Mountain Streams

水晶の流れ 7

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

神は間違いを犯したか?

ファーザー・ダビデ

 

  神がアダムとイヴをエデンの園に住ませたのは、間違いだったのだろうか? 結局、二人は自分達で勝手に間違った選択をしてしまった。(創世記3章6節を参照) 神が大洪水を起こして邪悪な人類を一掃してしまわなくてはいけなかったのは、神がご自分の間違いを認めざるを得なかったということだろうか?(創世記6章5ー7節を参照) バベルの塔の出来事は恐ろしい災難であり、言語の混乱は歴史的な悲劇と言えるのだろうか? それとも高慢になった人類の鼻っ柱を折り、地球全体に分散させるという神の目的を達成するために必要だったのだろうか?(創世記11章1ー9節を参照)

  モーセがエジプト人を殺害したために命からがら逃亡し、結局40年もの間、一介の羊飼いとなって荒野で羊の番をしていたのは間違いだったのだろうか?(出エジプト2章を参照) その事は、自分の同胞をエジプト人から解放するという大義を、大きく後退させたのではないか? それとも、神が用意しておられた教訓を学んで、自分の民を解放できるだけの人物になるには、亡命生活を送る必要があったのだろうか? 自分の力に頼るのではなく、完全に神に頼る人物となるために。

  結局、サウロは神に背くようになったのだから、そもそも神がサウロをイスラエルの王に選んだのは間違いではなかっただろうか? サウロはただの失敗者だったのか? それとも、神が大いに使おうとしておられたダビデに、王になるための訓練を与えるという目的を達成するための道具だったのだろうか?(サムエル記上を参照) 神は時々、敗北のように思えるものから、最大の勝利を収められる。そして、人の憤りを神への賛美と変えられるのだ!

  ダビデ王がバテシバに夢中になり、国民からの尊敬を失い、反抗的な息子のアブサロムによって王座を奪われ、恥辱とスキャンダルの内に、少数の友人達と国を出る羽目になったのは、神の間違いだったのだろうか?(サムエル記下15章を参照) さて、このダビデの失脚は、彼を完全に駄目にするものだったのか、それとも向上するのに必要だったのか? 神から見た向上への道とは、下向きである事がある。いや、大抵そうなのだ! 私達が考えるのと全く反対である! 神は人が当然と思う事に反した事をするのを好まれる。それには奇跡を要し、人ではなく神がなされた事を明らかに示すからだ! ダビデ王も、また王国全体も屈辱を味わい、自分達の繁栄はすべて主のおかげであるという事を身をもって思い知ったのだった!

  ダビデ王の人生の苦難と試練を通して、美しい詩篇と、主の大いなる憐れみへのかぐわしい賛美の言葉が生まれた! すべては神とその恵みによるのであり、ダビデ自身によらず、また彼の正しさによるのでもなかった! それ以来、この教訓は、私やあなたのような、どうしようもない罪びとにとって大いに励ましとなっている!

 

  カルメル山での大勝利の後、イゼベル女王から逃げたことで、エリヤの預言者としての務めは敗北に終わったのだろうか? カルメル山でのエリヤの大胆さも、荒野での臆病ぶりによって台無しになっただろうか? 偽預言者を何百人と殺した後で、エリヤはたった一人の女から逃げていた! 何とみじめな姿だろう!(列王紀上18、19章を参照) カルメル山では、エリヤは、誰もその足元にも及ばぬほど偉大で、勇敢で、威厳に満ちた預言者だった。神の力にあふれ、天から火まで下したではないか。それが、恥も外聞もなく、びくびくおびえながら、あの邪悪なイゼベル女王から逃げたのだ! 神の預言者ともあろう者が、一人の女を恐れるとは! それとも、神はエリヤをより優れた預言者にするため、つまり、女王どころか、王にさえ臆することなく対決できる、より謙虚な預言者とするために、何かを教えようとされたのだろうか? 

