことです。私は、神は赦されるというメッセージを携えて、オランダから敗戦したドイツに来ていました。

  自国が戦争で焼け跡と化し、心が重く沈んだドイツの人々にとって、これは一番聞く必要のあったメッセージでした。私は、自分が好んでよく使うたとえを彼らに話しました。オランダ人にとって、海はなじみ深いものだからかもしれませんが、私は、赦された罪は、海に捨てられると考えるのが好きでした。「私達が自分の罪を告白するなら、神はそれを、海の最も深い所に捨ててしまわれ、それは永遠に消え去ります。」と私は話したものです。

  厳粛な顔をした人々は、私をまじまじと眺め、とても信じられないといった風でした。1947年のドイツでは、話の後で質問を受けることはまずありませんでした。人々は無言の内に席を立ち、無言の内にコートをはおり、やはり無言の内に部屋を出て行ったものです。

  その人に出会ったのも、ちょうどそんな時でした。彼は後部の扉から部屋を出ようとする人の波に逆らって、前のほうに歩いてきました。最初は、コートと茶色の帽子が目に入ったのですが、次の瞬間、青の軍服と、どくろマークのついた制帽が目に浮びました。過去の記憶がありありとよみがえってきたのです。だだっ広い部屋には電燈の明かりがこうこうとしていて、部屋の真ん中には、服や靴が山のように床に積まれており、それはあわれな光景でした。そして、この男性の前を裸で歩かなければならなかったあの恥辱がよみがえってきました。私の前を、か細い妹が歩いていました。骨と皮ばかりです。ベツィー、何て細かったのかしら!

  ベツィーと私は、オランダがナチに占領されていた時にユダヤ人をかくまっていたことで逮捕され、ラベンスブルック強制収容所に送られました。この男性はそこの看守だったのです。

  その人が今、私の目の前にいて、手を差し出しているのです。「素晴らしいメッセージです! あなたのおっしゃる通り、私達の罪はすべて海の底にあると知るのは本当に素晴らしいことです!」  ところが、さっきまで赦しについて雄弁に語っていたというのに、私は、差し出された彼の手を握る代わりに、バッグに手をつっこみ何かを探す振りをしていました。私のことなど覚えているはずがない、収容されていた何千という女性の一人に過ぎない私のことなど‥‥。

  でも私は彼のことを覚えていたし、彼のベルトにぶら下がっていた、皮のむちの柄も覚えていました。自分が釈放されて以来、自分を捕らえた者達の一人に面と向かうのはそれが初めてで、血が凍る思いがしました。

  「お話の中でラベンスブルックにいたと言われましたが、私はそこの看守をしていました。」と彼は言いました。やっぱり、彼は私のことなんて覚えていない。

  彼はこう続けました。「あの後、私はクリスチャンになり、神は、私がそこでした残忍な行為を赦して下さったと知っています。けれども、あなたの口からもそのことを聞きたいのです。」−−彼はまた手を差し出してきます−−「赦してもらえますか?」

  私はそこに突っ立っていました。私自身、毎日罪の赦しを受ける必要があったものの、私は赦すことができなかったのです。ベツィーはその収容所で死にました。彼がただ赦しを求めるだけで、彼女をじわじわと死に追いやった残酷な行為が拭い去られるというのでしょうか?

  彼が手を差し出してそこに立っていたのは、ほんの短い間だったのでしょうが、私には何時間という長さに思えました。それまでで一番困難なことに直面していたのですから。

  赦さなければならない、それはわかっていました。神から赦していただくためには、一つの前提条件があります。つまり、まず自分を傷つけた者を赦すということです。イエスは言われました。「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」

  私はそれを、神の命令として知っていただけでなく、日々の経験からも知っていました。戦争が終わって以来、私はオランダに、ナチの残虐行為にあった人達のための療養所を持っていました。自分のかつての敵を赦すことのできた者達は、肉体的にどれほど障害があろうと、また社会に出て行って人生の再スタートを切ることができましたが、心に恨みを抱き続けた者達は、不具のままでした。それほども簡単で、また恐ろしいことだったのです。

