Mountain Streams 1

水晶の流れ 1

明日への希望を与え、心を新たにする、現代人へのメッセージ

 

 

山 男

ファーザー・ダビデ

 

  マタイによる福音書第5章第1節を読むと、山と群衆の違いがはっきりと分かる。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子達がみもとに近寄ってきた。」

  イエスは、山に登られた時、群衆を後に残された。山頂が人で埋まることはない。私は沢山の山に登ったが、ほとんどいつも一人だった。なぜか? 山登りは、なかなかきついからだ。山に登りたいという人はあまりいない。孤独であり、山に登るためには全てを後に残さなければならない。生傷や打傷は絶えないだろうし、命を落とすことさえある。

  山上はもっと明るい。谷間を闇がおおう頃になっても、まだ太陽が見られる。しかし谷間は、ほとんどいつも暗い。人間や物であふれ、たいてい闇の中にある。山は風が吹き荒れ、寒いが、感動と興奮がある。

  山に登るには、それに命をかけても構わないというくらいの気持ちがなくてはならない! 人生の山でも、達成の山でも、障害や困難の山でも、いかなる山でも、それを登るつもりなら、命をかけるだけの価値がなくてはならない。逆境の象徴たる吹き荒れる風や寒さや嵐を乗り越えなくてはならないのだ。しかし、一人で山頂に立つと、神にとても近く感じる! そこでは、神の霊の声は、稲妻のように大きく響く! 山頂の静けさは、全く音のない世界である! 山の上では、高揚した気分と興奮が味わえる! 恐いくらいだ! これとは正反対に、谷間には大勢の人間がいてうるさいので、神の声を聞くことができない。

  もちろん、山登りは極めて危険だ。崖っぷちに立っている時ほど、どん底に近いことはない! 一歩踏み外せば、一番下まで落ちてしまう。山登りとは不思議なもので、登るほうが、下るよりも容易である。一度登ったら、帰って来られないかもしれない。これも山登りの代価の一つだ。命を落とした登山家の多くは、下山途中で遭難した。登る時には、目標が見えているが、下る時には、行き先を見ることができないからだ。

  主と主の御仕事に背を向ける人々の内、一体どれだけの人が、自分達の行く手にあるものを知っているだろうか? 安易な道に戻っていると考えているが、何が待っているのか、全然気がついていない。彼らが味わうようになるのは、ひどい失望感だ! 山に登ると、そこを去りたくないという独特の感情を抱く。下ることに魅力はない。しかし、登る時には心を強く駆り立てるものがあるので、どんな危険もいとわないほどだ。下る時はどうだろうか? 心を駆り立てるような衝動も、目標もなく、何を達成していることにもならない。ぬかるみに戻っていくだけだ。人間の世界の泥沼、群衆のぬかるみの中に。

 

  開拓者だけが山に登る。開拓者とは、誰もしたことがないことをやりたいと望む人、群衆から抜け出て、まだ達成されていないことに挑む人である。開拓者にはビジョンがなければならない。誰も見ることのできないものを見るビジョン、そして、他の誰も信じない事を信じる信仰と、初めて挑戦した人間になろうとする率先性、最後まであきらめない勇気とガッツが必要だ! 山上では、日の出を誰よりも早く見、日没が一番最後まで見られる! 神の偉大なる創造物全体が見渡せ、360度の全景が地平線まで広がっている! 人生を最初から最後まで見て、それを理解するようなものだ。

  谷間の人々は時間に縛られているが、山にいると、永遠の内に生きているのを感じる。世界を正しく展望し、征服されるべき山々と、普通の人間に見える世界と地平線を超えた世界を見る! 幾つもの処女峰と彼方の前人未踏の谷が見え、谷間の人間達には決して見えず、理解さえできないものを見るのだ。

  谷間では、大勢の人間や、見せかけ、物質主義に巻き込まれ、やがて過ぎ去ってしまう時間と、やがて朽ちる生物と物質しか見えない。しかし、周りの群衆の中からあえて頭を突き出す人は、その人自身が彼らの間で山となるので、人々は憤慨し、反対し、戦いを挑む。そのような人間は理解できず、そうした存在自体、望まないからだ。彼らは、そこに山があることなど知りたくもない! 他の人が山の存在を知ったり、水晶のように美しい山頂にある新鮮な空気を吸うことも望まない! 人々を谷間のぬかるみに閉じこめておきたいのだ!

