輝くひととき 73 PDFファイル71-74

 

道を渡った水源

 

ワイトマン・ウェーゼ著−−クリスチャン・リーダーより転載

 

  私の祖父ジェームズ・ボールドウィンは、ジョージア州の北部、テネシー州との州境近くに暮らしていました。親戚たちは、祖父を「アンクル・ボールドリー」と呼んでいました。

  昔、祖父の家族は、家の正面近くにわき出る水源から水を汲(く)んでいました。当時、水は常に天からの贈り物と考えられていたのです。

水源を見つけた人は、近くの木に釘を打って、柄の長い「ひしゃく」をかけたものです。誰でもそこに来た人は、それを使って乾きをいやせたのでした。

  ところが、あまりたくさんの人が水をくんだり、不注意にも水源に土を落としたりすると、アンクル・ボールドリーがカンカンになって、水源を汚したと言って大声でどなったものです。

  アンクル・ボールドリーの家の前に舗装されていない道が通っていて、その向かいに小さな教会がありました。教会には、専用の井戸や水源はありません。教会に行く人たちは、家から飲み水を持参するか、アンクル・ボールドリーに怒られるのを覚悟で水源を使わなくてはなりません。日曜の午後になると決まって、アンクル・ボールドリーの水源の澄み切った水は、泥の水たまりのようになったものです。

  そしてついに、アンクル・ボールドリーの堪忍袋の緒が切れました。ある日曜に教会員たちがそこに行くと、水源の周りに柵がめぐらしてあったのです。もう、敷地には誰も入れません。

  それからしばらく、教会員たちがどうしていたのか、私にはわかりません。でも間もなく、不思議なことが起こったのです。アンクル・ボールドリーは、水源の水位がだんだん低くなっていくのに気づきました。そしてある日、木の枠の底にある白い砂まで、カラカラに干上がりました。

  数週間後、日曜日に教会の外でピクニックのお弁当を食べていた教会員が、たまたま雑草が生い茂っている所に足をつくと、深い泥に足を取られました。これは、と思ったその人が、他の教会の男性たちと共にシャベルを持ってきて、泥の穴のあたりを掘ってみると、間もなく、水がちょろちょろと流れ出したのです。

  男性たちが板を切り、木枠を穴に入れて、水をろ過するために砂を詰めると、きらきらと輝く水がそこから流れてきました。ついに、教会にも専用の水源ができたのです。

  向かいにあるアンクル・ボールドリーの水源は、地面に埋められた乾いた木の箱しか残っていませんでした。

  それが同じ頃に起こったことについて、多くの人は、「ただの偶然ですよ」と言いました。でも、その水源は確かに、道を渡って教会に加わることに決めたようです!

  たぶん、アンクル・ボールドリーにとってはつらい出来事だったでしょう。でも、人が神様からいただいたものについて利己的になるなら、与えることによって得るのであり、愛することこそ生きる目的なのだということを学ぶまで、神様はそれを取り上げることもあるのです。

 

  イエスはこう言われました。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」(聖書・ルカによる福音書6章38節)

 

人は利己的になって、何を得るのだろう?

 

  聖書に、ある金持ちの話があります。たいへんな豊作で、その金持ちは富があり余るほどでした。でも、それを他の人たちに分け与える代わりに、自分のために取っておこうと、もっと大きな納屋を建てることにしたのです。(「ルカによる福音書」12章を参照) 神からたくさんの収穫をもらったことは、罪ではありませんでした。でも、利己的で、「自分のためだけに取っておこうとしたこと」が、問題だったのです。金持ちは間もなく死に、その時には、誰にも与えず自分のためにとっておいた物を一緒に持って行くことはできませんでした。つまり、全部失ったのです! それが利己的な態度と、その報いです。

  でも、与える心があるなら、神はそれに報いてくださり、あふれんばかりの祝福を注いでくださいます! 神はそう約束されたのです!

  −−デービッド・ブラント・バーグ