輝くひととき 37−40

 

クリスマスプレゼント

理想の兄

 

  友人のポールは、クリスマスイブにお兄さんから新車をプレゼントされました。ポールがオフィスから出て来ると、みすぼらしい格好の少年が、そのピカピカの車のまわりを歩き回っています。よほど気に入ったらしく、ポールに話しかけてきました。

「これ、おじさんの?」

「そうだよ。兄貴からのクリスマスプレゼントさ」

「ええー! こんないい車、タダでもらったの? 僕も…」

少年がそこまで言いかけた時、ポールは思いました。

(僕もそんな兄さんがいたらなあ、と言いたいのだろう)

ところが、少年の言葉にポールは耳を疑いました。

「僕も…そんな兄さんになりたいな」

ポールは驚いて少年を見ると、思わずこう言いいました。

「車に乗ってみたいかい?」

 「本当? 乗せて!」

 車を走らせてまもなく、少年は目をきらきら輝かせながら、ポールに尋ねました。

「おじさん、僕の家まで乗せてってくれる?」

 ポールはニヤリとしました。

(なるほどな。きっと、こんな大きな車に乗って帰ってくるところを、近所の子供たちに見せたいんだろう)

 しかし、その憶測はまたもやはずれたのです。

「前に石段がついている家があるでしょう? あの家の前で、ちょっと待っててくれる?」

 少年は車を降り、駆け足で家に入って行きました。しばらくすると、今度はずいぶんゆっくりした足取りで出てきます。足の不自由な弟を背負ってきたのです。少年は弟を石段の一番下に座らせ、車がよく見えるように弟の身体を支えました。

「ほらね、すごい車だろう。おじさんのお兄さんがクリスマスプレゼントにくれたんだって。タダでだよ。いつか、僕もお前にあんな車、買ってやるからね。そしたら、お前だって僕がいつも話してやっているいろいろなものを、自分の目で見られるんだ」

 それを聞いたポールは車から出ると、少年の弟を抱き上げ、助手席に座らせました。少年も目を輝かせてその横に乗り込み、三人はドライブに出かけたのでした。一生想い出に残るドライブでした。クリスマスイブの日、ポールは、このイエスの言葉をしみじみと実感したのです。

「受けるよりも与えるほうが幸いである」

ダン・クラーク

 

与えるには信仰がいる。最初の内は、与えることに伴う犠牲しか目に入らない。それによって傷つき、自分が何か失っているように思える。しかし、とにかく与え、単純な信仰、それに、主が与えて下さったすべてのものに対する感謝の気持ちを行動に表すなら、主は、自分が与えた以上に与え返して下さる!

デービッド・ブラント・バーグ

 

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神のクリスマスプレゼント

神から私たちの心に

 イエス・キリストは、神からの愛のプレゼント。そう、プレゼントなのです。私たちはただすなおにイエスを受け入れればよいだけです。天国行きの切符も、永遠のいのちも、またイエスが下さる幸せも、どんなにお金を積んだって買えないのですから。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物(プレゼント)である。」(エペソ2章8節) プレゼントを買うことはできません。それなら、売り物であって、「プレゼント」ではなくなります! 私たちは神からのプレゼントであるイエスを信じることによって、そして、神の恵みによってのみ救われるのです。

 そして、神からのプレゼントを受け取ったら、神の愛を与えることによって本当のクリスマスの意味を他の人たちにも伝えましょう! 救いの福音を必要としている人が大勢います。だから、平和と幸せ、それにイエス・キリストの愛がもたらす喜びを分かち合うことによって、人々に本当の「メリー(楽しい)クリスマス」を味わってもらうのです!

−デービッド・ブラント・バーグ

 

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輝くひととき 38

 

クリスマスの客

 

詩:ヘレン・シュタイナー・ライス (ドイツの昔話をもとに)

 

年の瀬に

昔からの友人を訪ねた二人

何と、みすぼらしかった店は

緑の飾りで、クリスマス一色

 

嬉嬉(きき)として座るコンラッド

仕事の手を休めて、語り出す

「友よ、夜が明け

一番鶏が鳴く頃に

 

夢枕に立った主が

今日、わしの家に来て下さるそうな

だから朝から大忙し

モミの枝で店じゅうを飾った

 

