Mountain Streams

水晶の流れ 5

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

もしそうでなくても…!

――神が祈りに答えられない時、どうするか!

ファーザー・ダビデ

 

  最近、ある女性から手紙をもらった。「私は、2年ほど前に、主に8カ月間仕えたものの、やめてしまいました。顔に吹出物が出来たからです。馬鹿みたいに聞こえるかも知れませんが、耐えられなかったのです! 癒して下さいと神に祈りましたが、なぜか癒して下さいませんでした。そして2カ月程前に、再び主のために働き始めると、また吹出物が出来たのです! そのことをひどく気にするあまり、神に耳を傾け、従うべきだと分かっていても、それができないほどです。顔中に大きな腫れ物が出来ることもあります! 私は何度も何度も神に呼ばわったので、そうやって祈る内に信仰をなくしてしまったのかもしれません!

  気が沈み、憂鬱で、自殺を考えたことさえあります。でも、あなたが私のために祈ってくれるなら、きっと神は癒して下さると思うのです。私は主に仕えたいし、自分の事ばかり考えるのをやめ、自由になって、イエスのために世界中の人に手を差し伸べたいのです。でもこんなふうでは自信がありません。どうかこの気持ちをわかって下さい。ただ私の自尊心のせいだなどとは言わず、私を憐れんで下さい! これが最後の望みなんです! あなたからの手紙を待っています。私の顔がきれいになった時に、あなたが祈ってくれたと知るでしょう。

  沢山の愛を込めて、スーザンより」

 

  かわいそうに! 顔がきれいにならないと、私が祈ったということがわからないのかね? 癒して下さらないなら、神が自分を愛していると信じられないのと同じことだ! 神があなたを愛しておられず、祈りに答えられないと信じさせるために、そういったテストを送るのは悪魔の仕業だ! しかし神はあなたを愛しておられるし、祈りに答えられる。そして私達もあなたを愛しているよ!

  神に仕え始めるといつもこれが起こるという、その事実からも、敵があなたを試しているのだとわかる。悪魔は、落胆させ、主に仕えるのをやめさせようとしているのだ! 実は、主が敵がそうするのを許しておられる。あなたの信仰をテストし、どれだけ真剣に主を愛しており、主に仕えるためにどれほどの犠牲を払うつもりがあるか見るためだ! もちろん、食生活にも原因があるかも知れない。私の妻も若かった頃に同じような悩みがあったが、甘い物を食べないようにしたら、すっかり良くなった! 今ではとても美しい!

  しかし、あなたの場合は、明らかに、主に仕えようとするのを止めさせるための悪魔の仕業のように思える! つまり、悪魔は、あなたが主のために働くのが気に入らないんだ! (祈り:)ああ、イエスよ、憐れみをもって、あなたが示そうとしておられることを彼女に示して下さい!

  主はおそらく、あなたが暴露されるのを恐れ、告白したがらないこと、つまりプライドの高いことに対処しておられるのだろう! すべての罪の根源には、いつも自尊心があるからだ。その事で神への奉仕を続けるかどうか迷っていること自体、あなたが主の奉仕よりも自分を第一に置いている証拠のように聞こえる。

  それはテストで、かなり身を低められる経験だろうが、それでもやはり、主に仕えなくてはいけない! 自分の顔よりも、主と主の奉仕を優先し、より大切に思っていることが証明された時、主はきっと癒して下さるだろう。あなたは、神が癒して下さるなら、信仰を持って神に仕えると言っているが、実際はその逆なのだ。

 

  信仰と従順が先!

 

  まず信仰を持ち、従うことだ。そうすれば神は祈りに答えられる! 大勢の人がこう言うのを聞いてきた。「神が私を癒して下さったら、その時は主に仕え、信じましょう。」そのような態度の人は皆、自分のことを第一に置き、神と取り引きしようとしているのだ。「まず神が私に仕えてくれたら、私も神に仕えましょう。神よ、あなたがまず私のために働いて下さい。そうすれば私もあなたのために働きましょう!」 だが、神のやり方はそうではない!