  谷間にいる人間は、山の上に立った人間を憎む。誰も自分より上にいてほしくないのに、その人が彼らよりも上にいることが明白だからだ。他の人と同様に、ぬかるみの中にいさせたいのだ。谷間以外に行ける場所があることを知られるのは望まない。そして、山に登るのを思いとどまらせようと、あらゆる手を尽くす。

 

  大昔から、谷間に住む人々と山に住む人々の間で頻繁に戦争が起こっていることをあなたは知っているだろうか? それは歴史上の事実である。山の人間は皆頑丈でたくましく、丈夫だが、その数は少なかった。しかし彼らはいつも生き延びてきた。山に逃げることができたからだ。谷間の人間は、山を登るほど強くも頑丈でもなかったので、とてもついていけなかった。だから山の人間を少しだけ追いかけはするものの、逃げるままにさせた。ただ山の人間を追い払いたいだけで、山を征服するつもりはなかったのだ。ただ山の人間を追い払うだけでよかった。谷間の人々にとって山の人間は、厄介者、悩みの種だった。山の人間は谷間以外にも住めるところがあることを証明した。谷間の人間がそんな事は不可能だと言っていたにもかかわらずだ。山の人間が谷間の人間を征服した例は、歴史を通じて幾多もあるが、谷間の人間が山の人間を征服した例はめったにない。

  しかし、山の人間が谷間の人間を征服した時には、結局、山の人間も谷間暮らしにどっぷり浸ってしまうという危険が常に伴う。だから、山の人間にとっては、谷間の人間と戦っているほうがはるかに良いことが歴史からわかる。谷間の生活から抜け出せなくなることがないよう、谷間の人間と終わりのない戦争をひたすら続けているほうが良いのだ。谷間の人間と和解し、谷に下っていくのが安全になってしまうことほど、危険なことはない。最大の危険は、安全と安心感である。山の自由と解放、あの奔放な自由を失ってしまう!

  谷間は人間の国だ。高い場所は、神の国である。人間が谷間を支配するが、神だけが山を支配される。山に住む人はその事を知っている。しかし谷に住む人間は、自分達が統治しているから、自分達を神だと思っている。安心しきっていて、神などいらないと考えている。神がいることさえ忘れてしまっているからだ。もはや空を見ることさえできないのだ。しかし山に住む人々は、恐ろしいものや危険に遭遇するので、神の近くに暮らさなければならない。

  山道は、岩だらけで険しい。重い荷物を背負わなくてはならない上に、山で会う人間が皆優しいとは限らない。もっとも、谷間の人間のほうがもっとひどいが。そして、山の上では住む場所は少ない。あるのは、粗末な掘っ立て小屋ぐらいだ。食べ物もあまりない。寒く、風が吹きすさぶ。だが、そこで死んでも本望なのだ。谷間で生きるよりは、山で死ぬ方がいい! 街角で転んで死んだ人の記事が新聞に出るだろうか? だが、山で死んだ人の記事は、たとえそれが遠い外国で起こった事でも、新聞に出るだろう。その人があえて試みたからだ!

  旧約聖書に出て来る二人のスパイ、ヘブル人のヨシュアとカレブは、真の開拓者、山男だった! 若者の他に荒野で40年生き残った年輩の人間は、この二人だけだった。同じ年頃だったに違いない。ヨシュアは国を征服し、カレブは80才にして、「谷間は弱虫にまかせればいい。」というようなことを言った。その年でも戦う人であり、開拓者だった。彼は、「私は山を取る!」と言った。(民数記13章30節を参照) 踏み慣らされた道は、打ち負かされた人のためにある。山頂は、勇ましい開拓者のためにある。

  山を選び、群衆を後に残すなら、誰が真の弟子であるかがわかるだろう! 山の上では、イエスの弟子だけがみもとに来た。イエスが山に登られた時、世界で最も有名な教えを聞く特権にあずかれたのは弟子達だけだった。その日、天国からの御声を聞いた者達とは、群衆を後に残し、山を選んだ者達、最後までイエスに従った者達だけだった。(マタイ5章1節を参照)