  滅亡を預言し続けた偉大なる預言者エレミヤが、宮の門の前の足かせにつながれ、同胞から顔に唾を吐きかけられたり、敵によって泥の穴に投げ込まれて、脇の下まで浸かったため、友人のエベデがこっそりと穴から引っ張り出してやらなければならなかったのは、主の大義に泥を塗り、大きな打撃となったのではないだろうか? そして、牢獄暮らしとなり、自分の国と同胞を裏切ったとして、反逆者や犯罪人呼ばわりされたことは、何よりもスキャンダラスで不名誉な事ではなかっただろうか?(エレミヤ38章を参照)

  その通り。だが神からすればそうではない! すべては、エレミヤを謙虚にし、主に近づけ、自分の家族や友人、同胞や王にではなく、神に完全に頼らせるための主ご自身の計画の一部だったのだ。敵国人であるバビロニア人によって解放されるまで、神はエレミヤを冷たい牢獄という安全な環境に置かれた。そして、全く意外なことに、エレミヤは、残酷な異教徒の敵国人、バビロニア人によって祝福され、守られ、養われ、励まされたのだった! それは間違いだったのか? もっと良い、妥当な方法はなかったのだろうか?

  いや、「妥当な方法」など忘れよ! 妥当な方法は、人間の方法である! 人間の期待に反し、妥当でなく、因習や伝統にとらわれず、風変りで、儀式ばらず、人が当然と思うような方法とは正反対の方法、それこそ神が普通使われる方法である! 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い!」(イザヤ55章8、9節) 主の思いを知っていて、主に教えることのできる人など、どこにいるだろうか?(1コリント2章16節を参照)

  神に、ああしろ、こうしろと指図をするとは、一体自分を何者だと思っているのか? 神はご自分のしておられる事をしっかりわきまえておられ、それをどう行なおうと私達の知ったことではない! だから私達は、「主よ、私達がそれを受け入れ、人々が理解できるように、あなたはこれこれこのように行なわれるべきです。」などと、神に指図するのはやめるべきだ! 理解できない人など、放っておきなさい! 友人なら説明はいらないだろうし、敵なら何を言っても信じないだろう!だったら、どうして説明するのか? ただ神はご自分のしておられることをご存じだと信頼しなさい! 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道を導かれる。」(箴言3章5、6節)

  神は、私達が、神はこうすべきだと考える事に反する事を行なうのを好まれる! これは間違いだろうか? 神は間違っているのか? 神は失敗されたか? 何故神はギデオンに3万2千人の兵力を使わせて、ミデアン人の軍を滅ぼさせなかったのか? そうすれば、彼らは有頂天になって、自分達がいかに素晴らしいか自慢できたことだろう。しかし、神は滑稽なほど小さな3百人の一団に、真夜中に壷を割らせ、たいまつを振り回させて、大声で叫ばせた。そのため、敵はパニック状態になり、同士討ちをしたのである!(士師記7章を参照)

  何と恥ずかしい勝利の仕方だろうか! 何と不名誉な征服だろうか! 全く馬鹿馬鹿しい方法だが、神がそうされたのである! ギデオンとその一団は、ただ勝利を神に感謝するのみだった。彼らのした事といったら、壷を割って、たいまつを振り回し、思いっきり大声をあげるという馬鹿げた事だけであり、敵を始末したのは神だったからだ! そんな戦いで手柄を得られるのは神だけだ。神を信じ、神から告げられた事を実行するほど気違いじみていた、ギデオンのような愚か者でないことは確かだ! しかし、ギデオンは自分の任務を果たせる限り、愚か者となり、人から笑われることもいとわなかった!

  主の計画を、当然の道理に従って理解しようとするなど、絶対にやめたほうがいい。人がこうなって当然だと思う通りに主の計画が行なわれることなど、まずないだろうから。「みずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言う」ことがないようにである!(士師記7章2節)

 

  このほかに何を言おうか? バラクや気違いサムソンのことについて話し出したら、時間が足りなくなるだろう! サムソンは全くお粗末な手本だった。長髪で、いつも女の尻を追いかけ回し、喧嘩っぱやく、酔っぱらっては、男達と冗談を言ったり、賭けをしていた! ロバのあごの骨で千人のペリシテ人を打ち倒した男だが、時にはロバのように愚かだった!(士師記14ー16章を参照) サムソンのような革命的な反抗者を使って、ご自分の民を救うとは、神は何と無謀で、慣習を一切無視した、気違いじみた方法を使われるのだろう! 神は間違いを犯されたのか? それとも神は、ご自分の成功した失敗者、素晴らしい失格者、大胆不敵な脱落者達の例をあげて私達を励まし、神には何でも、あなたでさえも使うことが出来ることを示しておられたのだろうか? そのような人々は、自分がどんなにひどい人間であっても、敢えて神を信頼し、すべての栄光を神に帰した。神にしかできないと知っていたからである!

