輝くひととき 3

 

イエスは気にかけて下さっているだろうか?

 

イエスは気にかけて下さっているだろうか

私の心が傷み、喜びと歌を切に求める時に

荷は重すぎて、悩みに沈み

長い道のりに疲れきってしまう時に

 

イエスは気にかけて下さっているだろうか

私が言いようのない不安や恐れに襲われ、

  暗い道を歩む時

昼のあかりが夜の闇に包まれる時、

そばにいて下さるほど、

  イエスは気にかけて下さっているだろうか

 

イエスは気にかけて下さっているだろうか、

強い誘惑に抵抗しても空しい努力に終わった時

深い悲しみはいやされることなく

夜もすがら泣き悲しむ時に

 

イエスは気にかけて下さっているだろうか、

私が最愛の人に別れを告げる時

悲しみに胸が張り裂けそうになる時

それは、イエスにはつまらぬことなのか?

イエスは見ておられるのだろうか?

 

そう、確かにイエスは気にかけて下さっている

イエスは私の悲しみに心を痛め

辛い日々、憂いに満ちた長い夜に

気にかけて下さっていると、私は知っている。

フランク・G・グラエフ

 

 

 

中世の金細工職人は、貴金属を火で熱して不純物を取り除く作業において、ユニークな方法で完全に不純物が取り除かれたかどうかを調べていました。

  職人は温度をどんどん上げながら、忍耐強く立って、溶解し、沸き立つ塊をじっと見ています。するとついに、職人は汗ばんだ顔で、満足そうに微笑みます。金の塊に自分の顔が映っているからです。鏡のように自分の顔がそこに映るのは、不純物を取り除く火がその目的を果たしたしるしなのです。

  ペテロはこう訓戒しています。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことがないように。」(第1ペテロ4章12節)

  私達の人生に神の御子が映る時、神は、不純物を取り除く神の清めの火が、その目的を果たした事を知るのです。

 

 

 

ある老人が、ヒッコリーの木を切り倒して斧の柄を作るため、少年と一緒に木を探しに行った。少し歩くと、若々しいヒッコリーの木が何本か生えている所に来た。少年は、「これで斧の柄を作れるね。さあ、切り倒そうよ。」と言う。けれども、老人は言った。「平地の木は、山の上で吹き荒れるような嵐に耐えることもない。木が荒々しい風で揺さぶられる上の方に行こう。木が乱暴な風で堅く引き締まって、もっと丈夫な斧の柄ができるから!」

  困難に直面し、試練によって強く揺さぶられても、それに屈しない人達は、より強くなる。私達は、「私達を愛して下さったかたによって、すべての事において勝ち得て余りがある」者になることができる!(ローマ8章37節)

  ヨブはこう言った。「彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。」(ヨブ23章10節)

 

 

感情は、来てはまた去り

決して頼りにならぬもの

私が頼みにするのは、神の御言葉のみ

他の何ものも信じるに値せず

 

目に見える証拠がないではないかと

心にとがめを感じても

神は私の心より偉大なる方

その言葉は決して違えることがない

 

魂が肉体から離れ去る日まで

私は神の揺るがぬ言葉に信頼する

全てが過ぎ去ろうとも

神の言葉は永遠に堅く立つ

 

マルチン・ルター