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子供を真に愛するには

−−ロス・キャンプベル博士

 

問 題

 

  たいていの親は、子育てに苦労しています。アメリカの家庭には毎日プレッシャーや緊張が積み重なってきているので、混乱したり、落胆しがちです。増加する離婚率、経済危機、教育の質低下、国の指導者たちへの信用の失墜がどれもすべての人に影響を及ぼしています。親は、肉体的にも、感情的にも、霊的にも、ますます力尽きた状態になっていることから、子供を正しく育てていく困難の度合いが日増しに高まっています。このような困難な時代の影響をもろにかぶっているのは、子供だと私は確信しています。子供こそ、私達の社会で最も必要を抱えた人間であり、子供の最大の必要は愛なのです。

  すべての親は同意してくれると思いますが、現代の子育ては特に大変です。一つは、子供の時間の大部分が他の人たち、たとえば学校や教会、隣人や、同じくらいの年頃の仲間の支配下、また影響下にあるからです。このために、大勢の親は、自分たちがどんなに立派に子育てを行おうと努力しても、それが思うように効果をあげていないと感じています。

  しかし、真実はその逆です。私が読んだどの研究結果も、家庭にまさる子育ての場はないことを表しています。親の影響は他の何よりもまさっています。そして、子供がどれだけ幸福で安定していて安心感を覚えているか、大人や仲間や他の子供達とどれくらい仲良くやれるか、どれだけ自信を持ち、自分の能力を認識しているか、または、どれくらい愛情深いか、どれだけ人との間に壁を作るか、未知の状況に遭遇した場合にどのように反応するかを最も左右するのは家庭なのです。そうです、他にも子供の注意をひくものは色々あるものの、家庭こそ、子供に最も影響を与えるのです。

 

  たいていの親が子供に対して愛を抱いているのは事実です。そして、親はこの愛を当然子供に伝えているものと考えていますが、これこそ、現代人の最大の間違いです。たいていの親は自分の心からの愛を子供にしっかり伝えていないのです。というのも、親はどうやって子供にそれを伝えたらよいのか知らないからです。そのため、今日では、自分が純粋に無条件に愛されているとも、受け入れられているとも感じていない子供たちが大勢います。

  これは、現代のほとんどの子供の問題にあてはまると私は感じています。愛のきずなによって結ばれた基本的な親子関係がないなら、他のすべてのこと(しつけ、仲間との関係、学校での成績など)が欠陥をもった土台の上にあるということであり、問題が生じてくるのです。

 

背景設定

 

  私達はまず、事実認識の(つまり、知的または理性的な)コミュニケーションと、感情面についてのコミュニケーションには違いがあることを知らなくてはいけません。だいたい認識的レベルでコミュニケーションをとろうとする人は、何かの事実や知識について話しをする場合がほとんどです。スポーツとか、株式市場とか、お金とか、マイホームとか、仕事といった話題について話すのが好きで、感情面のことは会話から外します。たいてい彼らは、感情的なことに関する事柄、つまり特に怒りなどといった不快な感情について話すことに抵抗を感じます。その結果彼らは、愛とか恐れとか怒りなどがからむ話題について話すのを避けています。それで、自分の配偶者に暖かくしてあげたり、支えてあげることが難しくなるのす。

  もっと感情レベルで話をする人たちもいます。そのような人たちは、あれこれ実際的な事柄についてばかり話すのにはうんざりし、特に自分の配偶者などには、自分の気持ちを打ち明ける必要があると感じています。また、夫と妻の関係においては、緊張や怒りや恨みなどのような、不快な感情があるべきではないと感じているのです。だから、言うまでもないことですが、彼らはそういった感情について話し、配偶者との衝突を解決し、緊張を解き、お互いに気持ちのよい関係がもてるようにしたいのです。

  もちろん、事実以外のことはまるで考えない人など存在しないし、感情面のことしか考えない人も存在しません。私達は、この両極端の間のどこかに属しているのです。

 

父親の率先性

  私の知っている真に幸福で暖かい家庭は、すべて一つ残らず、夫かつ父親が家庭に対する自分の責任を十分認識していました。同様に、妻かつ母親も責任を負っていますが、夫は妻を喜んで助け、妻の責任を支えてやらなくてはいけません。これが重要不可欠である一つの理由は、女性は、夫が家庭生活や感情面やあらゆる面で100%自分の味方になってくれようとはしないと感じると、夫への愛もなかなかわかなくなってしまうからです。もちろん、夫が家庭に対して負う責任についても同じことが言えます。妻はいつでも夫を喜んで助け、必要とあれば、夫の代わりに責任を負うこともいとわないという態度を、夫に示してあげなくてはいけません。

  言い換えると、夫が責任を無視し、不在がちであるために、妻が責任を肩代わりしなくてはいけない場合には、妻が夫の愛に信頼し、安心感を覚えることが難しくなるということです。一つ例をあげてみましょう。私の所にカウンセルに来ていたある婦人は、夫の愛について確信が持てず、愛をもって夫に応えることができないと訴えました。結局わかったことですが、夫が責任を負おうとしなかったために、妻が庭のことから家計のことまで家庭のすべての責任を負っていたのです。もし夫婦で同意しており、それで満足しているのならば、そのままでも良いかもしれませんが、たとえそうだったとしても、夫は、必要とあれば全体的な責任を肩代わりしてやる、つまり、妻が過度の負担を負っている時に、それらの負担を自分が代わりに負うことをもいとわぬ気持ちを持っていなくてはなりません。夫が家族の必要に応えようという気持ちを持っていることは、妻子にとって最も大きな財産の一つです。

 

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父親はおもちゃを直す人、男の子達の

  リーダー

ヒューズを変える人、あざを治して

  くれる人

ソファーを動かす人、けがを治して

  くれる人

網戸をつけてくれる人、ティーンの

  カウンセラー

釘を打つ人、お話をしてくれる人

皿をふいてくれる人、願いをかなえて

  くれる人

主よ、父親を祝福して下さい。

  −−ジョー・アン・ヘイドブレダー

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  夫のほうから妻に愛を示すなら、妻は、それを受け入れて素晴らしく輝くことができます。夫の愛を何倍にもし、それを夫や子供達に反映させ、とても言葉で言い表せないほど素晴らしい雰囲気で家庭を満たすのです。妻から夫に返ってくる愛はとても貴重で、この世で最も尊いものだと、私は思います。最初に自分から愛を示すのは難しいけれども、妻が愛をもってそれに応えてくれると、自分の愛が何倍にもなって戻ってきたことを知ります。そして、時と共に愛が深まっていくにつれて、愛を示すことがたやすくなっていくのです。

  愛や思いやり、それに私達や子供達の感情的な必要を察知することにかけては、絶対といっていいほど、妻のほうが夫よりも優れています。そして、私達は概して専門家の助言に従うものです。そうでしょう? それなら、私達男性は絶対に、自分達にとっていささか理解しがたい感情面について、妻からの導きと助けを求める必要があります。

  私達夫は、感情面について、女性が生まれつき持っている認識力を尊敬し、それによって導いてもらうことをいとわぬようになる必要があるばかりか、暖かな家庭の雰囲気を作り出すという妻の毎日の責任を励まし、また支えてやらなくてはいけません。私達が妻の邪魔をしているなら、または、この面で妻に反対することをしているなら、妻は気落ちし、落胆してしまうことでしょう。

  すべての愛ある関係の土台は、「無条件の愛」であるべきです。その愛は、配偶者のした事や、年齢や、体重や、間違いなどには一切関係ありません。このような種類の愛は、「私は何があろうと妻を愛している。妻が何をしようと、常に愛している」と言うのです。そうです、無条件の愛は理想であり、多分、完全にそれに到達するのは不可能でしょうが、自分がそれに近付こうとするにつれ、妻も私達を無条件に愛してくれている神によって、完全な者に近づくことでしょう。

  今から子供の世界を探っていきますが、私達は、夫婦の関係こそ、家庭において明らかに最も重要なきずなであることを覚えておかなくてはいけません。子供の人生に対して与える影響はこの上もなく大きいからです。

 

土 台

 

  真の愛は無条件であり、すべての愛の関係においてそれが明らかであるべきです。(1コリント13:4-7参照) 私達の子供との堅いきずなの土台も、無条件の愛です。そのような愛ある関係だけが、子供が立派に成長し、素晴らしい可能性を持つ人間となることを約束してくれるのです。

