Mountain Streams

水晶の流れ 15

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

大きな嘘!−−暴露された!

ファーザー・ダビデ著

 

  ヒトラーは、「我が闘争」の中で、プロパガンダが目的で嘘をつくなら、大きな嘘をつけと言った! 嘘が大きければ大きいほど、より多くの人がそれを信じる傾向にあるからだ。そんなに大きな嘘をつくはずがないから、真実に違いないと考えるのである!

  だから悪魔は賢くも進化論をでっちあげた。大きな嘘をついたのである。「初めに、神が天と地を造られたのではなかった。すべてが全くの偶然であって、物質に働く力の作用で起こったのである、などなど! だから人間はただ、何百万年も何十億年もかかって下等な動物から、つまり一つの種から他の種(しゅ)へと進化した動物にすぎず、生命は化学物質から勝手に自然発生したのだ!」と。

  進化論は現在、生物学の「大いなる原理」と言われている。だが原理とは、辞書によれば、根本的な真実あるいは事実、他の真実の基礎となるものである。ところが、進化論を少しでも知っているならわかるが、他の真実の基礎、あるいは根本どころか、それ自体が真実とも事実とも証明されたことがない! この惑わしの教義が、現代のいわゆる科学の全般的テーマとなっており、それゆえ、もはや真の科学など存在せず、純然たる想像上のごまかししかないのだ!

  さて、進化論について語る時、私は、例えば、植物の成長の仕方や動物の繁殖の仕方などについての、証明可能な、生物学という真の科学について語っているのではないし、それを軽んじてもいない。私が言っているのは、証明という域に近づいてさえもいない、架空の、とんでもない想像上のおとぎ話のことだ!

  進化論を裏づける証拠などない! 進化論はそれを信じることを前提として成り立っている。従って、それは信仰である。つまり一種の宗教なのだ! 現代の高等教育という神聖なる殿堂で、新しい必須の宗教が教えられているということである。この新しい偽宗教の創始者であり、偉大なる大祭司であるチャールズ・ダーウィン自身でさえ、こう告白している。「現在、自然淘汰[進化論]を信じること[「信じる」が強調されていることに注意]は、完全に全般的な考察を根拠としなければならない…詳細の一つ一つを取り上げるなら、我々は一つの種が変化したことも証明できないし…変化したとしても、この理論の基礎であるように、その変化が有益だったことを証明することも出来ない。」

  ダーウィンの熱烈な使徒、また献身的な弟子である、トーマス・ヘンリー・ハックスレーも同様に、自分の進化論的意見が、いかなる真の科学事実や証拠に基づいたものではなく、どちらかと言えば「宗教的」表現であることを認めている。「諸君に再度思い起こしてもらいたい。私の意見は哲学的信仰の表現以外の何ものでもなく、私にはそれ以外のいかなる名称でも呼ぶ権利がない。」

  つまり、進化論はまさに神を信じない宗教であり、真の目的がそこにある。つまり神への信仰を除去し、「被造物はひとりでに造られたのであって、神は何の関係もない。だから神など必要なく、神がいなくても、それは起こり得たのだ!」という悪魔の偽教義を広める事である。

  この姿勢は、ダーウィンの著書である「種の起源」の出版百年目を祝うために、2千5百人の代表者を集めて開かれた、1959年のシカゴ・ダーウィン百年祭で明らかにされた。トーマス・ハックレーの孫で、著名な進化論者であるジュリアン・ハックスレー卿は、会衆に向けての説教の中で大胆にこう述べた。「進化の過程に、超自然的なものの入り込む余地など全くなかった! 地球と地球上の生物は、創造されたのではなく、進化したのだ。我々全員が進化論の事実を受け入れている…生命の進化はもはや理論ではなく、事実である! それは我々の思考全体の基礎である!」

  ちょうど、旧約聖書の時代に、かの黄金の子牛の像を造った偶像製造者達が、古代のイスラエル人に言ったのと同様である。「イスラエルよ、見よ、これがあなたがたの神である。ひれ伏して拝め!」(出エジプト32:4*を参照) だが現代では、もう子牛が黄金である必要さえない! 事実、サルでも、おたまじゃくしでも、どんなハ虫類でもいいのだ。「それらがあなたがたの神々、この生物達こそあなたがたを造ったのだ。あなたがたはこれから発生したのであり、彼らこそあなたがたの創造主である!」 進化論が説くのは、まさにこういう事なのだ!(エレミヤ2:27を参照)

