RR515

 

親と子の間に

 

−−古き問題に対する新しき答え

−−ヘイムG.ギノット博士

 

子供との会話

 

子供の質問:隠された意味

  子供との会話は独自のきまりや意味を持った芸術です。子供たちが会話において単純素朴ということは滅多にありません。彼らの言うことは暗号化されており、解読が必要なのです。

  初めて幼稚園にやってきた5歳になるブルースは、母親がまだかたわらにいた時、壁にある絵を見て大声で、「この変な絵を描いたのはだれ?」と尋ねました。

  母親は恥ずかしく思い、そんなこと言っちゃいけませんといった目つきで息子を見、あわててこう言いました。「きれいな絵なのに変な絵と呼ぶなんて、いいことじゃないのよ。」

  その子の質問の意味を理解した先生は微笑んでこう言いました。「ここでは、別にきれいな絵を別に描かなくてもいいのよ。もしそうしたいなら、あんまりきれいじゃない絵を描いてもいいの。」 ブルースの顔が笑顔でいっぱいになりました。彼の隠された質問に答えが与えられたからです。隠された質問とはこうでした。

  「あんまり絵が上手じゃない子はどうなっちゃうの?」

  次にブルースはこわれた消防自動車を拾い、独善的にこう尋ねました。「この消防自動車をこわしたの、だれ?」 母親は答えました。「誰が壊したかなんて関係ないでしょう? ここの子は一人も知らないんだから。」

  ブルースは別に名前に興味があったわけではないのです。ただ、そのおもちゃを壊した子がどうなったか知りたかったのです。それを察した先生はうまい返答の仕方をしました。「おもちゃは遊ぶ為の物で、時々こうやってこわれちゃうものなのよ」

  ブルースはその答えに納得したようでした。ブルースはその巧みなインタビューによって必要な情報をえることができました。「この大人はなかなかいける。絵が変でも、おもちゃが壊れても、そう簡単に怒らない。こわがる必要はないや。ここにいても安全だ。」 ブルースは母親にバイバイと手を振り、幼稚園での第一日を始めるために先生の所にいきました。

 

実りのない会話

  両親は子供との会話が尻切れとんぼでじれったく感じてしまうことがあります。このよくある会話のように。「どこに行ってきたの?」「外」「何をしてたの?」「何にも」 親が筋の通った会話をしようとするなら、すぐに疲れ果ててしまうことでしょう。子供というものは、親と話すのにしばしば抵抗するものです。子供はお説教されたり、一方的に何か言われたり、非難されるのが好きではないからです。私たちの日頃の話し方は、子供と意味のある会話をするのには適当ではありません。子供たちの心をつかみ、親のジレンマを少なくするには、子供との新しい会話法も含めて、子供と心を通わせるための新しいモード(様式)が必要となってきます。

 

コミュニケーションの新しい規範

  コミュニケーションの新しい規範は尊敬の念と技術を基盤としています。それには以下のことが要求されます。a)メッセージが、親の自尊心も、子供の自尊心も傷つけない、b)アドバイスや指示を与えるよりもまず先に、理解の言葉を語る。

  9才のエリックはかんかんになって家に帰ってきました。彼のクラスはピクニックにいくことになっていたのに、雨が降ってしまったからです。そこで母親は新しいアプローチを試してみることにしました。過去に使っていた、状況を悪化させるだけの決まり文句は差し控える事にしました。過去に使っていた決まり文句はこうです。「雨が降ったからって、泣いてもしょうがないでしょう。」「また違う日にいけるわよ」「ママが雨を降らせたわけじゃないんだから、ママに怒ってもしょうがないでしょう?」

  彼女は心の中で思いました、「息子はピクニックに行けなかったことが本当に残念で、がっかりしているんだわ。怒りを表すことによって、そのがっかりした気持ちを私に理解してもらおうとしている。がっかりするのも当然だわね。理解を示し、この子の感情に敬意を払うのが一番だわ。」 エリックに彼女はこういいました:

  母: がっかりしているみたいね。

  エリック: うん。

  母: ピクニックにすごく行きたかったんでしょう。

  エリック: そうだよ。

  母: せっかく色々と準備したのに、行こうと思ったら雨が降ってきたんでしょう。

  エリック: 本当にそう。

  その後一瞬の沈黙があり、それからエリックはこう言いました。「しょうがないや、また別の日に行けるもん。」

 

  怒りは消え去ったようで、午後はずっと母親に協力的でした。エリックが怒って家に帰ってくると、普通、家族みんながいらいらするものでした。遅かれ早かれ、エリックは家の者まで怒らせたのです。彼が夜眠りにつくまで、平安は戻りませんでした。

  このアプローチのどこがそんなにすぐれているのでしょうか? 役に立つ要素とはいったい何なのでしょう?

