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両親の皆さん、子供と話しましょう

−−V.ギルバート・ビーア著

 

あなたが持っているべきもの

 

  誰でも確かに話す能力を持っています。しかし、良き話し手となる人はまれです。つまり人生を変え、生きる希望を与えるような、心洗われる話ができる人は。

  誰もが意義深い話ができたらと思っていることでしょう。他の人が耳を傾けてくれるような話、聞く人を意気高揚させ、元気づけるような話ができたらと。しかし私はこの才能を十分発揮している人にあまりお目にかかったことがありません。どうしてでしょう? どうして私達はもっとそうしないのでしょうか? 毎日こんな会話がかわせたらもっといいはずなのに。

  答えは簡単です。怠慢だからだと、私は思います。私達は自分の回りにいる人たちとの接触を通してこの才能を伸ばすこともできるのに、あまりにもその人たちが身近で当たり前の存在になってしまっているので、わざわざそれを試みようとはしないのです。

  日頃から、夫婦や親子の間でコミュニケーションする能力を伸ばしていないなら、心の洗われるような話をする才能を磨く最高のチャンスを逃していることになります。これを始めるのに最適なのは家庭であり、夫や妻や息子や娘と一緒の時なのです。

  話すことや会話、あなたの子供とのコミュニケーションを通して、神の御国の重要な一画を変えるという力を神はあなたに授けられたのです。

  あなたと話すことを通して、私の考えや感情、私が親やその他の人々から学んできたこと、情熱、夢、先見の明を伝えること以上に豊かで意味のあるプレゼントがあるでしょうか? そういったものをあなたに伝える以上に大切なことがあるとしたら、それは、あなたとの相互のコミュニケーションを通して互いの徳を高め合うことです。

  ここに子供達との会話、コミュニケーションに関して最も重要なカイドラインを簡単にいくつかまとめてみました。

  1)神は、親である私達にユニークな特権を与えられました。大切な人間である子供の人生を築いていくという任務を私達の手に委ねられたのです。これは聖なる崇高な召しです。

  2)私達の子供達の人生を築きあげるのに最も効果的な手段は、私達自身の手本に支えられた会話です。親子の間でコミュニケーションをもつ事は、互いに励まし合い、学び合う最高のチャンスです。

  3)親である私達は、子供に一方的に話すのではなく、子供と共に話し合う習慣をつけるべきです。会話、コミュニケーション、話は、キャッチボールのようなものであるべきです。

 

励ましになることを言うのでないなら、黙ってなさい

 

  我が家には長年に渡って、「励ましになることを言うのでないなら、黙ってなさい」という合い言葉があります。私の言おうとしていることを表す上品な言い方ではないかもしれませんが、要点を伝えていると思います。

  キリストの弟子として、私は、わが主と同じ仕事に従事しています。神学者はこれを罪をあがなう、罪から救うと言いますが、私達は人生を変える、または人生を築き上げる、人を励ますと言うことができるでしょう。しかし私にとって人生を築きあげること、人生を変えることは、私の生き方にかかわることです。

  まず最初に、私は夫として妻を励ますことを神から期待されています。伴侶から何かを期待するのではなく、伴侶を励まし高めるというのが、結婚の第一目的です。もし自分の夫あるいは妻を毎日励ましていないのであれば、どうして自分は結婚したのかと自問してみるべきです。もしあなたの結婚が危機に瀕しているなら、まず最初に自問すべきことは、「最後に夫(あるいは妻)を喜ばすようなことをしたのはいつだっただろうか」です。そして次に「どのようにしたか?」、それから「では今日は、夫(あるいは妻)を励ますために何ができるだろうか?」です。もちろんこれも相互にすべきことであって、あなたの夫あるいは妻も同様に、あなたを助けるという責任を負っていますが。

 

  クリスチャンではないと自他共に認める友人がいるのですが、彼は夫婦間で良い関係を築き上げる為のゲームをしていると話してくれました。毎日、何か新しいことや、わくわくすることや、特別なことをして、相手を王様あるいは女王様気分にさせたりし、相手を元気づけ、より幸せな気分にさせるのです。その友人からこの話を聞かされた時、私は恥じ入ってしまいました。私はクリスチャンであり、彼はクリスチャンでないと自認しているのに、彼の方が、結婚に関しては私より聖書の訓戒に従っているからです。

  第二に、父親として、神は私が子供たち(祖父であるなら、孫)を励ますことを期待されています。子育ての使命とは、ただそばにいて子供が育っていくのをボケッと見ているのではなくて、建築家のように、成長しつつある子供の人生を、形作ってあげることです。設計者である、神の栄光のために。

  人生を形作っていくのは、育児の一部ではなく、育児の全てです。私が親としてする事は何であれ、人生を形作っていく過程の一部としてなされるべきです。

  学校から帰ってきた子供が、私と話したがる時、私はそれを邪魔が入ったとして見るでしょうか? それとも神の為に子供の人生を形成していくチャンスとして見るでしょうか? 朝食や夕食の時間は、小言を言うべき時でしょうか、それとも子供を励まし、その人生を形作ってやるべき時でしょうか?

  子供がちゃんとすることよりも、しないことの方に目が行ってしまいがちでしょうか? 正しくするにはどうすべきかを教えるよりも、子供の悪い所を話すことにばかり、時間を費やしているでしょうか?

  今日、子供とやりとりをするたびに、「これはこの子にとって、励ましになっているだろうか?」と自問してみて下さい。そうすれば、今日のほうが、昨日よりもずっと良い日であることに、驚くことでしょう。

 

あなたの子供はあなたの親友となれる

 

  私達は子供一人一人が生まれた時、その子のことを、1)ちゃんとした一人前の人間、2)神の目から見て私達と同等の存在、として考えました。決して、子供を何か不完全な、これから人間になっていく物のように見たりはしませんでした。どの子供も完璧な人間でした。妻のエリーが妊娠したとわかった時から、私達はそのように考えました。私達がまだ知らないものの、一個の人間が妻のお腹の中で育っていたのです。

  誓って言いますが、子供達を私達より劣った存在だとみなしたことはありません。いつも私達と同等の人、友達のように考えました。私はこの事が、子供のしつけ方や、導き方、子供との話し方を大きく左右すると信じています。

  友人関係の基礎は長い間かかって築かれるものだと思います。友情は年と共に円熟していき、時の試練にも耐えられるものです。

  5才の子供が、あなたにとって邪魔な存在なら、子供が25才になった時には、あなたの方が子供にとって邪魔な存在となっていることでしょう。子供が5才の時に、あなたが、その子が回りにいなくなるとせいせいすると感じているなら、子供が25才になった時に、今度は子供のほうが、親のあなたが回りにいなくなると、せいせいすると感じるようになることでしょう。

  子供との友情を築く事は、子供との信頼関係を築くことに深く関係しています。友情関係は信頼関係の現れです。信頼がなくなると、友情も終わりになります。

  信頼とは、友情関係という、つづれ織りの糸であり、友情関係という花瓶を造る粘土であり、また友情関係という、指輪を造鋳するのに使われる金です。

  皆さんが子供と信頼関係を築き、維持していきたいのなら、そしてそこから友情を育んでいきたいのなら、以下のことが重要です。

  1)一貫性を持つ。子供に何を期待するかという基準を設け、それを固守すること。子供にとっても大人にとっても、基準がたびたび変わる事ほど混乱の元となることはありません。規則を作るなら、それを無理のないものとし、必ず守らせて下さい。もちろん、時には例外もあって、規則がもはや状況に当てはまらない事もあります。あなたと子供は、あなたが優れた判断力を持っており、その時に応じて適切な判断を下すと信頼しなければなりません。しかし普通は規則が当てはまるので、その規則に従うべきです。

  2)理解を持つこと。私達の神は、献身的であることを証明するために私達が自分を苦しめたり、自分を破壊させるような事を求められはしません。神は私達が従い、愛の境界線の中で生きるよう求めておられます。親である私達もこのように理に適った同じような基準を保つべきです。もしある状況においてうまくいかないような規則を作ってしまったなら、考え直してこう言うべきです。「お前に規則を守るように言ったが、その規則がうまくいかないと意見が合った場合は別だ。そして、この規則がその一つの例だ。このことに関しては何か他の事をしてみたほうがいいね。」