 

  進化論は、生命が何らかの方法で無生物から発生したという大きな仮説を中心に据えている。まったくの偶然から、適切な化学物質がたまたま適切な場所に、適切な状態で、適切な時に、適切な状況下にあったことから、何か不思議な未知の電子化学的変化の過程で−−パッ!−−と生命がひとりでに発生したというのだ! この仮説は熱力学の第二の法則として知られる、広く一般に受け入れられている証明済みの科学の法則に完全に矛盾している。この法則は、「すべての過程は(そのまま放置された場合)、より無秩序で、不規則な、混乱した状態に向かい、複雑さが減少する」としている。(「アメリカン・サイエンティスト」第43号、1965年10月発行、595ページ)

  仮に、生命を生み出すに必要なある特定の形に、元素が自ら並ぶことが可能だとしても、独力で生きた細胞となることは出来ない。生命は単なる化学物質の物理的な配列ではないからだ! このようなことが起こることは、どう考えてもありえないので、プリンストン大学のエドウィン・コンクリン生物学教授がこう言ったほどである。「偶然に生命が発生する確率は、印刷工場の爆発によって完全な辞書が出来上がる確率と同じだと考えていいだろう!」(「リーダーズ・ダイジェスト」1963年1月号、92ページ)

  進化論者達がすべての生物の進化の根源だと言う、いわゆる「単細胞」に関しては、「ルック」誌が「細胞はニューヨーク市と同じくらい複雑である」と発表している。(「ルック」1962年1月16日号、46ページ)

  進化論の想像的仮説の論理はこうである。つまり、この上なく複雑な「単」細胞が、偶然に合体して、盲目的で何の導きもない全くの偶然によって生物となったというのである! この仮説に関して、イギリスの生物学者ウッドガーはこう述べた。「ただ自分の信じたい事が実際に起こったと主張するのは、単なる独断にすぎない。」(同誌、200ページ) この進化論の論理は、より複雑な複数細胞型生命に移るにしたがって、ますますそのばかばかしさを増すだけである。

  進化論によれば、現代の植物と動物の種は、すべて単なる過渡的形態にすぎず、どんどん進歩した段階へと徐々に進化しつつある、終わることのない生命の鎖の一部なのである。このため、ダーウィンは「種」の分類を「単なる無用の抽象概念」であり、「便宜上、勝手に与えられたもの」とみなしている。

  これは神の言葉に完全に矛盾している。聖書には、すべての生物は「その種類に従って」造られ、「その種類に応じた」種や実を宿す能力も備わっていると書かれている。(創世記1章を参照) さてこの「種類」という言葉だが、ヘブル語の「min(ミン)」の欽定訳語で、現代の学者が「種」と訳した言葉である。だから現代の生物は、種の何らかの変移の産物ではなく、明確に定められた種なのである! 自然選択などでなく、神の選択なのだ!  進化論的適合ではなく、神の創造によって生まれたのである!

  犬が猫になったとか、猫が犬になったなどと証明されたためしはない! あらゆる種類の犬や猫がいるが、犬になった猫や猫になった犬など1匹も存在しない! 神がすべてを「その種類に従って」造られたからであり、その種類から逃れることは出来ないのだ。その種の中でなら、様々な種類があるが、別の種に移ることなど絶対にない! 不可能である!

  ダーウィンでさえ、この事実に悩まされ、こう自問した。「ある種の生物が別の種の過程を終えて移行したのなら、数え切れないほどの過渡形態の生物が至るところで見られないのは、なぜか? きちんと分類された種を私達は目にしていて、自然界全体の混乱がないのはなぜだろう?」 ダーウィンの質問への答えは単純である! ただ創世記の第1章を読みさえすれば、種が別の種へと伝わったのではなく、神が整然と、定まった「種類」を創造されたということがわかっただろう。自然界が混乱していないのは、それが理由なのだ!

