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ホーム・スクーリング実践者ガイド

 

−−ルアン・シァクルフォード、

スーザン・ホワイト共著

 

著者の紹介

 

  主な著者であるルアン・シァクルフォード女史は、4歳から16歳まで7人の子供の母親で、過去6年間家庭で子供たちを教育してきました。また、当女史はホーム・スクーリングを実践している家族によって構成されているペインターアベニュー・クリスチャンスクールの創始者であり、その校長を勤めました。この学校は、構成員10家庭から5年間に140家庭にふくれあがり、シァクルフォード女史は南カリフォルニア全域に渡って、ホーム・スクーリング・コミュニティーの開拓者また指導者として有名です。自宅の居間でのカウンセルや電話によって、ホーム・スクーリングを実践している何百人もの母親達を励ましてきました。また、数多くのホームスクーリング・グループのために講演をしています。現在はその家族とともに、フィリピン、ミンダナオに在住。インターナショナル・ミッション所属の宣教師として宣教活動に従事しています。

  「テスト」「スケジュール」「他の人の子供を教える」などの章を執筆したスーザン・ホワイトは2児の母親であって、9歳と7歳の娘達をホーム・スクールによって教育してきました。子供達が生まれる以前には公立学校で5年間教職についていましたが、過去3年間は他のホーム・スクール実践者達と協力して働いています。現在、ペインターアベニュー・クリスチャンスクール後援会会長兼、同校の副校長を勤めています。カリフォルニア州ウィター在住。

 

本当にできるのでしょうか?

  自分の子供を家庭で教育する事を考慮する時、たいていそのアイデアに胸が踊るとともに、その責任の大きさに恐れをなしたり、どこからどうやって始めたら良いか当惑するものです。そう感じるのはきわめて正常なことです。

  ホーム・スクールにあって、最終責任はあなたにあります。ですから真剣にならざるをえません。

  この本は実際にホーム・スクールを実践している母親によって書かれました。私には子供が7人います。過去5年間、子供達を家庭で教えてきましたが、子供達と共にいる時間を私はこの上なく楽しんでいるのです。私にとっては、それがすべての苦労を甲斐のあるものにしてくれます。

  子供達は本当に素晴らしいです! 私と同様に完全ではありませんが、心から子供達を愛しています! 私達はみんな、自分たちは変わる必要があると知っています。もっと忍耐強く、理解を示し、もっと厳格で首尾一貫すること。家庭内のことを秩序正しく統制すること。また、クリスチャンとして主にあって成長し、もっと主のようになるべきである事など、私達みんながよく分かっているのです。

  あなたも変わりたいと思いますか? 物事を違ったやり方でしてみたいと思っていますか? もしそうでしたら、ホーム・スクーリングこそあなたの探していたものかも知れません。あなた自身、もっと成長するのを望んでいるのでしたら、子供達を家庭で教えることはとても役に立ちます。なぜなら、そうすることで、あなたは自分の弱点を克服しようと努力するからです。あなたはよりよい女性になるか、あるいは悪くなるか二つに一つです。子供達が学ぶ以上に、あなた自身もっと学ぶようになるでしょう。ホーム・スクーリングをするために完全である必要は全くありません。ただ、喜んで自分自身を改善しようとする気持ちが大切なのです。あなたの選んだカリキュラムよりも、はるかに多くのことを子供達はあなた自身の模範から学びます。人はどんなに大きくなっても、成長し続け学び続けることを止めるべきではないということを、あなた自身の模範で示すことができるのです!

 

自分自身の時間は?

  「永遠に失うことのないもののために、一時的にしか持てないものを手放す者は愚かではない。」−−クリスチャン宣教師、また殉教者である、ジム・エリオット師の言葉。

  時間があってこそ 人生は存在するのです。自分の時間をどのように使ったかによって、私達の死後長い期間を経ても、多くの物事に影響が出てきます。もし時間を無駄にしていたのなら、それによって何かが成し遂げられなかった為に、未来が変わってしまうでしょう。しかし、永遠に価値あるもののために時間を有効に使ったのなら、それは永遠に価値あるものとなるでしょう。

  子供をフルタイムで教える事を決心するなら、楽しみとしていたことを色々あきらめることになります。又、他の仕事、例えば洗濯物や家事がより困難になるでしょう。私はあなたの決心をくじこうとしているのではなく、ただ現実はどんなものか話しているだけです。

  その一方で、私は誰からもホーム・スクールを強要されたのではなく、私自身でその決心をしたのです。時間の使い方を十分に考慮した上で、子供達を教えるために自分の時間を使うことを決心したのは、私です。だから、私の時間であることに変りはありません。誰からも時間を奪われたわけではありません。なお自分で自分の時間を支配しているのですから。

  私達の社会では、快楽や楽しみこそ人生の主要目的であるように教えられています。利己的に自分自身の楽しみを求め、「我が身のためになる」ことを目指すことが。

  生きている間にしたい事は山ほどありますし、たとえ子供達を家庭で教育するために全人生を費やしたいと私が望んだとしても、それは不可能なのです。今しかできないものがあります。そしてそれを成し遂げるには、他の事を後回しにしなければなりません。

  私は現在、子供達を家庭で教育しています。今こそその絶好の時だからです。私は子供達をよく知っており、一緒に暮らしています。−−子供達を教え、生活を共にしています。私は子供達が本当に大好きです。ほとんどいつも子供たちと一緒に楽しい時間を過ごしています。

  私は今子供達に時間を注いでいますが、いつかそんな時間も過せなくなるのです。今だからこそ子供達と一緒にいて、神の目から見て何が最も大切なのか教えることができるのです。日常生活のいろいろな状況を使って、聖書の真理を教えることができます。このような絶好の機会は二度とありません。他の多くの事は後でもできるでしょう。しかし子供は日に日に大きくなってしまうのです。

  子供を家庭で教えることに対する報酬とは何でしょうか? まず第一に私自身、多くの達成感を味わうことが出来ます。多くの女性達が外の仕事に見いだそうと努力してはいるものの、決して見つけることのできないものを、私はこの手に持っているような気がします。毎日知恵を絞って子供達に納得させることに挑戦を感じています。毎日頭を使い、毎日新しい事を学んでいます。

  第二に、とても貴重な時を共に過ごすことができます。子供達がいつも外に行っていたり私の方が外出ばかりしていたのなら、絶対に不可能な事だったでしょう。真剣な事柄について話し合う時間が私達にはあるのです。それもちょうど良い時を見計らってすることができます。日常茶飯事の出来事を通して子育ての秘訣や、運転の仕方、伴侶の選び方などを教えることもできます。対人関係について教えることができ、大人になった時それがどんなに役に立つようになるか話してあげることができる絶好の立場にいるのです。又、主が私達の家族のためにして下さっている事についても話す事もできます。

  ホーム・スクーリングを実行するには、スケジュールや優先順序を見直し、諦めなければならなくなる事柄も出てきます。しかし、それはどんな仕事をする場合でも同じです。

  ホーム・スクーリングにとても熱心な夫を持つ婦人と話ししたことがあります。彼女がホーム・スクーリングをとても上手にやっている限りは、夫は良き味方であり、協力者となってくれていました。彼女は又、落ち度のない素晴らしい主婦で、洋服もきちんとアイロンをかけておくことが大好きです。子供達は、野球やサッカーをしたりバレーやピアノのレッスンに通っています。しかし、ただ買い物でも何でも、彼女がどこかへ行こうとすると、子供達は大騒ぎをして、一緒に連れて行くようにとせがむので、彼女は罪悪感を抱いてしまいます。だから、母親が行く所にはみんなついてきました。10代の娘までもです。夫婦だけで外出することはめったになく、週に一度婦人聖書学習会に出席しているだけです。その聖書学習会によって彼女はやっとのことで正気を保っています。とうとうホーム・スクーリングに嫌気がさして、子供達の姿を見ることさえ我慢できないような状態になり、それによってなおさら自分が母親として失格者に感じるまでになってしまいました。そのため子供達に対して、「いけません」と言うことがますます困難になったのです。全くの悪循環です。この女性は時間の使い方を何とかして決める必要があります。そうしてから、その時間割りにうまく当てはまらない事柄を削除するのです。つまり、何かを諦めなければならないのです。−−子供達の強要に屈服しないようにするか、何か子供とする事を削るかしなければならず、さもなくばホーム・スクーリングを諦めるしかありません。

  私はまた、別の問題を抱えた婦人を知っています。この婦人は友達がたくさんいてよく長電話をしています。また手芸が得意で、なかなかの腕前です。毎年クリスマスには手芸店を開いていて、秋はその準備で大忙しです。そのため洗濯物や家事にまで手が回らなくなってしまい、子供達もみな朝寝坊になりました。彼女は一週に一度、家や子供達から離れることのできる朝がなければ、気狂いになってしまうと思ったくらいでした。何日間もホーム・スクーリングをすることさえできない状態です。このような家庭でホーム・スクーリングを実行するためには、かなり思い切った変革が必要とされます。この母親の場合、家庭で何を教えるのかじっくり考える必要があります。

  実り豊かな生活をするためには、遊びより仕事を第一にすることを学ばなければなりません。家をごちゃごちゃにしたままで自分の趣味に没頭してしまい、夕食の準備もおろそかにするようでは、どうやって子供達に遊ぶ前に勉強をすることを教えることができるのでしょうか? 

  息抜きとして、私達夫婦は毎週金曜日の夜にデートに行くようにしています。それは私達にとってとても大切です。また夜、買い物に行く時に友人を誘ったりします。それが、女友達との外出の役目を果たします。ここに助けになるアイデアを幾つかあげておきましょう。

 

  ・ホーム・スクーリングは仕事の一つであることを念頭に入れて置く。あなたには今、パートタイムの仕事があるのであり、その仕事時間は日常の家事から離れていなければならないのです。ですから、当然家事をすることはより困難になるでしょう。

  他のどんな仕事にも言えるように、自分がとてもうまくやっているように思えるような、素晴らしい日もあるでしょうし、自分が全くの失敗者であって、どうしてこんな事をするようになってしまったのか、疑問に思うような日もあるでしょう。しかし一度コツを飲み込んだ後は、たいていの日はただ単調な日課のように感じるようになるでしょう。

  ・自分の生活に対する不満をかきたてるような婦人雑誌や記事を読む事を避ける。子供達にどんな情報をインプットするか注意すべきであると同様に、私達自身がどんな情報を取り入れるかに注意深くあらねばなりません。家庭というものを尊重し、あなたが主にもっと近づき、私達の人生の為の主のゴールに到達しようという気持を起こさせるような本や記事を読むようにして下さい。

  ・あなたのプライバシーと一人になる時間を尊重する事を子供達に教える。とても小さな子供達がいるのでしたら、休憩時間を毎日とるようにお勧めします。小さな子供達に昼寝をさせている間、大きい子供達は一時間ベッドで本を読むか、静かに遊ぶようにさせることは、私の所ではとてもうまくいっています。

  一人になって考えたり読んだり、御言葉や祈りの時間を取るようにして下さい。自分の考えをまとめたり、手紙を書いたり、昼寝をする時間をとるようにするのです。子供達がこういった時間を尊重する事を学んでしまうなら、あなたの残りの時間を子供達に与えることがはるかに容易になるでしょう。

  ・あなたの外出時間を子供達が尊重するように教える。私達自身の生活があり、大人として子供達の世話をする目的の為にのみ私達が存在しているのではない事を、子供達が理解する必要があります。夫もまた関心を払ってもらう必要がありますし、妻もまた夫から関心を払ってもらう必要があります。私達夫婦がお互いをどれ程大切に思っているか、私は子供達に知ってもらいたいのです。主人が私をデートに連れていくのを見るのなら、夫として何をすべきなのかを息子達が学ぶでしょう! 嫁達は私達にさぞかし感謝するようになるでしょう! 娘達には私から、子供と過す時間とプライベードな時間とのバランスを学んで欲しいのです。そうしたら、彼女たちが母親になった時、より楽に母親業を勤める事が出来るでしょう。

  ・ホーム・スクーリングを実践するためには生活のどんな部分を削除するべきか決断して下さい。

  ・あなた自身の成長と楽しみのために本当にしたいと思うことは何なのか決めて下さい。そしてそれが他の事柄と比較してどれほど重要な位置を占めるのか考えてみて下さい。その後で、そのための時間を作るのです。

 

  要するに、自分の時間をコントロールするしないにはかかわらず、あなたがその時間の責任者なのです。私達の自由意志に従って生きるように、主はこの人生を与えて下さいました。御自身の人生を、私達のための奉仕と犠牲のために費やして下さった主はこう言われました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」 主もまた、神と二人きりになる為に、全ての者達から離れなければならなかったことが何度もありました。それは私達も従うべき良い模範です。

  母親である私達こそ、イエスのもとへ行き、主が私達にしてほしいことの優先順序を見つけましょう。そうすれば主は、私達が良いバランスを見つけるのを助けて下さいます。

 

パパは何をするの?

 

  ホームスクーリングについてあまり確信がなく、職場で友人になんと説明したら良いのかわからない父親もいます。でもしばしば、そういった人でも、妻に1年間試みることを許可するものです。これらの男性がホームスクーリングの非常に熱烈な擁護者になり、時がたつにつれ、妻のことを非常に誇りに思うようになるのです。その他の男性たちもそれがうまくいっていることを認め、もう一年続けてみることに賛成しています。

  お母さんは皆一人一人違うようにお父さんも一人一人違います。子供が皆一人一人違うようにすべての家庭も違います。お父さんが科目を教えたり、自分の職業について教えたりして、ホームスクーリングに関与するようにとは聖書には書いてません。

  聖書にはこう書いてあります。「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない。今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。」

  ただ教科を教えるよりは、この戒めを守るほうが難しいものです。一定のカリキュラムやプロジェクトをするよりも、この戒めを実践することを要求されます。神を愛して神に仕えたいと思う父親の心こそ、子供の心にそれらの戒めを刻み込むことができます。もし父親にその心があるなら、道を歩いている時も(または運転している時も)、寝る時も、起きる時も自然とそのことを家庭で話すでしょう。

  両親がクリスチャン的な生活を送るのを子供が見るなら、子供も自然と人格豊かなクリスチャンに育っていきます。

  私が4才の時、両親は救い主としてキリストを信じるに至りました。その翌年、ある日、私も、主に私の罪を赦してもらい、私を神の子としてもらうよう求めました。私の両親が主において成長するにつれて、我が家もクリスチャン家庭となっていきました。

  私は両親がお互いに対して意地悪な傷つけるような言葉、皮肉を言うのを一度も聞かずに成長しました。両親は今でも、私が幼い頃覚えているのと同じようにキッチンに立ってお互いにやさしくキスをしています。父が仕事から帰宅すると、父はまるで一日が始まったばかりのように行動します。父は不機嫌だったり、疲れていて、母にキスしなかったことなどなく、私達と遊んだり、物語を読んだりしてくれました。

  私達子供達は、決して「クリスチャンはこうしなければ」とか、「こうしてはいけない」というお説教を聞いたことはありません。両親はそれにただ生きていたのです。すぐに私達は、神が人々の人生において働いておられる以上に興味深く楽しい人生は他にないというのを手本によって自然と信じるよう育っていきました。私達の誰一人として反抗した者はいません。私達全員が色々な形で主に仕える大いなる喜びを見いだしたのです。

  どのようにして父親はホームスクリーングに参加すべきなのでしょうか? 人間の決めた基準に従うことによってではありません。神の御言葉に従うことによってです。

  私の子供たちが天の父がどういう方か思いめぐらす時、子供はその方はちょうど自分の父親のような方だと知って安心するはずです。子供が天国のことを思う時、それはちょうど自分の家のようで、ただもっと良いのだと知って慰めを受けるはずです。