  子供は、何かの激しい感情を抱いている時、人の言うことに耳をかすことなどできません。アドバイスも、慰めも、建設的な批評も受け入れられないのです。子供はただ私たちに理解してもらいたいのです。その時の心の中のかっとうを私たちに理解してもらいたいのです。さらに、自分の経験していることを何もかも話さなくても理解してもらいたいのです。子供が自分の感じていることを少しだけ見せ、後は私たちが推理しなければいけないゲームなのです。

  子供の強い感情は消えはしません。親が、「そのように感じるのは良くないことなのよ。」と言ったり、「そんなふうに感じる理由はない」ことをわからせようとしても。強い感情はそのように払いのけても消えはしません。でも、聞く側が同情と理解をもってその感情を受け入れてあげるなら、その感情は弱まり、角がとれるのです。

会話におけるいくつかの原則:

  出来事から人間関係へ−−子供が出来事について話したり、尋ねたりした場合、その出来事に対して応答するよりも、その中にある人間関係に応対したほうがいい場合がよくあります。

  6才のフローラは「最近」お兄さんよりもプレゼントが少ないと言って不平を言ってきました。母親はその言い分を否定したり、お兄さんのほうが大きいのだからそれは当たり前だと言ったり、これからはそんなことがないようにすると約束したりはしませんでした。子供はプレゼントのサイズや数よりも、親との関係の深さのほうをもっと気にかけていると知っていたのです。「お母さんが、あなたのことをお兄ちゃんと同じくらい愛しているかどうか気になっていたんでしょう?」 母親は他に何も言わずに娘を腕に抱き締めました。フローラはビックリしながらも、にっこりし、満足げでした。これで、果てしなき議論に発展することなく、この会話は終わりになったのです。

  一般的なことから具体的なことへ−−子供が自分はこうこうだといった発言をした時には、それに賛成したり反対したりせず、何か具体的なことを言って、子供が期待もしていなかったほどに理解してもらえたと感じるようにしましょう。

  子供が、「ぼくは算数は苦手」と言った時、「そうね、計算が下手だから」と言っても助けにならないし、彼の発言に異義を唱えても助けにはなりません。また、「もっと勉強するなら、もっと良くなるわ」といった助言も役に立ちません。そんなふうに手っ取り早く即席の助言を与えても、子供の自尊心を傷つけ、自信を失わせてしまうだけです。

   子供の「ぼくは算数は苦手」という言葉は、真剣に理解をもって処理されることが出来るはずです。次にあげる返答のしかたならどれでもうまくいくことでしょう。

  「算数は簡単な科目じゃないからね」

  「問題によっては解くのがとても難しいからね」

  「お父さんやお母さんがどう思うか心配してるんでしょう。」

  「お前が自分のベストを尽くすって信頼しているよ」

  12才の少年は、落第点をもらって帰ってきた時に、父親にそんなにも理解を示してもらえたことで「死ぬほど驚いた」と言っています。その子は心の内でこう思いました。「お父さんの信頼に応えなくちゃ。」と。

 

一つのものに対して同時に抱く二つの矛盾した感情を言い表す。

  子供たちは私達を愛すると同時に、ひどく嫌います。両親、先生など自分の上に立つ人に対して二つの矛盾した感情を抱くのです。両親はなかなか、そうした矛盾を避けられないものとして受け入れることができないようです。自分の内にそうした矛盾した感情があるのも好まないし、子供が矛盾した感情を持っているのにも耐えられないのです。大人は、人に対して、特に家族の者に対してそんなふうに二つの矛盾した感情を抱くのは本質的に間違っていると考えるのです。

  子供たちは、そのように感じるのは普通で自然なことだと知らされる必要があります。その矛盾した感情を認めてやり、それを言葉に言い表してあげるなら、子供は罪悪感を感じたり、心配したりしないで済みます。  

  「先生に対して二つの違った気持ちを持っているみたいね。先生のこと、好きなんだけど、嫌いなんでしょう。」

  子供の心の内の矛盾した二つの感情について、両親が非難したりせず、穏やかに話すなら、子供にとって助けになります。自分の「複雑な」感情も理解不可能ではないと子供は知るからです。ある子が言ったように。「私の複雑な感情も、理解してもらえるんだったら、それ程複雑でもないんだね。」けれども、次の様に言うのは全く助けになりません。

  「なんてこった、お前は複雑怪奇だな! さっきは友達のことが好きだったくせに、今はもうその子に腹を立てている。どっちかにしろ。」

  感情は生れつきのものです。魚は泳ぎ、鳥は飛び、人は感じるのです。感情に関する教育は、自分が何を感じているのかを知る助けになります。自分の気持ちをはっきりと理解できるなら、子供が心の中で「全く複雑でわけがわからない」と感じることもあまりなくなります。

 

子供に自分自身の心を見させる

  どのように子供が自分の感情を知るよう助けることが出来るでしょうか? 子供の感情に対して鏡の役目を果たしてあげればいいのです。子供は鏡を見て自分の姿形がどんなであるかを学びます。同様に、私達が言葉を使って、子供の感情を映し出してあげることによって、子供は自分の感情が何かを知るのです。

  感情を映し出す鏡の役目は、それを歪めずありのままに映すことです。

  「だいぶ怒っているみたいだね」

  そのような感情を持っている子にとって、こう言ってもらえるのは本当に助けなのです。こういった言葉は、その子に、その子の感情を明確に示します。普通の鏡にしろ、感情を映し出す鏡にしろ、はっきりした像が映し出されるなら、その子に、自分から身なりを整えたり、変ったりするチャンスが与えられます。

 

賞賛と批評の新しいやり方

 

子供のしたことをほめるか、性格をほめるか?

