Mountain Streams

水晶の流れ 17

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

戦う者!

何のために、主の軍隊に入ったのか?

ファーザー・ダビデ

 

  新しくクリスチャンになった人々は、よくこんな誤解をする。イエスを受け入れた途端、すっかり幸せになって、すべての問題は解決されると思うのだ。二度と難儀を抱えることもなく、すべてが非常にうまくいくと考える。

  さて、母はよくこう言っていた。「あなたが『塹壕(ざんごう)から出て攻撃に移る』まで、悪魔は撃ってきやしませんよ!」 これは、第一次世界大戦の塹壕(ざんごう)戦からのたとえである。塹壕から出て、敵の陣地を攻撃し始めるまでは、敵は猛攻撃をかけてこないからだ!

  ちょうど軍隊の新兵訓練のように、主は最初に大きな試練をあなたに経験させる。入隊すると、軍隊でやっていけない者全員をふるい落とすために、新兵は最初に非常に厳しい訓練を受けることになっている。

  イエスを救い主として受け入れると、自動的にすべての問題や戦いから完全に解放されるわけではない。伝道の時、イエスがどんなに幸せにしてくれるかを、私達は相手に告げる。ところが、救われるや否や、前にはなかったような沢山の問題を抱え始めるのだ。だから、人々はこのように考えてしまいがちである。「せっかく救われたのに、どうしてなんだろう? 試練や戦いが増えただけじゃないか!」

  このことから、年寄りサムの話を思い出す。サムは敬虔(けいけん)なクリスチャンで、裕福な農園経営者の召し使いだった。ある日、主人はサムにこう尋ねた。「サム、お前はクリスチャンなのに、どうして問題や試練や難儀をどっさり抱えているんだ?わしは神を信じていないが、お前みたいに辛い事ばかりではないぞ!」

  サムはこう答えた。「御主人様、それに答えるには、ちょっと時間がかかりますだ。」

  さて数日後、サムと主人はカモ狩りに出かけた。何羽かカモを撃った後で、主人はサムに大声で叫んだ。「サム、生きているのを袋につめろ! 生きているのが先だ! 死んでるのは放っておけ!」(狩りの時、撃たれた時に即死せず、傷を負っただけの鳥は、素早くつかまえないなら、また飛び立ってしまうからだ。)

  カモを捕まえて戻ってきたサムは、「御主人様、この間お尋ねになった質問の答がわかりましただよ。」と言った。「わしは生きてる方ですだ!悪魔はわしが逃げちまうのではないかと恐れて、最初にわしを袋に入れようとするんです。御主人様は死んでいる方ですだ! 悪魔はもう御主人様を手に入れてるんで、ちっとも心配してねえわけですだ!」

 

  もちろん一度救われたなら、救いを失うことはない。あなたは永遠に主のものだ!(ヨハネ6章37節、10章28、29節を参照) しかし、悪魔はあなたが神に仕えないようにと、躍起になって沢山の問題を与える。悪魔はあなたを「自分の袋に再び入れる」ことはできないが、主から離れるよう誘惑することはでき、あなたの有用性を破壊し、あなたを通して他の人が主の御国に入ることがないようにしようとする。

  キリストを受け入れた者一人一人が、まだ悪魔の領域にいる何百人もの人への脅威となる。というわけで、悪魔は、新しく救われたクリスチャンを一人残らず止めようとしているのだ。あなたを滅ぼすことができないなら、あなたの信仰の証しを滅ぼそうとする。もちろん悪魔はあなた自身を滅ぼそうとするだろう。身体的にさえもだ。救われているため霊を滅ぼすことはできないが、実際面で本当に沢山の問題を与えることはできるのだ!