  しばらくは彼らと山を登っていたが、結局、途中で息を切らし、あえぎながら取り残された人達がどれだけいただろうかと思う。ただパンと魚をもらえる事を目当てに、「これをしたら、自分にどれくらい益があるだろう?」としか考えていなかった人々は、山に登る途中で脱落していった事だろう。払う代価があまりにも大きすぎたからだ! 「この狂った連中と山に登って何になるのか! どうせ彼らは狂信者の集まりだ。そうでなければこんな山に登るはずがない! 馬鹿な連中だ! 今まで誰も登った事がないのを知らないのか? 登れない事を知らないのか? たとえ奇跡を見て、魚のサンドイッチにまたありつけたとしても、山に登り、危険を犯すなど割に合わない。こんな山でくたくたに疲れ切ってもしょうがないじゃないか! ここに座って、連中がまた戻って来れるか見てみよう。彼らが山を登る間、ここに座ってぶらぶらし、休むとしよう。登れるものかどうかここで見ていよう。」

  できるかどうか待って見ている人達の事など、耳にする事はない。やり遂げた人か、やり遂げようとして死んだ人のことだけを聞くのだ。しかし、人がやり遂げた時、神の口は、その人に向かって開かれる! 神は、面と向かって語りかけられ、直接教え、その偉大な神秘の数々を明らかにされるであろう!

 

  山の上で何を聞くだろうか? 世界中に響き渡るようになることを聞く。静けさの中で聞くのは何か? 歴史の進路を変えるようになるささやきである! 山の上でたった一人の人に授けられたおきては、歴史上、人間に与えられた最大のおきてであり、現代の文明社会の法律の大半がそれに基づいている! そのおきて、十戒を受け取ったモーセが、それを携え、山から下りてきた時、ヘブル民族は変わり、世界も変わった!

  世界で最も偉大な教え、「山上の垂訓」は、世界で最も偉大な山男、イエスによって、わずかな数の山男達に与えられた。イエスは人生最後の山ゴルゴタを登られ、世界の罪のために死んだ。その山は、あなたと私のために、イエスだけが登ることのできた山だった。そして、イエスは最後まで登られた! イエスの弟子達は「山上の垂訓」を聞いた後、山を下り、世界を変えた! 彼らはもはや前と同じではなかった。彼らは世界を変えたが、彼らを変えたものとは何か? それは、谷間で言われていることと正反対のことを教える神の声だ! 谷間ではこう言っていた。「ローマ人はさいわいだ。堂々として誇り高く、強大なる権力がある。彼らの成し遂げた偉業を見よ! 全世界を征服した。ローマ人でいるほうが得だ!」 しかし山上で、イエスは全く反対のことを語られた。

 

  「心の貧しい[謙虚な]人達は、さいわいである。天国は彼らのものである!」(マタイ5章3節) 無学で教養のない漁師達はある大工に耳を傾け、その言葉は、彼らをローマ皇帝よりも偉大な支配者にするものだった! 「心の貧しい人達−−無学で貧しい、年若き弟子達−−は、さいわいである。天国は彼らのものである!」 その天国、つまり神の国が宇宙を治めるようになるのだ!

  「我々の谷間に入り込んで、山で語られたことを告げるなど、何と図々しいんだ! 我々にはシーザー以外に王はいない! 他に王がいるなど、よくも言えたものだ! 出て行け! シーザー以外に王はいない!」 そして、イエスの信者達を殺したが、かえって彼らを天の御国に行かせることにしかならなかった。そして天の御国は、いつの日か、谷間の国を消し去ってしまうのだ。

 

  「悲しんでいる人達は、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」(マタイ5章4節) 悲しむ事がさいわいなのか? 悩みや悲しみを抱えることがさいわいなのか? そうだ、慰められるようになるからだ。谷間では、「喜び、幸せで、大騒ぎする者達は、もっとさいわいだ! これが我々の喜びだ。我々のところに来て警告し、変わらなければならないと告げるなど、何と厚かましいのか!」と言っている。しかし、私達は慰められ、彼らは呪われるだろう!