  神のやり方は昔と変わらない。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6章33節) 祝福が従順に先行することはない。「主よ、私を祝福して下さい。そうすれば、従います。」とは言えないのだ。神は、私達が従うかどうかを見るために、まずテストされ、それから祝福される。人がよく間違うのはそこだ!

  それは確かに厳しいテストであり、不平を抱く結果になることがよくある。自分を癒してくれないと、神に恨みを持つのだ! 「神がして下さったら、その時は主に仕えよう。でも癒して下さらないのは、主が私を愛しておられず、気にもかけておられないからだ!」 私でさえやめてしまいたくなることがよくある。物事がいつも思い通りになるわけではないからだ。しかし、私はやめたりはしない! 私がただコツコツと頑張り続けるなら、やがて主は物事がうまく行くようにして下さる。

  それは一種の「自己優先」的な態度だ。「あなたがまず私を癒して下さい。そうすればあなたを信じます。その時には従います。」 それは自尊心であり、一種の独善だ。宗教指導者である律法学者やパリサイ人がイエスに、「奇跡を起こしてくれたら、信じましょう」と言ったのと同じだ! 主はすでに様々な奇跡を行なっておられたのに、それでも信じなかった!そこで主は言われた。「誰かが死人をよみがえらせたとしても、やはりあなたがたは信じないであろう。わたしが既に言った事を信じないではないか!」(ルカ16章27-31節を参照) しかも、主が実際に死人ラザロを生き返らせると、それを見て、彼らは主を殺そうと決めたのだ!(ヨハネ11章37-53節)

 

  信仰があれば、「信じること=見ること」!

 

  このように、御言葉ではなく、祈りへの答えを信仰の土台にするのは、業を重んじる宗教である! 「見せて下さい! 見たら信じましょう! 百聞は一見にしかずです!」と言っているようなものだ。だが、信仰はそんなものではない。信仰があるなら、信じているのは、その答を見ているに等しい! 信仰は祈りが答えられようと答えられまいと、ひたすら従うのである! 祈りの答えを神への奉仕の条件には出来ない。顔中に腫れ物が出来ていても、構わず主に仕えるべきだ!もしかしたら、あなたよりもひどい問題を抱えている人が励まされて、主に仕えるかもしれない! あなたが、障害にもかかわらず喜んで主に仕え、恥じていないなら、彼らも同じ事をするように励まされるかも知れない!

  ヨブを見てごらん! 旧約聖書のヨブ記で、ヨブはすべてを失った。家族も財産も、最後には健康までだ! 頭のてっぺんから足の先まで、体中に腫れ物が出来たが、それでもヨブはそんな事は関係ないと言った! たとえ神が自分を殺しても、それでも信頼し続けるだろうと!

  自分の条件が受け入れられ、神が自分の思う通りに祈りに答えて下さり、万事がうまく行っているなら従う、などということはできない。都合のいい時だけ、神の友となることは出来ない! 何もかもうまくいっていないとしても、主に仕え続けなければならない! 万事が順調である時にだけ、主を信じ、主に従うというのでは、たいてい、信じも、従いもしないことになる。主に仕えている時、多くの事がうまくいかないからだ! 「正しい者には災いが多い!」(詩篇34篇19節)

  何かを患うたびに、神に仕えるのをやめるなら、絶えずやめることになるだろう! もちろん、癒されなければ、人から決まり悪い思いをさせられることもあるだろう。ちょうどヨブの助言者達がしたように、人々はそれをあなたのせいにするのだ! 彼らは3人とも口を揃えて言った。「きっと君に何か問題があるに違いない!」 さて、ヨブの場合、確かに彼にも問題があったとわかった。ヨブには独善的な自尊心が沢山あり、自分の信仰を誇り、自分が善人であることや生涯神に仕えてきたことを誇っていたのだ。そこで神は、悪魔が彼を打ちのめすのを許されなければならなかった。主なしでは、ヨブはつまらぬ人間だと証明するためである!