  無条件の愛とは何でしょうか? 無条件の愛とは、何があろうと子供を愛することです。子供がどんな外見をしていようと、愛することです。子供の資質や弱点や障害が何であろうと、子供に何を期待していようとです。そして一番難しいことですが、子供がどんな行動をしようと愛するのです。しかし、言うまでもないことですが、子供の行動のすべてを好ましく思うということではありません。無条件の愛というのは、子供の行動がいやでたまらない場合でも、子供を愛するのはやめないということです。

  私も、「子供がどんな事をしようと、どんな事があっても、子供を常に愛する。」と言えたらどんなに良いことでしょう。けれどもすべての親と同様、私にはできません。けれども、無条件に子供を愛するという素晴らしい目標に達するための努力は認めてもよいでしょう。私は以下のことを自分の思い起こさせるように努めています。

  (1)彼らは子供である。

  (2)彼らはたいがい子供のように振る舞う。

  (3)子供っぽい行動の殆どは不快である。

  (4)親としての役目を果たし、その行動に関係なく子供達を愛するなら、子供達は成長し、子供っぽいやり方をやめる。

  (5)子供が自分を喜ばせる時だけ子供を愛し(条件つきの愛)、そんな時しか愛していることを示さないなら、子供達は純粋に愛されているとは感じないだろう。その代わりに子供達は不安定に感じ、自己イメージも砕かれ、自制心を持つことや、より大人としての行動を取ることができなくなってしまう。それゆえ、彼らの行動とその成長に対する責任は、子供本人だけでなく、私にもかかっている。

  (6)私が子供を無条件に愛するなら、子供は自分自身について不安に感じたりせず、安心感を覚える。そうすれば子供達は、自分達の不安を抑えることができ、それによって、その行動もより大人らしくなってくる。

  (7)私の要求や期待に達した時だけ子供達を愛するなら、子供達は自分が無能に感じる。そして、どんなに一生懸命頑張っても十分でないのだから、努力しても無駄と思い込む。また、不安感、心配、低い自己イメージに悩まされ、それが、子供達の情緒的、また行動的な成長を絶えず妨げるようになる。改めて言えることだが、子供達が十分成長するかどうかは、子供達だけでなく、私の責任でもある。

  (8)悪戦苦闘する親の私のため、そして息子(と娘)のためにも、私は、子供への愛ができるだけ無条件であるように祈る。子供の将来は、この土台にかかっているのだから。

 

子供は愛を反映する

  子供たちは、鏡のようなものと考えることもできます。愛が子供たちに与えられるなら、子供たちはそれを返してきます。何も与えられないなら、何も返しません。無条件の愛は無条件に返ってきますし、条件つきの愛は条件つきで返ってくるものです。

  トムとトムの両親との愛は、条件つきの関係の一例です。トムは大きくなるにつれ、親との緊密で暖かい関係を持つことを心から求めるようになりました。しかし残念なことにトムの親は、ほめ言葉や暖かさや愛情は一切与えないことが、トムを立派に成長させると思っていたのです。ただし自分達の鼻を高くするような行動をトムがしたなら、話は別でした。しかし、それ以外は非常に厳しくしました。そして、あまりにも子供を認め愛を示してやると、子供を甘やかし、さらに良くなろうとする意欲をそぐことになると考えたのです。トムが他の子供よりも優れていた時には愛を与えましたが、そうでないなら、愛を示してやることはありませんでした。これはトムが幼い時にはうまくいきました。しかし、トムは、大きくなるにつれ、親は、自分という存在そのものを愛し、感謝しているのではなく、ただ親たち自身の評判を気づかっているだけだと感じ始めたのです。

  ティーンエージャーになる頃には、トムは、親が自分を愛するのと全く同じ方法で親を愛するようになりました。トムは、条件つきで愛することをしっかり学んだのです。親が何か自分を喜ばせるようなことをした時にだけ、親を喜ばせるようなことをしました。もちろん、トムと両親はこのゲームを続けていたものの、双方ともに相手が何か自分を喜ばすようなことをするのを待っていたので、結局、どちらも愛を示さなくなってしまいました。こうした状況では、双方ともますます失望し、混乱し、当惑してしまいます。最終的には、憂うつや怒りや反感が高まり、親は外からの助けを求めるようになりました。

  あなたなら、この状況をどのように扱うでしょうか? 親としての権利、つまり、子供の尊敬を受け、子供に従わせる権利を要求するようにと、親にアドバイスする人たちもいるでしょう。親に対するトムの態度を批判して、親を敬うべきだと要求する人たちもいるでしょう。トムに厳しい罰を与えるべきだと言う人たちだっているでしょう。考えてみて下さい。

 

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  真の父親や真の母親でありながら、子供を愛していないとか、子供を自分以上に愛していない人達を私は知らない。子供のために苦しみを味わい、犠牲を払うこともいとわぬこと、それが真の父親や母親の条件である。

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愛をどうやって示すか

 

  この本の目的は、親がどのようにして愛を行動に移すかを探っていくことです。行動で表す以外に、子供に愛をわからせる方法はありません。そうすれば子供は自分が愛されていて、完全に受け入れられ、尊敬されていると感じ、自分を愛し、尊重することもできるようになるのです。

  子供に愛を示す方法は、大体四つに分かれます。目で愛を伝える、スキンシップ、関心を注ぐ、しつけです。しかし、現代においてはしつけだけが強調されています。大勢の子供達は、親がクリスチャンでよくしつけもされているのですが、愛されていないように感じています。このような場合には、残念なことに親がしつけを罰と混同していることがよくあります。

  私は、このような子育ての仕方を毎日目にします。こういった子供達は、幼い時にはかなり行儀が良いものの、たいていは静かすぎて、どちらかと言えば、陰気で内向的です。この子供達には、愛に包まれて育てられた子供達の持つ自発性、好奇心、子供らしい活気が欠けています。そして、十代に入ると素行に問題が出てくる場合が殆どです。なぜなら、親との強い情緒的なきずながないからです。

 

 子供の目をまっすぐ見る

 

  子供が私達の話を一番しっかり聞くのは、私達が子供の目をまっすぐ見ながら話す時です。私達は指図する時や、叱ったり、小言を言う時くらいしか、子供の目を見て話しませんが、これはとんでもない間違いです。

  親が自由自在に使えるこの強力なコントロール手段を、おもに否定的な方法でしか使わないなら、子供も、親をおもに否定的な見方でしか見ることができません。

  さらに悪いことは、親が、罰として、わざと子供と目を合わせないようにするという習慣をつけてしまうことです。これは残酷で、私達はしばしばこれを夫や妻にします。(ほらほら、認めてはどうですか?) 意識的に子供と目を合わせないようにするのは、たいてい、子供にとって体罰よりも辛いことです。悲しい結果を生むかもしれません!

  私達が子供に愛を表現する方法は、私達が喜ばされたか、不快に思わされたかによって左右されるべきではありません。どんな状況にあろうと、私達は一貫して子供に揺るがぬ愛を示さなくてはいけないのです。悪い行いに対しては、別の手段によって対処すべきです。

  第二次世界大戦のナチのロンドン爆撃の時、大勢の幼い子供たちが、親を残してロンドンから疎開し、親以外の大人と共に田舎に滞在しました。この子供たちは、身体的にはよく世話され、十分食べさせてもらい、居心地のよい環境にいました。しかし、目を見て話してくれたり、身体的接触をしてくれる世話係が十分いなかったために、子供たちは感情面での必要が満たされてはいませんでした。

  この子供達のほとんどは、情緒不安定になり、精神障害を持つようになってしまいました。母親と一緒にいたほうがはるかに良かったことでしょう。感情的なダメージの危険は、肉体的なダメージの危険を上回るのです!