  私の心はなお、冷たいものに縛られていました。だが、赦しは感情ではないということもわかっていました。赦しというのは意志による行為であり、意志は、心が冷たい暖かいにかかわらず機能できるものです。「イエス様、助けて下さい。私には、手を出すことはできます。それだけならできます。どうかあなたが暖かな感情を与えて下さい。」私は心の中でそう祈ったのでした。

  ぎこちなく、機械的に、私は、その差し出された手に、自分の手を差し出しました。すると、信じられないようなことが起こったのです。肩から何かが流れ、腕を通って、私達の重なった手の所にあふれたのです。そして、傷をいやす暖かみが私を完全に満たし、涙が溢れ出ました。泣きながら私は彼にこう言いました。「心からあなたを赦します!」

  私達は長い間、互いの手を握りしめていました−−元看守と、元囚人とが。その時ほど神の愛を強く感じたことはありません。

  あんなに難しい立場にあって赦すことを学んだのだから、その後は、赦すのを難しいと感じたことなど一度もなかったと言えたらどんなにいいかと思います! それ以後は、愛と憐れみに満ちた思いが自分から自然と流れ出るようになったと言えたら、どんなにいいでしょう。でも、そうではなかったのです。80才になって一つ学んだことがあるとしたら、それは、「良い感情や良い行いを蓄えておくことはできない、それはただ、神から毎日新しくいただかなければならない」ということです。

  そのことを私はある意味で嬉しく思います。神のところに行くたびに、神は何か別のことを教えて下さるからです。15年ほど前の出来事が思い出されます。私が愛し、信頼していたクリスチャンの友人達が、私を傷つけるようなことをしたのです。あのナチの看守を赦したのだから、このクリスチャンの友人達を赦すことなど何でもない事だと思われるかもしれません。でも、そうではありませんでした。何週間も、私は心の中でかっかと怒りに燃えていたのです。けれどもついに、またもや私の内に奇跡を起こして下さるよう神に願い求めたのでした。そして奇跡は再び起こりました。最初は、感情の伴わない、従おうという決断に過ぎなかったのですが、次の瞬間には喜びと平安に満たされました。友人達を赦したのです。私は天の父に立ち返りました。

  でも、どうして突然真夜中に目が覚めて、またその過去の事を思い起こすのでしょう? 私は思いました。「あの人達! 愛していたのに!」 彼らが私の知らない人達だったなら、それほど気に病むこともなかったでしょう。

  ベッドの中で体を起こし、電気をつけました。「父よ、すべて赦したと思っていました! どうか赦すことができるよう助けて下さい!」

  でも次の夜にもまた目が覚め、暗い思いがよみがえってきたのです。「彼らは話し方だってとても優しかった! あんなことを計画していただなんて、全く予想もしなかったわ」などと。こんなことではいけないと、私は主に呼ばわりました。「父よ、助けて下さい!」

  神は、優しい牧師を通して、私を助けて下さいました。2週間も眠れない夜を過ごした後、私はその牧師に、自分の過ちを告白したのです。彼は、窓の外の教会の塔をあごでさして、こう言いました。「あの塔には鐘があって、ロープを引いて鳴らすようになっています。でも、いいですか? 塔守がロープを手放しても、ベルは揺れ続け、キンコンと音を鳴らします。でも次第にゆっくりになっていき、最後に小さな音を鳴らし、完全に止まるのです。

  赦しも同じようなものだと私は考えます。誰かを赦すというのは、ロープから手を放すようなものです。でも、長い間、不平や悲嘆を引きずっていたなら、しばらくの間その怒りの感情が舞い戻り続けたとしても驚いてはいけません。だんだんゆっくりになって、次第に消えていくベルの音のようなものなのですから。」

  それは真実だとわかりました。その後も2、3日は真夜中に目が覚め、否定的な感情に襲われました。会話に過去の事が出てきて、鐘が再び音を立てたわけです。でも、それに力はありませんでした。私はすでに意志によってそれをしまいと決めていたからです。夜目覚める回数もだんだん減っていき、ついにはすっかりなくなりました。こうして私は赦しのもう一つの秘訣を発見しました。神は、私達の感情だけでなく、私達の思いも支配しておられると信頼できるということを。

