Mountain Streams

水晶の流れ 12

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

絶対的なものは存在する!

−現代教育の教えることに反して!

ファーザー・ダビデ

 

  私は世界の若者の状態を考えていた。神と人間への尊敬を失っている若者が大勢いる。この衰退的風潮は、現代教育の影響によるところが非常に大きいと思う。現代の若者は、この世界には絶対的なものなど存在しないと教えられている。例えば1950年代や60年代に、私の子供達は「新数学」というものを教えられた。それは、集合論と記数法に基づいていたが、ひどくわかりにくく、絶対的なものは何一つなかった。それを理解できる教師は少なく、生徒や親はなおさらだった。この新しい数学の全概念は、「絶対的なものはない!」であり、その目的は、絶対的な存在である神への信仰を壊すためだと私は信じている! 本物の数学は、宇宙の秩序を証明し、物事には道理や目的があることを証明する。数学は、確実なものとして信頼されていたが、教育は、子供達にそれさえ確実ではないと教え始めた! 絶対的なものはなく、確実なものはない、それが神を忘れた現在の教育の全体的な原則なのだ。

  聖書、神、そして神の創造への信仰を壊したように、数学への確信も壊そうとしている。数学は完璧さを現わしているので、現代教育はその完璧さへの確信を壊そうとしている。何か完璧なものがあるなら、神も存在するに違いないからだ。だから、数学が完璧ではないことを証明しようと努めていた。以前考えられていたような絶対的なものは数学にはないから、必ずしも正しい答、あるいは間違った答はないことになると、現代の教育は主張する。わかるだろうか? 絶対数量がないなら答もなく、物事は必ずしも良くも悪くもないことになる。

  これは、神への信仰を滅ぼす試みの背後に潜んでいる概念と同じだ。神の存在を信じる信仰を破壊するなら、絶対的な規則を定める存在もなくなり、善悪という概念がなくなってしまう。神がいないなら、支配者がいないことになり、支配者がいないなら、規則もない事になる。そして規則もきまりもないなら、すべては正しくも誤ってもいないことになる! つまり、数学に絶対的なものがないなら、法則と秩序がかかわる分野をまた一つ崩壊させたことになる。数学に法則がないなら、この分野全体でも正しさも過ちも存在しなくなったことになる。

  現代教育は、完璧な神の存在を示す大きな分野をことごとく攻撃している。まず最初に宗教自体を攻撃した。無論、教会への宗教攻撃では、苦労せずとも教会の過ちを沢山証明することができた! しかし、宗教攻撃の狡猾な点は、必ずしも正しい宗教はないと言っていることだ。それなら、必ずしも間違った宗教もないことになる。多くの宗教はただの宗教で、多分、最初から人間の勝手な作り物だったのだろう。だから、どれが正しく、どれが間違っているとどうやって判断できるだろうか、という具合になる。

  つまり、絶対的な宗教などないということだ。当然ながら、この目的全体は、神への信仰を滅ぼすことにある。そして神はもう存在しないのだから、正しい宗教も間違った宗教も存在しないので、人間に規範を示す宗教などないことになる。

 

  そして次は、哲学が攻撃目標になったと思う。哲学は、ある面で人間愛の宗教だと言える。人類の兄弟愛についてである。哲学も愛を含んでいるので、神と宗教の次は哲学を葬らねばならなかった。だから現代教育は哲学をまやかし物とし、完璧な哲学、正しいあるいは間違った哲学などないことを証明しなければならなかったのだ。

  と言う訳で、すべては、「絶対的な支配者がいないなら、おきてもない」という反神的前提条件に戻る。そしておきてがないと証明できるなら、神は架空の存在であり、絶対なる支配者など存在しないことが証明できるのである。以上のすべての学問が完璧ではないと証明できるなら、それは完璧なものなど存在しない証拠だと主張し、神は存在しないことになる!

  歴史もまた、神の存在を証明する学問である。善または悪であったがゆえに、諸帝国が興亡するという神の報いが示されている。歴史は、成就された預言も含め、神の存在とそのおきての最も確実な証明の一つである。だから歴史に関して、現代教育はどんな手段を取っただろうか?