  人が自分のことを恥じるので、自分自身恥じてしまうこともあるだろう。神の失敗の見本のように見えるので、あなたが近くにいるのを恥じるのだ! だが、イエスについてきた者達の中には、あらゆる障害を抱えた人達がおり、イエスは癒せる限りの人を癒された。ただし、全員が癒されたかどうかは誰にもわからないが。しかし、聖書には、何が起ころうとイエスに従い続け、主に無視されているかのように見えさえしたものの、最後には癒された人の例が沢山載っている! 盲目の乞食や、病気の娘を抱えた女の人などがそうだ。(マルコ10章46-52節、マタイ15章21-28節を参照) 癒される前にあきらめてしまった者達は、当然、癒されずじまいだった!

 

  信じ続けよ!

 

  神は癒す前に、あなたの信仰と、どれだけ喜んで従う気持ちがあるかをテストしたがっておられる。癒されないかもしれないと思っても、主を信じて従うかどうかを見たいのだ!あなたの癒しは、あなたの信仰や従順と何の関係があるだろうか? 何もない! しかしあなたの信仰と従順は、癒しに大いに関係がある! だから、癒されるか否かによって、あなたが主を信じ、主に仕えるか否かが左右されるべきではないのだ!

  主が決して癒されなくとも、主を信じ、従わねばならない! 使徒パウロは、死ぬまで、彼を謙虚に保つために肉体のとげがあった!(2コリント12章7節) 完全な健康すら与えてもらえなかったのだ。主は他の多くの面でパウロを称えておられたので、体にも何一つ問題がなければ、高ぶっていただろうからだ。しかし、パウロはこの肉体のとげを理由に、神への奉仕をやめたりはしなかった! 仕え続けられる限り、神が癒すと決められるかどうかに関係なく、神に仕え続けなければならない! あなたは腫れ物だらけの顔のほうが、主にもっと使われるのかもしれない。あるいは、主に癒されるよりも、ヨブのように体中ができ物で覆われているほうが、ずっと謙虚で、もっと主を信じるのかも知れない!

  ただ神を利用したがるだけの人は大勢いる。神があまりにも簡単に癒した人達を、私は沢山知っている。彼らは癒されるやいなや、自分勝手な道を行ったのだ! 神に嘘をついたも同然である。主が癒しさえして下さったら、その時は主に仕えると誓っておきながら、癒された途端に、自分の約束などすっかり忘れて離れて行ったのだ! 旧約聖書では、イスラエルの民はしょっちゅうそういうことをしていた! 「おお、神よ、我々を救って下さるなら、永遠にあなたに仕えましょう!」と誓うのだが、神が彼らを救われるやいなや、そんなことはすっかり忘れ、前以上に神を信じぬようになり、不平を言い、不従順になったのだ!

  私はそんな風に癒されたことはなかった。何度か死に瀕していた時、主に言った。「主よ、あなたにもっとよく仕えられるように、癒されたいですが、癒して下さらないからといって、あなたに仕えるのをやめたりはしません。」 ちょうどヨブのように、主にこう言ったことが何度もあった。「癒して下さるなら、嬉しいです! でもたとえ死ぬことになっても、やはり私はあなたを信じ、愛します。何があろうとあなたを信じ、愛し、仕えるのが私の務めであり、ただ状況が困難になって、あなたに見捨てられたように思えるというだけで、あなたに仕えるのをやめたりはしません。」(ヨブ13章15節を参照)

 

  何があろうと、信じて従いなさい!