 

登山に休みなし

 

  ホームスクーリングをするお母さんにとって一番大きな問題となるのはおそらく、子供を毎日教えるために何時間も時間を費やすかたわら、どのように他の仕事を片付けるかということです。

  最初の3年間、私は沈みがちでした。5人の子供にホームスクーリングをやりながら2人のよちよち歩きを追い回し、家事をしなければならなかったのですから。

 

洗 濯

  9人分の洗濯物、想像がつきますか? その上、おねしょをする子供が3人もいたのです。私は洗濯をすませる為に色々な方法をやってみました。次のどの方法がうまくいくか試して下さい。

  1.各々の子供は、それぞれの部屋に自分の色の洗濯篭がある。洗濯物をその篭に入れさせ、あなたが子供に告げたら、それを洗濯場にもってこさせる。洗濯物がきれいになったら、その子の篭に入れ、それをたたんであげるか、出来るなら子供にたたませ、片付けさせる。

  2.各々の子供が自分の洗濯袋を持つ。決まった日に自分の袋をもってきて全部自分で洗わさせ、乾かしてたたまさせる。もちろん洗濯機の使い方を教えた後の話ですが。このアイデアの不備な点は、子供が洗濯機や乾燥機から洗濯物を出すのを忘れてしまうということです。それとあなたの番が来た時、まだ洗濯機の中に物がつまっているという事です。タイマーは子供に次に何をするか思い起させるのに役に立ちます。

  3.洗濯を取り込むのに、適当な時間帯というのがあります。例えば、朝食前、昼食時、夕飯を作っている時など。これは1のアイデアとよく合います。

  4.一人の子供にソックスを分けてたたませ、もう一人の子にタオルやシーツをたたませます。年長の子供が自分の服と小さい子の服を片付けます。

  5.とっておきのアイデアがあります。子供の服に黒丸印をつけます。丸一つは長女か長男、丸2つは2番目の子という具合に。こうすれば子供の服が小さくて着れなくなった時、次の子に回す事が出来ます。ただその服に一つ丸を加えていけばいいのです。こうすれば、誰か別の人でもあなたの洗濯物を分けることができます。

  6.地元の洗濯屋に電話をし、あなたの洗濯物の分量だといくらぐらいかかるか聞くなら、あなたの時間がどのくらい価値のあるものかわかります。子供には、家の仕事をして儲けるという考えをもたせたくないので言わないでください。

  7.または、あなたに年長の子供がいて、有給の仕事をしたがっているなら、適切な訓練を少ししてあげると、それが洗濯ブルースへの素晴らしい解決策となります。

 

子供の仕事(内部からの助け)

  ほとんどのホームスクーリングの本には、子供に仕事させる事が、母親が家庭で子供を一日中教えることで生じる問題の解決策になるだけでなく、家庭教育の一環として非常に有意義であると書いてあります。仕事の大切さを学ぶことは責任ある大人として成長していくために必要なのは真実ですし、勤勉でやりくり上手になるよう助けることはわかりますが、「すべて輝くものが金ではない」と詩人は語りました。

  私達は罪人で、子供達も罪人です。これが家の仕事によく現われると思います。私は1ヵ月以上うまく持続するシステムというのを見たことはありません。小さなロバを働かせ続けるには、いつも何か新しいプランやアメやムチが必要になってくるのです。もうひとつの問題は、子供にその仕事をやり続けさせるほうが、自分でやるより、もっと時間がかかるという事です。結局、仕事を徹底して行なわせる努力も薄れてきて、新しいプランも消え去ってしまう傾向にあります。なぜなら、自分の任務(子供に仕事をさせる事)を遂行するだけの鍛練が足りないからです。

  実際子供達が不従順だから仕事をしないということはあまりなく、たいていは子供であるがゆえに自分たちの覚えていたいことだけを覚えるという傾向にあるからです。

  子供達が自分の仕事において何がなされるべきか正確にわかっていないことも問題です。この問題は適当な訓練を子供に与えれば解決されます。しかしそのためには、「教訓に教訓、規則に規則」を何(641)

回も何回も教えなければいけません。入念に、忍耐をもって訓練しても、子供のやった仕事の結果をあなたが毎回チェックしないなら、満足のいく結果を得ることはできません。

  ここで、いろいろなアイデアや攻撃プランを紹介しましょう。このどれもいつまでもうまくいくというものではありませんが、バラエティは人生のスパイスです。時にはやり方を変えれば、誰もが慎重になり、順応性を学ぶでしょう。

  1.「今日の雑用」プラン。どの子供も年令にふさわしいおきまりの身の回りの世話(髪をとかす、ベッドを整頓する、歯を磨く、洋服を着るなど)をします。これに加えて子供は年令や能力と私のスケジュールに応じて、家の仕事を一つ割り当てられます。

  2.「ママと一緒の仕事」プラン。どの子供も、ママがする事になっている仕事を(15分から20分位)ママと一緒にします。このプランには、子供と1対1で時間を過ごせ、また、きちんとした訓練を与えられるという利点があります。

  3.仕事を交替制にする。これは大きな家族にとって最適です。すべきことのリストを用意してください。子供が毎週違った仕事が出来るよう順番を決めます。この方法の素晴らしい点は、嫌いな仕事でも一週間以上しなくてすむので、誰も「あの子のほうが簡単な仕事ばっかり!」とは言えません。

 

外部からの助け

  とうとう私は、自分だけにしかできないこともあるけれど、私がしていたこと(又は、しようとしていたこと)で他の人にもできることがあるのだという結論に達しました。

  お手伝いさんを雇うことについて、「自分の子供は怠け者になりませんか?」と尋ねる人たちもいます。そうですね、もしかしたらそうなるかもしれません。これは我が家でも家政婦を雇うことで気を使っている点です。これが理由で私はまだ毎日の子供の為の雑用をとっておきます。 子供はにゴミを外に出し、夕食の後テーブルを片付け、ペットに餌をやり、庭をきれいにし、水をまきます。子供達は、自分たちで汚したのに、「レティシア(我が家の家政婦)がすればいいんだ」と言うことは許されていません。私が見てきた一つの利点は、子供達が整頓された家で暮らすのに慣れてきた事です。大きくなっても、きちんとしているのが当たり前と思うよう育ってほしいと思っています。

  箴言の31章の女性にお手伝いさんがいた事は疑いの余地はありません。これは別に彼女が怠惰であったからではありません。むしろ彼女が非常に勤勉で働き者だったからです。彼女は一人ではある程度までしかできない事を悟っていたので、もっとこなす為に助けが必要だったのです。

  助けを子供から得るにしろ、私達の母親からにしろ、家政婦からにしろ、家を住むに適した場所にするのは私達の務めであると覚えておくのは重要なことです。私達の「群れ(または家)に心を留め」るのは必要な事です。

 

「ママ、

ご本読んでくれる?」

 

  私が子供の頃、うちにはテレビがなく、両親が沢山読んでくれました。もしあなたが子供に読んであげるなら、子供は本を読むのが好きになるでしょう。

  私達は読む能力の発達が遅れている子供達を最近よく見かけます。けれども、そんな子供達の多くは、発音をもとにした読み方はしっかり教えられていて、見せられた言葉は意味がわからなくとも、ちゃんと発音できます。この子達の問題とは理解力なのです。その子達はすべての文字を読めますが、その物語の展開がどうなっているのか見逃しているのです。そこで質問とは、「良く読める人たちが沢山の言葉を読むのと、これらの子供が読むのと、その違いは何なのか?」です。その答えは、それらの人は、沢山の言葉を頭の中で思い描くことができ、その物語で何が起きているのか「見たり」、「聞いたり」できるのです。

  普通に読める人たちのほとんどは、読む時に無意識にこれを行ないます。だから誰もが自分と同じであると思い込んでしまうのです。

  ではどうして同じではないのでしょうか? この「言葉を描きだす」能力を伸ばすのを妨げるものは何なのでしょうか? 私の意見は、テレビの見すぎや、十分読まされていないことによると思います。誰かがテレビを見ている時、想像力を働かせる必要はありません。子供はテレビで見る物を理解するのに何の苦労もいりません。子供は話の筋をしっかり理解するかもしれませんが、その詳細を想像したりするための機会もないし、そうする必要もありません。

  本を読むと、そのページの言葉が、私達が現実の世界から覚えている情景や音、匂い、経験を再現し、想像力がかきたてられ、それが読んでいる話の一部となります。これには、確かにテレビで起きている事をただ見るという事以上に、身を入れて集中する必要があります。

  テレビのもう一つの問題は、あまり注意力を働かせなくとも、その全ストーリーがわかってしまうことです。読むためには、テレビよりもはるかに長い間、集中し、今まで読んでいたことをしなくてはいけません。

  読むことに問題がある子供は、読み方を学ぶ時になって初めて本や物語に出会ったという場合がよくあります。だから、困難な文字の解読に直面しただけでなく、ごちゃまぜになった言葉の意味を読み取るのに一苦労したのです。意味を汲み取るという技術は機械的に暗記するだけでは取得できず、身につけるのに少々時間がかかるものです。これゆえ、読み始めたばかりの人は、言葉の理解だけでなく、話の内容を読み取る(読解力)のにも苦労するのです。

  お話を読んでもらってきた子は違います。言葉を一つずつ機械的に処理していくのではなく、お話が読まれるにつれて継続的に流れ出てくる言葉を幾つかの集まりごとに処理していっているのです。読み手の反応、声の調子がその言葉の意味を理解させる助けとなります。想像力を働かせることで、その光景が浮んでくるのです。

  聞いて理解する事は読んで理解するために必要不可欠です。子供がお話を聞いている時、言葉は耳に入り、頭で絵像に変換されます。読むためにはそれと全く同じことが行なわれます。ただし読む場合は言葉が耳から入るのではなく、目から飛び込んできます。もし子供が物語を読んでもらってきたなら、その子にはすでに沢山の理解力が身についてきているわけで、ただ文字を読みさえすればよいのです。自分で読解できる子供は、その考える能力の範囲内で、読むものは何でも理解できるはずです。

  あなたの子供に読んであげて下さい。歴史や理科のような学科は、教える時に声を出して教科書を読んでやり、話し合ってみるのです。子供達に順番にあなたと一緒に声を出して読ませましょう。また、子供に問題をさせ、答えを読み上げさせるのもよいでしょう。まだ読解力があまりなく、読んでいる時に同時に理解できない子には、もっとあなたの方が読んであげなければならないでしょうが、子供の理解力は日増しに伸びてくるものです。

  感情を込めて表現力豊かに読んで下さい。子供はそれが大好きになります! 何でもやればやるほどだんだん上手になるものです。声を出して読むのを何度も行なうことで、あなたはもっとうまくなっていくことでしょう。

  あなたの子供が8歳以上でかなり良く読め、読書家になってほしいのであれば、一日に45分から1時間の個別に読む時間を取らせるよう提案します。これは子供達が自分の好みの本を選んで読み、他の事は何もしない時間です。私の家庭では、昼食後が最適の時間帯でした。

  子供達に頻繁に読んであげて下さい! 子供が自分で読めるのをゴールとしましょう。あなたはそのことで後悔することは決してなく、後で子供達から感謝されることでしょう。

 

スクーリングの経費は

飛ぶようになくなる

 

  ホーム・スクーリングをするという決断はほんの始まりに過ぎず、その後、次々と困難な選択を迫られます。あなたは、全く新しい市場の消費者となったわけです。あらゆるホーム・スクールのグループ、出版会社、おもちゃの会社、家庭向け産業、教材の専門家が、「子供を正しく教えるのにどうしても必要なもの」を提供してくるのです。

  だから、教材セールスのカモになりやすいので、気をつけて下さい! 計画を持っていないなら、いくら買い込んでもまだ必要な物が全部揃っていないように感じることでしょう。教えた経験があるとか、自信と創造性にあふれているというのでない限り、誰もが、カリキュラムを自分で作ることに不安を感じるようです。

  大半の科目は、基礎から一歩一歩教えていくのが最善です。一年を通して何度もやりかたを変えると、子供は混乱してしまいます。ですから、特に教え始めた最初の一年は、出来上がった優れたカリキュラムを選んで、一年間それにそってやることを勧めます。

 

アプローチ

  一つ一つのカリキュラムの特徴を把握するよう努力し、授業の準備のために必要な時間を現実的に見積もりましょう。子供の数が多ければ多いほど、そのような時間が少なくなってきます。

  まず、ユニット・スタディー・プログラムがあります。ユニット・スタディー・プログラムは素晴らしいアイディアやプロジェクトでいっぱいです。このプログラムは、様々なレベルに合い、一度に全部の子供達に使えるので、時間の節約になるように思われます。ただ問題は、ユニット・スタディー・プログラムはしばしば、多くの準備を要するのです。図書館に行って必要な参考図書をかき集め、また、ユニットにあるプロジェクトに必要なあらゆる器具を揃えなければなりません。

  しかし、「プログラム化された学習」タイプのカリキュラムもあり、そうしたプログラムでは、子供はいつもワークブックをやり、母親はほとんど何の準備をする必要もなく、教えるのも最低限ですみます。子供がよく読めるなら、この方法も悪いものではありません。ただ、達成可能な目標を立ててやり、良い環境を作り上げてやる必要があります。外で働いている母親とか、双子を産んだばかりの母親にとっては、これは時間の節約になります。

  しかし、このタイプのプログラムにも欠点はあります。優れた読解力を持ち合わせていない子供はあまり伸びず、欲求不満に感じたり、圧倒されてしまいがちだからです。読解力のある子供にとっても、学習の大半がお決まりの手順によってなされるという不利な点があります。長期的な記憶力に頼るのではなく、短期的な記憶力に頼って学習を進めていくからです。

  プログラム化された学習の教材は短い説明の段落があって、その後に質問が載っており、その質問も短い答で答えられるものです。それがずっと続き、その後に一人でするテストが載っています。

  普通は、科目において継続性がありません。一冊一冊のワークブックがそれぞれ独立したものだからです。子供は、多くの知識を身につけますが、それらの事実が全体的にどうからみ合っているかといった全体像を見ずに終わってしまうかもしれません。また、良くやる子供でも飽きてしまうことがしばしばです。形式がいつも同じなのですから。だから、このタイプのプログラムには、創造的な作文や、ディスカッションや、自主的な読書の時間を付け足すことが大切です。

  カリキュラムを購入する前に、その製作者が、どんな主義や信条を教えているかを知るのは助けになるでしょう。

 

教科書

  子供の知識を基礎から秩序だった方法で築きあげていくことが必要ですが、それも、子供の能力や興味に合ったペースで進めていかなければなりません。良い教科書は、秩序立しく、学習の方向づけもはっきりしていて、興味をそそるものです。けれども、それぞれのテーマにどれほどの時間をかけるかについては知恵を働かせなければなりません。目的は、普通の学校の終業式までに教科書を一通り終える事ではありません。私達の目的は、子供が学ぶ必要のある事を教える事であり、子供がしっかり学んでしまうまで次に進むべきではありません。子供が掛け算について知らないなら、割り算を教えたところで何にもなりません。また、すでに掛け算がうまくできるなら、ただワークブックにあるからというだけの理由で、10ページ分の練習をする必要もありません。やり方を忘れてしまわないようにするには、一日に5問ぐらい復習していけば十分でしょう。

 

