Mountain Streams

水晶の流れ 9

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

御言葉!

―主から離れていかないためには

ファーザー・ダビデ

 

  エペソ人への手紙4章17、18節にはこう書かれている。「あなたがたは今後、異邦人(不信者)がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、神のいのちから遠く離れる。」 神の命から遠く離れるとはどういう意味なのか? あなたが神の命から遠く離れるとしたら、それはどういう時だろうか? この聖句はどう解釈できるだろう? どんな意味なのだろう? どうやって主から離れてしまうのか? それは、御言葉から離れることによってである。イエスは御言葉だからだ。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉体となり、私達のうちに宿った。私達はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1章1、14節) 御言葉から離れる時、実は、主から離れていることになる。御言葉をなおざりにする時、実は神をなおざりにしているのだ!

  主から離れた者の場合、御言葉を拒んだため、まずその知力が暗くなる。すると代わりに悪魔が嘘を吹き込むので、御言葉ではなく、嘘を信じるようになる。そしてついには、心が硬化し、完全に無感覚になってしまう。

  というわけで、人が神と近い関係にあるか、それとも離れているかは、御言葉によって、つまり、御言葉を読んでいるか否かによって決まる。これが、主流宗派に属する大勢のクリスチャンの問題点である。彼らは、聖書を読んだり、御言葉を学習することなどめったにしない。毎日短い祈りと御言葉の時間を持っている人もいるかもしれないが、大半の人はそれさえしていない。日曜日の教会の礼拝に出れば、一週間分の御言葉は十分に得られると思っているのだ。

  だがそれは、弱いクリスチャン向けの御言葉でしかない。たいていは全くパンチのない御言葉しか得ることができないのだ! それでは一週間ももつはずがない。まるで1週間を一食ですまそうとするようなものだ! 身体のほうはそのようには扱わず、一日3回しっかりと食べている。というわけで、人が御言葉から離れることは、神に背を向けることを意味する。御言葉への信仰を失う時、あるいは御言葉から離れる時、それが「神のいのちから離れる」時なのだ。

  神の命とは何か? イエスは、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」と言われた。(ヨハネ6章63節) 神の命とは、神の言葉である。それこそが命や心の糧、栄養、力、健やかな霊の源である。御言葉が断たれるのは、食物を断たれ、栄養が行き渡らないのと同じだ。成長せず、いつまでも霊的な赤ん坊のままの、弱いクリスチャンが大勢いる。信仰が深まることもなく、主から遠ざかっていくのである。

  私はこのように考えていた。「どういう経過をたどって、クリスチャンが完全に離れてしまい、無感覚になって、信仰の道から外れ、冷めきってしまうのだろうか?」 すると、すぐこの聖句が頭に浮かんだ。「彼らの知力は暗くなり、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になる。」(エペソ4章18、19節)しかし、この聖句はどういう意味なのだろうか、そして一体どこからそれは始まるのだろうか? 神との交わりからどうやって離れるのだろうか? 神の命から、どのように離れるのだろうか?

  それは救われていないという意味ではない。しかしながら、神との交わりから離れてしまうのである。何故か? 御言葉だ! 御言葉をなおざりにし、御言葉から離れてしまったためだ。

  私は、その答は御言葉だと強く確信している! 「初めに言があった。言は神であった。」(ヨハネ1章1節) 神の命である! 主よ、感謝します! ハレルヤ! だから、「神のいのちから遠く離れる」とはどういう意味なのか? 神の命とは何だろうか? 御言葉と命を関連づける聖句は、他にもあるだろうか? イエスはこうも言われた。「わたしがきたのは、羊に命を得させるためである」(ヨハネ10章10節) これは良い聖句だ。私達が命を得るために、「御言葉」がきたのだ。どのように命を得るのか? 御言葉、つまりイエスを通してだ! そして、神の御言葉、つまり過去と現在の御言葉両方が命なのである!

  もう一つある。「今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち」(1ペテロ2章2節) この聖句は私達を、母親の乳に頼って生きている赤ん坊にたとえている。御言葉なしでは、私達は霊的に死んでしまう。命を与える神からの流れとは何か? 御言葉である!

