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幼児に算数を教える!

−−グレン・ドーマン著

 

序  文

 

  もともと、子供とその能力開発についての私達の研究は、脳障害児の研究から端を発したものです。私達は、脳障害児が自分で自分の世話ができるようになるのを助けようと努力していました。その過程において、私達は、子供全般のことについてかなり多くのことを学びました。その内の幾つかを皆さんにもお伝えしたいと思います。

  脳障害児は、死んだ脳細胞のせいで肉体的な問題を抱えている子供達のことです。脳は左右二つあります。この二つは、頭の真ん中からちょうど二つに分かれているのです。健常な人間なら、右の脳(つまり、脳の右側)は、体の左側をコントロールし、脳の左側は、体の右側をコントロールしています。

  脳の半分がある程度の損傷を受けた場合は、悲惨なものです。体の反対側は麻痺し、あらゆる機能が著しく規制されます。どんな薬も効き目がなく、普通は死んでしまいます。

  こんな子供は、どっちみち死ぬのだから、してやれることは何もないと言われてきましたが、1955年までに我々のグループの脳外科担当者達は、そのような子供達に、まさに信じられない類いの手術を行ってきました。これが、脳半球切除と呼ばれるものです。

 

  これは、文字どおり人間の脳の半分を、手術によって除去するものです。

  私達は、たった半分の脳しか持たない子供が、他の子供と同じように歩き、話し、学校に通っているのを見てきました。その中の数名は、平均以上のことができ、少なくとも一人は、天才の領域に入る知能指数を持っていました!

  これでわかるように、子供の脳の半分がひどい損傷を受けている場合、傷を受けた半分の部分が残っている限りは、残りの半分がいかに優れていようとも、たいした意味をもちません。たとえば、もし傷を負った左脳が災いして子供が発作に襲われるとしたら、その左半分が除去されると、無傷の右脳は全機能を、他に災わされずにつかさどることができ、その子は能力を発揮するのです。

  すでに一般的になった考え方とは逆に、われわれは、子供の死んだ細胞は10かもしれないし、百か、あるいは千かもしれないが、しかし、とてもそれを知ることはできないと長い間考えていました。

  それが、何十億という死んだ脳細胞をもちながら、普通の子供と同様のことができ、もっと優れていることもあるなどとは、夢にも思っていませんでした。

  ここで読者の皆さんにも一緒に考えてもらわなくてはなりません。脳を半分除去されたジョニーが、脳は無傷のビリーと同じことができる場合、「ビリーはどこが悪いのだろう?」という疑問をもたずにいられるでしょうか? ジョニーの2倍の脳を持ちながら、なぜビリーは2倍のことが、少なくともジョニー以上のことができないのだろう? 健常なはずの子供達は一体どうなっているのだろうか? 

  脳障害児達については、私達は彼らの精神的な成長を促すのに成功してきました。そして、間もなく、私達は、この過程と同じテクニックの多くを健常児にも適用できると信じるに至ったのです。そのテクニックの一つとは、非常に幼い脳損傷児に読みを教えることです。

  1963年までに、2歳で完全な理解力をもって、よく読むことのできる脳障害児が何百人といました。この子供達は、家庭で親から教えられ、中には小さなよちよち歩きの頃から教えられている子供達もいました。

  1964年の5月に、「How to Teach Your Baby toRead」(邦題は「知的育児法」)という本を出版しました。今日では、その本は15か国語に翻訳され、その本に書かれていることが可能であることを認めるお母さん達からの手紙が何千通も届きました。

  手紙に繰り返し書かれているのは次の3点です。

     1)4歳の子に読みを教えるより、 1歳か2歳に、また7歳の子より4歳の子に教えた方がずっと易しい。

    2)赤ちゃんに読み方を教えることは、母親と赤ちゃんの双方に大きな喜びを与えてくれる。

    3)幼児が読み方を学ぶと、知識が急速に増していくだけでなく、好奇心と注意力も増加していく。すなわち、まぎれもなく知的な子になっていく。

 

  お母さん達は、わくわくさせてくれるような新しい質問を次々と持ちかけてきましたが、その中で最も多かったものが、「こうして今、2歳の子に読むことを教えてみますと、算数だって、今の方がかえってやさしく教えられるのではないかと思いますが、もしそうなら、どういうふうにすればよいのでしょう。」というものでした。

  この問いに答えるのに10年の長い年月を要しましたが、ついにその答えが見つかり、何百人もの健常児と脳障害児に容易に解く方法を教えてみました。結果は唖然とする程の大成功でした!

