グッド・ソーツ

  愛 第一部

 

  1.フィラデルフィア市に小さな三流ホテルがあった。ある晩遅く、疲れた様子の年配の夫婦がやって来た。夫は、夜勤のフロント係に一生懸命頼んだ。 「お願いだから泊めてもらえませんか。妻と私は泊まる場所を捜して町中を歩き回りました。ここで大きな会議が開かれているなんて知らなかったんです。いつも泊まるホテルはいっぱいでした。もう遅いし、二人ともくたくたなんです。お願いです。」

  フロント係は二人をしばらく見つめてこう答えた。「客室は全部ふさがっていますが、私の部屋ならあいています。私は、夜は仕事ですから。客室ほど良くはありませんが、清潔な部屋です。お二人を今夜、私のお客様としてお泊めいたしましょう。」 妻は言った。 「あなたに神の祝福がありますように。」

  翌朝、朝食の席で、夫妻はウェイターに伝言し、昨夜の夜勤のフロント係に、重要な用件で会いたい旨を知らせた。夜勤のフロント係は、入ってくるとすぐ二人の姿を認め、テーブルにつくと、よく眠れたかどうか尋ねた。二人は心の底から感謝の言葉を述べた。それから夫の言葉に、フロント係はあっと驚いた。 「あなたはこのようなホテルにいるには勿体ないくらいの立派な人です。ニューヨークに私が、豪勢な超一流ホテルを建ててあげますから、そこの総支配人になってはどうでしょう?」

  フロント係は何と言ったらいいのかわからなかった。この二人は頭がおかしいのではないかとさえ思ったが、とにかく、「素晴しいですね。」と口ごもりながら答えた。すると、客は自己紹介をした。 「私はジョン・ジェイコブ・アスターです。」 こういうわけで、ウォルドルフ・アストリア・ホテルがオープンし、その夜勤のフロント係は、長年に渡って、世界で最も名を知られたホテル支配人となった。

  1976年、ニューヨークにある47階建てで客室数が1900のウォルドルフ・アストリアの宿泊客は、75万人だった。

                  

  2. 強情なあまり、友人を失ってでも口論には負けたくないと考える人がいる。だが、素朴で、正直で装わず、ありのままの自分でいなさい。そうすれば、友人たちからの尊敬や愛に恵まれた人生を送ることだろう。

 

 

  3.エール大学の学長がオハイオ州立大学の元学長にこう助言した。 「AとBの成績の学生たちには常に親切にすること。いつの日か、彼らは良い教授となってキャンパスに戻って来るから。また、Cの成績の学生にも親切にすること。いつの日か、彼らは戻って来て、何百万ドルも出して研究室を建ててくれるから。」

 

  4.レオナルド・ダ・ビンチは歴史上でも指折りの知識人で、画家としても、エンジニアとしても、思索家としても優れていた。かの「最後の晩餐」に着手する直前、レオナルドはある画家仲間と激しい口論をしてしまった。その憤りと苦々しい思いは甚だしかったので、レオナルドは、相手の画家をモデルにしてユダを描くことでうっぷんを晴らそうと決意したのだった。こうすれば、復讐が果たせるし、後世にまでその画家の顔に泥を塗ることができる。というわけで、ユダの顔は一番初めに仕上げられた。レオナルドが大口論をした相手の画家がモデルであることは、誰の目にも明らかだった。

  ところが、キリストの顔を描こうとすると、一向に筆が進まないではないか。何かが彼を妨げているようで、懸命の努力にもかからず失敗の連続だった。そこでとうとうレオナルドはある結論に達した。その進行に歯止めをかけ挫折させているのは、ユダの顔を自分の敵の顔に似せて描いたからだと悟ったのだ。そこでレオナルドは、ユダの顔をぬり消して、それから又イエスの顔を描き始めたのだった。すると今度は成功し、この絵は、時代を超えて多大な賞賛を受けてきた。

  他の人の姿を敵がい心と憎悪とで描く一方で、自分自身の生き方を通してキリストの姿を描くことなどできない。

 

  5.朝鮮戦争の最中に、民間人の韓国人クリスチャンが共産軍に捕らえられ、銃殺命令が出された。しかし、その捕虜が孤児院の院長で、幼い子供たちの世話をしていると知った若い共産軍の指揮官は、この囚人の代わりに息子を殺すようにと言い渡した。そこで共産軍は、19歳になる息子を父親の目の前で銃殺したのである。

  さて、しばらくして戦争の流れが変わった。今度は、その若い共産軍の指揮官が国連軍に捕らえられ、戦犯として死刑を宣告されたのである。ところが、息子を殺されたかのクリスチャンが、その人殺しの死刑取り消しを嘆願した。まだ若いので、自分のしたことがよくわかっていなかったのだと弁護した上、「私に引き渡して下さい。私が彼を訓練しましょう。」と言ったのである。