  主はこの一つの出来事から、さらに私に教えようとなさいました。それから何年もたった1970年のことです。私がこの鐘の法則について話したアメリカ人がオランダにいる私を訪れ、その出来事にかかわりを持っていた人達に会いました。「今の友人達があなたの気を害したのでしょう?」 彼らが私のアパートを出ていった時に、彼はそう尋ねました。

  「そう、でも見てわかる通り、すべて赦されているのよ。」と私は満足げに答えました。

  すると彼はこう言ったのです、「あなたは赦しました、でも、彼らはどうなのですか? あなたの赦しを受け入れましたか?」

  「彼らは、赦すことなど何もないと言っています! そんなことが起こったことも否定するのです。でも、私は証明できます!」 熱を込めてそう言うと、私は机の所に行きました。「ここにちゃんとした証拠があります! 彼らの手紙が全部とってあるから、お見せしましょう‥‥」

  「コリー!」 友人は私の腕をとり、優しく引き出しを締めました。「あなたの罪は海の底にあるのではないですか? それなのに、あなたの友人の罪はちゃんと文面に取ってあるのですか?」

  一瞬、心が痛くて声も出ませんでした。そしてやっとのことで、ささやくようにこう言ったのです。「イエス様、あなたは私の罪をすべて拭い去って下さいます。何年もの間、私が他の人達の罪の証拠を保存していたことを赦して下さい! あなたの栄光のために、かぐわしきいけにえとして、この手紙をすべて焼くだけの恵みをお与え下さい。」

  その夜は、机の中を整理して、長い年月を経て丸まってしまった手紙をすべて石炭の燃える暖炉にくべてしまうまでは、眠れませんでした。炎が揺れ動き、暖かな輝きを放つにつれ、私の心も暖まり、輝きました。イエスは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」と祈るよう教えておられます。それらの手紙が灰になっていくのを見ながら、私は主の憐れみのまた別の面を見ていたのでした。

  私達が罪をイエスのもとに持っていく時、イエスはそれを赦して下さるばかりか、そんな罪はなかったかのようにして下さるのです。

 

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赦しの内に見いだした平安

−−つらい体験から特別な勝利を勝ち取ったペンシルバニアの農場の夫婦

ジェイ・メック

 

  10月のある金曜の午後のことです。私は、乳搾りが早く終わったことを喜んでいました。これなら、夕飯の前に他の幾つかの仕事を済ませられるし、ニュー・オランダ・フェアーのペット・パレードにも間に合うと考えたのです。

  息子たちはそのパレードをとても楽しみにしていました。特に7才になる末っ子のネルソンは。もういつネルソンが帰ってきてもおかしくない時間です。納屋の扉から顔を出してみましたが、まだ息子の姿は見えませんでした。妻のルースが地下から出てくるのが見えました。彼女は冬のためにさつまいもを貯蔵していたのです。これからネルソンのためにおやつを作るのでしょう。きっと彼の大好物のジンジャーブレッドです。

  ミルクのバケツを片付けながら、私は自分が農夫であることの喜びをかみしめました。日中、家にいて、家族と楽しい時間を過ごすことができるのですから。学校から帰ってきたネルソンが、通りから農場に通じる小道を飛ぶように走ってくる姿を見るのが私は大好きでした。彼は納屋にやってきて、そばかすだらけの顔を輝かせながら、その日の出来事を話してくれたものです。それから家に走って行くと、ルースからもらったおやつを食べ、また小道を走って行って、兄のジョニーが学校から帰ってくるのを待つのでした。ジョニーの姿が見えると、ネルソンは決まって、「ハハ、僕の方が先だったよ。どうしてそんなに遅いんだい?」と言ったものです。それから二人は競争で家に駆けてくるのでした。

  ちょうどその時、誰かが小道を走ってくるのが聞こえました。ネルソンだろうと思いましたが、納屋から出てみると、スクールバスの運転手のマイクでした。

  「ネルソンが車にはねられた!」とマイクは必死に叫びました。「救急車を呼んでくれ!」

  急に頭がくらっとしました。ルースがキッチンの扉の所から、「私が電話する」と叫んでいます。

  私は急いで、小道をかけて通りに出ました。間違ったギアに入ったトラクターみたいに、心臓が高鳴っており、頭の中がぐるぐる回っていました。「お願いです、主よ、ネルソンだけは! 誰がこんなことをしたんだ? いったい誰が?」