 

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母親は陶器師であり、子供は粘土である。

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母と子−−世界で最もダイナミックな学習チーム!

 

  私の家から100ヤード離れたところには、エヴァン・トーマス協会があり、魅力的な若いお母さん達と若い素晴らしいスタッフ、それにごく普通に見えるが並はずれた喜々とした赤ちゃんと幼児達がいます。ある朝そこを訪問すると、部屋の向かい側の私の正面には、20代後半のスタッフがひざをついて座っており、その回りに20代、30代の20人のお母さんがスタッフに面して半円を作っています。お母さん達の前で座っているのは、ごく普通の、しかし桁外れにかわいい2、3歳の幼児達。赤ちゃんを抱いているお母さんもいます。

  きれいな金髪をした2才の少女が、大きな声で本を読んでいます。読んでいる内容にすっかりとりこになっていて、自分のユーモア感覚に合った言い回しに当たると、クスクスと笑い声まで上げます。

  私にはユーモアどころではありません。というのも、彼女は日本語で読んでいるのです。私は日本でたびたび仕事をし、日本の子供達と時を共にしてきましたが、その貧弱な日本語のストックでは、彼女の読書にはとても追いつきません。彼女がクスクス笑う言い回しを読むと、他の子供達も笑います。読んでいる日本語は、ローマ字ではなく、漢字で書かれています。

  部屋には日本人が一人だけいます。美しい着物を着た美紀さんという先生です。この美紀先生が質問をするために読書を中断させます。美紀さんの質問も女の子の答えも日本語なので、私にはどちらの言っていることもわかりません。やがて日本語のクラスが終わり、お母さん達の行列と、非凡ではあるが平凡な幼児達の一団はホールを出て、次の上級算数クラスに行きました。

  「知的育児法」を1964年に出版して以来、長い年月が過ぎました。赤ちゃんに読み方をただ教えるというだけでなく、学校で7歳で始めるよりも2歳で行ったほうが、より良く、よりたやすく教えられると気がついたその時から、このお母さん達は意を固くして、自分の考えを貫いてきました。それからは、筆舌に尽くしがたい喜びがあふれる、新しい世界の幕開けとなったのです。母と父と子供達の世界、それはまたたく間に、より良い方向へ、ほぼ無限に近く、世界を変えてしまう力を内蔵しているのです。

  1955年までは、エヴァン・トーマス協会にやって来る若い母親達はほんの数人でしたが、みな聡明で熱心な人々でした。その人達の存在を知ったことは協会にとっても意味あることで、双方で協力して、赤ちゃんに読み方を英語でスラスラと、できれば他の2、3の言語でも教えてきました。1歳から3歳くらいの幼児が、小鳥、花、虫、樹木、大統領、旗、国、地理、その他の種々の事柄について、百科事典的知識を吸収し、平均台の上でオリンピック種目のような技を行い、泳ぎ、ヴァイオリンを弾くのです。

  つまり、親が幼児に正直に、事実に基づいた方法で示してあげれば、どんな事でも教えられることが分ったのです。また、そうする事によって、赤ちゃんの知識を倍増させられるということが。

  その中で最も興味深いことは、そうすることが親にとっても赤ちゃんにとっても、共に楽しめる最も喜ばしいことであることがわかったことでした。そして、互いへの愛と尊敬が急速に育っていったのです。

  1年以上も前の話ですが、ある朝、私が算数のクラスに顔を出すと、スージーとジャネット441

が、小さな子供達に、私が消化できる速度をはるかに越えた速さで、続けざまに算数の問題を出していました。子供達の答は、正確で−−それも殆ど正しいなどというものではなく−−まったく正解でした。

  「16かける19、ひく151、かける3、足す111、わる4、ひく51は幾つになる?」とスージーが尋ねます。「フィラデルフィアからシカゴまでの距離は一体どのくらいある?」とジャネット。「そして、もし自動車で5マイル走るのに1ガロンのガソリンがいるなら、シカゴまで車で行くのに何ガロンのガソリンがいるのかしら?」「もし1ガロンで12マイル走ったら?」