クリスチャンの教科書

  クリスチャン・スクールのための教科書を出している大手の出版社は二つあり、A Beka Booksと、BobJones University Pressです。

  A Bekaは、学ぶ学年を繰り下げていくことに力を入れています。つまり、クリスチャンでない算数の教科書では3年生用になっている事柄は、2年生用の教科書に入っており、他の学年も同じように繰り下げられているのです。

  このプログラムにはドリルや練習問題が多く、ホーム・スクーラーは、時間つぶしのための勉強をたくさん省くことができるでしょう。製作者側は、幼稚園児が4カ月ぐらいで読めるようになることを願っています。その結果、幼い子供達に多くのプレッシャーがかかり、低学年の子供達も、書きかたの練習をたくさんさせられます。しかし、大半のホーム・スクーラーは、5、6才児にそういうことをさせるのは適当ではないと感じているのです。

  子供は、様々な能力や知識をおもに、理解と応用というよりもむしろ、お決まりの暗記と練習によって身につけていきます。これは、花の様々な箇所の名前を暗記するのと、幾つかの花を分解してみて比較するのとの違いのようなものです。

  推薦されているペースで進めていくなら、子供達は何時間も本から学習する事になり、良き生徒となるでしょう。しかし、このプログラムを使っているクリスチャン・スクールの子供の中には、プレッシャーに耐えられず、消耗し切ってしまうというふうに、大変な勉強のせいで参ってしまう子もいます。

  大勢のホーム・スクーラーは、教師用の指導書を使ったり、時間つぶしの練習問題をしたりはせずに、A Bekaの教科書を活用しています。こうした教科書の多くは、良く書かれており、優れたクリスチャンの観点から歴史や科学を扱っています。

  Bob Jones University Pressが、クリスチャンの教科書を出すようになったのは比較的最近の事です。中には、Bob Jones Universityのカリキュラムを使う事に少しためらいを感じる人達もいます。他のクリスチャン達に対して非難めいた態度が見られるというのがその理由です。けれども、教科書は非常に優れたもののように見えたので、私は幾つか試しに使ってみたのですが、非常に気に入りました。

  Bob Jones Universityの教科書をこの4年ほど使っていますが、非難めいた態度や、律法的な態度は全く感じられませんでした。子供たちは、学んでいる事柄を理解する必要があるというのが、Bob Jones University Pressの教育哲学です。

  プログラムの目標は、単に言われた事をするだけでなく、自ら考えることのできるクリスチャンを育てることです。子供達が、まだ学ぶ準備のできていない事柄や、理解できていない事柄を学ぶよう強要されることはありません。時間つぶしのような練習問題はあまりありません。ドリルは短く、子供がすでに理解した事柄に対してより理解を深めるためのものです。

  大きな分厚い教師用の手引きを使って、声に出して授業が行われます。こうした手引きが何もかも説明してくれ、教える人はただそれを声に出して読み上げるだけです。特に、子供にいかに読みを教えたらいいのか全くわからない場合には、これは大きな助けになります。

  Bob Jones Universityの教師用手引きは非常に役立ちます。それがないと、私は一つ一つの学科で子供達にあまりにも多くの期待をかけてしまいがちなのです。その手引きは、子供達にどの程度期待できるか、非常に現実的なガイドラインを提供しており、もう5年もホーム・スクールをしている私でさえ、やはりそうしたガイドラインを必要としています。

  Bob Jones Universityは、ホーム・スクーラーの為のセミナーを開いており、それはとても実用的で、3か月ごとに「The Home School Helper」と呼ばれるニュースレターを出しています。彼らは、親には自分の子供達をきちんと教えることができるし、またそうすべきだと堅く信じています。

 

体制の教科書

  これは異端者の発言に聞こえるかもしれませんが、優れた体制の教科書のほうが、出来の悪い「クリスチャン」の教科書よりも良いと思います。誰が言おうと真実は真実であって、あちこちに聖書の節がちりばめてあったとしても、お粗末な教科書はやはりお粗末なのです。

 

  体制の教科書とはどんなものでしょうか? それは、クリスチャンでない人によって、学科を教える目的で書かれたものです。例えば、「Calvert Corresー

pondence Course(カルバート通信教育コース)」などの提供している本は極めて優れた教材です。

  体制の教科書は、本によって体制の価値観の紹介の仕方がかなり異なっており、古ければ古いほど、我慢ならないような内容が少ないようです。1950年代にカリフォルニア州の出した「The Golden Rule ReadingSeries」には、人格形成を助ける素晴らしい話がいっぱい載っており、中には聖書からの話もあります。ABekaは読みのプログラムのために、そうした話を再印刷しています。けれども、1960年代、1970年代に出された算数の本は注意する必要があります。当時、「新数学」がどんどん取り入れられ、失敗に終わったからです。

  体制の教科書を使っている場合、子供達の読むものをすべて前もって目を通すべきです。読みや社会や理科などといった、より主観的な科目の場合、また教科書が1975年以降に出版されたものである場合には、なおさらその必要があります。算数でも、文章題には、女性が男性がやるような仕事をしていたり、その他の全くおかしなプロパガンダなど、算数の本に出てくるとは思いもよらないようなことが出てきたりするのです。しかし、そういう考えの合わない部分があるからといって、別にその本を捨てなければならないわけではありません。それをもとにして、活発な議論を展開していく事もできます。

  優れた教育を受けたクリスチャンの子供は、いつかは、世間の人々の物事の考えかたを知る必要があります。そして、それを教えるのに最適なのは、ホーム・スクールのような親の監督下にある状況においてです。親が、世間の物の考えかたを、聖句に照らし合わせ、嘘であることを暴くのです。けれども、それをするために余分の手間をかける気持ちがないなら、あるいは、人間至上主義が説かれていてもそれに気付かないなら、体制の教科書は使わないことです。たとえ無料であっても、使うだけの価値がありません。

 

費 用

  カリキュラムを入念に選んで下さい。大家族の場合には、自分の選んだカリキュラムが、長い間使っていくのに耐えるだけの質の高いものかどうかを考慮するのは大切です。ワークブックは、学年が進むごとに毎年買わなければなりません。最初の費用は安くすみますが、3、4年の内に、堅い表紙の本を使うのに比べて、2倍以上の費用がかかることになります。ペーパーバックのものは長持ちしませんが、堅い表紙のものは長持ちします。私には7人の子供がいるので、必要なものの大半はすでに、堅い表紙のものを持っています。だから、もうあまり費用がかかりません。

 

カリキュラムを選択する上でのガイドライン

・カリキュラムは、何でも、学科を教える助けになるものから出来ています。それには、算数のためのドミノや硬貨、社会のための地球儀も含まれます。

・カリキュラムのすべてをお金を出して購入する必要はありません。科学や社会、文学などには図書館の本を使うこともできるし、ホーム・スクールをしている他の人達と貸し借りし合うこともできます。

・何かを購入するかどうか決める時には、自分の性格を考慮に入れて下さい。リサーチや、前もって準備時間をとる必要のある、複雑なプロジェクトが好きですか? それなら、KONOS,Weaverや

Principle Approachで使われるユニット・スタディー法を楽しむことができるでしょう。一方、何もかもすでに系統だててあり、詳細に渡って説明されているほうを好むなら、伝統的な教科書と教師用指導書を購入すべきでしょう。

・子供の性格も考慮にいれて下さい。あなたの子供は、ワークブックを全部やり終える事で達成感を味わうでしょうか? あるいは、子供に、自分の名前を紙に書かせるだけでも一苦労するのでしょうか? そういう子供は、実践教材や、口頭での授業のほうが良くやることでしょう

・あなたが何かの科目(たとえば算数)が好きではないなら、あなたの興味を増し、能力を伸ばして下さいと、主にたずね求めて下さい。親であるあなたの態度が子供に反映されるのですから。私は子供達と一緒に算数を学びました。私は算数が苦手ですが、そのためにかえって、算数の苦手な子供をもっと助けてあげることができるように思います。私も学んでいるのを見るなら、子供達も学び、人は一生を通して学ぶことができると知るようになります。

・1年を通して様々な物を買う計画を立てること。クリスマス、誕生日、それにやる気が低下している時などに。

・先生は教えるけれども、本は教えはしないということを忘れないで下さい。どんな物も、その価値は、どれだけ使われるかにかかっています。どれだけ学ぶかは、あなたとあなたの子供次第です。

  ホームスクールをしている親向けに、多くの優れたセミナーや講座が開かれているので、そういうのに参加して下さい! ノートをとり、新しいアイディアに耳を傾け、色々な人々に会うことです。あなたのしていることと、講演者の言ったこととが異なっていても、あなたのしていることはうまくいっているかもしれません。家に戻ったら、自分のそれまでの方法について考えてみて、変更していくべきかどうか考えてみて下さい。変更する必要があるなら、変更を実行していくための計画を立て、それをすべく最善を尽くすことです。何もかも含まれている良く出来たカリキュラムがあるなら、あなたには、セミナーで買うよう勧められる物は必要ないということも覚えていて下さい。

  何をするにもまず、身体的にも、精神的にも、道徳的にも、全ての面において「健全な」子供を教え育てるというあなたのゴールを常に心にとめておく事はとても大切です。教える為の最善の道具は、あなた自身の人生なのです。その事を忘れないで下さい。私達は、勤勉さ、忍耐、寛容、喜び、平安、ユーモアのセンスなどの良き手本とならなければなりません。ローマは一日にして成らず、なのです。

 

高校レベルの子供を教えるための提案

   国語:ティーンエージャーは、作文で自分の気持ちや考えをしっかりと表したり、何かを文章で表現したり、説明したり、弁護したり、情報を伝えたり、手紙を書いたりできるべきです。また、幅広い語いを使い、かつ理解し、正しくつづり(あるいは辞典を使い)、点や丸を正しく使い、大文字で書くべき所は大文字で書き、正しい文法を使う事ができるべきです。それができないなら、あなたは大仕事を抱えているわけで、この分野で、より低い学年(中学1年か2年)のカリキュラムを用いなくてはいけません。

  数学:自分の学年レベルの能力がついているなら、すでに必要な基本的な数学の能力はすべて身につけたことになります。それよりレベルが下なら、補習コースをして、実際的で日常使うような数学に力を入れなければなりません。また計算機がうまく使えるようになるべきです。できるだけ、妥当と思われるだけの数学の能力を子供に身につけさせるのは賢明な事です。あまりに低いレベルでやめてしまうなら、将来の可能性が限られてしまうからです。

  社会科:子供が読みが苦手な場合は、より低いレベルの教科書で勉強していくか、母親が声に出して読んであげるかしたらいいでしょう。この年令にで読み書き算数がしっかりできていないなら、社会科よりも、読み書き算数に力を入れるべきです。

  理科:基本的なことが身についていない場合には、やはり、読み書き算数という基本の方が理科よりも優先します。理科をするとしても、子供の読みのレベルにあった本を使うか、あるいはプロジェクトをし、母親が声に出して読むようにすべきです。

  その他:高校生レベルの子供は、タイプや応急処置の仕方をまだ学んでいなかったなら、ぜひ学ぶべきです。

 

地元の短大を利用することに関するコメント

  こうした短大は、キリスト教に基づいていないヒューマニズム(人間至上主義)の温床です。そこの教師たちはしばしば、生徒がその人生の大切な時期にあって思考の面で大きな変化を遂げることを目標としています。子供の受けている授業でどんなことが教えられているかをいつもチェックし、その内容について話し合って下さい。

 

テスト‥‥1、2、3

 

  ホーム・スクーリングをしている母親たちの大半が、アチーブメント・テスト(学力検査)に関して幾らか落ち着かない思いを抱いています。これは全く普通で、理解できることです。結局、子供がテストされる時には、自分もテストされているわけですから。

 

どうして私達の子供達をテストすべきなのか?

  アチーブメント・テストの結果によって、基本的な科目における、偏りのない成績評価が得られます。私達は、子供がその年齢の標準レベルに到達しているかどうかを知りたいし、また子供の得手、不得手についての情報を受け取ることを楽しみにしています。たいてい、テストの成績は、母親がすでに自分の子供の勉強ぶりについて感じていたことを裏付けることになります。

  テストの結果によって、あなたのカリキュラムや教えかたの弱点がわかり、やり方を変えたり、補習のクラスをしたりする事ができるでしょう。全般的に、テストは、あなたが正しい軌道にとどまるのを助けるためのものです。

  子供にテストを与えるということは、まわりの人達に、あなたが客観的な評価を恐れてはいないという事を示すことにもなります。あなたが、自分からも彼らからも何も隠そうとはしていない事を示すのです。ホームスクーリングにあまり確信を抱いていなかったけれども、テストの結果を見てからもっと賛成するようになったという父親も大勢います。ちゃんとしたテストの成績は、おじいちゃんやおばあちゃんを安心させますし、学校関係者にとってもそうである場合があります。

 

どうやってテストすべきか?

  テストするのに一番良い場所は、子供がいつもスクールをしている場所です。つまり、自宅の、母親のそばです。慣れないところで知らない人からテストを受けると緊張してしまうので、その結果は正とは言えません。

  プロの人達はたいてい、プロでない人の監督の下にテストを与えることに不賛成の意を表します。けれども、私は公立学校の正式な教員であった時には、たいした訓練も受けずに、生徒に標準テストをしてきました。テストの実施方法について、詳細に渡る指示が載っていたからです。

  最も一般的な進め方は、書いてある通りに、子供達に指示を声を出して読む事です。念のために練習問題を幾つか出して、子供がやり方を理解しているか確認します。それからタイマーをセットして、子供に一人でやらせます。あなたの責任は、子供がカンニングをしたり、ひどい邪魔が入ったりしないようにし、時間がきたらやめさせることだけです。

  母親がテストを与えることに反対する意見の中でもっともなものは、母親は中立の立場にいないということです。子供の親かつ教師である母親は、子供がテストでどういう成績を収めるかによって自分の教える能力が問われることになり、子供を助けたいという誘惑にかられるかもしれないからです。でも、どうしてそんな事がしたいでしょうか? 母親であるあなたは誰よりも、子供の(そしてあなた自身の)成し遂げたことが正確に評価されることを望むのではないでしょうか。必ず、指示に従って正しく進めるようにして下さい。質問の意味を説明したり、子供の知らない言葉を教えたりしないように。

  テストの結果を知りたいのが自分なら、自分で採点をしても構いません。けれども、(裁判所から命令を受けた)どこかの役人が結果を知りたがっている場合には、免許をもった教師にテストを与えてもらうようにして下さい。

  テストは一日に2、3時間し(普段スクールをしている時間と同じぐらいの長さ)、約1時間ごとに短い休憩時間をとるようにしなさい。こうすると、ほとんどのテストは2、3日に渡ってなされることになります。

  (編集者注:標準テストはしばしば学校制度において誤用されています。しかし、あなたの学区がテストを受けさせるよう要求するなら、その要求に応じるのは比較的簡単な事のようです。あなた自身がそのテストにあまりにも重点を置かず、子供に、このテストの結果がものすごく大切なんだとプレッシャーをかけたりしないならば。テストというのはただ、これからどの分野により力を入れていくべきかを知るのを助けるためのものだと教えて、子供があがったり、心配するという問題を克服するのを助けてあげて下さい。テストの成績が良いなら、それは良いテスティモニーとなり、教育委員会とのトラブルも起こりません。そして普通、ホーム・スクーリングを受けている子供達は平均以上の成績を収めるようです。)

 

どうやってテストの成績を読み取るか?

