子供を伸ばす育て方

 

−−ジェームズ・ドブソン著

 

無条件の愛

 

  南カリフォルニア大学のフットボール部の名コーチ、ジョン・マッケイが、数年前にテレビでインタビューを受けた時、彼の息子のスポーツ選手としての才能が話題にのぼりました。息子は父親のチームの優秀な選手でもあったのです。息子の試合成績について、父親として誇りに思っているかと聞かれたマッケイの答えは非常に印象深いものでした。

  「息子が昨シーズンに好成績を取ったのは嬉しいです。立派な選手だし、誇りに思っています。でも、息子が全然試合に出なかったとしても、同じように誇りに思いますよ。」

  マッケイの言葉は、要するに、息子のフットボール選手としての才能は認め、高く評価するが、人間としての価値はフットボールの才能とは関係ない、ということです。ですから、来シーズンの成績がかんばしくなく、失望するような結果に終わったとしても、息子への尊敬は失われることはありません。息子が父親の心に占める位置は、その成績いかんにかかわらず確かなものなのです。子供がみんなこのように大切な存在として扱われることを、私は願ってやみません!

 人間としての自分の価値というものを気にするのは、それを欠いている人だけではありません。社会全体の健全さは、個人個人が社会に受け入れられていると容易に感じるか否かにかかっています。20世紀の米国のように、ほとんどの人が、価値のある存在とみなされるための条件にはとうてい手が届かないと感じている場合、「精神病」、神経症、憎悪、アルコール中毒、薬物乱用、暴力、そして無秩序が広範囲に生じます。しかし、個人の価値というものは、人が勝手に取ったり捨てたりできるようなものではありません。それは私たちにとってなくてはならないものであり、もしそれが得られない場合にはすべての人が傷つきます。

  というわけで、本書の核心は、自己尊重の心を築くための「方策」をわかりやすく述べることであり、各部分ごとに違った分野に焦点をあてています。

 

美しさ!

  紛れもなく、私たちの文化(そしてほとんどの文化)において、最も高く評価される特性とは、容姿の美しさです。

  1歳の誕生日を少し過ぎた頃、私の娘はまわりの大人の目を引くような子でした。妻は娘にかわいらしい服を着せてやり、どこへ行ってもかわいがられました。誰もが娘を抱きあげ、ちやほやし、キャンデーをくれました。このようにみんなから関心をもらうことは、かわいい子や、人目を引くような子供であれば、誰でも経験することです。これは子供が求めたり努力したりするものではなく、大人の世界が無意識に与えるものです。

  ところが1歳3ヶ月になった時、ある事件が起こって、娘のかわいらしさが損なわれてしまいました。娘は走ることを覚え、妻が遊びのつもりで家の中で追いかけっこをしていた時のことです。娘は急に左の方に突進してバランスを失い、リビングルームのテーブルの角にぶつかりました。そして、転んだひょうしに前歯をまともに打ち、歯が歯ぐきにすっかり食い込んで、一見、歯が折れたように見えました。唇の内側は深く切れ、目もあてられない状態だったそうです。

  テーブルと正面衝突した時、ダナエーの口の形は一時的にゆがんでしまいました。唇の内側を切ったため、生まれつきそういう口の形のように見えました。もう赤ちゃんらしいかわいらしさはありません。翌日の夕方、娘を外に連れて行った時のことです。私は娘が事故にあったということを一瞬忘れていましたが、ふと、娘を見る人の目つきが以前とは違っているのに気がつきました。皆、ちらっと見ただけで顔をそむけるのです。そこにあるのは、以前のような暖かさや愛や優しさではなく、無意識に表れる拒絶反応と冷たさでした。決して悪気があってのことではありませんが、周囲の人はもはや娘をかわいいとは思わなかったのです。そのような態度に私はいらだちを覚えました。というのも、それは私たちの価値観にそぐわないものだったからです。自分のせいではないのに、子供がそのような報いを受けるばかりか、さらに悪いことに傷つけられるなんて何と不公平なことかと、私は感じました。

 

  美人崇拝。大人が子供達に対し、どれほど巧みに美人崇拝志向を教え込むかは、驚くほどです。古典童話を調べてみたところ、容姿の美しさを中心に描かれている物語がどれほど多いかを知って、私は驚いてしまいました。次の例を考えてみて下さい。

  1)醜いアヒルの子:これはもっと容姿の整ったアヒル達からいじめられた、不幸な水鳥の、おなじみの物語です。人目を引かない子供の運命を象徴するかのように、醜いアヒルの子は、へんてこな容姿ゆえに嫌われます。ところが、幸いなことに、大きくなるにつれ、醜いアヒルの子は美しい白鳥となったというわけです。(物語には、醜いアヒルに育った醜いアヒルの子のことは、一言も書かれていません!) 思春期において、どんなに多くの子供たちが、自分の容姿がさらに醜くなるのを見ながら、自分が美しい白鳥になれる日を辛抱強く待ちこがれていることでしょうか?