  国連軍はその要望を聞き入れ、父親は息子殺しを自分の家庭に引き取り、面倒をみたのだった。今、その若い共産主義者は、キリスト教の牧師をしている。

                   

  7.ゆるしとは何かと尋ねられて、ある少年が見事な答をした。 「それは、踏み付けられた花が発するかぐわしい香りのこと。」

                   

  8.1946年、チェスロー・ゴッドレウスキーは、ドイツの片田舎を略奪して回っていた若いギャングたちの一員だった。ある人里離れた農園で、彼らはウィルヘルム・ハメルマン一家を銃撃した。家族10人の内、9人が死亡し、ハメルマンだけが、4発の銃弾を浴びながらも生き残ったのだった。

  最近になって、ゴッドレウスキーは20年の刑期を終えたが、出所しても行く場所がなかったので、釈放されなかった。それを聞いたハメルマンは、ゴッドレウスキーを自分の保護監督下に置かせてもらいたいと当局に要請した。その要請文にはこう記されていた。 「キリストは私の罪のために死に、しかも私をゆるして下さった。私だって、この人をゆるさないでいるべきだろうか?」

 

 

  10.アルブレヒト・デューラー(ドイツ人芸術家、1471-1528)は幼少の頃から絵描きにあこがれ、やがて家を離れて偉大な先生の下で学び始めました。そこで、同じ志しを持つ友人と出会い、二人はルームメイトになりました。貧乏暮らしをしながら学業に励むのは並大抵の事ではありませんでした。

  アルビレヒトの友人は、君が学ぶ間、ぼくが働こうと申し出ました。アルブレヒトの絵が売れ始めたら、今度は自分が学ぶ番にすればいいと。アルブレヒトは、友人の強い説得に負けてそうすることに決めました。それから、友人が二人のために長時間働いて生活費を稼ぎ、アルブレヒトは熱心に芸術の勉強に打ち込みました。

  ついにアルブレヒトの木製の彫像が売れて、友も絵画に戻れる日が来ました。ところが、重労働ゆえに友の指は硬くねじれ、思うように動かなくなってしまっていたのです。アルブレヒトは、友の身の上に起きたことを思い、悲しみに沈みました。

  ある日、いつもより早く帰宅すると、友の声がしました。のぞいてみると、友は疲れ切ってねじれた手を合わせて祈っていました。

  「祈りのために合わされたその手を描くことで、全世界に僕の感謝を示そう。」友が、かつてのような巧みな芸術的タッチを二度と取り戻せないことを悟ったアルブレヒト・デューラーは、そんな思いがわきました。

  友への感謝にあふれるその素晴らしい絵は、世界的に有名になりました。ですから、私達は、その美しい絵と共に、感謝と兄弟愛についての美しい実話という恵みに預かっているのです。

                   

  11.1818年、南の島、フアヒネ島の王タマトエがクリスチャンになった。王は、島の土人たちのある陰謀を知った。王と他の改宗者たちを捕らえて、焼き殺してしまおうと企んでいたのだ。そこで王は奇襲攻撃をかけて、反逆者たちを一網打尽にした。それから、彼らのために宴を設けたのである。この予期しなかった親切な行為に野蛮人どもは驚いてしまった。そして彼らは、偶像を焼き捨てて、クリスチャンとなった。

                   

  12.逆境の時の励ましのほほ笑みは、閉じた花に降り注ぐ陽光のよう。苦しい人生に別れを告げるきっかけとなるかもしれない。

                  

  13.ニューイングランドのある小さな大学に、学生や卒業生達から慕われていた教授がいた。その教授は、教壇に立ち始めた頃、次のような賢明なる方法を採用したのだ。誰か自分の成績に落胆している学生を見ると、その学生に点数を上乗せし、クラス全体にもその良い成績の事を知らせるのであった。その教授いわく。 「必ずと言っていいほど、学生は元気を回復し、次回もそのような点数を取ろうと努力してくれる。まあ、きわどい手段で、定石通りではないものの、まるで魔法のようにうまくいくのです!」

                   

  14.スチュアート・ナイ・ハッチソンは、知り合いの、右手をなくした少年について、こう書いている。少年はショックで、誰とも会いたがらなくなってしまった。父親は言った、 「牧師さんを呼んで、お前に会いに来てもらおう。」 少年は、 「僕、会いたくない。」と答えたが、とにかく父親は牧師を連れて来た。少年が見上げると、その牧師も右腕がなかった。ただ、服の袖がだらっとぶらさがっていただけだった。牧師は少年に歩み寄ると、言った。 「私も片腕がないんだ。子供の頃、なくしてしまってね。だから、君の気持ちがよくわかるよ。」 少年は、「気持ちがよくわかる」牧師とすぐに仲良くなった。そしてキリストも、私達のために苦しまれたので、よく理解できるのだ。

                 