  ほとんどのアチーブメント・テストの結果はロー・スコア(得点)と、グレード・イクイバラント・スコア(学年レベル評点)と、パーセンタイル・スコアで与えられます。

  ロー・スコア:これは基本的に、子供が幾つの質問に正しく答えたか、その数を表すものです。これはあまり、子供がどれほど良くやったかを知る助けにはなりません。

  グレード・イクイバラント・スコア:これは小数で表されます。たとえば、5.7 ならば、子供は5年生の7カ月めのレベルの成績を収めたということです。つまり、あなたの子供は、5年生の7カ月めの平均的な子供がこのレベルのテストで収めるであろうのと同じ成績を収めたということです。

  あなたの2年生の子供が算数で5.7 という成績を収めたとします。これは、あなたの子供が5年生の7カ月のレベルで勉強しているという事ではないので、子供が5年生で知る必要のあることをすでに全部知っているのだと考えてはいけません。子供の教師であるあなたは、2年生と5年生の間には、子供の知らない事柄がたくさんあることを知っているでしょう。ですから、その子供がすぐに2年生のカリキュラムから5年生のカリキュラムに飛んでもいいということではありません。けれども、こういう高い得点がとれたということは、これが得意な分野だということかもしれないので、その授業はもっと速く進めていくことができるでしょう。また、子供がしっかり理解しているとわかっている特定の事柄は飛ばす事もできるでしょう。時間つぶしの授業はしないでいいというのがホーム・スクーリングの利点の一つです。

  パーセンタイル・スコア:パーセンタイル・スコアは、同学年の他の子供達のスコアと比較するものです。パーセンタイル・スコアと、子供が正しく答えた質問のパーセントテージを混同しないで下さい。パーセンテージ・スコアが67という事は、100問につき、67問正解だったということですが、パーセンタイル・スコアが67ということは、このテストを受けた同学年の100人の中で、この子供は67人より秀でていたということです。

 

家庭で教えられた子供達はアチーブメント・テストでどんな結果を収めるか?

  経験から言って、家庭で教えられた子供達は、パーセンタイル・スコアで50よりずっと高いスコアを収めることが多いようです。パーセンタイルの性質からいって、平均的なグループで、子供達の半分は50未満のスコアを収め、他の半分は50以上のスコアを収めます。ですから、家庭で教えられた子供達の成績は平均以上のようです。

 

自分の子供はどうしてテストの結果が思わしくなかったのか?

  幾つかの可能性があります。大器晩成型なのかもしれません。あるいは、学ぶ能力に欠けているのかもしれません。子供は学ぶのに苦労していますか? ムチ打って頭にたたきこむ事はできません。「人の怒りは、神の義を全うするものではない。」けれども、あきらめてもいけません。忍耐強くあることです。あらゆるアプローチを試してみなさい。学ぶ能力に欠けているように思われる子供はしばしば、自分のできるレベル以上にやることを求められていた、あるいは求められていることがあります。良くやるようにというプレッシャーをかけるのはやめ、しかも、子供の人生をしつける事はやめないようにしなさい。そういう子供は、一日を通して一貫したしつけを必要としており、その子が振る舞いの面で、愛情のこもった理にかなった期待に応えるようにさせなさい。同じような問題を抱えた他の両親と話し合い、新しいアプローチのしかたを探し続けなさい。

  子供の成績が思わしくなかったのは、テストで力が十分発揮できないからかもしれません。また、あなたが子供をホーム・スクーリングしているのは、普通の学校で子供の成績が良くないからなのかもしれません。その場合には、その子供を自分の学年のレベルにまで上げるには時間がかかるものです。

  一方、子供の成績が悪かったのは、あなたが自分の責任をしっかり果たさなかったからかもしれません。例えば以下のように。

  ・私はスクーリングの為にきちんと時間を費やしてきただろうか? ホーム・スクーリングを始める前にしていたのと同じ事を全て引き続きしようとしてきた為に、ホーム・スクーリングの時間を十分取る事ができなかったのだろうか? 他の人を助けるのに忙しすぎたのだろうか? 3人のよちよち歩きの子供がいて、うまくいっていなかったのだろうか? あるいは親の私が利己的で、自分に十分厳しくしていず、子供に する責任をおろそかにしていたのだろうか?

  ・スクーリングのために費やした時間を効果的に使ってはいなかったのかもしれない。あまりにも子供の要望に合わせすぎ、いつ何を勉強するかを子供に決めさせてしまっていたのだろうか? 結局のところ、「愚かなことが子供の心の中につながれている」のです。子供は何が自分のためになるかを自然とわきまえているわけではありません。長期的な展望を持ち、教育の目標を立て、それに向かって進めていき、子供が一人前の大人に成長していくよう確認するのは、大人の責任です。

  ・子供は、私が求めたことに協力的ではないのかもしれない。一貫して従順を要求しないなら、子供は簡単に、ぐずぐずしたり、ふざけたり、不平を言ったりして、勉強しないで済まそうとします。

 

ホーム・スクーリングの子供達に共通する

特別な得手、不得手があるだろうか?

  家庭で教えられた子供達は、読みにおいて一番高い成績を収める傾向があり、算数の計算で一番低い成績を収める傾向があります。たいてい、内容はよく理解しており、自分のやった部分においては正確な答えを出していることが多いのですが。これはおそらく私達が、スピードや勉強量よりも、正確さや理解に重点を置いているためで、そうするのは正しいことだと私は信じています。

  けれども一つには、私達の子供達はあまり面白くないことをすることや、どんどん算数の問題に答えを出すのには慣れていないからかもしれません。子供達に勤勉さを教えるのも大切なことです。

  同様に、ホーム・スクーリングを受けている子供達は普通、言語の使いかたのセクションよりも、大文字にしたり、句読点を打つといったセクションで正解率がかなり低いようです。理解していないわけではなく、機械的なことが苦手なのです。ホーム・スクーリングをする母親はしばしば、そうした退屈で、いくらか練習を要する技術に十分力を入れません。勤勉に少し練習するなら、こうした機械的な面でも、あなたの子供達は楽に進歩を遂げることでしょう。

 

テストに対してどんな態度をとるべきか?

  親も子供もアチーブメント・テストのことで心配する理由は全くありません。私がプレッシャーを感じているなら、子供をそれを感じとって神経質になったりイライラしたりするので、テストの結果も思わしくないものになるかもしれません。

  テストは、子供がすでに何を知っているかを大人が知るための道具だと説明しなさい。子供がこれから先、何を学ぶ必要があるかをあなたが知る助けになると説明するのです。実際にテストされているのは教える側のほうであって、子供ではないという事を教えてあげなさい。家庭のティーチャーにとって、テストすることの真の意味は、子供の得意な分野や不得意な分野を知り、それによって、より効果的に教えられるようになることです。

  正しく行うなら、テストの時間は、通常の授業とは異なったことをする楽しい時間となりえます。テストは実際、プレッシャーがないなら、ゲームやパズルのようなものです。

 

テストの結果に対してどんな態度を取るべきか?

  私達の大半は自分の子供達が学科面で秀でることを望みますが、それが第一の理由で私達はホーム・スクールをする事を選んだわけではありません。私達がホーム・スクールをするのは、私達が神に従う事を望み、私達の子供達を主の薫陶と訓戒によって育てる為にこの方法を使うと神の御前で決めたからです。

  私達は何よりも、私達の子供達が救い主なるキリストを知り、彼らがこれからも主を愛し、主に従い、信頼することを望んでいます。子供達が自分の家族や他の人達に対して、愛情深く、親切で、憐れみ深く、赦す心を持つようになること、さらには、このひねくれて倒錯した子供たちの中で神のために立ち上がるだけの勇気と確信を持つようになることを願っています。そして、成熟して責任感のある大人、つまり、責任感のある夫や妻や父や母や働き手や雇用者や隣人や市民、そして、キリストの体の一部となることを。

  アチーブメント・テストはこうした事のどれ一つとして測ることはできません。どれだけ神に従っているかや人格を測りはしないし、創造力やコミュニケーションの能力やユーモアのセンス、才能や技能、その他数多くの貴重な要素を測ることもできません。ですから、私達の子供達がテストを受けて、その結果が良いにしろ、悪いにしろ、そのことに重点を置きすぎてはいけません。

  リラックスして下さい。テストは、もともと測ることを目的としていたものだけを測ります。つまり、選ばれた分野での学力だけを測るのです。神の目から見て一番大切な事柄は、アチーブメント・テストによって測られてはいないし、また、測ることはできないのです。

 

スケジュール:

現実をかいま見る

 

「標的がないなら、放つ矢は何も射止めない。」

−−賢い射手

 

  普通、人々は、スケジュールに対する全体的なやり方において二つの種類に分かれます。きちんとスケジュールを立てる性格か、そうでないかのどちらかなのです。

  きちんと立てるほうは、あまりに高い目標を掲げるために、どう頑張ってもきっちり正しくはできないと感じ、自分の生活が予想困難になると挫折してしまいます。

  きちんと立てないほうは、大まかで高貴な目標を掲げはするものの、それに達するための具体的な手段を持っていません。

  どの家族にも使える理想的なスケジュールなどありません。大半の家族は、午前中に学科を集中的に勉強し、午後の時間は、子供の年令に応じて、自由に遊ばせたり、自主的な読書の時間としたり、プロジェクトや、手伝いや、あるいは外での授業などをするのが最善だという事を発見しました。子供達は午前中に一番調子が良く、おそらく母親も同じことが言えます。

  できるだけスケジュールにそってやるようにするのは大切な事です。つまり、友人や親や親戚に、(もちろん優しく)新しい仕事ができたので、授業中は訪問や電話を遠慮して下さいと伝えるのです。避けられない電話、後に延ばせない電話のために、留守番電話があると大きな祝福となります。電話をかけてくる人達を助けるために素晴らしい装置が取り付けてあるということをみんなに知らせなさい。そうすれば彼らは、授業の邪魔をするんじゃないかと心配したり、話し中の音ばかりでイライラしたりすることがありません。留守番電話を使っている場合には、できるだけ早い内に折り返し電話して、礼儀正しくして下さい。折り返し電話をすると言っておきながら、そうしないのは無礼だし、嘘をついたことにもなります。

  スケジュールを組む時には、スクールを中心にしてスケジュールを組んで下さい。他のことを優先させないように。歯医者や医者に行ったり、その他自分で調整できることは、スクールの後にするようにすることです。時には、スクールの時間に他の事をしたいこともあるでしょうが、それはいつものことではなく、例外としたほうがいいでしょう。柔軟さと厳格さとでうまくバランスをとらなければいけないということを覚えておいて下さい。

  スクール・スケジュールに柔軟性を持たせるのは非常に大切です。ホーム・スクーリングの素晴らしさの一つは、瞬間の思いつきで色々できるということです。みんなが理科の勉強に夢中になっているなら、一日それをして過ごすこともできるし、エキサイティングな物語を読んでいて、みんながその後どうなるのか知りたくてたまらないなら、そのまま読み続けることもできます。代名詞の勉強をしている時に、水玉模様の変わった虫がテーブルの上をはってきたりしたら、何がなんでも文法の勉強はやめて、その虫を観察します! スクールのこととなると、バラエティーこそ人生のスパイスです。けれども、スパイスだけの食事ではおいしくもないし、栄養もありません。ですから、繰り返しますが、大切なのはバランスです。

 

一度に幾つもの学年を教える

  個々の人間のかかわっている所では、誰にでもあてはまる、すぱっとした答えなどありえないという事を覚えておいて下さい。私は、子供の年令に応じて、毎年違った教えかたをしてきました。問題が生じた場合のために、解決策のアイディアを提供しましょう。それを見て、祈って、考え、実験してみて、自分達にとって何が一番うまくいくかを見いだして下さい。

  最初に、何を達成しようとしているのかを心にとめておく事が大切です。私達の多くにとって、目標とは、神から見て正しい価値観を子供達に植え付け、子供達が大人となって多くの実を結んでいく為に必要な能力や技術を身につけさせる事です。そういう観点からして、ここに幾つかの心得をあげておきましょう。

  ・学科面で子供達の学ぶ一番大切なものは、「読み書き算数」です。大人になってうまくやっていくためには、よく読めるようになり、作文で自己表現できるようにならなければなりません。それも、正しい綴りで、正しい文法を使って書くことができなければなりません。また、日常生活で直面するような、実践的な算数の問題も解くことができなければなりません。

  ・理科や社会科は、どんな順番でも学べるし、殆どいつでも学べます。どの子供もいつかは歴史を勉強したり、分子が何かについて学んだりすべきですが、読み書き算数を犠牲にしてまでそういう事を学ぶ必要はありません。

  ・アメリカの公立学校制度においては、学科面で基準がしっかり定まっている事柄はごくわずかです。自分の希望の4年制大学に入学するには、特定の基準に達していなければなりませんが、それでも、大学や、その大学に入学する理由によって基準は変わってきます。その理由から、大学は、客観的な標準テストでの成績を主要な目安として、入学許可を与えるかどうかを決定しています。

  歴史や科学といった主観的な見方を含む科目に関しては、学習範囲や学習の順序について標準となるものがありません。子供達はいつかは歴史を勉強し、政府について理解しなければなりません。また、世界史もしっかり理解すべきです。歴史上の出来事というのは、国家というまとまりのもとに生きていた人々の心の中で起きている霊的、道徳的戦いの現れだということを子供達が理解するのは非常に大切なことです。

  こうした事を心得ておくなら、より柔軟性をもって、幾つかのレベルを一度に教えるためのカリキュラムを作成することができます。たとえば、2年生、4年生、5年生がいるなら、全員に4年生あるいは5年生向けの社会科の教科書を声を出して読んであげ、口頭で質問をしたらいいでしょう。

  一人の子供に特別に助けが必要なら、他の子供達に自習をさせ、助けを必要としている子供に幾らか時間をかけてあげることです。彼らにつききりでいることができない日や、何かの用事がある日には、子供達に、どこどこのページをやっておくようにと言っておき、昼食を食べながらでも子供のした分をチェックしてあげるといいでしょう。

  スクール時間以外の時間をうまく活用して下さい。子供達に話しかけなさい。ある日、私達は町の百周年記念(センテニアル−−ラテン語が語源)を知らせる看板を見ました。そのことについて話した後、ラテン語について長々と勉強しました。私達は、uni duo tri qua quint sept oct nov decという具合に、ラテン語の数の数え方を勉強したのです。または、通りにある木々の名前を調べて、それらについて勉強することもできれば、ペットとその寄生虫について勉強することもできます。子供に与えられる最善のものの一つは、行動的な好奇心です。道路の脇に車をとめて、どんな作物が育っているか見てはどうですか。でこぼこした葉っぱを取って、どうしてそんなふうなのか見てみなさい。もしあなたも知らないなら、調べるのです。時々、その場の思いつきで最高の授業ができるので、いつも回りのことに注意し、耳を傾けていて下さい。

  また、講座やセミナーで教えられた素晴らしいことをすべて実行に移す必要はないということも覚えておいて下さい。あなたにできることをして下さい。あなたにできるのはただ最善を尽くす事のみだと神はご存知だし、あなたも知っているべきです。自分にできる限りのことをしなさい。そして、今できないことについて、いつまでもくよくよ考えたりしないことです。そんなことをしても意味がありません。罪悪感は貴重なエネルギーを消耗させてしまうものです。あなたが私のようであるなら、無駄にエネルギーを消耗する余裕などありません。あなたはおそらく先生として素晴らしい仕事をしていることでしょう。私は、あなたは素晴らしい人だと思います。

 

でも赤ん坊とトドラー(よちよち歩きの子供)の場合は?