 

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    「あなたがたは、これらの小さい者の一人をも軽んじないように気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわれらの父の御顔をいつも仰いでいるのである。」−−マタイ18:10

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  2)眠れる森の美女。なぜこの物語は「眠れる森のブス」という題ではなかったのでしょうか? 醜女であったら、王子様がそっとキスをして彼女の目を覚ますということはなかったからです。王子様は不器量なお姫様をそのまま眠らせたまま、通り過ぎて行ったことでしょう。彼女の美貌というものが、ロマンチックなお話に欠かせない要素だったのです。

  子供のどこかが変わっているか、目立って人と違っている場合、その子は学校にあがる前の時期に、友達や近所の人が自分の体の「欠陥」について話しているのを耳にするものです。人を傷つけるつもりはなくとも、子供というのは時として残酷になります。ある子供に至っては、人生における自分の務めは、他人の欠陥をあげつらうことだとさえ感じているのです。身体的に欠陥を持っている子供は、物心がついた頃から自分の特徴を人から知らされるものです。太り過ぎの子や痩せ過ぎの子、ノッポの子やチビの子、そばかすの多い子や鼻の曲がった子、赤ら顔の子やちぢれ毛の子や直毛の子、大足の子ややぶにらみの子、耳の大きく突き出た子やお尻の大きな子、その他、人と違ったところが目立つ子供にとっては、人生はつらくて不快なものとなり得ます! 器量が悪く、さらに親が自分に味方してくれないというのは、子供にとってどうしようもないほどの打撃です。そのような子供は毎日劣等感で悩んでおり、逃げ道がありません。

  美しさと青年期。子供の時期ですら容姿の魅力が大切と考えられているとすれば、十代にはそれは最大の関心事となり、そのことで頭がいっぱいになってしまいます。思春期以降の4年から6年間というものは、性という新しい世界に、身体的・情緒的器官が集中してしまうのです。明けても暮れても性について考え、夢見、空想し、それについて何かしなければと思います。青年期の子供は、性的な好奇心とロマンチックさと、全くの生物学的な激情で燃え上がるのです。さて、明らかに、こうした性的な緊張状態の中では、身体的な魅力が他のすべての価値や理想をしのいでしまいます。周囲の人はひときわ魅力的な女の子の足下にひれ伏し、ハンサムでスポーツのできる少年は、お山の大将となるのです。そして、それ以外の大多数は、鏡をのぞき込んでは幻滅と自己嫌悪を味わうというわけです。

 

  美しさと成人期。大人がする選択は、どちらにせよ、美しさという要素に影響を受けています。たとえば、女性の鼻があと何ミリ高いかどうかで全生涯を左右されることがあり得ます。結婚相手の選択(または結婚相手に選ばれるかどうか)についてはなおさら影響します。ほとんどの男性はできるだけ美しい伴侶を「捕まえよう」とします。大人は、充分分別があるはずなのに、それでも強力な美貌崇拝から解放されてはいないのです。

 

頭の良さ!

  頭の良さは、子供の価値を評価する上で、容姿の次に来る極めて決定的な資質です。この二つの資質は子供にとって、これがあればいいなあというような生やさしいものではありません。それらは、私たちの価値観の最上位を占めているのです。

  私は最近、子供を一人、養子にしたいと申し込んだ家族と話しました。ある日、その人に、ついに待ちに待った電話がかかってきました。養子となる赤ちゃんが選ばれたという知らせです。父親は、自分が養子斡旋所の係員に対して、その子の背景や家系についてどのように尋ねたかを私に話してくれました。

  「その子の母親は妊娠中に薬を飲んでいましたか? 親の知能程度はどれくらいですか? 背の高さは? 学校での成績はどんなでしたか? ふたりの容姿はどんなでしたか? 遺伝的な病気はありますか? 妊娠と出産の様子はどうでしたか? お産は何時間かかりましたか? 産婦人科医は何と言っていますか? 小児科医にみてもらったことはありますか?」

  父親はこう言いました。「私は、この子をまるで新車でも買うように吟味し、評価していたんです。実際、この赤ん坊が自分の息子となるに『ふさわしい』かどうか尋ねていたわけです。ところが突然、自分の目の前にいるこの赤ん坊は、たとえ欠陥や障害があろうとも、素晴らしい人間なのだということに気がつきました。神ご自身がこの子を造られ、この子にかけがえのない命を与えられたのに、私は、自分の望み通りの、自分の評判をあげるような完ぺきな子を要求していたのです。」

  中流階級の親達は、自分の子供に近所で一番良い服を着させ、贅沢なものを食べさせ、最高の教育を受けさせ、行儀作法を仕込み、何もかも一流に育てようとして、互いに激しくしのぎを削っています。それで、家族全体の希望や夢や野心が、時には、まだ幼い子供の肩にかかってしまうのです。

  ところが残念なことに、ひときわ優れた子供というのは、まさに例外中の例外です。大半の子供は、みごとな知能や、並外れた機知、高度な器用さ、際立った才能や人気などには縁がありません。身体は大きくとも、愛され、ありのままで受け入れてもらうことを必要とする、ごく平凡な子供なのです。かくして、若い世代に非現実的なプレッシャーがかかり、親はかなり失望を味わうという舞台設定ができあがるわけです。

  子供を、そう、子供の感情も行動も理解するつもりならば、自分自身が子供だった頃の記憶を新たにしなければなりません。読者の皆さん、子供の頃、自分が本当にだめ人間だと感じた、つらい時のことを思い出すことができますか? 人前でしでかしたヘマを思い出して、今でも赤面してしまうことはありませんか? 学校で何かおかしなことを言って大笑いされ、穴があったら入りたい気持ちだった、という経験は? まるで世界中の笑いものとなったという経験を、頭の中によみがえらせることはできますか? どんな子供もこうした不快な経験があるものですが、悲しいことに、毎日毎日、恥辱を味わいながら暮らしている若者がいるのです。能力が平均以下の子供は、しばしばこうした失望の大きな渦に巻き込まれる運命にあります。

 

自己尊重のための方策!