  私は、ギリオ・シモーネに19の二乗は幾つになるかと尋ね日のことを思い出しました。「361だよ。でももっと大きな答になる難しいの出してよ」「よーし」 私はそう言って、大きな数になるものを捜しました。「千の7乗にはゼロが幾つつく?」3歳で、大きな数の好きなギリオ・シモーネは数秒間思案した後、にこにこしながら「21」と声をあげました。私はしゃがみこんで千の7乗の数を書いてみると、確かに21のゼロがありました。

  赤ちゃんというものが、いかに頭脳明晰であり、いかにたやすく学んでいくかを考えてみれば、われわれが赤ちゃんに算数を教えられると考えるのも別に不思議ではありません。驚くべきことは、子供が親より、よく算数ができるようにする教え方を、私達大人が学び、そして自分たちでその算数を、子供に教えたということです。

  では、その方法とは何であり、どのようにしてそれがわかったのでしょうか?

 

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  「人間は無骨な愚か者で、年寄りも若者も 間違いだらけ。赤ちゃんだけが真実を知って  いる。」−−スウィンバーン

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理解への道のり!

 

  何年も前に、私は東京で、私たちの方法を使って子供に算数を教えている日本人の親たちに講義をしました。彼らは、自分の子供たちに教えて素晴らしい効果を収めていることを喜んでおり、かなり熱心でした。しかし、どうして、子供たちが親自身よりも速く、よく解けるかについての私の説明では、十分に納得がいかないようでした。

  親達が本当にわかっていないのは、説明している私自身がよく理解していないからだということはわかっていました。子供がすらすらと何の疑問も持たずに解いていることは疑いもない事実であることは、親も私も知っていても、なぜそうなのかという点に関しての私の答には双方とも満足できなかったのです。

  その夜、これらの問に対して自分の出したごちゃごちゃの答をかかえて、落胆した気持ちで床につきました。翌朝は、珍しいことに6時より数分前に目覚め、意識もはっきりしていました。そして、答と思われることを発見したのです。

  われわれ大人はあまり長い間、事実を表すのにシンボルを使っているので(少なくとも算数では)シンボルだけを知覚するように学習してしまい、実際の事実を認識できなくなっているのではないか。子供が事実を認識できるのは当たり前だ。みんな実際にそうやっているんだから。

  算数をするための秘密を、子供達に気付かれぬように、大人がこれまでの所、守り通せたということは驚くべき事です。幼児がその輝かしい頭脳をもってしてもその事に気付かなかったのは不思議です。不注意な大人が2歳の子の前にうっかり秘密を漏らしてしまわなかった唯一の理由は、大人もその秘密を知らなかったからなのです。

  最も大切な秘密は、幼児自身に関するものです。われわれ大人は、大きくなればなるほど学習が容易になると考えており、それが正しい場合もあります。しかし、言語体系に関する限り、それは絶対に正しくないのです。

  言語体系とは、何語を例にとってみても、語、数、あるいは記号と呼ばれる事実から成り立っています。話し言葉でも、書き言葉でも、算数でも、音楽でも。子供はそれが純粋な事実である限り、どんなものでも学んでしまい、しかも年齢が低ければ低いほど容易なのです。

 

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母親、そして他の人達!

 他の人は騒音に疲れ果ててしまう

 母親は女の子や男の子と遊ぶ

 他の人は感情にまかせて怒る

 母親はキスし、元気づけてくれる

 他の人は、私達を幾らか愛している

 母親の愛は揺るがない

 他の人は、ゆるしても、憎しみは残る

 母親はゆるし、忘れる

 他の人は、私達の間違いをしっかり記憶に とどめる

 母親はいつも両手を広げて迎えてくれる

 他の人は疑い深くなる

 母親は変わらず私達を信じてくれる

 他の人は信仰をさっさと放棄する

 母親はひたすら祈る

      −−エイモス・R・ウェルス

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  ほとんどの大人は、ほとんどの子供よりも良くできますが、それぞれの語、音符、数を識別する能力となると、子供がその機会を十分年少のうちに与えてもらえるなら、あらゆる場合にも大人より速く容易にできます。事実を学ぶには、6歳より5歳のほうが、5歳より4歳のほうが、4歳より3歳、3歳より2歳、そして2歳になってその結果が出るのをじっくり待つ気があるのなら、なんと1歳のほうが2歳よりもたやすいのです。