クリスマスのごちそうはあるし

ヤカンまで磨きあげ

ヒイラギの葉も飾りつけた

さあ、主が来られるのを待つばかり

耳をすまして、じっと待つ

このそまつな家に主が来られるのを

扉をあけて、主をお迎えするのだ」

 

友人たちは帰り、コンラッドは一人

こんなに素晴らしい日はない

家族みんなに先立たれ

寂しいクリスマスを過ごしてきたのだから

 

だが主が来られるので

今年は最高のクリスマス

喜びで心ははちきれんばかり

人の気配がするたびに胸が高まる

 

待ちに待ったその時

主が来られたのだろうか

急いで窓から外を見る

だが、白い雪の上に見たものは…

 

みすぼらしい乞食一人だけ

靴は破れ、服はぼろぼろ

哀れに思い、扉を開くコンラッド

「さあ、入って入って。すっかりこごえちまってるね

店の靴をあげよう

コートもあるから、着ていくがいい」

 

乞食はたいそう感謝して出て行った

だが、コンラッドはがっかりした

主はまだ来られないのか

どうして、こんなに遅いのだろう

その時、ノックの音が。コンラッドは扉まですっ飛んだ

だが、そこにいたのは見知らぬ老女

黒いショールを肩にかけ

背中にはマキを背負っている

 

「ちょっと一休みさせて下さいな」

でも、主をもてなすために用意しておいたのに…

「お願いですから。クリスマスじゃありませんか

ほんの少し休ませて下さい」

 

コンラッドはあたたかい紅茶をいれ

テーブルの食事を勧めた

この見知らぬ客が去った後、コンラッドはがっかりした

いったい主はいつ来られるんだろう

 

主は来ると言われたのに来なかった

きっと何かカン違いしていたのだろう

突然の声が静けさを破った

「すいません。ここはどこですか」

またも期待はずれか…

コンラッドはとにかく扉をあけた

 

迷子の女の子が立っている

クリスマスの日に家族からはぐれるなんて

憂うつな気分は脇において

「かわいそうに」とコンラッドは思う

 

女の子を中に入れ、涙をふいてやった

すると女の子に笑顔が戻った

それから家まで送ってやった

戻ってきた時には、あたりは暗くなっていた

 

主は来られなかった

クリスマスは過ぎてしまった

コンラッドはひざまずいて祈った

「主よ、どうして来られなかったのですか」と

 

「いったい、どうなさったのですか

お会いしたい一心で待っていたのに」

すると優しい声が聞こえた

「頭をあげなさい。わたしは約束を守ったのだから」

 

「三度もわたしの影がおまえの家の床に映った

三度もわたしはおまえの戸口に来た

あれはわたしだったのだ。あの寒さにふるえていた乞食も、

老女も、迷子の子供も」

 

 

輝くひととき 39

 

イエス・キリストは、私たちのために、天国を去り、地上に来られた

 

 イエスは天での豊かな暮らしを捨て、私たちのために貧しくなられた。ご自分の貧しさを通して私たちが豊かになるように。イエスは地上に来るだけでなく、地上にいる私たちのようにならなくてはならなかった! 人間社会の一員になられたのである。

 イエスは柔和でおとなしく、弱く、無力な赤ん坊としてやって来られた。身体も生活さえも人間と同じだった。イエスは人間となられた。人間のように罪を犯しはされなかったが、疲れたり、空腹になったり、弱り果てたりなど、私たちが経験するのと同じことを経験された。それは、私たち人間を憐れみ、私たちの感情や、足が痛み疲れ切った時、もう耐えられないという気持ちになった時を味わうことによって、良き大祭司になれるようにである。

 神の愛を私たちによりはっきりと示し、私たちが理解できるレベルでコミュニケーションできるように、また、神以上にさえ憐れみや忍耐を持てるように、神はイエスを人間として地上に送られたのだった!

 「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」(詩篇103篇4節) イエスは、私たちのために、自らそのような人間の身体を持ち、苦しみ、死なれた。私たちを天国へ一緒に連れ帰れるよう、私たちがいる地上まで下りて来て下さったのだ。私たちのために、そのすべてを経験して下さったとは、何という愛だろう!

