Mountain Streams

水晶の流れ 4

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

立ち止まり、見て、聞きなさい!

ファーザー・ダビデ

 

  現代のクリスチャンは概して、神の言われる事を聞こうとするより、自分の言いたいことを神に聞いてもらおうとするのに熱心なようだ。自分の計画書を神に差し出し、それに承認のサインをして頂こうとしている。こう言った人がいる。「あなたは、喜んで白紙にサインする気持ちがありますか? 自分の計画書を見せて神に承認のサインをしてもらうのでも、神の計画書を読んで自分がそれにサインをするのでもありません。自分は内容を全く知らなくとも、神が計画を書き込むことになっている白紙の計画書に、喜んでサインできますか?」

  ある女の子が、子猫がノドを鳴らしながら眠っているのを見て、こう言った。「あら、ママ。この猫、エンジンをかけっぱなしで眠っちゃったわ!」 体は走り回っていても、霊的には眠った状態で、何も達成していない事もあるのだ。「空を打つような」ものである!(1コリント9章26節) 静まって、主を求めようとしない限り、どうやって主から何かを受け取るつもりなのか! 私は、他のどんな時よりも、一人静かにしている時に、主から多くを受け取ってきたと強く確信している。一人でいる時こそ、主は私達に語りかけられ、私達も、当然払われるべき尊敬と関心を全て主に注ぐ事が出来る。そして主に耳を傾ける。主は静かで小さな、しかし非常に明確でしっかりした、愛情深い声で話されるが、私達があまりにも騒々しければ、聞こえないだろう!(列王紀上19章12節、イザヤ30章21節を参照)

  私達が座って静まる時しか、その声は聞こえない! 神が怒鳴られることはめったにない! 神が大声を上げられる頃には、手遅れなのだ。私達があまりに騒々しいので、私達に聞こえるように神が大声を上げるところまで来たなら、おそらく神は激怒しておられ、手遅れだ。そして、その大声にも関心を払わないなら、耳を傾けざるを得なくなるように、神は、私達にパンチをくらわせ、叩き伏せられる!

  だからこそ、神は大勢の人達に、事故や病気や死別などで打撃を与えなくてはならないのだ。神に耳を傾けられるほど十分長く立ち止まらせるためである。(詩篇119篇67節を参照)普通、世間の人があれこれ忙しくするのをやめて、少しでも主に耳を傾ける余裕ができるのは、葬式の時ぐらいのものだ!

  私達が主の御前(みまえ)で静まって、耳を傾けるのを、主が助けられんことを! 主と静かな時間を幾らか過ごさないで物事を進めていくことなど、私には考えられないくらいだ。しかし、主から聞きたいと心から願うなら、主は語って下さる。

  主から聞くつもりならば、いつか、どこかで、何とかして、静まらなければならない! 詩篇46篇の10節で、主はこう言われる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 主の前で静まり、主に尊敬を払う事について、あなたは一体どれだけ学んできただろうか? どれだけ静かな時間を過ごし、静まる事を学んでいるだろうか? 「穏やかにして信頼しているならば、力を得る。」(イザヤ30章15節) 「信頼」とはどんな意味を持つか、わかるだろうか? それは信仰である! 静かでいる事自体、信仰の現れである! 自分の力に頼るのではなく、神が何かをして下さると期待している事を示している!

  何をしていいかわからないなら、すべてをやめなさい! 静まって、神が何かをして下さるのを待つのだ! すべき事もわからないまま、むやみやたらと進み続けるのは、最悪の行為だ! サウル王の犯した間違いはそれだった。おかげで彼は完全に王国を失った! 何をすべきか自分でわかっていなかったのに、そのままやみくもに行動し続けたからだ。何があろうと、ただ忙しく進み続けなければならないと思ったのだ!(サムエル記上13章7-14節を参照)

  主の御前で静まっていることは、神がその状況に対処し、うまく取り計らって下さるという信仰があるのを示している。「あなたは全き平安をもって、その思いをあなたにとめている者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」(イザヤ26章3節) 信頼していないと、終始頭は混乱している。この小さな詩のように。「信頼していれば、思い悩まない! 思い悩んでいる内は、まだ信頼が足りない!」

