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ホームスパン・スクール(自家製スクール)

−−レイモンド・モア/ドロシー・モア共著

 

ホームスパン・スクール

  教育制度はもともと、学校ではなく、家庭に源を発しています。19世紀までは、子供が学校に行くとしても、それは普通、12歳かもっと大きくなってからのことでした。集団教育は、大勢の人が望んでいたほどの成果が立証されていないばかりか、目下、大きな疑問の対象とされています。状況が許す限り、親が子供を家庭で教えたいと考える傾向がますます強まっているのです。そういうわけで、ホームスパン(「手織りの」、「素朴な」という意味がある)・スクールは現在、アメリカで最も急速に発展している教育運動となっており(現在おそらく25万をこえる子供達が家庭で教育を受けている)、今再び、元来の教育形態の真価を立証しています。

  幼い子供を不必要に家庭から連れ出して施設に入れるというのは、恐らく、今日最も広まっている児童虐待だと言えるでしょう。自分が拒絶されていると感じている児童の受けるダメージは普通、肉体的に虐待されている児童が受けるダメージよりも大きいというのは、著名な心理学者や精神医学者の多くが指摘している通りです。

  ホーム・スクールは、ほぼどんな状況下でもうまくいきます。都市であれ田舎であれ、貧しい家庭であれ裕福な家庭であれ、親の職業が何であれ、両親が揃っているのであれ片親だけであれ、親が大学出であれ高卒であれ、アメリカであれ、他の国であれ、うまくいくのです。

 

ホームスクーリングの仕方

  必要条件、それはいたって簡単です。親はただ愛情深く、感受性や適度な一貫性を持ち、それに加えて、多少の想像力、常識、また二、三の簡単な提案に喜んで従う気持ちがあるなら、それだけで十分なのです。子供の真の必要など全く意にも介さない隣人からどう思われるかなど、気に病む必要はありません。そういう人達にはただ親切にすることです。そして、あなたの家庭でも、近所でも、色々助けになることをするよう子供に教えたらいいでしょう。老人、虚弱者、病人を見舞ったり、見返りを求めたりせずに他の人達を助けるのです。そうすればじきに、あなたの「奇怪な行動」が取り沙汰されることもなくなるでしょう。むしろ尊敬の対象になるかもしれません。

  ある意味では、起きている時間は、子供への手本となることによって常に教えていることになります。親の勤勉さに差異はありますが、どの親も、普通の学校の就業時間中ずっと正式な授業をする必要はありません。学科の正式な授業時間は一日に2、3時間が適切で、ほとんどの場合、それ以上する必要はありません。父親母親の多くは、正式な授業を一時間ちょっとにとどめています。

  それよりもはるかに大切なのは、身の回りの仕事を子供達と一緒にやり、子供が実技や働くことの高尚さを学ぶよう助け、勤勉さ、整理整頓、秩序、責任感、信頼できるといった性格を伸ばしてやることです。今日では、子供や青少年の間に、そういった特質を見いだすのはごく希というのが実状です。

  実際的な事柄を教えると同時に、教訓や手本によって、マナーや美徳を教えていく事ができます。親切さ、思いやり、赦し、寛大さ、他の人への愛といった美徳は、今日ではあまり見られません。こういった事は、現在の学校ではほとんど教えられていません。背筋をしゃんと伸ばして歩くこと、相手の話にしっかり耳を傾けること、上品な話し方をする事を教えましょう。パウロがピリピ4:8に、「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること‥‥それらのものを心にとめなさい」と記しているのは、見てくれだけの行為ではなかったのです。これは、本を選ぶ際にも良い指針となります。

  このような教えかたをし、それに加えて、あなたと一緒に日課となった肉体的作業をさせるなら、他のやり方では教えられないような道徳的な事柄も教えられます。こうした簡単な日課に従い、かつ、優れた教材を用いて教えるならば、あなたの子供は学科面で秀でるでしょうし、それだけでなく、振る舞いの面でも秀でるでしょう。また普通は、人との関係においても極めて良くやっていく事でしょう。

  今日の学校では一般的に、子供達は、勉学やスポーツ、遊び、スナックタイムを通して、自己中心的で自分本位の考え方を身につけていきます。でも、そうではなしに、仕事や奉仕や分け合うことの喜びを通して、人を愛し、「隣り人の幸せをまず考える」という態度を身につけてはどうでしょうか。

 

人との交わり(対人関係)

  幼い子供達は、学校でよりも家庭での方がより良い教育が受けられるし、その上、人との交わりの面でも他の幼い子供達からよりも、両親の示す手本や分け合う事から、より多くを学びます。一般に信じられている説に反して、他の子供達と交わるのは、幼い子供達にとって、優れた対人関係を築く事を学ぶ最善の方法ではありません。人との交わりは決して中立ではなく、プラスになるかマイナスになるかのいずれかです。

  1.建設的、あるいは愛他的で、節度のある対人関係を築けるかどうかは、家庭と大きなつながりがあります。と言うのも、そのような関係を築けるかどうかは、自己に対してどんな価値観を持っているか、自分をどれほど価値のある存在と考えているかに深く関係しているからで、少なくとも子供が常に自分で考えることができるようになるまでは、家庭において身につけた価値観や家庭での経験が自己に対する価値観に大きく影響するからです。言い換えるなら、毎日、同年代の子供達とよりも、両親と共に勉強し、食事し、遊び、休息し、また両親に本を読でもらっている子供の方が、自分は家族の一員だという意識が強く、自分は必要とされ、望まれ、頼りにされていると感じている事でしょう。そういう子供こそ、自分は価値ある存在だと感じています。

  2.一方、8才から12才の間に、自分と同じ年令の子供達とばかり一緒にいて、親との意味のある会話がほとんどなく、家庭で何かの責任を果たすということもないなら、人との交わりにおいて、非建設的態度、自分第一といった態度をとるようになります。まだ小さい時に同じ年頃の子供達から影響を受けると、概して、自分の家族の価値観に無関心になり、親から注意されると反抗するものです。同じ年頃の子供達と過ごす時間の方が多いことから、子供は、親よりも友達の手本に習い、親からこれこれをしなさいと言われてもその理由が必ずしもわからないので、その結果、自然の成り行きとして、友達のする事に習うようになります。「みんなそうしてる」のですから。そして、親の価値観は払いのけてしまうわけです。こうなると、次の世代に譲り渡せるような確固たる価値観を持つこともあまりなく、実際的能力にも欠け、生産力も、決断力も持ち合せない人間になってしまうことが殆どです。

  60年代の反抗者たち、70年代の麻薬とセックス文化、そして80年代の倒錯社会はこうしてできあがったのです。しかし、ホームスクールには麻薬など見当たりません。ホームスクーリングを実践している人達は普通、しっかりとした目標を持っており、近所でも指導者的存在です。その家庭は多くの場合、子供達の社交の場となっています。子供というのは、どの親が自分達のことを気にかけてくれているのか本能的に知っているのです。

 

ホームスクールのための小十戒

  新しくホームスクーリングを始める人すべてに全般的に当てはまるアイデアが幾つかありますが、それを「ホームスクールのための小十戒」と呼ぶことにしましょう。これは、色々な人からの個人的な体験や、ホームスクール専門家の意見から集めたものです。

  1.親としての確固たる信念や目標を持つ。社会的圧力や、悪い法律よりも、自分の子供の必要の方が大切かどうか、そして他の人から変人だと思われても隣人に対して同情心を保てるかどうかの決断を下す。自分の子供のことを知れば知るほど、うまくやっていける。

  2.忍耐や温かみがあって、一貫性を持ち合せ、子供の必要に応えてやる親になろうという気持ちが、自分にどれだけあるかを吟味する。子供をうまく扱えないなら、扱い方を学ぶ。それができないなら、良い学校に入れるか、子供を導くことのできる誰かに委託する。

  3.子供の成長や発達の程度をよく知るようにし、教育委員会などに対して、知識と確信を持って話せるようにする。

  4.親としての権利を知る。

  5.受けられる最善のカウンセルを求める。必要とあらば、全国的な専門家に依頼すること。経験豊富な助言者や証人なしに法廷に出る事はしない。

  6.自分の能力と信念にそったカリキュラムを選ぶ。多くの親は後になって、カリキュラムを組むのに教材を提供するスクールの助けがなくてもできることに気付くが、始めたばかりの頃は経験豊富な教材会社の提供するものを使ったら良い。

  7.バランスのとれたスケジュールにする。一日中、教科書に縛られていることのないように。一般的なホームスクールでは、フォーマルな授業は1時間半から2時間あれば十分で、それが済んだら、子供と一緒に家の仕事をしたり、本を読んだり、歌を歌ったり、休息したり、食事をしたり、色々な所に出掛けたりしたら良い。子供が二人以上いる場合には、年上の子供に年下の子供を教えさせ、また強い者に弱い者を助けさせる。ホームスクールでは問題よりも楽しい事の方が多いべきだし、毎瞬間、手本によって教えていることになる。暖かな態度で応じる。想像力を駆使する。五感で感じられるものは何でも教材になる。

  8.異なっていることを大袈裟に騒ぎ立てない。また異なっていることを恥じるべきでもない。自分のホームスクールに名称をつけ、尋ねられた際には子供が、例えば「僕はライス・クリスチャン・アカデミーに通っています」と答えられるようにしておく。自分のホームスクールを教材提供スクールの分校と考えるか、または、地元の公私立および教区の学校の衛星校として設定しておくのは賢明かもしれないし、地元の教育委員会の信認がなければならないなら、公認の教員による監督を手配しておいたら良いかもしれない。ホームスクールはどれも、それぞれ異なる事を覚えておく。自分の子供の必要を満たそうと堅く決意しているならば、うまくいく。

  9.当局の教育関係者のほとんどは、ホームスクールが静かに進行されることを好む。カリフォルニア州などでは、州もしくはカウンティーの教育委員会に宣誓供述書を提出するのが普通であるが。教育関係の役人から異議を唱えられたり、逮捕の脅しをかけられた場合には、平静を保ち、あなたのホームスクールの正当性を証明するものを見せ、そういう証明するものがある場合、彼らに何かもっと良いアイデアがあるかどうかを尋ねる。もし執ように異議を申し立ててくるなら、専門家の助けを借りる。たいていは、訓令が出たり、教育委員会を相手に公聴会が行われたり、あなたに代わって専門家が役人相手に答弁したりなど、裁判沙汰にしないで済む方法が幾つもあり、多くの場合、それによって問題が迅速に解決される。信仰のある親の場合には、祈ることも大切である。

  10.冷静さを保つ。親が考えているほどのスピードで子供が学んでいかない場合には、カウンセルする。忍耐を持つ。

  親としての権威と責任を州に明け渡してしまったとしても、やはり子供に対する責任はあなたにありますが、一度失った権威を再び完全に取り戻すとは絶対にできないという事を、忘れてはいけません。

  フレデリック・ル・プレイとか、J・D・アンウィン、またはカール・ジマーマンといった著名な社会学者の言っていることを信じるのであれば、私達は家庭でより多くの時間を子供達と過ごし、退廃的な圧力や法律から彼らを保護しなければなりません。この社会が、ギリシャやローマのように衰退し、崩壊してしまうことがないようにです。現在の社会状況は、かつてのギリシャやローマの状況にそっくりなのですから。

  もっと温かみと一貫したしつけを持ち、甘やかすことは控え、親と共にもっと仕事をさせるようにし、豪勢な玩具ではなく、道具や釘や金づちをもっと持たせ、老人や若者、貧しい者、病んだ者など、他の人にもっと奉仕させ、遊戯や娯楽は控えさせ、もっとセルフコントロール、生産性、責任感を持たせるようにするなら、子供自身、自分は立派な市民だという意識を持つようになります。この大切な任務を一番しっかり果たすのは、家庭における親、それも子供と親密な関係をもった親なのです。

  以下は、私達がこれまでに耳にした、あるいは直接かかわってきたホームスクーリングの体験談です。これが助け、あるいは励ましとなって、あなたもまたあなた自身の「ホームスパン・スクール」を持てるようにと願っています。

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御言葉でもなく、真理でもないことを、わざわざ自分の子供に教えたいとは思わない。

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看護婦と広報マン

(マージー・スカーファー)

 

  息子を失ってしまうのでは、という恐れに悩まされ、私達は必死でした。公立学校の状況のすべてが、懸念の種でした。意地の悪いいたずらは日常茶飯事で、靴やセーターなど、トイレを詰まらせるものなら何でも流してしまうのです。そしてライバル意識の激しいことといったら。始終、最大、最強、最高の者になろうと競り合っているのです。

  「かと言って、子供をすべてのことから守るなんてできない。人生は厳しいのだから。」と人々は言います。あまりにも多くの子供が、氾濫する悪質ないやがらせに傷ついています。痛烈な言葉によって、何度傷つけられることでしょう。私達はもうマークを学校に行かせないことにしました。

  マークの教科書を購入することができ、それまで学校で教わっていた科目を続けました。私は地元の教会の牧師に電話をし、マークの勉強を監督してくれる人を知らないかと尋ねました。私は看護婦の資格がありましたが、他の大勢の親と同様、子供の勉強を導くほどの能力はないと思っていたのです。その牧師は、教員免許を持っている人を紹介してくれました。ホームスクールを始めたその学年の残りは、週に1回その人のところに通いました。彼女の教え方を見ていた私は、翌年の新学期までには、自分自身とマークについて自信がわき、彼女の助けを借りないでやることにしたのでした。