  たとえ普通の子より困難な問題を抱えていても、鼻の形や耳の大きさ、知識や能力のいかんにかかわらず、子供にその子自身の存在価値を教える方法は幾つもあります。子供は誰しも、傲慢さや高ぶりからではなく、確信と安心感ゆえに堂々と胸を張る資格があります。これこそが、創造主なる神が意図された人間の価値の概念なのです。神が、ご自身の形に人間を造られたというのに、自分の価値を疑うとは、私たちは何と愚かなのでしょう。美貌崇拝に関する神の見解は、3千年以上も前に、サムエルがイスラエルのための王を探していた時の話に、はっきりと表れています。サムエルは当然のように、エッサイの子供の中から最も背の高いハンサムな青年を選びましたが、神はサムエルに、その青年ではないと告げられました。「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」(サムエル記上16:7)

  私たち親も他の人たち同様、美しさや頭の良さをあがめるよう人為的に教えられてきました。私たちは皆、世間をあっと言わせるような天才児を求めています。皆さん、それを認めようではありませんか。私たちは敵の正体を知りました。それは何と私たち自身だったのです! 家庭とは、子供の聖域であり、城であるべきなのに、知らず知らずの内に、まさにその家庭内で最大の害が生じています。

  子供の自己イメージというものは、親からどう見られていると感じるかによって決まってきます。子供はあなたの言動を興味をもって見ています。子供というものは、自分の価値について、誰よりも親のあなたが何と言うかに注意をとがらせており、あなたの無言の(そしておそらくは無意識の)態度さえよく読んでいるのです。

 

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  子供というのは、大半の場合、あなたが指差す方ではなく、あなた自身が進む方についていくものだ。

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  愛と尊敬。子供は、親から深く愛され、大切にされていると確信する時に、人間としての自分の価値を受け入れやすくなるものです。とは言っても、私の観察したところでは、多くの子供は、親に愛されていることを直感的に知っていますが、尊重されているとは思っていません。こうした一見矛盾した態度は、人間関係においてはよくあることです。例えば、妻はアルコール中毒の夫を愛することはできても、夫のありさまのゆえに彼を軽蔑している、というような場合です。というわけで、子供は心の中で、「もちろん、親から愛されているのはわかる。僕は彼らの子供だし。それに僕が親にとって大切だということもわかるけど、人間として誇りに感じていてはくれない。僕は親をがっかりさせているし、期待を裏切っている。親が望んだような人間にはならなかった」という結論を出すのです。

  ややもすると、同時に愛と軽蔑を伝えるということがよくあります。子供は、親が、必要とあらば自分のために命さえ投げ出してくるという事を知ることができます。それでもなお、子供が世間からどれだけ受け入れられるだろうかという親の疑問は、おもてに表れるものです。子供がお客さんや外部の人に話し始めると、親は緊張し、神経質になってしまいます。あなたは子供が言おうとしている事を説明しようとして口を挟んだり、子供が変な事を言うと、神経質に笑ったり、あるいは誰かが直接子供に質問しようとすると、それをさえぎって代わりに答えてしまいます。また、大切な集まりのために子供の髪をとかしたり、身なりを整えさせようとする時には、イライラが顔に出てしまいます。子供は、きちんと振る舞うことなんかできないと思われているのを知っています。

 

  このようなちょっとした行動が、子供の目には、あなたのイメージを壊されると思っているしるしに映ります。つまり、家族全体の恥にならないようにうるさく見張っているように見えるのです。純粋な愛によるものとは言え、子供はあなたの振る舞いから、自分が軽視されていることを読みとります。親子の愛とは、その親子間だけのものですが、信頼と称賛は、家族外の人との社会的な関わり合いもあるので、他人も深く関わってきます。

  ですから、子供を愛するという事は、自信を築き上げさせるという任務の半分にしかすぎません。後になって社会が子供に与えるショックを和らげるには、人格を尊重するという要素も加えなければなりません。

  親の無神経さ。親達が緊急に学ぶべきものが何かあるとするなら、それは子供の前で言う事にもっと気をつける事です。講演の後で、私は、子供の問題で何回となく親から相談を受けました。母親が事細かに述べていくにつれて、この会話の主人公である子供が、母親のすぐ後ろに立っているのに気がつきました。自分の失敗全部があからさまに語られるのを、子供は耳をそばだてて聞いているのです。親が気づかずにこうして子供の自尊心をバラバラにするやり方に、私はたじろいでしまいます。

  こうした愚行をうっかりしてしまうのは、無神経な親だけではありません。子供の気持ちに敏感になることは、教師にとってもたいへん大切です。著述家でもあり、心理学者でもあるクライド・ナラモア博士は、教室で「小さいこと」対「大きいこと」の概念を教えようとしている教師のことを次のように述べています。その女教師は、教室で一番小柄で、コトリとも音をたてないような引っ込み思案の男の子を呼び、前に出てきて自分の横に立つようにと命じました。彼女は、「小さい、デービッドは小さい!」と言いました。それから彼を席に戻らせ、今度はクラスで一番背の高い女の子に前に出て来るように告げました。そして、「大きい! シャロンはとても大きい!」と言ったのです。ナラモア博士が言うには、教室にいる生徒は全員、二人が恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしているのがわかったのに、教師だけがそのことに気づかなかったそうです。もしも私たちの視線がいつも子供の頭上はるか上にあったとしたら、次の世代を担う子供たちの自信をはぐくむことはできません!

  疲労と時間に追われる生活。「パニック状態」がアメリカのライフスタイルになりつつあります。私は最近、25歳から35歳までの中流階級の既婚女性75人を対象にある調査をしました。絶望感とうつ状態の原因となるような、ふさぎこんだ気持ちになる原因は何かと尋ねた所、多くの共通した問題が明らかになりました。その中には、義理の親とのいざこざ、経済的な心配、子供との問題、セックスの問題、月経に関する情緒不安定などがあったのですが、驚いたことに、時間に追われる生活と疲労が、半数の人にとって一番の問題でした。そして、あとの半数の人達もまた、それを2番目の問題として挙げたのです!