  だが、遺伝子に取り組んだ科学者達は、新しい混成種の植物や動物を作り出したのではないか? これは、別の種の親を掛け合わせることで、全く新しい種が進化し得ることの証明ではないのか? 答えはノーである! 科学界の一般的な種の定義とは、「自由に交配し、繁殖力のある子孫を繁殖することの出来る生物体の一群」である。だが2つの似通った種を掛け合わせてまれに出来た混成種は、「繁殖力のある子孫」ではなく、不妊である! カレジェイト百科事典には「雑種に繁殖力がないのは、種が別個のものとして残ることを可能にするメカニズムである」とある。

  つまり、神ご自身が不妊という壁を作って、元来ご自分で定められた「種類」が混ざらないようにされたのだ。ラバがその一例である。ラバは雄のロバと雌の馬の間に生まれた雑種だ。一見新しい種、あるいは「種類」に見えるが、ラバの雄と雌でラバの子供を作ることは不可能である! 不妊という不動の壁を越えることは出来ない! より多くのラバを作るには、雄のロバと雌の馬を交配し続けるしかない。神が定められたこの生物界の原理は、著名な進化論者の動物学教授である、リチャード・B・ゴールドシュミット教授によって立証され、こう書かれている。「種の境界線を越えたケースはなく、その種に最もよく似た次の種との間にも、不妊という乗り越えられないギャップがある。」(「進化論の物質的基礎」R・ゴールドシュミット著、165ページ)

 

  この馬鹿馬鹿しく、狂気としか思えない大きな嘘、つまり進化という複雑にでっちあげられた作り話の骨組みが真実だとしたら、何よりも、「失われた環(かん)」が多数発掘されているはずである! 何十億年もの進化が本当に存在したなら、私達は「失われた環」で耳まで埋まっているはずだ!

  ダーウィンでさえこの事に気づいて、言った。「この理論によれば、無数の過渡形態[環]が存在してきたはずだが、地殻の中に無数に埋まったそれらの環を発見していないのはなぜか?…すべての生物と絶滅した種の中間にある、中間的な過渡期の環の数は、想像を絶するほどだったに違いない。」 また、これらの「失われた環」に関する自らの疑問に、彼は望みを託してこう答えている。「地質学上の記録が、当然あるべきよりもはるかに完璧さを欠いていたためだと私は信じる。」

  ところが、130年経った今では、ダーウィンの言い訳も完全なお笑いぐさである! あらゆる化石を含む地層から、実際に何億もの化石が採掘されたが、「過渡期の形態」あるいは「失われた環」など一つとしてない!  どれを取っても、特定の種に属することが歴然としたのだ! 事実、発見された化石の種の数は、十万以上にものぼると推定されている! にもかかわらず、「環」は一つもないのだ!

  ハーバード大学のA・S・ローマー動物学教授は、最近、現在の状況をまとめてこう語った。「『環』は我々が最も熱心に求める所で失われている。そして多くの『環』が失われたままでいる可能性は非常に高い。」(「遺伝学、古生物学及び進化」、A・ローマー著、114ページ)

 

  猿人も原人も存在しない。現代の生物の教科書の大半にあるでっち上げや、そこに載っている絵は、ぞっとするような、忌まわしいたわごとにすぎない! 地獄の底から来た恐ろしいけだもののように、叫び声をあげ、歯をむき出してうなっている、あの半分猿で半分人間の猿人や原人達の絵は、悪魔の邪悪な思いが作り出し、人間が世間にばらまいた、想像上の怪物なのだ!

  ダーウィンは主張する。「類人猿[猿]は、2つの大きな茎、つまり新世界の猿と旧世界の猿に分かれ、長い歳月をかけて後者から人類、つまり宇宙の不思議と栄光である人間が誕生した。」と。言い換えると、人間は猿からひとりでに進化したのであって、聖書にあるように、神がご自身の姿にしたがって造られたのではない、ということだ!

  しかし、科学者達はまもなく、人間が猿人から生じたことを示すもっともらしい進化の鎖など復元不可能だということを悟った。そこで新しい理論をでっち上げねばならなかったが、もちろん彼らはすぐにそうしたのである!