  15.愛をもって真実を語ってくれる友人ほど元気づけてくれるものはない。

                   

  16.キリスト教の中でも、愛を学ぶというのは最も難しい。しかし、だからこそ、私達は何よりも愛を学ぼうと努力すべきなのだ。

                   

  17.約2百年前、ある有名な百科事典の「原子」の説明はわずか4行で、「愛」の項目は5ページもあった。しかし、同じ百科事典の現代版は、 「原子」の項目が5ページで、「愛」は省略されていた。現代の価値観を悲しく物語っているではないか。

 

 

  18.私は、牧師時代にある礼拝のスタイルを作り、牧師をやめるまで、12年間それを続けました。そのスタイルというのは、午前の礼拝の時に子供たちが親と一緒に礼拝堂に入って来て、説教が始まる直前に、賛美歌を歌いながら、日曜学校の教室へと行進していくのです。

  そして、礼拝堂を出る子供たち一人一人のほほえみを受け止め、ほほえみ返してあげるのは、牧師である私からすれば、礼拝の中でも最高に幸せな時でした。

  私は一人のほほえみをも逃さないようにしていましたが、ある日、私はそれを怠ったようです。ちぢれっ毛の4歳になる女の子が、賛美歌の途中で走り出し、母親の腕の中に飛び込むと、激しく泣きじゃくりました。

  礼拝後に、その母親に尋ねました。母親は、とにかくその子をなだめて泣きやませ、どうして泣いたのか尋ねてみると、こんな哀れな答えが返ってきたと言うのです。 「私、神さまにほほ笑みかけたのに神さまは私にほほ笑んでくれなかったの!」 その子にとって、私は神さまの代理だったのです。その私がほほ笑み返してあげなかったので、その子の世界を暗くしてしまったのでした。

 

  19.

ほんの小さな同情の言葉

 それが疲れた果てた人を元気づける

ほんの小さな親切

 それがつらい一日に光を照らす

たった一言の優しい言葉

 それが希望や力を与える

心のこもった微笑み一つでもいい

 それが沈んだ心を軽くするのだ

突然の陽光が

 暗い部屋を照らすように

明るい心は

 深い悲しみさえもぬぐい去る  

  

 

  20.ビクトル・ユーゴーの名作、「レ・ミゼラブル (ああ、無情)」の主人公、ジャン・バルジャンは、ひもじい思いをしている妹の子供たちのためにパンを一斤盗んだかどで、厳罰に処せられました。19年に及ぶ囚人船での刑期を終えた後、釈放されましたが、前科者であったために職が見つかりませんでした。しかし、ある年老いた善良な司祭の家にやって来ると、司祭は親切にも夕食と一晩の床を与えてくれました。

  ところが、ジャンは誘惑に負けてしまい、司祭の銀食器を盗んで、そっと外に忍び出てしまいます。しかし、まもなく警察に捕まって司祭の家に連れ戻されるのですが、その親切な司祭は、 「ええ、その銀の食器はこの方に差し上げたのですよ。ジャン、燭台を持っていくのを忘れているよ。」と言ったのです。

  この深い思いやりにジャンは驚き、完全に心を改めたのでした。小さな親切が、罪人の心を救い主に開かせたのでした。

                   

  21.ああ神様、私が間違っている時には、どうか簡単に変われる者として下さい。そして、私が正しい時には、他の人が近寄りがたい者とならないよう助けて下さい。

                   

  22.フランス生まれのクエーカー教徒で、1855年にアメリカで亡くなったステファン・グレレを知る人はほとんどいない。しかし、グレレが祈った短い祈りは今も語り継がれている。その祈りは多くの人に親しまれ、励みとなってきた。

  「この人生は一度しかない。だから、私にできる親切な事や良い事があるのなら、後にではなく、今やらせて下さい。二度と通らぬ人生の旅路だから。」

                   

   25.

   親切な心は庭

     親切な思いは根

     親切な言葉は花

     親切な行いは実

   あなたの庭をよく世話しなさい

     雑草が生えないように気をつけ

     そこを陽光と親切な言葉、

     親切な行いで満たしなさい

         --ロングフェロー

 

 

  26.オランダのロッテルダムに住む78歳のアリーダ・フッセンは、喫煙生活50年にもなる。その50年間、体に悪いと思い、何度か禁煙しようとしたが、やめられなかった。だが、最近は違う。たばこも葉巻もパイプもやめている。その秘訣は何だろうか? 実は、79歳のレオ・ジャンセンが、昨年アリーダに求婚したのだが、アリーダがたばこをやめるまでは式は挙げないと言ったのだ。アリーダはこう言う。「意志の力だけでは、絶対にやめられなかったの。でも、愛によってやめられたんです。」

                   