 イエスよ、私たちのために地上で生まれ、生き、死んで下さったことを感謝します。あなたは私たちと同じように生きられ、同じ辛い体験をし、それでいて、その信仰は一度もゆらぎませんでした。

 あなたという最高の贈り物を感謝します。主よ、何にもまして、あなたの愛の贈り物を感謝します。あなたの誕生や生と死、その他もろもろのことを感謝します! すべては私たちに救いと永遠の命を与えるためだったのです! アーメン。

−デービッド・ブラント・バーグ

 

心のベッド

 

愛するイエス様、聖なる幼な子

清く柔らかなベッドを

私の心に造らせて下さい

あなたに休んでいただくために

 

私の心は喜びおどる

口を閉ざしていることは、もうできない

喜びの舌をもって歌いたい

昔ながらの賛美の子守歌を

 

いと高きところでは神に栄光があるように

御子が人に与えられ

喜びの年が明けたと告げる

天使の歌声が響き渡る

 

−マルチン・ルター

 

 

輝くひととき 40

 

人となられた神

 

 寒い冬の日だった。あるクリスチャンが道を歩いていると、地面に麦が散らばっている。おなかをすかせたスズメたちが、この思いがけないごちそうをついばんでいた。その人がスズメたちの方に一歩近づくと、スズメたちは落ち着かなくなった。もう一歩近づくと、おどおどしているのがわかった。そして、もうちょっとでそこを通るというところで、いっせいに飛び立ってしまった。

 その人はそこにしばらくたたずみ、今、目にした光景について考えてみた。なぜ、スズメたちは飛んでいってしまったのか? 何も危害を加えるつもりはなかったのに…。ああ、そうか。スズメにとって自分は大きすぎるのだ。

 一体どうしたら、スズメを怖がらせないで、歩いて通り過ぎることができただろうか? 自分もスズメになって一緒に地面に下りてこない限り、スズメを安心させるのは無理だろう。

 神と人間の関係についても同じことが言える。旧約聖書の時代には、神はさまざまな方法でご自分の存在を人前に現された。アブラハムには天からの使者たちを通して、モーセには燃える柴(しば)を通してだ。彼らは、神のあまりの崇高さに恐れおののいた。しかし、時が経って、羊飼いたちに現れた主の天使はこう告げた。

「きょう、ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主なるキリストである」(ルカ2章11節)

 その通り。神は人となられた。私たちが神に近づくのを恐れないようにである。

−ポール・R・ヴァンゴーダー

 

     ◇ ◇ ◇

 

あらゆる知識があるのに、神を知らない者は不幸だ。何も知らなくても、神を知っている者は幸せ者だ。

−聖アウグスティヌス

 

     ◇ ◇ ◇

     

 私たちは、毎日、電気を使っています。電気を完全に理解している人や、それがどこから来たのか、またどのように来たか正確に知っている人は誰もいないのに。ましてや、電気そのものを見た人などいません。ただその働きや作用を目にしているだけです。同じように、神を完全に理解できず、神がどこから来られたのか知らない私たちは、ただ神の存在を受け入れるだけです。ただ、神が存在し、そばにいてくれること、どこにでもいて、何でも知っていて、あらゆる力があることを知っているだけです!

 電気についてたいていの人が知っていることと言えば、ただそれが作用するということです! スイッチを入れ、目に見えない力に接続すると作用します。そのように、私たちも祈りによって、また、神の言葉に従って御霊を求めることによって、神の力に直接、接続できるようにならなくてはいけません。電気を使用するように、神の力を使わなければならないのです。自分たちにはできない多くのことを神にしていただくことによって、私たちは神の光とパワーを人生の部屋に引かなければなりません。そうすれば、人生に光と力と喜びが流れてきます。

 信仰の手を伸ばして、決断のスイッチを入れましょう。そうすれば、電源に接続でき、あなたの人生にパワーが流れ始めます。すべての答を知っている必要はありません。ただスイッチを入れるだけで、うまくいくのです!

−デービッド・ブラント・バーグ

 

 

とても大きな心を持った人

 

あなたは忘れているかもしれない

でも、彼はあなたのために死んだ

あなたは信じないかもしれない

でも、彼は気にかけてくれている

あなたは自分が大切な存在だと考えないかもしれない

でも、彼はそう思っている

あなたはそれを受け入れないかもしれない

でも、彼はあなたをゆるしている

あなたは彼の存在を感じないかもしれない

でも、彼はあなたと一緒にいる

あなたは自分が悪い人間だと思っているかもしれない

でも、彼はあなたを愛している

彼は違う見方で私たちを見る

彼は私たちよりずっと大きな心を持っている

彼の名はイエス・キリスト

 

−ウルリッヒ・シェイファー