 

  王の王たるイエスは、著名な宮廷の貴族達に囲まれて、社会からの称賛を浴びながら宮殿で誕生した方が、はるかに尊敬され、受け入れられやすかったのではないか? ところが、牛やロバがいる納屋の汚い床の上で生まれ、ぼろにくるめられて、貧しい羊飼いの少年達がひざまずいて見守る中、かいばおけの中に寝かされたのだ。それ以来、「かいばおけ」は非常に栄誉あるものとされているが、本来何のために使うものかは忘れられている! それは牛のための粗末な餌入れにすぎない!

  イエスの父親には、身分の低い大工よりも、大物の権力者の方が良かったのではないだろうか? 社会からの承認を受けていたら、イエスとその信者達にとって物事はもっと楽に運び、宣教活動もより迅速に進めていけたのではないだろうか?また、当時の政府と対立する革命政府、つまり神の御国の指導者を生んだがために、不当な政府からの逃亡者となり、犯罪人のように他国に逃げなくてはならなかったのは、イエスの実直な両親にとって屈辱的だったと言えるのではないか?(マタイ1、2章を参照)

  それに、イエスは、他人の馬小屋で生まれ、他人の畑から食べ物をあさり、誰かの家で寝泊まりするよりは、人に後ろ指さされないような、まっとうな生活をしたほうが良かったのではないか? 若い独身姉妹のマリヤとマルタの家に泊まったり、他人の墓に埋められたりしたのだから!(ルカ10章38ー42節、ヨハネ19章38ー42節を参照) 常に宗教体制に挑み、因習に公然と反抗し、伝統を打ち砕き、その当時の社会への脅威となる必要が本当にあったのだろうか? そのためにイエスは、普通の犯罪人と一緒に処刑された! 取税人や罪人の仲間、大食漢、大酒飲み、酔っぱらいや売春婦とよく一緒にいる者、法を破る者、民衆扇動者、平和を乱す者、悪魔に取り付かれた狂信者、偽預言者といった悪い評判を残して! 人々はイエスをそのように呼んだのだ! 神は、もっと論争の種にならないような方法を使えなかったのだろうか? もっと平和的で体裁の良い、誰にでも受け入れてもらえる方法でできなかったのだろうか? 最初から憎まれるのではなく、もっとましなスタートの仕方があったのではないか? 神は間違いを犯されたのではないだろうか?

  何故わざわざ当時の体制、または確立された社会の気を害するようなことをされたのか? 何故汚い長髪の漁師達と嫌われ者の取税人を、ご自分の弟子に選ばれたのか? イエスよ、あなたが人間のやり方で行い、教養ある議会のメンバーの中から弟子を選び、ユダヤ教の会堂からの承認と、祭司長からの許可、そして総督を通じてローマ帝国からの資格を得ていたなら、もっと楽に宣教活動ができたのではないですか? イエスよ、その方が幸先良いスタートを切れたのではないですか? 主よ、もっと別の手段があったとは思われませんか? 最初から自らの立場を少々困難にしたとは思われないんですか? 向こう見ずで愚かな行動をしたために、不適当で不必要な試練や迫害に苦しんだとは思いませんか?

  あなたは、社会からの脱落者となり、町一番の厄介者の売春婦だの、過激派だの、役立たず者ばかりを選ぶ必要など本当にあったのですか? もっと良い方法があったはずです! そんなひどい方法ばかり使わなくとも良かったはずです! 少しぐらいの間違いなら理解できますが、世間に受け入れられるような道理や論理や慣習に対し、断固として反対の立場をとっていたのは、少し愚かだと思いませんか、主よ? それに宮で両替人を鞭で打つとしても、一度ぐらいなら、両替人達も少し頭の変な人間の突飛な奇行として大目に見てくれるかもしれませんが、宮にいた人々を追い出し、台をひっくり返し、金をまき散らすといった行為を3度も行なうなど、あなたにだってやりすぎだとわかっていたでしょう! 誰かがあなたに対して怒り、いつか殺そうと思ったのも当然です!(ヨハネ2章13ー16節、マタイ21章12、13節、マルコ11章15節を参照)

 

  主よ、あなたのおかげで、私達がこの立派な社会にあなたの事を説明するのがとても難しくなりました。どうしてそんなにも慣例に従わない、論議を巻き起こす人物、また完全なる因習打破主義者にならなくてはならなかったのですか? 革命的な教義を携えて宗教の権威者達に絶えず真っ向から対立しなくとも、一部の論点については少しばかり譲歩してもよかったのではないですか? もう少し振舞いを正し、その教えももう少し洗練させて、皆に受け入れやすいものにすればよかったのに。例えば、弟子達に、ご自分の肉を食べ、血を飲めと言われたのはあんまりでした! 弟子達は、あなたが人肉を食べる習慣を教え出したと思ったに違いありません!(ヨハネ6章48ー63節を参照)

