輝くひととき 21

 

隠された 報 酬

 

  むかしむかし飢饉があった時のお話です。ある所に親切で裕福なパン屋さんがいました。街にいる20人の大変貧しい子供達の所に出向いて行くと、こう言いました。

  「このカゴの中にはみんなのためにパンが1個ずつ入っている。だから遠慮せずに取りなさい。みんなの暮らしが楽になるまでは、また同じ時間に、私の所に取りに来るんだよ。」

  お腹を空かしていた子供達は、夢中でカゴにむらがり、われ先にとパンを奪い合いました。皆少しでも大きいパンを手にしたかったのです。やがて子供達は、この親切な人にろくにお礼も言わず、あっという間に姿を消しました。

  さて、グレートヘンという貧しい身なりをした女の子がいました。この子はみんなとパンを取り合うようなこともせず、静かにかたわらに立っていました。行儀の悪い乱暴な子供達が去った後、最後に残った一番小さなパンをもらうと、この人に感謝のキスをして家路につきました。

  翌日のことです。相変わらず子供達は横暴に振る舞いました。貧しくておとなしいグレートヘンは昨日の半分にも満たない大きさのパンを手にして帰ったのでした。

  家に着くとお母さんがパンを切りました。するとどうでしょう! そこからまばゆいばかりの銀貨がこぼれ出たのです。

  お母さんは大変驚いて娘に言いました。「すぐにその親切なおじさんの所に行って、このお金を返して来なさい。間違ってパン生地の中にまぎれ込んでしまったのよ。グレートヘン、早く行って戻してらっしゃい!」

  少女がパン屋に母の言葉を伝えると、こんな答えが返ってきました。「いや、間違いじゃないんだよ。おじさんがお嬢ちゃんのためにと思って、一番小さいパンに銀貨を入れておいたんだ。ただ今まで通り、思いやりと感謝の気持ちを忘れないでおくれ。さあ、お帰り。お母さんには、お金は取っておいていいのだと伝えるんだよ。」

  人に何かを与え、人を幸せにしようと一歩退いた時、または自分よりも他の人の気持ちを大切にする時、何か自分が損をしたような気持ちになります。しかし、そうではありません。私達の心を見ておられる神様は、それに報いて下さいます。与えることで損をすることはないのです。

 

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  年老いてからクリスチャンになった裕福なご婦人が、孫娘と一緒に通りを歩いていました。すると一人の乞食が近づいてきました。このご婦人は乞食の話を親身に聞いてあげると、財布からお札を取り出して、その手に握らせました。

  さて次の角を曲がると、救世軍の人が寄付を求めていました。ご婦人は救世鍋にも幾らか入れました。

  孫娘は不思議そうな顔で言いました。

  「ねえ、おばあちゃん。クリスチャンになってから、ものがなくなる一方じゃない?」

  「ええ、その通りね。怒りっぽくなることも、人のあら捜しをすることも、うわべだけの薄っぺらなつきあいやくだらないことで気をまぎらわすことも、みんななくなったわ。その代わりに、素晴らしいものばかりいただいたのよ! 心の平安、祈りの力、かけがえのない友。このお友達はいつも私と共にいて下さって、私をよく知っていて、愛し、守ってくれるの。前は考えられなかったような生きがいある豊かな人生、恐れを追い出す信仰、この世の旅路の終わりに訪れる素晴らしい天国の約束、数え上げたらキリがないくらい! いろいろ無くなったことで感謝しているわ。お金では決して買えない貴重なものを、沢山受け取ったのだから!」

 

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  マザー・テレサとシスターたちは、長年に渡ってカルカッタで貧しい人々や恵まれない人々に献身的な奉仕をしてきました。かつてマザー・テレサは自分の仕事について、こう語りました。「私のしていることは、大海の一滴にすぎません。でも、その一滴があってこそ大海になるのです。」

 

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  ささやかな献身であっても、私利私欲のためでないなら、大きな行為である。−−フランシス・ゲイ

 

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  「何かしら与えることが習慣となっている人というのは、輝いていて、人生を楽しんでいるのがよくわかる。」と誰かが言っていました。与えるのは、時間でもお金でも親切な行いでも、ちょっとした励ましの言葉であっても構いません。とにかくそうできる人は、人生が充実しているだけでなく、人々と分かち合えるほど富んでいます。聖書の中にあるこのイエスの言葉を読むと、その理由がわかります。「与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくしてあなた方のふところに入れてくれるだろう。」

−−ルカ6章38節。