 

スキンシップ

 

  子供にはっきりと愛を伝える一番の方法は、スキンシップまたは身体的接触を通してです。驚く事に、調査によれば、たいていの親は、子供が着替えるのを助ける時や車に乗せる時など、どうしても必要な時以外は、子供とのスキンシップを持っていないようです。ですから、子供達が切実に必要としている無条件の愛を与えるのに役立つ、この簡単で喜ばしい方法を利用する親は本当に少ないようです。

  私はただ抱き締めてあげたり、キスしたりということだけを言っているわけではありません。どんなスキンシップについても話しているのです。子供の肩に触ったり、優しく横腹をつついたり、髪をなでるのは簡単なことです。親たちは、自分たちがどんなに素晴らしいチャンスを見逃しているのか悟っていません。その手で子供たちに安心感を与えることができ、親としての自分たちの成功も約束されるというのに。

  昨年の夏、私の8歳になる息子は、ピーナッツ・リーグ・ベースボールの試合に出ました。外野席から息子の健闘ぶりを見ていた私は、とりわけ、ある父親を興味深く観察していました。その父親は、子供の目を見ることや身体の接触の秘訣を知っていたのです。

  この父親は頻繁に子供の腕に手をかけたり、子供の肩に腕を回したり、子供のひざをぴしゃっとたたいたりし、時には、ユーモラスなことを言いながら、背中を軽くたたいたり、子供を自分のほうに引き寄せたりもしました。この父親は、できるだけ沢山スキンシップをしていたのです。それが自分と息子にとって自然で適切なことである限り。

 

二つの貴重な贈り物

  スキンシップと子供の目を見ることは、子供と毎日接する上で必要不可欠な行為です。それは、自然な方法で行われるべきで、見せびらかすためにしたり、やり過ぎたりするのはよくありません。適切な時に頻繁に子供の目を見たり、スキンシップを持つことこそ、私達が子供に与えられる最も貴重な贈り物と言えるでしょう。

  残念なことに、トムの両親は、スキンシップとまなざしの秘密を知りませんでした。彼らは、男の子は一人前の男性として扱われるべきだと信じていたのです。愛情を示すなら、トムは女々しく、弱虫な人間にしてしまうと思っていました。今悲しんでいるこの親たちは、その逆の方が真実であることに気がついていませんでした。つまり、特に父親に言えることですが、スキンシップを持ったり、子供の目を見ることを通して、トムの感情的な必要が満たされれば満たされるほど、トムは男性らしくなっていくことを。

  男の子のスキンシップに対する必要は、たとえ必要とするスキンシップの種類が変わってこようとも、なくなることはありません。

  乳児の頃は、抱きしめてもらったり、キスしてもらったりする必要があります。このタイプの愛情表現は、生まれた時から7歳から8歳になるまで絶対に必要です。調査によれば、12か月未満の女の子の赤ん坊は、男の子の赤ん坊よりも、5倍もスキンシップを通して愛情を示してもらっています。男の子のほうが女の子よりも問題がはるかに多いのは、このせいもあると私は確信しています。

  男の子が成長して大きくなってくると、抱きしめてもらうことやキスの必要性は減りますが、それでもスキンシップの必要が減るわけではありません。遊びで取っ組み合いをしたり、ひじで押し合ったり、背中をぽんとたたいたりなど、少年っぽいスキンシップを望むようになるのです。これらは、抱きしめたりキスするのと同様、関心を示してあげる一つの純粋な方法です。

 

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ああ母親たち、疲れきって、

  意気消沈している

毎日苦労続きでもうくたくた

しばしば怒りっぽくなり、忍耐を切らす

子供の騒音や遊びに不平も出る

悩みの多い毎日で

いろいろな事がうまくいかない

しかし母親たち、何があなたを悩まそうと

寝かせる子供にキスを忘れないように!

愛しい小さな足は正しい道から外れて

しばしばさまよう

愛しい小さな手は、

  新しいいたずらに手をつけ

朝から晩まであなたを悩ませる

しかし、あなたのように

  素晴らしい祝福を持つためなら

何を捧げても惜しくない

  孤独な母親がいることを考えてほしい

そして、無限の祝福を感謝しながら

子供を寝かせる時にはキスをしなさい!

いつか子供の騒音はとだえ

静けさのほうが

  もっと心を痛めるようになるから

そして、あどけない子供達の声が

  無性に聞きたくなり

ドアの所の無邪気なかわいらしい顔や

自分の胸に子供を抱き締めたことを

  なつかしむ

それが再びできるなら、

  何を捧げるのもいとわぬだろう!

悲しみの中で思い出を呼び起こして

  心慰める時がくるから

さあ、子供を寝かせる時には

  キスをしなさい!

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  子供達と愛のこもったスキンシップ(抱き締めたり、キスすること)を持った特別な時間は、子供が大きくなっていくにつれ、子供にとって特別な思い出となります。そして、思春期の、反抗心と親への愛情のはざまで揺れ動く一番辛い時期にも、子供はそれを思い出すことでしょう。このような特別な思い出がたくさんあればあるほど、子供は思春期の問題に対してより勇敢に立ち向かうことができるのです。

  これらの貴重な機会はそれほど多くはありません。子供はあっという間に次の段階へと成長してしまいます。私達の知らない内に、子供に必要なものを与える機会はいつのまにか去ってしまうことでしょう。そう考えると私達の責任の重さを感じます。

  男の子には、幼い時、特に12か月から18か月の時のほうが愛情のこもった行為をしてあげるのが簡単です。そして大きくなるにつれ、難しくなってくるのです。どうしてでしょうか? 一つには、スキンシップによって愛を表現してやるのは女々しいという間違った考え方のせいです。たいていの男の子は、大きくなるにつれて、人々の関心をひきつけなくなります。たとえば、大勢の人は、7、8歳の子供には興味を示さず、かえって、その年令の子供は、自分をいらいらさせるイヤな存在だと思ったりします。男の子の感情面での必要に応えるには、こういった私達自身の中にある不快感を直視し、それに立ち向かい、あくまでも父や母として行うべきことをしなくてはいけません。

  女の子は7歳か8歳までは、愛情のこもった行為をされることの必要をそれほど表に表しません。幼い時には、悲しい気持ちをそれほど出さないものの、感情面の世話が十分になされていないと辛い思いに苦しみます。

  スキンシップ、特により愛情をこめてされるもの(抱き締める、キスなど)は、幼い男の子にとって必要不可欠です。幼ければ幼いほど、愛のこもったスキンシップが絶対欠かせないものとなります。それとは逆に、女の子の場合は、スキンシップ(特により愛情こめてされるもの)は、大きくなるにつれてますます重要性を増し、11歳くらいの時に頂点に達します。

  11歳というのは極めて不安定な年頃で、女の子は、自分の目を見て話してもらうことや、集中した関心を与えてもらうことが切実に必要となります。その上、著しい身体的接触を要し、とりわけ父親とのスキンシップが必要なのです。

 

思春期に備える

  どうして思春期に入る前の女の子たちに、愛情のこもった行為がそれほども重要になってくるのでしょうか? それは、思春期の準備のためです。

  女の子が思春期に入るための準備として二つの非常に重要な事柄があります。それは、自己イメージと女性であることの認識です。思春期が近づくと、直観的に、または無意識に、波乱の多い思春期をどう乗り越えるかは、自分が自分自身についてどう思っているかにかかっていると知っているのです。思春期に入る時に、「女性」としての自分に安心感を覚えているなら、思春期はどちらかと言えば順調で、楽しく、普通の浮き沈みはあるものの快適にいきます。女性としての自分に安心感と健全な意識を持っていればいるほど、仲間からのプレッシャーにも負けないでいられます。自分を「正常な女性」として思っていないと、不安は増え、親の教える価値観に頼ることができなくなります。

  女性として目覚めるとは、自分が女性であると自ら認めることであり、父親が生きていて、特に家庭で一緒に住んでいる限り、女の子はまず父親から、自分が一人前の女性であることを認めてもらいます。もし父親が死んでいるか、娘と別に住んでいるなら、これらの必要を満たすために、別の父親像となる人を見つけなくてはいけません。父親は、娘がこの面において思春期を迎える準備を助けることができる第一人者なのです。

  父親が無条件の愛や、目を見ること、スキンシップ、関心を注いでやることによって娘を一人の人間として認めてやるなら、娘が自分を一人の人間として認める助けとなります。父親がそうやって娘を助ける必要性は、娘が2歳の時から始まります。この必要は、少女が大きくなり、13歳という殆どいたましいとも言える年令に近づくにつれて、ますます大きくなっていきます。

  私達の社会が抱える問題の一つは、たいていの父親が、娘が思春期に近づくにつれて、娘が必要としている愛情のこもったスキンシップを持つことをだんだん気まずく感じ始めることです。

  けれども、たいていの親が子供を愛しているというのは事実です。改めて言いますが、私達が他の何をするよりもまず子供に愛を伝えなくてはいけないということに気がついていないことが問題の根本です。愛を伝えることは、教えること、導くこと、手本、しつけ、それらよりももっと大切なことです。無条件の愛こそ親子関係の根本でなくてはいけません。そうでないなら、他のすべては、特に子供の態度や振る舞いは予測がつかなくなってしまいます。

 

関心を注ぐ

 

  目を見ることやスキンシップは、親にとっては、犠牲を払う内にはほとんど入りません。けれども、関心を注ぐには時間を要しますし、それも長い時間がかかることもあります。ということは、親が他にやりたかったことをあきらめることも意味します。愛情深い親は、できれば他のことをしたいと思っている時でも、子供が構ってもらうことを切実に必要としているのだとわかればそうしてあげるものです。

  関心を注ぐとはどういうことでしょうか? それは、子供が自分は完全に愛されているということを全く疑わないような方法で、集中して関心を与えてあげることです。要するに、関心を注いでやることで、子供は自分が親にとってこの世で一番大切な存在だと感じるのです!