  27.ニュージャージー州のある少年は、毎年、自分の誕生日に配達される特別な手紙を心待ちにしていた。手紙は、死んだ父親からだった。死を目前にした父親は、これから大人になっていく息子に、何とか、父としての助言や励ましを与えたいと願った。そこで、病床で沢山の手紙をしたため、それらが一通ずつ、息子の誕生日に届けられるように手配したのだった。最後の一通は、息子の結婚式の日に手渡される事になっている。                   

  29.ビクトリア女王時代の首相パーマストン卿がウェストミンスター橋を渡っていると、前を歩いていた少女が、抱えていたミルクの入った陶器を落としてしまった。陶器は粉々に砕け、少女はわっと泣き出した。あいにく、お金を持ち合わせていなかったパーマストンは、少女の涙をぬぐいながら、こう慰めた。 「もし明日、今日と同じ時間にこの場所にもどって来るなら、陶器代もミルク代も私が払ってあげよう。」 翌日、閣僚会議の真っ最中に、パーマストンは少女との約束を思い出した。そこで、困惑する大臣たちを後に残して、橋まで走って行った。そして、そこで待つ少女の手の中に約束したお金を握らせると、また急いで会議に戻ったそうである。

            

    30.

あなたと出会ったことで

 誰かが心にぬくもりを感じただろうか?

あなたが話しかけたことを

 誰かが覚えているだろうか?

 

今日という一日がまた過ぎようとしている

 一日の労苦も終わった今

誰か、あなたに

 優しい言葉をかけてくれる人がいるだろうか?

 

一日一日が素早く過ぎ去っていく

 今晩、床について

今日出会った多くの人の内

 ひとりでも助けたと、あなたは言えるだろうか?

 

あなたの行いや言葉で

 ひとりでも喜びを感じただろうか?

望みを失っていた人が

 ひとりでも勇気づけられただろうか?

 

一日は無駄に過ぎ去ってしまったのか?

 この一日をどのように過ごしたのか?

あなたが後に残したのは、優しさの足跡だろうか?

 それとも、不満の傷跡だろうか?

      

  32.地震によってよりも、シロアリによって、多くの建物が破壊されている。また、火山の爆発によってよりも、マッチや煙草によって、多くの火災が発生している。また、嫌悪や敵がい心むき出しの行為によってよりも、心ない一言や行いによって、多くの心痛や悲しみが引き起こされている。

                   

  33.ある晩、伝道集会で、シャンキーのオルガンにあわせて賛美歌を導いていたドワイト・L・ムーディーは、突然、シャンキーを見てこう言った。「失礼、友が集会に来た。今日、私は町で彼の機嫌をそこねてしまった。彼にゆるしを求めたい。」 ムーディーは説教壇から下りて行くと、その人も座席から立ち上がり、通路の真ん中あたりで向かい合った。彼は言った。「ムーディーさん、あなたを心からゆるしましょう。」

  ムーディーは説教壇に戻った。それを見た人はこう証言している。 「あんな集会は一度だって見たことはありません。それは素晴らしいものでした。」 神があれほどもムーディーを用いられたのは、ムーディーが、神に対して心にやましいところがないようにと努めたからである。

 

  34.1775年、独立戦争の最中に、マサチューセッツ州のケンブリッジで、ジョージ・ワシントン将軍は、自分の軍隊が完全に弾薬を切らしていることを知った。そこで、弾薬を補給するために、グローバー大佐をマーブルヘッドへ派遣した。その晩、グローバー大佐が戻ってくると、ワシントンは司令部の前を落ち着きなく行ったり来たりしていた。グローバーが敬礼しても、ワシントンは敬礼を返すこともせず、こう詰問した。

  「弾薬は手に入れたか?」

  「いいえ、駄目でした。」 大佐は答えた。

  ワシントンは厳しい言葉を大佐に浴びせた。

  「弾薬も持たずに、どうして戻ってきたのか?」

  「閣下、マーブルヘッドには弾薬が全くないのです。」

  ワシントンは大いにくやしがって、また数分、行ったり来たりしていたが、それから大佐の方を向いて言った。

  「グローバー大佐、さあ、手を取って、この私をゆるしてもらえないか。われわれの危機に心奪われて、私は、君に対しても、また自分に対しても、当然の尊敬を払うのを忘れてしまっていた。」

                    

    35.

ある日、野原で

私は声を限りに叫んだ

声は次第にかすれていき

ついには、消え去ってしまった。

永遠になくなった私の言葉。

だが、近くの丘はその叫びを聞き、

こだまを返してきたのだった。

 

友に言ってしまった

怒りのこもった言葉

まるでナイフのように深く突き刺さり

いやしがたい傷口を作ってしまった。

そんなにも軽率に語られた言葉

二人とも忘れられたらと思うような言葉

でも、そのこだまはまだ響き続け

その思い出は今でもよみがえる。

 

後のことを考えもせずに語られた

不親切な言葉によって

いったい幾つの心が砕かれ、

いったい幾人の友が失われたことか!

