――― 輝くひととき 56  ――― PDFファイル55-56

 

イエスがしてくれたこと

 

  イエスは、その復活を通して私たちのために素晴らしいことをして下さいました。でも、そのことをどうしたら身近に感じられるのでしょうか。「モア・ストーリーズ・フロム・ザ・ハート」の中でジギ・チビジアンが語る物語は、イエスが死に、イースターに復活されたことが、私たちにどんな意味を持っているかをうまく説明しています。

  その話に出て来る司祭は、若い頃に犯した罪のことでひどく苦悩し、自分は絶対に神からゆるしてもらえないと思っていました。ある日、この司祭は、ある老婦人のことを耳にしました。その人はまぼろしを見たうえ、その最中に神と言葉を交わしたというのです。彼はついに勇気をふるい起こして、その人に会いに行きました。出された紅茶を飲みながら、ある事を主に尋ねてもらえないかと、老婦人に頼みました。

  その人は好奇心をそそられた様子で司祭を見ました。こんな頼まれ事は初めてです。

  「ええ、喜んでいたしましょう。主に何をお尋ねしましょうか?」

  「そうですね、私が若い頃どんな罪を犯したかを尋ねていただけませんか?」

  老婦人は、ますます好奇心をかき立てられ、二つ返事で引き受けました。

  数週間たって、司祭は再びその家を訪れました。お茶を飲んだ後、慎重に言葉を選びながら、遠慮がちに尋ねました。

  「最近、まぼろしを見られましたか?」

  老婦人は、見たと答え、司祭が若い頃にどんな罪を犯したかを主に尋ねたと言いました。司祭は一瞬ためらい、不安になりましたが、こう質問しました。

  「主は何と言われましたか?」

  老婦人は司祭の顔を見ながら、静かに答えました。

  「主は何の罪か、覚えておられないそうです。」

  聖書には、イエスが私たちの罪のために罰を受けて下さったので、神はもうその罪を覚えておられないと書いてあります。エレミヤ書31章34節で、主は、「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」と言っておられるのです。イエスはじつに「もの忘れ」のよい方なのです。

 

  キリストが自分のためにしてくれたことがどんな意味を持つのか、わからなくてもかまわない。ただ、それを受け入れればいいのだ。受け入れて初めてわかるものだから。

−C.S.ルイス

 

  イエス・キリストは墓から飛び出し、私の心の中で爆発した。

−ドナ・ホスフォード

 

主は十字架を去られた!

デービッド・ブラント・バーグ

  いつも十字架にかけられたキリストばかり思い描くのはやめよう。その苦難と死と、それから抱く恐ればかり考えるのはやめよう。私たちのイエスは十字架の上にはいない。主は十字架を去られた! 私たちのイエスは墓の中にはおられない。私たちのイエスは心の中に生きている!

  主は勝利と喜びと解放と自由の内によみがえられ、二度と死ぬことはない。それは、私たちがあがなわれ、神なしに死を味わうという恐ろしい経験をしなくてすむようにである。

  主がよみがえられ、死の苦難が終わったと知ったその日は、さぞかし喜びに満ちた日であっただろう! 主は勝利され、世界は救われた。主は任務をまっとうされたのだ。私たちのために死の恐怖と苦悩をすべてくぐり抜けられ、死の苦難は終わったのだ。

 

「主は生きている! 生きている!

キリスト・イエスは今日、生きている!

私と共に歩き

私と語る

この人生の狭き道で

 

主は生きている! 生きている!

この救いを告げ知らせよう

なぜ主が生きておられるとわかるのか?

主は私の心に住んでおられるから!」

――アルフレッド・H・アックレー