  3)愛情深くなる。神が卓越しているもう一つの理由は愛です。あなたの子供が、どんな事があっても自分は愛されている、たとえ愛されるに値しない時でも愛されていると知っているなら、その子にとって、あなたに従わないでいるのはずっと難しくなります。しつけは常に、怒りや復23(598)

讐心からではなく、愛の内になされるべきです。

  4)共に過ごす。離れていては、信頼や友情関係を築くことはできません。少なくとも片親が家庭に愛と命を捧げることなしに親密な関係を築くことができたという家庭を聞いたことがありません。両親の愛情深い子供とのかかわりなしに、簡単に信頼関係を築くことはできないのです。

  5)子供を支えてやる。私達の子供達がティーンエージャーの年頃になった時、妻のアーリーと私は、ローマ人への手紙8章38、39節を子育てに取り入れました。子供によくこう言ったものです。「お前が例え何をしようとも、私達の愛をお前から引き裂くものは何もない。もしお前がしてはいけない事をして、私達の心を裂いても、私達がお前を愛さなくなるような事はないよ。」

  私の神への信頼が深まったのは、神が私のことを支えて下さると知っているからです。私の両親への信頼も深まったのも、両親が私のことを支えてくれていると知っているからです。アーリーと私が子供たちと親密な関係を持っているのも、私達両親はずっと、そして今も子供たちを支えようとしているという子供たちの確信に大きく依存していると信じています。

 

心からのコミュニケーション

 

  あなたが、高い位の人たちばかりのいる部屋に入っていくとします。あなたの地位がどのぐらい高いかにもよりますが、誰もあなたに気づかないこともあるでしょう。ところが、赤ちゃんを抱いて入ってくると、赤ちゃんが皆の関心を引きます。赤ちゃんは重要人物なのです。なぜなら、赤ちゃんは「神にかたどって」造られた性質のすべてを授かっているからです。

  一般的に言って、何かを建てる時には、そのための材料が消耗されます。家を建てるのには、木材、くぎ、ガラスなどの資財を使います。車には、スチール、プラスティックなどが資財として使われます。洋服を作るには、生地と糸が消耗されます。これがこの世の常です。

  しかし私達が、同僚や自分の子供などを励まし、互いの人生を築くのを助ける時、あなたは自分自身を使い果たすことがないばかりか、自分の徳を高めることになります。あなたは以前よりもずっと勝れた、有能な人になり、はるかに幸せになります。神の子供を励まし高めるなら、あなたはより敬虔な人となることでしょう。それは、はらはらさせられるような超自然的な考えです。そんな事を思いつく事ができるのは、神だけです。

  私の子供との差向いの人間関係において、私は自分自身が、子供の人生の中に入っていくことができ、子供が同じように私の人生の中に入ってきてくれることを願います。私が娘のジェンの考えている事にとても興味がある時はいつでも、彼女に尋ね、彼女の神聖な心の領域の中に入って、コミュニケーションをします。

  心からのコミュニケーションは、子供との(また他の人との)友情関係を築く上での基礎です。たいていの人は、心と心のふれあいに欠けたビジネス的な生活をするのに慣れているようです。私達は、必要事項、事実や問題、些細なつまらないことに対処します。私達は他の人−−夫や妻や子供でさえ−−に対して自分の心を開くのを恐れているのです。

  今週のあなたの会話を、思い起してみて下さい。特に家庭での会話を。回りの人は、あなたの気持ちや、考え、傷ついたこと、喜び、身近なことに関するあなたの意見などを聞かせてほしいと言ってきたでしょうか?

  今度、家庭での会話に、注意してみると良いでしょう。皆さんの家庭は、ありきたりのことばかり話していますか? それとも、家族と真に心の通い合った会話をしていますか? 心の通い合ったコミュニケーションは、信頼を築き、友情を築き、人生を築き上げます。

 

あなたの子供に何になってほしいか?

 

  あなたがまだ小さかった頃、誰かがあなたの頭をなでながら、何の悪気もなく、「大きくなったら、何になりたい?」と尋ねたのを覚えていますか? それは、どきっとさせられるような質問ですが、たいてい大人が他に何も言う事がない時にする質問です。

  自分の子供が大きくなった時に、どんな人になってほしいだろうかと、自問したことはありますか? 職業のことは考えないで下さい。それは子供が後で決めることですから。

  しかしクリスチャンの親として、子供の成長につれて、子供にこうなってほしいと願ういくつかのゴールがあります。私達は全力を尽くして、子供がそうしたゴールに達するよう取り組むべきです。

  ここに妻のアーリーと私が、子供のために定めたゴールをご紹介しましょう。皆さんも子供の為に、同じようなゴールを作りたいかもしれないし、あるいは、違ったゴールを作りたいと思われるかもしれません。

  1)できるだけ早く、私の子供にイエス・キリストを救い主として受け入れてほしい。

  2日毎に、神について学び、よりキリストの様になり、より神を敬うようになってほしい。

  3)子供に毎日神の言葉に生き、日々聖書を読む習慣を身につけてほしい。義務感から読むのではなく、自分で読みたいと思うようになってほしい。

  4)実のある祈りの生活を持ち、他の人と信仰を分け合うことのできる人生を送ってほしい。ここでも、義務感からではなく、本当にしたいからという理由で、そういう事をするようになってほしい。

  5)聖書の教えにそって生きてほしい。その教えとは、正直さ、忠実さ、誠実、寛容、愛、忍耐、従順、友情、自制、確信、勇気、同情、忠誠心、感謝、粘り強さ、人の役に立つこと。子供達がこれらの価値観に従って日々の決断を下し、行動するようになってほしい。

  6)神の男女として育っていってほしい。主の弟子であるとはどういうことかを理解してほしい。代価がどれだけかかろうと、神に従順に従っていってほしい。

  7)子供が模範的なクリスチャンの見本となり、神が子供の人生で働いておられるために子供が立派に育っているのを見て、他の人も神を望むようになってほしい。

  8)神への奉仕に優先順位をおいてほしい。もし何らかの方法で神に仕える謙虚な生き方を選ぶなら、それは高貴なことで、私はそのことのゆえに子供を称賛する。

  9)物質的な物の、良き管理者になってほしい。子供がわずかなお金を受け取るなら、そのお金を大事に使うように望む。天の窓が開き、沢山注ぎ入れられたとしても、その富を管理していく上で、子供が謙虚で寛容であり続ける事を望む。

  10)子供が、お金に対して正しい態度を持ち、また、お金を正しく稼ぎ、使い、与えるように祈る。そして、お金を稼ぐ事に夢中になって、神や家族のことをなおざりにするようなことがないように祈る。

  11)子供に、鍛練された人間になってほしい。ちょうど神が私達にお金を与え、それを正しく扱うよう期待されているように、子供の人生も、神から任せられたものであり、最も役に立つ方法で、最も効果的にその人生を生きるべきであることを理解してほしい。

  12)熱意をもって人生の喜びを味わってほしい。神の創造の美を楽しんだり、バラの香りをかいだり、冬の朝に食べるホットケーキを味わうために神から授かった五感を感謝してほしい。

  13)人生において、バランス良く、真剣さと優れたユーモアとの両方を持ってほしい。神と共に静かに歩む時もあれば、大笑いしたりなど。−−そう、自分のことを笑ったり、自分のおかしな仕草を笑ったりするようなこともです。神はユーモアのセンスを持っておられると私は信じています。そして私の子供達もユーモアのセンスを持ち続けるよう望みます。

  14)子供に人生の改革者になってほしい。子供が何かをするのあれば、それを神の為と他の人の為にするように望みます。まず自分のため、というのではなくて。

  私が子供に望む素晴らしいゴールをリストに挙げましたが、子供もこうしたゴールに到達したいと望むと仮定して、私は、彼らがこれらのゴールに到達するのを、どのようにして助けられるしょうか?