 

  モーセと荒野にいたヘブル人達のように、神はあなたの信仰を試し、何があろうと主を信じて従うかどうか見ておられるだけかもしれない! しかし、ヘブル人達は、少し試されると、信じたり、従うのをやめてしまったので、死んでしまい、決して約束の地に着くことはなかった。現代の、いわゆるクリスチャンの多くも同じだ。神に指図しようとする独善的な人達は、いつもこう言う。「神がそんなに善い方なら、なぜ私達がこんなに苦しむのを許されるのか? 神がもっと私達に良くして下さるなら、主に仕えよう! だが主は私達に意地悪くしておられるから、私達は主を憎む!」 ところが実際は、主が彼らに少し良くされるやいなや、彼らは主の事などすっかり忘れ、自分勝手な道を行くのだ! 主は、彼らを信頼して彼らに良くされることが出来ないのである! 憎まれるほうが、忘れられるよりいいと思ってさえおられるのかも知れない! 少なくとも主の存在を覚えていることなのだから!

  以前、私のバイブルスクールに、同じ様な皮膚病にかかった学生がいた。その上、2人の子持ちで、夫がいなかった! 彼女はいつも言っていた。「どうして? なぜなのですか? なぜ神は私にこんな事をされるのですか? 神が私をこんなに苦しめるのはどうして? この学校に来れば、神が癒して下さるかと思ったのに、まだ苦しんでいる! どうしてですか?」人が神にそんな風に疑問を持つ時、それは紛れもない独善である。主は彼女のために、私にある聖句を下さった。ヨブに言われたことと似ている。「人が神より正しいことがあろうか?」(ヨブ40章8節参照)

  そういう独善的な態度の人は、こう言っているも同然だ。「神よ、私が神だったら、もっとましなやり方をするでしょう! もっと正しく物事を行い、私を癒すことでしょう!」 昔、流行った「もし私が王だったら!」という歌と同じだ。自分が王だったら、世界中で悪事が氾濫するのを許さないだろうと言うのである! つまり、「私は神よりも正しい! 神は善良な方ではない。善良な神なら、こんなに悪い事ばかり起こるのを許さないはずだ!」ということだ。

  だが、それはもともと神が何をされているのかや、その背後の理由がわかっていないからだ。主は最善を御存知なのだという信頼と信仰を持つまでは、決してわからないだろう! 子供が親を信頼しなければならないのと同じだ! たとえ、なぜあれやこれをしなければならないのかを理解できなくとも、ただ「パパがそう言ったから」しなければならない! 気に入ろうが入るまいが、父は最善を知っているのだから、信じて従わねばならない。そして、いずれは、父親が正しかったとわかるだろう。しかし、子供が従わなくとも、結局は、父親が正しかったとわかるようになるだろうが、辛い経験を通して知ることになる! そのように、とても単純なことだ!

 

  信仰−−金よりも尊いもの!

 

  神は、私達の信仰を試し、それが純金のような信仰かどうか、何が起ころうと主を信じて従うかどうかを見られる! 主は、あなたがたの信仰の試練−−信仰のテスト−−は「金よりも尊い! 多くの純金よりも慕わしい!」と言われた。(1ペテロ1章7節、詩篇19篇10節) それが本物の金であれば、火を通っても、やはり純金として、しかもより純度の高い金として出てくるであろう!

  聖書の中で、真の信仰が金に例えられるように、「都合のいい時だけの」信仰は、紙幣に例えられるだろう。それ自体は何の価値もないのだ。「紙幣」のような信仰は、火に通してみるとわかる! 見せかけだけの信仰、見せかけだけの価値は、紙幣のように、試練の火をくぐった途端に消滅する!

  この事から、世界の紙幣経済体制が崩壊しつつある理由がよくわかる。神の純金ではなく、紙幣を基盤としているからだ! ただ両方を火の中へ入れて、どちらがより良い状態で出てくるかを見るだけでいい! 純金は、どれだけ熱かろうと、どれだけ時間が長かろうと、やはり金として、それも純度の高い金となって出て来る! 浮きかすや不純物が全部燃えてしまうからだ! しかし、その価値を誇る紙幣は、真のテストが訪れると、紙きれとしての価値さえなくなる。少しでも火に近づければ、煙を出して燃え、少しの灰以外は何も残らない!