  ・赤ん坊のために、一日のスケジュールを作るのは良いアイデアです。赤ん坊はたいてい午前と午後の2回昼寝をします。ですからその時間を使って家事をするよりは、上の子供たちを教えるようにしましょう。教えるのには静かな時間が必要ですが、皿洗いにはその必要はありません。

  ・もし赤ん坊が昼寝をしない子なら、ぶらんこやプレイペン(格子で囲われた赤ん坊用遊び場)、バックパック、帯、バスケットなどを十分活用するといいでしょう。しかし、赤ん坊がいつもぐずぐず言っているようでしたら、たぶんそれは昼寝が必要だからで、寝かせてあげるべきだと私は感じます。もし赤ん坊が午前中いっぱいあなたの胸に引っついて離れないようなら、子供たちを教えることはむずかしくなります。

  ・それぞれの子供たちを15分ずつ交替で教えていきます。その間、自分の番でない子供たちは、赤ん坊をベビーカーに乗せて家の回りを歩いたり、歩道を行ったり来たりします。

  ・ひとりの子供をマン・ツー・マンで教えている間、他の子供にトドラーを見てもらいます。

  ・赤ん坊がはいはいを始め、また歩き始めたなら、赤ん坊の遊べる物を与えてあげましょう。赤ん坊があなたの物に手を出すことがないようにです。篭や箱におもちゃをいっぱい詰めて、それをあけたり散らかしたりして遊べるようにしてあげます。食器だなの一番下の引き出しに、プラスチックの容器やお皿を入れておき、赤ん坊がそれで遊べるようにしておきます。

  ・学校にあがる前の子供には、あなたが上の子供たちの授業を始める前に、10分くらいいっしょに座って何かを読んであげるといいでしょう。この間、上の子供たちに掃除をさせるよう計画するか、あるいは自分たちで静かに何かを読むような時間とします。

  ・幼い子供たちを見てもらうため、一日に2時間か、あるいは一週間に3日、午前中の2〜3時間の間、誰かを雇います。ベビー・シッターとしての料金を払い、その人に子供たちを散歩に連れて行ってもらったり、お風呂に入れてもらったり、また遊んでいるところを見てもらったり、いっしょに工作をしたりしてもらうのです。その人は赤ん坊の世話もし、おむつを替えたり、授乳が必要ならば、あなたの元に赤ん坊を連れて来ることもしてくれます。そうすればあなたは何にも邪魔されずに子供をずっと教えることができるというわけです。

  ・あなたの子供と同じ年頃のトドラーや、学校にあがっている子供を持つ親しい友人がいるなら、その友人と子供を交換して教えることも考えられます。たぶんその友人は、どちらかと言えば午前中は幼い子供達の面倒を見たいと思っており、あなたは上の子供達を教えたいと思うかもしれません。あるいはその反対かも。もし、しつけや栄養面、そしてお互いから期待するものが何かという点で一致するなら、そういった取り決めもうまくいくでしょう。

  常に融通がきくようにして下さい。毎日全く同じスケジュールを保つことはできないのです。毎日のゴールと共に、長期間のゴールも覚えておくことです。毎日スケジュールと違ってきますから、その事を覚悟し、受け入れて、そのための計画さえ練っておくとよいでしょう。スケジュール通りに行かないことも最初から考慮に入れておくなら、いらいらは減るでしょう。変えることのできない事を変えようとして、エネルギーを無駄にしてはいけません。あなたの状況を見つめ、現実的に考えて取り掛かることです。

  週ごとに違ってきます。医者に行ったり、病気になったり、また遠方からの客があったり、休日があったりするでしょう。良い日もあれば悪い日もあり、またてんやわんやの日もあるものです。また、その年によって違います。子供がトドラーで、おまる訓練に一生懸命だったかと思ったら、あっという間にティーンになり、それに伴ったもろもろの事で忙しくなってくるものです。今年はお金があっても、来年はないかもしれません。今は子供が3人でも、後になって6人の子を持つ祝福にあずかるようになるかもしれません。神の忠実さ以外、すべてのものが移り変わっていくのです。今から20年後も、そして永遠に価値のある大切なものに、あなたのエネルギーを費やすことです。明日、あるいは来週、そして一ヶ月後、さらに一年後には、たいした事ではなくなってしまう事で、今興奮したり気を動転させたりするのはやめましょう。主を見つめることで、永遠のビジョンを持ち続けて下さい。主の御言葉を読み、主の目からは真に大切な事は何かを見つけ、その事に集中すればいいのです。

 

SOS! 子供に

進歩が見られない!

  ホーム・スクーリングをしている子供の中で、成績が悪く、書くことをいやがり、11歳になっても読むことができずに、分数が全く理解できないという子供についてはどうなのでしょうか?

  この国では、学校に通う何千人もの子供が、それと同じ問題、あるいはそれ以上に悪い問題を持っています。たとえば、全体の15%の子供が学習面で何らかの問題を持っているのですから、その内の何人かが家で教えられている子供であるのは避けられないことなのです。子供の教育に深く関心を持つ皆さんなら、学ぶのが遅い子供に対して進歩を遂げる見込みははるかに大きいです。体制ではそういった子供は、しばしば落ちこぼれというラベルを張られていますが、あなたは、子供の性格や独自性を支え励ましてあげなから、子供の持つ問題に対処することができるのです。一般の学校の教師達が使っている教材はあなたにも入手可能なのです。その上、教室で子供が得るよりはるかに多くの時間と愛、しつけ、そして励ましをあなたは子供に与えることができるのです。だから元気を出して下さい!

 

読 み

  読みは、全ての子供が絶対に学ぶべき事です。しかし、まだ字の読めない10歳ぐらいの子供を持った友人を、私は少なくとも5人知っています。そのほとんどは女の子です。文字の発音をかろうじて知っている程度で、やっとその言葉を「発音」できたころには、その言葉が何だったか全く覚えていないのです。

  この子供達はみんなとても賢く、物語を読んでもらうとその詳細にいたるまで、ちゃんと覚えています。長い詩や聖句を暗記することも出来ます。とても芸術的できれいな絵をかける子供がたくさんいます。

  このような子供達は、学習能力をつかさどる右の脳が発達しているそうです。というのは、どういう事でしょう? つまり心配無用という事です。あなたの子供に何か欠陥があるわけではありません。ただ大部分の人とは物事の学び方が異なっているだけなのです。右側の脳を使う子供達は論理的に物を考えることが苦手で、むしろ非常に創造性豊かになる傾向があります。彼らにとっては学んだ事柄を他の物事に関連づけて応用する事が困難なのです。例えば音節発音法について言いますと、一つ一つの音節を発音する事はできても、その単語全体が理解出来ません。その単語をやっと言う事ができても、その単語にぶつかる度に、また音節ごとに発音しなければならず、全体の流れを見失ってしまうのです。算数の場合では、足し算の仕方は知っていても、問題を解くための足し算の応用の仕方も知りません。

  もしこのようなお子さんをお持ちでしたら、以下のことを試してみて下さい。殆どの子供達は音節発音法から学ぶ方が容易ですが、こういう子供達には違った方法で教える必要がある事を覚えていて下さい。人の方針や方法がどんなに優れていようともです。すべての状況にあってすべての人に適用することが出来るのは、神の御言葉だけなのですから。

  ・読み方を教えるためにサイト・リーディングを使って下さい。目標は、音節発音法を教えるのではなく、読み方を教えることだということを忘れないように。音節発音法を教えることは、読み方の教え方の一手段にすぎません。音節発音法を教えてもうまくいかないようであれば、それに固執する必要などないのです。

  右側の脳を使う傾向が強い子供は、サイト・リーディングでのほうがよりよく読み方を習得するようになるでしょう。そうしたら、子供は退屈な音節発音法から解放されて、直接、読み方を学ぶことができるのです。

  あなたが今持っている本を使い、そこに出てくる単語でフラッシュカードを作って下さい。単語を一つの単位として見るように励まして下さい。その言葉は何かと聞いてきたなら、教えてあげたらいいのです。又、本の中の文章を選んで、それを紙に書き写して下さい。そして子供に、フラッシュカードを並べて同じ文章を作らせるのです。正しいスペルを学ばせる為に自分で書き写させてもいいでしょう。もし必要ならば最初はフラッシュカードに絵を書いておくこともできます。見た文章と同じようにフラッシュカードを並べることができたら、次には文章を聞いて、フラッシュカードを並べるように教えるのです。

  初めて赤ん坊に読みを教えるための本で提案されている言葉ばかり教えなくてはいけないと思う必要は全くありません。「gigantic(巨大な)」という言葉をサイト・リーディングで学ぶことは、「big(大きい)」という言葉を学ぶことと、その容易さにあってはさほど変わりません。それに、今まで長い間四苦八苦してきてやっと少しの進歩がみられるなら、その子は自分が本当に上達しているように感じ、励まされるでしょう。サイト・リーディングの語いを増やす為に、家中の物にその名前のカードを貼って下さい。また、標識や看板を指さしてその読み方を教えて下さい。

  子供に自分で物語を創作させ、口述させるのです。あなたがその物語を書きとめ、その子が自分で作った物語を数日に渡って読ませましょう。物語の中の文章をカード合わせに使う事も出来ます。それから、その物語を自分で書き写させるのです。

  歌やリズムを使って読み方を教えることも出来ます。スペルや文法を教えることのできるような、歌や童謡を見つけて下さい。

 

  ・子供が沢山の言葉をサイト・リーディングで覚えたら、色々な単語の部分が同じスペルで同じ発音をする事を示して下さい。それを示すために単語のグループを活用して下さい。Cat,fat,rat,sat,tag,sag,bag,lag など。

Bob Jones Universityと「Play 'N Talk」 は両方とも、このような同音の音節のある単語グループを使っています。

  ・子供が読めるようになったらそれを録音しておいて下さい。何週間かしてから、そのテープの初めから終わりまで聞かせてあげ、どれほど進歩を遂げたか子供にもわかるようにしてあげるのです。ただ「上手になったね」と言うだけよりもはるかに効果的です。

 

  子供が単語とは物や考えを示すものだと分かり始め、読めるようになってきたら、その時に初めて音節発音法を教えることができます。それによってその子のつづりが上達し、初めて見る言葉も読めるようになるためです。

  初めにどんなふうに読み方を学んだにしろ、読む経験を積んでいくうちに最終的には誰でも、音節ごとにではなく単語全体を見て読むようになることを覚えていて下さい。あなたが遭遇するすべての言葉を読むのに、音節発音法だけに頼るなら非常に読みづらくなってしまうことでしょう。

 

つづり

  どうしても良くつづりができない人達がいるので、私達は忍耐を持ち、その人達には辞典を使うようにと教える必要があります。つづりに強い人たちは、読みながら吸収していくようです。こういった人達はただ「自然と」つづりを知っているのです。

  つづりを教えるための優れたプログラムは、一般的に言葉はどのようにできあがっているかと、音節ごとに分ける方法を教えます。これはつづりに弱い人にも効果的です。

  つづりを教える為には、トリックやリズムやふざけた方法も遠慮なく使って下さい。子供にそれが弱みである事や辞書を使う事を教える事によって、子供がつづりを征服するように教えるのです。つづりを教える優れたプログラムを使いましょう。けれども、子供が全部の言葉を覚えていることを期待してはいけません。作文でつづりをテストするのではなく、子供が間違ってつづった言葉を練習に使いましょう。コンピューターを持っているなら、手紙を書く時や原稿の最後の仕上げのために、ワードプロセッサーをつづりをチェックするものとして使わせましょう。

 

「書き方」

  子供がひどい手書きのまま繰り返して練習するようなことがないようにして下さい。子供が幼すぎてきちんと書けないのであれば、書かせないで下さい。身体が成長するにつれ、書き方も上達するものです。時がたてば、それほど苦労しないでもっと上手に書けるようになるでしょう。

  けれども、実際に教える時には正しく教えて下さい! 書き方の練習として、聖書の節を学んでそれを毎週決まった枠の中に書き入れさせ、自分で色などを塗らせることもできます。年長の子供で書き方の苦手な子供の場合には、中途半端な書き方で満足してしまうのではなく、ていねいに活字体で書かせたり、タイプさせたり、カリグラフィーを習わせましょう。

 

 

  子供が自分の手で触ることによって算数の概念を理解したり(視覚で捕える)、問題を解くのを助ける教材があると便利です。これは新しい課題を紹介したり、子供が苦労している事柄を違った方法で説明するのに最適です。

  私はブロックが特に気にいっています。ちょうどいいサイズ(子供の手で簡単に動かせるけれども、動かしたりすること自体が大変な仕事になってしまうほど大きくはない)ので、形も良く(三角形になったり、積み重ねたり、横に並べることができる)、ビー玉のように机の上をころがったりしません。それぞれの桁の値や十進法を教えるには硬貨が使えます。分数を教えるための円(紙の皿)があると、分数が楽しく学べます。というわけで子供達は、目に見えると、算数で何の苦労もしないことがよくあります。

  たいていの子供は、そのように賢明に選んである教材があると、最も楽に算数を学ぶようです。算数に出てくる記号や数字にはどんな意味があるのかを理解する助けになるのです。しかし、それらの教材を使うことによって、かえって子供が混乱するようなら、やめて下さい。暗記や、答を機械的に出すほうが得意な子供もいます。うまくいく方法を採用して下さい。

  そして子供に九九を教えなくてはいけません!私の知る限りでは、まる暗記する以外に方法はありません。遠慮なくフラッシュカードを使って下さい。ほとんどの子供は、何ページも問題を解かせるよりはこちらのほうが抵抗なく取り組めます。足し算、引き算は手や足の指を使うこともできるでしょうが、掛け算は暗記していない限りほとんど不可能です。算数の他の課題はほとんどすべてこれらの数字に依存しているのですから。九九を覚えていない子供でも掛け算より上の段階に進めるかもしれませんが、どの段階でも悪戦苦闘したり、恥ずかしい思いをすることになるでしょう。

  算数を教える上で最もありふれた問題の一つは、子供が一つの分野で上達しても、新しい事を覚えると、古い分を忘れてしまうことです。私の知っている唯一の予防法は、頻繁に、毎日でさえもおさらいすることです。練習問題をする必要はありません。一つの種類の課題に一つの問題をやらせれば十分です。子供が一つの種類の問題で間違うなら、それをもう一回やらせましょう。多分自分で間違いを見つけるでしょう。見つけられない場合は、一緒に取り組み、正しくできるようになるまで問題を幾つか解かせましょう。

  練習問題がどっさり載っているワークブックを購入し、毎日それぞれのセクションから一つの問題を選んでそれを解かせるのも一つの可能性です。

  高校生が基礎的な算数がわかっていないなら、計算機を与え、その使いかたを教えましょう。そのような場合、コンピューター・プログラムの仕事に就きそうにないのは明らかなので、高等数学はさほど必要ありません。分数の足し算、引き算、掛け算、割り算を計算機ですることはできませんが、そういった分数の計算ができなくても、この社会で生きていくことはできます。小切手帳の帳尻の合わせかたや、同業店内での価格比較その他の生活上必要な技術は教えましょう。それらはよく、消費者向けの算数の本に書かれています。

 

他のすべてがうまくいかないなら‥‥

  あなたの子供は学ぶことについて何か特別な問題を持っているのかもしれません。あらゆる角度から努力したのなら、多分子供に何か特殊な検査を受けさせたほうが良いかもしれません。学習能力の問題を診断し、その結果に応じて子供に合わせた新しい教え方を供給できる検査があります。あなたのいる地域ではどんなことが可能か、クリスチャンの学校かカウンセラーに問い合わせて下さい。検査の種類によっては、地元の大学で小額の費用か無料で検査してもらえる場合もあります。