  方法はあります。親として、まず自分がこういったゴールに達することによって、子供のための手本となることができます。あなたにとって、子供がこれらのゴールに到達することが重要であるなら、あなた自身がそのゴールに到達することも、重要であるはずです。それを自分のゴールとすることによって、その重要性を強調することです。あなたがそのゴールにそって生き始めるなら、子供はきっとあなたのようになりたいと思うことでしょう。あなたがそれらのゴールは正しいものだと心から信じており、自らも、そうしたゴールを目指して頑張っているのを、子供は見るからです

  子供に、到達してほしいと思うゴールについて、大人が自分の生活において模範を示すなら、日常会話でも自然と、そういった事について話すようになります。毎日の生活でこうしたゴールを実践していくとはどんなことなのかについて、子供達と気軽に話すことができるのです。というのも、私達大人がすでに、自分の人生においてそうした事を実践しており、子供達もそれを見ているからです。子供は、私達が自分達の言っている通りに生きているのを見るなら、私達の言うことも聞いてくれます。

  子供を育てるとは、つまり子供が成長して、神の若き成熟した男女になるのを助けるとは、親子が互いに受け入れ合っていく過程です。

  親の子供に対する話しかたによって、子供を受け入れているか、拒絶しているかがわかります。極端に走って、沈黙を守ったり、避けたりするなら、それは完全な拒否で、「お前が人間であることを認めない。お前とは一言も話さない。」と言っているも同然です。

  その逆は、親子の会話を通して相互に受け入れることです。

  親子の断絶、そしてその結果として、家出や、反抗、悪い友達と付き合うといった問題に、発展していくのを防ぐための最善策は、毎日子供と、心の通い合う会話をかわし、子供と話している時には、そのことがあなたにとって、最も大切なことだと、子供が知るのを助けることです。

 

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  子供は将来なるであろう人物にすでになりつつある。

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子供は子供、しかしそれ以上のもの

 

  間違っているかもしれませんが、クリスチャンの親は、子供ほどには重要でない事柄のために、時間を使い過ぎていると私は思います。もっと「大きな」ことだと、もっと重要に思えるのです。

  私は、クリスチャンの親達に、実際にクリスチャンらしく行動するよう呼び掛けます−−クリスチャンとして子育ての大切さをはっきりと理解し、子育てという仕事に対して、有能な実業家か専門家になろうと頑張っている時と同様の100%の関心と献身的態度を持つようにと。

  また、子育てを、他のいかなることをも上回る、偉大な召命であると考えるよう呼び掛けます。自分の子供達を見て、彼らが、自分達の子供達を通して証しをする可能性や、幾世代にも渡る可能性を見ることが必要です。子供達と共に過ごすことは、TV番組、ゴルフの試合、友人と共に過ごす時間とは、比べ物にならないほど大切です。

  子供の事にかかわるのは、取るに足らないことではありません。あなたは、言わばじょうごの役割をしており、自分を通して未来の世界に注ぎ入れているのです。

  「たがが子供」ではなく、子供は世界を動かす力なのです! そして、今夜あなたの幼な子が、「お話して」とか「本、読んで」などと言ってあなたのひざに上がって来る時、あるいは、抱きついてきたり、誰かにからかわれて慰めを求めに来る時、あなたは、その「世界を動かす力」に面と向かうわけです。

  では、このクリスチャンの影響を、私達の子孫に永久に伝えるには、どうしたらいいでしょうか? 第一には、彼らと共に話すことによってだと思います。大切なのは、私達の言うことや言い方であり、そして、自分の話す言葉を、行動や手本によって、いかに裏付けるかが大切なのです。

  子供を、小さくて、取るに足らない存在と考えるなら、あまり大切な話はせず、ささいな会話しかしません。そのような会話は、彼らの成長に反映され、あなたの後の世代は、まるで成長を妨げられた、小人のようになってしまうでしょう。

  一方、子供達を、将来の親、将来のリーダーとして、また神の御仕事を担う男女として見、この重要な役割に向けて毎日成長しているんだと考えるなら、この最終目標に向けて彼らの人生を築くために全力を注ぎ、彼らが親となり、リーダーとなり、神の人となるのを助けることでしょう。あなたの対話こそ、彼らをその目標に向かわせるものなのです。

 

一対一の充実した時間

 

  妻のアーリーと私には5人の子供がおり、私達の子育て暦は35年になります。私達のような忙しい家庭においては、全体的な世話だけで精一杯といった状態になるのは容易なことです。5人の子供各々との一対一の充実した時間を見つける、あるいは取るのは、難しいことです。しかし、それこそ真に特別な時間なのです。

  そういった時間を探すなら、一対一の素晴らしい対話が持てるはずの時間を、かなり「無駄」に過ごしてしまっている事に気づくでしょう。特に車に乗っている時や、家にいる時、「今日は子守か」などと不平を鳴らしている時がそうです。

  アーリーは若かった頃、姉妹と一緒の皿洗いの時間を、一緒に話したり歌ったりする特別な時間とし、この「皿洗いのリハーサル」からクヮルテット(後にトリオ)が誕生したのでした。彼女達は、多くの教会の礼拝や市の行事で歌い、後に女子大生トリオとなりました。それはまた、姉妹やその子供達の間に生涯に渡る親しい友人関係を築くもとにもなったのです。

  私が農場で育った頃は、大恐慌の後で、一日の雑役が終わった後、夜に出掛けたり、何かをしたりという余裕はありませんでした。そこで私達は、ポーチの前に腰を降し、ずっと話をして夜を過ごしたものです。振り返ってみると、貧困生活の多くは、家族のきずなを強めるという素晴らしい役割を果たしてくれたことがわかります。

  一対一で過ごす時間が、それ程大切なのはなぜでしょう? 二人の人が部屋にいる時には、一対一の会話を耳にする事ができます。しかしそれに3人目が加わると、その会話の内容が突然90度の転換を見せる事でしょう。一対一というのは親密なものです。心と心、思いと思いの直接のつながりがあり、二人だけの時には最も良く意志の疎通をはかる事ができます。今日、多くの結婚が失敗に終わっている理由は、夫と妻が一対一で、親密に話す事をしなくなってしまったからです。親子の関係が成り行きまかせになっているのも、一対一の親密な関係を育てあげていないからです。

  この世界には、知性や人生を磨いたり、魂を養う関係などいろいろありますが、その中でも、クリスチャンの親と一対一の充実した関係を持つこと以上に効果的なものはないと思います。成長期にある子供が、自分はどこの誰で、両親は誰で、神は誰なのかを学ぶのは、こういった時なのです。実り豊かなクリスチャンとなるには、子供がこの3つを学ぶのは必須です。

  充実した一対一の関係や会話というのは、今日に始まったことではありません。私達のために神が与えられた関係であって、聖書にもあるのです。詩篇23篇を、神の下で働く牧者である、親のための詩篇に書き換えてみました。

 

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親のための詩篇

−−詩篇23篇の替え詩

私は我が子のための神の牧者であって、

  そのすべての必要を満たすべき者

安らかな場所で、

  我が子が眠りにつくのを助け

静かで平和な場所へと子を導く

  そこでこの子の魂は休息を得る。

神に対する責任を果たすため、

  また子供自身のために

  正しい道へと子供を導く。

暗く困難な道を歩もうとも、

  この子は恐れるには及びません。

  私が共におり、慰めるからです。

いたずらな「友」が近くにいる時にも

  私はこの子に必要な

  一切の良い食物を備えます。

幼い王子か王女のように扱い、

  富んだ家族の伝統を継がせます。

私の生きる限りは

  常に我が子の友となり、

愛情と善なる事とを

  分かち合うでしょう。

我が子の導き手となり、

  良き手本となり、

  この世での人生が終わった時には、

神の天国で私達は必ずや

  共に暮らすことでしょう。

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あなたの態度は積極的でしょうか?