  一般に、ほめることは子供に自信をもたせ、安心させるものですが、時に、ほめたことによって緊張状態が生じ、子供が悪い振るまいをする結果になることもあります。なぜでしょうか? 子供によっては、自分は時々悪いことを考えるので、その賞賛に値するとは感じません。親から「お前は本当にいい子ね」と言われると、自分が自分に対して抱いているイメージとはほど遠いので、そのほめ言葉を受入れられないこともあるのです。子供からして見れば、自分が「良い子」のはずがないのです。つい最近、母親の口にジッパーがついていたらとか、兄さんが今度の週末、友達の家に泊まりにいってくれたらいいのにと思ったばかりなのですから。実際のところ、子供というのは、ほめられればほめられるほど、自分の「本当の姿」を見せようとして悪い振るまいをすることもあります。子供の良い行ないをほめた途端に、子供が親の賛辞をくつがえすかのように、ひどい振るまいをし始めることがあるというレポートを両親からよく受け取っています。そのようにこれみよがしに荒々しい振る舞いをするのは、子供が、人が自分に対して抱いているイメージには同意できないということを伝えようとしているゆえのことかもしれません。 

 

好ましいほめ方と好ましくないほめ方

  では、もうほめることは「やめ」にした方がいいのでしょうか? そうではありません。賞賛は、ペニシリンを投与するのと同じで、でたらめに与えることは出来ません。良く効く薬でも、その投与のしかたに関して様々なルールや注意事項があります。投与する時間、量についてのルール、アレルギー反応についての注意事項などが。感情のための薬を与える際にも似たようなきまりがあります。一番大切な規則というのは、ほめ言葉は子供たちの努力や成し遂げたことに対して与えられるべきであって、その子の性格や個性に対して与えられるべきではないということです。

  性格そのものに対するほめ言葉は、まるで直射日光のようで、落着かない気持ちにさせ、まぶしすぎるのです。素晴らしく、天使のようで、寛大で、謙遜だなどと言うと、言われたほうは当惑してしまいます。その賛辞の少なくとも一部は否定しなければならないように感じるのです。人前で立上がって、「ありがとうございます。私が素晴らしい人間だというあなたの言葉を受け入れさせていただきます。」とは言えません。プライベートな場でもそのようなほめ言葉は拒まざるをえないように感じてしまうものです。心から自分に、「僕は素晴らしい人物だ。強く、優しく、謙虚で、素晴らしい人間なんだ。」とは言えません。(編集者注:私達の内にいる主がして下さっている事だと知っているなら、ほめ言葉に対して、正しい見方を保つ助けになります。)

  子供は、自分に向けられた賞賛の言葉を拒否するだけでなく、その言葉を言った人は考えものだと思っています。「僕のことをそんなに素晴らしいと思っているなんて、あの人はあまり頭が良くないんだろう。」

 

大人の言葉と子供の結論

  ほめる場合は、子供の性格ではなく、その子が努力した事や、やり遂げた事をほめてあげるべきです。私達は、子供がほめ言葉から、自分の性格について肯定的な結論に至ることができるような褒め方をすべきです。10才になるケニーは、お父さんと一緒に地下室の修理を手伝いました。その時、ケニーは重たい家具を運ばなければなりませんでした。

  父親:作業用の椅子は本当に重たくて、動かすのが大変だね。

  ケニー:(誇らしげに)でも僕、運べたよ。

  父親:すごい力が必要だよね。

  ケニー(筋肉を盛り上げて):僕は強いさ。

  この例では、父親はその仕事がいかに難しいものであるかを述べ、子供は自分で自分の強さについて結論を引き出したのでした。もし父親が、「お前は強いね」と言っていたら、ケニーはこう言い返したかもしれません。「僕は強くなんかないよ。クラスにはもっと強い子が大勢いるんだ。」 これをきっかけに、激しいやりとりではないにしても、実りのない口論が始まったかもしれません。

 

無言の言葉と自己イメージ

  賞賛は二つのものから成り立っています。私達の言葉と子供の引き出す結論です。私達の言葉は、子供の努力、仕事、達成したこと、手伝い、思いやり、作ったものを感謝しているということを明確に表しているべきです。ほめ方を工夫して、子供が私達の言葉から必然的に自分の性格について現実的な結論を引き出すようにすべきです。私達の言葉は魔法のカンバス(画布)のようであるべきです。そのカンバスに向かうなら、子供は肯定的な自画像しか描けないというような。下記の例はこの要点をうまく説明しています。