  主がどこかの扉を開いて下さるかどうか探るために、ためらわず、いろいろな場所を試してみて下さい。子供に応じて、年令に応じて、状況に応じて判断しましょう。どの状況もそれぞれ異なっているのですから。祈って下さい。御言葉の中に助けを求めましょう。ご主人に話して下さい。一緒に自分達の得た情報をすべて検討し、決断して下さい。この種の決断で、一度決めたら永久にそうしなくてはいけないものなどありません。もし大きな間違いを犯したと思ったら、いつでも変えて下さい。

 

子供達にさせる

  さらに詳細に入る前に、親子についての基本的な事柄をはっきりさせておかなくてはいけません。私達はそれらの基本的な事柄をどこから得るのでしょうか? 聖書からです。親と子について知るためにどうして聖書を読むのでしょうか? それは、聖書こそ、創造主によって発行された人間の取扱説明書であって、私達が神が本来意図された目的を果たし、それによって人生を最大限に生かすよう助けてくれるものだからです。

 

真実でないこと

  最初に親と子について真実でないことをお話ししましょう。私達の社会で子育てにかかわっている人達の間では、かなり強力な人間至上主義的意見が聞かれます。以下はその考えかたです。

  ・子供達はこの世界に完全に無垢で罪のない状態で生まれてきた。子供本来の性質にまかせていれば、子供は自然と正しいことをするようになる。

  ・子供達はこの上もなく正直で無欲で純粋だ。この世界(と特に親)は、白紙の状態にある子供に、思うままに教えられる。

  ・子供達は壊れ物のようだ。ひょっとしたら、一見小さなことが一生残るような問題を生じさせることがあるかもしれない。親は子供を怒らせたり動揺させないように気をつけなくてはいけない。

  ・子供というものは本能的に自分に必要なものを知っているので、私達は子供自身から、子供に何が必要かを知り出すようにしなければならない。

  ・子供は必要なものを全部与えられると、素晴らしく優しく、立派で、非利己的な子供に育つ。これは、「必要」が満たされていないために自分は愛されていないのだと感じることがないからである。

  ・一人の人間が他の人間の意志に反して強制的に何かをさせる権利があるかどうかについては幾らか疑問がある。特に子供は純粋で善良なのに、母親のほうが、自分自身の子供時代の心の傷が原因で生じた問題をいまだに克服できないでいる場合もあるのだから。

  この概念は純粋に人間至上的なものです。人間はもともと善良で、何百万年に渡る進化の最終成果であり、適切な環境と励ましが与えられれば最高の善良さに到達するという考えに基づいています。人間至上主義者たちは、子供は自分達がなりたいと望むものになるために必要なものをすべて備えてこの世に生まれてきたと教えています。子供が最大限に可能性を発揮できないなら、それは自分の可能性に気付いておらず、どこかの時点で情緒的にダメージを受けたか、可能性を伸ばすために養成してもらえる環境にいなかったと言うのです。

  子育てに関するこの概念が、私達の国(他の国でも同様に)の全土で、もともと子供を育てる母親を助けることが目的で創設された大きな組織によって、程度の差こそあれ、強調されているのです。自分達が聞いていることと聖書が教えていることを比較して、どちらが正しいかを判断する力を持ち合わせていない国中の大勢のクリスチャンの婦人達は、この親と子に関する考え方をすっかり鵜呑みにしてしまっています。この考え方は出世第一主義の社会において、とても穏やかで優しさがこもっているように見える上、母親精神を支援しているようにも見えるので、好かれやすいのです。

  特に空腹の時には、毒物とはっきり書かれたビンよりも、ストリキニーネ(中枢神経興奮剤)が混合されているステーキの食事のほうがはるかに危険です。教会や大家族は、新しく母親になった人達に必要な助けを与えることを怠ってきました。年上の婦人たちは、「神の言葉が粗末にされることがないよう‥‥若い女性たちに、夫を愛し、子供達を愛するようにと教えなくてはならない」のです。ところが、世俗が首を突っ込んできて、腐れ切った助けの手を差しのべてしまいました。

 

聖書は何と教えているか?

  ・子供は罪深い性質をもってこの世に生まれてきた。聖書では、悪は外部からの影響よりも、むしろ人の心の中から生じると教えている。

  小さな赤ん坊を罪びとと見るのは難しいでしょうが、聖書にそれが真実だと書かれているので、私達はそれが真実であると知っています。ちょうど大人のキリンがキリンの赤ん坊を産むように、大人の罪びとも罪びとの赤ん坊を産むのです。

  ・子供は愚かで自己中心的である。愚かさとは、「自分のほしいものが手に入れば、幸せになる」と信じること。子供は教えられなくとも利己的で意地悪になったり、嘘をついたり、自分のものでない物を取ったり、たたいたり、蹴ったり、噛んだり、髪の毛をひっぱったりします。だから、これらのことをしないように教えられなくてはなりません。(箴言22:15)

  ・子供は訓練され、きちんとしつけられていないなら、親を悲しませ、社会のガンとなる。(箴言29:15) 

  ・子供を訓練するのは神から親に授けられた責任である。(箴言29:17, 22:6, 申命記6:6,7)

  ・子供が愚かな人間に育つに任せるよりは、杖をもって懲らしめるほうがよい。

(箴言23:13,14)

  ・親からしつけられていない子供は、自分が愛されていないように感じながら育つ。(ヘブル12:5-11)

  何と対照的なことでしょうか! 聖書の見方は人間至上主義的な見方と100%異なっています。

  子供を人間至上主義的な方法で育てようと努力している女性達に、私は深い同情を覚えずにはいられません。彼女達は懸命に取り組むものの、子供達のもともとの性質が全くそれに反しているのです。「子供がほしがる度に授乳すること」から「一生の間、子供のほしがるものは何でも与えること」へと進展していくのです。世界は子供を中心に回り、その子供は利己的で軽薄なだけでなく、母親からの無力な愛情を思うままに操るほどずる賢いのです。

  私は母乳を全面的に支持しています。私は自分の子供はすべて、生まれて数か月間、その子供と私にとって満足のいくスケジュールができてくるまで、子供がほしがる度に授乳していました。7人の子供のうち4人は家庭出産で、家庭出産と病院出産の両方についての出産準備教室を教えてきましたし、何人かの赤ん坊を取りあげ、母乳をあげる母親たちを助けてきました。だから、私は母親業に深くかかわってきたのです。私は子供を憎んだり、虐待する母親ではありません。

  そして、自由放任主義の子育て理論の結果である大勢の子供とその母親達とじかに接してきました。その子供達はひねくれていて、不機嫌で、わがままで、人づきあいが悪いのです。母親は子供の礼儀を欠いた行為にいつも言い訳を探します。「ああ! この子はまだ食べていないから。」「昼寝の時間だけれど、まだ寝ていないから。」「今朝あんまり私が構ってやらなかったから。」 このような母親達は深い罪悪感に縛られています。何と言っても、母親が正しくやっていたなら、子供達もそんな悪ガキにはならず、優しく、思いやりがあり、人なつっこい子供となっていたことだろうと考えるのです。

  そのような哀れな婦人達を私は「首輪つきの母親」と呼びます。彼女達は実際に子供の奴隷です。母親の必要や利益など全く構おうともしない子供のわがままな要求にいちいち応じていると、身も心も疲れ果ててしまいます。「わがままにさせた子は母親に恥をもたらす。」−−箴言29:15。私達が子供を育てる時には、神の御言葉に従わなくてはいけません。

 

何から始めたらいいか教えて‥‥

  あなたが、自分は全くお門違いのことをしていたんだと感じても、改めるのに遅すぎることはありません。第一に、信じる者として、自分は神の御言葉に書かれていることを実行する責任があるのだと自覚する事です。子育てにおいて世俗の哲学に従っていたなら、神のみ前で、自分が御言葉をおろそかにし、不従順を犯していたことを告白する必要があります。

  心を謙虚にして、自分が間違っていたことを主に認め、主が子供に憐れみをたれ、自分に主の特別な恵みを与えて下さるようにと求め、自分がこれから従順になると心から決意し、そのための努力をするのです。

  子供のしつけは行儀のよい子供に育てるための単なるテクニックではありません。私達親は主に従わなくてはなりません。神の御言葉が私達に子供を訓練するようにと告げているのですから。神は、子供をたたくなら神の御心に沿った子供になるとは約束されませんでした。正しい者(従順な者)の子を祝福すると約束しておられるのです。私達が主に従おうという気がないなら、子供に自分達に従うようにと教えるのは非常に困難でしょう。

  私達のおもな仕事は、子供が良い人間になるようにすることではありません。私達の第一の目的は神に栄光を帰する事です。これは、従順になって、キリストの手本に倣うことによって行います。私達が神の御言葉に従うと、神の約束が私達の人生で成就されるのがわかります。すると、人々は神の約束が真実であることを見るので、これが神に栄光を帰するのです。また、私達の人生に神の忠実さ、そして平安なる義の実を見て、神に栄光を帰する(ほめたたえる)人達もいることでしょう。

  神が子供達に親を与えられたのは、子供達には私達が必要だからということを覚えておくのは重要です! 子供に私達に従うようにと教えるのは私達の仕事なのです。これは、私達が完璧だとか従順だなどという事柄に基づいてはいません。私達が赤信号で走ったことで警官に停められた場合、「おまえは私に反則チケットを渡す権利はない! おまえだって間違いをするじゃないか! それにおまえは不機嫌な態度をしている!」などと言うことはできません。警官は、私達が間違った事をしている時には私達を止めるという権威に基づいて、反則チケットを渡す権利と義務を持っているのです。その警官個人の正しさや性格は、それとは関係ありません。

 

子供達の必要としているもの

  子供達は親にコントロールされている状態から、自分で自分をコントロールするようになり、さらには、神にコントロールしていただくようにならなければなりません。これは、親が常に心にとめておくべき大きな目標です。

  まず、子供は親のコントロール下になければなりません。幼い子供達は自分で自分をコントロールすることができず、生れつき正しいことをするわけではありません。「子たる者よ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」「あなたの父と母とを敬え。(これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている。)」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」 最初に従順を教えましょう。まず従うことを教えるなら、他のことは簡単に学べます。

  従順とは、自分の人生において権威を持った人の意志にそったことをすることです。つまり、自分のしたいことではなく、するように言われたことをする事です。子供達を私達に従わせる(親がコントロールする)のは私達の務めです。そして次第に、彼らは自らの選択によって私達に従うようになり(自分で自分をコントロールする)、やがては神に従うことを選ぶようになります(神にコントロールしていただく)

  権威者に従うことを学んだことのない大人は、主に従う事を学ぶのに非常に苦労します。私達は、主の御心に従うことによってこそ真の平安と充実感が得られると知っているので、子供達に従うことを教えるのは非常に大切だと考えます。そうした全体的な目標を心にとめておくのは大切なことです。私達は簡単に、子供の不従順な振る舞いを見逃してしまいます。車の座席にちゃんと座っているとか、ベッドの上では飛んだり跳ねたりしないといった小さなことを、いちいちうるさく言っても仕方がないと思ってしまうからです。けれども、ルールを決めたなら、将来の子供の主との歩みのために、そのルールに従わせなければなりません。

ルールを作る時には非常に慎重にしなければならないと思います。子供は罪びとだということを忘れないでおき、あらゆる問題に一度に取り組もうなどとはしないことです。今一番大切なことは何か考え、まずそれに取り組むのです。幾つかの事は、ここしばらくは「おきて」に入れないでおき、目をつむることにしたらいいでしょう。口で注意したり、振る舞いに関する罰点のチャートを作ったり、報酬をあげたり、特権を奪うことによって改善していける事もあるでしょう。

真っ向からの不従順には厳しく対処しなければなりません。経験から、スパンク(おしりをたたくこと)は不従順に対してとても効果的です。けれども、スパンクは、子供の不従順の報いであるべきで、親の怒りの結果であるべきではありません。ここに、私が使ってきて大きな助けとなった幾つかのシステムを紹介しましょう。これらは、子供達に従うよう教える上で役に立つのではと思われる提案にすぎませんが、こうしたやり方の素晴らしい点は、子供達だけでなく、私自身もこのやり方に従わなくてはいけないということです。だから、私も自制心を失うことはできないし、自分の気分のむらに応じて一貫性のないしつけをする事もできないのです。全部しっかり記したものが壁に貼ってあるので、誰かが悪いことをしたら、その子は、どんな結果になるかを知っているし、私もどうしなければならないか知っているというわけです。

 

おしおきの一覧表

  *問題を引き起こす  1回叩く

  あざける、からかう、しつこくせがむ、人をそそのかす、何か悪いことをするようけしかける。

  *ののしる2回叩く

  バカ、アホなど、相手をばかにした呼び方をする、変なニックネームで呼ぶ。

  *喧嘩腰の態度 3回叩く

  叩く、かみつく、蹴る、つまずかせる、叩く、肘でつつく、ひっかく、膝でける、また何であれ相手に痛い思いをさせようとしてしたこと。

  *尊敬のない態度、不従順の場合  5回叩く

  口答えするか、悪い態度で反応する、言われたことをしないこと。

  *悪い言葉を使う  10回叩く

  私はこれを一回しかしなくてすみました。

  私達の子供が大きくなるにつれて、内容を少し変えたりしました。次にあげるのは我が家の規則です。規則を設ける時の鍵は、なるべく主要なものに重点をおき、あまり多く作らないことです。こまごました規則は、苦痛であり、徹底させるのは不可能です。

 

我が家の規則

  規 則 みんなを優しく扱う。これは、本人に直接であれ、または本人のいないところであれ、他人の悪口を言わないということ。お互いを傷つけず、むしろお互いの安全のために気をつけてあげる。

  罰 則 制限(特権を失う)または、3回たたかれる。

  規 則 ママとパパに従う。これは、不平を言ったり、または「後でする」「どうしていつもわたしばっかり‥‥」「どうして誰々は決して‥‥」と言ったりせずに、言われたことをするということ。両親は、家で助けになることは、何でも子供達に頼むことが出来る権利を持っている。両親は子供が何をしてよく、何をすべきでないかを言う権利もある。

  罰 則 特権を失うか、追加の仕事。もし公然と挑戦したり反抗したりするなら、叩かれる。

  規 則 許可を求める。これは、他の人の所有物を使ったり、触る前に尋ねる必要があるということ。もしその人がいなければ、触ってはいけない。それとどこかに行く計画をたてたり、何かをする前に両親に尋ねること。許可を求めないで、自分はこれこれをすると、一方的に通告することは認められない。

  罰 則 品物の所有者に1ドル支払うか2回叩かれる。外出の許可を求めなかった場合、一部の活動がしばらく禁止される。

  規 則 自分の仕事を毎日する。この意味は、皆、家の仕事があり、何回も注意されないうちにすぐやること。

  罰 則 何回も注意されるのは、無責任だというしるしであるから、2回めからは、注意されるたびに25セント支払う。(両親は、1度注意したら、次の5分間は注意できない)

  規 則 門限を守る。これは、外出するならまずはっきりと何時に家に帰るべきかを知っておかなければならないということ。そして、その時間までに帰ること。規則は、夕方は午後5:45分までに帰宅、年上の子は夜10時までに帰ること。例外は前もって認められた場合か、不慮の事情により、やむを得ない場合のみ。

  罰 則 決められた通り帰らなかった場合、今後の外出は制限される。

  徴収したすべての罰金を、特別な外出のためか、宣教師への寄付のためにとっておくのは良いアイデアでしょう。こうすれば、両親が子供のお金で儲けていると、子供から非難されることはないからです。