  明らかに多くの家族がせわしい生活をしており、すべきことをこなし切れなくなっています。なぜそのような生活をするのでしょうか? 私が調査した婦人たちは、このような生活は嫌だと認めつつも、動き出した歯車を止められないでいます。速く走れば走る程、せわしない毎日の中にさらにすべきことを詰め込んでしまうのです。レクリエーションすら、ものすごいスピードになってきています。昔の人は、駅馬車に乗り遅れてもいらだったりしませんでした。ただ、翌月に次の馬車が来るのを待ったのです。ところが今では、回転扉を1回通り損なうと、人はそれだけでイライラしてしまいます!

  でもこうした息つく暇もないようなライフスタイルの中で負けてしまうのは、誰かわかりますか? そう、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで壁にもたれかかっている男の子です。長い一日ずっと父親と会えずに寂しく思い、夜になると父親につきまとって、「キャッチボールしようよ!」と言うのですが、父親の方はもうヘトヘトで、その上、鞄にはまだやりかけの書類がぎっしり詰まっています。午後は母親が公園に連れて行ってくれると約束したのですが、直前になって、婦人会に出かけなければならなくなってしまいました。その子は、親は忙しいという事を思い知らされます。かくして、子供はリビングルームに戻ってテレビをつけ、つまらないアニメや再放送を2時間も見るわけです。

  子供というのは、「予定表」通りに行動するものではありません。子供がまだ小さい頃には、有能な親となるには時間がかかります。子供に良い手本を教えてやり、たこを上げ、パンチボールで遊び、ジグゾーパズルをするには、時間がかかります。ひざをすりむいた話をもう一回、聞いてやり、羽の折れた小鳥の話をしてやるには、時間がかかります。でも、これこそが子供に対する尊敬という煉瓦を築くものであって、それは愛というモルタルで固められるのです。しかし多忙な親が日々の生活の中でこれを実行することはめったにありません。その代わりに、ぎゅうぎゅう詰めの生活が疲労を生み出し、その疲労がイライラを、イライラが無関心を生んでいきます。そして子供の目からは、その無関心は、心からの愛情と人格的な尊敬の欠如として映るのです。

 

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  親が子供達に与えることのできる最高の財産とは、毎日数分間の自分の時間である。

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  愛のライバル。私の息子は、上の娘が5歳の時に生まれました。父方、母方を通じてたった一人の孫娘であるダナエーは、大人の愛情を一身に受けていました。ところが突如として、彼女の王国の安泰は、舞台の中央で注目を一身に集めるかわいい弟の出現によって脅かされてしまったのです。親戚一同が赤ちゃんのライアンを抱き上げ、あやし、ゆすり、跳ねさせ、優しく抱きしめる一方で、姉のダナエーは、舞台のそでからけげんそうにそれを見つめています。ライアンが生まれて一週間たった日曜日の午後、祖母の家から車で帰宅する途中、娘が突然こう言ったのです。「パパ、別に悪気はないんだけど、時々、ライアンがいない方がいいなと思うことがあるの!」

  娘はその一言で、非常に貴重なヒントを与えてくれました。そして私たちはそのチャンスを逃さず、その発言について娘と話し合うため、彼女を後ろの席から前へと移したのです。私たちは娘に、その気持ちはよくわかると言い、愛していることも知らせました。そして、赤ちゃんが何もできない事、誰かが食べさせたり、服を着せたり、おむつを替えたり、あやしてあげたりして世話をしないと生きていけないのだと説明してやりました。また娘にも赤ちゃんの時には同じようにしてあげたのだと教えてやり、ライアンもすぐに大きくなるのだよと話して聞かせました。それから数カ月間、私たちはダナエーに対する愛は少しも変わっておらず、心配ないことをわからせるように心がけたのです。娘の気持ちに気を配り、安心させることによって、娘と赤ちゃんとの仲もだんだんうまく行くようになりました。

  あなたが心と思いとを注ぐなら、複数の子供に同時に愛を伝えることも、難しくはありません。

  ルネ・ヴェルツェルはこう言っています。「あまり早くから子供が将来どのような人物になるかを判断すべきではない。」 性急に子供を判断してしまうのは、不当であり、有害です。忍耐を持ち、子供が成長していくための時間をあげて下さい。あなたにとって一番気になることについては、優しく働きかけて下さい。でも何よりも、子供であるという特権も認めてやってほしいのです。とにかく子供である期間というものは、とても短いのですから。

 

テレビ!

  特に土曜日の午前中のテレビ番組は、ティーン向けのくだらないものでいっぱいです。「アーチィとその仲間達」といった一見たわいもないような番組も、思春期の経験ばかりを取り上げています。子供が6歳になる頃までには、思春期の価値感、態度、服装、振る舞い、スリルを学びながら、テレビ様々の前で何千時間も過ごしたことになるわけです。

 

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  すべてのテレビ番組は教育テレビである。問題は何を教えているかだ。

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  私は、テレビが社会に与える影響、それも特に若い世代への影響を憂慮しています。アリゾナ大学のジェラルド・ルーニー博士によると、平均的な未就学児が14歳になるころには、テレビで18,000件の殺人と数え切れないほどの暴力行為、ばかげた言行、及びむちゃくちゃな運転を見ることになるというのです。さらにまた、サウロ・カペル博士によると、子供の生活において最も時間をかけているものとは、学校でもなければ家族の交流でもないということです。それはテレビであり、テレビは貴重な子供時代から1万4千時間をも奪ってしまっているのです! これは4.9年の間、毎日8時間、テレビに釘付けになっている計算になります!

  自分の都合のために、感受性の強い、就学前の子供をテレビの前に置く母親は、取り返しのつかない結果を招くという間違いを犯している、というのが私の意見です!

 

子供に「自分をけなすべからず」ポリシーを教える!