 

  「柔和な人達は、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(マタイ5章5節)暴力をもって争い返さず、福音のために命をも捨てる覚悟の人達は、最大の戦いに勝利する。全世界をめぐる戦いに! 信仰のゆえに刑務所に送られ、苦しみ、迫害された人達は、来たるべき次の世界の統治者となるだろう! 心の貧しい人達は、山の人々である。悲しんでいる人達は山に住んでいる。柔和な人達とは、山から来た人々だ。

 

  「義に飢えかわいている人達は、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイ5章6節) 山の人々は、真理に飢え渇いていて、神にしか彼らを満たすことはできない。谷間の人々は、自分の鼻先より遠くを見ることができず、満ち足りていて、満腹なので、神は、彼らを空腹のまま帰らせられるだろう!(ルカ1章53節を参照)

 

  「あわれみ深い人達は、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ5章7節)あわれみ深いのは、山の人々である。谷間のセント・バーナード犬についてなど、滅多に聞かない。世界で最も有名な犬は、山に住む犬だ。それらの犬は、山の人々を救出し、あわれみを持つ。そういう犬こそ、あわれみと栄光と名声を受ける犬だ!

 

  「心の清い人達は、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5章8節) 山ではとがめだてされることがない。溶けた雪は、世界で最も清い水である。蒸留された、全く純粋な水、神から直接届けられた水だ! 「たとえあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる!」(イザヤ1章18節) 心が清くなるのだ。ダビデ王は、いつも清いというわけではなかった。しかし、ダビデ王は主を愛し、自分が罪びとだと知っていたので、憐れみを受けた。神はそれを義とし、ダビデ王を心の清い者とされた。山にはスモッグはない。空気は澄んでいるし、水も清く、人々の心も清い。彼らは神を見るのだ!

 

  「平和をつくり出す人達は、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5章9節) 誰との平和か? 敵との平和か? どうやって敵と平和に過ごせるのか? 谷間の人々が平和を拒むなら、どうやって彼らと平和に過ごせるだろうか? 平和を説きに来ても何が起きるだろう? 向こうは戦いしか望まない。そんな相手と平和には過ごせない!

  それでは、誰との平和なのか? 神との平和、平和を望み、それをつくり出す人々との平和である。イエスがお生まれになった時、天使達は歌った。「地の上では、御心にかなう人々に平和があるように。」 邪悪な心をもった人間とどうやって平和を保てるのか? 不可能だ! 谷間の人間に平和はない。戦争があるだけだ。同じ谷間の者同士でも平和はない。互いを理解しようともしないからだ。だから、谷間の人間達を征服するしかない。それも、彼らが自分達の不義によって滅びるに任せるのが一番簡単だ。自分達の罪のゆえに弱まり、怠け、太りきって、病気になれば、山の人々にかないはしない! これは、何千年も前から繰り返され、山の人々が谷間の人々を征服してきた。常にである!

 

  「義のために迫害されてきた人達は、さいわいである…」(マタイ5章10節) 山から下りてきて、谷間に住む人々に山の平和を与えようとする人々が、襲われ、投獄され、はりつけになっている!−−しかし、彼らはさいわいである! 山から来て、真理を持っており、自分は正しいと知っているのなら、谷間で見せかけばかりの安楽と安心の内に生きるよりも、襲われ、獄に入れられ、十字架刑になるほうがさいわいである。

  人が迫害されるのは、その人が正しく、周りの者達がその正しさに耐えられないからだ! 谷間の人間はあまりにも長く闇の中にいたので、光に耐えられず、誰かが正しく、自分達が間違っていたと知ることに我慢できない。暴露されることを望まないのだ!

  「…天国は彼らのものである。」 私達は出てきたところに戻る。心の貧しい者達も迫害されている。私達は共に天国の王国へ戻るのだ!

 

  「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。」(マタイ5章11節) 谷間の人間は言う。「おまえ達は、我々の偽りの安心感を邪魔している。平和を乱している。」 本当は、私達が彼らに平和を与えようとしているというのに! 私達が乱しているのは、彼らの混乱である。混乱状態に、安らぎの雰囲気を持ち込んだのだ。彼らにとっては、混乱が平和だ。彼らに理解できる平和といったら、そんなものだ。自分達に真の平和がないことが明らかになってしまうので、私達が本当の平和を携えてくるのを彼らは嫌う。だから、私達を攻撃し、嘘を言い、欺き、偽って様々な悪口を言うのだ。