 

ホームスクーリングについて‥‥

  他の子供に比べて勉強意欲がより自然とわいてくる子供もいます。これらの子供は言われたことをすぐにし、あまり監督されなくとも、するように指定された勉強を自分で終了します。けれども、誰かにせきたてられないと自分からはしない子供もおり、そういう子供に対しては、何をさせるにも、もしやらないなら罰を与える用意があることを知らせる必要があります。

  あなたの目的は、子供にスクーリングを与えることです。絶えず子供がそれを好きなようにさせることが出来ず、どの学科も好きにさせることができないからといって、あなたが失敗者だということはありません。スクーリングが別におもしろくなくても構いません。とにかくしなければいけないのです! あなたの仕事は、人気コンテストで優勝することではありません。子供が将来社会に役立つ大人になるために、知るべき必要のあることを教えることです。家で教えられた、子供が13才になっても、読むこともあまり出来ず、掛け算も、指示に従うこともできないなら、あなたは大失敗してしまったことになるのです。公立の学校では、しばしばそういう結果に終わっているからといって、それはあなたにとって何の言いわけにもなりません。

  非常に多くの場合、ホームスクーリングをしているお母さん方は、いつもいつも子供の質問に答えすぎるために、子供達にとって、勉強を簡単にしすぎているきらいがあります。私達は、自分でじっくり考え、勉強するのは、価値のあることだと子供たちが考えるようになるようにしなければなりません。例えば、私が1年間甥を教えたとき、彼は、いつも私に、理科や社会科の答を見つけようと、「助け」を求めてきました。まず最初に、私は甥に、教科書の中に答を見いだせないような質問は、全然ないと教えてあげましたが、その子は私を信じませんでした。そこで私は、1つの章の中のすべての答を見せてあげました。後でまた別の問題をさせたら、その子は例外を見つけたと言い張りました。だから、私は調べ、その子に48ページに答があると言いました。次の時には、私は教科書をチェックして、こう言いました。「ええ、この章の中に答はあるわ。」そして教科書を閉じて彼に渡しました。その後からは、聞いても何もならないと悟って、自分で答を見つけるようになりました。

  このことは何かの指示を読む事に関しても言えます。たいてい私の子が、「わかんないや!」と言う時、私は子供に声を出してそれを読ませ、私にその意味を説明させます。(耳で聞いて学ぶタイプの子供は特に、たとえ自分だけで読んでいても、声を出して読むなら助けになります。)こうすれば、何か子供がわからないことがあっても、それが何かが私にはわかります。まもなく、子供はこれを習慣にするようになります。これらは子供が学ばねばならない、問題解決のための初期のレッスンなのです。もし私達があまりにも長いこと子供の代わりに何でもしてあげるなら、子供はハンディキャップを負った子供になってしまいます。

  算数の問題を間違ってしまった場合には、その問題を解いた過程を声に出して言わせるなら、子供がどこで間違ってしまったかが本人にも親にもわかります。お母さんが「この答は間違っているわ。こうやってやるべきよ。」と言うなら、彼女は教えるための真のチャンスを逃してしまっているのです。その子にどうやってその答に行き着いたのか段階ごとに説明させなさい。それをやっていくにつれて、子供は自分でその間違いを発見するでしょう。それでもわからないようだったら、どこでその子が間違ってしまったのか、もっとわかりやすく説明してあげる事ができます。

  作文もまた、お母さんがあまり助けを与えないほうが、より良く教えることのできる学科です。例えば、その子が書いている段落の中の間違いを実際に見せてあげるのではなく、こう言うのです。「それには字の間違いが二つと、句読点の間違いが一つあるわ。そして文章が一つおかしい。自分で間違いを見つけて、訂正してご覧なさい。」

  子供たちは自分で問題を解けるようにならなくてはいけません。子供が1対1で指導されるのには確かに利点がありますが、子供が怠け心をもったり、人に頼りすぎないように注意しなければなりません。

  もしあなたが自分の子供を教育するという責任を負っているなら、ぜひともその子を教育しなければなりません。これには、子供がする必要のある勉強をやらせることも含まれます。

  この仕事を成し遂げるためにあなたが使う手段は、丁寧で理にかなったもので、しっかりしたものでなければなりません。基本的に言って、子供が余り好きでないことをやらせる為のテクニックは、家事であっても、勉強であっても同じです。

  要点は、子供は、自分が覚える必要のある事を学ぶためには、言われた事をしなければならないということです。

 

ホームスクーリングのその他の方法

  私達の地域には、「コッテージ・スクール」という、もともとホームスクーリングに端を発して創設されたスクールがあります。一人の女性が自分の家で一日に何時間か、14人の子供を教えます。年少の子が午前中に来て、年長の子が午後に来ます。おもに彼女が主要な学科を教え、他の母親達が練習問題などを助けます。また、親たちは聖書や歴史などの学科を教えます。

 

他の家庭の子供を

教えることについての

率直な話

 

  そのような決意をする前に私達は祈り深い配慮をお薦めします。あなたのホームスクールに外部の人を加えると、最初のうちは明瞭ではなかった沢山の問題が表面化することがしばしばあります。他の人の子供を教えるには、絶えずつきまとう明らかな障害があると思います。自分の家以外のホームスクールに心をひかれる子供は、多くの場合、以下のような(いくつかの)部類にあてはまるようです。

 

失われた羊

  大抵、以前、普通の学校に通っていた子で、哀れな生活を送ってきた子です。おそらく学科の成績があまりよくない事でしょう。嫌われ者で、同級生からからかわれたり、仲間はずれされてきたか、悪い子供達とつきあっていたのかもしれません。両親は色々と手を尽くしたけれど、何も効き目がなかったということもよくあります。

  その子が抱えている問題はたいてい、子供自身の悪癖、奇妙な習慣、自制の欠如、やる気の欠如が原因だということを覚えておきましょう。今までその子が学校で直面していた状況は大変だったけれども、問題は学校にあったのではなく、おそらく大半はその子自身にあったのでしょう。

  その子の母親もかなりその問題に対して責任があるかもしれません。そのような母親と話してみると、その人が我が子の問題をすべて学校や先生のせいにしていることがわかります。

  あなたはこの子供と母親を扱わなければならないのです。状況を変えてもそれにかかわっている人が変わるわけではありません。以前、学校が自分の子供をしっかりしつけるのを許さなかった母親が、あなたにはそれを許すでしょうか? その子が家に帰ると、母親はあなたがその子に言ってきたのと同じことを言うでしょうか、それともあなたの教えてきたことを台無しにしてしまうのでしょうか?

  この子が極端に手がかかるので、比較的正常なあなた自身の子供よりも、もっとあなたの時間をとるようになるでしょう。その子の必要を満たそうとするなら、あなたの思考、時間、感情がかなり消費されるので、自分の子のためにはあまり残らないことでしょう。

 また、その子は学ぶことについて何か問題があるけれども、あなたの子供には、そういったことがなかったので、あなたには理解できないのかもしれません。

  その子供に影響を与えているその子の家庭環境は、あなたの子供の家庭環境は違っており、それに対してあなたにできることは何もありません。

  それから、その子と自分の子が仲良くやっていけるかという問題もあります。ケンカが持ちあがると、母親にとっては客観的になって公平に状況を判断することは難しいものです。

  その子が自分の子の家庭環境を荒らしているだけではなく、学業までだめにしていると感じることもあるでしょう。その子の問題を解決したり、その教育の遅れを取り戻させないと、その子の母親に対する責任を果たしていないと感じることでしょう。授業料をもらっているのに、その子が進歩しないなら、かなり罪悪感を感じることもあります。自分の子よりもその子にもっと時間を費やさなければいけないと気付く場合がよくあります。その子のほうが、自分の子よりももっと良い教育を受ける結果になるかもしれません。このタイプの子はごまかすのが非常にうまく、大人の関心をどうやったら得られるかよくわかっている場合がよくあります。

  その子を教えるのはその子にとっては良いことかもしれませんが、あなたとあなたの子供にとってはどうでしょうか? ただ良いことをするために、もっと良いことをあきらめなければならないのは賢いことではありません。

 

例 外

  しかしながら例外もあります。他の人の子供を教えるのもうまくいっている場合の、その秘訣と思われるものを幾つかあげておきましょう。

  ・双方の母親が子供の育て方について意見が合い、お互いに信頼し合っている。実際に教えてはいない方の母親も、子供に宿題をちゃんとやらせ、必要なら罰を与えることも怠らないべきです。

  ・教えている人は自分の子供と同じ学年の子供を教えるので、余分な準備をする必要がない。その子は学ぶことについて何の障害も持っていない。

  ・教師がその子供を既によく知っていて、子供が先生を尊敬し、悪い振る舞いをすることがないのは大きな助けとなります。

  ・子供を教えてもらうことに対して、双方の合意の上で何が適当な代償になるか決めなくてはなりません。賃金でも良いし、ドレスを作ってあげたり、家の掃除をしたり、子守り、散髪などなんでもいいのです。両者がその事についてとても明確に合意し、それを忠実に守っている限りはうまくいくでしょう。

  他の家庭の子供が毎朝8時半に玄関に現れるとしたら、あなたはそれに備えていなくてはないことを忘れないように。寝坊などできません。だからホームスクールのスケジュールに縛られるわけです。あなたやあなたの子供が病気にかかり授業を休まなければならないとしたら、もう一人の子供の勉強時間も削られてしまうことになります。もしその子の母親が働いているのならもっと大変です。あなたが病気になってしまったら、誰がその子の面倒を見るのでしょう? また、季節外れの休暇や思いがけない親戚の訪問などによってもしわ寄せがくるでしょう。

  もうわかったと思いますが、これらの問題は克服できないものでは決してありません。それでも金曜日がくるのを心待ちにし、休暇までの日数を数えるようになるでしょう。人の子供も一緒に教えることは確かにもっと大変なことなのです。

 

交替する

  このような場合、スクールをする時間に、子供達を交換することを提案することも可能です。もう一人の母親が就学前の子供達を教え、あなたが就学年齢の子供達を教えるのです。または、自分の子供達だけを3日間教え、その翌日にはもう一人の母親が両方の子供達全員を教え、その次の日にはあなたが全員教えることもできます。そうすれば、二人とも一日ずつ休みがとれるようになります。もう一つの可能性は、あなたが最も得意な科目を全部の子供達に教え、もう一人の母親が自分の得意科目を教えることもできます。

  このように子供達を交替で教えて成功する場合はよくありますが、注意すべき点もあります。

  まず第一に、子供のしつけ方や教育方針に、母親同士が全く同じではないにしてもかなり似通った意見をもっていなければなりません。キリスト教の根本的な教義や子供に与える食べ物、またテレビを見せることについての方針などの面で、必ず二人が同意しているよう勧めます。

 

ガイドライン

  ・賃金で報酬を支払われることが適切だと思う場合には、その労苦に見合うだけの賃金を必ずもらうようにして下さい。ただ単にその子の両親にとって一番安あがりだからという理由だけで、あなたのホーム・スクールに来させることは決してしないで下さい。それが最も安あがり教育であるようにはしないで下さい。家庭教師の賃金は一時間10ドル強です。私立学校なら月謝120ドルから300ドルかかります。公立学校も私達の納めている税金の内、生徒一人につき年間約4千ドルかかっています。

  ・ある特定の期限にしぼってその契約をして下さい。おそらく一つの学期ごとが最適でしょう。その期間の終わりにその子の両親と、その学期がどのようであったかなどについて正直に話し合う場を設けて下さい。そして全員が(特にあなたが)そのような状態で続けることに満足している場合にのみ、その期限を延長するのです。定期的にこれを行なって下さい。決して抜け出すことが不可能な状況にはまりこんではいけません。

  ・その子供にかかりっきりで、身も心も疲れはてるというようなことがないよう気をつけて下さい。

  一歩下がって、自分にできることは限られているのだということを絶えず思い出して下さい。その子の為に自分にできることだけをし、自分自身の子供達をおろそかにするようなことがないように気をつけて下さい。あなたの責任ではないことにかかわって時間の無駄をしないように。例えばその子の食事習慣や宿題、変な性格を治そうとしたり、両親の問題に首を突っ込んだりするべきではありません。その子を愛し、励まし、算数や読み方が上達するように助けてあげて下さい。その子のために祈り、自分にできる事は何で、できないことは何か、現実的に見て下さい。二つの学期だけで、その子を優等生にすることなどできるわけがないのです。

  神はもともと、あなたが自分自身の子供達を訓練するようにと子供達を与えて下さったのです。あなたに最も責任があるのは、自分自身の子供達なのです。ですから、ホーム・スクールに人の子供をあまりにも早まって入れることはしないようにして下さい。時にはそれがうまくいくこともありますが、期待していたほどの成果が得られないことが多いのです。それを始めてみてあまりうまく行っていないようならば、できるだけ早くやめてしまうことです。「もしあなたのくちびるの言葉によって、わなにかかり、あなたの口の言葉によって捕らえられたのならば、わが子よ、その時にはこうして、おのれを救え、あなたは隣り人の手に陥ったのだから。急いで行って、隣り人にひたすら求めよ。」

 

主よ!

私は子供を家庭で

教育してきたのに!

 

  私達がホーム・スクーリングをする主な理由は、子供達に健全に育ってほしいからだと思います。子供達が主に従うようになるのを望むことは大変良いことですが、それを私達親の熱烈な目標にしてしまうと問題が生じてきます。

  他の人の努力や協力、参加、熱意などを要求するような目標を掲げる時にはいつでも問題が生じてくるのです。なぜなら、あなたは人を完全に統制することはできないからです。子供達も最終的には自分自身で決断を下すようになるのです。

  あなたが統制できるのは、自分自身の行動や思考、態度、言葉などだけです。自分自身の目標を定めることには何も誤ったところはありません。しかし、個人的な目標と、他の人の選択が拘わっているような目標の間には、大きな違いがあることを知るのは大変重要です。

  子供達が神を敬うようになることは、私達の願望であるべきであって目標となるべきではありません。私達の目標とは、私達自身神に従うことであるべきなのです。神に従う事はあなたにできる事ですが、私達が子供を神に従わすことは出来ません。子(供は自分自身の自由選択を持っている一個の人間であって、私達と全く同じように自分で神の前に立たなければならないからです。

  私が言いたいのは、ホーム・スクーリングをする事によって、子供達が神に従うようになるという保証は、全く無いという事なのです。子供がどのように成長していくかは、あなたがする事よりはむしろあなた自身の人格が左右するのです。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」 子供達が、神を敬うようになるのを願っていますか? それでは、主によって喜びをなしてください!