しかし、親切な言葉や行いは

百倍の報酬を受ける。

人々の心の中に何回もこだまして

語り尽くせぬ喜びを運んで来るから。

           −−C・A・ラフバロー

                   

  37.イギリスで、ある家が火事になりました。皆が外に逃げた後で、家の中に取り残された赤ん坊を母親が救い出したのでした。その赤ん坊はすくすく成長しました。母親は、家事をする時も、いつも手袋をしていました。一番古い召し使いでさえ、手袋を外したところを見たことがありませんでした。けれども、ある日、娘が不意に母親の部屋に入ると、座っている母親の手に手袋はありませんでした。そして、その手は醜い傷におおわれ、変形していたのです。

  娘が歩み寄ると、母親はとっさにその手を隠そうとしましたが、思い直してこう言いました。 「そろそろおまえにも話した方がいいわね。昔、家が火事で燃えてしまったことがあったの。おまえはゆりかごの中だったわ。私は必死に炎の中をくぐり抜けて、おまえを連れ出しに行ったの。そして、おまえを毛布にくるんで窓から落とすと、誰かがおまえを受け取ってくれたのよ。もう、階段は降りられる状態じゃなかったから、私は窓からはい出たの。その時に手をやけどして、すべり落ちてしまい、無我夢中で格子をつかむと、落ちた時に手が裂けてしまって。お医者様は一生懸命、手を尽くしてくれたんだけれど、でも、この手はおまえのために傷をおったのよ。」

  その時、若い女性に成長していた娘は、母親に駆け寄ると、両手をかわるがわる握りしめた。そして、その手の中に顔を埋めると、何回もこう繰り返したのだった、 「お母さん、こんなに、こんなに美しい手は、他にないわ。」

 

  38.ビリー・ローズは、ソル・ヒューロックから、有名な黒人のコントラルト歌手、マリソン・アンデルセンのことを聞いたことがある。ヒューロックはこう言ったそうだ。 「何年か前のこと、あるレポーターがアンデルセンにインタビューして、生涯で最高の瞬間をあげて下さいと尋ねた。彼女には、選ぶのに苦労するくらい素晴らしい思い出の瞬間があったに違いない。ホワイト・ハウスでルーズベルト大統領のためにプライベートなコンサートをしたこともあるし、王様や英国の女王のためにコンサートをしたこともある。また、生まれ故郷のフィラデルフィアに最も貢献した者に与えられる、賞金1万ドルつきのボックス賞を受賞した夜もあった。でも、彼女はそのレポーターにこう言った。『私の生涯で最高の瞬間は、私が家に帰って、母に、もうこれ以上洗濯を引き受けなくてもいいわよ、と告げた時です。』」

                   

  39.日曜学校通いの少年ジョセフは、貧しい見習い工でした。そして毎朝、近所の教会が6時の鐘を打ち鳴らす時、必ずある店の前を通り過ぎるのでした。その店の年老いた主人も、6時きっかりに雨戸を開けるのです。そんなことが数年続きました。ジョセフが店の前を通る時には、決まって互いに会釈をし、挨拶をかわします。 「おはようございます。」 でも、それ以上は一言も言葉を交わしませんでした。ところが、驚いたことに、その老人が突然亡くなった時、ジョセフに店の所有権を全て譲渡していたのでした!

              

  40.

地球は丸いと言う。だが、

 四角いと思うことがよくある

あちこちで角にぶつかって

 小さな傷がたえないから

だが、世界中をめぐりめぐって

 人生の真理を発見した

それは、一番ひどく傷つけてしまうのは

 自分が一番愛している人だということ

ろくに知りもしない人にはお世辞を言い

 つかの間の客をもてなす

だが、一番愛している人は

 ついつい思いやりに欠けた扱いをしてしまう     

  41.アインシュタインの家に、近所の10歳になる少女がしょっちゅう訪れていました。母親はそれを知って驚きましたが、娘はこう言いました 「私、算数の宿題ができなくて困っていたの。で、112番地に偉い数学者がいて、とてもいい人だってみんなが話してたから、その人の所に行って、助けて下さいってお願いしたの。喜んで引き受けてくれたわ。そして全部とっても詳しく説明してくれたの。もし難しすぎる問題があるなら、いつでもどうぞって言ってくれたわ。」

  子供の大胆さにあきれた母親は、アインシュタインの家におわびに出かけました。ところが、アインシュタインは、 「あやまることはありません。私は、娘さんとの会話から、娘さんが学んでいるよりもずっと多くのことを学んでいるのですから。」

                   

  42.