  しかし、問題がなかったわけではありません。私達のことが地元の当局に通報されてしまったのです。他からの圧力を感じ、それに屈服してしまいそうにもなりました。私達が認めたい認めたくないにかかわらず、他の人が私達のことをどう思っているかは非常に重要なのです。そこで私達は決断を下しました。賢い決断を。地元の教育機関に直接行って、学校児童出席担当者と話すことにしたのです。自分達で子供のホームスクーリングについて報告しようというわけです。恥ずかしい話ですが、この時点で、私はさほど勇気にあふれていたわけではありませんでした。しかし担当の人は非常に理解のある人で、私達の家庭教育プログラムが、その地方の教員免許のある人に常にチェックしてもらっているなら問題はないと言いました。

  私達はマークに学校に行くのをやめさせる理由の要約を書き、使用する予定の教科書のリストやカリキュラムを提出しました。翌年の新学期にマークが家庭教育を始めた時も同じことを行い、地元の教育委員会の出席担当の人にそれを送りました。

  結局、私達のプログラムは非常に成功していたので、数か月もすると、教育委員会が私達に連絡をとってくることもなくなりました。私達の隣に住む人は、地元の公立学校の校長でしたが、彼女は最初から私達の味方になってくれ、実は今でも応援してくれています。彼女が、私達と教育委員会との間に入ってくれ、それ以来、委員会側は私達と連絡を取ってはいません。

  ホームスクーリングを始めて1年もたつと、私達の家庭学校は通常の学校での授業とはかなり異なるものとなってきました。教育についての私達の概念は、人格形成も含めるようになり、それと共にカリキュラムも変わってきたのです。

  息子たち−−今は15、12、11歳−−は、読み書き数学の他に、聖書、英語、スペル、科学、音楽、タイプを勉強しています。そして、成績をつけるのはできるだけ避けています。マイペースでやり、それぞれが、さらに上級に進めるようになった時に進み、弱い面は余分に時間をかけるように励ましてします。

  私達のカリキュラムは現在、以下の四つのテーマに分かれています。聖句の学習、自然の学習、役に立つ労働と生活体験です。私達の家庭の一日は、デボーションで始まります。息子達は聖書のテキストやワークブックで勉強しています。それから、私達−−息子たちと私が一緒に−−がその日のための勉強の計画を立てます。その時の問題や必要に応じて、数学や読みのために2時間かけることもあります。または、午前中ずっと様々な学科の教科書に取り組んでいることもあります。そして、全く教科書を使わないプロジェクトをする時もあるのです。

  たいてい、正午までには学科の勉強を終わり、あとの時間は他の活動ができるようにします。このことも、息子たちが家庭での勉強を楽しんでいる理由です。

  息子たちは科学の教科書を使いますが、他のいろいろな活動をしながら経験を通して科学の基礎を学べることを私達は発見しました。たとえば、ハイキングに行ったり、近くの山にバックパックを背負って出かけ、道沿いに、木や花、岩層、鳥、昆虫を観察するのです。息子たちのペットには、鳥や馬、うさぎ、りすもいます。これらの動物はどれも、毎日、息子たちの世話を要し、息子たちはそれをしています。

  私の夫は仕事柄、アメリカやカナダの様々な所で会社の代表として会合に出て話したりするので、私達家族は夫と共に旅行しては、ありとあらゆる所を訪問するのを楽しみ、色々学んでいます。

  私達には、息子のジョナサンのことで問題がありました。ジョナサンは読み方を学びたがらなかったのです。いつも年令の割に少しばかり未熟なところがありましたが、もう9才です! 9才の子供が駆け回るばかりで、読めなかったのです! 読めない! 興味がない! レイモンド・モア博士は、10歳かそれより後になるまで読むことをしない少年たちがいると私に話してくれましたが、よりによって、自分の息子がそうだなんて! おまけに、私はそれほど忍耐のある人間ではなかったので、心配し始めました。教会の運営する学校の校長、批判的な隣人など、私達が失敗するのを心待ちにしている人達が大勢いたのですから!

  自分の子供を家庭で教えるだけでも、大変な事です。友人や親戚は、何とか子供を家庭で教えるという考え方に慣れてきました。けれども、ジョナサンを小羊のように−−どちらかと言えば、子馬のように−−自由奔放に駆け回らせておいて、読めないままにしておくですって? とんでもない事です!

  だから、私は息子を教えようと決心しました。一緒に腰を降ろし、鮮やかな挿絵がついていて大きな活字で印刷された1年生向けの本を見始めたのです。けれども息子はまるで興味がありません。私はきつく強制的になり、次第にイライラし始めました。私と2番目の息子との間に、戦争が開始され、ますます私は威圧的になりました。けれども、息子は断固としてそれに従わない構えです。強制されて学ぼうと思う人がいるでしょうか?

  さらに悪いことに、夫が介入してきました。私の味方ではありません。「君は手を引いたらどうだ。学校に行かせるよりももっと圧力をかけているんじゃないか。」と提案しました。「でも、読みを覚えようとしないのよ。とりつく島もないの。」ディックは忍耐強くほほ笑みました。「まだ9才じゃないか。」 まだ9歳ですって? 「年令ですべて判断しちゃいけない。まだ同じ年の子供達ほど成熟してないんだ。動物の世話をさせたり、私達と一緒に旅行させたりすればいいじゃないか。もう少し子供のままでいさせてやれないかい? まだ準備ができていない馬に無理矢理競争させようとはしないだろう。」 私は口を閉じました。それからは、夫の言う通りにしようと努力しました。何と言っても、ディックは家族の長ですから。けれども、たやすいことではありませんでしたが。

  1年がすぎました。まだ読めません。しかし、ある日全く突然に、とても信じられないようなことを耳にしたのです。「僕もマークのように読めるようになりたいよ。だって、マークは高速道路の標識が読めるんだもの。」 ジョナサンが言ったのです!

  さっそく、レコードがついた子供の本を買いました。そのレコードを聞きながら、子供がそれと一緒に読んでいくタイプの本です。息子がレコードを鳴らし、その本の通りに従っていました。やがて他の本にも興味を持ち、読むようになりました。昔からインディアンに興味があった息子のために、私達は、「金曜日 アラパホ」という200ページの本を買ってやりました。すると、4か月以内で、その本を隅から隅まで15回も読んだのです。6か月もしない内に、息子の朗読はほとんどの大人に劣らぬほど正確で上手になったのでした。一度始めると、息子の読みに対する意欲はとどまることを知りません。私は驚きました。けれども、後でわかったのですが、これは特に珍しいケースではなかったのです。

  私達は、自分の子供をテストし、普通の就学児と比べることに強調をおいているわけではありません。今、学校に通う子供達の平均学力は低下しています。それよりも、子供達がそれぞれの可能性を最大限に伸ばすことに強調をおいています。高校の必須課程を終えたら、大学入試資格検定試験を受け、それから、大学入学試験を受けることでしょう。息子たちが合格することは間違いありません。

  ホームスクーリングをして得た最大の報酬は、弱くなりかけていた家族のきずなが強くなったことです。今私達は良い友です。「友」という言葉があなたにとって何の意味もないなら、それは、やはり子供と争っているからかもしれません。自分の子供は敵であって、どうやってつきあっていったらいいかわからないと告白した母親たちもいます。子供達がありとあらゆる活動に没頭しているために、同じ屋根の下に住んでいながら、まるで見知らぬ人間のようになっている場合もあります。

  私達には、ほとんどの家庭に欠けているきずなや友情があります。一緒に子供達の教育プログラムに取り組むこと、ただ一緒に取り組む事が、私達を近くしてくれたのです。共に信頼し、分け合います。そして互いに深く尊敬し合っているのです。家族5人が五つの異なる方向に進むのではなく、何かを一緒にやることに大きな喜びを感じているのです。

 

女教師とニューヨークの銀行家

(メグ・ジョンソン)

 

  私は教師としての訓練を受けたし、夫はニューヨークの銀行家なので、私達は典型的なホームスクーラーとは違っていると思う人達もいるかもしれません。多分そうかもしれません。けれども、私は、大勢のホームスクーラーたちと共に働いてきたので、家庭での学校が、平均的な学校の教育プログラムとは全く無縁のものであることをよく承知しています。私は、教育プログラムにはかえって障害になっているものさえあると信じていますが、それには十分な理由があります。愛にあふれる母親は、ただ善良な人間であることによって、自分の子供を教える平均的な教師よりもはるかに優れています。そして、優秀なホームスクーラーの母親たちの中には、高校も満足に終えなかった人達もいるのです。しかし、子供にどのようになってもらいたいか、はっきりした目標があり、良き助言を受けようとします。そしてそのような人達の子供は優れた生徒なのです。

  最も必要とされるのは、母親がそのプログラムに全力投球することです。母親の態度と適度の自信が大切なのです。

  私達の娘の8歳のメリッサと9歳のコリンヌは普通の学校に一度も出席したことがなく、今3年生と5年生のレベルを勉強しています。私達の教室は、家の地下にある小部屋ですが、他のいろいろな学習活動のためにキッチンや庭やリビングルームのピアノもよく使います。5歳のブラッドも私達が家庭学校で行うことによく参加します。

  私達はクリスチャン・リバティー・アカデミーのプログラムを使い、それを3年間カルバート校のカリキュラムと併用していました。私達は常に追加教材を使っており、自分達の家庭での教育に自信がついてきたので、今では自分達でプログラムを作っています。私達は「マガフィーズ・エレクティック・リーダーズ」を使っています。それから、ベカブックの出版物も気にいっていて、いろいろな科目で使っています。

  必須科目に加えて、エチケットの基本や適切な話し方の習慣、音楽、家庭科、体育、美術も学びます。また、図書館にも定期的に行っています。

  私達のホームルクールにかかる経費は様々です。多分、今年まで、就学年令の子供一人につき250ドルから300ドル費やしたことでしょう。今では上級プログラムを年に100ドルから150ドルでやっていけます。これには、見学旅行や余分の教材のための費用は含まれていません。ガレージセールや中古本のセールは本を購入するのに非常に便利だと知りました。また教科書は、ケンタッキー州のロッド・アンド・スタッフ・パブリッシャーズ・オブ・クロケットや、ベカブックスならフロリダのペンサコラ・クリスチャン・スクールなど、出版社から直接注文するようになりました。

  私達が子供達を家庭にいさせることには、多くの理由があります。私達は特に子供達の社会的成長を気づかってきました。学校の他の子供達からの圧力や「集団思考」と言われるものに子供達をさらすことを非常に心配していました。テレビ(我が家のテレビは屋根裏にしまってあります)や映画や音楽やある種の本や広告と戦うだけでもかなり大変です。しかし、私達が最も懸念しているのは、私達のクリスチャンとしての価値観や伝統に対する目に見えない攻撃でした。誤った種類の「価値観の明確化」や、状況倫理、学校の児童に行われる行動の修正が、健全な道徳方針を衰退させています。私達の方針とかけ離れている体制に我が子の思考の成長を任せることなどできないと感じたのでした。

  学校は、非常に幼い子供達にとっては、疲れ、また動揺させるものだということを私達は読み、また観察してきました。彼らはしばしばイライラしたり、脅えていて、通学バスの中でも学校でもライバル意識や嘲笑にさらされています。身体的能力が彼らの精神的能力に追いつく頃には、彼らの自信は粉々に砕け、情緒的にかなりのダメージを負っていることがしばしばです。

  けれども、私達が子供を家で学ばせることを選んだ最も重要な理由は、親である私達が子供達を6歳で手放す覚悟ができていなかったことでしょう。子供達はますます一緒にいるのが楽しい存在になってきていたのですから。彼らを素晴らしいとか特別だとか呼ぶのは少々恥ずかしい気もしますが、私には実際そうであったし、今もそうです。そして、私達が楽しんでいるような楽しみを覚えることもなく、また、私達のように1対1で子供を構うこともできないような他人に子供達を預けるのは公平ではないと思ったのです。

  私達は、自分達の努力に対して無限の報いを得ています。私達の祈り−−私達は本当に祈ります−−は答えられてきました。自分達の力でそれをしてきたのではないし、仕事は終わったわけではありません。私達は子供達のこれまでの勉強面での進歩に満足しているものの、それよりはるかに重要なこととして、自立的で創造的な考え方ができることを喜んでいます。これらこそ、人生において最も重要な資質です。他の人がどう考えるかを気にしすぎることなく、自分で考え、アイデアを言うことができます。この好ましい自立心、つまり、同じ年頃の他の子供達からの、好ましくない圧力とは無関係な自立心こそ、私達が願ってきたことです。少なくとも私達が見る限りでは、子供達は、他の人達がどう考えるかが、必ずしも思考や行動の善悪を判断する上での、優れた基準にはならないことを理解しているようです。

  最近コリンヌが私達に3分間スピーチをしました。自分でテーマを選び、頭の中でスピーチの内容を準備することが課題でした。彼女は教室に立ち、恥かしそうにもじもじしながら、始めました。「『うちのおかあさんがどうして私を家庭で教えているか』について話します。」と。

  それを聞きながら、私達がホームスクールをしている理由を彼女がしっかり理解していることに私は驚きました。彼女は、クリスチャンの価値観や家族と一緒にいることの重要性について話しました。メリッサはそれに聴き入り、幼いブラッドリーでさえ、何か大切なことが話されているのだと知っているかのように遊ぶのをやめて聞いていました。私の目に涙がこみあげてきました。最後にメリッサが「母が私のことを心から愛してくれていると私は知っています。」と言った時には、もう涙をこらえることができなかったものです。

  家庭で教えることは、学校よりもはるかに多くの成果をもたらします。今年の新学期、娘たちは裁縫をすることに決めました。もちろん、私は大賛成です。一緒に頑張れるし、娘たちはエプロンや簡単なスカートから始められると私は思いました。

  でも娘たちは違ったのです。私に自分達で決めたことを言いにきました。娘たちはハロウィーンの衣装が作りたかったのです。メリッサは天使の衣を選びました。ジグザグ形の平らなひもの縁取りと、ホックにファスナーがついているものです。コリンヌは、古風な婦人の格好を選びました。昔の婦人の衣装と言えば、レースの縁取りのついた袖と、長くて、よく広がる、たっぷりひだの入ったスカートです!