  しかし、「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5章12節) この地上で報いを受けるとは限らない。もちろん、主の平和と喜びがある天国の生活をいつも送っているなら、今この地上でも、多くの報いを受けていることになる! 霊の内で、すでに天国にいる。イエスは、「神の国は、あなたがたのただ中にある」と言われた。だから、心に受ける天国の報いは大きく、また、来たるべき天国において受ける報いも大きいのだ。

  「…あなたがたより前の預言者達も、同じように迫害されたのである。」この節を私はずっと、「あなたがたの前の時代の預言者達も、同じように迫害された」という意味にとっていたが、本当は、「過去にも、あなたがたのような預言者達は迫害された」という意味である。あなたがたのような預言者達も迫害されたということだ。あなたがたも預言者である。迫害を受けるのは、預言者のしるしだ。預言したために迫害を受ける時、預言者の仲間入りをしたことになる。「天においてあなたがたの受ける報いは大きい!」

  「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである!」(マタイ5章13節) 大きな宗派の中には、自分達が地の塩だと考えている宗派もある! 聖書の使徒行伝に記されている初代教会の時代には、クリスチャンは追われ、迫害され、処刑されることもあった! 彼らは確かに地の塩であった! だが今や、山男達のほとんどが山を下り、谷間に安住し、塩のききめを失ってしまっている。

  山に住む、貧しく迫害された人達は、貧困と飢えの生活がどんなものかを、谷間の人間よりもよく知っている。肥えた金持ちの谷間の人間は、贅沢な暮らしに溺れ、自分の周りの小さな世界しか見えない! 谷間の人間は、山に住む人間をあざ笑う。あなたはどんな決意をするだろうか?−−カレブとヨシュアのように、「私は山を取る」と言うだろうか? それとも、現状満足し、もうこれ以上進む気もない、谷間の死んだような人間達と一緒に贅沢に暮らすほうを選ぶだろうか?

  歴史において、世界のほとんどどんな国よりも長く自由でいたのはどの国だろうか? アルプスにあるスイスや、ヒンズークシ山脈のアフガニスタン、ヒマラヤ山上のネパールなどだ! 他の様々な文明が起こっては滅びたが、その国々は今なお存続している! 人口はわずかで、強力でも有名でもないかもしれないが、存続しているのだ! それらの国々がまだ自由でいられる一つの理由は、他の国がほしがるようなものがあまりそこにないからだ。山を望むのは、彼らくらいのものだ。

 

  聖書の中で、山は、力と偉大さを象徴している。谷間は違う。主は、神の御国を、全地に満ちるほどの大きな山と描写された!(ダニエル2章35節を参照) また、シオン、つまり神の家を、全ての国が来て礼拝し、主の言葉が出る山として語られている。(イザヤ2章2節を参照)

  「主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」(詩篇23篇2節)あなたは、どこに緑の牧場を想い描いただろうか? 私はいつも、澄み切った美しく小さな泉のある、山の牧草地が浮かんでくる。「主は私の魂をいきかえらせ、み名のために私を正しい道に導かれる。」(詩篇23篇3節)主の道とは、どんなものだろうか? 狭く、ごつごつした山道である! 「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、」(詩篇23篇4節) 谷には死がある! 山には生命がある! 谷から出なさい! 罪に疲れたものよ、「鳥のように山にのがれよ!」(詩篇11篇1節)

 

 

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  イエスはあなたの羊飼いですか? イエスが与える素晴らしい「山の緑の牧場」に入って、新しい人生を始めていますか? もしまだなら、たった今、この短い祈りを心から祈って、イエスを心の中に受け入れて下さい。

 

  イエス様、あなたが神の御子で、私のために死んで下さったと信じます。今、私のすべての間違いや罪をゆるして下さい。心の扉を開けて、あなたをお招きします。永遠の命を与えて下さい。イエス様、心に入って、私があなたの言葉、聖書を読み、あなたのために生きるのを助けて下さい。また他の人もあなたを知ることができるように、私があなたのことを話すのを助けて下さい。イエスの御名(みな)によって祈ります。アァメン。

 

 

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「山男」初版は、1969年12月に発行されました。

第一巻1号 C1993, Mountain Streams, Postfach 241,8021 Zurich, Switzerland.