 

永遠に過ぎ去った時間

  最近私が読んだ話は関心を注ぐことの重要性を強く訴えています。ある父親がリビングルームに座っていました。その日は彼の50歳の誕生日でしたが、たまたまイライラしていました。突然11歳の息子のリックが勢いよく入ってきて、父親のひざに座り、何度も何度も父親のほおにキスしました。ところが父親は、鋭い口調で、「何をしているんだ?」と言ったのです。子供は、「お父さんの50歳の誕生日のお祝いに50回のキスをしているんだよ」と答えました。普通なら父親はこの愛情のこもったプレゼントに感激するところですが、悲しいことに、父親は沈んでいて、イライラしていたために、男の子を脇に押しやって、「また今度にしよう」と言ったのです。男の子は沈みこんでしまい、家から走って出ていくと、自転車に飛び乗ってどこかに行ってしまいました。そして、ほんの数分の内に子供は車にはねられ死んでしまったのです。この哀れな父親が、どれだけ悲しみと後悔の念と罪悪感にさいなまれたかは、想像いただけることでしょう!

  人生はまるで予測できず、不確かであるために、子供を教え育てる機会をどれだけ多く持てるかは、私達には知るよしもないし、私達で決めることもできません。だから、その機会を逃さず、うまく利用しましょう。そういう機会は、私達が思っているほど多くはないのですから。

 

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どういうわけか、僕は言うことができない

自分が抱いている気持ちを。

何年も、父と歩み、話し、笑い、

  遊んできたのに

愛を言葉に表せない

父に見られるといつも

誇りがわき

尊敬の念が生じる

父は僕にとって夢の英雄

王座に座する王

理想的な人生の模範

父はよく理解してくれると知っている

胸の中の葛藤を

たとえ口に出さなくとも

同じ試練を味わったことがあるのだから

聖なる神のみ前で

父と共に祈りを行う人が

どうして道を外すことがあろう

そして、これが僕が常にする祈り

人生が終わるまでは

僕を「息子」と

  誇らしげに呼んでくれる人に

報いる行いができますように

  −−アルビス・B・クリスチャンセン

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  関心を注ぐことについて、こんな話もあります。ある有名な人道主義者の父親の日記には、息子と釣りに行った日のことが書かれていました。息子が、「退屈していて、うわの空で、ほとんど話もしなかった」ので、今日は散々だったとありました。そして、もう二度と息子を釣りに連れて行くまいとまで書いていました。

  長い年月がたって、ある歴史家がその日記を発見し、好奇心から息子の日記と比べてみました。息子のほうは、父と「二人っきり」でいられて、「最高の一日」だったと書いていたのです。それが自分にとってどれほど有意義で大切だったかを!

 

どうやって関心を注ぐか

  さて、私達は子供に関心を注ぐことがどんなに重要かを見てきました。では、どうやってそれをしたらいいのでしょうか? 子供に関心を注ぐ最善の方法は、子供と二人きりで過ごす時間を作ることだと私は知りました。

  他のことから一切離れ、子供と二人きりになる時間を見つけることこそ、優れた子育てをする上で最も困難な事柄です。優れた子育てには時間がかかる、そのことを直視しましょう。

  大学クリスチャン・フェローシップの会長ジョン・アレキサンダーには4人の子供がいます。最近の会議で、アレキサンダーは、子供一人一人個別に過ごす時間を見付けるのが、いかに大変かを話しました。彼のとった解決策は、毎週日曜の午後には一人につき最低30分過ごすことでした。誰でもこれをするための方法を見つけなくてはいけません。

  もちろん、子供が沢山いる人には、関心を注ぐための時間を見つけるのはいっそう困難です。私は、学校や家庭でどっさりと問題を引き起こしていた7歳の女の子のカウンセルをしたことがあります。学業でも、同級生とも、兄弟とも問題があり、ひどく子供じみたことをするのです。これを読んでいるあなたは問題が何かすでにわかったかもしれませんね。この子には9人の兄弟姉妹がいて、彼女は自分だけに両親から関心を注いでもらう時間が必要だったものの、両親にはとてもその時間がなかったのです。実のところ、両親は、関心を注いでもらえないことで彼女が悩んでいたことも知りませんでした。なぜなら、他の子供達はみんな、かなりよく順応していたからです。両親は農業をしていて、日課となっている仕事、つまり、乳搾りや家畜の餌やりや農耕の時に、子供達一人一人と十分な時間をとって、問題が起こるのを防ごうとしていました。しかし、この女の子の場合は、その年頃のせいもあり、また、毎日の仕事や年の順や様々な出来事のせいで、いつも十分に両親の関心をもらうことができなくなっていたのです。それで、自分がないがしろにされ、愛されていないように感じてしまいました。両親は心から彼女のことを愛していたものの、子供のほうはそう感じておらず、そのため、そのことを知らなかったのです。

 

慎重に計画を立てるとうまくいく

  この例から、一人一人の子供に関心を注ぐためには、自分達の時間をしっかり予定立てていなくてはいけないことがわかります。しかし家庭に、自分から関心を要求してくる子供と、あまりしてこない子供が両方いると特に難しくなります。私達は「うるさいほうが得」という概念を打ち破らなくてはいけません。必要が満たされるよう要求しようとしまいと、すべての子供が同じ必要を抱えているのです。

  子供が大きくなるにつれ、関心を注ぐ必要はますます大きくなります。年長の子供達は、リラックスし、だんだん高くなる自己防御のガードを下げ、気兼ねなく自分の心の中を打ち明けられるようにならなくてはいけません。特に自分を悩ませていることについては。子供が幼い時から、こうして関心を注いであげる時間を持ち始めるなら、子供はそれを自然のことと思うようになり、親に自分の感情について打ち明けるのが楽になります。逆に、子供に関心を注ぐ時間を持たないなら、どうやって子供は親と中身の濃いコミュニケーションをするようになるというのでしょうか?

 

 適切な愛と適切でない愛

 

適切でない愛

  適切でない愛とは、子供に与えた時に子供の情緒的発達を妨げるものです。子供の情緒的必要を満たさなかったり、子供をますます親に頼らせ、自立を妨げるのです。

  適切でない愛の内、一番よくみられる4つのタイプは、所有欲の強いもの、性的なもの、子供に身を入れすぎること、役割の逆転です。

 

子供に対する所有欲が強い

  所有欲が強いとは、子供が過度に親に頼ることを奨励するものです。子供が小さい時は、親に頼るのは明らかで、ほぼ完全に頼り切っています。けれども、子供が大きくなってきても親に頼る度合いが減っていかないなら、それは子供の情緒的発達の妨げになります。

  子供は一個人として、親から尊敬を受けなければなりません。もちろん、だからといって、子供に何の制限も設けるなとか、何でもしたいことをさせなさいというわけではありません。(どの子供にも導きやしつけが必要です。) ただ、子供が自分で考え、自発的に物事をし、自分は一個の人間であって、自分でどんどん責任を受け持っていかなければならないということを自覚するよう奨励しなければならないということです。

  私達は、自分の子供達を、自分のものではないかのように所有すべきです。それは聖書にある素晴らしい考え方です。人間は、何ものをも真に所有することはできません。人間は、神が任せて下さったものの管理者に過ぎないのです。「地と、それに満ちるものとは主のものである」からです。もちろん、親なら誰でも幾らかは子供に対して所有欲を持っているものですが、そのことを常に自覚し、それに影響されないようにすることが大切です。

 

