輝くひととき 81−82 PDFファイル75-82

 

いやしの祈り

 

愛と祈りがあるなら、いつも希望がある。

 

ジェームズ・R・イェーツ、リーダーズ・ダイジェスト、1996年3月

 

  祈りは病気をいやすでしょうか? 科学者たちも、祈りを信じる人々にとっては周知のこの事実を発見しつつあります。私がテキサス州パークランド記念病院で、医学実習生だった時のことです。私の最初の患者は、両肺ガンの末期患者でした。どんな治療法があるか、またどれもあまり効果がないであろうことを、私は説明しました。当然ながら、彼はどの治療も受けないことを選びましだ。

  それでも、私が病室に立ち寄ると、彼はいつも教会からの面会人と、その人たちの歌声や祈りに囲まれていました。

  「いいことだ」と、私は思った。「あの人たちが彼の葬式で歌い、祈るのも近いから。」

  1年後、別の病院に勤務していた私に、パークランド病院のかつての同僚が、あの一年前の患者に会いたくないか、と電話をかけてきました。「会うだって?」 その患者がまだ生きているなんて、信じられませんでした。私はその人の肺のレントゲン写真を見て、がく然としました。すっかりきれいになっているのです。ガンの兆候は消えていました。

  「見事な治療だ」と、放射線技師が私の肩越しにレントゲン写真を見ながら言いました。

  「治療だって?」 私は思いました。治療法なんてなかったはずだ。祈りを療法として考えない限りは…。

  私は二人の教授にこのことを話しました。二人とも、この人のいやしが奇跡であることを認めたがりませんでした。「自然の成り行きだよ」と一人は言い、もう一人は肩をすくめて、「そういうこともあるもんだよ」と言ったのでした。

  子供のとき以来、私は神への信仰を捨てていました。そして、現代医学の力を信じていたのです。祈りなんて、ただの気休めだと思っていました。というわけで、私はこの出来事を記憶の彼方に押しやりました。

  何年か経ち、私は都会にある大病院の主任医師となりました。担当する患者の多くがいやされるように祈っていることは知っていましたが、私自身はほとんど信じていませんでした。しかし、80年代後半になって、私はいろいろな研究成果に出くわしました。その多くが厳密な実験条件の下で行われ、祈りが様々な病状に対して大きな変化をもたらすことを証明していたのでした。

  中でも1988年に出版された、ランドルフ・バード博士による研究論文は非常に説得力がありました。サンフランシスコ総合病院の冠状動脈疾患集中治療病棟にいる393人の患者を、コンピューターが、祈ってもらうグループと、祈ってもらわないグループに分けました。どの患者がどちらのグループに入ったかは、誰にも知らされませんでした。祈る人たちは患者のファーストネームと、病状についての簡単な説明を聞かされただけです。そして、彼らは患者が退院するまで毎日、祈るように指示されました。けれども、どのように祈るか、また何を祈るかは指示されませんでした。

  研究が終了した10ヶ月後、祈ってもらった患者はこのような重大な益にあずかったのでした。

  *「祈ってもらわなかった」患者に比べて、抗生物質の投与が5分の1ですんだ。

  *うっ血性心不全になる確率は、「祈ってもらわなかった」患者よりも60%低い。

  *心停止の確率が低い。

  研究されていた治療法が「祈り」ではなく、新薬か新しい外科療法だったなら、医学上の大発見として大々的に発表されていたことでしょう。信仰によるいやしに疑問を投げかける本を書いた、確固とした懐疑主義者、ウィリアム・ノーレン博士でさえ、「これが正当な研究であるなら、われわれ医師は処方箋に『一日三回祈ること』と書かねばならないだろう。効き目があるのなら、効くのだから」と認めたのでした。

 

  医者でも学者でも、一種の盲点を持つことがあります。祈りの力もその一つのようです。

  以来、私は医者をやめ、祈りについてや、私たちの健康に対する祈りの影響について調べ、本を書いています。祈りが高血圧、外傷、頭痛、不安に効果があることを示す研究成果があります。次は、私が発見した成果の一部です。

 

どんな祈り方でも

  私が見てきた研究結果によれば、具体的な結果を求めて祈った場合だけでなく、非常に大まかな祈りをした場合でも効果がありました。中には、「御心がなりますように」という簡素な祈りのほうが、具体的な結果を思い描いて祈った場合よりも効果が大きかったとう研究結果もあります。数多くの実験において、神聖さを十二分に認識していること、病んでいる人への同情、思いやり、憐れみといった、祈りに満ちた態度が、いやしへの道を開くようです。

 

愛は祈りの力を増す

  愛の力は伝説的であり、神話にも、常識にも、日常生活にも織り込まれています。愛は肉体に影響します。恋人の告白に顔を赤らめたり、動悸が激しくなったりするように。そして、優しく、愛のこもった世話は、いやしにおける重要な要素の一つとして、昔から認められてきました。それどころか、「アメリカン・ジャーナル・オブ・メディスン」が実施した、心臓病患者1万人を対象とした調査では、妻が協力的で愛情深いと思っている患者は、そうでない患者よりも狭心症が50%近く少ないそうです。

  信仰と祈りによるいやしを行う人はほとんど誰もが、この言葉に同意するでしょう。「たとえ近くにいなくとも、いやしの手を差し伸べることができるのは、愛の力による。」 気づかいや思いやりというのはとても強い感情なので、祈る人はその相手と「一つになる」という表現がしばしばなされます。いやしの人であるアグネス・サンフォードの言葉を借りれば、「愛だけがいやしの炎をともすことができる」のです。

 

祈りは体に良い

  ハーバード・メディカル・スクールのハーバート・ベンソン医学博士は、祈りと瞑想が健康に貢献することを研究した、最初の医学者の一人です。博士は運動と祈りの関連性を発見しました。博士はランナーに対して、走りながら瞑想するよう教え、それによってランナーの体がより効率的に動くことを発見したのです。

  博士の研究は、祈りは体にとって良いだけでなく、祈り方は多種多様であることを示しています。ある特定の祈り方を指示すると、祈る人は祈りのプロセスからはずれてしまい、祈ることをやめる結果にもなり得るのです。

 

祈り方に制限はない

  祈る人のほとんどは、祈りを、特定の目的のために利用することができると信じています。けれども、調査によれば、特に目的を定めない祈り方もうまくいくようです。「御心がなりますように」や「なるがままに」や「最善が行われますように」のような祈りは、具体的な成果を求めて祈りを「利用」するわけではないし、複雑なメッセージを送っているわけでもありません。

 

祈りは、あなたが一人ではないことを示す

  私の担当の患者が死を目前にしていました。その死の前日、私はその人の妻子と共にベッドの横に座っていました。彼は、自分にわずかな時間しか残されていないことを知っていました。そして、言葉を慎重に選びながら、しゃがれた声でささやいたのです。信心深い人ではありませんでしたが、最近、祈り始めたことを私たちに話してくれました。

  「何を求めて祈るのですか?」と、私は尋ねました。

  「何も求めてはいませんよ。」彼は、静かに答えました。 「ただ、祈ると、自分が一人ではないとわかるんです。」

 

人生はデリケート!

取り扱いには祈りを込めて!

 

祈りは力強い! 祈る時、物事は起こり、物事は変わる。神は祈りに答えられる。

−デービッド・ブラント・バーグ