  助けになるほめ言葉: 車を洗ってくれてありがとう。すっかりきれいになって新車のようだね。

  子供の引き出しそうな結論: 僕は良い仕事をした。仕事をほめられたぞ。

  (あまり助けにならないほめ言葉: あなたは天使のようだわ。)

  助けになるほめ言葉: お前の作った本箱は上手に出来ているね。

  子供の引き出しそうな結論: 僕だってやれば出来るさ。

  (あまり助けにならないほめ言葉: お前はなんて良い大工なんだ)

 

批評:建設的なものと破壊的なもの

  建設的批評、破壊的批評とはいったい何でしょうか? 建設的批評とは、なされるべきことをどのようにするかを示すだけに限って、子供の性格についての非難めいた事は全く言わないものです。

  10才のラリーは、朝食の時うっかりミルクをこぼしてしまいました。

  母親: もう大きいんだからコップはちゃんと持てるはずでしょう! 何回言ったらわかるの、もっと注意しなければ駄目でしょう!

  父親: 無駄さ−−こいつはぶきっちょだから。前からそうだし、変わる見込みはないね。

  ラリーは5セント分のミルクをこぼしただけです。でもその後の辛辣な批評は彼に自信をなくさせるという大きな代価を払わすことになったかもしれません。何か失敗してしまった時に、その失敗をした人の性格についてとやかくいうのは良いタイミングではありません。失敗したら、その人ではなく、その出来事について対処するのが最善です。

 

子供の不作法に対していかにふるまうか。

  8才のマーティンはうっかりとテーブルにあったミルクをこぼしてしまいました。母親は穏やかにこう言いました、「ミルクがこぼれちゃったわね、ハイ、かわりのミルクとスポンジね。」 母親は立ち上がってミルクとスポンジを息子に手渡しました。マーティンはほっとして、信じられないといった顔つきで母親のことを見つめました。それから「ママ、ありがとう!」と言い、母親の助けをかりてテーブルをきれいにふきました。母親は痛烈な一言を言ったり、何の役にも立たない訓戒を言ったりはしませんでした。母親は後でこう語っています。「私はもう少しで、『今度は気をつけてよ』と言いそうになりましたが、私が優しく何も言わないでいてあげたことで息子がすごくうれしそうなのを見て、結局何も言いませんでした。過去には、過ぎたことをとやかく言って結局一日が台無しになったことがよくあります。」

 

小さい災難から大きな価値を学ぶ

  小さな出来事から子供は価値のあるレッスンを学ぶことが出来ます。子供は両親から、ただつまらないとか少し気に障る類の事と、大きな悲劇的な災難との違いを教わらなければなりません。多くの親は、卵がわれたことに対して足でも折れたかのように、また、窓が割れたことに対して心が砕けたかのように反応してしまいます。小さな災難は小さな出来事として子供に指摘すべきです。

 

呼び名について?

  罵倒する言葉は、毒矢のように、敵に対してだけ使われるべきであって、小さな子供に対して使ってはいけません。人が「これはカッコ悪い椅子だ」といってもその椅子は別に大丈夫です。侮辱されたように思うことも、気まずく思うこともありません。どんな形容詞が使われようと、どうってことないのです。けれども子供が醜いとか、間抜けだとか、不器用だといわれると、子供の内に何かが起こります。

  不器用だと言われても、最初は反発して「不器用なんかじゃない」と言うことでしょうが、たいていは両親の言っていることを信じ、自分でもそう思い込むようになります。何かにつまずいたり、転んだりするなら、自分に「お前はなんて不器用なんだ」と言うことでしょう。それからというもの、機敏さが要求されるようなことは避けようとするかもしれません。そういうことは、不器用な自分には絶対にできないと思い込んでいるのですから。

 

おのずと失敗に終わるパターンを避ける

 

  子供に対するものの言い方の中には、必ずと言っていいほど、かえって悪い結果を生むものがあります。そういうものの言い方では、私達の長期的な目標を達成できないばかりか、今ここで色々と面倒を起こすのです。

 

脅すこと:悪い振るまいを誘う

  子供にとって脅しは、禁じられていることをもう一度するようにという誘惑のようなものです。子供は、「もしあなたがもう一度これをするなら...」と言われても、「もしあなたが...なら」の部分は耳に入らず、「もう一度これをする」の部分だけを聞くのです。

  7才のピーターは、弟の赤ちゃんに豆鉄砲を撃ちました。母親は言いました、「赤ちゃんじゃなくて、標的に向けて撃ちなさい」 ピーターはもう一度赤ちゃんに向けて撃ちました。母親は鉄砲を取り上げました。ピーターに彼女はこう言いました、「人に向かって撃っちゃいけないのよ」

  母親は赤ちゃんを守り、さらには受け入れられるべき振るまいの基準をしっかり掲げるために、なされるべきだと感じたことをしました。ピーターはどうしようもないほど落胆してしまうことなしに、自分の行動のもたらす結果について学びました。母親がほのめかした選択は明らかでした。標的に向かって撃つか、豆鉄砲を持つという特権を失うかのどちらかだったのです。