  御言葉をなおざりにする人は誰でも、神の命をなおざりにしている。御言葉こそが命だからだ。イエスは御言葉であり、御言葉は命である! イエスはこう言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である!」(ヨハネ14章6節)「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である!」(ヨハネ6章63節)

  御言葉は、キリストにおける新しい赤ん坊を生み出す種である。御言葉を蒔くなら、何を刈り取るだろうか? 魂を、つまり神の新しい子供達を刈り取る。それは確かに命だ。ちょうど本物の赤ん坊を産む時のようだ。父親が種を蒔き、母親が栄養を補給し、赤ん坊を産む。種は御言葉にたとえられ、御言葉は種にたとえられている。「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのである。」(第一ペテロ1章23節)

  御言葉は種であり、種は御言葉だ! 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12章24節) つまり、生命をもたらすということだ。種である御言葉が生命をもたらす。だから、クリスチャンが御言葉から離れてしまうなら、命、つまり霊的な生命である主から離れてしまうことになる。神は御言葉だからだ。神の命や神の霊のエネルギーから離れてしまう。御言葉こそ命である。

  この聖句は、私にとって非常に意味深い。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である!」(ヨハネ6章63節) 考えてもごらん! 御言葉は霊であり、命なのだ!神の言葉は実体のあるものだ! 実存している。それは霊であり、命なのだ。目には見えず、触れることもできないが、それなしではすべてが死に至る。霊的に完全に死んでしまうのである。そして、御言葉がないなら、生命がないので、完全な死の状態になってしまう。

  科学は今だに「生命」を把握することができない。死後5分たっても、体はまだそこに存在するが、人には見えず、感じることもできず、重量もない何かがなくなったのである。研究者が死亡直後の人の体重を測ってみても、違いはなかった。その体には何らかの生気、エネルギー、生命があったのだが、体に命を与える霊がなくなったのだ。「霊であり、いのちである。」

  そして、御言葉はイエスの霊、そして命なので、御言葉がない人には、神はもはやなく、神との交わりや御言葉がないなら、霊的に死んだも同然である。私は人が神から離れてしまうのは、御言葉から離れてしまったからだと確信している。御言葉を常に読んでいる人が神から離れていくとは思えない。その心は神の命、御言葉で満たされているので、そんな事はあり得ないはずだ。だからこそ、御言葉の暗記と勉強に励み、御言葉から離れることなどできないほど、心と思いを御言葉でいっぱいにしなくてはならない。イエスのこの言葉を忘れてはならない。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネ6章63節)

  イエスは御言葉そのものである。そして、霊であり、命でもある。だから、あなたは毎日、一服イエスを飲み、自分自身をしっかり養わなくてはならない。ちょうど体力を維持するために食べなければならないように、霊的な力を維持するためには、御言葉を食べ、飲まなければならない。私は、一部のクリスチャンが神の命から離れてしまった原因はそこにあると思う。御言葉をなおざりにし、御言葉から離れてしまったのだ。イエスはこう言われた。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない。」(ヨハネ15章5節) 彼らは主から離れてしまったのである。救いを失うことはないが、ペテロがしたように「遠くからイエスのあとをつけ」、イエスのことを「知らない」とさえ言えるぐらい、遠く離れてしまうのである!(ヨハネ18章25節、マタイ26章58節を参照)

  それが鍵だと思う。人が信仰の道を逆戻りしてしまうのは、何が原因だろうかと考えていた。なぜクリスチャンの心が冷めてしまうのだろうか? 聖書は、終わりの時には「多くの人の愛が冷えるであろう」と預言している。情熱は消え、人の心は冷め、すっかり無感覚になるのである。炎を燃え立たせるには、何が必要だろうか? 燃料だ。では、この場合の燃料とは何か? 御言葉だ。御言葉が私達の心に火を灯し、炎を燃え立たせる。炎を維持しているのは、燃料である。ろうそくのろうであれ、ガソリン、オイル、何であれ、燃料が炎を燃え立たせるのである。

  そして、油のなくなった5人の愚かなおとめのように(マタイ25章1ー13節を参照)、燃料がなくなってしまうなら、炎や光は消え、闇の中に取り残され、神の命、燃料、御言葉、御霊から離れてしまうことになる。「神のいのちから遠く離れる」神の命と共にいないのだ! 御言葉から離れるなら、知力が暗くなってしまう。燃料である御言葉、つまりイエスを、霊を、命をくべていないので、炎は絶える。

  御言葉はイエスであり、神であり、霊であり、命である!そして、イエスなしには神もなく、御霊なしでは命もない。だから、死んだ状態になる! 油が切れてしまった時と同じように、炎は消え去る。火は消え、熱も冷めるので、冷たくなり、無感覚になる。これが必ず起こるパターンだ。この聖句には、その過程がうまくまとめられている。知力が暗くなり、離れる。「神のいのちから遠く離れる」のだ。