  通りに出ると、スクールバスの回りにはすでに人だかりができており、そこをかきわけていくと、国道340号線の路上に息子が横たわっていました。私はひざまずくと彼に優しく触れました。彼は身動き一つしません。彼の髪の毛をなでてやると、涙があふれ出て目にしみました。

  通りを少しいった所に、車が一台止まっていました。ナンバープレートを見ると、ニューヨークのオレンジと青です。

  私達の住む、ペンシルバニア州南東のオランダ系地域には、大勢の旅行者がやってきますが、中には、私達、地元の住民の間であまり評判のよろしくない者もいます。

  立ち上がった私は、喉をつまらせながら、「誰がはねたんだ?」と言いました。

  沈黙がありましたが、ついに、濃い髪の色をした若い男性と、妻らしき女性が前に出ました。彼らは、おびえ、ぼうっとしている風でした。

  「この子が、私達の前に飛び出してきたんです。」と、女性が男性の腕にぎゅっとつかまりながら言いました。

  私は彼らに歩み寄りました。私は暴力をふるうタイプではないし、誰かに手をかけたことだって一度もありません。しかし、腕が重く感じられ、手がむずむずしました。どうすべきかわからず、深呼吸をし、ようやく、「ジェイ・メックです。」とだけ言いました。

  彼はたじろぎながらも、私と握手しました。その時に救急車がやってきて、運転手はルースと私についてくるようにと言いました。その場を去りながら後ろを振り返ると、その夫婦は寄り添いながら、私達のほうをじっと見つめていました。  ランカスター病院へ向かう途中、アマン派(訳注:キリスト教の一派で、質素な服装、電気・自動車を使用しないことなどで知られる)の家族とすれ違いましたが、彼らは馬車に乗り、平穏さの内に自分達の生活を守り通していました。ニューヨーク人はここに侵入してきて、こういう平安を乱している、と私は思いました。自分達の場所ではない所に侵入してくるのです。

  緊急処置室で、私達の息子全員の出産を助けたスノー医師がすぐに私達を迎えてくれたのですが、私がうすうす感じていた通りのことを言いました。「ネルソン君は亡くなりました。」

  その後の何時間か、さらに何日かは、ぼんやりと過ぎていきました。私達はカードや手紙を山のように受け取り、何人もの友人や近所の人達がやって来ては、乳搾りを手伝ってくれ、パイやキャセロールも持ってきてくれました。でも、それほどの同情を浴びても、ルースと私は、ネルソンのことばかり考えずにはいられませんでした。彼は私達にとってまさにかけがえのない存在だったのです。

  ネルソンは、私達がかなり年をいってから生まれた子供で、神からの特別な贈り物のようでした。末っ子だったせいか、私達は彼のことをとてもかわいがり、他の子供達にもまして彼の内に喜びを見いだしていたのです。実際、彼には、人に喜びをもたらすような所が幾つもありました! 日曜学校の図書館員は彼のことを「サンシャイン」と呼びました。いつも明るく、ほほ笑みをたやさなかったからです。私達の息子は人並み外れてキリストの教えをよく理解していました。珍しいほどに人を思いやる心を持っていたのです。

  たとえば、学校で彼は、恵まれない子供達と友達になりました。体の不自由な子や、恥ずかしがり屋の子や、仲間外れにされている子と。夜に、おやすみを言いにいくと、ベッドに横たわったネルソンは祈るために手を組んで、こう言ったものです。「パパ、今夜は、祈ってあげないといけない人が本当にたくさんいるんだ。」

  他の子供と同じように、小さなネルソンも教会では落ち着きがなかったものの、礼拝の後、外に出てくると、「僕の心の中にはイエス様がいる」と言って私やルースを驚かしたりしたものです。後には、彼の見つけた病気の鳥を持ってきて助けたいと言ったり、農場での職を探している見ず知らずの人を家につれてきたりしたものでした。  18才のボブと15才のジョニーは、ずっと年が上だったけれども、弟ととても仲が良かったものです。葬式が終わって、火曜日に、私達がキッチンに座っていると、ジョニーは、学校が終わってから、ネルソンが毎日、自分が帰ってくるのを小道の所で見張っていたのを思い出して言いました。「ネルソンは今天国にいるけど、僕が天国に行ったら、ネルソンはきっと、『ハハ、ジョニー、僕のほうが先だったよ。どうしてそんなに遅かったんだい?』って言うことだろうな。」