 

  新しく救われたクリスチャンで、このように尋ねる人もいる。「救われることが、一体何の役に立ったんですか? 今、辛い事ばかりです!」 そのような人達は、今では自分には主がいて、救われていることこそ大切だと覚えている必要がある。永遠の命があり、地獄に行かなくてすみ、もう死について心配することはない。今では、主の側にいるからだ。

  彼らは今では、一体何が起ころうとも、結局は勝つことを知っている! 戦いがどんなに熾烈(しれつ)でも、毎日毎日激しく戦わなければならないとしても、戦争には勝つのである。勝利者の側にいるのだ! 聖書に書かれているように、「正しい者には災いが多い」が、この後、その聖句はこう続いている。「しかし、主はその中からすべて彼を助け出される。」その災いの数、大きさには関係なく!(詩篇34篇19節)

  たとえ、この世界で、自分の周りで戦争や動揺、混乱、無秩序が起こっていても、少なくとも心の中はそれとは無縁だ。安らぎや満足感や達成感を覚えているはずである。主のために行なう事は何でも価値があると、知っているべきである。

  クリスチャンになるなら、ありとあらゆる益を受ける! 聖書に書かれてある約束全部が、今では自分のものだ! たとえ何かをあきらめなくてはならないとしても、主は報酬として「この時代では、その百倍…そして、来るべき世では永遠の命」を与えて下さるのだ!(マルコ10章30節)

  その人達は聖書を読んで、たとえ戦いがあったとしても、それには大きな報いが伴うことを知る必要がある! 戦う価値がある、とても大きな報酬が待っているのだ! 私達クリスチャンは、他の誰も持てないほど大きな報酬を受ける! それは代価をかけ、犠牲を払う価値があり、さらにはそのために命を捨てるに値するほどのものなのだ!

  彼らは自分の祝福を数え、前向きに考え始めるべきだ! 悪魔からの試練、疑い、恐れ、悲しみ、問題、難儀、災いなど、悪い事ばかりに目を留めるのをやめなくてはならない! 悲観的な事に思いをめぐらすのをやめ、祝福を考えるべきなのだ!(ピリピ4章8節を参照)

  彼らは救われており、神を持っている。イエスも聖霊もある。宇宙最大の力を有しているのだ! 無事にやっていけるし、何が起ころうとも、神は彼らの世話をして下さる! たとえ殺されたとしても、神は顧みられる! 主は、私達に何もかも与えると約束された!

  新しく救われたクリスチャンには、今少なくとも幾らかの勝利がある! 多くの者が、以前は霊的に敗北した状態で生きていたのだから! 悪魔は、今のように激しく戦ってはいなかったことだろう。彼らは、悪魔のものだったからだ。しかし今は、戦いがあったとしても、少なくとも彼らには何らかの勝利がある。

  以前は戦ってさえもおらず、主の軍隊にもいなかった! 今、彼らは主の軍隊に入ったので、何らかの戦いがあり、戦わなければならないのは当然だ。それに、戦うことこそ、軍隊が存在する理由である! しかし、それはまた、彼らには勝利が待っていることも意味している!

 

  私自身も、問題や戦いがある。しかし、それは普通、私が主と戦いに目を向けるのではなく、つまり私達が行なっているすべての良い事と助けている人々全員に目を向けるのではなく、ただ自分の利己的な心と取るに足らない自分勝手な問題に目を向けているからである。主に感謝しよう! あなたを止めることはできないと悪魔が納得するまで、戦いは非常に過酷で、激しくなるだろう。あなたがそれに耐えられるかどうか見るために、悪魔はあなたを試すのである。

  あなたを止めることができないとわかるなら、悪魔は普通そこでやめ、しばらくの間はあきらめ、徐々に攻撃をゆるめ、何か他の事をする。聖書には、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ4章7節)「敵が洪水のように押し寄せる時、主の御霊はそれに敵対して軍旗を上げるだろう。」(イザヤ59章19節)とある。

  新しく救われたクリスチャンは、自分が平和団体に入ったのではなく、軍隊に入ったことを頭に入れておくべきだ。そして軍隊は、戦闘に従事しているのだ! それは戦いだ! だが、私達は戦いが好きだ。悪魔と戦い、奴を打ちのめすのが好きなのだ!

  運動選手が試合を好むように、本物の兵士なら戦いを好むはずだ。戦いが大好きで、戦いが行なわれているその戦場にいたがる。興奮、戦いに勝つスリル、あらゆる勝利が好きなのだ!