  学ぶ年齢が低ければ低いほどよいことは、もうはっきりしています。ジョン・スチュアート・ミルは3歳の時にギリシャ語が読め、ユージン・オーマンデイもモーツァルトも3歳の時にヴァイオリンが弾けました。バートランド・ラッセルのような偉大な数学者の大部分の者は、小さい時から算数ができました。

  算数に関して、幼児が大人に対して持つ優位性は驚嘆に値するほどです。われわれ大人は、数字と呼ばれる記号は1から1,000,000でもそれ以上でも苦もなくわかりますが、実際に何か物の数を数えるとなると、信頼性のもてるのはせいぜい10までです。

  幼児が数字を習う前に、実際の物の数を識別する機会を早い時期に与えられるなら、その幼児は実際に事物を見て、ほぼ瞬間的にその物の個数を、その数字と同じように識別できます。

  だから、算数で実際に計算することを学び、それがどうなっているかを理解するのは、大人より幼児のほうがはるかに有利なのです。

  ここに幾つかの事実をあげてみます。

 

   (1)幼児は算数を学びたがっている。

   (2)幼児は算数を学ぶことが出来る (それも年齢が低いほど容易に)

    (3)幼児は算数を学ぶべきだ(より容易に、より良くできるのは有利だから)

 

  P.S.幼いお子さんに読みを教えていてお気づきになったと思いますが、最小限の時間に最大の成果をあげるには、最もその効果が証明されている方法を首尾一貫して行う必要があります。その方法とは、グレン・ドーマンが開発した、1日に子供に数回、大きな字で書かれたフラッシュカードをさっと見せるという新しい方法です。これによって、子供は、何の苦労もせずに、またあなた自身も苦労しないで、楽しみながら、毎日、着実に覚えていくことができます!(また、チャイルドケア・ハンドブック第二巻の336-339ページの「幼児に算数を教える」の全体的な要約も参照して下さい。そして、グレン・ドーマンの新しいフラッシュカードの教え方はF17、259-260ページにあります。)

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「幼児は算数を学びたがっている」の出版元

サイマル出版会

107 東京都港区赤坂1-8-10

電話(03)582-4221

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「知的育児法」(主婦の友社)は絶版になっていますが、図書館などに置いてあるかも知れません。

 

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  新聞のコラムニストであるアビゲイル・ヴァンビューレンは、「両親の祈り」をつづった。その中で彼女は、子育ての実際的な側面に重点を置いている。「親愛なるアビー」はこう言っている。

 

  天におられる父よ、私をより良い親として下さい。子供達を理解し、子供の言うことに忍耐強く耳を傾け、子供達の質問に優しく答えられるよう教えて下さい。子供の話をさえぎったり、反対ばかりしないように助けて下さい。私が、子供に要求しているのと同じくらい、子供に対しても礼儀を忘れないように助けて下さい。子供の間違いを笑ったり、子供が自分の気にいらないことをしたからといって、子供に恥をかかせたり、子供をあざ笑ったりすることが絶対にないように助けて下さい。自分の一人よがりの満足感のためや、自分の権威を誇示するために、子供を懲らしめることがありませんように。

  嘘をつきたいとか、盗みたいなどといった気持ちを子供に起こさせることがないように助けて下さい。いつもいつも私を導いて下さい。そして、子供に、正直でいたほうが幸せになれるということを私自身の言動によって示すことができますように。

  私の内にある意地悪な気持ちを取り除いて下さい。私の機嫌が悪い時には助けて下さい。主よ、私の口を閉じておいて下さい。

  子供はやはりまだ子供なのだから、大人のような判断力は期待できないのだということを決して忘れないようにして下さい。

  子供達が自分のことを自分でし、自分で決断を下す機会を奪ってしまうことがないように助けて下さい。

  そしてどうか、子供達の納得のゆく要求には応えてあげるだけの寛大さと、子供達のためにならないとわかるような特権は決して与えないだけの勇気とを与えて下さい。

  公平で、正しく、親切な者として下さい。そして、主よ、子供達から愛され、尊敬され、まねされるにふさわしい者として下さい。アァメン。