性的なもの

  適切でない愛情表現のしかたの二つめのものは、性的なものです。つまり、無意識的あるいは意識的に、子供と接触して官能的な気分、性的な気分を味わおうとするものです。

  多くの愛情深い親にとって、この微妙な問題に関して以下のことを認識するのは大きな助けとなるでしょう。(1)年令を問わず、子供達は皆、何らかの適切なスキンシップを必要としている。(2)時々、子供に触れた時に性的な気分になったり、瞬間的に性的なことを思い描いたとしても、それは異常ではない。(3)親は、こうした不適切な感情を無視して、構わず、子供の必要としているものを与えること。正しい形の(性的ではない)身体的接触、つまりスキンシップも含めて。

 

二つの例

  ここに例を二つあげてみましょう。二つめの例からは、スキンシップも含む適切な愛情表現は、子供が自分を男性あるいは女性として意識していく過程で大きな助けとなることがわかるでしょう。一方、最初の例では、子供に対してそうした適切な愛情表現をしないとどうなるかがわかります。

  最初の例は、私の親しい友ラスティーの例です。彼は意地が悪く、タフで男くささがむんむんしている、アメリカ海兵隊の訓練教官です。彼と、彼の素晴らしく優しくて繊細な妻の間には4人の息子がいます。彼らは年令も様々ですが、ラスティーはその息子達を皆、自分のようにタフで荒っぽい男性に育て上げようと決意しました。彼は息子達を海兵隊入隊者を扱うかのように、厳格な規律をもって育てました。愛情の入る余地などなく、無条件の従順を強い、疑問を差し挟む余地もありませんでした。

  これに対するあなたの反応は大切です。この息子たちはどんな若者に成長したと思いますか?彼らは、父親の足跡をたどっているでしょうか?彼らも、非常に男っぽくなっていると思いますか?

  私が最後にその息子たちに会った時には、どの子も女々しい感じでした。振る舞いといい、話し方といい、外見といい、女の子のようだったのです。驚いたでしょうか? 驚くにはあたりません。私はそういう例を毎日見かけます。子供を拒絶し、過酷で、愛情表現をしない父親に育てられた男の子はたいてい、女っぽくなるのです。

  では二つ目の例を紹介しましょう。数年前の私達の牧師は巨漢で、武骨な顔つきをしており、彼の存在は皆の注目を引きました。彼はとても心暖かく、愛情溢れる人でした。彼の息子は当時3才で、私の息子のデービッドと同い年でしたが、デービッドよりも頭一つ分背が高く、体重も10キロぐらい余分にあって、父親そっくりでした。その牧師は息子を深く心から愛しており、よくその子を抱き締めたり、キスをしたり、レスリングをしたりしながら、スキンシップを通して愛情を表現していたのです。

  この男の子は大きくなってどうなったと思いますか? 父親の足跡をたどったでしょうか? もちろんです。その男の子は父親そっくりでした。その子は、男性としての健全な自覚を持っており、感情的にも安定しており、ハッピーで、人に好かれるタイプで、どう見ても男の子でした。ああいう父親がいるなら、世間の荒波にもまれてもちゃんとやっていくことができるでしょう。

  愛を適切な形で惜しみなく与えるのは正しいことで、さらには、(男女を問わず)すべての子供がそういう愛を両親からもらうことを必要としているという事が、この二つの例を見て納得していただけたでしょうか? もしそうでないなら、別の事実をあげましょう。それは、様々な書物からの知識や、自らの経験からして、子供を抱き締めたりする愛情深く暖かい父親をもつ子供が性的に倒錯してしまった例を、私は一つも見た事がないということです。

  先に見た間違った観念(それに別の間違った観念)のせいで、子供達の情緒的必要をしっかり満たしている親はごくまれです。心に沢山の愛を秘めてはいるものの、それを実際に表現することがほとんどないのです。こうした間違った観念を正し、親たちが子供の必要を知るならば、大半の親は、一人一人の子供に必要な適切な愛を惜しみなく与えることができると私は信じています。

 

子供に身を入れすぎること

  不適切な愛のタイプで三つめに多いものは、子供の事をまるでわがことの様に考える愛です。そういう愛は、子供の人生を通して自分の人生を生き、子供の人生で自分の夢を実現させようとします。

  こういう愛の一例は、自分がかなえられなかったスポーツ選手になる夢を息子を通して実現させようとする父親です。そういうのを実際に目で見たいなら、近くの子供野球の試合を見に行ったらいいでしょう。子供に自分の夢を託している親は、試合にすっかり夢中になり、まるで自分がプレーしているかのように振る舞います。自分の息子に不利な審判が下されたりすると、アンパイアに激怒します。一番いけないのは、そういう親は、息子が何かし損なうと、叱り、その子の気持ちをひどく傷つけることです。

 

役割の逆転

  役割の逆転が起こると、親のほうが赤ん坊や幼い子供に慰めを求め、守ってもらおうとします。私達は時に、子供が元気づけてくれることを期待するものです。そういうことは普通、私達が肉体的あるいは精神的にあまり調子のすぐれていない時に起こります。ふさぎこみ、体調が悪く、精神的あるいは肉体的に疲れ切っているといった時には、子供の情緒的な必要を満たしてあげることなど、ほとんどあるいは全くできません。そうなると、子供と目と目を合わせたり、スキンシップをとったり、子供だけに集中して注意を注いであげることもできなくなります。

  そういう状態にあると、子供が慰め、元気づけてくれ、また素直に言うことを聞き、大人のように振る舞い、受け身的に従順であるよう求めてしまうという間違いを犯しやすいものです。けれども、普通の子供はそんなふうではありません!

  私達は何としてでも、自分の子供達の必要を満たせなくなることがないように努めるべきです。つまり、たとえば正しい食事をし、十分に休息をとり運動するなどして、より良い健康管理をし、病気になったり、疲労してしまうのを防がなければなりません。または、ふさぎ込んだり、精神的に消耗してしまうのを防ぐために、趣味やその他、気分転換になる事をし、情緒的に健康であろうと努めなければならないでしょう。あるいは、祈りや瞑想のための時間を十分とって、信仰の生活を新鮮で喜びに満ちたものとしなければならないでしょう。また、何よりも大切なことは、夫婦のきずなを強く保ち、結婚生活を健全で安定したものとすることです。

 

しつけとは?

 

  良いしつけをする上で一番大切なのは、子供が愛されていると感じるようにすることです。これこそ、よくしつけられた子供を育てるために、最初に心しておくべきことです。もちろん、これがすべてではありませんが、これが一番大切なことなのです。

  子供が心から愛されていると感じているなら、しつけをするのは非常に楽になります。そうすれば子供は、敵意を持ったり、邪魔したりせずに、親の導きを受け入れることができるのです。

  まだお話ししていない、適切な愛の一つの側面とは、集中して(熱心に)聞くことです。集中して耳を傾けるというのは、子供が、自分の言わんとしていることをあなたが理解していると確信できるような聞きかたをするということです。子供が自分の気持ちや望みをあなたが理解していると知っているなら、子供はもっと進んで、しつけに対して良い反応を示そうと思うことでしょう。あなたが子供に反対した時にでさえも。「親は僕(私)の立場を理解してもいないのに、これをしろ、あれをしろとうるさく言う」と感じる時ほど、子供が不満を抱く時はありません。別に、子供の要求や気まぐれにすぐに応じなさいということではありませんが、ただ、あなたが権威をふるって子供の考えや気持ちを無視したと子供が感じることがないよう、子供にしっかり耳を傾けて下さい。

  子供のことを理解していると伝えてあげるのは(たとえ子供に反対している時でも)助けになるものです。あなたが理解していることを、子供にしっかり伝えるためには、子供の考えや気持ちを、あなたが繰り返して言ってあげるといいでしょう。

  子育てにおいて、親の最大の敵は、自分の感情、特に怒りを抑えられないことです。あまりに怒ると、特にその怒りを抑えられなくなると、子供はただもうおびえてしまいます。それが助けになって、子供が振る舞いを正すように思えるかもしれませんが、それも一時的なことです。子供が大きくなるにつれ、親があまりに激怒するなら(かんしゃくを起こすなら)、子供は親をだんだん尊敬しなくなり、子供自身も内に怒りをため、親に反感を抱くようになります。よく考えてみると、自分の感情をコントロールできない人など、誰も尊敬してくれません。だから、そういう人は、夫や妻や子供からでさえも尊敬されなくなって当然です。