  それこそが、真の信仰と見せかけの信仰の違いである。真の信仰はテストに耐え、火をくぐっても、金と同様、前より良くなって出て来る! しかし、見せかけの信仰は、紙幣と同様、火をくぐるとどうなるだろうか!

  1930年代の大恐慌の時、印刷された紙、つまり紙幣や株券、預金通帳などの富を蓄えていた金持ちは、生き残らなかった! そういった資本家達は、その価値をあてにしていたものを失ったので、高層ビルの窓から身を投げた。彼らが愛蔵していた小さな紙は全部、土壇場になって本当にただの紙切れになった。当時と同じ事が、現在の世界にも起こりつつある! 当時、すべてが煙となって消えた! しかし、何とか家族が食べていけるだけの作物を育てる僅かな農地と家畜を持っていた貧しい農夫達は生き延びた!

 

  「たとえ神が私を殺そうとも、

  私はなお神に信頼する!」

 

  神への信仰の内に生きている人々は、何があっても生き延びられる。死でさえも! そしてヨブのように、「たとえ神が私を殺そうとも、私はなお神に信頼する!」(ヨブ13章15節)と言って、永遠に神の純金の都を楽しむことになる。しかし神に対する信仰があるように見せかけているだけの人々は、地獄の炎によって煙となる。彼らの信仰は、単に木や草やわらにすぎず、神からの災いや信仰の試練という火をくぐるテストに耐えられなかったからだ!(1コリント3章11-15節参照)

  だが、真の信仰を持っているなら、死んでも神への奉仕を続けるだろう! そして、実際に死ぬ。なぜなら、自己や自尊心や独善の死を経験するので、主への奉仕において日々死ぬ(1コリント15章31節)事になるからだ! 私は、自分があまりにも愚かで沢山の間違いや罪を犯すから、もうやめたいと思った事がよくあった! 誰でも、神であっても、こんな私を愛したり、私に我慢したりできるはずがないとさえ思った! しかし神は私を愛し、我慢して下さるので、私は進み続ける! 私は絶対にやめない。神を信じているからだ! だから、主に従わねばならない事を知っている。絶対にやめたりしない!

 

  私達は神の持っておられる唯一の体!

 

  私達クリスチャンが、神にひどい面倒を起こす度に、神が投げ出しておられたらどうなるだろう? きっと私達全員がひどい混乱に陥るだろう! 聖書には、キリストの信者である私達はキリストのからだであると書いてある!(1コリント12章27節) 神の顔である私達に、醜いにきびや吹出物や腫れ物や何かがいっぱい出来るたびに、神がやめておられたらどうなるだろう? 私達は神の唯一の顔であり、私達がどんなに醜かろうが、またイエスの指示に反して、主のからだである私達がどんなにひどい行動を取ることがあっても、それでも主は進み続けなければならないのだ!

  私達がどんなにこんがらがって、ひどい大失敗を犯しても、主は進み続けなければならない! 私達は、いわば霊的な障害者で、ひきつったり、ねじれたり、不自然な事がある。しかし、神は私達を乗り越えさせ、ご自分の肢体が協調して、正しく機能し、優雅に円滑に動くように教えねばならないのだ!

