クリスマスに発見したこと
ノーマン・ビンセント・ピール
多感な少年時代を、私はオハイオ州シンシナティで過ごしました。ファウンテン広場のキラキラ輝く巨大なクリスマスツリーを、今でもよく覚えています。街にはクリスマスキャロルの歌声が響き渡っていました。住んでいたイーストリバティー・ストリートでは、母はいつもクリスマスツリーを本物のキャンドルで飾っていました。それは不思議なキャンドルで、モミの木の香りと溶け合って、独特で忘れることのない森の香りを放っていました。
私が12歳の時のクリスマス・イブのことです。その日は、牧師をしている父と外出しました。父は遅くなったクリスマスの買い物をしていたのですが、たくさんの包みを持たされていた私は、疲れてむっつりしていました。早く家に帰りたいと考えていた時に、一人の乞食がやせ細った手で私に触れ、「お恵みを」と言ったのです。その乞食はにごった目をして、ひげも伸び放題、とても汚らしい格好をしていました。気持ち悪さに、私はとっさに後ずさりしました。
すると、父が優しく言いました。
「ノーマン、今日はクリスマス・イブだよ。人にそんなふうに接するものじゃない」
けれども、私は自分の行いを悔いるでもなく、頑固にこう答えました。
「父さん、ただの乞食じゃないか」
父は立ち止まりました。「あの人はあんな生活をしているが、それでも、神に愛されている、神ご自身の子供の一人なんだよ」
そう言うと、私に1ドルを手渡しました。当時、1ドルというのは大金で、特に牧師の収入からすればかなりのものです。
「これを持って行って、あの人にあげてくれ。ていねいに話しかけ、イエスの名によってこれを差し上げます、と言いなさい」
「ええっ、そんなことできないよ」と、抗議しましたが、父は強い口調で言いました。
「言う通りにしなさい」
それで、いやいやながらも、その老人のところに走って戻り、「すみません。このお金をイエス様のお名前によって差し上げます」と言ったのでした。
その老人は1ドル紙幣を見て、驚いた顔で私を見ました。そして、素晴らしい微笑みがその人の顔に広がったのです。生き生きとして、とても美しい微笑みだったので、その人が汚く、ヒゲもそっていないことなど忘れてしまいました。ボロをまとったヨレヨレの老人だということも。その老人はうやうやしく帽子を脱ぐと、感謝をこめて、こう言いました。
「お若い方、イエスさまの名によって、あなたに感謝いたします」
すべてのいらだたしさや不快感は消え去りました。まわりの通りや家々や何もかもが、突然美しく見えてきました。なぜなら、奇跡にあずかることができたからです。私はそれ以来、そういう奇跡を何度も見てきました。他の人を神の子供の一人と考え、その人に、2000年前にベツレヘムの馬小屋に生まれ、今も私たちと共に生き、歩み、その存在をわからせてくださる方の名によって愛のこもった行為をする時に、その人に起こる変貌を見てきたのです。
すべての人の魂の内には威厳があって、私たちが機会をあげさえすれば、それが輝く時が来るということを、そのクリスマスに私は発見しました。
助けを必要としている人の声も耳に入らないほど忙しいなら、あなたは神以上に忙しい!
同情は「かわいそうに」と思うだけ。憐れみは行動に出る! 憐れみはその祈りを行動に移し、ただの言葉を親切な行為に変える。
愛は決して失敗しない。神は愛だからだ。神が失敗することはあり得ない!
愛は盲目ではない。愛には、他の者には見えない良いところや可能性を見る余分な目がある!
誰かが、あなたの人生を横切っている! あなたの愛は、彼らを助ける方法を見つけただろうか? 神の愛は、どうやって彼らを助けたらいいか示しただろうか? あなたが望むなら、どんな状況でも、どんな制約があっても、神は示してくださるだろう!
(デービッド・ブラント・バーグの言葉)