  やきもきして、心配し、動揺し、思い煩い、苛立っているなら、信頼している事にならない! 当然持つべき信仰を持っていないのだ! 信頼とは、休息している事であって、心も霊も思いも安らぎにあふれ、穏やかな事である。体は働き続けなければならないかもしれないが、態度と霊は穏やかである。

  だからこそ、嵐の中でも安らぎ、台風の真っ最中でも落ち着いていられる。それで、「安らぎ」をテーマにした絵画コンテストを思い出した。大半の画家は、静かで平穏な牧歌的風景といった全くの静けさを描いていた。それも安らぎを表わしている。しかし、受賞したのは、なかなか困難な種類の安らぎを描いた作品だった。荒れ狂った激流の絵だ。恐ろしい勢いですべてを押し流していたが、その上に張り出している小枝に、美しい小さな巣があり、激しい嵐をよそに、小鳥がのどかにさえずっていたのだ! 嵐の中でこそ、私達の信仰は試される。穏やかさは、信仰を持っているという証拠である!

  遠い昔、モーセに従っていた2百万から6百万の民は、砂漠の真ん中でモーセを待っていた。いらだちながら、「我々は、一体何を食べるのか。何を飲むのか。どこへ行って、何をするのか?」と考えていたのだ。そこでモーセはどうしたか?山の頂上に登って、そこに腰を下ろし、40日間ぶっ続けで主と時間を過ごしたのだ!

  彼がその間ずっと、「何か起こったらどうしよう? もう戻らなくては。アロンが黄金の牛を造ったらどうしよう?」などと思い煩っていたら、どうなっていたことか。そして実際にアロンは牛の偶像を造ったのである! さて、モーセが怒って石板を壊した時、またもや山頂に戻って静まり、もう40日間過ごさなければならなかった! 怒った事で何の益があったか?主から聞くために、再び静まらねばならなかった。山から降りて、静かに、穏やかに状況を収拾しておけばよかったのに。そうすれば、もう40日山頂で過ごさずに済んだだろう!(出エジプト24章12-18節と32章、34章の物語全体を読むこと)

  イエスは、地上での宣教を始められる直前に、四十日四十夜を山で過ごされた。悪魔を相手に沢山の時間を費やされたようである。イエスは、まず悪魔を打ち破らねばならなかったのだ!(マタイ4章1-11節を参照) 私達も、まず主と2人だけになって悪魔をやっつけないなら、何の意味もない!

  ノアは、箱舟造りにかかった120年間の内、どれほど祈りに費やしたことだろうか。幾らかの時間はそうしたはずだ。さもないとあの箱舟の建造の仕方に関する指示を受けることなど出来なかっただろうから! 何と言っても、それまで船など誰も見たことがなかったのだ! 神は、おそらく、あの船の細部に渡って、正確な寸法を示されたことだろう。それまで、雨など降ったことがなかったのだから! しかしノアは、穏やかに箱舟造りを続けた。もう雨が降って来るかも知れないと、あわてて終わらせることも出来ただろうが、120年も箱舟造りに静かに取り組んだのだ! 私達なら、120日でも長い準備期間だったと思うところだ! ノアは確かに信仰があったとわかる!(創世記6章3,9-22節と7章を参照)

  農夫は信仰と忍耐の何よりの手本である。ただ主が作物を育てて下さると信頼するしかなく、心配してはいられない! 雨を降らせ、作物が育つようにされるのは神であって、神こそ最も重要な役割を果しておられるからだ! 農夫は、ただ全体を監督するだけだ。穏やかで静かなタイプの人と言えば、農夫がそうではないだろうか! 都会の人間は農夫をからかうが、農夫がゆっくり地道に行動しないなら、都会の人間のように、気が狂ってしまうだろう! 農夫のモットーは「ゆっくりやれ!」である。

  農業をやりたがる人がとても少ないのは、あまりにも神に頼らなければならないからだ! 自分達にやれる事はそう多くはない。神にすべてを任せなければならない! 人が農場からどんどん離れているのは、神の支配なさる事があまりにも多いからである。それに静かすぎる。人々はそれを活気がないという。「動きがない」そうだ! しかし、丘の上に登りさえしたら、沢山の事が起こっているのを見、また聞くだろう! 嵐が見える。木々や動物が見える。雷鳴も聞こえる! だが、大抵は動きはとても静かで、騒がしさもあまりない。