  私達がよくしゃべれないように見えても、主は私達に話し方を教え続けねばならない! 私達が耳を傾けるように、主は大声で叫び続けなければならない! たとえ私達が聞くまいとして耳に指を突っ込んでいてもだ! そして、私達が霊的にとても眠く、出来れば目を閉じて、悪魔の夢の国にふらふらと入り込みたいと思っている時でさえ、主は私達に真理を見せ、聖書の中でそれを読ませ続けなければならない! また霊的な実、すなわち小さな霊の赤ん坊達、新しいクリスチャン達を産ませ続けなければならない! たとえ、病気で不格好な赤ん坊が少しいるだけでも、全くいないよりはましなのだ! 聖書で、主のからだ、あるいは花嫁と呼ばれた教会は、神に反抗し、ほとんどの時、何とか赤ん坊を産むまいと全力を尽くしており、神は彼らと愛のこもった関係すら持てないほどである!神はそんなからだに我慢しなくてはならないのだ! だから、ほんの些細な患いで、文句を言えるだろうか? 神のからだがいかにひどい状態になっているか見てみなさい! 御言葉への信仰や従順によって、神の愛と恵みと憐れみだけが、神の教会が困難を切り抜けるのを助けることができる。それがなければ、失敗に終わってしまう!

 

  忠実な人の例!

 

  「もし、そうでなくても」、私達信者はやはり進み続け、信じ続け、従い続けなければならない! 燃え盛る火の炉をくぐった3人の神の子供達のようにだ。彼らは言った。「私達の神は、私達を救うことが出来ます。でも救われなくても、やはり私達はあなたの異教の偶像を拝むことなどしません!」 それから燃え盛る炉の中に入って行き、一貫の終わりのように見えた。死刑執行者でさえも焼け死んでしまったのだから! しかし、彼らの信仰と従順のゆえに、神は炉の中でも共におられ、彼らは煙の臭いすらつけずに出てきた!(ダニエル3章17-27節を参照)

  ヨブもそうだった。主は悪魔がヨブを破滅寸前にするのを許された。家族も殺され、財産も失い、ヨブ本人も死ぬところだった! しかしそれでも、ヨブは悪魔に「参った」と言わず、妻が「神を呪って死ぬがいい」と言った時でさえも頑張ったのだ!(ヨブ2章8-10節を参照) 彼はただ信じ、従い続けた。頭のてっぺんから足の先まで腫れ物だらけの体で灰の山に座り、陶器の破片で弱々しく膿みやかさぶたや傷を掻きながらも、こう言った。「たとえ主が私を殺そうとも、私はなお主に信頼する!」 あなたはそう言えるだろうか? あなたがヨブのような悲惨な状態にならなくてよいように望む! だが、もしそうなったとしても、絶対にやめてはいけない!

  神に仕え続けなさい! 何が起ころうとも、信じて従い続けなさい! もしかしたら、シャデラク、メシャク、アベデネゴのように、煙の臭いすらつけずに出て来れるかもしれない。ヨブのように、前よりも大きな家族と富と健康に恵まれ、より幸福で賢くなるかもしれない。ただヨブがしたように、もう少し頑張り続けて、あきらめなければ!

  18世紀のアメリカの有名な海軍司令官、ジョン・ポール・ジョーンズを知っているだろうか。自らも負傷し、部下は半数が死亡、あるいは瀕死の状態で、船は炎上し始め、沈みかけていた。しかし、敵が降参するかと尋ねると、彼は大胆にもこう叫んだ。「とんでもない! 戦いはこれからだ!」 そして最後には勝ったのだ! あなたは、まだあの老ぼれ悪魔と戦い始めてさえいないのかもしれない! イエスがなさったように、血を流すほどに抵抗していないのかもしれない。イエスは十字架で殺されさえした!(ヘブル12章4節を参照) だが、殺されても、わずか3日後に勝利の内に墓からよみがえられた! 死でさえも、イエスを抑えつけておく事が出来なかったのだ!

  医学では、「苦痛の限界」について語られている。人を殺すのにどれだけの痛みを要するか? その限界がかなり低い人もいる! あなたはどれほどのテストでやめてしまうだろうか?