  娘たちは、ほとんど全部、自分達で縫いました。かわいそうなコリンヌ。あの古風な長くてゆったりしたスカートのすそをかがるには、どれだけ針を通さなくてはいけないことでしょう。彼女は頑張りました。私達も励ましました。彼女は再び取り組み始め、そして何と、ちゃんとハロウィーンに間に合ったのです! 学ぶこと、裁縫、粘り強さ‥‥これこそ教育です。

  ホームスクーリングによって私達の家庭生活は豊かになりました。家族全員が学ぶという体験に参加しているのです。パパも私も。私達は共に働き、責任を分担します。家は、子供達がいつもいるにもかかわらず、落ち着いています。そして、近所の子供達は、私の子供たちが満足している様子がわかるようで、ちょくちょくやってきます。うちの子供達は気楽にやっていて、疲れすぎたり、現代の学校で味わうような精神的動揺に絶えず苦しむこともありません。

  家庭での教育が、子育てにかかわるすべての問題に対する、完全な答えではない事を発見してはいるものの、成功させようという意欲もそれに費やす時間も私達親より劣っている他人に子供を預ける事に比べるなら、はるかに優れ、報いも大きいのです。

 

建築屋と主婦

(パット・グレイビル)

 

  就学前の子供達を持つ大勢の親と同様、私達も当然ながら自分の子供達を5歳か6歳で学校に送ろうと思っていました。そして、殆どの両親がそうであるように、我が子は平均的な子供達よりも頭が良く、それくらいの年令から学校に行かせることは大いに益になるだろうと思っていたのです。

  けれども、長男が実際に5歳か6歳になる頃には、私達が子供達のために願うことは変わってきました。私達が勉強していたE・G・ホワイトの「チャイルド・ガイダンス」という本には、子供が8歳か9歳になるまでは親だけが子供の教師となることの重要性が書いてありました。また、幼い子供達にとって、屋外で沢山新鮮な空気を吸い、陽光を浴びることがこの上もなく大切だと。

  そんなことをしている人を誰も知らなかったので、心は迷いました。他の人達にそのことを話してみても、ただ私達を思いとどまらせようとし、正気の人間なら誰でも、バッキーはもう学校に行ったらいい年頃だとわかると言うのです。私達の善意にあふれる友人や隣人たちも、私達は気が変になったのだと考えましたし、私達自身もぐらつき始めました。

  私達は自分達が通常の行動とはかけ離れたことをしようとしていることは、十分承知していました。そして、実を言うと、その頃は、自分達があえて他と異なる者になりたいかどうかも定かではありませんでした。何と言っても、大海の風に逆らい、わずか二人でカヌーをこいで行こうとするのはたやすいものではありませんし、それこそ私達のしていることだと感じていたのです。全世界が間違っていて、正しいのは自分達だけだと決め込むのは安全なことではありませんでした。だから私達にとって困難な時期だったのです。けれども私達は、子供達は神聖なる義務であって、神は私達の小さな家族のために計画を持っておられると堅く信じており、この重要な決断において神が助けを与えられるようにと祈りました。

  そして、一番助けが必要だった時に助けが訪れました。1973年の8月、「ジーズタイムス」という雑誌に、レイモンド・モア博士とデニス・モア博士の書いた「低年齢の子供を学校に行かせることの危険」という記事が掲載されました。この記事のおかげで、子供を家庭で教えることを堅く決心する勇気が出たのでした。

  私達のホームスクールの最初の1年は何の問題もなく始まりました。バッキーはまだ7歳になっていなかったので、これはさほど正式なものではありませんでした。私は息子たちと一緒にいて、物語を読んだり、聖書のクラスをしたり、キッチンや家で助けとなる方法を教えたりしたのです。屋外で自然を観察したり、とにかく外で一緒に時間を過ごしたりもしました。父親はしばしば年上のバッキーを仕事に一緒に連れて行き、建設の仕事について様々な事柄を教えました。この実地訓練の体験は、学校で得られるものよりもはるかに貴重であることが証明されたのでした。

  私達のホームスクールは、2年目になると、少し波風が立ってきました。子供達は3歳半と7歳半になり、言うまでもないことですが、7歳児を家においておくことは、コロラド州の義務教育出席法に反していました。これについて正確にどうしたらいいのかよくわからなかったので、ただ静かにし、何もしないでいました。けれども、新学期が始まって間もなく、私達の小さなボートは、嵐に遭遇したのです。

  学校の副校長が、私達が就学年齢の息子を、学校に行かせていないことを耳にしたと言ってやって来ました。私は、息子は正規の学校には行っていないものの、ちゃんと教育を受けているということをできるだけ落ち着いて自信に満ちた調子で伝えようと努力しました。

  1週間くらいして、学校の無断出席児童担当者が訪問してきました。優しい態度ではあったものの、私達の権利について忠告を与えました。「親の権利には、7歳以上の子供を親が教えることは含まれていません。そして、これは、この件が裁判にかけられる日付が書かれている書類です。」

  予想外のことが起きて、私達は当惑しましたが、再び、このことを神の御手に委ねることにしました。過去に神は私達を幾度も導いて下さったのだから、今度も海の水を二つに分けて、向こう岸に渡るための橋となって下さると考えたのです。それから私達は教育長に電話をかけて話をするという導きを受けました。

  「残念ですが、法を支持するのが私の仕事ですから、私のほうとしては何もしてあげられないんですよ。」という答えが返ってきました。

  「誰か州の方でお話できる方はいらっしゃいませんか。」と尋ねると、校長は、「そういうことなら、州認可相談所のロバート・ホール氏と会えるように手配してあげましょう。」と答えました。

  そこで私達はデンバーに行き、ロバート・ホール氏と、州法律相談係のジェーン・カードーカス氏に会いました。両方とも私達がやっていることと、私達の紹介した本に大変興味を持ちました。そして、123-20-5条項の(J)の項目に出ている、学校教育に代わる可能性を探してくれました。そして、教員免許を持った人の監督下でホームスクールを続けることを許可してくれたのです。私達は教師に協力することに同意しました。実際に教えるのは私だし、机に向っての勉強は1日に1時間半か2時間ぐらいでした。

  その後は、私達のホームスクールのプログラムはとてもゆったりしたものになりました。あまり本での勉強はしませんでした。上の子がまだ8才になるところだったし、男の子は女の子よりも発達が遅いとわかっていたからです。フォニックスは楽しみながら幾らかやりましたが。

  スクールでの1年の終わりには、バッキーは8歳と3か月でした。教師のビキシー夫人が息子をテストすると、ほとんどの科目で平均を非常に上回っていて、下回る科目は一つもありませんでした!

  ホームスクールをやっていた頃、私達の家は、教会の運営する学校から約2キロ、公立学校からは約5キロしか離れておらず、相当の批判を受けたものでした。せっかく教会の運営する学校が近くにあるのに、私達はそこの学校のやり方を支持していないと思われたようです。それにみんなあけすけにそのことを言ってきました。この社会的圧力は容赦なくのしかかりました。

  普通の日のスケジュールは、朝8時頃のデボーションから始まります。その時間には、歌や聖書物語、それに聖書のゲームや、聖句の暗記をします。それからたいてい、読み、書き、フォニックスを行いました。

  そして午前中にはいつも長い休憩を取って、散歩に出たり、庭仕事をしたり、一緒に遊んだりしました。また、算数もしましたし、3年生からは理科も始めました。息子たちは12時までに勉強を終え、週に2、3日は父親の所に行って、仕事のプロジェクトに取り組みました。これは素晴らしい教育です。自分の父親と一緒に体を使って、職業訓練をするのですから!

  浮き沈みもあり、私が、さっさと息子たちを学校にやって、ホームスクーリングのことなど忘れてしまいたいと思った時もありました。けれども、日がたつにつれて、夫も私も、学び、成長しているのは子供達だけでなく、自分達も神の学校で学ぶ生徒であることを悟りました。神は、エデンの園で家族を始められた時に、また、子供のキリストを大工である父の仕事におかれた時にも、私達に必要なものをすべて知っておられました。この世だけでなく、来るべき世のためにも、この家族のつながりを通して人格が形成されています。たとえ、親が高校しか出ていなくても!

 

ホテル経営者

(ディキシー・ライス)

 

  私達が、ネブラスカのシェルトンからワラスに引っ越したのは、1976年の8月のことでした。娘のレスリー・スーはそこの公立学校の6年生に転入しましたが、成績が4年生の時から下がってきており、私達はこの状況をあまり喜んではいませんでした。どうして成績が下がっているのか、その原因ははっきりわかりませんでした。一クラスの生徒の数が非常に多く、教師が一人一人に十分構ってやれないことについて私達は疑問を抱いていたものの、他に選択の余地はなかったのです。

  もともと私達は、教科書のことや、その内容が生徒の頭にいろいろな疑問を生じさせていることについて、よく思ってはいませんでした。特に聖書に基づいた考え方を全く紹介せずに進化論が事実として教えられていることには我慢できませんでした。歴史において、神が導かれていることは一言も述べられていないのです。

  麻薬を使用する学生の増加や、度を越した異性交遊についても深く懸念していました。娘には高い基準や価値観を植え付けようと望みましたが、公立学校の状況は私達の信条をことごとく台無しにしてしまうようでした。それでも、1977年の7月までは12歳の娘をまた公立学校に行かせること以外に何の方法も知らなかったのです。

  しかし、ある日、クリスチャン・リバティー・アカデミーの家庭教育プログラムの雑誌広告を見つけました。そこに連絡すると、アイオワ州基礎学力検査が、やり方の説明を添えて送られてきました。その結果、娘はほとんどの科目では平均であるものの、数学は5年生の学力でした。しかし娘は7年生になろうとしています。

  それでそのアカデミーに授業料を払いました。当時は年に185ドルでした。それから、アカデミーはワラスの学校から娘の学業記録を送るよう要請し、受け取りました。教科書が届いた時には、私達の決断がどういう結果を生むのか見当もつきませんでしたが、レスリー・スーは教科書を開いて、勉強を始めました。

  その年は彼女の弱点である、数学と英語と科学に非常に力を入れました。私達は、その教科書には大満足でした。すべての科目は、聖書の中に出てくるクリスチャンの神の愛や社会の方針に基づいていたからです。

  レスリー・スーは急速な進歩を遂げ、とても成果をあげていたので、トラブルが持ち上がった時には正直言って驚いてしまいました。私達は、人口240人の小さな町に住んでいたので、言うことなすこと何もかも、町中に知られました。

  地元の学校の校長は、私達の家庭学校についても、レスリー・スーが平均をかなり上回っていることにも喜んではいないようでした。「あなた達は義務教育法を破っています。」と言いました。

  次に、郡の教育長が電話で質問し、最後通牒を出してきました。そしてとうとう、郡の副弁護士が子供に教育を受けさせる義務を怠っているとして、私達を告訴しました。しまいには「児童の養育放棄犯罪」とまで呼ばれたのです。それから、裁判所の職員が私達のホテルを訪れ、召喚状を手渡しました。10月25日に家庭裁判所に出頭するようにとのことです。奇妙な感情が胸をよぎりました。本物の犯罪人として告訴されているのですから。すべてが間違っているように思えました。

  もちろん、これは私達にとってまるで経験のないことだったので、どうなるのか皆目検討もつきませんでしたが、それから起こったことに対しては、どんな準備も無駄だったことでしょう。公判前の会合、打ち合わせが行われましたが、私達の誰一人として証言を求められませんでした。けれども裁判官−−女性です−−は、できるだけ私達に不利な結果になるようにこの会合を進行させました。

  「私達にはあなた達から子供達を取り上げるだけの力があります。」と厳しい口調で言いました。冷酷であからさまな脅しのようでした。「レスリー・スー、あなたは、親の言うことを聞かなくてもいいのよ。あなたのために弁護士を任命することができます。」 これが私達の娘に対する言葉です。

  「レスリー・スー、あなたには学校に行く権利があるのよ。自分と同じ年頃の子供達と一緒にいる権利が。親でも、その権利を奪う事はできません。」レスリー・スーは自分の耳を疑ったほどでした。私達は答えませんでしたし、答えようともしませんでした。その時点で何が言えたでしょうか? 10月25日、公判の初日は娘の13歳の誕生日でもあります。

  私達は自分達の弁護士を一人と、娘のための弁護士を一人雇うようにという助言を受けました。娘は私達の弁護士を使うことはできませんでした。裁判所によれば、私達が「その弁護士に影響を与えるかもしれない」からだそうです。結局、裁判所は、娘のための公定弁護人を任命しました。

  裁判所を出た私達はその壁の背後で起こったことがまだ信じられず、夢でも見ているかのようでした。私達を守るはずの裁判所なのに! 裁判官が実際に私達の娘を、私達に敵対させようとしたことで、私達は不当に扱われているように感じました! 私達が公立学校での教育ではなく、ホームスクールを選んだというだけの理由で、裁判官が娘を我が家から奪うと脅すとは、信じ難いことでした。

  しかし、奇妙なことですが、私達は裁判官の脅しに恐れを抱かず、かえって元気が出たのでした。裁判官は結局、私達家族のきずなを強め、互いを支え合い、最後まで、勝利するまで頑張り通すという決心を確かなものにしてくれたのです!