 

  昔、耳にした話で、「態度」という言葉を簡潔に表している話があります。これは幾つかの異なった形で語られていますが、以下に紹介するのは、私が一番気に入っているものです。

  ある日のこと、ある人が建築現場のそばを通ると、3人の煉瓦職人が働いていました。初めの人に、「何をしてるんですか?」と尋ねると、眉をひそめ、重々しい表情で、「生活のために汗水流して働いてるんですよ。毎日毎日−−仕事、仕事、仕事! 夜になって、家に帰るのが待ちどおしくてしょうがありませんよ」と愚痴をこぼすように言ったのでした。

  2人目の煉瓦職人に「何をしてるんですか?」と尋ねると、こんな返事が返って来ました、「煉瓦を積み上げているんですよ。なかなかいい仕事でね。給料もいいし、いろいろ利点もあるし、予定通りに退職できそうですよ。」

  「何をしているんですか?」と、その人は3番目の職人に尋ねました。顔をあげたその人の表情は、微笑みと輝きに満ちていました。そして「大聖堂を建てているんですよ」と言ったのでした。

  3人の人がそれぞれ同じ仕事を、同じ給料でやっていたのです。すべての事が同じでした−−ただ彼らの態度を除いては。

 

  父親として、また祖父として、私は、次の二つの世代に遺す遺産についてじっくり考えたことがあります。子供達や孫達に、自分が一番遺したいと思うものは何だろうか? 彼らに沢山の良い贈り物を与えたいものですが、何よりも私がこれらの世代に授けたいもの、それは、人生に対する正しい態度です。

  私が会う人々は、まるで私の鏡のようです。私が気難しいと、相手もまた気難しい態度を取るものです。にこにこして明るく輝いているなら、それはすぐ回りの人に反射して返って来ます。

  私達の表情は、回りの人達の態度を反映します。彼らの表情も、私達の態度を反映します。私達は態度によって互いに影響し合っており、私達は周囲の人達にとって、雲になることも太陽になることもできるのです。

  では、親が子供に及ぼす影響はどんなに大きい事でしょうか! 子供は大半の時間を親と過ごし、初期の人生を形造る上で親に多くを依存します。子供達の形成期には、彼らの態度をも形成します。彼らが大人になってどんな態度を持つようになるかは、あなたが今、大人としてどんな態度を取っているかにかかっているかもしれません。

  しかし子供達の態度を形成するのは、ほほ笑みとしかめ面だけではありません。子供達は私達の大人として親としての態度を観察しています。−−彼らに対する態度や、私達自身の問題に対する態度を。あなたが直面した一番最近の重大局面は何でしたか? 子供達の前であなたはどんな態度を取りましたか? 他の人の悪口を言ったり、状況が自分に不利だったとか、不公平なものだったと愚痴をこぼしたりしたでしょうか? それがあなたの態度であったなら、子供が不公平な先生やテストや学校の悪い環境の事で不平を言うのを聞いても驚きではありません。親の態度が子供に反映されているというのは、よくある事です!

  次に挙げるのは、私が子供達や孫達に伝えたいと思っている態度です。

  1)「これはできない」という気持ちになったら、本当にできないのかを自問する。他に方法はないか? 本当にできなければ、自分にできる事で同じぐらい重要なものはないか?

  2)何かあるいは誰かが不公平だと感じる時には、それから学んだ事を生かして、どうしたら自分がもっと他の人達に公平な態度を取れるかを考える。

  3)誰かが自分に反対したことで傷つくなら、自分を支持してくれている人の事を考える。

  4)自己憐びんに陥りそうになったら、祝福を数える。

  5)誰かが不親切な言葉を言った時には、その人に対して心から言える親切な言葉を考える。

  6)失敗を恐れる時には、成功の助けになる3つの有利な事を考える。

  7)「誰々はもう私のことなんか愛してないんだ」という思いにかられるなら、その人が今週自分にしてくれた親切な事を3つ思い出す。

  もちろん、このリストにどんどん付け加えていくことができるでしょう。あなたがこれらの状況や他の状況に対して取る態度が、子供達に伝わるものです。子供はしばしば、鏡のように親の態度を映し出し、人生の悩みに親がどんな態度で取り組んだかを反映するのです。

 

心から子供を助けようとしていますか?

 

  聖書には、私達に対する神の愛と加護を約束する言葉が何十も、おそらくは何百もあります。

  あなたを困らせるような質問をしてもいいですか? こういった励ましや慰めの言葉を、妻や子供に最後に言ったのはいつですか? 神が、その子供達である私達に対して、どれだけ愛しているかや、いつも私達を助けたいということを繰り返し告げて下さっているのであれば、私達が妻や子供に対してそれをできないという理由はありません。

  夫婦が互いにそれを言うなら、この国の離婚率はどうなると思いますか? 妻が何かのことで心を痛めている度に、夫が妻の肩に手を回して、「僕はいつも君を助けたいと思っているんだよ。いつも僕を頼りにしていいよ。」と言うならどうでしょうか? あるいは、夫が気落ちする度に、妻が夫の肩に手をやって、「忘れないで。私はいつもあなたと一緒よ。」と言うならどうでしょうか?

  イエスが言われた黄金律(「自分がしてほしいことを、他の人にせよ」)は、私達の子供がどれほど、私達が彼らの側にいて助けようとしていることを望んでいるかを理解する助けとなることでしょう。おそらく、これを次のように言い換えてもいいでしょう。「他の人に自分をどう扱ってもらいたいかを決める。そうしたら、まず自分が、他の人をそういうふうに扱うこと。」

  夫ないし妻、あるいは子供が、自分にどう接することを望むかを自問してみて下さい。あなたは、彼らが自分の側につき、助けようとしてくれることを真に望むでしょうか? きっとそうでしょう。では、まず自分が、自分の伴侶や子供をいつも支持し、助けようとすることによって、見本を示すことです。毎日進んで優しい言葉をかけることによって導くのです。すると、彼らがどれだけ自分を支持し、助けようとしてくれるかに、びっくりすることでしょう。

  次に挙げる質問は、神があなたを支持し、助けようとして下さっているように、あなたも子供を支持し、助けようとしているかどうかを評価する助けとなります。

  友達と話している時、子供はこう言うと思いますか?

  1)「僕の両親はどんな事があっても僕の側についていてくれる。いつも僕のために最善を望んでくれるって、わかってるんだ。」

  2)「何かがうまく行かなくて、辛い気持ちになると、私はいつも最初に両親のところに行くの。いつも私が気を取り直すのを助けてくれるから。」

  3)「僕の両親は、いつも僕の最善を思ってくれるんだ。僕が一番自分のためになる事をするのを、本当に望んでいるんだ。」

  4)「何でもベストを尽くすなら、たとえ両親の望んでいた事でなくても、彼らはいつもほめてくれるの。」

  5)「両親は僕を本当に愛してくれている。僕がそれにふさわしくない事をした時にでも。」

  6)「何かバカな事をしても、心からすまなかったと思うなら、両親はいつもちゃんと赦してくれるの。」

  7)「僕の両親は、よく耳を傾けてくれるんだ。僕が話したいと思うと、必ず話を聞いてくれる。」

 

子供が耳を傾けたいと思う話し方

 

  私達は、自分は2歳や4歳の子供とは違うと考えます。確かに、ある意味では違っています。けれども彼らと同様、私達も自分の関心事や自分自身について話すのが好きです。それは、あなたの子供達も同じことです。

  子供と一緒に腰を降ろして、しばらくの間、子供の関心事についてだけ話したことはありますか? 毎日数分間、これをする時間を取るなら、後に多くの益を刈り取り、子供との愛情深い信頼関係を築く助けになります。

  あなたは何について話すでしょう? あなたの子供が一番関心を持っていることは? 会話上

手な人に言わせるなら、年齢や知的レベルにかかわらず、誰とでも、子供とでも大人とでも、何時間も話し、ずっと相手の心を捕えている事が可能だそうです。ただ、心から相手に関心を示して、相手の興味を探り出すような質問をすればいいのです。この人は何をする人なのか? どんな方法でするのか? 好きなものは何か? なぜか?

  あなたが興味のある事柄に対して、人々が愛情深い思いやりを示すことを望むのであれば、親として、つまり、子供にとって世界で最も大切な人として、あなたが愛情深く思いやりのある関心を払うことを、子供がどれだけ望んでいるかを考えてもみて下さい。

  では、そういった貴重な短い時間を子供と一緒に過ごす時、具体的に何を話したらいいのでしょうか? それは、その時によって異なります。子供はちょうど学校から帰ったばかりでしょうか? ベッドタイムの物語を読む時間でしょうか? 気に入りのお皿を割ってしまったところでしょうか? かんしゃくを起こしているところでしょうか? 何かの事で生意気な答え方をしたところでしょうか? 友達に意地悪されて、ドアから泣きながら出て来たところでしょうか?