お母さんにほほえもうと思ったら

 今そうしなさい

優しい言葉を思いついたら

 今語りなさい

天使に迎えられ、天国の門をくぐる時には

 もうほほえみも言葉もいらない

だから今、ほほえみかけなさい

 待っていると、チャンスはなくなるから

お母さんのために花を育てたなら

 今あげなさい

そっと胸元において

 ひたいにキスをあげなさい

この世の人生を終えた時には

 地上の花など何とも思わなくなる

天国には

 花が咲き乱れているのだから

 

  43.ずっと前になるが、イリノイ州の南部からふだん着の農夫がムーディー聖書協会にやって来て、施設を見学させてほしいと言った。ある生徒が、建物の中をあちこち見せて回ることになった。その生徒も他の人達も、その農夫とは初対面だったが、皆、とても親切に応対した。二、三日後、協会にその農夫から感謝状が届いた。丁重なもてなしに対する感謝と、生徒たちや教授たちの立派なクリスチャン精神に対する称賛の言葉がつづられ、しかも 2千ドルの小切手が同封されていたのだった。

                   

 

  44.犠牲的な愛と言えば、チャールズ・ディケンズの「二都物語」が有名です。その物語に登場するシドニー・カートンは、ギロチン刑を宣告された若いフランス人チャールズ・ダーニーの身代わりになって死ぬのです。放蕩生活を送っていたイギリス人のシドニー・カートンは、せっかくの才能を無駄にし、自らの将来をだいなしにしてしまっていました。その彼が、自分の友人の危機を知った時、友人を救う為に自分自身の命を捧げることを決意したのです。それも、その友人に対する愛からではなく、その友人の妻と子供のためでした。

  身代わりになって死ぬために、カートンは、処刑の前夜に牢獄に入る許可をもらい、死刑を宣告された友人と衣服を交換しました。翌日になるとカートンが処刑場に引き出され、チャールズ・ダーニーとして処刑されたのでした。牢獄に行く前に、彼は中庭に行き、その友人の妻のいる部屋の明かりを見上げながら、少しの間、独りきりでそこにいました。彼は愛の光に導かれていたのです。でもその愛の光は、牢獄へ、そしてギロチンへと彼を導いたのでした。

  後ろ手に縛られ、処刑台へと上りながら、この世界を最後に一目見る彼の姿に、救い主イエスが言われたこの言葉を思わずにはいられません。 「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」  (ヨハネ15章13節)

                   

   45.

       もう少し優しくなって

        まわりにいる人達の過ちに

        もう少し盲目になりますように

        そしてもう少し賛美しますように

 

        たとえ疲れていても

        もう少し快活になって

        自分が助けようとしている人達に

        もう少しよく仕えられますように

 

        誘惑に心動かされた時も

        もう少し勇敢になり

        なるべき者になるために

        もう少し懸命に取り組めますように

 

        自分よりも弱い兄弟に対して

        もう少し柔和になり

        自分のことは考えないで

        隣りにいる人のことをもっと考えますように

 

        もう少し優しくなって

        人生を豊かにし

        どんな時も

        自分の務めに忠実でありますように

 

        不平を言わず

        卑しい任務だとあなどりもせず

        死が私を招く時にも

        穏やかにそれに応じられますように

                   

  46.年老いたクリスチャンが引っ越して来た。その近所には、無愛想で喧嘩好きなことで有名な人が住んでいた。この人の性格を聞いたクリスチャンの老人は言った。 「もし私に迷惑をかけようものなら、その人を殺してやる。」 その言葉はこの卑劣な隣人の耳に入った。そこで新しく引っ越して来た人をあらゆる手を使って悩ませようとした。しかし、それはすべて親切な行いになって返ってきた。そしてとうとう、この卑劣漢も降参したのだった。 「奴はわしを殺すと言っていたそうだが、こんなやり方でそれをやるとは思ってもいなかった。」

                   

  47.昔、インドの専制君主ティッポー・サイブは英国と戦争をした。ある時、英国の将校が数名捕虜にされ、その中にベイルドという名の将校がいた。ある日、インド軍の将校が足かせを持ってやって来た。負傷者も含めて、全員にそれをはめるためだった。ベイルドは重傷を負っていたため、苦痛にあえぎ、体力も衰弱していた。

  白髪の将校がインド軍の将校に尋ねた、 「まさか、その重症の若者にはめるつもりじゃないだろうね。」  「足かせは捕虜の数と同じだけある。一つ残らず使用されなければならない。」  「では、私の足に二つはめなさい。」 ベイルドは生き残って、その町を攻め取った。しかし、その高潔な友は獄中で亡くなった。 (ヨハネ15章13節)

                   

  49.ニュー・イングランドの春のこと。ジョン・アルデンという、活気にあふれ、気品ある若者が、プリシラという名の美しい乙女の前に、いやに改まって立っていた。アルデンは、メイフラワー号に乗って来た人々の中でも一番若かった。アルデン自身、この乙女にひそかに恋していたものの、プリマスのマイルス・スタンディッシュという中年の艦長の代理として求婚の言葉を伝えていた。