  劣等感を抱いている人の最もはっきりとした特徴とは、耳を貸すすべての人に対して自分の欠点を話す、ということです。自分がばかだと思っている女性は、「私は数学がまるっきりだめなの。2たす2さえおぼつかないのよ」というふうに、その無知を開けっぴろげに認めます。このように自分をけなす人達は、想像以上に多いものです。これから数週間、自分の話すことに気をつけてみて下さい。自分でもびっくりするほど、友達に対してしょっちゅう自分の欠点を強調しているのに気づくと思います!

  本当の自分とは違った人間になろうとして、いつわりのイメージを作り上げようとすることには何の価値もありませんが、その逆の極端もまた間違いです。あなたが自分の欠点をべらべらしゃべるうちに、聞いている人はあなたに対する印象を形作っています。その人は、あなたが与えた情報に基づいてあなたを見、あなたに接することでしょう。結局のところ、あなた自身がそれを一番良く知っているはずなのですから。その上、思っていることを言葉にすることによって、それがあなた心の中でも事実として固められるのです。

  ですから、私たちは子供に対して、「自分をけなすべからず」ポリシーを教えるべきです。いつも自己批判をすることは悪い癖になるばかりか、何の足しにもならないことを、子供は学ぶべきです。正当な批判を受け入れるのと、自分の欠点をただしゃべりまくるのとは、大違いです。

 

子供が立ち直るのを手伝う!

  友達付き合いにおいて、子供を拒絶やあざけりに対して無感覚にしてくれる鎧などというものはありません。他人から笑われたり、冷たくされたり、無視されたり、批判されたりすれば、子供は傷つきます。しかし、ここで言っておきたいのですが、人格というものは、適度の困難があってこそ育つものです。一般的な考え方とは反して、子供のための理想的な環境というのは、問題や試練がない環境ではありません。子供にもいろいろな問題に直面する権利があり、問題にぶつかることで得るところがあるのです。

  私自身、ちょっとした辛さには価値があるということを体験しました。私の子供時代というのは、かなり幸せで、気楽なものでした。私は、疑問を抱く余地のないほど愛され、学校の成績で悩むこともありませんでした。実を言うと、辛かった2年間を除いて、これまでの生涯はずっと幸福と充実そのものでした。辛かったのは13歳から14歳までの時期で、その頃は、ここで述べたのと同じ激しい劣等感と自信喪失に悩まされ、まるで一斉攻撃を浴びているようでした。けれども不思議なことに、この2年間は、私の考える限り、大人として成長する上で何よりもプラスになったのです。他の人の感情の理解、人生で成功したいという願い、学業への意欲、劣等感を理解することやティーンとのコミュニケーションなどは、おもに揺れ動く思春期から生まれたものです。この2年間から何か役立つものが生まれてこようとは、誰が想像したでしょうか。それでも、こうした辛さが貴重な教師の役目を果たしてくれたのでした。

 

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  ある少年がいた。彼は話し始めるのが非常に遅く、両親は彼が異常であると考え、教師達は「落ちこぼれ」と呼んだ。クラスメイトからは避けられ、遊びに誘われることもめったになかった。彼は、スイスのチューリッヒにあった大学の入試に落ちた。だが1年後、再挑戦したのだった。その後、彼は世界的に有名な科学者になった。彼の名前は、アルベルト・アインシュタインである。

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  子供の時期に試練を全く経験しなかったなら、どうやって問題や挫折に対処することを学ぶのでしょう? 雨の多い森林地帯に生えている木は、水を吸おうとして根を深く張る必要はありません。したがって、根がしっかり下りていないため、ちょっとした強風でも簡単に倒れてしまいます。これに対して、砂漠に生えているメスキートというマメ科の植物は、厳しい環境によって生命を脅かされており、地下の冷水を求めて、地面から10メートルの深さまで根を伸ばさないと生き残れません。けれども、乾燥した土地に適応していくことを通して、その木に何かが起きます。この木はしっかり根を下ろし、あらゆる攻撃に対して強くなり、びくともしなくなるのです。このたとえは私たちの子供たちにも当てはまります。問題を克服することを学んだ人は、問題に一度も直面したことのない人よりも、しっかりしています。親としての務めは、子供への攻撃を全部取り除く事ではありません。子供の側につく信頼できる味方となって、落胆している時には励まし、うち勝ちがたいほどの脅威に面した時には助け船を出し、何よりも、障害を克服するための手段を与えてやる事なのです。

  劣等感は、人をつぶして無力にしてしまう事もできるし、あるいはあらゆる類いの成功と達成を促すエネルギーともなり得ます。チェスの前世界選手権保持者であるボビー・フィッシャーは、寝ても覚めてもチェスを読み、指し、考え、そして夢見るという意欲と気力をどこから得たと思いますか? テレビ番組の司会者マーヴィン・グリフィスがそれを質問したところ、フィッシャーは、「子供の頃、ある人たちから、お前なんかたいしたことない、と思われたのがバネになったんです」と答えたのでした。

  あなたのお子さんは、劣等感の重みでつぶされてしまうでしょうか? あるいは、それによって創造力と意欲をかきたてられるのでしょうか? お子さんは「隠れる」タイプですか? それとも「探す」タイプでしょうか? 答は、自分の欠点を補う技能があるかどうかにかかってくると思います。そして、もう一度繰り返しますが、それを見つける手伝いをしてあげるのが、親としてのあなたの務めです。あなたのお子さんには音楽が合っていて、その道に進むといいかもしれません。そういう子は大勢います。または芸術的な才能や、物を書く事や、機械的な技術を身につけたり、プラモデルの飛行機を作ったり、趣味と実益を兼ねてウサギを飼育する事などが出来るかもしれません。どれを選ぶにせよ、早い時期にその道を進ませ始めることが鍵となるでしょう!