  まずその状況について質問しなければなりません。それが常に妥当と言えます。その時点では、子供の頭はその事でいっぱいなのですから。そこから会話を始めたらいいでしょう。

  けれども、子供の興味を探るという冒険を始めておいて、話し始めるや、それをやめてしまう、というのではいけません。そういった経験はありませんか? 友達が、「最近どうしてる?」と尋ねて、話したいことがいっぱいあったのに、二言三言話しただけで、友達がすっかり話題を変えてしまったということは? 子供にこれをしてはいけません。最後までその話を続ける事です。

  アーリーと私は、子供達が幼かった時の子供達との会話を反省してみました。次に挙げるのは、時々私達が子供達に尋ねたと思う質問です。あるものは学校から帰宅したばかりの時に、あるものは朝食時に尋ねた質問です。そしてあるものは夕食時、就寝時、またあるものは傷ついた時に尋ねたものでした。

  1)「今日友達のために何か特別にしたいことはあるかい? 学校から帰って来たら、少しの間、パパと一緒に特にしたいと思う事はあるかな?」

  2)「学校で一番好きなのは誰? その子について一番好きなところはどこ?」

  3)「今日、誰か、おまえを特にうれしがらせる(または怒らせる)ようなことをした? それをどう思う?」

  4)「今日学校はどうだった?」 これは一般的な質問ですが、時には、子供がこんなことを考えているとは夢にも思わなかったという事を子供から引き出すのに役立ちます。

  5)「今夜読んであげた物語の中で一番好きなのは誰だった?」

  6)「悲しく思ったことはあるかい? (幸せに思ったこと、怒ったことや、他に感情を現すどんなことでも。)どうして? そしてどうしたの? もう悲しくなくなったのはなぜ?」

  7)「一番好きな遊びは何? 一番好きなおもちゃは? それはどうして?」

  8)「今見たビデオで一番好きだったのはどこ? この人達がした事のどこがいけなかったと思う? なぜ?」

  子供達の心や思いの中を探検するのは、この人生で一番の冒険です。幼い思いを探り出すのは、新しい土地を探検するのに勝って素晴らしいことです。それは生きるという大きな冒険の一部なのです。この習慣を一度築くや、やめたいとは思わないことでしょう。けれども、これを毎日意識的に習慣づけ始める必要があります。さもないと、子供達が耳を傾けたいと思う話し方を確立することなしに、月日はどんどん経って行ってしまいます。

 

親も耳を傾けるべき!

 

  車の通りの激しい高速道路や線路の近くに住んでいる人というのは、聞きたくない騒音は耳に入らなくなってしまうものです。比較的騒がしいオフィスで働いたことがありますが、ある程度時がたつと、自分に直接関係のある仕事の事以外は気にならなくなっていることに気づきました。

  また、それと知らないままに、自分が注意を払っていない事柄に対して返事をすることさえあると知りました。新聞を読んでいる時に子供が入って来て、「パパ、100ドルくれない?」と尋ねたとします。

  あなたが考えもせずにそれを承諾したとしても驚いてはいけません。(また、子供がそれに驚いても、驚くにあたりません!)

  私もこれをしたことがあるし、きっとあなたにもこういった経験があるでしょう。私達は、自分に直接関係したものを選んで焦点を当てるよう、自分を訓練しているのです。直接関係する事以外は、招かざる騒音であって、自分の集中している事柄を妨害するものなのです。

  人々に耳を傾けさせるものが、何であるかを知りたければ、コマーシャルを見て下さい。宣伝製作者は、人の注意を引くことの芸術の巨匠です。時には、番組を飛ばして、コマーシャルだけ見る方が面白いこともあります。宣伝製作者は、製品の素晴らしい特徴を、すべて説明したりはしません。その製品を使った場合の、一つの素晴らしい(あるいは魅惑的な)点をあなたにさっと見せることによって、注意を引こうとするのです。宣伝文句も、一度聞いたら忘れないようなユニークな言い方をします。

  宣伝製作者は、少なくともコマーシャルにおいて、聞き手に回る事はできません。けれども両親はどうしても聞き手になる必要があるのです。

  私の娘婿のケビン・エンゲルは、クリスチャンのグループの約200人の若者やそのリーダー達と一緒に働いているのですが、彼の話によれば、若いリーダーや親にとって、基調となる言葉の一つは、「子供に話を聞いてもらいたければ、良い答えよりも、良い質問を用意する方が良い」だそうです。

  他の言い方をすれば、「良い答えをしようとする前に、良い質問を用意した方が良い」ということです。問題を理解するまでは、真に解決策を与える事はできません。そして、子供が自分の問題を話すのに注意深く耳を傾けるのでない限り、子供の問題を真に理解することはできません。聞き上手になるのに、良い質問をすることは欠かせません。質問をすることと耳を傾けることとは、切っても切り離せないことなのです。

  ティーンを持つ親の中にはこう言う人もいるかもしれません。「でもうちのティーンに質問をすると、イライラしてきます。彼らは、私が詮索好きで、秘密を探り出すか、何か調べようとしていると考えるんです。私が子供を信用していないしるしだと思うんです。」

  そのような反応があるというのは、二つの問題があるしるしです。一つは、子供に質問をしたり、耳を傾けることを、まだ幼い内から始めることの必要です。あなたに幼い子供がいるなら、すぐにそれを始める事です。待っていてはいけません。以前にはあまりしなかったのに、子供がティーンになった途端、質問を尋ね始めるなら、たいていの場合子供は、あなたが詮索しているか、秘密を探り出そうとしていると考えてしまいます。

  二つ目には、ティーンに質問する時のあなたの態度に問題があるのかもしれません。あなたは実際に秘密を探ろうとしたり、詮索好きになっていますか? それとも、純粋に、子供が言わんとする事に興味を持っているのでしょうか? たとえ、その全部に同意するとは限らないとしても?

  聞き上手の基盤は、相手をどう思うかによって築かれるものです。何にも増して、相手が自分にとって大切なので、相手の言うことも大切なんだという態度を持っているでしょうか? 繰り返しますが、これもまた、子供が幼い頃から育むべき態度です。

  子供達は自分にとって人生で最も大切な存在だと認識するなら、おのずと子供達に耳を傾けたくなり、そうすることを、何にも増して優先させることでしょう。新聞を下に置いたり、食卓の準備を遅らせたり、何であれその時にしていたことを後回しにしてでも、子供が心配している事に耳を傾けようとすることでしょう。

  子供が話しかけてきたのに、私が手を休めて聞かなかったり、熱心に聞かなかったりすると、子供に対して、「おまえの言っていることは私にとって大切じゃない。ということは、おまえも私にとって大切じゃない。」とはっきり言っているも同然になってしまいます。

  自分の態度を振り返り、子供が話し掛けてくる時、自分がどんな聞き手でいるか自問してみて下さい。それは、あなたの人生における子供に対する価値観がどんなであるかを大いに示していることでしょう。

  子供は、親であるあなたに耳を傾けるべきでしょうか? 勿論です。耳を傾けるというのは相互に行われるものですが、この章では、親が子供に耳を傾ける事について触れました。子供が耳を傾ける事については前の章でお話した通りです。

 

話すとは、質問すること

 

  「でも、何について話したらいいの?」と、メアリーが聞きます。大切な顧客夫妻との晩餐に出席するので、メアリーは心配しているのです。いったい何の話をしたらいいのでしょう? 重要な人達をもてなすには、どんな会話をしたらいいのでしょう? しかも、彼らとは初対面です。

  メアリーと同じ様な苦境に立たされた事はありませんか? 大変重要な人物と、数分でも数時間でも過ごす様な立場に立たされた事は? 何を言ったらいいのでしょう? 何について話したらいいのでしょうか? そんな事を考えただけでも、神経が参ってしまいます。良い話し相手になりたいとは思いますが、友達のようにお喋りの才能がないのなら、どうしたら良いのでしょう?