  この出来事で、母親はよくある落し穴を避けました。以下のような、失敗が待ち受けているとわかっている言い方はしなかったのです 「やめなさい、ピーター! 赤ちゃんに向かって撃ってはいけないことぐらいわからないの? もっといい標的があるでしょう? もしあなたがもう一度やるなら、聞いてますか? もう一度したら鉄砲は取り上げますからね!」 子供がとてもおとなしいのでもない限り、こんなお説教に対する子供の反応とは、するなと言われたことをもう一度することです。その後にどんな場面が繰り広げられるかは、ここでわざわざお話ししなくても、どの親でも容易に想像がつくことでしょう。

 

「もし−するなら、」の誤信

  同様のパターンでおのずと失敗に終わるのが、もしあなたが何々をしたら(しないでいたら)ほうびをあげると子供に明確に告げることです。

  「もしこの詩を覚えるなら、セイリングに連れていってあげるよ」この「もし−−するなら」のアプローチ法は、時には子供に拍車をかけ、すぐ目の前のゴール目指して奮闘させるかもしれませんが、長期に渡って努力していこうというやる気を促すことはまれです。この言い方だと、子供の良くなる見込みを両親が疑っているという意味にとれるからです。「もしこの詩を覚えるなら」ということは、「私達にはあなたにできるかどうかわからないけれど」という事になります。

  ほうびは、前もって約束せず、突然手渡して子供を驚かせ、子供のしたことを認め、感謝していることのしるしとしてあげたほうが、効果があり、もっと楽しい体験となります。

 

約束:非現実的な期待と実践

  子供に約束をすべきではないし、子供に約束するよう要求すべきでもありません。どうして約束がそんなにもタブーなのでしょうか? 子供たちとの関係は信頼を基盤としているべきです。親が自分は本気でものを言うことを強調するために、約束をしなければならないとしたら、「約束でない言葉」はあてにならないと認めているも同然です。約束は子供に非現実的な期待をもたしてしまいます。動物園に行くと約束された子供は、その日には雨も降らず、自動車は故障せず、自分も病気にならないと確約されていると考えます。けれども、人生に不運はつきものなので、子供は裏切られたように感じ、両親は信頼できないと思い込んだりします。「でも、そう約束したじゃないか」と手厳しく言われて、手遅れながらも、約束をしたことを悔いるというのは、親がよくやることです。

 

皮肉:学ぶことに対する障壁。

  精神的健康を深刻に脅かすのは、皮肉に長けた親です。「何回言ったらわかるんだ? ツンボか?ツンボでないならちゃんと聞け!」

  そういう親は、自分の発言は攻撃的で反撃を招くものだということに気づいてさえいないのでしょう。また、自分の発言によって、子供の心に復讐心をかき立て、コミュニケーションを妨げてしまうということに気づいていません。

  わざとであれ、知らず知らずであれ、親は子供の目から見て、あるいは子供の友達の目から見て、その子の格が下がるようなことはすべきではありません。

 

嘘に関する方針  

  子供はなぜ嘘をつくのでしょうか?−−本当のことが、言うべきじゃないことであるために嘘をつくこともあります。子供が母親に弟のことなんか嫌いだと言うと、母親はその子が本当のことを言ったためにお仕置きをするかもしれません。その子がすぐその場でガラッと態度を変えて、弟のことが大好きだと全くの嘘を言ったとしたら、母親は抱き締めておまけにキスを上げることでしょう。子供はこの経験からどんな結論を引き出すでしょうか? 真実は痛くて、不正直にはごほうびがあり、ママは小さな嘘つきが好き、という結論を引き出すかもしれません。

  正直さについて教えたいなら、私達は喜ばしい真実だけではなく、耳に痛いしんらつな真実も聞く準備が出来ていなければなりません。

  誘発された嘘。親は、子供が自己弁護のために嘘をつきたくなるような質問をしてはいけません。子供は親から尋問されるのが大嫌いです。特に、親はもう答えを知っているのではないかと思われる時には。罠に陥れる質問や、へたな嘘をつくか、さえない自白をするかを選ぶしかないという質問も大嫌いです。

  7才になるクェンティンはお父さんからもらったばかりの新しいおもちゃのトラックを壊してしまいました。彼は恐くなって壊れた破片を地下に隠してしまいました。トラックが壊れているのを見つけた父親は、矢継ぎ早に問い詰め、怒りを爆発させました。

  父親: お前にやったトラックはどこにあるんだ?

  クェンティン: どこかにあると思うけど。

  父親: 遊んでるのを見てないぞ。

  クエンティン: どこか知らないよ。

  父親: 探しなさい、今すぐ。

  クェンティン: 誰かが取っちゃたのかもしれない。

  父親: 嘘つきめ! お前が壊したくせに! 隠しおおせると思ったら大間違いだぞ。お父さんが一番嫌いなのは、嘘つきだ!

