Mountain Streams

水晶の流れ 11

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

二次元の人間!

ファーザー・ダビデ

 

  この話で、私達は「深みに飛び込む。」 霊の世界の領域に! 現在の死につつある世界ではなく、神秘的な、永遠の現実の次元、永遠の生ける世界だ! それは、時間という限られた空間ではなく、永久的な永遠の世界。一時的なこの世俗のレベルを越えた、そのほとんどが見ることができない素晴らしい次元。

  だから、聖書はこのような助言を与えている。「あなたがたは上(天国)にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(コロサイ3章2節)「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、」−−モーセはエジプトの王にもなれたのだ−−「罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」(ヘブル11章24-27節)

  時の初めより、信仰によって生きた神の民は、目に見えない世界を待ち望んでいた。「ゆるがぬ土台の上に建てられた都」、永遠の土台の上に建てられた都であり、「その都をもくろみ、また建てたのは、神である。彼らはまだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見た・・・そして、地上では旅人であり寄留者である事を、自ら言いあらわした。彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」 その都とは天の都であり、神のもとから出て、人と共にあるようになる!(ヘブル11章10,13-16節、黙示録21章2、3節)

 

  これこそ、あらゆる時代の人々が抱いてきた希望である。今は目に見えない永遠の世界で、永遠に主と共にいるようになることだ。私達皆が心待ちにしているその天の都は、聖書の黙示録21章と22章やその他数多くの箇所でも述べられている。空想の世界ではない。地上の天国、永遠の都のある新しい天と新しい地である。

  だが今でさえ、神の目に見えない天の王国は存在しており、すでに活動中である! 私達を取り巻いているだけではなく、私達の中にあるのだ。イエスが言われたように、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある・・・わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない。」(ルカ17章21節、ヨハネ18章36節) つまり、邪悪な人間と邪悪な霊どもによる、地上の、肉的な、血肉による王国のようではないということだ。目に見えない神の霊の王国はすでに私達の中にあり、「今は、ガラスを通して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(1コリント13章12節) 霊の驚くべき領域、神の王国では、全てがもっとはっきりとし、もっと現実的で、永続する。「この世の有様は過ぎ去る。しかし神のみ旨を行う者は、永遠にながらえる!」(ルカ17章21節、ヨハネ18章36節、1コリント7章31節参照)

  今存在しているこの霊的な王国のことさえ、どのように描写してよいのか分からないのだから、将来の王国のことなどなおさら分かるはずがない。私達に分かる事と言えば、聖書に書かれていること、他の人達の証言、また実際に自分で経験したことだけである。それでもほんの僅かに過ぎない。しかし、私はいくつかの事を語ってきたし、もしかしたら、あなたがたが理解するのを助けるために、もっと多くの事を語るのを主は許されるかもしれない!

  話をごく単純にするために、子供でも分かるような、いわゆる科学的なアプローチをするのもよいだろう。ほとんど理解を越えた世界を、私達の限られた頭で何とか理解するためだ。その領域とは、将来の領域ではなく、今、私達が生きている領域−−肉によるのではなく、霊による、五次元の世界だ。知っているように、科学は、物質の存在は4つの次元から構成されていると告げている。つまり、物が存在するには、空間を構成する長さ、幅、深さ、それにもう一つ、時間と呼ばれるものがなくてはならない。アインシュタインの理論がこのことを明確にしている。アインシュタインの相対性理論では、時間と空間は絶対的につながっている。時間がなくては、何一つ物質的空間に存在することはできない。存在するためには、時間がなくてはならないのだ!

 

  私は今、びっくりするような絵葉書を手にしている。海中の、色彩豊かな素晴らしい神の創造物の写真だが、この絵葉書の奇妙な点は、端から見ると、2つの次元しか見えないということだ。長さと幅だけしか見えない。深みが全くない自分の小さな世界しか理解できない二次元の人間の世界にいるのだ。それ以外には何も見えない! そしてこの葉書を端から見ると、私にもそれ以外何も見えない。もし私が二次元の人間だったら、この2つの次元以外の世界など存在しないと主張することだろう。見ることができないからだ。

  そして今、私達は二次元の人間が知らない、新しい、奇妙な次元に移る−−高さの次元だ! 私達は三次元という新しい世界へ入る! この葉書を上から眺めると、実に驚異的な世界が見える。二次元の人間の持っているこの二次元の平らな絵葉書は、実は、三次元あるいは立体絵葉書と呼ばれるものだ。端から見るとただ長さと幅の二次元なのだが、上から見ると、突如として、深さとして知られる新しい次元が存在するようだ。実際に写真の中を覗くことができるようで、物と物の重なりが見える! 美しい赤いサンゴの前にアシが繁っていて、魚はその間を泳ぎ、小石の水底は遠くのほうがだんだん見えなくなる。新しい三次元のビジョンで見てもだ!