  けれども、ただ適切な質問の仕方さえ身につけるなら、誰に対してもとても素晴らしい話し相手になれます。質問の仕方を心得ているのなら、何を話したら良いか悩む必要は全くありません。人々は、何よりも自分自身について話したがるからです。

  質問をする事は、最善のコミュニケーション手段の一つです。人間関係に調和をもたらすのに、誠実な質問にまさるものはありません。

  子供が答えやすく感じるような暖かく愛に満ちた質問を、親が頻繁にするなら、親子は「親友同士」のような近い関係を築くことができます。親子の間でそのような質問を多く交わすなら、お互いへの心配りと強いきずなが生じます。お互いにこう言い合うのです。「あなたの事を気にかけているのよ。−−これをどう思う? 気分はどう? 何をしたいのかい? 何はしたくないのかな? 等々。」

  もちろん、両親はいつも愛情深い聞き方をするわけではありません。「どうしてそんな馬鹿な事をしたの!」 「どんなつもりで、そんな事言ったのよ!」等のように、ひどく怒った霊で相手をこてんぱんにやり込めてしまおうとするような聞き方もあります。

  また、検察官が殺人犯を法廷で反対尋問しているような質問もあります。「家に帰る途中、おまえはどこにいたんだ! おまえが黒だって事はわかってるんだぞ。だから、さっさ白状したらどうなんだ!」

  もちろん、ごまかしを暴露する為に、単刀直入に質問すべき時もあります。そうすべき時は、そうしなければなりません。それは両親、つまり子供達のシェパード(羊飼い)としての責任の一部です。しかし、そんな時でもいつくしみと愛の霊をもって接するべきです。

  35年間以上に渡る子育てを通して、親子の強いきずなを築いてきた事を振り返ってみて、私はお互いに対する信頼こそが、私達を一つにして来たものだと確信します。どんな人間関係も、お互いに対する信頼があってこそ成り立つのです。

  自分が再び子供になったと想定してみて下さい。親があなたを信頼しているといつも言ってくれるなら、あなたはその信頼に応えようと頑張る事でしょう。しかし、年がら年中、「おまえは、悪い子だ。」と言われて育つなら、あなたは間もなくその予言を成就するようになります。

  建設的な質問とは、どんなものでしょうか? 子供が強い人間に−−特に神がその子に望まれているような人間に成長するのを励ますような質問です。ここに幾つか建設的な質問の例を挙げます。

  1)正しい決断や選択を学ばせる様な質問。

  「どっちの靴が好き?」 このような簡単な質問は、選択能力の基礎を築きます。それは、子供にこう教えているのです。「自分で物を選ぶ事を学ぶのは重要なのよ。良い物と悪い物との違いを知り、さらに良いのは何か、又何が最善なのかが分かるようになる事は、とっても大切なの。」

  もちろん親にとっては、子供と一緒に店の中に入って行って、「どの靴が一番いいのか、あなたにはまだ分からないから、お母さんが選んであげましょうね。」と言う方が、ずっと簡単でしょう。確かに、その子にはまだ分からないでしょう。しかし、子供に何が最善なのかを教えるのは、親の務めです。

  子供を一生自分の監督下に置く事は出来ません。子供が誰と交際するか決める時や、麻薬に誘われたりした時に、いつも子供に代わって決断してあげる事はできないのです。結婚相手を選び、それが賢明な選択かどうか決めるのは、あなたではありません。子供達が十代の後半に多くの重要な決断をする時、あなたがそれに関与する事はあまりないのです。ティーン達は親の助け無しに、多くの決断を自分で下すようになります。だから、たった今、子供達に正しい選択の仕方を教えるべきです。

  2)親子のきずなを強めると同時に、子供に自立することを教えるような質問。子供とのきずなを深める事と、彼らを自立させる事とは同時進行します。子供が生まれるや否や、信頼感、忠誠心、愛、友情、心配りや世話を与える事で、そのきずなを築き、日々強めて行きます。しかし同じ日に、自立するのを教えるという、とてつもなく大きな仕事を始めるのです。靴の結び方や自分でトイレに行く事、服を着たり、食べたり、その他多くの事を自分でするように教えます。だから、色々な質問をするは、お互いのきずなを強め、同時に子供が自立するのを助けているのです。

  3)子供が成長していくにつれ、自分自身や自分の才能を発見できるような質問。

  4)儀礼的な質問に留らず、そこから先に進んでもっと深い会話に導くような数々の質問。

  今朝、友人と電話で話しました。「お早よう、元気かい?」 「元気さ。君は?」 「ああ、元気だよ。」

  私は、このお決まりの挨拶を何百回となくしてきました。あなたもそうでしょう? 子供達とも、同様です。

  「学校はどうだったかい?」

  「うん。良かったよ。」

  「そうか。」

  「家では、どうだったかい?」

  [うん。良かったよ。」

  「そうか。」

  もっと深い会話に導くような質問をする技能を習得すべきです。上のような決まりきった質問は、実は質問と呼べる物ではありません。ただの挨拶で、別にはっきりとした返答を期待しているわけではないのです。真の質問は、はっきりとした答えを期待し、儀礼的な質問は、儀礼的な返事しか期待しません。

  上のお決まりの会話を、少し変えてみましょう。

  「学校はどうだったかい?」

  「うん。良かったよ。」

  「それは良かった。一番楽しかったことは何だい?」

  これで、何か話す事ができました。あなたはこう言うこともできるでしょう。「それは良かった。今朝の休憩時間には何をしたのかい?」とか、「それは良かった。先生は今日、優しかったかい?」などと。

  子供の言った言葉を繰り返しながら質問して行くのも役に立つ事があります。もう一度、同じ筋書きを使い、今度はあまりいい日ではなかったと仮定してみましょう。  「学校はどうだったかい?」

  「あまり良くなかったわ。」

  「ふぅん。何が良くなかったのかな?」

  又は、こう言う事もいいでしょう。「あまり良くなかったって、ただ少しだけ良くなかったのかい? それとも本当にひどかったのかい?」 その言葉を繰り返して言うなら、誤解することもないでしょう。子供は本当は、友達が大変な目にあったと言っているのに、あなたのほうは、自分の子供が大変な目にあったんだと思ってしまう事もあります。

  「ううん、私じゃなくて、メアリーなの。本当にかわいそうなの。お父さんが死んじゃったんだって。」

  質問しながら親子の会話を効果的にうまく進める良い例として、イエスの言われた言葉を次に記します。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求る者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか? 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか? このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする事を知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良い物を下さらない事があろうか? だから、何事でも人々からして欲しいと望む事は、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」(マタイ7:7-12)

 

家族全員が参加する習慣を持つ

 

  親子が一緒に何かをする習慣を持つ事は大切です。今日の家庭においては、親不在の子育てが大きな問題になっています。子供達に必要なのは、自分専用のテレビでもなく、かっこいい自転車でもなく、新品のビデオでもありません。彼らには必要なのは、あなたなのです!

  片親しかおらず、思うほど子供と多くの時間を取ってあげれない場合もあるでしょう。でも、子供と一緒にいる時もあるはずです。その時には、本当に有意義な時間を過ごすべきです。

  仕事の関係上、好むと好まざるとにかかわらず、頻繁に出張しなければならない人もいるでしょう。それがやむを得ない場合もあれば、そうではない場合もあるでしょう。しかし、自宅にいる時には、子供達の為にその絶好の機会を最大限に活用すべきです。

  何かを一緒にする習慣を持つ事は、子供達に与えられる最高の贈り物です。どんなテレビ番組も、それに匹敵しません。(不幸にして、テレビを親の代用品とする習慣を、子供につけさせていなかったらの話ですが。)

  成長する子供のために、家族そろって何かをするのを習慣とするよう願いますが、その場合、何をするにしても必ずあなたが一緒にいるようにして下さい。私達が天国へ行きたいのは、神と共にいたいからです。同様に、子供達が家に帰って来るのは、あなたと一緒にいたいからであるべきです。

  親が一緒にいてくれる事は、子供達にどんな印象を与えるでしょうか? 「おまえは、とっても大切なんだよ。だから、一緒にいたいんだ。」しかし、いつも不在にするなら、こういう印象を与えてしまいます。「おまえなんか大して大切じゃない。だから、他の人と一緒にいた方がいいのさ。」 両親の皆さん、家族で何かを一緒にすることを習慣にして、子供達との対話を生み出して下さい。

  退屈に聞こえるかもしれませんが、同じ場所で、同じアクティビティー、同じ儀式的な事を、何度も繰り返してするのを家族の伝統とするのです。それが、なぜ家族を一つにしてくれるかと言うと、安心感を助長するからです。お互いを当てにできるのです。そうすることで、「あなたを、気にかけているよ。」、「一緒にいてあげるからね。」、「おまえが一番大切なんだ。」というレコードを何度も何度もかけることになるのです。

  家族みんなで楽しめる場所を選んで下さい。毎年したい行事を選ぶことです。そうしたら、毎年、同じ場所に戻って行き、いつも同じことをして下さい。これは、陳腐な考えに聞こえるかもしれませんが、必ずうまくいきます!