  私達は、神が自分達の味方であると感じていましたから、過度に心配してはいませんでした。オマハのトム・ギルフォイルとクレイグ・スオバダ弁護士に弁護を要請すると、彼らは快く引き受けてくれました。ギルフォイル弁護士が、「ライスさん、あなたは自分の信条のために刑務所に入れられることもいといませんか?」と尋ねました。一瞬めんくらったものの、「はい、いといません。」と答えました。

  家で、レスリー・スーを家庭で勉強させると決定したことで起こりえる結果について話し合い、私達はこれをやめないという結論に達しました。私達が勝つまで神が助けて下さるだろうと。その話し合いは、裁判に対する私達の態度を変える重要な転機となりました。その時から恐れや疑いを少しも抱かなくなったのです。また、レスリー・スーと話をした公定弁護人は、彼女が自分の信条を堅く信じており、家族を心から愛していることを知りました。

  裁判は二日間行われました。私達の弁護士は、その法律はあいまいで、事実上、施行するのは不可能であると主張しました。そして、私達の神への信仰を裁判で明らかにし、我が子にクリスチャンとしての原則や概念を教えないなら、神への不従順となると訴えたのでした。

  クリスチャン・リバティー・アカデミーのリンドストローム牧師も、はるばる私達のために証言に来ました。裁判官は無表情でそれを聞いていました。

  裁判所側は、私が教員の資格も能力もないことを長々と論じました。何度も何度も、私達がレスリー・スーを同じ年頃の子供達と接する機会を奪っているとしつこく繰り返し、「そのような接触がないなら、絶対に社会に適応することはできない」と言うのです。「すべての子供が社会に適応できるよう適切な準備がなされるようにするのは州の義務である」と。「麻薬中毒者としてですか?」と私達は心の中でやり返しました。「落伍した不運な者と一緒にですか? 未婚の母や父としてですか? 大勢の子供達がそうであるように、公立学校で幼い頃から何年も学んでいながら、全く読むことのできない高校卒業生としてですか?」

  この長い二日間で、裁判官は私達を訴え通り有罪と宣告し、私達に裁判費用を負担するようにと命じました。

  裁判所に行った私達は、レスリー・スーを取り去られるという結果を覚悟し、必要なら、郡や州の外に一家で逃亡する覚悟もしていました。けれども、裁判官は、娘はずっと家にいて、何の悪い影響も受けた様子がないので、もうしばらく家にいることを容認しました。

  そこで私達は直ちに地方裁判所に控訴し、私達の出頭日は1978年7月と知らされましました。その頃には、地元の新聞がその話を聞きつけ、私達の所に話をしにきました。新聞が私達を公平に扱ったことで、テレビのレポーターやマスコミ関係者がよく訪れるようになりました。だから、意外な進展がすべて不愉快なものだったわけではありません。マスコミは、私達の考え方に対して偏見ない態度で接しました。何人もの人達に会いましたし、スタジオに行って回答、つまり家庭学習について、また、公立学校制度の問題についての資料を置いてきたりもしました。

  この報道から興味を持った人が、ある記事を私達に送ってきました。その記事はレイモンド・モア博士によって書かれたもので、私達が博士の名を耳にしたのはそれが初めてでした。私達がその記事をレスリーの弁護士に送ると、弁護士はモア博士に連絡を取りました。モア博士は、公平な立場にいる機関によってレスリー・スーがテストを受けるようにと求めました。そして、州立大学に行けば、裁判官もその結果に一番敬意を払うだろうと提案してきたのです。ネブラスカ大学のクック教授は、私達のために証言することに同意してくれ、またモア博士も来てくれました。

  クック教授が最初に私達のために証言し、アイオワ州基礎学力検査を受けた時の学力と現在の学力を比較するグラフを見せました。それを見れば、7年生の初めには成績が低かったものの、1年間の家庭学習の後で劇的に成績が上昇していたのは明らかです。特に数学は目覚ましいものでした。その1年で、平均して2学年か3学年分も成績が向上したのです。

  またも州は、マリアンヌ・ヴァイニウナス検察官を代表にして、私達を刑事犯罪人として起訴しました。彼女は私達の筆頭証人であるモア博士をまごつかせようと、博士は生まれ変わったクリスチャンかと尋ねました。たいていのクリスチャンが期待していたように博士が「そうです」と言えば、彼女は博士を窮地に追いつめ、弁解する側に回らせていたことでしょう。しかし、博士はそう簡単にワナにはまったりはしませんでした。

  こう尋ねたのです。「生まれ変わったクリスチャンの定義とは何ですかな?」 彼女は意外な問いかけに、しどろもどろに非常に良い定義を言ったのでした。「それがあなたの定義なら」モア博士は答えました。「私もその一人です。」

  彼女はあわててその話題をひっこめ、彼女の言うところの「同年令の集団との適切なつきあい」がないために、私達の娘は社会的権利を侵害されているという見解を展開させてきました。

  モア博士は、この議論において、神から送られた人であることを証明しました。博士は、心理学者また公の教育者としての経験と、子供達は暖かく首尾一貫した家庭環境にいたほうが、人間関係においても、感情的にも、学科面でもはるかに速い進歩を遂げ、より大きな安心感を抱くこと、特に幼年時代には、そのような環境で最もよく自分の価値に目覚めるという博士自身の有名な研究結果に基づく証拠を使って証言しました。

  私達はレスリーの進歩とモア博士の証言に感謝し、自分達の勝利を確信しました。「神にすべての栄光を帰そう」とモア博士は言いました。「神はあなた達を試しておられたんだ。」 その通りでした。地方裁判所のキース・ウインドラム判事は、名うての公立学校支持者でありながらも、私達に有利な判決を下したのです。私達は公正な判決を神に感謝しました。

  しかし、ヴァイニウナス検察官はネブラスカ州最高裁判所に上告したのです。そこで、私達は祈って待ちました。結局、最高裁判所は全員一致で私達に有利な判決を下したのです。ですから、ネブラスカ州の正式な承認を受けて、堂々と家庭学校の2年目を始めることができました。私達は再び公正な判決が下されたことを神に感謝したのでした。

  レスリー・スーは、8時45分から2時30分まで、かなりみっちり詰まった学習スケジュールをこなし、際立った成績です。最初は一日の初めに私が1時間半かそこら教えていました。けれども娘は15歳で私達の家庭学校では高校生ですから、もうほとんど教えていません。思い出してほしいのですが、彼女は4年前には地元の公立学校の6年生で、成績が思わしくなくて四苦八苦していたのです。それが今は、人々は、彼女の成績の優秀さに驚いているくらいです。娘の友達でさえ、それを認めていて、自分達も同じことができればと思っています。娘は一日に3、4時間ホテルの仕事も手伝ってくれます。ベッドメーキングや料理や掃除をし、一流のアシスタント・マネージャーなのです。こうして勉強と仕事のバランスがとれていることは、彼女にとって非常に役だっていると思います。そのおかげで彼女は、手際がよく、勤勉で、責任感が強く、信頼でき、誰にでも礼儀正しいのです。

  私達のところにやってくる人達が大勢います。税金のことや、裁判の費用を払わなくてはいけないことを心配している人達もいますし、家庭で学校を始めることについてアドバイスを求める人達もいます。私達はそんな人達に、これはもはやお金の問題ではなく、子供達の人生がかかっているのだと答えています。

 

軍人の妻と情報部の将校

(ベッティー・ゲルボジー)

 

  セスが重度の乱視であるのを私達が発見したのは、セスが4歳の時でした。かなり強度の乱視で、眼科医は息子の目が斜視でないのは驚きだと言ったほどでした。あまりにも目が悪かったので、分厚く、重いレンズのついた眼鏡をもらいました。

  5歳になった時にセスのための学校探しを始めました。就学年令に達した時に、どの学校に送ったらいいか考慮していたのです。私の夫の勤務先の運営する学校もありましたが、私は以前の教師としての経験から、教師たちにそれほどの能力や子供への思いやりがあるか確信が持てませんでした。優秀な教師も中にはいますが、たいていの教師はお粗末な訓練しか受けておらず、生徒の訓練をするよりはヨーロッパに行くことにもっと興味があるようでした。そこで、私達は自分の子供達を家で教えることについて真剣に考え始めたのです。

  私達はクリスチャンなので、キリストを中心とする教育を望みました。セスの特殊な障害のゆえ、また、私達がその判断力を高く評価している人が、子供は体と感情の両方がある程度成長するまでは学校に行かないほうがよくやるという結論を下しているがゆえに、セスを学校に行かせるのは8歳まで待つことにしました。

  セスは7歳になろうとしていて、息子を何らかの学校に入れるようにとの周囲からの圧力を感じました。そして、近所の人や子供達の心ない言葉から息子を守ってやりたい、起こりうる法的なトラブルは避けたいと思い、家庭学習向け通信学校から幼稚園クラスのプログラムを注文しましたが、この試みはうまくいかず、時間の無駄になっただけでした。さらに悪いことに、全くこれを受ける必要がないことがわかったのです。内容が単純すぎて、まるでチャレンジがなく、ただ時間つぶしに子供に何かさせるだけだったのです。

  この間に、セスは聴力にも支障が出てきました。特に耳を検査してもらう目的でリハビリテーション・センターに連れていくと、ついでに目も検査してくれました。

  その日、検査が終わると、セスには深刻な学習能力障害があると告げられました。そして耳ではなく、目がその原因になっていたのです。その検査結果は次の通りです。「極度の乱視。立体感がつかめない。両目が別々に働いている。さらには、おそらく、何でも見るものが分割されたり、二重になって見える。本の文字に焦点を合わせようとしても、文字は静止しておらず、ちらちら動いているように見える。」 また、幾つかの面において息子の成長度について調べたところ、もう数か月で8歳なのに6歳の子供の成長度しかないことがわかりました。

  その検査の終わりに心理療法医の検査を受けました。その療法医は私達にセスのための目の運動を教えてくれ、それと共に1年生の教科書を渡しました。セスの学習指導の手初めに、アルファベットの字を教えるようにと言われたのです。その療法医は私達が最初のページを開いて、1度に字を一つずつ読み、それからセスにその字が何か言わせるようにと。そして、息子に5回までその字が何か推測させて当惑させた後でやっと、正しい答えを教えてやるのだそうです。

  この教え方には二つの目的があるとのことでした。第一の理由は、読みを教えること、第二に、息子の自分勝手な態度を改めさせ、もっと従順な子供にすることです。

  その心理療法医は、セスがよく聞いていないことを、注意散漫で反抗心の現れだと考えたのです。療法医は、イライラしたセスが泣くかもしれないが、それを無視して、プログラムを続けるようにと言いました。

  本を抱えてリハビリセンターを出た私達の頭の中はひどく混乱していました。あれは良いアドバイスだったのだろうか? 息子にアルファベットを学ばせる動機は何だろうか? 息子はどこでどのようにして学ぶことの喜びを見いだすのだろうか? あんなふうに子供を扱うものなのだろうか?

  予想通り、セスは抵抗しました。まるでセスの注意をひかなかったし、注意を集中させておくこともできませんでした。何の意味もない文字の読み方をあてさせるのはひどい体験で、2回か3回やった後、私にはこれが洗脳みたいなものだと思えたのでした。

  おまけに、息子の意志をくじいて無理矢理従わせることもしたくありませんでした。私は息子の意志と個性を神の御前に聖別されたものと考えているからです。セスが立派な人格を持つように助けたかったし、できることなら、読みを楽しいものにしたいと思いました。そのために争ったり、強制したりするのは望みませんでした。息子は普通は素直なのですが、2、3回この教え方を教えて沢山の衝突と涙を経験した後で、私達はこの「プログラム」をやめたのでした。

  それから、私はダイニングルームを教室にしました。2メートル近くの黒板も手に入り、それを壁に掛け、大きな字のアルファベットのカードをそこに貼りました。0から9までの数字を書いたカードも同様にしました。また、縦20センチ横27センチの大きさの、挿絵つき表音文字を、部屋の仕切りに使っていた高い板に貼りました。

  最初セスの進歩は、どちらかと言えば1歩進んで5歩下がるという感じでした。何をやっても正しくできない日もありました。私は息子の注意を引きとめておくこともできなかったし、息子は落ち着きがなく、まるで興味を示しませんでした。翌日、素晴らしく良くやっても、次の7日間は覚えたことをきれいさっぱり忘れ、いらいらしているのです。

  もし私がこれをもう1度やるとすれば、息子が9歳か10歳になるまでは始めないことでしょう。何と言っても、成長度が6歳の子供ぐらいと診断されたのですから。けれども、私は時間と競争しているように感じていました。医者から、息子は盲目になるかもしれないと言われていました。心理療法医からは、読みなど決して覚えないかもしれないと言われていましたが、私はぜひ今の内に息子を導き(強制するのではなく)、興味を維持し、読みを教えなくてはと必死の思いでした。

  私達の状況は特殊でした。外国暮らしをしていて、自分達の選択通りにセスを家庭で個人指導することについて、当局から何だかんだと言われることもありませんでした。アメリカ人のために働いていたので、当局はこの国の裁判所に私達を訴えることはできなかったのです。私はこの祝福に気付き、とても感謝しました。

  1対1で教えることの素晴らしさは、いつでも子供の状況がわかることです。その場ですぐ励ましたり、注意を与えたりできるのです。

  そしてゆっくりと、最初は本当にゆっくりでしたが、セスは読みを学んでいき、それがだんだん速くなっていったのでした。私達はフォニックスを続けました。復習は少しずつ複雑なものになっていき、私は息子の興味を引きつけておくために絶えず新しい方法を考え出しました。そして2年くらいして−−息子が10歳か11歳の時−−セスは読みの名手になったのです。アメリカから送られてきた新聞や「リーダーズ・ダイジェスト」が読めるようになりました。優れた読解力があり、朗読も大勢の子供達よりも勝っているくらいでした。

  私達はデボラを8歳になるまで家庭で教えました。それから1年生に入れたのです。成績はかなり優秀でした。6歳児が苦労する事も即座に理解し、素早く学びました。これは当たり前の事ですが。ですから2年生から4年生に跳び越し進級したのです。

  けれども3年生の教科書や練習帳を終わらせるまでは、彼女と同年令の他の4年生と一緒に勉強させてもらえませんでした。この余分の課題をするために、1週間に二日は居残りをし、授業時間中には3年生の勉強に取り組みました。それらの内容がよくわかっているなら、どうして繰り返さなくてはいけないのでしょう?