  さて、現代の進化論者達はこう信じている。人間は猿人からではなく、もっと古く、もっと原始的な霊長類で、人間と猿人共通の祖先から生まれたのだと! だがこの新理論を証明する証拠となる化石に関して、「ニュー・サイエンティスト」誌はこう記している。「人類と類人猿の紛れもない類似点は、互いに共通の祖先を有していることを明白に指摘している。しかし、その証拠は未だに発見されておらず、それを確認するのは幾分困難かも知れない。」−−ハ!(「ニュー・サイエンティスト」、1965年3月19日、800ページ)

  このいわゆる「共通の祖先」から、初期の人類が進化したことを証明する証拠に関して、「霊長類」という本を書いた著名な進化論者達は、「残念ながら、人類の独自の進化論的発達の初期段階は、全くの神秘に包まれたままである。」と告白している。−−それでも彼らはそれを信じているのだ!(「霊長類」、S・エイマート、177ページ)

  「サイエンティフィック・アメリカン」誌もまた、こう認めている。「現代の人類に至る系統の性質は、純然たる理論の域に留まっている。」(「サイエンティフィック・アメリカン」、1966年11月、53ページ) つまり、人類がより下等で猿人のような種類の子孫であるという、進化論の基礎あるいは根本とも言える教義は、「純然たる理論」にすぎず、世間に対して、聖書が言う「偽りの『知識(英語では科学)』による俗悪なむだ話」(第1テモテ6章20節)を吹き込んでいるペテン師どものでっち上げである!

  人類の起源に関するこのとんでもない、架空のおとぎ話を信じるには、神の御言葉に書かれた、神の単純で美しく、霊感された説明を信じるよりも、多くの信仰を要する!

  新約聖書には、「最初の人アダムは生きたものとなった」(第1コリント15章45節)とある。アダムが最初の人間だったのだ! 長々とした進化の過程の末ではなく、最初の人間である! 猿人など存在せず、アダムの前に人間などいなかった。彼が最初の人だった! それにアダムは造られたのである。成長したのでも、進化したのでもなく、造られたのであり、生きたものとなったのである!

  「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1章27節) 私達が一度で的を得なかった時のために、神はそれを繰り返しておられる。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し」と書いてある。アダムは猿人やサル、あるいは魚や鳥のようには見えなかった。神は自分のかたちに人を創造されたのだ。人間を多くの面でご自身に似せて造られたのであり、ご自分を表わすために造られたのだ。

  そして神は人間を何から造られたのか? それ以前の形態からか?猿か? けものか? 鳥か? 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2章7節)

  最初に存在したのは、人間だろうか、命だろうか? 肉体、つまり人間が最初で、そこへ神が命の息を吹き込まれたのだ! 下等な形態から進化の過程を通って発達した何かではなく、完全に形造られた人間の体で、しかも土のちりから造られたのである。科学や化学物質、生体化学について少しでも知っているならば、人間の肉体が数ドル分の価値しかない化学物質と、77%ほどの水で出来ている事を知っているだろう。それらの化学物質はどこから来たのか?「土のちり」、まさに地上からである!「あなたは、ちりだから、ちりに帰る!」(創世記3章19節)

  神が命の息を吹き込んだのは、完全な形で横たわるアダムの肉体だった。そして、その瞬間まで、彼はただの死体であり、石のように不動で、その肉体の内には生命の火花の一筋さえも存在しなかったのだ!小さなゼリー状の物質から発達したのではなく、アダムは完全な形の、完全に成長した人間であり、ちり、すなわち土から造られて地上に横たわっていたのである! 神が彼の鼻に命の息を吹き込まれると、ついに人は生きたものとなったのである!

 

  進化論学者が、どのように化石の年代を証明するか知っているかな? 標準その証明の仕方はこうだ。「この化石はウン百万年前のものです。古生物学者がウン百万年前のものだと言っている岩層で発見されたからです。」 それでは、古生物学者はどのようにしてその岩層の年代を証明するのだろうか? 進化論学者の方を向いて、こう言うのである。「この岩層はその年代に形成されました。進化論学者が、この岩層で発見した化石はそれぐらいの年代だと言っているからです。」 石油地質学者のJ・A・ゼレッキーはこの年代証明のプロセスを認め、こう書いている。「岩石の年代を区分する唯一の土台は、化石と、その化石から推定される進化的理論だけである。」(「アジア・アフリカ石油地質学者紀要」1956年4月40巻、684ページ) 何て馬鹿馬鹿しい! 全くの悪循環だ。二人の嘘つきが、互いの嘘を取り繕っている。彼らの専門は嘘をつくことだからだ!