  誰でも時には気が動転するものですが、後で謝ることを恐れてはいけません。過ちから素晴らしい結果が生まれることもあります。謝った後に、互いの間に暖か味や親密さが生じるなら、それは子供にとって(親にとっても)特別な思い出としてずっと残ることでしょう。

 

しつけと罰

  しつけの主な手段として体罰に頼るというのは、しつけイコール罰と思い込んでいる証拠で、それは深刻な間違いです。しつけというのは、子供を行くべき道にそって訓練することです。罰というのはその一部でしかなく、罰を与える回数は、少なければ少ないほど良いのです。子供がよくしつけされているなら、それほど罰を与えなくても済むことでしょう。子供がしつけに対して良い反応を示すかどうかは、子供がどれほど愛され、受け入れられていると感じているかにかかっています。

  体罰奨励者は、聖書に出てくる羊飼いの杖が、毎回と言っていいほど、羊をたたくためでなく、羊を導くために使われているということを忘れているようです。

 

この方法の結果

  驚くかもしれませんが、罰を、それも体罰を沢山受けて育ったものの、幼い頃から手に負えない子供達を私は沢山知っています。この不幸な子供達は厳しいお仕置きを受けるものの、何の効果もないのです。そして、子供は泣くことさえしないことがよくあります。もちろん、私の所に来る前にその親たちはあらゆるアドバイスに従ってきました。もっと罰を与えたり(手の甲をつねるなど)、キャンデーをあげたり、特に厳格な育児所に入れたりもしました。どのケースにおいても、問題は、親子の愛のきずなが欠けていることです。これらの子供達は、純粋に自分が愛されているとか、受け入れられているというふうに感じていないのです。

 

愛のこもったしつけ

 

  子供の振る舞いにどう対処すればいいかを理解するためには、まず、子供が考えつく理不尽な振る舞いの仕方について知っておかなくてはいけません。子供は誰でも愛を必要とし、またそれを欲しています。自分には愛が必要だと知っていて、愛されたいと思っているのですが、子供は、愛を求めるために、子供じみていて、理屈に合わない方法を取るのです。

  第一に、愛を得るための理にかなった方法というのを見てみましょう。ジムという人がカーラという女性を愛しているとします。ジムはどうやってカーラの愛を勝ち取ることができるでしょうか? 子供じみたことをし、ぶざまなところを見せ、めそめそし、ふくれっつらをしたり、口論ばかりしたり、わがままになったりするべきでしょうか? もちろん違います。ジムが立派な大人なら、振る舞いにたいそう気をつかうに違いありません。ちゃんとした振る舞いをし、冷静に行動し、好感を与えるようにし、親切で思いやるある態度を取るでしょう。カーラが自分を愛しているか定かでなかったら、子供じみた行動はしないものです。むしろ、何とかカーラの愛を勝ち取ろうと努力することでしょう。

  しかし、子供はそのようにはいきません。子供はまず振る舞いによって自分の意志を伝えようとするのです。子供はしつこく問いかけています。「僕を愛している?」 その問いかけに対する私達の答え方が多くのことを左右します。子供の自己評価、態度、感情、他の子供達との関係などあらゆることがそれにかかっているのです。子供のほとんどの行動は、自分が愛されているとどれだけ感じているかにかかっているのです。

  良い振る舞いによって、私達から愛され、愛のこもった行為をしてもらおうとする代わりに、子供は生れつきその振る舞いによって絶えず私達の愛を試します。子供が愛を感じないなら、自然ともっと熱心に、「私を愛してる?」と振る舞いによって問わずにはいられなくなります。愛の欠如ほど子供を自暴自棄にさせるものはないからです。

 

 

この子供に必要なのは何か?

  私の16歳の娘のケイリーが昨年の夏にキャンプに行った時の例をあげましょうか。その時、9歳の息子のデービッドが家庭で一番年長の子供になり、もっと大人っぽく振る舞い、より多くの責任を負いました。デービッドは一番年上になるのが好きだったのです。これは最高でした。

  しかし、問題は、結局ケイリーが帰ってきたことです。彼女が戻った日、デービッドの行動は以前に逆戻りしてしまいました。突然不機嫌になり、ふくれっつらをし、怒りっぽくなり、孤立してしまったのです。

  一体何が起こったのでしょうか? どうしてデービッドはそんなに突然がらっと変わってしまったのでしょうか? 私は親として何をすべきでしょうか? ひどい振る舞いのゆえにデービッドを罰するべきでしょうか? ケイリーをキャンプに戻すべきでしょうか? デービッドに5歳の弟でも彼よりましに振る舞うと言うべきでしょうか? どうしたらよいでしょうか?

  さて、私がそれにどう対処したか、そしてその理由をお話ししましょう。帰宅したケイリーがまた我が家で一番年上の子供になったことは、言うまでもなくデービッドにとってきついことでした。7歳の子供(その時は7歳でした)には扱いがたいことだったのです。彼は行動によってしきりにこう問いかけていたのです。「僕を愛している? ケイリーが帰ってきて、僕はもう一番年上じゃないけど、それでも愛してる? ケイリーに対する愛に比べて僕に対する愛はどうなの? ケイリーはもっと大切なの? ケイリーはパパやママからの愛を僕から奪うことができるの?」 ああ、これがこんな時の子供の心の叫びなのです!

  もしその時にデービッドを罰していたら、「僕を愛してる?」という問いかけに対して私がどう答えていると思ったでしょうか? 私は、できるだけ早くデービッドと二人きりになり、抱き締めて、しばらく話をしました。そして時々、どれだけデービッドを愛しているかを男らしい方法で告げました。そして、彼の感情のタンクがいっぱいになると、機嫌も戻り、幸せで外向的になりました。ほんの15分か20分でもう外に遊びに行けるようになったのです。デービッドは幸せになり、振る舞いも良くなりました。これは今まで、私達が話をした特別なひとときの一つです。デービッドは決してその二人で過ごした貴重な時を忘れないことでしょうし、私も忘れることはありません。

  子供達の振る舞いが良くない時には、私達は自分自身に、「この子供には何が必要なのだろう?」と問いかけてみる必要があります。親はつい、「この子供の振る舞いを正すにはどうしたらよいだろう?」と考えがちですが、残念なことに、この考え方は罰につながるだけです。

  次のステップは自分にこう問いかけることです。「この子供は目を見て話してやることが必要なのだろうか? スキンシップが必要なのだろうか?二人だけで時間を過ごす必要があるのだろうか?」私達親は、こうした必要を満たしてほしいがゆえに子供が悪い行いをしてしまうのを防がなくてはいけません。まずこうした子供の必要に応えなくてはいけないのです。

  このことで、私の5歳の息子に最近あったことを思い出しました。私が2、3日出張した後で帰宅すると、5歳のデールが私(や全員)をいらいらさせるような行動をしました。他の家族、特に9歳の兄の気にさわるありとあらゆるふざけた行為をしたのです。デールは、デービッドをかっとさせるような言葉や行動をしっかり心得ています。そしてもちろん、デービッドもデールに同じことをします。一人の息子がもう一人にいやがらせをするというのは、私と妻が受け取る、子供の感情のタンクが満たされる必要があるという最初のヒントです。

  とにかく、その日、デールは特に皆をイライラさせるようなことをしていました。兄をからかったり、ふくれっつらをしたり、聞き分けのないことを言ったりしました。私の最初の反応は言うまでもなく、デールに思い知らせてやろうというものでした。多分、自分の部屋にとどまらせるか、ベッドから出さないか、お仕置きするかです。しかし、「デールには何が必要なのだろう?」と考えてみたのです。すぐに答えはわかりました。私は遠くに行って、デールとは3日ほど会っていなかったにもかかわらず、それほどデールに関心を払わなかった(デールに直接関心を注ぐことは全然なかった)のです。この子供が、「僕を愛してる?」というお決まりの質問をしているのも不思議ではありません。実はデールは、「ずっといなくて帰ってきたと思ったら、それがまるで僕には何の影響もなかったみたいにお父さんは振る舞っているけれど、僕を愛している?」と問いかけていたのです。突然、デールの振る舞いが理解できました。デールの必要を満たすことのできない方法で彼に対処していたなら、デールの振る舞いはいっそう悪くなったことでしょう。(そうです、たとえお仕置きをしたとしても) デールは深く傷ついて反感を抱き、私は、あの特別なひとときをデールに与えるチャンスを逃していたことでしょう。