  公共の学校制度の中からも素晴らしい若いクリスチャンが育ってくることがあり、逆に家庭で教育されてきた子供達の中にも、キリストの御名に汚名をきせるような子供達がいるようになるでしょう。

  だからと言って、「私達が何をしようと、子供達がどうなるか保証はない」ので失意の内に投げ出してしまい、どんな教育環境や社会環境にもただ子供達を放り出してしまったらいい、と言っているのではありません。正しい霊と正しい動機でされるなら、ホーム・スクーリングは素晴らしい結果を生むことでしょう。ただベストを尽くし、あとのことは神にしていただいたらいいのです。

  親である私達は、神の御言葉に従い、子供達のことは主に信頼するという、非常に重大な責任があります。子供達が神に従うように強制することはできませんが−−愛情深い天の父に謙遜に従う喜びに満ちた人生を、身をもって示すことはできます。邪悪なものから子供達を守り、主の恵み深いことを味わい知らせること、良い習慣を子供達の内に築き、その思いを導くことも出来るのです。

  子供達が自分自身で決断を下す年令に達したら、彼らの為に祈り、引き続き神を敬うことの模範となり続けることが出来ます。しかし私達が幾つかのものは困難な方法で学んだように、子供達もその例外ではないことを知っているべきです。もしそれまで神への従順の内に歩んできたのなら、その時が来たら子供達を本人の選ぶ道に行かせ、私達に対してなされたように子供達の人生にも神が働きかけて下さることを信頼していることができるのです。

  これを書きながら、私自身が神に従順でなかったことが幾度かあったのを思い出して反省させられる思いです。主が、私の過ちによって子供達が道を外すことがないように御自身の恵みによって守って下さるように祈ります。主は、私以上に子供達を気にかけていて下さっており、彼らを守り導いて下さることがおできになると、私は知っています。

  主よ、私達を妥協させようとする、この世の基準から私達を解放して下さい。心から変わりたいという願いを込めて、あなたの御言葉を求める勇気を私達にお与え下さい。私達がただの「良い」もので満足してしまわないようにお助け下さい。正しくないのに大丈夫だと言う全ての人の声に勝って、あなたの御声を聞く事ができるように御助け下さい。あなたに目を留め続ける事が出来ますように。主よ、すべての思いをとりこにして下さい。心を新たにすることによって私達を造り変えて下さい。何事も思い煩う事をせず、むしろ心からの感謝と祈りをもって私達のいっさいの必要を神に申し上げるようにお助け下さい。それによって、神の平安が私達の心と思いをキリスト・イエスにあって絶えず守って下さるようにです。私達を造り変えて下さったあなたの御力が私達の人生に現れ、その事によってあなたの聖なる御名に栄光が帰されますように。アーメン。

 

他のホーム・スクーラーに仕える

  6年前に私が、自分の子供達を家庭で教える事に決めた時、自分以外にそんな事を考えている人など一人も知りませんでした。クリスチャンではない、ホームスクールのリーダーであるジョン・ホルトのインタビュー記事は雑誌で読んだ事がありましたが。そうした考え自体が、私にとっては全く新しいもので、それまで思いもつかなかった可能性が開けてきました。そして、1年間その事を考えてみてから、実際に思い切って始めてみる事にしたのです。誰もが、私はひどく変わっていると考えました。6人の子供の内4人が学校に行くようになって、ようやく一息つけるようになった時に、学校に行かせるのをやめたのですから! けれども人々は、私の物事のやり方が変わっていることにはもう慣れっこになっていました。その当時、6人(プラス半分)の子供を抱えており、おまけにその内の3人は家庭出産で、私は性懲りもなくいつも突飛なことばかりやろうとしていたのですから。

  どこかで私はレイモンド・ムーアの4日間のキャンプのパンフレットを手に入れました。レイモンド・ムーアの名を聞くのはそれが初めてで、彼の著書についても何一つ知りませんでしたが、私達はそのキャンプに出掛け、素晴らしい時を過ごし、意気揚々として帰ってきました。カリキュラムを送ってくれる学校の住所も持ち帰る事ができました。息子たちをテストして、必要な書類をすべて郵送し、本が届くのを待ちました。それが到着したのは、何とすごい日だったことでしょう! 妊娠8カ月の私は肺炎で寝込んでおり、それでも、学校に行っていない6人の子供を世話し導こうとしていたのです。

  私は切実にサポート・グループを必要としていましたが、そんなのは一つもなく、それどころか、じきに人々が私に電話をして質問してくるようになりました。私は、それを「実行していた」ので、その地域で、その筋の専門家という事になってしまったのです。まさにそれこそ、盲人が盲人を導く、でした! 最初の年は、「試行錯誤しながらも何とか切り抜ける」をモットーにし、ただそれをしていました。幾つかの公立学校の実態を考えたら、自分のしていることがそれ以下ということはありえないと考えて、自分を慰め、何とか切り抜けました。

  当時、カリフォルニア州では、法に従いながら家庭で教える最善の方法は、それぞれの家族が宣誓供述書を提出し、独自の私立学校となる事でした。私達の住む地域では、教育委員会はそういうのを好まず、教師が一人で生徒が数人という学校を沢山調査していました。なぜか、私達の地域で私だけが教育委員会によって調査されずに済みました。電話をかけてきた人達が、宣誓供述書を提出すべきかどうかと尋ねてきても、私にはどう答えたらいいのかわかりませんでした。

  でもある日、私は素晴らしいことを思いつきました。そうした家族が子供達を私達の「私立学校」に入学させるなら、彼らは子供達を家庭で教えることができ、なおかつ、入学を義務づける法律を守ることになり、当局からやたらに目をつけられることもないのです。そこで、何人かのホーム・スクーリングをしている友人や、州の教員免許状をもった友人と一緒に、「ペインターアベニュー・クリスチャンスクール」を設立しました。

  これをする以上、私達の力でできる限りのことをして非難の対象にならないようにすべきだと決意しました。そこで、法律を全部勉強して、他の私立学校に要求されている事柄を調べ、どんどん進めていきました。そういう他の家庭の子供達も私達の学校の生徒になることを考えると、私達はその子達の教育について責任を感じざるをえませんでした。だから、両親に何らかの義務を負わせるようにしなければなりませんでした。私が一番気にかけたのは、苦労している母親たちにあまりにも書類上の仕事を与えないようにする事です。そんな事をしたら、子供を教えるための時間が減ってしまうからです。そこで書類上の仕事は最少限にとどめました。年度の始まりに目標とカリキュラムを記すこと、1年に3回進歩についてレポートし、また、月に1度のティーチャーのミーティングをするだけにしたのです。授業料も、印刷経費や、郵送料、仕事の認可証などのために最低限の額を求めただけでした。

  最初は10の家族が集まり、私達は素晴らしい時を過ごし、互いにとても親しくなりました。ティーチャーのミーティングは退屈なビジネスタイプのものではなく、そのおもな目的は互いに励まし合うことでした。「ホーム・スクーリングをして良かったと心から思うのは‥‥」とか、「家庭で教えることで一番苦労することは‥‥」などといったテーマで話し合いを始めると、そこからどんどん発展していきます。

  経験から言って、ホーム・スクーリングをしている母親は、さらに様々な活動をすることよりも、仲間をもっと必要としています。ホーム・スクーリングをしている母親は集まって、互いの荷を負い合う必要があるのです。そうした集まりの場がなかったら、なかなか実情について話し合うことができません。近所の人達はタカのように私達を見張っているし、親戚は、私達が力に余ることをやり出したと信じていたし、夫たちもその多くは、私達が言うほどの成果をあげるかどうか1年間様子を見てみようという態度でした。私達が不平を言ったり落胆していることを彼らに知らせでもするなら、彼らはやっぱりといった調子で、「初めからそうなるとわかっていた」とか、「俺に愚痴をこぼしたりしないでくれ。それはおまえのアイディアだったんだから。好きじゃないなら、子供は学校にやれ。」と言うことがしばしばでした。そんなセリフは私達が聞く必要のあることではありません。

  私達の問題や不満を話し合う内に、いらだちを感じたり、様々な問題に直面するのは自分だけではないということがわかります。また、他の人達が自分と同じ問題に対する解決策を見いだした事も知ります。私達は共に笑い、共通する問題について話し合い、互いに同情し合い、励まし合うことができます。ティーチャーのミーティングでは、互いに助けを貸すのです。「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起こす。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起こすもののない者はわざわいである。‥‥人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当たるであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。」

  自分の地域にサポート・グループがない場合、主の導きを感じるなら、自らグループを組織して下さい。一番大切なのは、ホーム・スクーリングをしている他の人達と定期的に集まることです。共に話し、ノートを比べ合い、他の人達からアイディアをもらい、自分が普通であることを知り、子供達もみんな一緒にさせるのです! 誰もいないとしたら、探し続けなさい。この動きはどんどん大きくなっており、必ず、ますます増えていくことでしょう。

  私は、大きなホーム・スクールを始めるつもりなど全くありませんでしたが、150 近くの家族にまで増えました。今では、私達のスクールは、地区ごとに15のサポート・グループに分かれています。月に一度グループ・リーダーとミーティングを持ち、グループ・リーダーたちは、家で、自分のグループのメンバーたちと月々のミーティングを持ちます。次のようなガイドラインにそって、私達のリーダーたちはグループを運営しています。

  ・グループの目的は、サポート(支える)し、互いに励まし合う(勇気を与える)こと。この目的を心にとめておいて、話し合いを導くのです。自分自身、学ぶ姿勢を持ち、自分の問題やイライラのもとを話す事を恐れてはいけません。そうすれば人々は、問題を抱えているのは自分達だけではないと悟ります。リーダーが恥ずかしがらずに色々打ち明けるのを見るなら、彼らも同じ事をするでしょう。

  ・グループ・メンバーの間の様々な違いに敏感であること。どの教会に行っているかや、子供のしつけ法、御霊の賜物に関する考え方、結婚や離婚しているかどうか、働く母親(中には、後で職場に戻らなければならない母親もいます)、その他、議論を呼びおこしそうな話題には特に気をつけているべきです。

  ・自分のグループのメンバーと常に連絡をとること。新しく先生になった母親の中には、助けが得られるシステムがなかったら家庭で教えることなど考えもしなかったであろう人もいます。私達は、そういう人達が、障害を乗り越えていくのに必要な助けを受けていることを確認しなければなりません。ほとんど助けを必要としない人もいれば、最初だけ余分に助けを必要とする人もいるし、又、最初の1年を通して助けを必要とする人もいます。

 

  少なくとも月に一度は、サポート・グループのメンバー一人一人に電話をし、ちょっとの間、話をすることをスケジュールに組むこと。どんな状態か尋ねて下さい。また、相手の言ったことを覚えておくことです。グループ・リーダーが、メンバーの子供の名前や年令や、どの教科書を使っているかや、出産予定日がいつかや、犬の名前や、おばあちゃんが入院していることなどを覚えていてくれると、メンバーの人は本当に嬉しく思い、励まされるものです。必要なら、電話の脇にカードのファイルを備えておき、後々の参考のためにメモをとっておくといいでしょう。

  さらに付け加えておきたいこと:私達は、殆ど全ての情報を、ニュースレターによってではなく、グループ・リーダーが電話によって各メンバーに伝えることにしています。こうすれば、リーダーは自分のグループの家族に電話をする口実ができます。多くの人達は、話したいけれども、自分からリーダーに電話をするのはためらってしまうのです。

  何人かの人はひどい劣等感を抱いており、母親兼教師であることから生じるごく普通の問題があるだけで、自分は思っていた通り全くの失敗者なんだと信じ込んでしまいます。そういう母親は、ひどい真実が人に知られては困ると思い、自分から助けを求めようとはしないかもしれません。だから、グループ・リーダーであるあなたのほうが、そういう親愛なる人達を導いてあげなければなりません。おそらく、あなたのほうからいつも電話をしてあげるようにしなければならないでしょう。彼らは、自分の話などあなたは聞きたくないだろうと思っているからです。イエスがされるように、彼らを愛し、彼らの良いところを認めてあげて、励ましてあげなさい。あなたは、彼らの最善の友であるかもしれないのです。

 

  ・ミーティングを祈りで始め、祈りで終えなさい。これは主があなたに授けられた仕事です。ある意味では、あなたは小さな群れの羊飼いです。この責任の故に、あなたは謙遜で慎重になるべきです。「あなたがたのうちの多くの者は、教師にならないがよい。私たち教師が、他の人達よりも、もっときびしいさばきを受ける事が、よくわかっているからである。」

  ・大切なのは、自分をキリストのしもべとして見る事です。キリストのしもべとしてリーダーの地位にいる時、私達は他の人達に仕える事によって、キリストに仕えるのです。自分は皆の言いなりになっていると考えるなら、お決まりの事になってしまいます。グループ・リーダーだと、色々邪魔が入ったり、不便な事があったり、気難しくて思いやりのない人と話さなければならなかったりして、大変な事が余分に沢山あります。けれども人にではなく、主に仕えているなら、他の人達に仕える事に喜びを感じることでしょう。

  ・自分がした事のない仕事を他の人に任せたりしない事。あなた自身した事がないのなら、あるいは、まずあなたが喜んでそれをしようという気持ちがないなら、実地見学に行ったり、電話をかけたり、ミーティングの後片付けといった事を人に頼んではいけません。自分で何もかもしなくてもよくなる時がくるでしょうが、何でも喜んでしようという気持ちを失わないように。どんな仕事についても、下っ端の仕事で自分にはふさわしくないなどと考えるべきではありません。

  ・何もかも自分でやろうとはしないこと。他の人達に仕える喜びを人と分かち合うことです。誰かに仕事を手伝ってもらいたいなら、手本を示してやりかたを教えてあげなさい。その人が見ている所で仕事をし、次に、あなたが見守りながら、その人に仕事をさせ、それから、その人に任せるのです。何もかもあなたのやり方でするよう言い張ったりしないことです。

  人にこれからずっと助けてもらいたいなら、ほめ言葉や感謝の言葉は必要不可欠です。助けになったことや、祝福となったことや、他の人達の励ましになったことを具体的にほめてあげて下さい。いつも、人々のしている良いことを見逃してはいけません。

  私達の多くは、気乗りしないままリーダーの役目をしているものです。どういうわけか、パレードの先頭に立つことになってしまったのですが、私達が試行錯誤を繰り返しながら何とか進んでいると、他の人達は、私達の跡を確信をもってついてくるのです。私達は、主が私達全員を導いて下さると主に信頼しなければなりません。「私達は、馬や戦車に信頼する」のではなく、神に信頼しなければならないのです。「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。」

  何度も、私達が計画を立てた後で、主が介入され、私達が間違いを犯さないようにして下さいました。何かがうまくいかないたびに、主がより良い計画を持っておられたことがわかったように思います。

  ホーム・スクーラーのグループのリーダーになったら、イエスのようになる事を学ぶ為の心の準備をしておいて下さい。福音書を勉強し、主がどんな扱いを受けたかに特に注目する事です。イエスは誤った裁きを受け、感謝されず、誤解され、普通はご自分の仕えていた相手から、良い扱いは受けませんでした。大抵の場合そうならず、多くの人達はあなたの事を愛し、あなたの事を頼もしく感じるでしょうが、リーダーの地位にあって主に仕えると、批判も受けるという事を自覚しておくのは大切です。中には、あなたの動機を真っ向から疑ってかかる人もいるのです。人ではなく、神に良しとされる事を願って、あらゆる面で、非難に負けないよう最善を尽くさなければなりません。

  従順、粘り強さ、祈り、神に頼る事、これによって、リーダーの地位にあって祝福を受けることができます。創造力に富み、物事を組織化するのに長けているのは素晴らしいことですが、そういった能力に頼りすぎるなら、わなにはまってしまいます。リーダーの地位は名誉あるもので、権威が持てるし、お金も入ってきて、鼻高々になれるという理由でリーダーになるなら、自分も傷つき、他の人達をも傷つけることになります。「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」

  私達の生活のどの面においてもそうですが、私達は神に従順でなければなりません。私達はもっとイエスのようにならなければならないのです。リーダーであれ、従う者であれ。そうすれば、私達が愛し、祈り、家庭で教えた子供達は、私達の導くほうに従ってくることでしょう!

 

  子供達は永遠の将来である! 子供達こそ、将来を築きあげる者達であり、私達が子供達に今注ぎ込んでいることを、彼らは他の人達に教えるようになる。そしてその人達がまた他の人達に教えるという具合に、どんどん広がっていく!