  主に魂を勝ち取るごとに、勝利し、戦いに勝ったことになる! 私達が負けることはない! 敗北など不可能だ。「愛は決して敗れない」からだ! 負けているように見えたとしても、それでも勝っている! クリスチャンとして、私達は自分の祝福を神に感謝しているべきである! 神の愛、救い、保護、供給など神が送られたもの、または神が悪魔に持って来させたものすべてを神に感謝しなさい!

  これこそ、軍隊に入った目的である。戦うことだ! そして、あなたが戦うつもりなら、悪魔も攻撃を開始し、できるなら、まず最初にあなたを打ち負かそうとするだろう! 私がよく言うように、信仰が試されることなしに信仰の証しはなく、試練なしに勝利はなく、戦わずして勝つこともない! 不平を言うクリスチャンは、このように愚痴る運動選手のようだ。「オリンピック選手に選ばれたんだから、走る必要なんかないじゃないか? どうしてまた、このような訓練や試練を経験しなくてはならないんだ? チャンピオンになったと思っていたのに!」 そうではない。あなたはこの戦いで、勝利の栄冠を獲得しなければならないのだ!

  神から見ると、救われた時、私達は神の軍隊に入ったことになる。そして兵士となり、戦闘に突入し、戦うことを期待されている! 神は、「キリスト・イエスの良き兵卒として、私と苦しみを共にしてほしい。」(2テモテ2章3節)と言われた。また、この戦争には除隊はない!(伝道の書8章8節を参照) それは、死が私達を別つまで続く戦いなのだ!

  新しく救われたクリスチャンは、悪の世界と神の御国の間で戦争が繰り広げられていると確信する必要がある! 彼らは神の側におり、負けることのない勝利の側にいるのだが、それでも戦わなければならないのだ!

  ベテラン兵士になる頃には、戦うことを楽しみ、それが大好きになるだろう! 私は戦うのが大好きだ! それなしでは生きられない! 戦いがないなら私の霊はひからびて、実を結ばぬ内に死んでしまう! 私は戦闘が好きだ! 自分が正しい側、勝つ側にいるとわかっているので、戦うのが大好きなのだ。それに、私が誇りに思い、そのために生き、死ぬのもいとわない正しい司令官イエスがおられる。主をほめたたえよ!

 

  私達の行く手にある永遠のゴールから目を離してはならない。あの有名な信仰の章、ヘブル11章で言われているように。「信仰によって…信仰によって…信仰によって!」 その章は、聖書の偉大な族長達は前方を、はるか彼方を望み見ていたと告げている! 彼らはこの世の民の一人であることには満足できなかった、彼らは神によって造られた国、天の御国、主によって建てられた天の都を待ち望んでいた! 

  数多くの試練や患難にあっても、また、この世では旅人であり寄留者であっても、つまり祖国のない人々となっても、それをものともしなかった。いずれ自分の国がやって来るのを知っていたからである!−−そのためには、戦い、生き、死ぬ価値があると知っていた!

  それに益もある。軍隊に加わるために後に残し、また捨てなければならなかったものすべての百倍もの報酬を受ける兵士などこの世にいるだろうか? しかし、それが、主がご自分の兵士のために今ここで約束されたことだ。さらには、天国も約束されている。そしてすべての友達や家族たちと永遠にいつまでも一緒にいられるのだ。彼らは、そのためには戦う価値があると思わないのだろうか? 私達の救い主の愛、総司令官であるイエスの愛ゆえに、戦う価値があるとは?

  また、クリスチャンの兄弟姉妹のためにでも、戦う価値があるのではないだろうか? 多分自分のためには戦う価値があると感じないか、また自分が救われるためや、自分のためだけに、ありとあらゆる種類の試練や患難を通ろうという気もしないかもしれない。しかし、誰か他の人のためなら、戦い、生き、死ぬこともいとわないのではないだろうか。何としても、他の人々のために戦いなさい!