 

言葉の神秘

−−力を伝達する小さなバケツ

 

  言葉は小さなバケツのようです。人間同士の間で、とても大切な物を運びます。

  名前を運ぶバケツもあるし、行動−−つまり出来事を運ぶのもあり、心の中に描かれた絵画を表現するのもあります。二つの物事をつなぐフックのようなバケツもあります。

  一番大切なバケツは、考えや感情を運ぶものです。それによって、考えや感情をお互いに交換し合います。

  「私はあなたを愛してます。」を例に取ってみましょう。「私」の入ったバケツは、そこで行動している人の名前、つまり「私」を運んでいます。私は、いったい何をしているのでしょう? 別のバケツがそれを運んでいます。「愛」の入ったバケツで、私の愛を送っているのです。誰に送っているのでしょう? あなたにです。真ん中のバケツにそれが入っています。口で言ったとしても、手紙に書いたとしても、この三つのバケツでとても大切なメッセージをあなたに送っているのです。そしてあなたは、それを耳の門で受け取り、頭の中に注ぎ込むのです。

  時々、この言葉のバケツは小々ややこしくなる事もあります。例えば、新婚ほやほやのカップルを想像してみて下さい。「おまえが一番愛しているのは、誰なんだい?」と聞くと、「あ・な・た」と答えが返って来ます。「あなた」の入ったバケツは、非常に優しく運ばれていきます。

  数年経ってこのカップルが喧嘩し、一人が相手を「あなた!」と怒鳴りつけているとします。同じバケツです。表面的には、全てが同じです。しかし、その意味する事には、雲泥の差があります! 最初のバケツは、柔らかく受容的な心を優しくそっと撫でてあげるようなものでした。第二のバケツには、相手の心をすり潰してしまう砂のようです。バケツ自体よりも、それをどのように送るかが、重要な意味を持つようです。言葉は、その伝え方によって意味が変わってしまいます。

  夫婦や親子間の、意志の疎通がうまくいかなくなるのは、言葉の伝達方法に問題があるからです。表面的な言葉は正しくても、その伝え方で相手の感情を傷つけたりしてしまうのです。

  言葉は、思いと心の僕(しもべ)です。言葉とは、自分自身や思いを表現する道具に過ぎません。「心から溢れる事を口が語るのである。」とイエスが言われた通りです。(マタイ15:18)

  正しい言葉を話すように子供を教えるには、まず正しく考える事を教えなければなりません。そうするには、親や神と正しい関係を持つよう助けなくてはなりません。クリスチャンとして、私達の言葉は私達の思いを表したものであり、どんな思いを抱くかは、主や他の人との関係がどんなであるかに大きく依存しています。

  子供に対する話し方についての指針。

  1)たとえあなたは笑ったり、愉快に話しているとしても、あなたが子供に伝えようとしているメッセージは、どれほど真剣なものでしょうか?

  2)あなたの言う事を、子供が誤解したり、間違った受け止め方をしてしまう可能性が大きいということはありませんか?

  3)子供があなたや友達に対してするのを望まないような話し方は、あなたも子供に対してしないこと。

  4)自分に言われたくない言葉は、自分も初めから言わない。(聖書の黄金律を実行して下さい。)

  5)夫あるいは妻、または別れた相手に、子供を通して話したりしない。(例:「『今は話したくない』ってお父さんに言ってきて。」)

  子供がどんな言葉を頻繁に使うことを望みますか? 子供達が良いコミュニケーションの仕方を学べるように、日常生活の中であなた自身が子供に学んでほしいような言葉を使うことが大切です。例えば、「お願いします。」とか、「どうもありがとう。」などと言うのを子供達は学ぶべきですが、親のあなたもそういう言葉を使っていますか? 何かするように言う時、あなたはその子に「お願いね。」と言いますか? また、その用事をし終わったら「どうもありがとう。」と、言って上げるでしょうか? 見本は、ガミガミ説教をするのに勝ります。

  黄金律(マタイ7:12)は、子供に対する言葉使いについて、覚えておくのにとても良いルールです。また、「再生」ルールも覚えておいたら良いでしょう。(つまり、後で突拍子もない時に、子供に「再生」して欲しくない言葉は、初めから言わない事です。)

 

行動は声高に語る

 

  イリノイ州の農場で育った少年の頃、私はよくうさぎ狩りをしたものです。スポーツが目的でしたが、田舎ではその肉もかなり珍重されていました。うさぎ狩りはウィンタースポーツです。猟犬がいない時は、新雪に残ったうさぎの足跡をたどって行って、巣を見つけました。

  その地方では、大人達もしていました。うさぎの足跡をどこまでもたどって行き、足跡が左に行っていると私達も左に行き、右なら右に行きます。

  それは、とても懐かしい思い出です。何百何千もの知識人や少年達が、うさぎの足跡をたどっているのを想像してみて下さい! 聖句を言い換えたもののようです。「小さなうさぎが彼らを導く。」 しかしこの話は象徴的でもあります。

  幼い頃から、私達は自分が見ならう事のできる人を求めてきました。自分の英雄となり、模範にできる人を。それについて最近ある研究報告を読みましたが、それによると、子供達の殆どは自分の両親を模範にしたいと願っているそうです。両親を尊敬し、その見本にならいたいのです。

  35年間の子育ての経験から、子供の心に最も語りかけたのは、私の言葉ではなく、彼らの見た私の生き方だったと確信しています。なぜでしょう?

  ただ規則や指図、要求などを連発し、「これやあれをしなさい。」と言うのは簡単です。しかし、自分がしていないような事は、子供にも要求しないと決心する時にこそ、本当に子供と心が通い始めるのです。主御自身がその良い手本を示しておられます。御言葉の中で主は、御自身がされない事を人々にするよう求められはしませんでした。私達に求めておられる人格を、主はすべて備えておられます。だからこそ、主は最高の模範なのです。

  子供達は驚くほど敏感です。彼らは、両親の一貫性のない育て方や誠実さの欠如、不満等を即座に感知します。そんな時、自分があまり幸せではないと、子供に告げる必要はありません。あなたが自分で気づく前に、子供達は感づいているからです。子供にどんな人間になるべきか言っておきながら、あなた自身は、全くそんな人間になるつもりがないなら、それもすぐに分かります。自分で言わないような丁寧な言葉を、子供に言わせようとしたり、あなた自身確信していない事を信じさせようとしても、子供はそれを見抜きます。

  自分自身の確信や生活態度、行動にはっきりと現れた、高い基準に従って生きる私達の確固たる模範こそ、子供達の心に最も力強く語りかけ、その人生を変えて行くのであって、言葉だけではありません。

  子供は、自分の人生の模範となるヒーローやヒロインを見つけ、彼らに見ならおうとする願望を潜在的に持っています。悪者に見ならいたいという願望を持って生まれたのではありません。子供達が悪い見本にならってしまうのは、多くの場合、親が英雄的な見本とは程遠い存在となり、子供の理想までも歪めてしまうためです。

  子供にとって英雄とは、必ずしも大冒険家である必要はありません。子供の英雄になる為には、映画やテレビのヒーローのようにならなければならないと思っている親がたくさんいますが、そんな必要は全くありません。昨晩の映画に出てきたカウボーイは、柵の上のびんを撃ち落とすのが、あなたよりも断然うまいでしょう。しかしそのカウボーイは今夜、あなたの息子を膝にのせて一緒に本を読んであげる事は出来ません。

  小さな子供は、講義からではなく、両親の生き方を自分の目で見る事から、神について最も多く学びます。親が自分の思いでいっぱいで、子供に耳を傾けようとしないなら、神様が祈りを聞いてくれると教える事は出来ません。愛情深くなく、いつもがみがみ言っているなら、子供に神様が愛して下さっていると教える事は出来ません。子供のことを気にかけてもいないなら、神様がその子の事を気にかけていて下さると言うことは出来ないのです。(編集者:これはとても良いポイントです。私達の見本はとても重要で、子供達が学ぶ大部分の事は私達の見本からです。しかしながら、私達がそうあるべきほどには愛情深くなく、親切でないとしても、神は決して彼らを失望させはしないと、子供達に教えるべきです。)