  「遠く離れる」というのは、ちょうど神の御国に対する異人、外国人、よそ者のようになることである。救われているなら、彼らはまだ御国の一員であり、神の子供だが、遠い国にいる放蕩息子となり、自分自身の家族、故郷、国、神の御国に対してよそ者となるのである。

  魂の糧は大切だ。霊の食物で養っていないなら、魂が苦しむことになる。それなしでは、霊は死んでしまう。霊的に自分を養い続けなくてはならない。あるいは、赤ん坊のように霊の乳で養われ続けなくてはならないのだ。

  あなたは御言葉という命がなくてはならない。さもないと、御言葉がもたらしてくれた生き方も絶える! 命がないなら、霊的に死んでしまう。主や御言葉をなおざりにした途端、あなたの魂は自滅の運命にある! 自動的にそうなるよう、調節され、配線されているからだ。

  御言葉をなおざりにするのは危険である! 少しでも自分の生活から御言葉を押し出し始めるなら、あなたは忙しくなりすぎている! 御言葉が気に触ったり、気に入らなかったために、二心の者となり、御言葉に対する確信を失った途端、あなたは危険な状態になる。(ヤコブ1章8節を参照)

  時には、神から大きなテストを与えられることもある。アブラハムに課されたテストを覚えているだろうか? 神はアブラハムにこう言われた。「行って…イサクをはん祭として捧げよ。」 それは過酷なテストだった! イサクは約束の子、奇跡によって神から授かった子だった。神はアブラハムがそれでも神を信じ、神の御言葉の結果、つまり神の御言葉の成就として生まれた自分の息子よりも、御言葉そのものを重んじるかどうかを見たかったのだ。

  御言葉の実として生まれたものすら、御言葉以上に重んじてはならない。種がなければ、新しい生命は決して生まれず、実も決して結ばれないだろう。樹液がないと、木は枯れてしまう。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない。」と、イエスは言われた。そしてイエスは御言葉である。御言葉なしでは何もない。御言葉がないなら、霊も、命も、力も、光も、熱意も、暖かさも、実も何もない! 敵からの最初の一撃で完全に打ちのめされてしまう。

  どうして主に背を向けることなどできるのかと、思うかもしれない。どうして挫折し、戻って行ってしまったのだろうかと。それは御言葉に心から従わず、御言葉の上ではなく、間違った土台の上に家を建てたためである。事実、それは土台でさえなかった。ただの砂だったのである。だから、嵐が来ると、家は倒れてしまった。岩の上に建てられていなかったからだ。(マタイ7章24ー27を参照) そして岩とは誰だろうか? イエスである! 御言葉の堅固な岩の土台である! 主をほめたたえよ! イエスは御言葉である。そして御言葉に従っていないなら、土台がなく、神に従っていることにはならない。イエスが御言葉なので、それに従っていない人達には土台がない。岩の上にいないので、結局、倒れる。

  主から離れてしまった者は一人残らず、御言葉をよく知らず、御言葉を熱心に読んでいなかったに違いない。そして強い信仰を持つクリスチャンは、御言葉を本当によく知っている者達だと確信をもって言おう。御言葉に信仰を持っており、御言葉を読んでいるから強いのである! しかし主から離れ去った者は一人残らず、御言葉をよく知らないか、御言葉をほとんど、あるいは全く然読んでいなかったか、あるいは、御言葉でしっかり満たされていないか、御言葉を熱心に勉強し、御言葉に満たされ、その中で語られている事を行なおうとしていなかったことを、彼らも認めるに違いない。(ヤコブ1章21ー25節を参照)

  だから御言葉こそ、その鍵である! 力、勝利、実り豊かさ、情熱、命、暖かさ、光、リーダーシップなど、すべての鍵は御言葉にある! だから、御言葉を怠ると、主から離れ、失敗し、冷めきって、暗く、弱くなり、御言葉がないまま霊的に死んだ状態になってしまう。弱いクリスチャンや主から離れてしまった者は、御言葉を優先させることも、重視することもしなかったのだろう。心から御言葉を愛し、あがめてはいなかったのだ。