  主よ、もっと良い方法があったはずです! そして、もっとましな生活ができたに違いありません! 木の下で野宿をするなんて! そんなことをすれば、世間は必ず、あなたや弟子達の人格とモラルに関して眉をつり上げ、疑問に思うことをご存じだったはずです! あなた達は最初から不審に思われていたのですから! 主よ、確かにあなたは、幾つかの事柄について間違っていました。中にはもっと良い方法で行えた事があったはずです!

  その上、あなたは使徒達の指導者として狂信的なパウロを選ばれました! ユダヤ人からトップの人材を引き抜き、過激なクリスチャンに変えてしまうなど、彼らが喜ぶはずがないとよく承知しておられたはずです! パウロが果して信頼できる人物なのかどうか、他の弟子達さえ疑うだろうことや、信者達にさんざん危害を与えた最悪の迫害者をあなたが選び、信者達に、彼を同胞として信頼するよう期待されるなど、とても信じ難いということもわかっておられたはずです!

  主よ、あなたはかえって物事をややこしくされたのです!幾つかが間違いだったことは確かです! あなたの愚かで無学な弟子達がそのようなへまをしでかすのなら分かりますが、主よ、指導者たるあなたがそんな事をなさったとは! どうしてあなたが、そのような恥ずべき行為を行なったのですか? 世間があなたの事をどう考えると思われたのですか? 大酒飲みや大食漢、放蕩者、過激な革命家として非難されるのは当然です! あなたは、世間に受け入れてもらおうという努力をされませんでした。少しでも社会的に尊敬されることに慣れた者にとっては、あなたのやり方や教えは、ひどく受け入れ難いものだからです! 人の意見というものを考えたことがないのですか? あなたやあなたの弟子達がどう思われようが、全然構わなかったのですか? あなたやあなたに従っている人達について出回っている噂を、何とも思わなかったのですか?

  主よ、どうして私達にこんな仕打ちをされたのですか? 私達があなたの事を世間に説明するのを、何故こんなにも難しくしたのですか? あなたの行為はほとんど言い訳の余地もありません。世間が何を信じると思われたのですか? 彼らは自分達の見るもの、聞くものによってのみ判断しますが、どれもひどい事ばかりです!

 

  主よ、あなたの方法を改善し、あなたのメッセージを少し洗練されたものにし、あなたの御仕事の中で、社会と完全に対立し、論争を巻き起こしている類のものをすっかり取り除かせてもらってもいいですか? 主よ、私達はあなたの間違いを繰り返したくはありません! 世間からもっと受け入れられやすい者となるよう助けて下さい! この改善、つまり、あなたと違って、私達は何とかして社会に受け入れられ、認められ、祝福され、さらには世俗の人々と共に働くということは、「あなたがたはもっと大きいわざをする」と言うあなたの言葉の実現の一部とみなせるのではないですか?(ヨハネ14章12節)そしてこの場合、あなたは私達が「不信者と、つり合わないくびきを共にする」のを許して下さるのではないですか?(2コリント6章14節)

  あなたや初期の弟子達が受けたような迫害に苦しまないですむよう、私達の場合は、もう少し不信者とつり合うようにしてもらえませんか? あなたのひどい手本から、私達は今度は何をすべきでないか学ぶべきだったのではないでしょうか? あなたの間違いから何か学べるのは確かです! さもないと、主よ、あらゆる時代のあなたの弟子が、因習に全く従わないあなたのような手本にならうなら、初めから最後まで苦難続きになってしまうでしょう。世間はそれに耐えられず、キリスト教は完全に廃止されてしまう事を、あなたはご存じのはずです!

  それに主よ、あなたは宮や会堂にもう少し敬意を払うべきでした。建物はすべての宗教の基盤であることを、あなたはご存じです。建物なしでは、私達の宗教はどうなるでしょう? どんな儀式も行えなくなるし、それに宗派がないなら、私達は何に属していると言えばよいでしょう? 主よ、私達は寒い路頭に出ざるを得ず、やれる事と言ったら伝道だけで、支援や援助はあなたからしか来なくなります。それでは採算がとれないし、絶対に長くもたないでしょう! 歴史を見て下さい。確立された宗教体制に反抗し、確かな生活手段も、仕事も、家も、政府からの承認もなしに、通りで伝道することを決してやめなかったあなたの弟子達に、何が起こったか考えてみて下さい!昔の預言者から最近の殉教者に至るまでほとんど例外なく、嘲られ、物笑いの種になり、信用されず、投獄され、罰金を課せられ、鞭打たれ、殺されさえしたのです!