  ジョニーの言葉に、私は胸の張り裂ける思いがしました。私達の息子の死が、どんなに無意味なものだったかを考えると、ルースと私の悲しみは増すばかりでした。ネルソンが死んだのは、車の故障のせいでもなければ、何かどうしようもなかった原因のせいでもありませんでした。そういう原因だったなら、少しは救われる思いがしたことでしょう。でもネルソンは、子供達がスクールバスから降りていたのに、誰かが車を止めなかったために、死んだのです。

  その男性が、ニューヨーク市の警官であることがわかって、私達はがく然としてしまいました。こともあろうに、ライトを点滅させながら止まっているバスを見たら、停止すべきだという法律を知っているはずの人だったとは。でも彼は停止しませんでした。彼も彼の妻も警察署につれて行かれ、検挙されました。そして保釈金が支払われ、裁判の日が3カ月後の1月17日に決まりました。

  「どうしてこの男は、もっと注意深くしていなかったのだろう?」、「止まることはできなかったのか?」と考え、ルースと私は、悶々とした日々を過ごしました。すべてが無意味に思えたのです。考えれば考えるほど、悲しみがつのるばかりでした。友人や近所の人達の言葉も、私達のその男に対する苦々しい思いを、ますます悪化させるだけのようでした。

  ある日、金物店で、ある男性は言いました。「やつが精一杯の罰を受けるといい。」

  すると別の人がこう言います。「あいつに最大の刑罰が科されるようにしてやるんだろう?」  教育委員会の人でさえ、スクールバスが止まっているのを見たら、停止するべきだとの申し立てをしたいために、私達に告訴するようにと言ってきました。

  ルースと私は、気が動転していました。クリスチャンである私達にとって、ネルソンが今、天国での永遠の生活をしていることは確かでしたが、私達は主にこう呼ばわりました。「不注意のために、私達にこんなつらい思いをさせた人物が、厳しい罰を受けるようにすべきなのでしょうか?」

  ネルソンの葬式から2、3週間たって、保険会社の人が事故の件の清算をするために、私達の所にやって来ました。彼は、ちょっと前にニューヨークの夫婦を訪れたとのことでした。

  「彼らは、すっかり打ちひしがれているようです。」

  「彼らが打ちひしがれているだって? 悲しみの涙にくれたのは、私達のほうじゃないか?」と私は思いました。

  けれども、好奇心から、おそらく説明を求めたいと思ったからでしょうが、ルースと私は、彼らに会うことはできないかと尋ねました。

  保険会社の人は、いぶかしそうな顔をして言いました。「本当に会いたいのですか?」

  「そうです。」

  彼が間に入ってくれることになり、驚いたことに、その夫婦も、感謝祭の前の月曜にディナーに来てほしいという私達の招待に応じました。彼らは、フランクとローズ・アンと言います。

  でも、その日が近づくにつれて、私はおぼつかなくなりました。「本当に彼らと面と向かうことなど、できるのだろうか? どうしてこんなことをしようと決めたんだろう?」

  ルースと私はこのことについて長く熱心に祈りました。くる夜もくる夜も、彼らが来た時に主の力と導きを与えて下さいと主に祈りました。

  その日がやって来ました。息子の死から1カ月半しかたっていません。キッチンの窓から外を見ると、小雨の中、車が小道をやってくるのが見えました。彼らを中に入れるためにキッチンの扉を開ける私の手が震えていました。

  皆がリビングルームに落ち着いたものの、その会話はぎこちないものでした。田舎の生活と都会の生活の違いについて話すと、後は、何を話しても、あの悲劇に関したことばかりでした。