  人はこう言う。「そうですね。創世記1章にある天地創造の6日間というのは、実は6累代あるいは6期という意味(いずれも地質学的な年代区分の単位で途方もなく長い歳月)ではないですか?」 多少なりとも神を信じているなら、神が世界を創造するのにそんなに長い時間がかかったなどとどうして考えられるのだろうか? 私の神は、全宇宙を創造できるぐらい偉大な神だ! 神が6日間で世界を造れなかったと思うのか? 6分でもできたはずだ!

  晩年のアルバート・アインシュタイン博士の言葉をここで紹介しよう。もっとも、この言葉はいわゆる「真実」を探究している進化論学者によって大々的に広められてはいないが。さてその言葉とはこうだ。「我々は今や核分裂と核融合の原理を知っているので、我々の知るこの地球が一瞬の内に存在した可能性があることにも気づいている。」−ドカーン! 一瞬の内にである!

  それでは、聖書に反して、地球や人類が何百万年も何十億年も前から存在していることを証明することが目的で使用されている放射性測定はどうだろうか? この測定法は、純然たる仮説と理論に基づいている! 例えば炭素14による測定法だが、これはかつて生命を持っていた有機体の化石から発見される放射性炭素の量に基づいている。この放射性炭素または放射炭素は、太陽の宇宙線が地球の大気中を通過する際に形成される物質である。生きた植物と動物だけが、この物質を吸収する。だから有機体が死ぬと、その中にある炭素14はゆっくりと崩壊し始め、崩壊した炭素14は還元されることがない。だから、古生物学者は化石がどれだけ古いかを判断するために、化石の中に残っている炭素14の量を測ろうとするのだ。

  しかしながら「サイエンス」誌によれば、炭素14による測定法の大きな仮定条件の一つは、「その測定法を使う年代範囲の間、大気中の放射性炭素のレベルが一定である」ことである。(「サイエンス」1965年12月10日号、1490ページ) しかし、もしその炭素14のレベルが一定でなかったとしたら、そのレベルが変わっていたとしたらどうだろうか?「サイエンス・ダイジェスト」誌は、この問いに対してこう答えている。「おそらく、慎重に開発された年代測定法を覆すことになるだろう…もし過去に、現在よりも厚い磁力線遮蔽物のために宇宙線がさえぎられていたため、炭素14の量が少なかったとしたら、有機体が死後経過した時間を算定した結果値は、実際よりもずっと長すぎることになる。」(「サイエンス・ダイジェスト」1960年12月、19ページ) まさに、それが起ったのだ!

  過去の炭素14の量は、現在よりも少なかった! 磁力線遮蔽物が厚かっただけではなく、聖書に「おおぞらの上にあった水」と記されてあるように、膨大な量の水分に地球が覆われていたからだった。(創世記1章6、7節を参照) 地球をすっぽり覆っていた水の膜が、強力な宇宙線から地球を守っていたのだ! しかし、神が大いなる淵の源を開け、天が水を注ぎ、雨が四十日四十夜降り続いたノアの大洪水の時に、有害な宇宙線から人類を守っていた水分の覆いも取り除かれたようだ。

  聖句からも、この「おおぞらの上にあった水」のおかげで、地球が炭素14を形成する宇宙線からさえぎられていたという事実は明らかである。というのは、この大洪水の直後、人類の生命は大洪水以前のほとんど十分の一に短縮したからだ! 宇宙線が老化の原因であることが科学的に証明されており、人間の罪のゆえに最終的に死をもたらすのも、この宇宙線である。

  人類が地球に出現してから約6千年しかたっていないという、聖書が説くところを立証する別の興味深い事実は、5千年から6千年以上経た事実上の人工遺物は全く発見されていないことである。「世界大百科辞典」はこれについて、こう告白している。「これまで発見された人類の歴史に関する最古の記録は、わずか5千年をさかのぼったものだけである。」 5千年か6千年以上前の理論上の年代を「有史前」あるいは「先史」と呼んでいるのは、この理由からだ。そのような古い年代が実際に存在したことを証明する歴史的な証拠は、何一つない! それは全部推測であり、進化論の大それたおとぎ話のつじつまを合わせるために考案された空論にすぎない!