  そして父親はその子に思い知らせるためにお仕置きを与えました。

  このような尋問は不必要に子供を苦しめるだけです。こそこそと探偵や検察官のまねをしたりせずに、息子にこう言っていたら、もっと助けになっていたことででしょう:

  「お前の新しいトラックが壊れているね」

  「長持ちしなかったなあ」

  「もったいなかったな。高かったんだ」

  こう言っていたら、子供は貴重な教訓を学んだことでしょう。「お父さんは分かってくれている。お父さんには、困ったことがあった時に打ち明けられる。お父さんからもらったものを、これからはもっと大切にしなくちゃ。」

 

不正直さを叱る。

  叱られたくないばかりに、嘘をつきたくなるような立場に子供を追い込んだり、嘘をつくような機会をわざわざ与えたりしてはいけません。子供が嘘をついても、ヒステリックになったり、変に説教じみたことを言ってはいけません。そうではなく、事実と現実に即すべきです。私達は子供に、嘘をつく必要はないことを学んでほしいのですから。

 

盗 み

  年少の子供たちが自分の物でないものを家に持ちかえるのは、珍しい事ではありません。「盗み」が発覚したとき、説教をしたり、大げさに取り扱わないのは本当に重要です。年少の子供は厳粛に正しい道に戻される必要があります。穏やかにも確固としてこう言われるべきです。

  「トラックは誰か違う人の物だから、その人に返しなさい」

 

間違った質問と正しい答え

  もし子供が黙ってクッキーを瓶から食べてしまい、口のまわりが砂糖で汚れていたら、このような質問は避けるべきです。

  「誰か瓶からクッキーを取ったかな?」

  「誰が取ったか見たか? お前か? 本当にしてないのか?」

  そんな質問は子供に十中八九嘘をつかせてしまい、それはさらにひどい事を重ねる結果になります。ルールは、私達が答えを知っているなら質問はしないことです。正直に言うことの方が割にあいます。

  「お前はクッキーを食べたね。してはいけないといっただろう。お父さんは怒ってがっかりしているよ。」

 

  最後の言葉が、適切で望ましい罰となります。そして子供を当惑させ、悪いことをしたことについて何かしなければという責任を感じさせます。

 

礼儀作法を教える:無作法にそれとも礼儀正しく?

  家庭での模範と公の場でのマナー。礼儀正しさは性格であり、また社交術です。それは、礼儀正しい両親を真似ることから習得するのです。どんな状況にあっても、礼儀正しさは礼儀正しく教えられなければなりません。しかし、親はややもすれば、無作法に教えているようです。子供が「ありがとう」を言い忘れると、親は人前でそのことを指摘しますが、それはどう見ても無作法です。また親は、自分だってまだ別れの挨拶をしていないのに、子供に「さよなら」を言わせようと躍起になります。

  子供が大人の会話をさえぎると、大人はたいてい怒って言います。「なんて無作法な! 邪魔するなんて礼儀がない証拠ですよ!」 ところが、邪魔している人を邪魔するのも実際のところ礼儀正しくないのです。親が子供に礼儀作法を教える時、自分が無作法になってはいけません。このように言った方がいいかもしれません。「お母さんの話を終えなくちゃ。それから、あなたの番ね。」

 

戦争から平和へ

  色々なお手伝いや責任のことで子供相手に、宣戦布告された、あるいはされていない戦争の真っ只中にある親は、それは勝ち目のない戦争だということを認識すべきです。なぜなら子供たちのほうが私達よりも時間とエネルギーをたくさん持っているので、いくら私達が子供に無理じいしようとしても、子供の反抗する力はそれにまさるのです。たとえ私達が勝ち、私達のさせたいことをさせることができたとしても、子供は無気力になるか反抗的になって非行に走るかして、報復することもありえます。

  これに勝つには一つの方法しかありません。子供の心を勝ち取ることです。そんなことは不可能に思われるかもしれませんが、単に難しいだけであって、私達にはそれをするだけの能力があります。現在、子供と仲の良い関係を持っていないとしても、すぐに築き上げることが出来るでしょう。

  両親は次の事をするなら、子供たちが良い方向へと変っていくのを促すことができるでしょう。

  1)繊細さをもって聞く。親が子供の感情や考えに関心がなさそうだと、子供は欲求不満を感じ、憤りを覚えます。その結果、子供は、自分のアイデアはばかげていて耳を傾けるだけの価値もなく、自分は愛すべき存在でもなければ、愛されてもいないと判断してしまいます。

  2)「怒りの杯」を避ける。親は憎しみや憤りの原因になる言葉や批評を意識的に避けるようにしなければなりません。

  3)非難せずに自分の感情や考えを言う。問題に直面した場合には、親は子供の性格を非難したり、子供の自尊心を傷つけるのではなく、親自身の感情や考えを言ったほうがより効果的です。

  親が子供にしっかり関心を払い、繊細さをもって耳を傾け、きつい言葉を言わず、子供を侮辱するような事を言わずに、ただ自分自身の感情や要望を言うなら、子供の方にも変わる兆しが見えてくる事でしょう。同情と思いやりに満ちた雰囲気があるなら、子供はもっと親に近く感じます。子供は親の公平さや、思いやり、礼儀正しさに気づき、それをまねるのです。こうした変化は一夜にして起こるわけではありませんが、努力は必ずいつか報われます。