  だから主よ、一体何を望んでおられるのですか? 世間の人がそのような事には耐えられないのを知っていたはずです!何らかの規則や制限もなしに、そのような人間達が走り回っているのを社会は許しません! それでは、社会の体制全体が弱まり、宗教や建物、またその指導者達への人々の信頼が覆えされてしまうからです。主よ、そんな事はできないと知っているでしょう! 全ての事は適宜に、秩序正しく行なわれるべきです。そして、この宗教狂信者達をやりたい放題にさせ、あちこちで、「イエスはあなたを愛している!」と叫ばせておくわけにはいきません。それは社会の秩序、あるいは現代の通常の秩序に反するので、治安を乱しているとみなされるのです!

 

  主よ、あなたは間違いを犯したのではありませんか? もっと良い方法があったのではないですか? もっとましな類の人々を相手にし、世間から容認されやすい手段をとり、メッセージももう少し穏やかなものにするなど、世間の人々の気をあまりにも害したり、怒らせたりすることがない方法がです。大部分の人は、幾らかの評判を望み、地域社会から良く思われたい、尊敬されたいと願っています! 主よ、新聞に、それも不名誉な事で、でかでかと書き立てられたいと思う人などほとんどいません! それに、狂信的な宗教信者だと思われたい人はいません。主よ、あなたと初期の弟子達はお粗末な手本となり、地域社会にひどい第一印象を与えたと思わないのですか? 主よ、確かに彼らは福音を人々に伝えていたようですが、何というひどい福音でしょう!

  それに、高い学歴のどこが悪いのですか? あなたにもう少し教養があり、この世のやり方や、宗教指導者たる者の条件について十分知り、学んでいたなら、あなたや弟子達は、立派な市民から、はるかにたやすく認めてもらえたのではありませんか?

  そして、ユダヤ人の宮が破壊されると口にするとは! 彼らは宮を「神の家」と考えているのに、それが破壊されるなどと言うのは冒涜ではありませんか?(マタイ24章2節を参照)そんな事を私達が言うなら、主よ、一体誰が私達に従うと思うのですか? あなたやエレミヤ、聖フランシスコ、またあなたに従い、慣習や因習に反したその他の連中のような、社会のくずだけでしょう! 彼らを待っていたのは、牢獄や裁判や処刑だけだったのと同じように、私達も、社会や一般大衆から良い反応など望めません! 主よ、私達はこの全てから絶対に何かを学んだ事でしょう! あなたと同じ間違いを繰り返したくはありません! 私達は、この高度に文明化され、科学が発達し、人々が優れた教育を受けている裕福な現代社会にふさわしい、改善され、より文明化された新しい方法を使うべきです!

 

  そして最後に忘れてはならないのは、主よ、あなたの弟子達が行なったような原始的協同社会を、何千年もたった今になって復活させていることについてですが、そんなものは過去の話であって、失敗に終わったのではありませんか? 主流宗派はどこもやっていないのが何よりの証拠です!所有物をすべて分け合い、共有し、共同生活を営み、祈りと賛美、聖書学習、宣教活動だけに時間を費やすとは! あなたもご存じのように、そのような生活はほとんどの人にとって魅力的でも何でもありません! 一体どれだけの人が、自ら汗水たらして稼いだ金を、持たざる人々と分け合いたいと思うでしょうか? 自分で出て行って、稼げばよいのです! 自分のものだと言える物が幾らかと、寝るための場所は絶対必要です!(使徒行伝2章44ー47節、4章31ー35節を参照)

  主よ、私達は、あなたや弟子達のように、放浪者になるわけにはいかないのです! 偉大な使徒パウロさえも放浪者でした! 「住所不定」だったのです!(1コリント4章11節) 現代社会ではとても考えられない事です! もう行なわれていません! そのような生活は、現代社会から猛然と批判され、軽蔑されるに決まっています。人生は、あいまいで漠然とした精神的原則によってではなく、持ち物の豊かさによって成り立つと信じられているからです!