  でも彼らと話している内に、奇妙なことに気づいたのです。私の内に彼らに対する憐れみが生じたのです。

  フランクは8年間、警官を務めており、彼の職歴は全く汚点のないものでした。けれども、あの事故のせいで、仕事を失うかもしれないと、彼は言っていました。ブルックリンの犯罪率の高い地域の特別警備隊の一員である彼は、日々自分の命を危険にさらして、他の人達のために働いているのです。フランクは仕事熱心で、私が農場の仕事に熱を入れるのと同じぐらいの熱心さを持っています。

  ローズ・アンも、ルースと同じで、家に3人の子供を持っています。あの10月の旅は、彼女が楽しみにしていた旅行でした。結婚以来初めて、ニューヨークを出ることができたのですから。けれども、今は悩みばかりです。ニューヨークの新聞にその事故の記事が載ったために、近所の人達と顔を合わせるのを恐れて、彼らはローズ・アンの実家に滞在しているのです。

  「これからどうなるのか全くわかりません。」とフランクは言いました。彼も、その妻も、うつろな目をしています。二人とも、かなりやつれてしまっていました。

  私達は静かに食事をしました。そしてコーヒーを飲んでいた時のことです。彼らはキッチンの壁に掛かっている絵に気づきました。イエスと失われた羊をチョークで描いたものです。

  「ネルソンは、あれを見るのが大好きでした。彼の信仰は、私達の信仰と同様、大切なものでした。」と言い、ルースは、私達が地元の教会で育ち、二人とも、メノー派の教会の日曜学校の先生をしていることを話しました。

  「でも教会に行くだけじゃいけません。毎日、自分の信仰に基づいて生きなければいけないんです。」とルースは言いました。

  フランクとローズ・アンはうなずきました。食事の後、しばらくの間、彼らを車に乗せてあちこち案内しました。ろう人形館や、学校の建物など、彼らが10月にここに来た時に行く予定でいた場所に。

  彼らが去ってから、ルースと私はキッチンのテーブルに向かい合って座りました。私達は確かにつらく悲しい経験をしましたが、あの夫婦ほどではなかったのは確かです。おかしなことに、彼らのつらい気持ちや悲しみが、理解できるようになったのです。フランクは私と同じ人間で、生い立ちは違うけれども−−彼は私には理解できない、大都会の出身ではあるけれども−−彼も人間で、私と同じような欠点や弱みを持っており、彼の犯した間違いは、誰もが犯しうるものでした。イエス・キリストも人間でした、完璧な人間だったのです。そしてイエス・キリストを通して、私は、この間違いに対して憎しみや復讐心を抱くのは正しいことではないと悟ったのです。特に、ルースと私は、自分達の信仰に従って毎日生きることを公言したのですから。

  フランクとローズ・アンは、絵にあるような失われた羊だという事が分りました。だからこそ、彼らは私達の家に戻されてきたのです。ルースと私が憐れみを持ち、イエスの持っておられた優しい愛を示すことを通してのみ、私達は平安を見いだすことができ、彼らも家路につくことができたのです。

  そのことを悟った私は、1月17日の裁判で、告訴を取り下げました。ただ交通違反の罰金を払っただけで、フランクは自由の身になりました。

  ルースと私は今も、彼らと手紙のやりとりをしています。近い内にニューヨークにいる彼らを訪問したいと思っています。都会を見たいし、彼らに再会したいし、彼らの3人の子供達にも会いたいからです。

  ネルソンは死んでしまいましたが、死んでも彼は、私達に人生について教え続けてくれています。つい最近のこと、彼のペンシルケースを見つけたので、それを空にすると、一枚の紙切れが出てきました。そこには、ネルソンが劇のために暗記することになっていた「エレミヤ33章3節」が書かれていました。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」

  ネルソンはその短い生涯の内で、特に、神の愛の偉大さや、その愛を他の人達に分け与えなければならないこと、といった力強い真実を発見したのだと私は信じなければなりません。ルースと私が神に呼ばわる時、神のメッセージは同じぐらい力強いものです。悲しみによってどんなに深い傷をおったとしても、赦し、神に信仰を持つなら、「キリストが帰って来るまで商売をしている」だけの力が与えられ(ルカ19:13)、私達の人生の砕けた破片も、主にあって元通りになるのです。

 

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苦い根についての聖書の言葉

 