  私が、学校制度に満足していないように思えますか? 確かにそうです。私達の出会った海外の教師たちの現実は−−これを言うのは本当にイヤですが−−非常に怠慢です。ただ教師向け指導書の要綱に従っているだけで、教えることになるのでしょうか? 何ページも何ページもワークブックをやらせることが真に教えることと言えるでしょうか? 教えることというのは、子供達に学びたいという意欲を起こさせ、小さな子供にも自分の理解力をさらに越えたことを理解し、子供自身が自分でできるとは思ってもいなかったほどの進歩を遂げるというチャンレンジを与えるものではないでしょうか? 子供達はワークブックの1ページ1ページに縛られているのでしょうか?

   子供達の頭の知識だけでなく、その身体と心も重視されるべきではないでしょうか? 学ぶことは、ただ脳みそに情報を詰め込む以上のものでなくてはならないのではありませんか?

  それなのに、学校に数年通った私達の子供達の学校に対する概念というのは、いつまでも機械的にワークブックのページに書き込んでいくことなのです。年長の子供達はすでに自分でワークブックは生徒達を忙しくさせておく以上に何の益もないことを知っています。何の目的もなく学校で無駄に過ごした時間というのが、彼らの一番の不満なのです。

 

教師と大工

(ルース・ノーベル)

 

  別に私達の子供達が学校で幸せでなかったというわけではありません。何か大きな問題があったわけでもありません。ただ夫と私は、子供達の受けている教育に満足していなかったのです。

  私達の信仰や方針が公立学校で教えられていることと全くかけ離れていたので、すでに子供には公立学校ではなく、キリスト教系の学校に行かせていました。手短に言うと、公立学校の方針というのはどうも物質主義的で、お金を稼ぐこと、物を手に入れること、人生を楽しむことに重点をおいているようでした。だから、キリスト教系の学校を選んだのです。

  しかし、2年前にせっかく選んだ学校の教育内容にも問題が持ちあがってきました。私達の信条との教義的な違いもありましたし、中学校ではしつけがおろそかにされていたのです。子供達のために教育手段を変更したかったのですが、どこで子供に教育を受けさせればいいのか知りませんでした。

  そんなある日、私の義弟が、聖書に基づいた教科書を使う子供向けの家庭学習プログラムの広告を見ました。私達はそれについてさらに調べ、試してみたいと思ったのです。

  5人の子供を家庭で教えようと思うなんて、気が狂っていると思われるかもしれません。家と庭の手入れもありますから。だから、学校で教えられる以上のことを子供達が教えられることを神が望んでおられること、神が新しい道へと導いて下さっていることを信じていない限り、とてもできることではありません。私達はそうだと信じていたので、新しい冒険に乗り出したのでした。

  ホームスクールを始める前に、子供一人一人のための学習コーナーを作りました。小さい子供が二人いて、子供達全員を絶えず監督することは難しいので、子供達を別々に分けるなら、じっと待っていたり、「なまけて」時間を無駄にしてしまいそうになる誘惑にかられることが少ないと感じたのです。また、それぞれの子供の教科書の内容によく通じておいて、何を教えるのが目的なのか、また子供がそれをマスターするのにどれくらいかかるかを知っておくのは非常に良いことです。

  私達は、学校と同じように180日間の勉強スケジュールにかなりしっかりと従っています。全般的に、教科書の中の学んでいるべきところをやっているので、時には1日勉強から離れて、他の大切な活動、たとえば「見学」なども自由にやることができました。

  娘たちは、家庭で教えるという私達の決断に反抗しませんでした。私達は、子供達が私達親の導きを尊敬するように育ててきましたが、順応するための時間は絶対に必要でした。「ホームスクール」をやることを計画している親の人達に与えたい一つの提案は、子供が「普通の」学校から離れることで、何を受けそこねるかを予測するように努めることです。私の子供達は美術をとても楽しみにしていたので、最初から金曜日に美術のクラスを入れました。

  子供達に友達が必要なのはわかっていたので、私達が友人を訪問する習慣も変更しました。金曜日の夜の8時から12時までベービーシッターを雇って私達が友人の家を訪問するのをやめ、今では、6時から10時まである家族が私達の家を訪問して、夕食を共にします。大人達が話をしている間、子供達同士楽しい時を過ごすのです。また、近所の子供達やいとこたちとも遊びます。

  いったんホームスクールを始めると、非常に特殊で思いもよらなかった問題にどうしてもつきあたるものです。

  私達のレクリエーション(身体面での教育というのは、非常に重要です。)活動は助けが必要でした。私達は中古のバレーボールとネット、バスケットボール、ゴールのリングなどを手に入れました。誕生日のプレゼントには、ピンポン・セットや冬休み用のそりを選んだりもしました。

  私の教え方は、必要に応じて変えていくやり方で、きっと皆さんも、私と同様に、プログラムを簡潔化するための近道を見付けていくと思います。

  例えば、ワークブックの添削や翌日の計画を私は一つのステップにまとめました。イブの算数の添削をしている時に、全部正しいなら、翌日やらせることになっているワークブック3ページには一行おきに私がしるしをつけ、そこだけやらせることにします。クラスの計画を書いたり、翌日にやらせる事柄を決めるのに長い時間かける必要はないのではないでしょうか? 次の日になったら、前の日に何をしたかも忘れていることでしょう。

  私達は大体4週間おきに、学習し終わったものを通信学校に送りました。そこからは、年に4回成績表と一定期間の進歩などを記す記入用紙が送られてきます。そして、質問があれば何でも電話するか、手紙に書いて尋ねるようにと勧めてくれています。

  毎年秋には、アイオワ基礎学力試験とスタンフォード学力試験が送られてきます。それを子供達にやらせ、できたものを送り返して採点してもらうのです。概して私達は、そのアカデミーのプログラムで子供達を教育することに満足しています。教材は、幼稚園児や1年生向けのものを除けば、子供達が自分で学んでいく形になっているのです。

  法的なアドバイスは与えてくれるものの、弁護士をつけてくれるわけではありません。そしてここから、法的な事柄の話に移ります。

  始めて2か月後に長期欠席児童調査員が訪問し、子供達の長期欠席を理由に告訴されました。この件で地方裁判所で公聴会が開かれました。双方とも主張内容を30日以内に簡潔にまとめるよう求められました。最初は自分達だけで弁護するつもりでしたが、二人の弁護士−−後に私達の筆頭弁護人になったワシントンDCのジョン・ホワイトヘッドと、地元の相談役になったトラバース市のスチュアード・フベルが私達の裁判に興味を持ちました。これは、信教の自由と、教会と国家の分離が関係する裁判であると感じ、弁護料なしで私達の弁護をしてくれたのです。

  一審裁判は非常に重要である事を私達は悟りました。特に控訴される可能性がある場合はそうです。私達は、子供を家庭以外の公立学校にも私立学校にも行かせていない点について特に持ち出しませんでした。ただ私達はクリスチャン・リバティー・アカデミーの「分校」で教育させているのだから、長期欠席の罪には問われないはずだと主張しました。

  私達の宗教的な信条のゆえに、子供達をこの方法で教育することを選んだのだと。

  根本の問題は、州が、就学年令の子供は教員免許をもった教師によって教えられるか、または監督されるべきであると要求していることでした。私はたまたまカルバン大学の小学校教育の学位を持っていましたが、教員免許は持っていませんでした。

  サンフランシスコ大学のドナルド・エリクソン教授は、教員免許が、それを所持している人に教える能力があると証明する証拠は何もないと証言してくれました。そして、私立の多くの学校は教員免許がない人でも教師に採用することがあるが、そのような学校の子供達のほうが必ずと言っていいほど統一テストで良い点をとると述べました。

   裁判と共に、私達の子供達は教育心理専門家たちの知能および心理テストを受けました。そして、私達の就学年令の5人の子供達は知能において平均を上回っており、同じ年令の他の子供達よりも教育レベルがかなり高いという結果が出たのです。

  自分達の立場を弁護する私達は、神の導きを感じていました。1979年12月14日のミシガン州ベントンハーバーの「ヘラルド・パラディウム」紙に次のような記事が掲載されました。「信仰あつい夫婦が子供を家庭で教えられると裁判官」 それからこうです。「ミシガン州の法令の目的は、免許のある教師を持つことではなく、子供達を教育することである‥‥教員免許は、州が子供達の教育のために一定の基準を定める一つの方法であるが、教員免許のことが宗教的信条を侵すことになるなら、州はそれに対処する方法を別に考えねばならない。」 私達はその裁判が終わり、家庭での勉強を改めて始められることをとても感謝しました。

  子供を家庭で教える母親なら誰でも慣れる必要のあることがあります。それは、自分で何もかも行う事はできないという事です。私は「スーパーウーマン」ではありません。あなたも「スーパーウーマン」ではありません。レイモンド・モア博士は、半日教えるだけで十分だと教えてくれたので、もっと体を使う活動をとりいれる事を計画しています。例えはメープルの木からシロップをとる事などです。

  子供達は大きな助けです! みんな食べなくてはいけませんから、一日に3回栄養のある食事を作らなくてはいけません。実は、私は最初の1年に定期的にパンを焼き始めました。そして今では、私達の家庭にはパン職人がいっぱいです。

  それから服はきれいで清潔に保たなければなりません。洗濯は永遠に終わることがないほど沢山あります! けれども、それは無意味な仕事ではありません。私の助手たちを見ればわかります!

  子供達は本当にこの面で助けになっています。2歳児を除いて子供達全員が自分でベッドを整えます。一人一人が洗濯物袋を持っていて、これは部屋をきちんとしておく助けになり、時間と手間の節約になっています。洗う準備ができると、ただこう言えばいいのです。「汚れた洗濯物の袋を持ってきてちょうだい。」 これは非常に助けになります。

  そして、絶対に優先順序を決めなくてはいけません。おろそかにしてはいけない二つの事を私はホームスクールを始める前に心にしっかりと決めておきました。それは幼い子供には普通の赤ん坊時代、そして子供時代を過ごさせること、それから夕食の後には家族揃ってリビングルームで集うことです。

  ホームスクールを2年やっていますが、まだ私達はすべての問題の答えを見いだしたわけではありません。これは、しばしば答えを見いだしたように振る舞う普通の学校でも同じことです。

  私は、まだくたくたになることがとてもよくあります。9月は桃やトマトなどのビン詰め作りに忙しい上に、新しい学年の初めです。9人家族というのは、手っ取り早い方法や協力があっても、それでもかなりの大仕事です。けれども、毎年進歩を遂げているので、時間がたつにつれて簡単になったり、自然と解決するようです。

  明るい面を言えば、私達はこのプログラムを楽しんでいます。子供達は普通の学校よりもはるかにこちらのほうが気に入っています。完璧ではないかもしれませんが、本当に素晴らしいのです!

  最初は大勢の知り合いから冷たい反応ばかり返ってきましたが、それも良くなってきました。見学や本や教材のことでよく提案ももらいます。そして、学校でよくあるようなライバル意識やあざけりもここにはありません。

  最初から、学習というのはただ本からだけではないということがわかっていたので、動物園や博物館などにもよく行きます。どの子供も本をむさぼるように読むので、2週間に1回図書館に行って、どっさり本を借りてきます。それに仕事をすることによっても沢山学べます!