  歴史を不真実としたのだ。例えば米国史では、近年、ジョージ・ワシントンは悪者で、その他の偉大な人々も堕落した人間扱いするのが流行っており、あらゆる偉人の評判を落としている。「事実は必ずしもそうではなく」、今までそれらの人物について聞いてきた事や思っていた事は正しくなく、全然そのような人物ではなかったと主張するのが、堕落した歴史学者の得意とする仕事である。

  音楽も同じだった。音楽がもはや音楽ではなく、ただの騒音となってしまうに至ったのだ! 音は調和せずとも、快い響きでなくともよくなった。というわけで、何の決まりもないのだから、良い音楽、悪い音楽というものもなくなったのだ。

  美術はどうだろうか。現代美術はひどい混乱である。規則も美も何もない! 完全な混乱だ! 何の意味もない。良識も意味も秩序もない。わかるだろうか。意味を取り去ることができるなら、物事には何の意味もないと人々に証明することができる。そうすると秩序も目的も計画もなくなる。それゆえ、偉大な計画者である神もいないことになる。

  美術も音楽も、真の美を創造するために厳格な規則に従っていたものだ。しかし、両方共その規則や決まりを捨ててしまったので、醜い無秩序状態となっている。騒音、混乱、狂乱、醜悪、未完成品である! 音楽はもはや音楽ではなく、ただの音、騒音、狂乱である! 美術ももはや美術ではない。混乱した色の斑点と意味のない醜い形である!

  同様に、天地創造にも攻撃をかけている。物事には秩序がなく、何の規則も、計画も、目的もないことを証明しなければならなかった。それによって、偉大なる計画者、または秩序を与えられた方はいないことになる! それゆえ、創造はただの意味のない無秩序の進化論となる。「すべては偶然によってできた!」 悪魔的な現代教育は、絶対的なものへの信仰を破壊し、それによって神への信仰をも破壊するために、少しでも規則や秩序や計画や目的があるもの、つまり、規則や秩序の主であって目的をもって万事を計画される絶対的な支配者が存在することを証明するものはすべて攻撃した!

 

  彼らのテーマソングは、昔流行った歌のようだ。「必ずしも真実ってわけじゃない。聖書に書かれていることは、必ずしも真実じゃない! 聖書だって、歴史だって、宗教だって、哲学だって、必ずしも真実じゃあない!」 あらゆる事をそうやってこきおろしていく。「創造は必ずしも真実じゃない。音楽、美術、どれだって、必ずしもそうじゃない。実際、真実ではなかったのだから! 本当だったものはなく、真実なんてありゃしない。」と言っているも同然である。

  ピラトはイエスに、「真理とは何か?」と尋ねたが、イエスはすでに、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われていた。(ヨハネ14章6節) だから、ある人達が信じさせようとしているように、「何もかも必ずしもそうではない」と言うのなら、真実なものは何もないことになる。すると真理もなくなり、キリストもなくなってしまう! 正しいものは何もない! わかるだろうか? 神の存在を無効にするには、真理、規則、道理、秩序、計画、法則、規律などの存在を無効にしなければならなかった。

  現代のいわゆる「進歩主義教育」、つまり新しい教育では、新数学のほかに、新しい読みというものさえ試した。それは、読みを学ぶのに必ずしも規則に従わなくてもよいというものである。アメリカの幾つかの大都市には、進歩主義教育を受けて、フォニックス(初心者を対象につづり字と発音の関係を教える語学教授法)も音声学もアルファベットも使わないという読み方を教えられた一世代がいる。言葉の発音の仕方さえ学ばなくてもよい。ただ、その言葉の意味だけを知っていればいいのだ。そしてその言葉に何らかの意味があるとしても、当然ながら、現代教育によると、必ずしもその意味をなすとは限らないのである。というわけで、その教育を受けた世代の高校生が大学に進学した時には、読み書きもろくにできなかった!

  絶対的な支配者である神を追放するには、すべての規則を追放せねばならず、その結果は完全なる無秩序状態である! 秩序を与えられる方を追放するには、秩序自体を追放しなければならないので、ひどい混乱が生じた! 神を取り除くには、絶対的なもの、すなわち正しいもの、間違っているものの区別、物事の意味や目的を取り除かなければならなかった。その結果は完全な狂気、狂乱である! 勿論、教育の名を借りてそのような犯罪行為を行なう連中は、この点に関しても私に異議を唱えるだろう。

  何故なら、現代心理学の殆どが、誰も本当に正気だとか、気が狂っているわけではなく、ただ皆と少し違うだけであるとするからだ! 気が狂っている者がいるには、正気な者がいなければならない。そして正気か狂気か判断するのは誰なのか?偉大なる裁き主はいない事になっているので、正気あるいは狂気の原則はない。だから狂気は単に「異なっている」という事になる。誰も実際に正気と断定できないので、誰も気が狂っていないことになる。