 

責任:発言権と選択権

  責任感は生まれながらに備わっているものではありませんし、ある年になると自動的に身につくといったものでもありません。責任感は、ピアノを弾く能力と同様、長年に渡って少しずつ身についていくものなのです。子供の年と理解力に応じた事柄に関して、判断を下したり、選択するといった練習を毎日積み重ねていくことが必要とされます。

 

対立の生じる分野と責任範囲について

  責任はごく幼い時期から教え始めることが出来ます。子供に発言を許し、望ましい時に子供に影響を及ぼす件において選択をさせるなら、子供の責任感がはぐくまれることでしょう。

 

食べ物

  2才児にも、ミルクをコップ半分ほしいか、コップに一杯ほしいか聞くことができるます。また4才児なら、リンゴ一個丸ごとほしいか半分がいいか選択することができるし、6才児なら、卵をかたゆでか半熟にするか決めれます。

  子供のために、自分で選択をしなければならない色々な状況を設定してあげなければなりません。親が状況を選び、子供が選択するのです。

 

洋 服

  子供に洋服を買ってやることについて言えば、どんな服が必要で予算はいくらあるかなどを決めるのは親の責任です。お店で私達がいくつかの服を選び−−すべて、値段やスタイルは私達が好ましいと思うもの−−子供がその中から好きな服を選んだらいいでしょう。こうすれば、6才の子供でも靴下やシャツを買う時に選択をすることができます−−私達がまず選んだ物の中から。多くの家庭では、子供は、自分の服を買うことにおいて何の経験も持たず、自分の服を選ぶ能力を伸ばすことができません。実際、ワイフや母親に選んでもらわないと自分でスーツを買うことさえ出来ない大人もいます。

 

宿 題

  後でもいいような質問をしたり、使い走りを頼んだりして、子供の宿題の邪魔をするべきではありません。私達は背後にとどまるべきで、指導したり、補助したりするのではなく、慰め、後押ししてあげるべきです。時たまなら、何かの要点をはっきりさせたり、文の意味を説明してもいいでしょうが、このように言うのは絶対避けるべきです。

  「いつも落ち着きがないから、宿題のこと忘れてしまうのよ」

  「ちゃんと先生の言うことを聞いてるなら、宿題だって分かるはすだぞ」

  私達は控えめにそして同情的に助けるべきです。説教するのではなく聞く耳を持ちましょう。道を示し、後は旅行者に自分の力で目的地まで行かせましょう。

 

音楽レッスン

  子供達が楽器を習い始めると、両親は遅かれ早かれ、こういうお決まりの文句を聞くものです。「もう練習したくない」 実際の所、この言葉に客観性をもって対処するのは簡単な事ではありません。

  子供の時期における音楽教育の主な目的は、良い感情のはけ口となるものを子供に与えることだということを考慮してください。子供の生活には制限や規則や欲求不満の種がたくさんあるので、気分を発散させる手段が絶対に必要です。音楽はその最適な手段の一つなのです。怒りを静め、喜びに形を与え、緊張感をほぐしてくれるのです。

  けれども、親や教師は普通音楽教育に対してそういう見方をしません。殆どの場合、メロディーをかなでる能力がついてきたかどうかを見るのです。そういう見方をすると必然的に、子供の演奏や性格を評価や批判の対象とする事になります。悲しい事に、その結果、よくこういう事が起こります。子供はレッスンをやめ、先生を避け、音楽歴に終止符をつけてしまおうとするのです。多くの家庭には、誰も弾かないバイオリンや、鍵のかかったピアノや、音をたてないフル−トがありますが、それらは努力してもできなかった、夢を達成できなかったという挫折感を思い起こさせるものでしかありません。

  では親はどうしたら良いのでしょうか? 親の仕事は、音楽だけでなく生徒の事も理解できる−−思いやりのある優しい先生を探す事です。子供がずっと音楽に興味を示し続けるかどうかの鍵は先生が握っているのです。先生は、音楽を学ぶという扉を開ける事もできれば、その扉に鍵をかける事もあるのです。先生の最も肝心な仕事は子供の尊敬と信頼を勝ち取る事です。それが出来ないのであれば、何も教える事は出来ないでしょう。自分の大嫌いな先生から学んで音楽を好きになるというのは無理な事です。先生の奏でる音色よりも、先生の感情的なものの方が子供に大きな影響を与えるのです。

 

ペットの世話

  子供がペットの世話をすると約束しても、その子はただ単に心意気を見せているだけで、子供にそれをしていく能力があるという証拠はありません。子供にはペットが必要で、ペットをほしがり、ペットが大好きかもしれませんが、きちんとペットの世話のできる子供はまれです。生きものを世話する責任を子供だけに任せることはできません。イライラや非難のやりとりを避けるためには、子供のペットは親の仕事と割り切って考えておくことが最善です。ペットと遊んだり可愛がることによって子供は素晴らしい恩恵を受けることでしょうし、ペットの世話を手伝うことからも学ぶでしょう。−−しかし、ペットがよく世話され生き残るかの最終責任は、大人が負うべきです。