  しかし、中には、常に動いてないと気が済まない人もいるらしい。何かしていないとだめなのだ! 一つには、「考える」ということを望まないからだろう! だからあんなに多くの娯楽があるのだ。娯楽(アミューズメント)という言葉の意味を知っているかね? 「思考から離れる」という意味だ! 人は静けさを極度に恐れる。神の声が聞こえるかも知れないとわかっているからだ! だから悪魔は人々の目と耳と頭の中を、騒音や暴力的なシーンと音でいっぱいにする!

  都会が災いに満ちているのはそのためだ。都会は何もかも人工的な環境である! そこに住む人々は完全に神から離れており、ほとんど1本の木も、草の葉1枚でさえ、また、星や太陽や月、空さえ目にしないこともよくある! 人々は地下に住んでいる! 轟音をあげて通る地下鉄、恐ろしい交通騒音と同居しているのだ! 都会の子供には田舎の子供よりも難聴の問題がはるかに多いのは、都会の子供は常に騒音にさらされているからだ。田舎で育った子供は、大抵、聴覚が非常に鋭い。

  霊的にも肉的にも混乱した環境に住むと、神の声にも鈍くなる。すでに周りのすべての騒音に対して鈍くなっているからだ! それでは、主の声も聞こえない! しかし、静かで平安に満ちた穏やかな所に住んでいると、自分の耳が非常に鋭くなるのがわかる。私の臭覚と聴覚は極度に敏感だが、森や田舎で過ごすことが多かったせいかもしれない。

  田舎の人達は、普通、ゆっくりで、コツコツ働き、忍耐強い! 神の造られた自然と接しているので、主に頼っている!私達も、農夫の姿から学ぶべきだ! 都会の人間は耳が遠くなり、心も頑なになる! 騒々しい音楽が現代の若者を難聴にしている。鼓膜を常に刺激するので、鼓膜が硬くなってしまうのだ。耳を保護するため、耳の中に見えない壁ができるようなものだ。

  アブラハムは、どれだけの年月を、野原で羊の群れの番をして過ごしたことだろうか! 道理で彼が主から聞いたわけだ。耳を傾ける時間があったのだから! 主よ、私達を赦して下さい! 私達はあまりに忙しくなりすぎる! 忙しくて祈れないなら、あなたは忙しすぎる! 神と2人きりになって祈れないほど忙しいなら、それは忙しすぎる! 家来が王にこう言ったらどうなるだろう。「申し訳ありませんが、今日はここに来て、陛下から命令を聞くことはできません。陛下のためにする仕事があまりにもたまっています!」

  私達は、何にもまして、主に耳を傾けるようにならなくてはならない。家来を追い回して、あれをせよ、これをせよと大声で怒鳴るのは、王のすることではない! 主のしもべたる私達は、静かに尊敬のこもった態度で主の御前に出、誠実に、畏れかしこみつつ嘆願を行い、黙して主からの答えを待つべきだ。主を畏れ、尊敬し、主は王なのだから、王にふさわしい扱いをしなくてはならない! 聖霊に満たされた人々は、聖霊や主に対して打ち解けすぎることがある。そして、この馴れ合いが、時々侮りを招くと思う! 主があまりに優しく、親密になって下さるので、主に対する尊敬が足りなくなるのだ。

  私達にとって最も重要な仕事は、王に耳を傾けること。立ち止まって、見て、聞くことである! さもないと、ひかれてしまう!

  神の賜物や御霊の賜物で遊び始めて、神ご自身をないがしろにしているクリスチャンが大勢いる! ちょうど父親が子供達にプレゼントを持って帰って来た時のようなものだ。子供達は父親にありがとうを言うのも忘れてそれをさっとつかむと、床に座り込んで遊び始めるのである!