  乙女のほうも、その上官の求婚を伝えているこのハンサムな若者の方がずっと好きだった。乙女は首をちょっとかしげると、唇に笑みを浮かべながら、とうとうこう言った。 「ジョン、あなたは何故、自分の思っている事をおっしゃらないの?」

  かわいそうな若者である。無論、自分の気持ちを伝えたいのは山々だが、友であり上官である人に忠誠を尽くさなければならなかった。自分が艦長に取って代わるなどできなかった。

  そして何ケ月かが経過した。ジョン・アルデンにとっては、苦悶とかなわぬ願いで胸は張り裂けんばかりだった。毎日プリシラと顔を合わせてはいたものの、何とか忠誠をつらぬいた。だが、ある日のこと、マイルス・スタンディッシュがインディアンとの戦いで死んだという知らせが届いた。アルデンは義務から解かれた思いがして、とうとうプリシラに求婚し、彼女の承諾を得たのである。

  ところが何と、二人の結婚式に、マイルス・スタンディッシュが姿を現したではないか。戦死の知らせは誤報だったのである。ところがマイルスは見事な寛大さをもってその事態を受け止め、二人を祝福すると、にっこりとほほ笑んでこう言った。 「もし何かを成し遂げたかったら、自分でやらなければな。」

 

                   

  50.ポルトガル領東アフリカの宣教師イラ・ジレットがこんな話をしている。ある原住民たちは、長旅をして宣教団の診療所まで治療を受けに来る。しかも途中にある国立病院もわざわざ通り過ぎて。国立病院でも同じ薬が手に入るのに、どうして遠い診療所までやって来たのかと尋ねられて、その原住民たちはこう答えたそうだ。 「薬は同じかもしれない。でもそれを扱う手が違う!」

 

                   

  51.下って行って、人々を持ち上げてあげることほど、ハート (訳注:心臓と心という両方の意味がある)に良い運動はない。

 

                  

  52.

毎日の忙しさにまぎれて

一度も口にしたことがなかった

ささいなことであれ、いろいろな形で

あなたの友情がどんなに助けにっているかを

 

でも、あなたは私の人生で

大きな役割を果たしてくれているから

この言葉を伝えたい

「良い友でいてくれてありがとう。」

 

 

  53.フィージー島での休暇に、私は政府から派遣された12人のフィージー人と山を登っていた。足下が滑りやすく、私は、足を踏み外してしりもちをつき、そのまま斜面を滑り落ちてしまった。

  これを見た同行のフィージ人は、一人として笑わなかった。同情の言葉も発せられはしなかった。ほんの一瞬びっくりした後で、皆、良い礼儀に従った。その12人の頑丈な男たちも、一斉に尻餅をつくと、斜面をお尻で滑り落ちて来たのだ。礼儀をわきまえた人なら、最低限、そのぐらいはするものだ。

 

 

   54.

  「まだ落ちていない小さな雨のしずく、

        そのしずくは、

  自分は小さすぎると思うかもしれない

  でも、どこかで、渇いた一本の花が

        そのしずくを待っている

  まだ語られていないちょっとした一言

  口に出すほどのことには

  思えないかもしれない

  でも、どこかで、一つの心が

    その一言を聞くように願って

        祈っているかもしれない」

            −−ヘレン・T・アリソン

                   

  55.ある日、特別にうまくなされたレイアウトの仕事が私の注意を引いた。そこで、その仕事をした人に賞賛の言葉を送ったのだが、その人はそれを聞くと涙を流さんばかりであった! 長年、自分の好きなその仕事に打ち込んできたのだが、一度もほめ言葉をかけられたことがなかったのである。

 

 

  56.他の人の心痛を和らげてあげると、自分の心痛は忘れられる。

                   

  57.ある子供の祈り: 「神様、どうかすべての悪い人を正しい人にして下さい。そして、すべての正しい人を優しい人にして下さい。」

            

  58.

誰かを励ます優しい言葉が

  心に浮かんだなら

今日、それを口にしなさい

  そのままにして忘れてしまわないように

 

言わずじまいになった優しい言葉

  送らずじまいになった手紙

伝えようと思いながら忘れてしまった事

  しないままになった親切な行い

 

そのために誰かが心を痛めている

  誰かがそれを待っている

だから忘れてしまわない内に

  それを誰かに与えなさい

 

 

      

  60.英国ダーリントンで、刑務所から釈放されたばかりの男が、路上で市長のジョン・モーレルとばったり出会った。男は、横領罪で3年という長い月日を刑務所で過ごした後で、故郷の町の人々から白い目で見られるのではないかと気が気でならなかった。

  市長は快活な調子で挨拶してきた。 「こんにちは! 元気ですか?」 男はそわそわしていたので、会話はそこで止まった。

  J・H・ジョエットが語るところによれば、何年も後に市長のモーレル氏は、この刑務所帰りの男ともう一度、別の町でばったり出会ったそうである。すると男はこう言った。「刑務所から出たばかりの私にあなたがして下さったことに、お礼を言いたいと思っていました。」