  我が家の子供達はもともと行儀が良く、良く勉強する子供達だったので、子供達の振る舞いがホームスクールを始めてものすごく変わったと言うことはできません。ホームスクールが子供達の価値観を向上させたことを願っていますが、後になるまでその判断を下すのはなかなか難しいものです。しかし、ある出来事が大体の進路を物語っているようです。

  友達の家でロックミュージックを聞かされた娘は、もともと恥ずかしがり屋な子でしたが、それでもその種類の音楽について堂々と反対意見を言い、静かにその家を出たのです。けれどもその友達が電話をかけてきて、音楽を聴くよりも娘と一緒にいたいと言ったのでした。娘がどんなに喜んだか想像できるでしょう! 2年前には絶対に起こらなかったことです。

  要約しましょう。ホームスクールには、当初の周囲からの反対、監督や添削のために余分の時間がかかる、また法的な戦いなど幾つか問題がありますが、それでもそのような問題も家庭で我が子を教えることの価値には到底及びません。 

  多分、最大の価値とは、私達がすべてのことを家族としての観点から見るようになることでしょう。たまたま同じ家を使っている9人の人間ではなく、みんなが一つの単一体として行動できるのは非常に報いのあるものです。これは勉強から、快活に共に働くことに至るまで含まれます。一緒に家のペンキ塗りをしたり、野菜のビン詰めを作ったり、ピクニックの準備をしたりという具合に。

  この団結とチームワークによって、子供は内向的で引っ込み思案になるのではなく、自分が家庭の一員であり、神の子供の一人なのだと自覚するようになり、自信と自立心が芽生えたのです。

 

石油労働者と主婦

(メアリー・グレイ)

 

  息子のケビンを8歳半になるまで学校に行かせないことに決めた時には、学校や州の役人との間で問題を抱えることになるとは、まるで予想していませんでした。何も問題はなかったのです。

  しかし、友人や同じ教会の会員など、意外な人々から反対を受けました。教会が経営する学校の1年生の先生は、私達が息子を家庭で教えるのは間違いだと強く感じていました。この人は教師歴25年で、遅い年令になって息子が学校に行き始めることについて何の益も考えられなかったのです。

  私達が「過激」であると思った人達もいました。または、ケビンを最初から机に縛りつけ、小さな手にえんぴつを握らせるよりも、ケビンの思考と筋肉の成長のほうが重要だという私達の考えを理解できない人達もいました。また私達は、息子は教室の子供達の集団に入る前に、心の発達や自分の価値を自覚することが非常に重要だと考えていました。世俗での訓練が始まる前に、息子に私達の価値観を教え、確固たる精神的基盤と、神が自分の友人であり共にいてくれる方であるという自覚を与えることを願ったのです。

  以上の理由とその他多くの理由から、6歳か7歳の近所の子供が学校に行っている間も家庭においておくことにしました。とにかく、私達は我が家を学校と考えていました。私達のミズーリの石油施設で父と一緒に経験するとても幅広い体験は、息子の教育にも重要な位置を占めると考えました。

  また子供達が幼い時には、「お手伝い」は胸躍ることで、子供は自分が何かを学んでいることにさえ気付かぬ内に、家庭の運営のための技能を簡単に学ぶということを私達は知りました。子供はただ手伝うことを楽しむのです。けれども大切なことがあります。それは、子供があなたと一緒に働くということです!

  正午の昼食の後で、私は息子と一緒に座って、いろいろ読んでやりました。息子が学校に行き始める前の夏には、ケンタッキー州クロケットのロッド・アンド・スタッフ出版社からフォニックスの教材を注文し、それで息子とフォニックスのおさらいをしたのです。息子は、読みについては遅咲きタイプでしたが、私達は家庭でケビンとさらに余分の時を過ごせたことを喜んでいました。そして、息子が体だけでなく、心や思考も成長したことを確信しました。8歳半になる頃には、息子が学校に出席する準備ができていると私達は感じたのです。

  私達は教会関連の私立学校を選び、ケビンが2年生から始められるよう要請しました。しかし、それが問題の始まりでした。

  「生涯に渡って積んできた教師としての豊かな経験」に頼る教師が、ケビンは1年生に入らなくてはいけないと言い張ったのです。しかし、息子と最も近く、その能力について最もよく知っている私達親は、2年生から始めるべきだと確信していました。フランクと私はヒューイット研究財団のレイモンドとドロシー・モア夫妻の研究と仕事、そして、普通の子供よりも遅く学校に行き始めた子供達は、たいていの場合、同じ年令の子供と一緒に勉強する能力があり、実のところより優れているという彼らの研究結果についても知っていました。

  私達はある悲しい例を知っており、そのせいで決意をますます堅くしたのでした。ある賢い男の子の親が、その子を普通の就学年令よりも後になって学校に入れました。ところが1年生に入れられたのです。その子供は同じクラスの子供達よりも年上で体が大きかったので、そのクラスに溶け込めませんでした。けれども、この子の人生を支配する大人たちは、その子供が退屈していて、クラスの他の子供達に溶け込めないことが、その子供の問題を引き起こしていることに気づかなかったのです。大人たちは、毎年毎年その子供を年令の低いクラスにとどめました。そして、ついにその子供は周囲から知恵遅れのレッテルを貼られ、そのレッテルははぎ取ることができなかったそうです。そんなことがケビンに起こるままにすることはできません。

  そこで私はドロシー・モアに連絡をとり、アドバイスを求めました。モア夫人は、脅しに負けて、自分の子供が低い学年に入るのを許してしまった他の親たちのことをよく知っていました。彼女から励まされた私達は、またその教師と言葉巧みに話をすることに決めました。その教師に、ケビンは少なくとも2年生の勉強ができるでしょうと言ったのです。その教師のクラスは、1年生から4年生まで一緒に学んでいます。だから、とうとう彼女はケビンが1年生の勉強も殆どこなすなら、2年生から始めてもよいということで同意したのです。

  ケビンの親である私達は、教師の気持ちを変えることはできませんでしたが、ケビンにはできました。学科の面では、私達の期待を上回るほどでした。良き学習習慣があり、他の子供達とのつきあいもよく、勉強意欲もありました。教師は息子に忙しく1年生のワークブックをさせていました。これは不当なことだと私達は信じていましたが、とにかくケビンは楽々と終え、とても良くできるので(通常の2年生の勉強も同時にやっていました)、それが不必要なことが明らかになりました。その教師は、他の生徒達に比べてケビンが非常に優秀なのを見て、遅くから学校に行き始めた子供に対する考え方をがらりと変えたのでした。

  ケビンは今11歳で5年生です。今私が後悔するたった一つのことは、私達が普通の学校にケビンを送ってしまったことです。教室にはふざけた言動がはびこり、全くの時間の無駄ばかりです。時々、ケビンが家にいなくてはいけない時には、学校でやっている実際の学習課題を1時間半で終えてしまいます。私は息子に聞いたものです。「たった1時間半で学校で学ぶことを終わってしまうなら、残りの時間、学校で何をしているの?」 もちろん、先生の説明や教室での話し合いに時間がかかることは承知しています。けれども、子供達の時間がかなり無駄になっているようです。ケビンはこの習慣を我が家に持ち込んでくるので、以前のような時間の重要性というものが薄れてしまいました。私達の子供の通う小さな学校でさえも、教室にはクリスチャンとしての高潔な精神が欠けています。もちろん、これは息子の同級生たちがそれぞれの家庭でどのように訓練されているかによるのでしょうが、我が家のケビンにも影響を与えているのです。

  競争心過剰のスポーツや、それに伴う「何が何でも勝つ」という態度にあまりにも重点がおかれています。私達は、息子が仲間たちと競争するよりは、神から授かった才能を延ばしてきたことを重んじ、彼よりも何らかの面で劣っている子達を助けることを望みます。自分より小さく、筋肉の面で劣っている同級生よりも高くボールを蹴ることができるからと言って思い上がるよりは、子供が、自分が有能な働き手であることを認識し、他の人達を助けることで、自分の人間としての価値を自覚することのほうが、私達にははるかに重要です。

  私達には、ケビンの弟のテディーもいます。この子も来年の9月には8歳になります。テディーもケビンと同じように家庭で今まで学んできましたが、来年も家庭で教えることを計画しています。テディーの必要と能力に最も合ったレベルで始めるのです。私達は、ケビンも家庭で教えることについて深く考慮しています。

 

歯科医と看護婦

(ローズマリー・スプレーグ)

 

  別々に考えたり、一緒に話し合ったり、家庭で教育することについての本を読んだり、祈ったりした後で、ハワードと私は自分の子供達に教えることを我が家での中心的活動にすることに決めました。私達は、州が少しでも問題を投げ掛けてくるなら、この神から授かっている特権を成し遂げるためなら、他の州に引っ越しすることさえいとわぬつもりでした。これについて、真っ向から対処していくために、揃えた教材を携えて公立学校の副校長を訪問したのでした。

  彼らは心の中では私達の家庭プログラムを承認してくれたものの、公式な回答は「ノー」としなくてはいけませんでした。ニューハンプシャー州の法律ではそれを認めることができないと言うのです。学校には、私達のプログラムを承認する権威がありませんでした。(けれども、州によっては地元の学校にその法解釈を任せているところもあります) そこで私達はある弁護士に連絡をとり、その弁護士は私達の弁護をし、解決策を探す助けをすることに同意してくれました。

  けれども、結局副校長から、ポーリーは定められた日までに入学しなくてはいけない、さもないと、告訴されることになるという2通の通知を受け取ったのでした。もちろん、心配はしたものの、この緊張の絶えない4週間を何とか乗り越えることができました。ハワードは、弁護士と話をしたりなどして、プレッシャーと戦いました。私ですか? この期間、点滴が私の3回目の妊娠期間の助けでした。

  私のおばのオリーブが、私が以前のように家事などができるほど回復するまでの10週間、私達の所に平日ずっといてくれました。私達は家族にとって最善のことをしていると確信していたので、神が私達を助けて下さると信頼していました。

  それから学校の弁護士と私達の弁護士は、法的な抜け道を発見し、その可能性を教えてくれました。ポーリーを教会(約40キロ離れた)の学校の生徒として登録しておき、その学校が私達が家庭で子供達を教えるのを許可すれば、その学校の決定として尊重されるというのです。私達は法律の定めることを守っていることになり、ポーリーは州の認可する学校に登録されることができます。

  それは、うまくいきました! 私達のホームスクールは教会の学校の分校として扱われました。私達を助けるために働いてくれた弁護士たちと、彼らを解決策に導いてくれた神に心から感謝しました。

  今、最寄りの教会の学校の傘下に入って4年目になります。私達のホームスクールは非常に栄え、私達が願っていただけのことができ、心に深い満足も覚えています。

  私は、子供達の教師としての仕事を楽しんでいます。子供がたいていの時間家族と離れて過ごし、一緒にいるのは殆ど寝る時間だけという家庭では不可能な親子のつながりのひとときがあります。

  ポーリーとジェニファー(今5年生と2年生)は、教会の学校で学力試験を受けます。また家庭の学校での成績や、子供にスクーリングをした日数も報告します。私達が利用しているのは、ホームスタディー・インスティテュートのコースです。教えるのは私で、ただ採点してもらうためにテストの回答用紙を郵便で送るだけです。また、そこは一定期間に幾つかのプロジェクトを行う事も求めてきます。

  ホームスクールをすることで親子のきずなが深まり、子供が普通の教室での競争や比較に苦しむことがないので自己を尊重するようになり、自分自身の人間としての価値に目覚めることの他に、以下のような特性を育むことができます。1)順応性、 2)実生活に即して学ぶ、そして3)創造性です。

  順応性:実に様々な状況で子供達に教えることができます。街に行くにせよ、旅行に行くにせよ、娘一人一人の本を持って行きます。車で旅行している時や、オフィスなどで待っている時、ハワードを待っている時などにもよく勉強します。

  実生活に即して学ぶ:ポーリーとジェニファーの字を書く練習はたいてい、手紙を書くことを通してしました。文通相手や親戚への手紙やお礼の手紙を書くことによってです。ところで、それは大切な礼儀であり、礼儀の本を勉強するよりも、経験によってもっとよく学べます。また、旅行する時に少しでも時間があくと、算数やスペルのゲームもします。

  体育は、いろいろ趣向を変えられます。秋の家族のプロジェクトは、薪わりで、それは最も基本的な種類の運動でした。パロミノ種の馬を譲り受けてからは、娘たちは2か月の間、週に3回、乗馬のレッスンを受けました。親子でハイキングに行ったり、クロスカントリーをしたり、スキーの滑降をしたり、娘たちはコミュニティー・センターで水泳のレッスンも受けています。学校の運動場でよく見かけるような、何が何でも勝とうという競争と緊張よりも、こうやって一緒に運動できてはるかに幸せです。

  創造性:ハワードは、定期的な科目を教えることはできないものの、自分の知っていることはほとんど何でも教え、娘たちはとても喜んでいます。例えば、モールス信号を父親から習いましたし、父親が写真を撮って、暗室で現像するのを見て学んでいます。彼は天文学にも興味があるので、娘たちは、直径35センチの望遠鏡で一緒に星や惑星を眺めて興奮を分かち合っています。ハワードは、ポーリーと一緒にバイオリンも弾きます。だから、彼も娘たちと沢山時間を過ごしているのです。

  家族で博物館や国立公園を訪問したりもします。コンサートに行ったり、紀行映画やオードゥボンの映画(鳥の観察)なども見に行きます。たとえ私達がホームスクールをしていなくともそのようなプログラムに行くでしょうが、以前よりもそれを学習教材として見るようになりました。

  私達の生活様式のゆえに、私が時々歯科医院の手伝いをしなくてはいけない時には、ホームスクールもそれに順応させなくてはいけません。また、季節柄必要となる仕事や、色々なつきあいもあれば、日によって必要なこともあれこれ生じてきます。10歳にしてポーリーは、キッチンで私の片腕となりました。私は喜んで、さほど楽しくはない仕事を引き受け、その間に彼女は料理の技を磨きます。近所の人や友人が病気になると、ポーリーは料理の本を開いて、何かその人のために作るものを考えます。私達の地区に住む困っている人達に何かしてあげるのは、娘たちにとって、非常に特別な経験となっていて、精神的な成長を助ける活動です。