 

自由を与える言い方

  良い親は、良い教師と同様、だんだん自分がいなくても子供がうまくやっていけるようにします。子供が自分で選択し、自らの能力を発揮していけるよう導くことに満足感を覚えるのです。私達は子供との会話で、子供には自分で賢い決断を下す能力があると信頼していることを子供に示すような言葉を意識的に使うといいでしょう。だから、子供の要求に対する私達の答えが「イエス」だと考える場合には、子供の自立心を促すような言い方をするといいでしょう。いくつかの例を挙げましょう。

  「あなたがそうしたいんだったら」

  「それがあなたの本当にしたいことなら」

  「それは自分で決めなさい」

  「あなた次第ですよ」

  「あなたが自分で選んだらいいわ」

  「お母さんは、あなたの決めた事で構わないわ」

  私達が「イエス」という返事をしても子供は喜ぶことでしょうが、上にあげたような言い方をするなら、さらに、自分で決断する喜びを味わい、親に信頼されているとの満足感も得られるのです。

 

寛大さと甘やかしすぎる事

  寛大さと甘やかすことの違いはどこにあるのでしょうか? 寛大さとは、子供らしさを受け入れてあげることです。つまり、「子供は子供」という事で、普通の子供ならきれいなシャツを着ても、少ししたら汚れるし、子供にとっては、歩くよりも走るほうが自然な事で、木は登るためにあり、鏡はそれに向かってしかめっ面をするためのものなのです。

  破壊的な振舞いは許されるべきではありません。そんな事が起きたら、親が中に入らなければなりません。寛大さは子供に自信を与え、子供が自分の感情や思考を表現する能力を伸ばします。けれども甘やかすと、子供は不安になり、与えてもらえない特権を益々しつこく要求するようになります。

 

制限を設ける

  制限は、a)好ましくない振舞いとは何か b)代わりにどんなふるまいが受け入れられるのかを子供にはっきりと伝えるものでなければなりません。

  お皿を投げてはいけません。ボールは投げてもいいですよ。あるいは、あまり文法的ではなくても効果のある言い方で。お皿は投げるものじゃありません。ボールは投げるものです。

  具体的な制限を説明するには言い方が幾つもありますが、時には、以下に挙げる4つの段階をふむと効果があるかもしれません。

  1)親が子供の望みを認識して、それを簡単な言葉で言ってあげる。「今晩映画を見にいけたらいいなあって思ってるんでしょう。」

  2)特定の制限事項についてはっきりと言う。「でもこの家の規則では、学校のある日の夜は映画は見ないことになってるでしょう。」

  3)どうしたら、望みが少なくとも部分的にかなえられるかを指摘する。「金曜日か土曜日なら映画に行ってもいいわよ。」

  4)行動が制限された時に子供がいだきそうな反感を幾つか言葉に出すのを助けてあげる。

  「規則が嫌いみたいね。」

  子供の自尊心を傷つけるような言い方で制限を言わないこと。制限は簡潔に感情抜きで言ったほうが、子供はよく守る。

  「学校のある日は、映画に行っちゃだめだってわかっているでしょう。」と言うよりは、「学校がある日は映画は禁止」と言った方が反感をかわない。

  「まだ子供なんだから、夜更かしはだめよ。寝なさい」と言うよりは、「寝る時間ですよ」と言ったほうが受け入れられやすい。

 

しつけ上の問題と体を動かすこと

  幼い子供に関するしつけ上の問題の多くは、体を使っての行動を制限することについてです。「走るんじゃない。普通の男の子のように歩けないのか?」、「あちこち跳ね回ったりしないで。」、「背筋を伸ばして座りなさい。」、「足が2本あるのに、どうして1本足で立たなくちゃいけないのか?」、「転んで、足の骨を折るわよ。」

  精神的、身体的健康の為に、子供は走ったり、ジャンプしたり、登ったり、スキップしたりする必要があります。筋肉運動のために適切な環境を備えるのは、子供の内に規律をはぐくみ、親がより楽な人生を送るために非常に大切なことですが、しばしば忘れられています。

 

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主よ、私のような者が日々

幼き子供達に行くべき道を教えるとは。

私自身すぐに道を外してしまうのに。

 

子供達に知識を教えてはいるものの

それはつたなく

その知識の光は今にも消えそうです。

 

意志力と行動力を子供達に教えるものの

私はますます自分の弱点を

思い知るばかりです

 

人々や神の創造物をすべて愛するように

子供達に教えるものの

私自身の愛は全く小さきものです。

 

主よ、それでもなお

私が子供達を導かねばならないのなら

ああ、幼き子供達に見せてやって下さい、

あなたに頼り切った教師の姿を。

  −−レスリ−・ピンクニ−・ヒル

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"Between Parent & Child"--Japanese.