  「高校でナンバーワンのテニス選手。」 父は、私が8歳の時にテニスをやらせることに決めました。私は全然乗り気ではありませんでした。というのも、それは大変な訓練を意味したからです。父はいったん私に何かを教えると決めたなら、もう一途(いちず)でした。私は、テニスとは練習であり、汗であり、手にまめを作ることだと知っていました。近所の子供とカウボーイごっこや、インディアンごっこをする方がずっとよかったのです。しかし、父は私にテニスをやらせたがり、私は父を尊敬していたので、その申し出を断ることなんかできませんでした。というわけで、数週間というものは、土曜日ごとにテニスコートで苦しみの時を過ごしました。父がボールを打つと、私がバシッと打ち返したボールはフェンスを越え、それを取りに行くという具合でした。意欲など全然ありませんでしたが、やる気のあるふりをしました。再びボールが真上に飛んでいくのを見て、「お父さん、僕、うまくなっていると思う?」と言ったのでした。

  それでも、1カ月程すると、だんだんコツをつかみ始め、ボールをうまく打ち返す度に、気分が良くなってきました。すると、ある日の午後、自分と同い年ぐらいの子がやって来て、試合をやらないかと言ってきました。そんなことは考えてもみませんでしたが、やってもいいじゃないかと思いました。それで1セットやってみたのですが、何と試合に勝ったのです。とても爽快でした! そのようにして、テニスがもたらす喜びを徐々に味わい出したのです。熱意という小さな火花が燃え上がって炎となり、それは今でも燃えています。高校と大学を通じて、テニスは私にとって自信の源となりました。思春期の試練の時期に「自分とは?」という文を書くように言われたとしたなら、「高校でテニスのナンバーワン選手です」と書き出していたことでしょう。もしも、父が私にやる気を植え付け、何か新しいことをやるようにという刺激を与えてくれていなかったなら、自分が何を逃していたかを知ることは決してなかったことでしょう。私に自信をつけさせてくれた父に心から感謝しています。あなたは自分の子供に何かをしてあげたでしょうか? 自信をつけることが、子供にとって劣等感に対する最上の武器になり得るのです。

 

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  父親が死んだ時、その男の子はわずか3歳でした。彼はこう言いました。「それで、私は素晴らしい母親の手で育てられたのです。母は、早くから現れていた製図の才能を延ばしてくれ、町の機械工場に行くよう勧めてくれました。」 けれども、ロバートは学校では成績の悪い生徒でした。教師は母親に苦情を言ったものでしたが、フルトン夫人は誇りをもってそれにこう答えたのでした。「先生、息子の頭は独自の発想でいっぱいで、学校のカビ臭い本の内容を詰め込むような余地など全くないんですよ。」「私はその時わずか10歳でした。そして、私の生れつきの機械好きを理解してくれたのは、母だけだったようです」とフルトンは言ったのでした。

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自由と責任!

  「追われる親達」という素晴らしい本の著者であるマルガリータ・ビーチャーとウィラード・ビーチャー夫妻は、私が紹介した考え方を初めに書き表した人たちです。夫妻は、親は子供から解放されなければならず、それによって、子供もまた親から解放されると述べました。少し考えてみて下さい。もしあなたが子供に責任を任せて自由になることができないなら、子供もまたどうしようもないほどあなたに縛られる、ということです! あなたはお互いを、成長を抑えつけるようながんじがらめの依存関係に締めつけてしまったのです。

  私は最近、ある母親から相談を受けました。彼女は、一人息子のデイビーが赤ちゃんの時に、夫を亡くしたそうです。それからは女手一つで息子を育てるという、とてつもない責任を負うことになり、この世界で彼女が心から愛したのはデイビーだけでした。彼女は、息子を完全に息詰まらせるという反応をしました。母親が私のところに相談に来た時、その子は7歳でした。彼は、独り寝をすることを怖がり、ベビー・シッターとも一緒にいたがらず、学校に行くのすらいやがりました。洋服も自分で着ず、行動はすべての面で幼稚でした。実際、私が母親と話している間も待合室で待たずに、私の部屋を探して、1時間もの間ドアの取っ手にすがりつきながら、しくしく泣いて部屋に入れてくれとせがんでいたのです。母親はこうした行動を、その子が、父親が死んだように母親も死んでしまうのではないかと恐れている証拠であると解釈しました。それゆえ母親は、以前よりももっとその子を縛り付け、自分の必要や欲求をすべて犠牲にするようになりました。デートにも行かず、他の男性を家に招くこともせず、自分のしたいこともせず、すがりつくその子を置いて大人の時間を持つこともできませんでした。このように、彼女は息子から解放されず、息子もまた、愛してくれるママから解放されることができなかったのです。

  あなたは子供に、年令にふさわしい自由と責任とを楽しむことを認めましたか? 子供が情緒的・身体的な困難を味わうのではないかと恐れて、自分の腕に縛り付けてしまっていますか? 子供があまりにもうるさく口答えするので、一生懸命やらせることを恐れていますか?

 

スパンク(お尻をぴしゃっとたたくこと)はいつ?

  質問:子供の行動で、責任能力がないためにやってしまうのと、反抗との違いがよくわからないのですが、教えていただけませんか? 親として、その違いを知ることがなぜ大切なのでしょうか? 