  ホームスクールによって、私は自分の限界も自覚しました。気が向いたからといって、あちこちに行くことはできません。以前楽しんでいたことも、あきらめなくてはいけないのです。自分がしたい事をする時間がないこともしばしばです。十分な睡眠を取るのは、私達のプログラムに遅れを出さないために必要不可欠ですが、これも私には難しいのです。

  私達は経験から学んでいます。このようなことを言うのは、自分たちのホームスクールの現実を伝えたいからです。誰かが、ホームスクールを始めるにあたって、何があろうと絶対にやり抜くという決意もせず、自分の時間を制限され、様々な問題も生じるということを知らないままで始めてしまうというのは考えるだけでもいやです。また、私が完全に自分一人でやっていけるというような態度を取るとすれば、それは正直とは言えません。母と叔母のオリーブが多くの面で助けてくれています。

  これらの問題を話した後で、急いでつけ加えたいことがあります。それは、我が子を教えられることの特権と、子供達に対して感じている責任に感謝しているということです。これは犠牲ではありません。なぜなら、報酬は今の努力よりもはかり知れないほど大きいからです。私には、ホームスクーリング以外のどんな方法も考えられません。ハワードは私達と一緒にいて、いつも私達を全面的に支え、可能な限り共に時間を過ごしてくれます。また、子供達を指導し、しつけることも助けてくれるのです。夫の励ましがなかったら、続けていけなかったことでしょう。

  アイデアは尽きませんが、私の時間と忍耐とエネルギーには限界があります。子供達は、私達とどこでも一緒に行くので、自分だけの時間は殆どありません。私にとって気分を新たにできる唯一の時間は隣人と3キロ歩く7時半の散歩です。この散歩で頭の中がはっきりし、1日の仕事を始めるエネルギーを得られるので、外に出られない冬はその影響が出ます。

  今年、私達は日本から来た13歳の女の子を家庭に受け入れるという、非常に実りある体験をしました。彼女のしっかりした態度、行儀正しさ、勇気によって、私達も意欲満々になりました。彼女が参加しているLABOプログラムが、彼女の訪問に備えて、私達をしっかり準備してくれました。そして、あっと言う間に1か月が過ぎてしまい、その新しい友人との別れを告げる私達の胸には、もっと他の文化について学びたいという思いが生まれたのでした。来年は、別の国の女の子を受け入れることを願っています。

  一番最近の私のアイデアは、娘たちに外国語を学ばせることです。私達はあるオーストリアの家族とつながりがあり、そこの娘たちと長いこと文通しています。私達の娘たちを交替で、そこの娘たちと交換することで私達双方が益を受け、私達の娘たちはドイツ語で話したり、考えたりすることさえできるようになることでしょう。この文化や言語の交換は非常に価値があると信じています。すべての人は、まことに神の家族の一員なのですから。

 

教師と酪農家

(レノラ・ブランク)

 

  (4家族がニューヨークの教育委員会から、義務教育を始めるよう定められている年令(6歳)になっても、家庭で教えることができるという許可を受けました。この4家族は、自分達のホームスクーリング・プログラムの設立のために、共に働いたのでした。)

  家族が集まってアイデアを出し合うにつれ、子供の指導についてのより具体的な概要ができあがってきました。どの両親も、自分の子供の教育に責任を負っているものの、グループでの行動のほうがより効果があって、能率的と思える場合には、いつでも共に働くことにしました。私達は、すべての親が、生徒全員ために何らかの貢献をすることに同意しました。

  1975年の秋に、私達はホームスクーリング・プログラムを始めました。今まで不確かだった部分がすぐにはっきりしてきて、互い同士、また子供達とも、一緒に気楽に働けるようになってきました。教えることは、夕食を作ることや、ベッドタイムのお話をすることと同じくらい、当たり前でお決まりの日課になり、スクールが私達の毎日の生活の一部となったのです。

  1976年から77年までに、私達は教育委員会に、子供達が8歳になるまで学校教育を受けるのを遅らせたいだけでなく、それ以降も家庭で教えたいことを話しました。家庭で教えることは親にも子供にも価値があることが証明され、私達の「学校」は順調に行っていました。ピーターソン氏は私達の申し出に同意し、メルドラム氏に私達の運営についての詳細を任せたのでした。メルドラム氏は、毎月の子供達の活動報告と出席記録の提出を要求したので、私は喜んで毎月それを提出しました。

  1977-78年、オート家がグループ教育の本部となりました。毎日読み書き算数を教える他に、聖書、社会、工芸技術や保健を教えました。ヘンリー・フットは、毎週科学のクラスをしました。ベテラン画家トレントン・フロストは美術を教え、ドリタ・フロストはスペイン語を教えました。ウイリアム・ブランクは毎月恒例の夜の天文教室を開き、子供達は望遠鏡から見る月のクレーターに息をのみました。そして、先生が懐中電灯で照らし出す方向にある様々な星座を観察したのでした。太陽系の惑星の名前を覚えるためにちょっとしたゲームもしましたし、地元の無料の映画貸し出しサービスや図書館から借りてきた映画も見ました。私達は、カリキュラムでいろいろな科目によくビデオを使ったものでした。

  ジム・フットは、自然観察やハイキングを指導し、その妻は合唱と料理を教えました。例えば11月には、誕生日の人が何人かいたので、特別な夕食会を開くことにしました。子供達がメニューを考え、じゃがいもを洗ったり、テーブルをセットしたり、サラダを作ったりなど手伝いました。そして、料理のクラスは毎週か1週おきに行いました。

  この頃は、私達のグループ・ホームスクールの全盛時代で、親と子供達は自分達の学校に全面参加していました。実に楽しい時期で、共に分かち合い、共に笑い、共に学んだのでした。生徒は沢山学び、平均的な1年生よりも身体的また感情的に成長していました。教室での個人的な指導を受けられることで、急速に進歩を遂げていたのです。

  1978年と79年に、幾つかの変化が訪れました。フット家が引っ越し、フロスト氏の仕事のスケジュールや乗り物の問題から、一家がグループ・スクールにかかわれなくなってしまったのです。というわけで、ホームスクールに7人の子供達が残りました。

  また、私達は別の問題にも直面しました。教育委員会の役人は、数年間、喜んで私達に協力してくれていたものの、ピーターソン氏は、公立学校に送らずに子供を教育したいという要望を、他にも幾つか受け取って以来態度を変え、そのため、子供達を普通の学校に入れるようにとの圧力が強まったのです。

  ピーターソン氏は、州の教育局に、その問題について知らせ、教育局と共に、この郡の私立学校に関する新しい統一したガイドラインを作りました。それから、私達の家庭教育を「私立学校」に分類してしまったのです。私達は自分達が私立学校の部類に入るとは全く思っていなかったのでショックでしたが、とにかく必要事項を満たしたいと思いました。これは私達にとって脅威でした。私立学校の資格を得るには、公共の建物に適用される防火基準などを守る必要があるからです。

  オート家には、非常口のサインやステンレスのシンクなどがありませんでしたし、そんな建物にする経済的余裕もありません。私達のプログラムの「賢い」点の一つは、経費が少なくて済むことだったのです。光熱費は普通の家庭並で済み、新しい本や教材は、いろいろな所から受けとっているので、年に50ドルを越えることがありませんでした。

  だから、他のあらゆる方法を考慮しました。ホームスタディー研究所、アクセレレーテッド・クリスチャン・エジュケーショナル・プログラム、クリスチャン・リバティー・アカデミーなどについても調べました。すると幸いなことに、ある弁護士の友人がニューヨーク州の教育法を調べてくれ、すでに子供達を家庭で教えていた親を容認したという先例を見つけてくれました。まさに私達が必要としていたものです。私達はピーターソン氏に手紙を送り、私達を私立学校として分類しないよう求めました。そして、今までホームスクールをしてきた親に適用された法律の下で、それぞれの家庭は、あくまでも子供が親から教育を受けているとみなすようにと求めました。すると、彼とメルドラム氏が私達のホームスクールを訪れ、私達の要求通りに承認されました。私達は、また新しい学年を迎えられることを心から感謝したのでした。

  1979-80年には、私の夫ウイリアムに子供達に科学を教えてもらい、サラ・オートと私は、オート家の4人の子供達と、私の娘シャリとジェレマイア・フットを教えることにしました。私達は週に4回会いましたが、それぞれの家庭でも別々に子供達を教えました。

  家庭で教える教師は、絶えず自分を向上させる努力をすべきだと思います。別に無理してやれというのではなく、親また教師としての能力を向上させるための機会を絶えず利用することです。幸いなことに、家から30キロくらいのところに、四つの大学や短大があります。ポツダムにある州立大学には、膨大な数のカリキュラムや学習資料があり、一度にその学期に渡って借りることができました。また、ニューヨーク州の児童がそれぞれの学年で学ぶ必須事項を調査し、何が必要とされているか熟知するようになりました。そして、それぞれの親は特定の概念に沿った自分たち自身の「学習課程」を作るか、自分達の必要にあった本に沿って教えました。

  子供が大きくなるにつれて、スクールを行う時間は増えていきました。最初は、週に2回、1時間から2時間ずつだったのが、週に4回で1日に4時間になりました。グループ授業を行う「公式の」時間は、通常の学校の時間数よりも少ないものの、子供達は建設的な仕事も色々します。そして皆、学年が終わるずっと前に、1年分の勉強を終わってしまうのが常でした。

  私達教師は、特定の期間にどれだけの勉強を終えることが必要か判断し、目標の表を作ります。それを元にして年長の子供達は、その週またその年の全体的な目標と照らし合わせて、毎日の計画や進歩を記録するのです。子供達が意欲を持ち、何をする必要があるかを決定し、親はただアドバイザーとしての役割をするだけのこともよくります。

  家庭での学習スケジュールを立てることの利点は、融通がきくことでした。しかし、それでもなお、生徒たちは目標の表を全体的な目安として、自分達でそれに向かって努力することができました。

  一度、教育委員会の人が少々心配になってきたことがありました。何と言っても、法律では、私達の子供達は学校に行くよう要求されているのですから。ダグ・オートは彼らに、「もちろん、彼らの世話や監督がおろそかにされてはいないことがよくおわかりになるでしょう」と言いました。「ええ、しかし‥‥」、メルドラム氏とピーターソン氏は、子供の教育に関する州の指導方針を徹底させる義務を負っていましたが、その面においては、十分親切にしてくれていました。彼らが、法律がどうのこうのと言うよりも、子供達の幸福を気づかっているのは確かでした。

  「では何か提案があるのですか?」とダグが聞くと、「子供達をテストして、同じ年令の子供達と比べてみるのが賢明と思います。」という答えが返ってきました。「どんなテストを考えてらっしゃるのですか?」「私どもの地域の公立学校の生徒が毎年受ける標準学力テストです。」「では、私達の子供達にも受けさせてみましょう。」

  私達親が子供達にそのテストを受けさせたのですが、結果を見てとても喜びました。私達は子供達が幸せで満足しているのを知っていました。よく学び、よく働いているのも知っていましたが、どれくらい良くやっているかは知らないでいました。標準学力テストで、9歳のダギーは3年生のテストでパーセンタイル・スコアが99点、8歳のデービッド・オートが2年生のテストで96点、9歳のシャリ・ブランクは94点でした。

  3年生二人と2年生一人が90点で、年下の女の子は読みにおいて、1年で2学年分の進歩があったことがテストの結果でわかりました。

  この得点を見た私達は、得意になるのではなく、どの方法が一番うまくいっているかを入念に考慮し、その方法を引き続き使っていくことにしました。

  子供達はよく、「どこの学校に行っているの?」と聞かれます。「ホームスクールをしています」と答えるのですが、これには沢山の質問が返ってきます。すぐに彼らは、自分達の状況は非常に変わっていることを悟り、このように質問される時に自己について鋭く認識するようになりました。子供達は本当にホームスクールを楽しんでいます。

  子供達は完璧ではありません。口喧嘩をしたり、兄弟でライバル意識を持つこともあります。すべての子供と同様、彼らにも注意したり、正しい道に導いてやることが必要ですが、他の子供達にはあまり見られないとても優れた点が彼らにはあります。食事にしても遊びにしても、シンプルで自然なことを好むのです。家にある物からあらゆる種類の独創的なものを作っては、何時間も一緒に遊んでいます。やる気を起こすと、木箱に詰めたりとか、庭に腐養土を敷いたりといった仕事を、静かに協力し合いながらやるのです。読むことが好きで、他の子との競走によるプレッシャーもないので、勉強もとても楽しんでやっています。

  さて、ここで家庭での教育を考えている親の皆さんに提案が幾つかあります。

  自分の信念に基づいた教育理念を持つこと。適切な本からホームスクールについて勉強し、必要とあれば熟練したホームスクール経験者に相談する。

  かかるコストを考える。それには時間や勇気と少しのお金が必要です。正式に教えるのは1日に1時間半か2時間かもしれませんが、ホームスクールをすると、あなたのすることがすべてそれにかかわるのです。

  別に学校当局と接触しなくとも始められるかもしれませんが、家庭で教え始める時には、地元の教育当局の承認を得ることが最善であることを私達は知りました。私達と同じ手段でいきたいのなら、自分が何をしたいのか、またどうしてなのかをはっきり説明できなくてはいけません。自分のカリキュラムを説明でき、どこから教材を入手するかも知っておかなくてはいけません。公立学校以外の教育手段に関するあなたの州の法律を知っておくこと。

  新しいホームスクールに対する対応は実にまちまちです。公立学校の校長が、波風たてないよう見て見ぬふりをする場合もあり、「私達がおたくのことを知らなかったなら、法律を守らせるようしかるべき処置をとる必要もなかったでしょうに。」と言われた親たちもいます。