  行動は声高に語ります。何も口に出さなくても、それは大声で語ります。一言も語らぬまま、深い真理をあらわします。

 

弟子としての訓練

 

  罰の伴う訓練を、私は常に嫌っていました。尻込みしてしまいます。子供を懲らしめると、彼らよりも私の方がもっと傷つきます。陳腐な言い方ですが、本当の事です。多分あなたもそれに気づいたでしょう。それは私達も子供達と一緒に、罰の苦い実を味わっているからだと思います。しかしそれでも、子供に罰を与えなければならない時があるのです。神もそうされます! とは言っても、私は好きでしているわけではありません。

  子供と私の両方が秩序正しい生活を楽しむには、ある程度の罰がなければなりません。秩序正しい生活は訓練によってもたらされ、訓練は懲らしめによって与えられる時もあるのです。人生に秩序をもたらす為、神が私を懲らしめられる時の為に、私自身これを覚えておく必要があります。

  懲らしめは、私が父親として子供に与えるしつけや訓練のほんの小さな一部に過ぎません。責任ある行動をするように子供を教え導く事は、私にとって大きな喜びでした。そして、私も子供も、その益に預ってきました。

  イエスが去って行く時、主は弟子達(私達も含めて)に偉大な任務を委ねられました。主は、主に従うすべての者に対して、こう言われています。「行って、すべての国民を弟子とし−−あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイ28:19,20)

  この偉大な任務とは、宣教の事だと普通は思います。しかし、親に課せられた任務とは、子供達の訓練です。彼らがイエス・キリストの弟子となるように訓練する事です。それによって彼らもまた自分の子供達を訓練できるようにです。(編集者:そして、他の人々に福音を宣べ伝える事です。マルコ16:15)

  過ぎた年月を顧みると、キリストの弟子になるように子供を訓練し、彼らが大人となって子供を訓練する者となり、彼ら自身の家庭においてイエスから授けられた偉大なる任務を果たすようになるのを助けることこそ、私の最大の喜びだったと思います。

  大部分の訓練は、ただ子供と語り合うことによってなされました。神について話す為に特別に時間を取った事もありましたが、たいていの場合は日常会話の中で、ごく自然に神について教えました。雄大な雲を見てその造り主について話したり、バラの香りをかぎながら主の賜物について話し、シンフォニーにも勝るほどの、屋根の上の小鳥の大合唱に聴き入りながら、神と神の世界の素晴らしさに驚嘆したものです。

  ただ一緒に話すだけで子供の訓練になるのでしょうか? その通り。それは、キリストの弟子として規律正しい生活をするように教える事なのです。

  「靴の紐はこうやって結ぶんだよ。」 あまり偉大な任務には聞こえませんね。おまる訓練もそうです。しかし両方とも、救い主のために規律正しい生活をする弟子とするために、欠かす事のできない訓練なのです。弟子となる為にはごく初歩的な訓練が必要とされます。礼儀作法や良いマナー、適度な睡眠を取る習慣、髪や身なりをきちんとする事、毎日聖書を読んだり、祈りの時間を取る習慣、主にあって規則正しい生活をする事などを、しっかりと身につける必要があります。これらについて教える事はすべて、規律正しい生活をするように子供達を訓練する事の一部であり、弟子として成長するには規律正しい生活を身につける事が必要不可欠なのです。

  人々を訓練し、導くほど成熟しているはずのクリスチャンのリーダーが、自分の靴も結べず、礼儀作法が全くなっておらず、食事のマナーや、規則正しい生活習慣も身につけておらず、いつもだらしない服装をしていたとしたら、どう思いますか?

  親にとって偉大な任務とは、そういったごくあたりまえの物事について、ごくあたりまえに教える事です。子供達が将来、他の人々を導くようになった時に、そういった訓練は非常に重要なものとなるのです。

 

無言の会話

 

  幼年時代の経験でとてもはっきりと覚えている事が二つあります。一つは、母親が詩を読むのを、そのひざに座って聴き入っていた事です。もう一つは、父親のひざの上で、大きな懐中時計の音を聞きながら父親を眺めていた事です。

  両親は農夫で、教育は殆ど受けていませんでした。私が育った生活水準は今日では、「貧困」とか「貧乏」の部類に入るものでした。どこかに出かける為の金などなかったので、どこにも行かずただベランダで毎夕、互いに語り合うのを常としてました。子供達の本を買う金もなかったので、母が子供の頃こよなく愛した、ロングフェローやブライアントなどのような詩人の著書を読んでくれました。今日の生活水準に比べたら、非常に貧しい生活でした。しかし、実はある意味で最高に贅沢な生活をしていたのです。

 

  毎晩一緒に家族と語り合えるような環境で育っている子供達は、この現代社会にどれほどいるでしょうか? それは、今では失われてしまった贅沢です。時間も忘れて、子供をひざの上に乗せて本を読んでくれたり、一緒に遊んでくれるような両親も、過去のものとなってしまいました。

  私は両親や兄弟との豊かな会話を楽しみながら成長しました。テレビもなく、他に誰も話し相手はいなかったので、いつも一緒にいろいろな事を話しました。しかし無言の内に示された手本こそ、最善の会話だったと思います。

  母の詩は、幼心にはっきり覚えているものの一つです。ひざの上に座って母の読む声に耳を傾けていると、暖かみや優しさを感じました。世界で最も優れた朗読者が、最高のテレビ局でその詩を読んだとしても、それは母の足元にも及ばなかったでしょう。

  誰にも何にも邪魔されず、両親から、愛情のこもった100%の関心を払ってもらう事を望まない子供などいるでしょうか? アーリーと私は、その様な優しさをこめて子供達に接しようと努め、惜しみなく愛情を注いできました。時には本を読み、時には一緒に遊び、時には笑い、時には話し合いました。しかし肝心なのは親である私達が、子供達と一緒にいて真の触れ合いを持つ事です。

  私達は35年間子育てに携わってきました。それはとても長い年月です。時には、子供達に自分の時間を取られ過ぎているのではないかと思った事もあります。自分自身の趣味はどうするのでしょう? 私達に、「自分自身の事をする」権利はなかったのでしょうか? 多分あったでしょうが、5人の子供達を持った私達は、子供を教え訓練していくことと、良き夫婦関係を維持していくことに焦点をあてようと決めたのです。

  この本を通して私は、子供ともっと対話したいという願望を皆さんに贈りたいと思います。長年子供達と共に語り合って来た親の一人として、私は子供との対話をたった今始められるよう願ってやみません。人生で遭遇する最も重要な人物との素晴しい対話を習慣にする努力もせずに時間を無駄にする事は、もう一日でもしないで下さい。その重要人物とは、あなたの子供達なのです。

  子供達と対話をし、素晴らしい親子関係を築くのを助けて下さるように、神に願い求めて下さい。神は必ず助けて下さいます!

 

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神はすべての人に

誰かが必要なのを知っておられた

そう、道を示してくれる人が

赤ん坊にも誰かが

  必要なことを知っておられた

そう、自分を毎日世話してくれる人が

神は誰か優しい人が

  必要なのを知っておられた

赤ん坊が泣くときになだめてくれる人が

歩き方や話し方を教える人

子守歌を歌ってくれる人

だから、神は母親を造られた

 

神は小さな子供には

誰かが必要なのを知っておられた

手をひいて導き

全部の質問に答えてくれる人

微笑み、理解してくれる人

お話の本を読んでくれて

善悪の違いを教えてくれ

楽しい新しいゲームの仕方を教えてくれ

夜には子供たちの祈りに聞き入る人が

だから、神は母親を造られた

 

そして、子供時代ずっと

神は誰かが必要なのを知っておられた

誇らしげにほほえんでくれる人

どんな行為も励ましてくれる人

成長し、その一生の間ずっと

神はどこでもすべての子供には、

理解し、気遣ってくれる

母親の心が必要なのを知っておられた

だから、神は母親を造られた

−−キャサリン・ネルソン・デービス

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