  御言葉をあがめることに、何ら間違いはない。御言葉はイエスそのものだからだ! 神はご自分の御名にまさって、御言葉を高くされた!(詩篇138篇2節を参照) 御言葉は神であり、命である! それは、神の言葉なのだ。御言葉は主であり、主は御言葉だ。だから御言葉をあがめ、愛し、常に読んでいることは何も間違っていない。イエスが御言葉だからだ。イエスは言われた。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネ6章63節) そして、「わたしは道であり、真理であり」−真理とは御言葉のことである−「命である。」と言われた。(ヨハネ14章6節) イエスは御言葉であり、御言葉はイエスである。そして、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(ヨハネ6章53ー58節を参照)とイエスが言われたように、御言葉で自分自身を養い、神の命を吸収し続けないなら、霊的に死ぬことになる。主から離れ去るのだ。

  だから、これが人が主から離れてしまう原因である。まず最初に御言葉から離れ、知力が暗くなる。そして、御言葉を拒んだがゆえに、神の命、つまり御言葉から遠く離れてしまうのだ。御言葉を愛さず、好きでもなく、信じてもいないなら、御言葉を拒んでいるのと同じである。私達がよく言うように、聖書をどれだけ信じているかは、聖書をどれだけ読むかでわかる。御言葉をどれだけ読み、それに生き、実行し、従っているかによって、どれだけ御言葉を信じているかがわかる。

  主から離れる者はそうしない。だから霊的に弱くなり、神の命、生命を与える流れを失うのである。御言葉を飲み、食べ、それに従って生き、それを力の源としないので、知力が暗くなり、もはや何も理解することができなくなる。何と哀れなことだろう! もう何も理解できなくなるとは! しかも、悪魔の嘘で満たされる場合が非常に多い。御言葉と神の真理に満たされるか、悪魔の嘘と闇に満たされるか、二つに一つしかないか分割禁止らだ!

  だから、すっかり冷めて、無感覚になるが、自分がそうなっていることさえわかっていない! 心も思いも、すっかりかたくなになってしまっているからだ。これは、非常に危険な状態である! 「しばしばしかられても、なおかたくなな者は、たちまち打ち破られて助かることはない」からである!(箴言29章分割禁止1節)

  主から離れる者は、たとえ主を信じていると主張しても、実際には、その人生が主にとって不名誉な証しとなっている場合がよくある。どんなに御言葉を覚えていると主張したとしても、大抵はそれに従っていないのである。聖書には、「御言を行なう人になりなさい。ただ聞くだけの者となってはいけない!」と書かれている。(ヤコブ1章22節) ただ御言葉を読んで、聞き、「アァメン」と言うだけでは十分ではない。実際に従うことで、御言葉に対する忠誠心と忠実さ、信仰を身をもって証明しなくてはならない。

  「御言を行なう人になりなさい。ただ聞くだけの者となってはいけない。」 「聞くだけの者になる」とは、砂の上に家を建てた者のようになることだ。試練が訪れ、逆境や迫害の嵐にあうと、一たまりもない。

  このように考える人もいるだろう。「でも、御言葉を読まないことぐらい、小さな事じゃないか。それだけで自分が主から離れるなんて信じられない。」 しかし、それが問題なのだ。御言葉を軽視し、クリスチャンの人生において最も大切なものと考えていないことが。「聖書を読まなくとも、大したことはない。みんなについて行って、みんなのやる通りにしていれば、問題ない。伝道をしているなら、別に問題ない。御言葉を読まなくとも、少なくとも他の人に御言葉を与えているのだから。」 それだけでは挫折する! 私達を前進させてくれるのは、御言葉だけだからだ!

  これが、その鍵である! 勝利と敗北の分かれ目、成功と失敗の分かれ目だ! 御言葉をどのように扱うか、つまり、御言葉から決して離れず、それを生きるための糧とするか、または御言葉なしでいこうとするかに全てがかかっている。それが鍵なのだ。そして主から離れ去った者は皆、自分達の失敗、挫折あるいは堕落の原因は、御言葉をなおざりにし、御言葉への信仰を失い、御言葉を疑い、背き、御言葉を捨て、ついには全てを捨ててしまったためだと告白するに違いない。

  主から離れ去った者達も「全てを捨てる」。御言葉、主、命、光を捨て、主から離れ、戻って行き、天の父の家を捨て、全てを捨てるからだ! 彼らは、間違った目的で全てを捨てる。畑にすきを残したまま、後ろを振り返って、完全に挫折する。元の世俗的な生活に戻って、全てを捨ててしまうのである。以前の生活の豚小屋、吐いたもの、汚物、泥、ぬかるみ、古いわだちに戻っていく。(ルカ9章62節、2ペテロ2章21、22節を参照)主が与えられたものを全て捨てて、貧しく、汚れた、この世の一員に戻るのだ。(ガラテヤ4章9節を参照)