 

  はじめに神は宇宙を創造された! 混沌でも、星雲状のガス体の雲でもなく、「はじめに神は天と地を創造された」のである! これは正しい本、聖書の最初の書の第一章第一節に書かれてある言葉だ。神をほめたたえよ! さて、あなたはこれを信じるか、それともどこかの嘘つきが言っている言葉を信じるか、そのどちらかだ!

  イエスはこう言われた。「もし、あなたがたがモーセを信じていたならば、わたしをも信じたであろう…しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか。」(ヨハネ5章46、47節) さて、モーセが書いた最初の五書の基礎となるものは何か? 創世記だ! 「はじめに…」 天地創造と、神と人類との関係の始まりについてである。

  もし人が天地創造と神について書かれてある創世記を信じたなら、イエス・キリストを救い主として受け入れていただろう。ということは、人がキリストを信じないようにするために、悪魔は何をしなくてはならなかったのか? 悪魔はモーセの書、特に神の栄光に満ちた天地創造のことが書かれた創世記への信仰を打ち壊さなければならないと知っていたのだ! 悪魔は天地創造に対する信仰を壊さなければならなかった。人に天地創造を疑わせることができるなら、その他のもの、聖書もイエスもすべて信じないようにすることができる! そして、悪魔はどんな方法を使ったのだろうか? どんな教義、あるいはひどい嘘を使っただろうか? 進化論である!

  進化論は悪魔の最大の嘘であり、最も悪魔的で狡猾な理論である!勉強するにはあまりにも気違いじみていて馬鹿げている。実際に進化論を裏付ける基礎も、証拠も、発見も、全くないからだ! 現代の著名な人類学者故マーガレット・ミードは、人類学に関して著した教科書の前書きで、このように述べている。「私達は誠実な科学者として、科学は進化論を証明するための具体的な証拠を、一かけらも発見していないことを告白せざるを得ません!」

  神を証明する最大のもの、つまり神の権威を示す、その純然たる証拠は何だろうか? 神の創造物である! 神の栄光に満ちた創造物は、その聖なる創造主であり、設計者である方の存在を常に証明している。ローマ人への手紙1章20節に書かれている通りである。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物[神の創造物]において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない!」 これが理由で、人は天地創造を拒み、すべては意味のない、混沌とした進化によってできたと言おうとしているのだ。もしこの世界とそこに住む人間が、神の創造物であるとしたら、人間は神の所有物ということになる。そして、もし人間が神の所有物だとしたら、神が人間のボスになる権利を持っておられるということになり、人間はそれを望まないのだ! だから人は、現代教育の内に「神を認めることを正しいとしなかった」のだ。(ローマ1章28節)

  聖書はこのように続けている。「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになった!」(ローマ1章21、22節) 人間は聖書なしでやっていけるほど利口になり、ついにどうなったのか? 愚か者になったのである! 完全な愚か者となり、「不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの偶像に似せたのである…彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕えたのである!」(ローマ1章23、25節)

 

  それではなぜ、悪魔とダーウィンは、進化論という、馬鹿げた気違いじみた理論をでっちあげたのだろうか? 神と神についての知識を取り除くためである! 教育から神を完全に追放したいからだ。そして、神や創造や聖書を取り除いた後は、人は何か新しいものをでっち上げなければならなくなった! シンシナチ大学教授L・T・モアが、こう告白したように。「進化の概念に関する我々の信条は、特異な創造が行なわれたという、憎むべき教義を受け入れることに対する嫌悪感に基づいている。」(「進化論のドグマ」、L・モア著、304ページ) 真理を受け入れたくなかったので、何か「大きな嘘」を考え出さなければならなかった! それこそ、進化論がでっち上げられた理由である!