  または、ある少女の話にも似ている。その少女は、いつもなら父親と過ごす時間を毎日犠牲にして、父親の誕生日のプレゼントにと、こっそり寝室用のスリッパを作っていたが、父親の胸は張り裂けんばかりだった! 神は、私達が作るスリッパをありがたく思われるかも知れないが、私達と時間を過ごすほうをはるかに喜ばれる! それに、主をおろそかにしているなら、ひどい失敗をすることになるだろう!

  主が働かれるのを待つこと、それが私達が学ぶべき最大の教訓だ! 私も主に耳を傾けなかったことが何度もある。そんな時主は、私に主に目をとめさせる唯一の方法を使われた。それは、私を病気にして、ベッドに横たわらせ、上を見上げるしかできなくすることだった! 私の母は、主への奉仕であまりに忙しくしていたので、主ともっと時間を過ごすようにと、主が母をガンにされた時の話をよくしたものだ! 以下は、母が書いた詩である。

 

  第一の場所

 

  主に仕えたい、心からそう願っていた

  働き人は皆、忙しく働き

  広大な収穫の畑が広がっている

  けれども、私はその外にいる

  働き人は、ほんの少ししかいないのに

  なぜ、じっとしていなければならないのか

  私には理解できなかった

  こんなはずではなかったのに

 

  主に仕えたい、心からそう願っていた

  働き手がこの上もなく必要だった

  私にとって、働くことは何でもなかったのに

  だが、待つのはどんなに辛いことか

  黙って静かに横たわっていることは

  働き人達の歌声が聞こえてくる

  ああ、愛しい収穫の畑よ!

 

  仕えたい、主に仕えたいとひたすら願っていた

  けれども主が私を導かれたのは、荒涼とした場所

  そこで主と立ち止まって、休息を取ると

  主は私の顔を見おろされた

  優しくたしなめるようなまなざしで

  私は悲しみ驚いた!

  主は私が奉仕するのを喜ばないと思われたのか

  それとも、犠牲と思っているとでも?

 

  「ああ、主よ、仕えたい。ただ、あなたに仕えたいのです。

  働き人はあんなに少ないのですから!

  私を畑に出して下さい。」

  私は嘆願した

  「じっと休んでいたくありません!」

  私は主の足元にひざまづいて懇願し

  主の御顔を仰ぎ見た

  「我が子よ、わからないのか?

  あなたの愛なくしては、あなたの奉仕は無に等しいのだ」

 

  主に仕えたい、心からそう願っていた

  ああ、私の頭にはそれしかなかった

  その事ばかり願い

  ひたすら祈りの内に乞い求めた

  けれども、あの寂しい荒野で

  忙しさから離れた時

  ゆっくりと、しかもはっきりと

  私は自分の大きな間違いに気づき始めた

 

  ただ奉仕することしか頭になく

  私は主から離れて行ったのだ

  主は優しい交わりの時を切望しておられた

  心と心が一つになる時を!

  私が赦しを求めると、主は赦して下さった

  私の目は痛みでかすむ

  そして今、主の御仕事はやはり尊いけれど

  第一の場所は、いつも主のためにとっておく!

 

  神は、たとえそれが神のための奉仕であっても、ご自身よりも優先される事を決して喜ばれない! 「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、妬む神である。」(出エジプト20章3,5節) 誠実なクリスチャンが犯す最大の間違いとは、おそらく、神への奉仕を神としてしまう事だろう! 騒々しく、忙しく動き回り、「空を打ち」、神に関心を向ける事はほとんどない!(1コリント9章26節を参照) 私達は、よくこんな歌を歌った。「任せよ、神に委ねよ、御心のままに! 神の御霊はあふれる。委ねよ、すべてを!」 ただ神にして頂く方が、ずっと簡単である! そして主の御前に静まる事は、神にお任せしているしるしだ! 自分のしたい事をやめて、神が働かれるのを待つことで、信仰を表明しているのである! 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇10節) 「静まることを学びなさい。」(1テサロニケ4章11節) 「穏やかにしているなら、力を得る。」(イザヤ30章15節) 「全地はその御前に沈黙せよ。」(ハバクク2章20節、ゼカリヤ2章13節) 時には、天にも静けさがあることもあった!(黙示録8章1節を参照)