  全くもって、あの時に間違った選択をしなかったことをとても喜んでいます。私はデールを私達の寝室に連れて行き、何も言わずにデールを抱き締めました。いつもは活発な子供がじっとしていて、とても静かでした。じっと座って、その心を満たす目には見えないものを吸収していました。徐々に、デールの感情のタンクはいっぱいになっていき、また元気になりました。以前のようにな、自信があり、楽天的で、自発的な幸福な話しかたをするようになりました。私の出張のことで短い会話を交わすと、デールはひざからさっさと降りて出て行ってしまいました。どこにでしょうか? もちろん、兄を探しに行ったのです。リビングルームに行くと、彼らは満足そうに一緒に遊んでいました。

  だから私達は、「この子供には何が必要なのだろう?」と自問する事を決して忘れてはいけません。そうしないなら、子供の良くない振る舞いに対して、あせって不適切な対応をしてしまうのはほとんど確実でしょう。私達は、子供と非常に大切な特別なひとときを過ごすチャンスも失ってしまいます。そして、子供を傷つけ、怒りや反感を引き起こすような罰を子供に与えてしまうかもしれません。

  罰はあくまでも最後の手段であるべきです。良くない行いも前向きに扱うほうがはるかに賢明です。特に、純粋な愛を与え、それを行為で示してやることによって。

 

身体的な問題があるのだろうか?

  子供が良くない振る舞いをする時に自分に問うべき次の質問は、「そんな振る舞いを起こさせるような身体的な問題があるのだろうか?」です。幼い子供ほど身体的な必要が振る舞いに影響します。この子はお腹がすいているのだろうか? 疲れているのだろうか? 病気なのだろうか? かぜかインフルエンザにかかっているのだろうか? 痛みか不快感があるのだろうか?

  しかし、だからと言って、良くない振る舞いが容赦されるべきだと言うわけではありません。私達親は、その振る舞いだけでなく、その原因になっているものも解決しなくてはいけないという事です。

 

赦すことを学ぶ

  悪い振る舞いのゆえに子供を罰する最低のタイミングは、子供が心から自分のしたことを悔いている時です。大体、二つの面で害を及ぼす可能性があります。

  一つは、子供がすでに自分のした良くない行為の事で悲しんでいるなら、子供の良心は健在で良好です。それこそ親が望む事ではありませんか! 子供は間違いを通して学んだのです。健全な良心こそ悪い振る舞いの最善の予防策です。罰を与える、特に体罰を与えるのは、子供から罪悪感や後悔の念を取り除いてしまうことになり、子供はその不快感を忘れ、また悪い行いを繰り返す可能性が大きくなります。

  もう一つ、こんな状態の時に子供に罰を与えるのは、子供に怒りを抱かせる可能性があります。例えば、子供がすでに自分のしたことを心から後悔していて、良心の呵責に悩んでいる場合です。子供は自分自身を罰しているのです。子供がひどく愛情を必要とする時にお仕置きをするという間違いを犯すなら、子供は深く傷つくでしょう。

  この場合、聖句が大きな助けとなります。私達が悪いことをし、そのことを悔いている時に、天の父は私達に何をされるでしょうか? ゆるして下さいます。

  私としては、子供を怒らせ、反感や恨みを抱かせる最も確実な方法は、子供が自分の振る舞いを悔いている時に罰すること、特に体罰を与えることだと思っています。このような時には、赦すことを学ばなくてはいけません。

 

割れた窓ガラス

  最近、仕事上でいくつかの難題を抱え、長く大変な一日を過ごして帰宅した時の事です。私はくたくたで、どちらかといえばむしゃくしゃした気分でした。しかし、車から出るとすぐに、9才の息子のデービッドが私の所に駆けよってきました。いつもならデービッドはにこにこしてやってきて、私に飛びつき、「熊ふうのハグ」をしてくれるものですが、その日は違っていました。みじめで浮かない顔つきをし、きれいな青い瞳に悲しみをたたえて私のほうを見て言いました。「パパ、話があるんだけど。」

  自分の状態を考えると、とてもじゃないが厄介な問題を扱える状態じゃないと感じました。そこで、「デービッド、後で話すとしよう、いいかい?」と言いました。

  でもデービッドはじっと私の方を見てこう言ったのです。「ねえパパ、今話してもいいかなあ。」

  ちょうどその時、裏玄関のドアを開こうとして、窓ガラスが1枚割れているのに気づきました。私にはデービッドが何を言おうとしているかが何となくわかりました。

  自分がイライラしやすい状態にあったので、このことについては、もっとリラックスしてから話したほうがいいとは思いましたが、デービッドは私のベッドルームまでついてきて、「パパ、今話したいんだけど」と言うのです。

  そんな懇願するような目で見られてはだめとも言えず、こう尋ねました。「わかった、デービッド、何のことだい?」(まるで、何のことか知らないかのように)

  デービッドは、友達と家の近くで野球をしていたら、ファウルのボールが窓に当たってガラスが割れてしまった事を話してくれました。自分が間違いを犯したと知っており、悪かったと思っているのがありありと見れました。そうした振る舞いを通して、彼は本当の所、「こんな事をしちゃったけど、まだ僕のこと愛してる?」と聞いていたわけです。

  そこで彼をひざの上に座らせ、少しの間ぎゅっと抱き締めてやり、「大丈夫だよ、デービッド、まあよくあることさ。ガラスは新しいのをはめるとしよう。これからは、もっと家から離れたところでするんだよ、いいかい?」と言いました。

  それは特別な意味をもった時でした。デービッドはすぐにすっかり安心し、少しだけ泣き、あとはちょっとの間私の腕の中でじっとしていました。子供の心から愛が流れ出てくるのが感じられました。これは、私の人生の内で最も素晴らしい時の一つです。それからデービッドはいつものはつらつとした明るい男の子に戻り、ひざからぱっと降りるなり、走っていきました。

  悪いことをした子供を赦してあげなさいと言っても、その結果に対して責任を取らせるべきではないということではありません。罪をつぐなわせたほうがいい場合もあるでしょう。デービッドが窓ガラスを割った件に関しては、たとえば手伝いをさせるなどといった適切な形で支払いをさせるのが彼のためになることだったかもしれません。何にしても、罪のつぐないをさせる場合には、子供の年令や、成長のレベル、それをする能力の程度に見合った形でさせなければなりません。

 

しつけ

−−要望、命令、報い、罰

 

要 望

  親はまず、要望することによって、子供に正しい振る舞いをするよう求めます。親が良い振る舞いをするよう頼むなら、子供はこう考えます。「お父  

さんやお母さんは、僕に、自分で考えて決断を下し、自分の振る舞いをコントロールするだけの能力があると理解してくれている。だから、責任ある行動をとらなければ。」と。できるだけ、命令ではなくて要望の形で親が子供に話すなら、子供は、「親は自分に協力してくれていて、自分が良い振る舞いを身につけるよう助けてくれている」と考えることでしょう。これは非常に大切なことです。

 

直接的な指示

  けれども、必ずしも要望だけでは十分じゃないという事実を直視する必要があります。子供に何か頼んでも、子供がそれをしない場合がそれです。そのことについて何かをする前に、親はまず自分の要望が適切なものであったかどうかを考えてみなければなりません。それは、子供の年令や理解力、能力に合った要望だったでしょうか? この面で親のよくする間違いというのは、子供にできそうに思えるものの、実際にはできないことを頼むことです。

  親が繰り返し命令したり、叱ったり、ガミガミ言ったり、大声を張り上げたりといった高圧的な態度に出ると、次第にそういうことをしても効果がなくなっていきます。ちょうど、「おおかみだ、おおかみだ!」と何度も叫んだために、誰も本気にしてくれなくなった少年のように。普段、親が優しく頼んでいるなら、たまに直接的に命令した時にとても効果があります。

  要は、子供の振る舞いは、できる限り、一番優しく、思いやりがあり、愛情深い方法でコントロールしなさいということです。

 

あからさまな反抗

  あからさまな反抗というのは、罰が必要だという事を示す数少ないしるしの一つです。あからさまな反抗とは、大胆に抵抗し、権威、親の権威に挑むこと、つまり、頑固に従おうとしない事です。そういう時には、罰を与えるのが良いことがしばしばです。私達がどんなに努力しようと、そういうことが時には起こるものです。しかし、親は、そのような不愉快な出来事が起こらないよう努めるべきです。