  神の目には、彼らは乞食のようになる! 魂は貧しくやせ細り、完全に道を外すからだ。そのような者にとって主の元に戻るのはとても難しい。救われた時よりもはるかに困難だ。ヘブル人への手紙の中に書かれているように、天からの賜物を味わっておきながら、ひとたびそれを拒むなら、悔い改めるのは不可能に近い人々もいるようだ。せっかく受けたものを拒絶し、背を向けた者達が、また主の元に戻ってくるのは、初めて救われるのよりも困難でさえある。(ヘブル6章4ー6節を参照)

  主よ、イエスの御名によって、私達を助け、彼らを助けて下さい! 主よ、哀れな離れ去った者達を助けて下さい。彼らにとって、戻ってくるのは難しいことです。御言葉に弱いので、彼ら自身もとても弱い状態です。それは、御言葉によって強められ、御言葉を心に刻み、御言葉に満たされ、御言葉を飲み、大いに食べ、御言葉によって生きることをあまりしなかったからです。ダビデ王のように、御言葉が、命、力、活力となってはいません。ダビデ王は、御言葉について沢山語りました。御言葉こそ、彼が強さ、命、知恵、力、勝利を得る源だったからです。(詩篇119篇を参照)

  主よ、多くのクリスチャンが間違っているのはこの点です。彼らは御言葉を怠っています。御言葉なしで、魂を飢えさせているのです。日曜日にほんの少し得るだけで、残りの一週間、魂は飢えに苦しんでいます。彼らはますます弱くなり、ついにはこの世に打ち負かされ、自分達の金を破れた袋に入れるようになるのです。(ハガイ1章6節を参照) そして倉に入る彼らの収穫は、価値を失います。命、光、力、勝利への唯一の希望、すなわちあなたの御言葉を怠ったからです!

  イエスよ、どうかあの哀れな離れ去った者達が何とかして御言葉に立ち返れるよう助けて下さい! 主よ、あなたは、彼らがうんざりし、そこが自分のいるべき場所ではないと悟るようにと、彼らが自分の元いた豚小屋、汚らわしいわだちに戻り、ぬかるみやへどの中でもがくのを許される事があります。そんなひどい経験をした後では何でも良く感じられ、自分達が御心から大きく外れ、あなたやあなたとの交わりから離れ、あなたの命から遠く離れ、思いが閉ざされ、心が冷えきっていたのを悟るからです。おおイエスよ、彼らを助けて下さい!

  あなたは戻ってくるように乞い求めておられます! 「わたしは背信の子らの夫だからである!」(エレミヤ3章14節)「わたしに来る者を決して拒みはしない。」(ヨハネ6章37節)あなたは彼らに嘆願し、乞うておられます! またエルサレムのために泣かれました! このように言われたのです。「めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとはしなかった!」(マタイ23章37節) わずか数年後に都は破壊され、十人に一人が殺される運命にあるのを知っていたあなたは、エルサレムのために泣かれました! だから離れ去った者は、もっとひどい最後を迎えたのです。

  主イエスよ、何とかして彼らが戻ってくるよう助けて下さい。立ち返って、真に悔い改め、心を入れかえ、あなたの元に心から戻ってくるよう助けて下さい! 今度は、あなた以外、もうどこにも行くところがないと確信して。「永遠の命の言をもっているのはあなたです!」(ヨハネ6章68節) 一体誰のところに行けるでしょうか? あなたとあなたの言葉に戻る以外、どこにも、誰にも行くあてはないことを知るように助けて下さい。主よ、彼らを連れ戻して下さい。イエスの御名で。憐れみをたれて下さい! 彼らを憐れみ、あなたの御言葉に立ち返らせて下さい。アァメン。

 

 

  * * *

 

  主と御言葉から離れてしまったことがありますか? 「神のいのちから遠く離れ」ているように感じますか? それなら、この簡単な祈りを心から祈って下さい。神はあなたを赦し、憐れみを与えて下さいます。

 

  イエス様、あなたの御言葉をなおざりにすることで、あなたをなおざりにしてしまったことを赦して下さい! あなたの聖霊で私を満たし、忠実に御言葉を読み、それに従い、あなたのために生き、他の人にあなたの愛を告げるのを助けて下さい。アァメン。

 

  −−神が皆さんを祝福し、御言葉から離れないように助けて下さいますように!

 

 

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「御言葉!」初版は、1981年10月に発行されました。

第一巻9号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241, 8021 Zurich, Switzerland.