  あわてて何かをしようと大騒ぎしている時に、私が座らせ、主に何時間も耳を傾けさせたので、憤慨した者達がいた!しかし、大抵は、神が状況をうまく解決して下さったことを後で発見するのだった。

  モーセがまだ40歳の頃、非常に頭が切れ、自分こそ仕事のやり方をよく心得ていると思っていたが、ひどい失敗をして、命からがら逃げなくてはならなくなった! その後、神が彼の誤った態度を正して、神に頼らなくてはならないとわからせるのに40年もかかっている!(出エジプト2章11-15節を参照)

  急ぐことは、自分が遅れるのを恐れている証拠である。つまり恐れを持っているわけで、信仰がないということだ! 遅れていても、あせってはいけない! 主に信頼すること! そもそも、私達が遅れている時に急ぐ理由の一つは、おそらく自分のせいだとわかっており、その結果を苦しみたくないからだろう! それはプライドが高すぎるからだ! 自分が遅れたと思われたくないからだ!

  急ぐもう一つの理由は、主に信頼していないことだ! そこに着かなければ、何かを逃してしまうと恐れるのだ。私達は、ヨシュアのためにされたように、神が全世界を止めたり、太陽を止めたりさえできるとは信頼できないのだ!(ヨシュア10章12-15節を参照) 昔、電車に間に合うようにと急いでいた時の事を、決して忘れないだろう。主は、そんなに急いで、精神的にも肉体的にも無理をするなら、死んでしまうと警告された。そこで私は、主に電車を発車させないで下さるようお願いし、すべてを主の御手に委ね、リラックスし、ゆっくりと行った! さて、電車に乗れたのだが、今度は座席に40分も座って、いつもは時刻通りの電車がなぜ発車しないのかと考えていた! ついに主に尋ねると、主は言われた。「あなたはわたしに電車を止めるよう求めはしたが、まだ出発したいとは言っていないではないか!」

  「急がば、回れ!」 落ち着いて! スピードを落し、急がず、あわてず行きなさい。そうすれば、主は必要とあらば、他のすべてのもののスピードを落として下さるだろう! わざわざ死に急ぐこともない!

  聖書にある、忍耐の手本を考えてみなさい。ヨブにモーセにダビデ! ダビデは24年間、へまばかりするサウル王の下で働いたが、主はサウル王のお粗末な手本を通して、ダビデに多くの事を教えられた! サウルは、完全にうろたえて、自力で物事をしようとしたが、結局自分がそんなに強くないと思い知ったのだった! だからダビデは、すべてを神に任せ、神のなされるのを待たなくてはならないことを学んだのだ!

  その振る舞いを見ると、サウル王を思わせる人達がいる!主に何かを求めても、答えがすぐに得られないと、とにかく自力でやろうとするのだ! 預言者サムエルが現われなかったので、サウルは主を待たずして、勝手に戦いに出たが、結果はどうだっただろうか! 王国を全部失ってしまった!(サムエル上13章7-14節を参照)

  スピードを落としなさい! 立ち止まって、見て、聞きなさい! 主を待ち望め! 自分のすべき事がわからず、主からまだ答えを聞いていないなら、特にそうだ! バプテスマのヨハネはどこから来たか? 大都市エルサレムか? 彼は、そこで教育や油注ぎや大いなる力を受けたのか? 違う! 彼は荒れた地、つまりしげみや荒野から出て来たのだ! 群衆から離れ、主から聞くための時間がとれる場所だ! そして出て来た時には、彼は確かに人々に告げるべき大切な事柄を受け取っていた!(ルカ3章1-21節を参照)

  イエスは人生の最初の30年を準備に費やし、公に宣教されたのはわずか3年あまりだった! 私達は急ぎすぎる! ヨハネは「ヨハネの福音書」を書いた。そのために彼は、主と幾らか時間を過ごさねばならなかったに違いない。けれども、彼の最高傑作は、流刑になった島で主によって書かれた。あの「黙示録」である。彼の最大の仕事とは、ただ神にすべてを導いて頂き、何もかもすべてを示してもらうことだった! スピードを落とそう! 立ち止まり、見て、聞こう! さもないと、ひかれてしまう!