  もしあなたが、自分のホームスクールを地元の学校の傘下におく、つまり、分校か何かのようにできるなら、不必要な問題を沢山避けることができるでしょう。ホームスクールを始めるのに、争う必要など全くないのです。

  不利な点はあるものの、片親の家庭でも、立派にホームスクールをやっていくことができます。親が大学を出ていることを推薦する人もいますが、そうでなくてはいけないということはありません。ただ良き家庭の模範となって、あなたの子供達は十分な指導(とそれ以上のもの)を受けていることを示すなら、あなたも家庭教育者となれます。

  私達がホームスクールを始めたのは、子供達にそれが必要と感じたからです。今も続けているのは、私達の状況では一番うまくいっているからです。率直に言って、ホームスクール以外のいかなる方法でも、子供とのきずなや、子供達の素晴らしい進歩を目の当たりにするチャンスを、私達は逃してしまうことでしょう。

 

私たち独身女性たち

(パティー・ブランクンシップの場合)

 

  私達がWRNG、アトランタの「リング・ラジオ」でインタビューをやっている時に、せっぱ詰まった声の女性から電話を受けました。ショーが終わった時、また彼女が電話してきて、その局で会いたいと言ってきたと教えられました。それがパティー・ブランクンシップで、二人の息子、マーク(11歳)とパトリック(8歳)を持つ独身の母親でした。デカーブ郡の少年裁判所は、彼女の子供達を彼女の手から取りあげ、彼女に1日に1000ドルの罰金を科し、刑務所に入れると脅していたのです。良い母親であろうと努めてきた人に何とひどい仕打ちでしょうか。

  その5年前の1974年、パトリックの幼稚園の先生が、パトリックは幼稚園に行くには幼すぎると考えました。そこで、パティーは家で息子を教え始めたのです。この経験から、彼女は学校に行く準備をすることの大切さに目覚めました。そして、パトリックは家でとても良くやっていたので、もう1年家で教えることにしたのでした。そして1975年、当局は彼女を攻撃し、刑務所に入れて重い罰金を科すと脅し、また最悪なことに息子達を取り上げるとも言ったのでした。

  これだけでも憂鬱な状況でしたが、化膿していたパトリックの足が、医師が切断を勧めるほど悪化したことで、事態はさらに複雑になってきました。パティーは、息子の足の切断を許可する前に、まず自宅で自分が看護してやりたいと言い、それを実行しました。生活のために縫物の仕事をし、時折、靴の型を作ったりなど内職仕事もしました。数ドルの賃金をもらって自分の小さな家庭を支える足しにしていたのです。そのようにして、福祉の世話にならないように努めました。

  また、クリスチャン・リバティー・アカデミーの教材を使って、息子達の学業が平均を常に上回り、行儀の面でも大抵の子供達より、遥かに優れているように努めたのでした。

  お節介な友人達が、息子達が学校に行かないことで、正常な社会生活を逃していると主張する学校や役所の味方にまわりました。パティーは、マークが家にいることで、パトリックの良き勉強仲間や遊び相手になっているだけでなく、パトリックは、彼の所属する「アトランタフレームス」ホッケーチームから称賛されているくらいで、正常な社会生活を営んでいないなどという非難は的外れであると反論しました。しかし、当局はパティーと二人の息子への攻撃をやめようとはしませんでした。

  この頃、パティーは子供の発達や教育法について、また憲法上の権利についても勉強を始めました。1979年の8月に私達と話した時には、彼女はすでに幼年期の教育や子供の発達についての私達の本や記事をすっかり読んでいました。そして、憲法の事にかけてはかなりの専門家になり、彼女と争っている役人達よりも精通するようになったのです。このおかげもあって、正式な審理の開始を1975年から1980の初めまで引き延ばすことができました。その間、彼女は息子達を自分達の学年よりも1学年あるいは2学年上の学力にまで引き上げ、また、パトリックの足は切断しないですみました。ただ、足を延ばすための手術を受けなければならないだけでした。

  1979年の9月に、アトランタの弁護士であり、またバプテスト派の牧師でもあるマイケル・パルハムが私達に手紙を書いてきて予備情報を求めてきました。それから5カ月後に届いた手紙には、同弁護士のほかにテッド・プライス弁護士とパティー・ブランクンシップの署名があり、私達が彼女の裁判で証言することを求めてきたのです。そして、パティーが経済的に苦労していることから、これにかかわる人達や証人達全員が無料で奉仕することに賛成しました。また、デカーブ郡少年裁判所の態度からして、陪審裁判を要請する必要があることにも、皆が賛成しました。

  この決断は適切であったことが判明しました。任命された裁判官は、今まで度々同じ裁判を担当してきた検察官の肩ばかり持つことで有名だったからです。その検察官は、弁護側が質問する度に、「異議あり!」と叫び、裁判官は殆ど必ずと言っていいほど、小さな声で「認める」と言うのでした。この事は裁判記録が裏付けてくれるでしょう。

  また言うまでもないことですが、尋問の時には、検察官は怒鳴って、「はい」か「いいえ」とだけ言うように迫るのです。幾度か行き詰まりがあった後で、ついに私達は、自分達は真実を述べると手をあげて誓ったのだから、検察官が適切な聞き方をしないなら、説明的な答を受け取るだけか、あるいは、全く答を受け取らないだろうと言う必要がありました。この法的なジェスチャーと堅実な弁護は陪審員達に良い印象を与え、パティーは無罪となりました。現在も彼女は子供達を家庭で教えており、州や国の法律に精通していることから、議会に立候補することを考えています。実は彼女はすでに、弁護士達のための講習会も開いているのです。そして、ホームスクーリング専門家としても新しく認められるようになったことから、その地域のホームスクールの出版局の代表となっています。

 

ジュディー・ワデル

  1974年の末に、ジュディー・ワデルはベリエンスプリングスの教育長から、ブレットをこれこれの日までに就学させるようにとの通知を受け取りました。その期限まであと数日しかありませんでした。

  ミシガン州では、子供を6歳までに就学させることを義務づけているものの、彼女は7歳の息子のブレットをわざと学校に行かせないでいました。小児科医から、ブレットの身体的成長は、平均的な7歳児よりも、2年ほど遅れていると言われていました。また、ブレットを検査した心理学の専門家は、身体の成長と情緒的な成長のバランスがとれていないと言ったのです。いずれにせよ、その小児科医と一人の心理学専門家は、ブレットはまだ学校に行くだけの準備ができていないことをほのめかしていました。

  ワデル夫人は高校を出て、ビジネススクールで速記を学んだだけでしたが、子供に関するもので読む価値があるものは何でも読みあさりました。そして特に、ほとんどの子供にとって、入学するのを遅らせるほうがかえって良いことを知りました。また、幼い息子と沢山の時間を過ごし、毎日本など読んでやり、息子が自分で「読む」ための優れた本も沢山揃えることの重要性を悟ったのです。また、よく近所の人を助ける彼女は、息子を一緒に連れて行くこともしばしばでした。

  けれども、息子を入学させないと厄介なことになるかもしれないという知らせを受けたのです。静かに待ち、当局に協力しながらもブレットにとって最善のことをするにはどうしたらいいかを調べました。ブレットは彼女から取り上げられるかもしれないと言われたこともありました。そしてついには、罰金か懲役になると脅されもしたのです。夫からの支えや慰めもなく、ジュディー・ワデルは不安のどん底に落ちるだろうと予想した人達もいましたが、祈りの人ジュディーは、ますます強くなっていくようでした。そんなある日、保安官のパトロールカーが家の前に止まり、大柄ながらも気の優しそうな二人の保安官が、すまなさそうに彼女を車に乗せ、セントヨセフ郡刑務所に連行したのでした。彼女は軽犯罪法違反(子供の保護監督不行届き)で捕まったのです。他の犯罪者と同じように写真を撮られ、貴重品も没収され、刑務所の「留置所」に入れられたのでした。

  ワデル夫人は、公判前の審問に出頭した時に、就学を義務づける法律にまで異義を申し立ててきたので、ジョン・ハモンド裁判官は驚きました。そして裁判の日付を定めましたが、「数時間」で終わるだろうと言いました。しかしこの裁判官は、この婦人のことをよく知らなかったのです。また、彼女が子供に母親からの優れた世話を与えようと決意していることも。何人もの友人や教会の助けで、全米中から専門家の証人が法廷に集まりました。裁判は、その年の大半続きました。様々な裁判の日程がぎっしりつまっていたせいもあるし、また、不必要な証言が幾つもなされたせいでもあります。1975年10月2日に開始したその裁判は、この本を執筆中の1982年初めにも結審していません。

  ジュディー・ワデルは、ブレットが8歳になるまで家にとどめ、それから「平和」のために息子を半日だけの幼稚園に入れました。しかし本当は、あと1年か2年は家においておいて、それから2年生か3年生のクラスに入れたかったし、そのための準備もできたことでしょう。8歳で入学した時には、それまで1時間でさえ、正式な学校での授業を受けたことがなかったのに、ブレットの算数のテストの結果は2.6年生程度で、語彙能力は4.4年生程度でした。

 

ヴィッキー・シンガー

  ユタ州カマスのジョンとヴィッキー・シンガーの話は全米でよく知られています。私達は、シンガー夫妻の上3人の子供達が、州の審査を受けた直後に、夫妻に助言をするよう頼まれました。記者達は、その子供達は、州が任命した精神測定専門家達によって、「反社会的で、村八分にされた者のような思考をし、脳障害がある」と報告されたそうです。

  ジョンはそもそも、自分の子供達が通っている学校で「間違いが真実として教えられている」ことに嫌気がさし、子供達に学校をやめさせて、家で教えることにしたのです。カマスの近くの山の山腹にある2.5エーカーの敷地内の、家から数メートル離れた所に、シンガー学校のための特別な小さな校舎まで建てました。

  教室の設備は貧弱ではあるものの、黒板や「まともな」本が何冊もあって、様々な教材もありました。それに寒い地域なので、まきストーブもありました。授業はほとんど父親が教え、少しだけ母親も教えました。授業の他に沢山の課外活動があって、子供達は皆、家の掃除や料理や裁縫や洗濯を学び、全員が自分でおいしいパンを焼く事ができました。

  子供達の年齢からすれば、それは驚くべきことでした。またジョンとヴィッキー・シンガーは、長女には歌の才能があると感じ、近くの町でプロから歌のレッスンを受けられるようにしました。次女のスザンヌは明らかに芸術的才能があったので、大きな町でプロから絵のレッスンを受けさせました。そして、彼女の絵は何枚も売れましたが、どれも平均的な美術学校の生徒の絵よりもはるかに優れていました。

  ティムが得意なのは、丸太小屋建築でした。最初に建てたものは満足がいかなかったので、二つ目に取りかかりました。少々父親の助けを要したのは、たるきのカットと角度の決め方だけでしたが、それは大抵の大工でも難しい仕事です。

  このような子供達が、数人の近所の人達や州の抗議により、州の精神測定専門家の検査を強制されたのでした。

  それから、先に述べたような検査結果が全米に報じられました。子供達は反社会的で、村八分にされた者のような思考をし、脳に障害があると言うのです。シンガー夫妻は非常に怒りました。しかし、自分の子供達をもう誰にも検査させないとジョンが決めたのはこれが一番の理由ではありません。夫妻は、子供達は神から授かったもので、自分達が彼らの良き管理人となり監督者となることを命じておられると信じていました。だから、この幸せな義務を州に明け渡したくはなかったのです。州が子供達を検査し、訓練するのを認めることは、自分達の宗教の自由と、自分達で子供達を訓練するという神からの任務を放棄することになると、夫妻は感じたのでした。

  「当局に捕まるよりは、死んだほうがましだ。こうした尊いものを手放してまでも生きていたくはない。」とジョンは宣言しました。

  当局があの手この手でだましてでも−−一度は「ロスアンゼルス・タイムス」の記者を装ってまでも−−子供達を取り上げようとしている間、私達はシンガー夫妻を何とか助けようとしました。

  ジョンは、攻撃的な人でも暴力的な人でもなく、平和を愛する人でした。「信念を貫け。撃たれるまでは撃つな。」をモットーとしていました。そして1週間くらいして、その人生の最後の日に、追跡者達の前から逃げようと決めたのでした。そして、子供達の何人かが見ている前で、その背中に9発の銃弾を容赦なく撃ち込まれたのでした。大勢の人は、そんな事が現代のアメリカに起こるはずがないと言います。しかし、裁判でそれが十分起こりうるということが明らかになるでしょう。この本が印刷にまわろうとする今、その裁判のための準備がなされています。

  裁判を待ちながら、今もヴィッキーは子供達を家庭で教えています。最近彼女を訪問したり、子供達からの手紙を読んでみて、子供達はとてもよくやっているようです。ヴィッキーはもう州から抗議されることもありませんが、自分を支えてくれる夫からのたのもしい励ましの言葉を聞くこともありません。ヴィッキー・シンガーはとても強い意志を持った女性です。子供達が、未だに理解できない近所の人達に直面しても確信をもって応対することが、彼女の強さを物語っています、人一倍働き、倹約する事で、何とか一家の生活を支えているのです。

  ジョン・シンガーは、その頑固さ、あるいはその信念を貫くために、命を犠牲にしました。死ぬまで自分の信条を貫き、簡単に妥協することはなかったのです。多分、もう少し信念をもった親がいてもいいのではないでしょうか。そのような親が沢山出てこないなら、この国はじきに変わり果ててしまうことでしょう。

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