  というわけで、2つの次元でしか物が見えない哀れな二次元の人間−−そんな人間が存在したらの話だが−−の視野を越えた新しい世界に入り込んだわけだ。また、新しい方向を見ている。それには高さと、深さがあり、私達を待っている新しい素晴らしい世界が広がる! 「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は! そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい!」(ローマ11章33節) 私達は二次元の人間にとって神のようになり、理解を越えた永遠の存在となる。

  私達はもはや二次元という低いレベルを越えているので、二次元の人間の視界からすっかり姿を消してしまっている。上を見ることも、下を見ることもできないのだから、私達がそのレベルまで下がらない限りは、全く私達を見ることができない。私達の新しい次元を理解するなどなおさらだ。

  二次元の人間のレベルに達するためには、私達は彼と全く同じ平面にいなくてはならない。彼が私達を見るためには、極度に制限された二次元の世界に完全に同調しなくてはならない。そして、その限られた範囲をほんの僅かでも出るならば、彼の目から私達は完全に「消え去ってしまう!」

  素晴らしいじゃないか! この三次元の世界は、ほとんど限界のない空間となり、二次元の人間の世界よりはるかに広く、大いなる世界となる。広大で、深く、高いので、彼はそれを理解したり、また私達を理解することができない。それは彼の世界、平面を越えたものだ。彼はそういった新しい世界、素晴らしい、驚異的な世界が存在することさえ知らない。見ることができないからだ。というのも、時間を備えた四次元だからである。私達はその世界に存在し、そこで生活している。

  そして二次元の者には、私達が一時的にその狭い平面の非常に限られた視界の中に降り立たない限り、私達を見ることが出来ないが、私達には、いつもと言っていいほど、殆どどんな角度からでもその人を見ることが出来る。二次元の中、あるいは外、上から、下から、あるいはその人と同じレベルなど、どこからでも見える。

  私達の次元は、完全に二次元的科学の領域を越えており、その小さく平坦な脳には決して自分の次元以外には見えず、それを理解することも出来ない。二次元以外の世界については何も知らず、見たこともなく、ましてやそこに行ったことなどあるはずがないので、ナンセンスの一言で片付け、私達や私達の次元など存在しないのだと言う!

  彼にそれを示すことができたとしても、二次元的な理解を越えているので、生まれて初めてキリンを見た農夫のような態度をとるだろう。その農夫は言った。「こんな動物は絶対にありゃしない!」 あるいは私の子供達が小さかった時、何か新しい食べ物を食べさせようとした時のようになる。一人の子供は4才か5才だったが、「パパ、僕はそれが嫌いってわかるよ。一度も食べたことないもの!」と言った。

  「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。」(1コリント2章14節)「そんなものはありゃしない。」見た事がないからだ。気に入らない事もわかっている。以前に経験した事がないからだ!

  実際には、二次元の人間は、一度に一箇所しかいることができないので、自分のいることのできない自分の平面を越えた場所が存在すると認めることは、プライドが許さないのだ。実際、三次元という翼と、それを探るための時間を与えられなくては、そこに行くことができない。

 

  かわいそうに! その視界、領域、行動範囲のなんと制限され、狭く、限られていることか! どこにも行くことができないので、どこか他の場所が存在することを認めたくないのだ! そして特に、三次元の創造物によって他の世界に引き上げられたことがあると主張する誰かから、自分の小さな領域外にあるものについて少しでも話されることに我慢できない。一度も見たことがないので、彼にとってそれは存在しないのだ! 自分と同じ平面の2方向から見えないものは、何も認めたくない。純然たる平面幾何人間であり、立体という概念は存在しないのだ! 彼は言う。「立体の人間なんてくそくらえ。出てきた所に送り返してやる!」

  ああ、なんと愚かな二次元人間なのだ! 自分がどんな状態にいるか知らないのに、どうしてそんなことができるのか!誰かが信じないからと言って、現実でないなどとは言えない!