  神から賜った勝利、すなわち恵みによる救いを勝ち取ったというだけで、新しくクリスチャンになった人々は、何か失うことのない勝利を手にしたと思うかもしれない。さて、彼らの魂をめぐっての戦いには勝った。それは永遠の救いという永久的な勝利であり、二度とそのために戦う必要はない。神よ、感謝します!

  イエスがあなたの戦いに勝たれた。彼はあなたを救うため、あなたとあなたの救いのために十字架の上で苦しみ、血を流し、死なれた。彼があなたに代わって戦いに勝たれた。あなたの力だけでは決して勝ち得なかった戦いに! イエスは私達を救うため喜んで死なれた。だから、他の人々を救うため、イエスのために死ぬこともいとわないことを私達にも望んでおられる!

  パウロはローマ人への手紙で、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると言うに足りない。」と語っている(ローマ8章18節) 私達の苦しみなどは、すでに持っている祝福の数々に比べると言うに足りないし、私達が楽しむようになる栄光に比べればなおさらである。

  神がそんなにも良くして下さるのに、誰が愚痴や不平を言えるだろうか? イスラエルの民がエジプトを後にした後、不平ばかりつぶやくので、神はとてもうんざりされ、何百万もの老いた世代が砂漠の中で死ぬようにされた。というのも、せっかく主が彼らのためにされたことに、ことごとく不平を鳴らし、愚痴を言ったからだ! 何ということか! 神は彼らの命を救い、奴隷の身から解放し、奇跡を起こしてすべての必要を満たし、あらゆることをして下さったというのに。

  しかし、人々が自分達への神の約束を信じることや、約束の地に行って、そこを所有することを拒んだ時、神は彼らを荒野に置き去りにされたのだった! 民は愚痴をこぼしていた。「約束の地に住む巨人達と戦いたくはない! 乳と蜂蜜の流れる地には違いないが、巨人のことも考えてみるべきだ!」と。

  というわけで、主はこう言われたも同然だった。「よろしい。約束の地を獲得するために命をかけて戦うよりは、荒野で死ぬ方がましだと思い、神の国は戦って死ぬだけの価値があるとは思わないなら、荒野で死ねばよい!」

  大人の世代は、約束の地のために死ぬまで戦うことは望まなかった。そこで、彼らは40年間も荒野でさまよい、一人残らずそこで死んだのだった! 2、3人を除いた大人の世代全部が、荒野でのたれ死んだのだ。不信心で、あらゆるささいな事にまで不平不満を並べたからである!

  不平家が全員死んだ後、神は、信仰に満ちた子供達に約束の地を征服させられた。ただ、子供達だけが信仰を持っていたのだ。それより上の世代は、信仰を失っていた。彼らは荒野であらゆる苦しみを経験したが、不平を言っていたために、そこから得られる益を決して楽しむことはなかったのだ。

  彼らは多くの事を苦しんだが、無駄に終った!(ガラテヤ3章4節を参照) 戦うことに愚痴をこぼし、勝利の直前にやめてしまう者は、決して勝利の喜びを味わうことはない! 考えてもごらん! あらゆる苦しみを経験しながら、勝利を逃すのだ! 益、祝福、喜び、報酬を失うのである。これこそ本物の敗者だ。勝利を目前にしながら戦うのをやめてしまうのだから!

  私はちょうど、主が、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を与えよう!」と言われた節のことを考えていた。(黙示録2章10節) この節から、ロシア革命の初期の頃に起こったというある物語を思い出した。共産主義者はクリスチャンをひどく迫害していた。ある時彼らは、クリスチャン達が信仰を捨てないため、裸にして、凍りついた湖の上に立たせた。見張りの兵士は、命が惜しいなら、ただ信仰を捨て、自分達の所まで走ってくればよいと告げた。そうすれば、死なずにすむと。

  クリスチャン達は一人また一人と倒れ、凍死した。残るはあと一人となったが、そのクリスチャンはもう耐えられなかった。仲間は次々と死んでいき、一人取り残されたのを見て、「もう自分には耐えられない、信仰を捨てる」と叫びながら、兵士の所まで走ってきた。