  酒浸りも、もはや酒浸りではない。今では、アルコール中毒という単なる病気の一種である。性に関する決まりに反することも、もはや罪とは考えられない。単なる倒錯、異常とされる。違った事が好きな人達もいる。だから、それが完全に間違っているとは言えないと言うのだ。

  こんな具合なので、反神、反キリストの政治的傾向が、神を全く否定する完全な無政府主義的状態を生み、政治的規則や政府が持てなくなるのも無理はない! 政府を持つためには、法律や規則がなければならない。そして法律や規則を持つためには、それを作成する人が、ある事柄は正しく、ある事柄は間違っていると確信していなくてはならない。そして正しい事と間違っている事の区別があるのなら、究極の立法者、つまり法を定める方が存在していなくてはならない。つまり神である!

 

  だから、神を否定する人間は、いずれ最終的には、規則にも法律にも従わず、秩序も意味も計画も目的も何も認めない完全な無政府主義者となるしかない。そして、すべてが完全なる混乱となる! それは、完全な混沌と、神の創造物の完全な破壊という悪魔の究極の目的を果たすことになる! 規則を無効にし、支配者である神を放棄するなら、その結果は、すべてが破壊される完全な混沌状態以外の何ものでもなくなる。

  それ故、現在の革命的な教育とは、神への回帰の教育である。それは、この時代にあって非常に革命的である! 私達はキリスト教において真の信仰に、科学において天地創造に、哲学において純粋な愛に、歴史において神の計画に、言語において言葉の真の意味に、芸術において美に、音楽において調和に、数学において規則に、読み方において決まりに、振舞いにおいて善悪の区別に、政府において秩序に、そして全ての事において神、つまり万物の創造主、設計者、計画者に戻らなければならない。それによって人生は再び意味を持つようになる!

  神だけが、人生の真の目的を与えることができる! だから私達の教育、全科目、全分野において神に戻ろうではないか。私は何年間か学校で教えたことがあり、すべての事を神に関連づけた。万物には完璧さがあり、それらを創造された完璧な方がおられ、すべてに目的があることを教えたのだ。

  正気と分別の世界に戻り、規則に従って計画される全能なる設計者が定めた、本来の存在目的に戻ろう。神は無法と無秩序に代えて、政府と秩序をもたらされる。宇宙に意味を、惑星に目的を与えられる。神は私達の心に愛を、思いに安らぎを、体に健康を、精神に休みを、人生に幸福を、魂に喜びを、そして「主を畏れる事は知恵のもとである」と知る知恵を与えられる。(箴言9章10節) 単なる知識だけでは十分ではない。神の栄光の為にその知識をどのように使うかがもっと大切である。

  すべてのことで神を認めるなら、意味、理由、目的、計画、意図、ゴール、そして神の御国の完璧さが得られる! 神を放棄すれば、無秩序と完全なる破滅が訪れる! しかし、忠実に信じる私達は、偉大な設計者が規則と法則、善悪の区別や絶対的なものの内に人類に与えて下さった、平和と秩序と人生の目的をもたらそうと努力しなくてはならない。それなしでは、平和も秩序も幸福もないからだ!

  絶対的なもの、そして偉大な支配者の規則を感謝しよう。それによって善悪の違いを知る事ができ、神の愛と、神の思いやりあふれる掟や、道理にあった規則を通して、幸福を見いだす事ができるからだ。イエスよ、感謝します!「永遠の命」である、絶対的な方「イエス・キリストを知る事」ができるよう、神があなたを助けられるように!(ヨハネ17章3節参照)

 

 

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  あなたは自分のすべての罪や過ちをゆるしてもらい、自分が救われ、永遠の命を持っていると、確信できるようになりたいですか? もしそうなら、今この短い祈りを祈って、イエスに心を開いて下さい。

 

  イエス様、私の罪や過ちをゆるし、私の心に入って下さい。あなたからの永遠の命を与えて下さい。それによって、心と思いの平安、人生の目的を見いだせますように。アァメン。

 

  イエスは言われました。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17章3節)

 

 

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「絶対的なものは存在する!」初版は、1975年12月に発行されました。

第一巻12号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241, 8021 Zurich, Switzerland.