輝くひととき 9

 

――作者不明

 

  むかし、東方の王国の真ん中に美しい園がありました。日も傾き、涼しい風の吹く頃になると、園の主人が日課の散歩に来ました。そこに宿るものの内で最も美しく、他の何よりも愛されていたのは、気品に満ちた竹でした。

  竹は年を追う毎にますます美しさと優雅さとを増していきました。また、自分が愛され、主人の喜びとなっているのを意識していましたが、それでも謙虚さと穏やかさを失うことはありませんでした。また、園の中に風が吹いて皆をかきたてると、竹はしばしばその気高さを脱ぎ捨て、陽気に身をしならせて踊り、我を忘れて、体全体でその喜びを表現するのです。竹は園全体の踊りを導き、それがまた主人の至上の喜びでもありました。

  ある日、主人がやって来て、竹をじっと観察しました。竹は、立派にそびえる頭を深々と下げ、何事だろうと期待のこもったまなざしで、暖かく挨拶しました。すると、主人は言いました。「竹よ、竹よ、私はお前を使いたい。」

  竹は答えました。「ご主人様、準備はできております。何なりとお使い下さい。」

   主人は重々しい声でこう言いました。「竹よ、私はお前を切り倒してしまわなければならない。」 あまりの戦慄に竹の体が震えました。

  「き、切り倒す…こ、この私を? ご主人様、あなたが園の何よりも一番美しく育てて下さった、この私をですか? 切り倒すだなんて、それだけは、それだけは勘弁して下さい。ご主人様、あなたの喜びのために、私を使って下さい。でも切り倒すのだけは!」

  主人の声はますます重々しくなりました。「愛しい竹よ、切り倒さなければ、お前を使うことはできないのだ。」

  園はさっと静まり返りました。風も息をひそめています。竹はゆっくりとその威厳にあふれた堂々たる頭を下げ、消え入りそうな声で答えました。「ご主人様、切り倒さなければ私を使えないのであれば、どうぞ、御心のままになさって下さい。切り倒して下さい。」

  「竹よ、愛しい竹よ、お前から葉も枝も切り落とさねばならない。」

  「ご主人様、ご主人様、どうかそれだけは勘弁して下さい! 私を切って、地面に倒し、しかも枝や葉を取り去ってしまわれるのですか?」

  「竹よ、そうしなければ、お前を使うことはできないのだ。」 太陽は姿を隠してしまいました。じっと耳を傾けていた蝶も、恐ろしくなって飛び去っていきました。

  竹は、自分の身に及ぼうとしていることを考え、震えていましたが、とうとう小声でささやきました。「ご主人様、切り落として下さい。」

  「竹よ、竹よ、私はお前を二つに割り、芯(心)を取り出さねばならない。そうしないなら、お前を使えないのだから。」

  「ご主人様、ご主人様、それならば、仕方ありません。」

  そこで園の主人は竹を切り倒し、枝を切り落とし、葉をすべて取り去りました。そして竹を二つに割ると、芯(心)を取り除いてしまったのでした。そして優しく竹をかつぎ上げると、澄んだ輝く水のわき出る泉まで運んで行きました。主人の水田は、水の巡りが悪いために渇ききっていたのです。

  主人は一方の端を泉の中に、もう片方の端を水路に入れて、愛しい竹を優しく横たえました。泉は高らかに歓迎の歌を歌いました。割られた竹の体を通って、光り輝く水が、待ち望む渇いた地へと踊るように流れ下っていったのです。

  田植えが始まりました。やがて、苗は力強く成長し、とうとう収穫の時が来ました。その日、かつてあれほども栄光に満ち、堂々たる美を誇っていた竹が、その身を砕かれ、今ではその謙虚さによって、なおいっそう栄光を増し加えていました。美しくそびえ立っていた時は、生命に満ちあふれていました。けれども、砕きの過程を経て、竹は今、主人の世界に豊かな生命をもたらす水路となったのです!

  「それから(イエスは)群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。』」(マルコ8章34-36節)