  主よ、私達がこんなに世間から厳しく糾弾されるのは、世俗から離れておき、妥協せず、ふらふらと世俗に戻っていくことがないためですか? 世間は、私達を真っ向から拒否することで、私達をあなたの元に追いやる役目を果たしているのですか? 世俗の生活に絶対戻ることができないように、背後の橋を完全に焼き払う必要があるのですか? パウロのように、またパウロが使徒達もそうだと言っているように、私達を社会から完全に見放された存在にし、初期の弟子達のように社会のくずにするというのは、少しやりすぎではありませんか? 社会に順応できない者、奇妙な連中、狂信者、風変りな存在にするのは、やりすぎではありませんか?(1コリント4章13節を参照) 私達がそこまで行ってしまえば、決して戻れないでしょう! 社会は決して、私達を再び受け入れてはくれません。ちょうどユダがあなたにしたように、忠誠心のない者達による分裂と裏切りが起こるかもしれません! 大勢の弱い兄弟はつまずき、ほんのわずかしか残らず、このような極端な忠誠心と献身や極端な教義に従うようにと勧めても、ほんの少数しか従ってこないでしょう! ちょうどあなたが「血と肉の説教」を話した後に起きたようにです!(ヨハネ6章48ー66節を参照)

  確かにギデオンは極端な行動を取って、大部分の兵士を失いましたが、それは大昔の事です。主よ、今では状況が違います! 主よ、今は試験をそんなに難しくするべきではありません。そうしないと、あなたの軍にはほとんど人がいなくなるでしょう! 現代の大きな教会がそのような事を行なうなら、一体どうなるでしょうか? 信者はあまり残らないことでしょう! あなたの弟子達でさえ、極端な教えに耐えられず、あなたから離れていきました!(ヨハネ6章66節を参照) 主よ、あまりにもきつすぎるのです。そんな方法では、大きな軍隊など決してできません! このような極端な教えを実践しているなら、私達は決して良い評判など得られないでしょう! 聖書に書かれてあることを何でもかんでも宣べ伝え、実行するなら、決して広く受け入れられることはありません! 私達がそんな事をするのを、期待してはおられないでしょう? それはひどすぎます! きっと間違いです! 私達にそんな事を求めないで下さい! 私達は、そんなに違っていなくてはいけないのですか? 主よ、あなたは間違いをなさっているのではありませんか? 他にも方法があるのではありませんか?

 

 

  以上の事柄について、聖書には何と書いてあるか見てみよう。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない…命にいたる門はまっすぐであり、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない…招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない!…人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び…弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか。』…それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった!…そこでイエスは十二弟子に言われた、『あなたがたも去ろうとするのか。』」 そしてある時には「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」

  「したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」 主は「おのれをむなしうして僕のかたちをとり…彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。彼は暴虐なさばきによって取り去られた…その墓は悪しき者と共に設けられ、富む者と共に葬られた…あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう…そしてそれから最後が来るのである…しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう…あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれる。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである…弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。」(ヨハネ14章6節、マタイ7章14節、22章14節、1コリント1章26、27節、ヨハネ6章60、66、67節、マタイ26章56節、ヘブル13章13節、ピリピ2章7節、イザヤ53章3、8、9節、マタイ24章9、14節、ヨハネ15章19、20節、マタイ10章40、24節)

  神は間違いを犯されない。そして「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」 神の方法にまさる方法はない。神に耳を傾けよ! 「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った…しかも十字架の死に至るまで…邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」 「人が皆あなたがたをほめるとき」、気をつけよ!(1コリント1章25節、マタイ4章19、20節、ピリピ2章8節、マルコ8章38節、ルカ6章26節)

 

 

  * * *

 

  あなたは、世間の人から愚かと思われたり、自分の評判を落としてでも、命に至るまっすぐな門に入りたいですか? まだイエスの愛と救いを受け入れていないなら、今日、それができます。次の祈りを祈って、それを受け取って下さい。

 

  イエス様、あなたが神の御子で、私のために死んで下さったと信じます。今、私のすべての間違いや罪をゆるして下さい。心の扉を開けて、あなたをお招きします。永遠の命を与えて下さい。イエス様、心に入って、私があなたの言葉、聖書を読み、あなたのために生きるのを助けて下さい。また他の人もあなたを知ることができるように、私があなたのことを話すのを助けて下さい。イエスの御名(みな)によって祈ります。アァメン。

 

 

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「神は間違いを犯したか?」初版は、1971年1月に発行されました。

第一巻7号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241,8021 Zurich, Switzerland.