  進化論の論理とは、こうである。「人が単なる獣にすぎないなら、獣のように生きろ! 地獄から来たのであれば、地獄のような生き方をし、出てきた場所に戻るがよい! 宇宙の計画者がいないなら、計画などない! 統治者がいないなら、規則もない! 裁く者もいないなら、判決もない! 神がいないなら、善悪もない! この人生が『適者生存』(生存競争の結果、外界の状況に適したものだけが生きること)だけの世界なら、犯罪など存在しなくなる!」

  ヒトラーは、明らかに進化論哲学を固く信じていたようで、演説の中で、このテーマを絶えず繰り返し述べていた。「自然界全体は、強者と弱者との絶えざる闘争であり、弱者に対する強者の永遠の勝利である。」(「ヒトラー語録」A・ヒトラー著、3ページ)

  圧制的政権にとって、大量殺人と政治弾圧、つまり強者のための弱者撲滅を「自然淘汰」とするのは、実に容易かつ便利な言い訳であるのは疑いの余地もない! 

  というわけで、現代社会が苦しんでいる多くの災難や悪の責任は、この進化論という世界最大の嘘に大きく起因している。自分本位の経済、混乱した政権、犯罪に対する恐ろしく間違った対処の仕方など様々であり、世界全体が全くひどい混乱状態に陥っている。

  道理で、この世界には犯罪や殺人が氾濫しているはずだ! 人が自分で何もかも判断するのだから! 自分で作った基準以外には何の基準もなく、勝手にどんな基準だって作ることができる! 確かに人間は退化しつつある。進化するどころか、退化しているのだ! 進歩どころか、衰退の道をたどっている!

 

  現代の人々は大半が、何を信じたらいいのかわかっていない。自分達がどこから来て、何者であり、どこに向かっているのかを知らない。何によって自己の存在を証明すべきかも知らず、「私は一体何者なのか」と探究している。「私は誰なのか? 一体何者であるべきなのか? 神もなく、聖書もなく、ルール・ブックもない!」人々は何もかも疑い、「我あるゆえに、我あり。我が知る事は、ただ生きていることだけなり」という実存主義の哲学以外、何も信じる事ができずにいる。

  私達は進化論が嘘であると、あなたに納得させることはできない!進化論が嘘だと気づき、聖書の真理を感謝するだけの十分な分別を持っていないなら、また神の御言葉の真理より進化論を信じたいと思うなら、結局あなたは惑わされ、欺かれてしまうからだ。聖書にはこう書かれている。「自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである…そこで神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り、こうして、真理を信じないでいたすべての人を裁くのである!」(2テサロニケ2章10-12節) 真理が気に入らないなら、それに取って代わるものは一つしかない。嘘である!

  イエスはこう言われた。「もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう!」(マタイ6章23節) 自分が間違っているのに正しいと考えることは、何とひどいことだろう! 実はただのごまかし、まがい物であり、現実とは全くかけ離れているのに、それが正しいと信じているのは、何とひどいことだろうか!

  しかし、神の簡単で単純な真理を望むなら、小さな子供のように謙遜になって、神があなたの目を開き、心に入って下さるようにとお願いするだけでいいのだ。だから、イエスはこう言われた。「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子に現わして下さいました!」(ルカ10章21節) 「心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない!」(マタイ18章3節)

  神だけが、宇宙に意味をもたらし、惑星に目的を、私達の心に愛を、精神に平安を、肉体に健康を、霊に休息を、生活に幸福を、魂に喜びをもたらすことができる。そして神は、「主を恐れることは知恵のもと」(箴言9章10節)であり、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」(1コリント3章19節)であることを知る知恵を下さるのである。

  イエスは、「道であり、真理であり、命である!」(ヨハネ14章6節) イエスに心の中に入っていただき、罪をゆるし、新しい命を与えて下さるよう祈りなさい。イエスはそうされるから! イエスはこう約束された。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入る。」(黙示録3章20節)「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら…真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ8章31、32節) 罪、自己、偽善から、そして多くの人をだまし、迷わせる、進化論のようなひどい嘘から自由になれるのである! イエスからの贈り物である永遠の命を、今日受け入れなさい!

 

 

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  「現在、自然淘汰[進化論]を信じることは、完全に全般的な考察を根拠としなければならない…詳細の一つ一つを取り上げるなら、我々は一つの種が変化したことも証明できない。」−−チャールズ・ダーウィン

 

 

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「大きな嘘!−−暴露された!」初版は、1977年4月に発行されました。

第一巻15号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241,8021 Zurich, Switzerland