 

  「四次元の」普通の立体的人間にも同じ事が言える! その立体頭は堅苦しく、愚鈍なので、ただ自分が見たことがない、行ったことがないというだけで、五次元や霊の世界などの存在を信じない。そしてそれを見たり、そこに行ったことがあると言う人に対して怒り出す。自分がその人よりも低いレベルに置かれてしまうからだ。五次元、霊の世界、天上の世界は、ただ自分が見たことも、行ったこともないから、そんなものは存在しないと主張している。

  それは、このように言っているのと同じぐらい馬鹿馬鹿しい。「ニューヨークやロンドンが存在するなんて、信じられない。見たこともないし、行ったこともないんだから! たとえお前達のような時間と空間を旅行する者が、私のいる世界から出てそこを訪れたことがあるので、それらが存在するなどとほざいても、絶対に信じないぞ。自分は見たこともないし、行ったこともないからだ!」 その愚かさは限りがない。

  普通の人が霊の世界を認めないのは、これと同じくらい馬鹿げている。あなた達はそのような人に、神の御言葉から、それに関する話を読んでやることもできる! 自分が実際に五次元の世界、不思議でいっぱいの霊の世界を訪問し、見てきた事を話すこともできる。しかし、それでも信じないだろう。自分にはないものを、あなた達が持っているのを認めたくないからだ。つまり自分にはない視野や次元、霊の物事に対する理解力である。それは永遠の次元であり、彼のちっぽけなこの世の思考では把握できず、また把握したいとも思わない。そうするなら、自分自身を低い立場に置くことになるので、自分の知識を越えたものがあるのを認めたくないのだ! 何とかわいそうな、心の狭い二次元人間なんだろう! それを直視できないのだから!

 

  しかし、私はこの事をあなたに言いたい! 私はそのような世界について聞いたり、読んだり、ビジョンで見たりしただけではなく、実際にそこに行ったことがある。だから、あなたが信じようが信じまいが、それが存在するのを知っている! そして、あなたが持っていないものを私が持っており、自分もそれがほしいと正直に認め、謙虚に真理を尋ね、自分の限界を告白し、自分も新しい世界を見いだせるよう助けてほしいと、霊の世界を知っている人に尋ねない限り、この上もなく素晴らしい、天国的な世界の、言葉に言い表せないほどの喜び、美しい景色、見事なサウンド、最高の歓喜を味わうことは決してない!

  憐れみ深い神は、あなたに直接、霊の窓を通して、天国を垣間見せて下さるかもしれない。しかしそれを受け入れたり、信じるのを拒み、拒否するなら、再び見る事はないだろう!

  それは、私達の目の中に見える確かな何か、私達の顔にあふれる光、私達がいる場所に広がる、ほとんど手でつかめるぐらいの幸せな雰囲気である。しかし、あなたには理解することも把握することもできない。あるいは感じることができても、とても信じ難いのだ。あなたは陸にあがった魚、二次元の世界から出た二次元人間のようで、御霊による新しい人生と新しい視野を受け入れるか、死ぬかのどちらかだ! つまり、元の自分の世界に戻って、今までのように精神的に死んだも同然となる! かわいそうに! 残念だ! 自分が何を逃したか、決して知ることはないだろう! もう少しだったのに! 機会を失ってしまったのだ!

 

  この「見えない世界」についての私の体験を話し始めるなら限りがない。これまでに話したのはほんのごくわずかにすぎず、とうてい話し尽くすことなどできないだろう。この小さなメッセージは終わりにさしかかっているが、五次元の世界に関する聖書の例を幾つかあげよう。すべてはそこから、つまり御霊、神から始まったのである! 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこと(真理)とをもって礼拝すべきである。」(ヨハネ4章24節)「はじめに神は天と地とを創造された。神の霊が水のおもてをおおっていた。」(創世記1章1、2節) これに関して話し始めると、キリがない。ここで全部話すのは不可能だ! 聖書には、全書に渡って五次元の霊の世界の様々な証拠や物語が書かれ、その世界の存在が明確に記されている! 死という栄光の門を通って霊の世界へと入った後、その世界のことを告げるためにこの世に戻ってきた不滅の人々さえいるのである。

  または、霊の世界を垣間見るためにそこに引き上げられた人々もいる。そして大勢の人々が、そこからメッセージを受け取ったのだ。私達の中にも、そこに行ったことのある者達がいる! そこは素晴らしい幸せな場所で、「この世界を越えた世界」だ! あなたもきっと気に入るだろう! 試してみてはどうか? 何か失うものがあるだろうか?

  「永遠のものを得るために、いつかは失うものを捨てる人は、愚かではない!」 あなたはどうか?

 

 

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  「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。」(ヨハネ3章8節) イエスがこの節の中で語っておられ、またこのメッセージでも説明した「五次元の世界」に入りたいなら、この祈りを祈って、今、イエスを心の中に受け入れて下さい。

 

  イエス様、私はあなたの霊の国の市民となりたいです。私のすべての罪や過ちをゆるし、心の中に入って、永遠の命を与えて下さい。また、私があなたの証人となり、あなたの愛を他の人達にも伝えられるよう、私をあなたの御霊で満たし、力を与えて下さい。アァメン。

 

 

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「二次元の人間!」初版は、1971年3月に発行されました。

第一巻11号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241, 8021 Zurich, Switzerland.