  主は言われる。邪悪で罪深いこの時代にあって、主とその御言葉を恥じない者を、主は神と全御使いの御前で恥じることがないと。たとえ、あなたがそのために死ぬことになっても恥じないならば。殉教者達は、今永遠に生きている!(マルコ8章38節を参照) あなたは、疑い、従わず、主を否定する者になるのだろうか? それとも信じて従い、たとえ死んでも真理を宣べ伝える者になるのか?

 

  日々死ぬことで、永遠に渡る栄光が現われる!

 

  あなたが神への奉仕に背を向けると、神はうんざりされる! しかし自分が病気でも主に仕え続けるなら、神を喜ばす事になる。それがあなたの地上の人生の終わりとなってもだ! いつも、「突然の死は、突然の栄光!」と言っているクリスチャンがいる。そうなりたいと思っているからだ!−−痛みも苦しみもなく、日々死ぬ事もない! だが、たとえ主への奉仕で、他の人達を助ける為に「日々(1コリント15章31節)」、ゆっくり死ぬ事になっても、永遠に渡る栄光がもたらされる!

  あなたはどちらだろうか? 戦う者か、逃げる者か? 「正しい者には災いが多い。しかし主はすべてその中から彼を助け出される!」(詩篇34篇19節) しかし、言っておくが、「背く者の道は困難」(箴言13章15節)で、はるかに険しい! つまり、地上の地獄と来世での地獄が待っている!

  あなたはどうするだろうか? 拷問や十字架刑どころか、少しの試練や問題や災いがあるからというだけで辞めるのか? それとも、自分の信念と神への従順の証しとして、悪魔に殺されることになったとしても、神に仕え続けるつもりだろうか? あなたが「殉教者」となることが必要となれば、そうなるよう望んでいる。殉教者というのは、証し人という意味だからだ!イエスのために生きて死ぬことほど、大きな証しはあるだろうか? 神があなたを祝福され、守られんことを! しかし、主がそうされなくとも、「もしそうでなくても!」、主のために死ぬなら、主は永遠にあなたを守って下さるだろう!

  この話を聞いて、あなたが頑張り通せるように願っている! 私達はあなたを愛している! 神もあなたを愛しておられる! 何が起ころうとそれを忘れてはいけない! あなたが必ず従うと信頼できるなら、主はあなたを癒し、助けたいと思っておられる。「もしそうでなくても」、すなわち主がまだ自分を癒し、助けて下さらなくても、そうして下さるまで、あるいは死ぬまで神に仕え続けなさい。ヨブは自分がもう死ぬと思っていた。しかし、彼は死ぬどころか、2倍の祝福を受け、永遠に生きている!

  あなたはどうだろうか? やってみなさい! 私達もあなたのために祈り、あなたが乗り越えることを願っている! ただあなたのその苦しみは、もう益をもたらしている。そのおかげで他の人達をも力づけるこの手紙が出来たのだから! あなたが忠実であれば、同じ事が出来る! 神があなたを祝福され、進み続けるのを助けられるように!

 

   * * *

 

  永遠の命や真の愛、また純金のような信仰を、イエスは与えて下さいます。あなたもほしいですか? ただ次の祈りを祈って下さい。たった今、受け取ることができます。

 

  イエス様、私はあなたが神の御子(みこ)で、私のために死んで下さったと信じます。私のすべての間違いや罪をゆるして下さい。心の扉を開いて、あなたをお招きします。永遠の命を与えて下さい。イエス様、心に入って、私があなたの御言葉、聖書を読み、あなたのために生きるのを助けて下さい。また、他の人もあなたを知ることができるように、私があなたの事を話すのを助けて下さい。イエスのお名前によって祈ります。アァメン。

 

 

心を新たにする「Mountain Streams--水晶の流れ」をさらにご希望の方は、

下記にご連絡下さい。

 

 

「もしそうでなくても…!」初版は、1974年9月に発行されました。

第一巻5号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241, 8021 Zurich, Switzerland.