  答え:違いは子供の動機に関係しており、それは親としてどう対応するかを決めるうえで非常に大切なものです。ジョニーが食卓でふざけてミルクをこぼしたとします。わざとではありませんが、コップを倒してしまったのです。あるいは自転車を雨の中に置いて来てしまったか、教科書をなくしてしまったとします。こうした行動は、子供特有の責任能力のなさの結果であり、それ相応に扱わなければなりません。子供だからという理由だけでスパンクするのは間違っています。それよりもむしろ、こうした出来事を、子供にもっと責任感を持つように教える良いチャンスとするべきです。壊した物を直させたり、あるいは一時的に使わせない様にしてもいいでしょう。けれども私は、極度に危険な場合(例えば道路に飛び出したり、薬品戸棚を勝手に開けたりなど)は別として、間違いや、悪いと知らずにしたことでスパンクするのは間違っていると思います。

 

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  コミュニケーションは非常に大切です! 子供が無作法をした時にも、ただスパンクをするよりも、特にその事について話し合い、子供に自分の言い分を説明させ、話し合いで解決する方が良いのです! 子供がなぜそのような間違った事を行ったのかを知り出すようにして下さい。子供に罰を与える時には、必ず理解を示してやることです。

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  これとは対照的に、反抗的な態度は、子供独特の責任能力のなさとは全く異なったものです。反抗とは、強情で頑固であり、計画的で計算ずみであって、直ちに処罰に価するものです。

  一つ例を挙げましょう。もっとよくわかっていただけると思います。娘が5歳の時、クリスマスプレゼントにハムスターの赤ちゃんをもらいました。根っからの動物好きの娘は、このふわふわの小さな動物をすっかり気に入ってしまいました。ところが一度、よく世話がされていないことに気がついたので、私は、ケージの戸を閉め、餌と水をきちんと与えるように何度も注意しました。ある日のこと、私が帰宅すると、娘が泣き疲れ、赤く腫れた目をしています。案の定、ケージの戸を開けっぱなしにしていたため、ダックスフントのシギー(シグムンド・フロイト)が、ハムスターを天国へと送ってしまったのでした。ケージのそばで血を流して硬くなっている死体を発見して、娘は泣き崩れてしまったのです。

  私はこれにどう対処したでしょうか? ハムスターをきちんと世話するようにと繰り返し言い聞かせていたのに、娘はそれをしませんでした。それにも関わらず、このことで娘の過ちをとがめるのは正しくはないでしょう。私は娘を叱ることはせず、泣きやむまで抱きしめました。それからそっとこう言ったのです。「ダナエー、ハムスターをきちんと世話しないと、どういうことになるか話しただろう。でもおまえはほかのことを考えていたみたいで、ハムスターは死んだね。お父さんは怒ってはいないよ。おまえが意地悪していじめたわけじゃないから。でもわかってほしいことがあるんだ。ハムスターの世話をするように言ったのは、おまえが傷つくのを見たくなかったからなんだよ。今日みたいな思いをすることがないように、きちんと世話するようにしきりに言っていたんだ。これからも、お父さんがおまえに注意したり、教えたり、何かしなさいと言うことがあると思う。それは、おまえが傷つかないように守るためなんだ。お父さんはおまえの友達だ。そして、何かをしなさいと言うのは、おまえを愛しているからだし、おまえには気づかない危険もお父さんにはわかるからなんだよ。ちゃんと言うことを聞いたら、今日みたいな悲しいことはずっと少なくなるよ。」

 

思春期の順応主義!

 

  ピアー・プレッシャー(仲間からの圧力)。思春期ほど、集団の気まぐれ(群居本能と呼ばれている)に従うようにという重圧が強い時期はありません。集団内の行動から少しでもはずれようものなら著しく礼儀を欠くことになる場合、ティーンにとってこの傾向は非常に神経を使うものとなり得ます。その上、この重圧は苛酷です。もしもそのグループが、裾の広いズボンは流行遅れだと言ったなら、その意味を直ちに理解しない少年には災いが及ぶのです。もしも女の子がおかしな話し方や歩き方をすると、一日中、嘲笑の的となるかもしれません。ですからティーンはそれぞれ、こうした軽蔑から身を守るには、集団の設けた枠内に留まることが唯一の方法であることを知っています。十代というのは、情緒的な必要が大きく、最も自信に欠ける時期なので、非常にささいな事柄についても、多数派の意志を拒むような危険はあえて冒しません。

 

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  金と生存競争という自分のささいな問題に没頭するあまり、大人はしばしば若さというものが、つらい初体験と全くの悲劇だらけの、衝撃の時期であることを忘れてしまう。若さとは、みんなが見ていやがる顔のニキビ。若さとは、親が約束を破ったという究極の幻滅。若さとは、大人になるための訓練の場であり、独立を試してみる場と時。そして、試みと、失敗と、成功の場と時である。

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  ピアー・プレッシャーの影響については、ルース・W・ブレンダによるティーンエイジャーについての研究に良く表れています。彼女と研究員たちは、10人のティーンを部屋に連れて来て、視力を調べると言いました。この能力をテストするために、研究員達は、3本の線が引かれたカードを提示しました。線にはそれぞれA・B・Cの印がついており、研究員が順にそれを指差すので、1番長い線を指した時に手をあげるようにと言ったのです。

  指示は簡単で、何回も繰り返されました。「1番長い線を指した時に手をあげて下さい。」 けれども、一人の生徒だけは、他の9人が早く部屋に来ていて、2番目に長い線の時に手を挙げるように、と言われていたことを知りませんでした。目的としたことは、この一人の生徒に対するグループの圧力の効果を試すことでした。  実験が始まり、9人のティーンは2番目に長い線の時に手を挙げました。それを知らされていない生徒は、予想通りに周りを見回し、混乱して顔をしかめ、とうとうグループと一緒に手をあげたのです。指示が何度も繰り返され、次々にカードが挙げられます。この自意識の強い生徒はそこに座ったまま、何度も、短い線の方に手を挙げたのでした。単に、グループに挑戦する勇気に欠けていたからです。この驚くべき反応は75%の割合で起き、小さい子供でも高校生でも同じでした。ブレンダは、「ある人達は、正しい事よりも人気のある方を好む」という結論を出しましたが、それは正確な評価であると言えます。

 

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  真の勇気とは凧に似ている。逆風が吹けば吹くほど、もっと高く上がるからだ。