  苦い根の定義:根に持つこと、または激しい憎悪、憤りや、復讐心に満ちた感情を抱くこと。他の言葉で表現すると、憐れみのないこと、赦さないこと、恨みを抱くことです。苦い根はまた、何か受け入れがたいことがあった結果として生じる感情と言うこともできます。

 

1.神の言葉は、苦い根の危険性について警告している。

 

 ヘブル12:15

  用心していなさい。たとえ小さな苦い根でさえも、あなたと他の人々に多くの害を及ぼしうるからです。「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」

 

 使徒行伝8:22,23

  苦い根は悔い改めるべき罪です。22節、「だからこの悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。」 23節、「おまえには、まだ苦い胆汁があり(訳注:英語では、『苦々しい怒りや試練の内にあり』)、不義のなわ目がからみついている。」

 

 コロサイ3:19

  「夫たる者よ(そして神の子供達全員)、妻を(お互いを)愛しなさい。つらくあたってはならない(苦い根を持ってはならない)。」

 

 ヤコブ3:14

  苦い根は誇るべきものではありません。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また真理にそむいて偽ってはならない。」

 

2.苦い根を抱き、それを持ち続けてはいけない。それに代わって愛や優しさや赦す心を持ちなさい。

 レビ記19:18

  「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨み(苦い根)をいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。」

 

 エペソ4:31,32

  31節、「すべての苦い根、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、またいっさいの悪意を捨て去りなさい。」 32節、「互いに情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。」

 

 マタイ6:14,15

  14節、「もしもあなたがたが人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」 15節、「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」

 

 マタイ18:23-35

  あわれみのない僕のたとえ話の中で、イエスは、私達が兄弟を心から赦すのを拒むなら、それによって苦しむことになるとはっきりと言われました。35節、「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」

 

 第一ペテロ4:8

  もし誰かがあなたを虐待したり、不当に扱ったとしても、神の愛は赦すことのできる愛です。「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」

 

3.心に苦い根が生えるのを許してしまうなら、それは不平不満となって、その内に口から出てくるようになるであろう。

 ヨブ7:11

  「それゆえ、わたしはわが口をおさえず、わたしの霊のもだえによって語り、わたしの魂の苦々しさによって嘆く。」

 

 ローマ3:14

  「彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。」(マタイ12:34後半も参照)

 

4.主はその愛の内に、苦い根の罪からあなたを解放して下さる。

 イザヤ38:17

  「わたしには、大いなる苦い根があった。しかしあなたは愛の内に、わが命を滅びの穴から救い出して下さった。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後ろに捨てられたからである。」

 

5.苦い根は、他の人への怒りと赦そうとしない態度から起こるので、どのようにそれを避けるかについて、聖書からもう少し解決策を挙げましょう。

 エペソ4:26後半,27

  26節後半、「憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」 27節、「また悪魔に機会を与えてはいけない。」

 

 マタイ5:23,24

  23節、「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、」  (24節)「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」

 

 マルコ11:25

  「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたの過ちを許して下さるであろう。」

 

 コロサイ3:13

  「互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」

 

 ピリピ3:13

    苦い根はまた、誰かや何か起こった事に対して悪いまたは怒りの感情を持つことによって起こります。しかし主は過去の事を忘れるように私達に告げているのです。「兄弟たちよ、わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしているのである。」

 

 ローマ12:2

  神の御言葉は、「私達の心を新たにする」ことをよく語っています。つまり、古きものを捨てる、特に、過去の不平不満の種や苦い根を捨てるということです。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何か善であって、神に喜ばれ、かつ全き事であるかを、わきまえ知るべきである。」

 

 エペソ4:23

  「心の深みまで新たにする。」

 

 ローマ8:28

  苦い根はまた、何か受け入れがたいことが起こった結果として生じた感情ということもできます。ですから、主が、私達の人生に何かが起こるのを許される時、常に、良い目的をもってなさるということを常に覚えておくことが大切です。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちにとって、万事が共に働いて益となるようにして下さる事を、わたしたちは知っている。」

THE CHRISTIAN DIGEST PRESENTS ‘BITTERNESS OR FORGIVENESS?'"--JAPANESE.