  「私が何をしたと言うのかね?」 市長は尋ねた。

  「あなたは私に親切に話しかけてくれました。それが私の人生を変えたのです。」  感謝の気持ちで一杯の男は、そう答えたと言う。

                   

 

  61.愛=生きがい

                   

  62.敵を許し、愛する時ほど、神の愛という大海に近く触れている時はない。

              −−コリー・テン・ブーン

                   

  63.愛は、与えるのを待つこともある。しかし欲は、もらうのを待っていることができない。−−ジョシュ・マクドエル

                   

  64.愛は、 「よこせ」とは言わない。 「与えさせて」と言う。

                   

  65.誰よりも先に人をほめ、誰よりも先に人からほめられる者になれ。

                   

  68.世界でも指折りの偉大な音楽家と言えば、それはルードウィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。ドイツの音楽家の家庭に生まれたベートーベンは、毎日、何時間も音楽の練習に費やし、孤独な子供時代を送ることを強いられました。けれども、その天才ぶりはすぐに芽を出しました。11歳で、ベートーベンは作曲とオーケストラの指揮をするようになり、十代の終わりには、本格的な勉強のためにウィーンへ行ったのです。ベートーベンはそこで、財産を築くとはいかないまでも、大いに名を上げました。そして、彼の魅惑的な作品の多くはそこで作曲されたのです。

  ある夕暮れのこと、ベートーベンが靴職人の家の前を通ると、誰かが自分の作曲した曲を練習しているのが聞こえました。立ち止まって、それに耳を傾けていると、「誰かちゃんとした音楽家がこの曲をきちんと演奏してくれないかしら」と言う女の人の声が聞こえたのです。ベートーベンがその家に入ると、その女の人が盲人だということを知りました。そして、その曲を一時間以上も弾いてあげたのでした。とうに日は暮れて、たった一本のろうそくもほとんど燃え尽きてしまいました。でも、部屋の中には月光がきらめいていました。そして、その情景と、自分の音楽をこよなく愛してくれたその盲人の女性から受け取ったインスピレーションによって、ベートーベンは 「月光ソナタ」を作曲したのです。

                   

  69.モンタナのある羊飼いが、シカゴのラジオ局に奇妙なリクエストを出しました。この羊飼いは、飼い犬と、 4,000頭の羊、そしてトランジスター・ラジオと古いバイオリンだけをかたわらに、寂しい毎日を送っていたのですが、シンフォニー・オーケストラを聴くのが大好きで、自分の知っている部分をラジオの演奏と一緒に弾けたらと、願っていました。でも、残念なことに、彼のバイオリンは音が合っていませんでした。そこで、このようなリクエストを出したのです、 「次回の番組で曲を流す前に、私のためにオーケストラに頼んで 『A』のコードを鳴らしていただけませんか?」 そんなわけで、次回のシカゴ交響楽団の演奏が放送される前には、幾万もの聴取者がこの言葉を聞きました。 「今から、モンタナのある羊飼いのために、オーケストラが 『A』のコードを鳴らします。」

 

                   

  70.ある時、私は、足の悪い少年が母親に付き添われて歩いているのを見かけました。少年の虚弱な足は、ふともものところまで固定器でおおわれ、少年は、びっこを引き引き歩いていました。母親は、少年のそばに立ち、少年が一歩進むごとに激励を与えていました。

  「そうよ! そうだわ! とても上手に歩いてるじゃない!」 母親がこう励ますと、少年はもっと上手に歩こうとますます一生懸命になるのです。それは、人に見せる為ではなく、ただ母親に喜んでもらおうという気持ちからでした。すると少年が叫びます。 「ママ、見てて。僕、走ってみるから。」

  「いいわよ。さあ、ママに見せて。」 母親は、心からの励ましを込めて言いました。中には、 「そんなことよした方がいいわ。首の骨を折ってしまうかもしれないわよ!」と言う母親もいるかもしれません。

  私も、その母親と同じくらいの熱心さをもって、少年を見守っていました。二歩、三歩、うまく走り出しました。でも、一方の足が固定器に引っかかってしまい、歩道の縁めがけて頭から転倒してしまうところでした。でも、すんでのところで母親が少年を捕らえ、真っすぐに立たせてあげたのでした。

  母親は少年の髪を撫でて、その青ざめた頬にキスすると、 「上手だったわ!素晴らしいわ! 今度はもっと上手にやれるわね!」と言ったのです。

  天の父も、それと同じです。たとえつまずいても、神に喜んでもらおうとする私達のたどたどしい努力を温かく見守ってくれているのです。少年の努力は、母親の目には完璧なものでした。少年の造られた様を、その弱さを知り尽くしていたからです。そして私達の中の最も弱い者も、それと似た方法で神を十分に喜ばせることができるのです。