  繰り返し言いますが、そういうことが起こるのはごくまれであるはずです。そういう事が起こったら、罰を与えると決める前に、自分が他のあらゆる手を尽くしたかどうかを確認して下さい。

 

適切な罰

  どんな罰を与えるのが適切かを決めるのは普通、簡単な事ではありません。罰は、反則に見合ったものでなければなりません。特に罰に関しては、親は融通をきかせる必要があります。

  その理由はいくつかあります。一つには、親も間違いを犯すからです。だから、もちろん親も考えを変えて、後で罰をより厳しくしたり、あるいは軽くしてあげたりすることができます。(体罰はそういう融通がきかないという点で不利だということを覚えておいて下さい。一度体罰を与えたら、それでおしまいで、後で変えることはできないのです。)

  たとえば、1時間、自分の部屋から出てはいけないという罰を与えたとして、後になって、情状酌量の理由となる事実が見つかり、罰が厳しすぎたとわかるなら、そのことを子供に説明して罰を軽くしてあげるのは、理にかなった正しいことです。

  必要とわかれば子供に対する物事のやり方を変えることができるよう、親は融通をきかせなければなりません。また、柔軟な心をもって、子供に謝ることもできるようでなければなりません。

  子供にあまりにも厳格な要求をしているなら(例えば、2才の子供がいつも一度言われたらすぐに言われた通りにするよう要求するなど)、親の方が理不尽だという事になります。普通の2才の子供というのは自然と、いやだという返事をしがちですが、これは正常な発達の一つの段階です。「2才児の拒否」とでも呼びましょうか。それに対して罰を与えるのは正しいとは言えません。2才児の愛情深い親は、勿論厳しさも持っていますが、厳しく罰を与えるのではなく、厳しくしっかりと制限を設けてあげるのです。そういう親は、子供の動きを巧みに優しく操っていく事によって子供の振る舞いをコントロールします。例えば、子供を抱き上げ、向きを変えてやり、ちゃんとした方を向くようにしてあげたり、いるべき場所に置いてあげたりするのです。

  この「2才児の拒否」は、正常な子供の発達において大切なものです。こうした段階を経て、私達は、親から肉体的に独立しなければならなかったのです。それは、あからさまな反抗のように見えるかもしれませんが、微妙な違いがあります。「2才児の拒否」とあからさまな反抗との違いの一つは、あからさまな反抗は親に挑むものだということです。「2才児の拒否」は正常で、罰の対象とすべきではありませんが、親に挑む様なあからさまな反抗は容赦すべきでなく、適切な罰を与える必要があります。

 

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親が息子に罰を与えないなら、必ず息子が親に罰を与えることになる。

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  厳しい態度を取るというのは、不愉快な態度を取るということではありません。怒ったり、声を荒立てたり、高圧的になるなどといった不愉快な振る舞いをしなくても、愛情のこもった厳しい態度を持つことができます。

  どの子供も、一度にあらゆる方法で愛を示されることを必要としています。子供は、目と目を合わせること、スキンシップ、自分だけに集中して関心を注いでもらうこと、しつけ、このすべてを同時に必要としているのです。子供は、私達の愛と厳しさの両方を必要としています。先にあげた一つの愛の表現をすると、別の愛の表現ができなくなるということはなく、すべて共存できるものです。スキンシップなどを通して愛情を示してやったからといって、厳しさに欠けるわけではないし、甘やかしてしまうことにもなりません。厳しさに欠け、制限を設けてやらないなら、甘やかすことになりますが、愛やスキンシップを与えることによって甘やかしてしまうことはないのです。

  子供を思う心から、これまでに挙げたような手段を使って子供を愛し、しつけてもなお子供が親に挑み、あからさまに反抗的な態度をとるなら、その時は親はその子供に罰を与えなければなりません。この種のあからさまな反抗はやめさせる必要があります。けれども、命令や説明で十分に子供の反抗的な態度をやめさせることができるなら、罰を与える必要はありません。子供を自分の部屋にやり、一定の時間そこに閉じ込めることが必要なら、そしてそれで十分なら、それをするだけでいいわけです。

 

注意すること

  体罰を与える時には、幾つか注意すべき事があります。まず、子供は自分がどうして罰を与えられているのか理解する必要があります。「悪い子だ」などといった言葉は子供の自尊心を傷つけるので、使うべきではありません。

  次に、親は、子供にけがをさせないよう気をつけなければなりません。

  3つめに、罰を与えた直後に、子供が愛されていると知って安心するよう、親は、子供の目をまっすぐに見つめ、惜しみなく抱き締めてあげたりして、その子に集中し関心を与えてあげるべきです。

 

 特別な問題をもった子供

 

  両親の皆さん、あなたの子供が何かの障害を負っていたり、何かの問題を抱えているとしても、その問題の事を考えるあまり、子供本人のことをなおざりにしてはなりません。そういう子供は、何にもまして、あなたからの無条件の愛を必要としています。どんな治療や、副木や、家庭教師など勉学の面での助けや、どんな運動や、どんな薬よりもずっと、あなたからの無条件の愛を必要としているのです。あなたの子供の人生において一番欠かせないのは、あなたがた両親であり、あなたがたから無条件に愛してもらうことです。そういう愛をもらっているなら、子供は問題を克服し、成長していくだけの力や意志を持つことができるでしょう。

 

 信仰の面で子供を助ける

 

  子供を信仰の面で助けたいと思うなら、まず感情的な面で子供の必要を満たしてやらなければなりません。子供にとっては、事実よりも感情のほうがずっと鮮明に記憶に残るものなので、最初に一連の良い思い出を作ってやり、それから、それを土台にして事実、特に宗教的な事柄を教えていくようにしなければなりません。

 

多くの人の持つ誤った概念

  ここで、多くの人が持っている誤った概念を見てみたいと思います。その誤った概念とはこのようなものです。「自らあらゆるものに接してから、子供が自分で決断をするよう学んでほしい。子供は、親の信じていることを自分も信じなければならないなどと感じるべきではない。子供には、様々な宗教や哲学について学んでほしい。そうすれば、子供が大人になった時に、自分で決断が下せる。」

  こう考える親というのは、責任を回避しているか、あるいは私達の住む現代社会についてはなはだしく無知なのでしょう。こんなふうに育てられた子供は、実に哀れみの対象となるに違いありません。道徳的、倫理的、または信仰の事柄について絶えず導きや説明を受けることがないなら、子供はだんだん自分の世界について混乱してしまう事でしょう。人生における葛藤や矛盾に思えるものの多くには、理にかなった答えがあるものです。両親が子供に贈ることのできる最高の贈り物の一つは、この世界やその複雑な問題に関する基本的な事柄をしっかり理解できるよう助けてあげることです。そうした基本的な知識や理解がないなら、子供が親に向かって「どうして人生の意味を教えてくれなかったんだ?どうして、一体何がどうなっているのか教えてくれなかったんだ?」と嘆いても当然です。

  信仰に関するこの誤ったアプローチが怠慢の故であると言うのは、もう一つ理由があります。それは人生の様々な疑問に対して、破壊的で、人をとりこにするような、偽りの答えを提供するグループがどんどん増えている事です。一見、自由寛大な育て方をされた人は、そうしたグループの願ってもないエサであり、簡単にえじきとなってしまうのです。

  親の中には、何万ドルをも費やし、さらには自分の社会的影響力を駆使してまで、将来に備えて子供に優れた教育を受けさせる人がいますが、そういう人達は、人生の霊的な戦いに備えることや、人生の意味を見いだすといった、将来に備えての一番大切な準備となると、子供に任せっ放しにしているのです。今すぐに、子供を霊的に準備して下さい。子供の将来はあなたの手に任されているのです!

 

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愛する主よ、あなたのために

高尚なる仕事をさせて下さるようにと

  望みはしません。

高貴な召しや、

素晴らしい仕事を与えて下さるようにと

望みはしません。

 

手をつなぐ小さな手を与えて下さい。

道を示せる幼い子供を与えて下さい。

あなたへ続く、大変ながらも楽しい道を。

祈ることを教えてやれる

幼い子供を与えて下さい。

あなたの御顔を見る

輝く二つの目を与えて下さい。

 

愛する主よ、私の望む冠は一つ

ただ、幼い子供を教えること。

 

自分が賢者や偉大なる者として

数えられるようにと望みはしません。

ただ、子供と共に手をつないで

門をくぐることだけを望みます。

        作者不明

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"How to Really Love Your Child"--Japanese.