輝くひととき 69−70 PDFファイル65-70

 

クリスマスは何のため?

 

  12月のある晴れた土曜日、私たちは息子たちとその友だちを車に乗せてチャタフーチー川(米国南部)沿いにある小さな公園へと向かいました。子供たちが川岸で遊んでいる間、私は夫のボブと散歩していたのですが、そこらじゅうに、割れたビンの破片や空き缶やハンバーガーの包み紙などが散乱していました。ゴミのせいで、川岸の景観はだいなしでした。

 

  何気なしに、私たちはリサイクルのために空き缶を拾い始めました。それを見て、息子たちも手伝い始めました。人数が増えたので、紙くずも拾い始め、まもなく、かなり広い場所がきれいになりました。

 

神はあなたや私をとても愛しておられるので、私たちを「きれいにするために」、誰かを、そう、イエスさまを送ってくださいました。それがクリスマスです。

 

  私たちの砕かれた人生、捨てられた友情、忘れられた約束などのゴミの下に、神は私たちが持っているはずの本来の美しさを見られます。神は、愛と共に、私たちを「きれいにする」力をも持ったイエスさまを送って下さいました。ただ「ゴミ」を捨てるだけでなく、私たちの人生全体をよみがえらせ、友情を築き直し、新しい目的を与えるためにです。神が私たちに求めておられるのは、神には私たちの人生に奇跡を起こせると「信じること」、ただそれだけです。

 

−パトリシア・フーク・スプリンクル

 

イエスがされるのは、まさにそれだ。イエスは汚いままのあなたを手に取り、その罪と過去を洗い流される。悪い考えも洗い落とし、代わりに、神の言葉から生まれる新しい考えを心において下さる。そして、あなたがすっかりきれいになったところで、新しいスタートを与えられるのだ。新たな見方、新たなエネルギー、新たな愛する能力、新たな生きがいを与えてくれる。なんて素晴らしい方だろう。

−デービッド・B・バーグ

 

子供を与える…

 

  3歳になるバーナバスと2ヶ月になるデービッドを連れて、私はクリスマスに飛行機に乗りました。飛行機から下りる時、親切なスチュワーデスが、「このかわいい赤ちゃんを一緒に連れて帰りたいわ」と言いました。

  すると、バーナバスはギョっとした顔で彼女を見ると、「ダメだよ! デービッドはボクたちの赤ちゃんだからね。すっごく大切なんだ!」と答えたのです。それからもう何年にもなりますが、彼らが兄弟ゲンカをするたびに、私はこの言葉を思い出します。

  また、完全に理解しているとは言えないものの、私はクリスマスにこの言葉のことを考えて、神がどれだけ大きな犠牲を払われたかを思わずにはいられません。自分の大切な息子たちの一人を、彼が見知らぬ者の間で大きくなり、その嘲笑に苦しみ、敵意によって殺されるのを承知で異国に送るなんて、私にはとてもできないでしょう。

神は、その驚くばかりの愛のゆえに、尊い贈り物を与えて下さいました。

それが、クリスマスの本当の意味なのです。

−パトリシア・フーク・スプリンクル

 

  神 はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(みこ)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

−ヨハネによる福音書 3章16節

 

 

一人の幼な子がわれわれのために生れ、

  一人の男の子がわれわれに与えられた。(イザヤ9章6節)

 

  赤ん坊のイエス様。これで、すべて完了。イエス・キリスト降誕場面の飾りに赤ん坊のイエス様を置きさえすれば、全部そろったことになる。こうすることで、私たちは神秘の中でも最も深い神秘を認めていることになる。神が来られたという神秘を! 小さな赤子の姿で、神が私たちのもとに来られ、満ち足りた人生を与え…そして最も深い必要を満たして下さるのだ。

  ワラの上に寝かされた赤ん坊には、目新しいことは何もないように思える。それでも、私は目を閉じ、遠い昔のベツレヘムへと思いをはせる…。

  地平線が明るくなり、空にバラ色の光がさし始めた。馬小屋の中では、ヨセフがわずかな荷物をロバの背に乗せている。マリヤは赤ん坊を布でくるもうとするのだが、赤ん坊はしきりに手足を動かし、じっとしていない。

  「まあまあ、よく動くのね。」 マリヤがついにおくるみを着せると、今度は、眠そうにぐずっている。「出発の支度をしている間、寝てくれないかしら?」 けれども、かいばおけに寝かされた途端、赤ん坊は大声で泣き始めた。

  「お願い、抱かせて下さい…」 私は自分が馬小屋の中にいる姿を想像し、マリヤにそう言った。赤ん坊のキリストを抱き上げると、マリヤは感謝に満ちた目で私を見ていた。私は優しく揺さぶってみた。泣き声が小さくなり、だんだん目を閉じてきた。赤ん坊のキリストは眠り、私は彼を抱いたままでいた。ベツレヘムの馬小屋でささやかながらキリストのお役に立てたのだという思いによって、心が温まった。だが、この現代では何ができるだろうか?

  その時、驚くべきことが心に浮かんだ。突然、今まで考えもしなかったことに気づいたのだ。クリスマスは、私たちが神を必要とするだけでなく、神も私たちを必要としていることを表しているということに! クリスマスは、イエスが宿しておられた霊を、私たちも宿しているべきなのだと悟る助けとなる。神は、ご自分が世界を愛しておられるのと同様に、私たちが世界を愛することを必要とされている。そして、私たちがキリストの人生にならって生きることを…。神は、私たちが心の内に主を抱き、私たちの生き方によって世界に対してキリストの素晴らしさを示すことを必要としているのだ。

  そうだ、クリスマスは私の最高の必要を満たしてくれる。そして、途方もない事実に気づかせてくれる。私たちが神に少しでも近づけるよう、神は人間の姿となられたということを。

−スー・モンク・キッド

 

 

神も私たちを必要としている

  偉大な神、宇宙の創造主があなたや私を必要としている。そのことを考えてみてほしい。イエスは私たちなしでは不完全なのだ。イエスは愛。だが、愛する相手がいなくては、与えたいという思いに駆られても与えることができない。それゆえ、イエスには愛する対象として私たちが必要なのだ。そして、私たちがその愛に応えることを必要とし、また切実に望んでいる。イエスは心から私たちのことを思い、私たちのために涙を流し、私たちの愛を熱望している。聖書には、イエスは、群衆が飼う者のない羊のようであるのを見て、彼らを深くあわれんだと書かれている。(マルコ6章34節)

  イエスは、あなたを腕に抱き、養い、育て、まるで羊飼いが子羊の世話をするかのように優しく世話をしたいと切望している。日夜、その愛を示せるように、あなたをそばに置いておきたがっておられる。そして、緑の牧場に優しく導きたいと願っている。あなたが幸せで満足し、自分が造られた目的に気づくようになるような場所へと。その時、あなたはイエスが私たちを必要とされているもう一つの理由に気づくことだろう。イエスは、あなたがイエスの手、ほほえみ、腕となって、他の人にイエスの大きな愛を現し、あなたがイエスから受けたのと同じ愛や慰めを与えることを必要とされているのだ。

−デービッド・ブラント・バーグ