  すると突然、一人の共産軍兵士がそのクリスチャンに言った。「早く俺の制服を着て、銃を取るんだ! 俺があそこに行って、お前の代わりに死のう! 俺はここに立って見ていたが、一人倒れる度にその頭の上に冠が置かれるのを見たんだ!しかし、天から手が伸びてお前の頭に冠を置こうとした瞬間、お前は逃げだした! さあ、俺の制服を着て、銃を取れ! 俺がお前の代わりに死のう。あの冠がほしいんだ!」

 

  十字架の苦難なくして冠はなく、信仰が試されることなしには信仰の証しはなく、試練なしには勝利はなく、戦いなしでは勝つこともない! これこそ、あなた達が軍隊に入った理由である。つまり、戦って勝つことだ! だから、しっかり戦おう! 私達が負けることはない! 最終的な勝利は、すでに私達のものだ! それまで、ただ戦い続けよ!神に感謝することに、その前にも多くの戦いに勝利を収めるだろう! 戦い続けるなら、勝ち続ける。

  18世紀の有名な米海軍司令官、ジョン・ポール・ジョーンズのことを知っているだろうか。彼は、「降伏だと? とんでもない! 戦いはこれからだ!」と叫んだ。司令官の船は砲撃で壊滅的な被害を受け、沈みかけていた。部下の半数が殺され、彼も含めて多数が負傷していた。しかし、それでも降伏することを拒んだのだった! 降伏するどころか、戦い続け、結局は勝ち、敵の船を占領したのだ。

  勝利を収めるのはこの種の兵士だ。何があっても、戦い続ける者である! 戦いを放棄する兵士は、決して戦闘に勝つことはない! 降伏する兵士に勝利などない! 降参の白旗を弱々しく掲げる兵士は、敵の陣地に自軍の旗をはためかすことなど決してないのだ!

  神が、戦う者達をもっと立てられるように。御言葉という武器を手に、主のために戦うのを好む者、悪を打ち破るのを楽しむ者、負けることなどないと確信している者である! イエスと兄弟姉妹と真理のために生き、戦い、死ぬことを喜びとする勝利の英雄達を!

  そのような兵士達を征服することはできない。彼らは負けを知らない。たとえ戦って死んだとしても、負けではない。栄光の冠を受けるからだ。パウロはこう言った。「私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した。今や、義の冠が私を待っているばかりである!」(2テモテ4章7、8節) 主よ、感謝します!

  私達は全部の戦いに勝つことはないが、戦闘には勝っている! 愛が失敗することはなく、必ずうまくいく! 他のすべてのことが失敗に終わっても、愛は決して失敗することがない! 神が失敗することはなく、信仰は敗北に終わらず、希望が失望に終わることもない!

  「このように、いつまでも存続するものは信仰と希望と愛と、この三つである。この内で最も大いなるものは愛である!」(1コリント13章13節) ハレルヤ! 主よ、感謝します! アァメン? だから、戦い続けるなら、あなたも敗北することはない! 希望は望み続け、信仰は信じ続け、愛は決して絶えることがないからである!

 

 

  * * *

 

  イエスはあなたのために最大の戦いを戦って、勝たれました! あなたの罪のために、その命を十字架の上で喜んで捨てられたのです。「キリストもあなたがたを神に近づけようとして、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。」(1ペテロ3章18節) イエスの犠牲と救いの贈り物をまだ受け取っていないなら、この祈りを祈るだけで、今、それを受け取ることができます。

 

  イエス様、私の心の中に入って、私の罪や過ちをゆるして下さい。あなたからの贈り物である永遠の命を受け入れます。私があなたの言葉である聖書を読み、あなたのために生きるのを助けて下さい。またあなたの愛の御国(みくに)の証し人、また兵士となれるように、聖霊で満たして下さい。アァメン。

 

 

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「戦う者!」初版は、1976年9月に発行されました。

第一巻17号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241,8021 Zurich, Switzerland