  世界は常に急いでいる! 世界を急がせ、何でもより速く動かすためなら手段を選ばない、それが悪魔の策略である! 神は6千年前に地球を造られたが、以来その速さはほとんど変わっていない! 神は急がれたことがない! 今も毎日同じ速さで地球は回っているし、季節でも年でも、神は速度を上げておられない! スピードを上げ、破滅に向かって突進しているのは人間である! スピードを落として、リラックスしなさい! だが、何よりも、立ち止まって、見て、聞きなさい! そして待つこと! 危険な場所、たとえば踏み切りや交差点など、事故が起こるような箇所には警告の標識がある。いつものやり方、いつもの道、いつものハイウェイのように進まないようにだ! そうでないと、線路に飛び出して、特急にはねられるかも知れない!

  「私には止まって、見て、聞いたりする時間などありません!」 そう言うのか? だが、そうしないなら、決して到着しないかも知れない! 全然着かないよりは、遅くても到着する方がいい! どちらが簡単だろうか? 電車とデッドヒートを演じたり、電車を押しのけて進もうとか、飛び越えようとすることか、それともただ止まって、電車が通り過ぎるのを数分間待つことか。電車は間もなく通り過ぎ、また悠々と自分の道を進めるようになる。自分の思い通りの状況にしようと無理矢理押し通しても、絶対にうまくいかない! 慌てふためいて思い煩い、苛立ちながら、何かをしようとしても、骨折り損に終わる。本当にすべきなのは、主を待ち望んで、主がどこで何をして欲しいと望んでおられるかを確実に知ることなのだから!

  主は私達に決断を下す事を教えようとしておられる。決断する上で、まずすべき事は、自分達で話し合う事ではなく、主に尋ねる事だ! 神は、私達が少しでも敬意を払うのを喜ばれる。祈りはただひざまづいて、自分の言いたい事を言うのではなく、何よりも神にご自分の言いたい事を語って頂く事である。そして、主が答えられるまで、静かに確信を持って待つ!

  ただ祈りの内に入るだけではなく、御霊の内に入らねばならない。そうすれば、各自にそのすべき事を主が語って下さる。自分には出来ないことを悟って、必死に神の答えを求めなければならない。そして、他の事はすべてやめて、聞き入ること! 主の御前で静まることは、神が状況に対処して下さるという信仰の現れである。神は解決して下さる! 神から聞くための時間を取るなら、神も問題を解決するための時間を取って下さる。ばたばた動き回っても始まらない。王に関心を払い、王を愛し、王のために時間をとり、心と心の交わりの時を持たないなら、どんな奉仕も無に等しい。

  急ぐことは信仰の欠如であり、悪魔からのものであると覚えておきなさい! あわてて走り回り、心配して、苛立っているなら、主に自分の注意を全部集中させることは決して出来ないだろう。すなわち、問題の解決策や質問への答え、状況に対する最善の決断を求めて、自分の目や耳や思いや心を主に集中させられなくなるのだ! しかし、立ち止まり、見て、聞き、主との交わりの内に待って、主の答えを受け取ることを学んだなら、あなたは決断の下し方を学んだことになる! 祈ることと、真に神に従うことを学んだのである。「神はご自分に選択を任せる者に、最善のものを与えて下さる!」

 

 

  ***

 

  もしまだそうしていないなら、今、立ち止まって、見て、イエスがあなたの心の扉をたたいておられるのに耳を傾けてはどうでしょうか? ただこの短い祈りを祈ることによって、今、あなたの人生を主に向かって開いて下さい。

 

  愛するイエス様、どうか私がスピードを落とし、人生での導きを求めて、あなたに耳を傾ける時間を取るように助けて下さい。私にはあなたが必要です。あなたの助けと赦しを求めます。どうか私の心に入って、永遠の命という贈り物を下さい。そして、私をあなたの聖霊で満たして、他の人達にあなたの素晴らしい愛について話す力を与えて下さい。あなたのお名前によって祈ります。アァメン。

 

 

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「立ち止まり、見て、聞きなさい!」初版は、1971年5月に発行されました。

第一巻4号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241,8021 Zurich, Switzerland.