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  急に親のことが恥ずかしくなる。この主題を終える前に、ある事実を言っておきたいと思います。それは、思春期のピアー・プレッシャーが原因となって、世代間のひずみが生じたり、この期間に親からの影響力が減ったりする場合があるということです。私は、ティーンの子供が突如として親と一緒に行動するのを恥ずかしがるようになったため、「傷ついて」しまった親を見てきました。

  私の母はこの過程をよく理解してくれ、それをうまく利用したのでした。中学3年生の時、私は、仕事をしたり家の手伝いをしたりするよりも、学校でぶらぶらしている方がよっぽど面白いことに気づきました。ですから、その1年間というものは、遊び回り、笑いこけ、先生達をイライラさせたのでした。けれども、母の目をごまかすことはできませんでした。どこから聞いたのかわかりませんが、私がうわついた行動を取るようになったことを知ったのです。ある日のこと、母は私を座らせて言いました。「おまえが学校で何をしているのか知っていますよ。遊び回って問題を起こしていることも。でも、このことについては何もしないことに決めました。おまえを罰したり、脅したり、校長先生に電話をかけたりもしません。でも一度でも学校から呼び出しがあったら、次の日に一緒に学校へ行きます。授業中ずっと一緒にいて、隣の席に座りますから。おまえの手を握って、一日中つきまといますよ。この約束をちゃんと覚えておきなさい。」

  みなさん、信じて下さい。これで私は素早く立ち直りました! こわいママが学校の廊下で私の後をついて回ったなら、私にとって社会的な自殺行為になっていたでしょう! 叩かれても構わないけれども、学校にだけは来ないでほしい、ということだったのです。きっと先生達は、どうしてその年の後半に私の振る舞いが驚く程良くなったのかと、不思議に思ったことでしょう!

  要するに、ティーンになる前の子供にとっては、ピアー・プレッシャーが頂点に達する前に、それについて知っておくことが大切なのです。いつか、あなたの息子が友人4人と車に乗ったら、友人はヘロインを打つことにした、ということが起こるかもしれません。こうした危機に際して、あなたのした備えが、息子さんが一人で立ち向かう勇気を出せる保証になるかどうかはわかりません。しかし、彼がピアー・プレッシャーについて知っていれば、正しいことをするのに必要な自立心を与えるのです。

 

落胆した大人へのメッセージ!

  人は、誰かの問題を助けるために忙しくしている時程、自分の必要や問題に悩まされることが少ないということを、私は何度も見てきました! 一生懸命に他の人の重荷を負い、その人の問題への答を求めている時には、自分の問題にどっぷりつかることはできません。人生に欺かれ落胆している皆さん、私は皆さんに、意識的に他の人を助けるのを常とするよう、お勧めします。病人を見舞って下さい。隣りの人に何かをしてあげて下さい。車のない人には、車で送り迎えをしてあげて下さい。そしておそらくこれは何よりも大切なことですが、良い聞き手になることを学んで下さい。世の中には、あなたのように孤独で、落胆している人が大勢います。あなたは、彼らに同情してあげることができるのです。そうしている内に、自分は役に立たないという思いなど、必ずや消えて行くはずです。

 

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  自分のことを考えるのをやめなさい! 自分のことなんか忘れてしまいなさい! 他の人のことを考えなさい! イエスに心を留めなさい! そのたぐいの問題に効く一番の治療法とは、昔ながらの仕事療法、つまり他の人への愛と、主への愛を行動に移すことだ!

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  もし私が、自己を低く評価している何百万人もの大人を象徴する漫画を描くとすれば、うなだれ、くたびれた旅人を描くでしょう。その肩には、何トンものくず鉄や古タイヤ、そしてあらゆる種類のがらくたがつながった、長さ1キロの鎖をかけます。そして、がらくたの一つ一つには、失敗、恥、人から拒絶された過去というような屈辱を示す言葉が一つ一つ刻まれています。鎖を外して、自分をがんじがらめにし、へとへとにさせている重荷から解放されることもできるのに、どういうわけか、一生がらくたを引きずって行かなければならないと思いこんでいるのです。

  鎖を外しさえすれば、その重みから自由になることができるのです。あなたの劣等感は、子供っぽい目を通して見た、ゆがんだ現実に基づいています。あなたが以前、自分を評価していた基準自体、移り変わっています。「心理的通信機構」という本を書いた整形外科医のマックスウェル・マルツ博士によると、1920年代に病院を訪れた女性患者は、胸を小さくして下さいと言ってきたのに、今ではシリコンで豊胸手術をして下さいと要求すると言っています。これは虚偽の価値観です! 聖書の雅歌で、ソロモンは花嫁に向かって、「私をご覧にならないで下さい。私は日に焼けて黒いのです」と言っています。彼の時代では、色白の肌が良いとされたのです。しかし現在では、肌を褐色に焼くのが良いとされています。ソロモンが今いたなら、ビーチの王となっていたことでしょう。これも虚偽の価値観です! 今日、女性達は、ちょっとぜい肉がついていると恥ずかしく思います。でもレンブラントなら、まるまる太った肉体美を喜んで描くでしょう。これもまた、虚偽の価値観ではないでしょうか? 人間の価値は、他人の意見や、それが表す一時的かつ変動的な価値観によっては決まらない、ということがおわかりでしょうか? 自分の価値を受け入れることができるのが早ければ早いほど、自分という人間に甘んじることができるのも早くなります。ある作家は、「自分の外面を保とうとする一方、内面を克服してはどうだろう」と言いましたが、私もその言葉に心底同意します。なかなか良い考えだと思います。

 

同調!

  アメリカ最大の神話の一つは、徹底した個人主義の国であるということです。この点で、私たちは全くだまされています。私たちは自分自身を、アブラハム・リンカーンやパトリック・ヘンリー、あるいはたとえ孤立無援でも勇敢で堂々としているカウボーイのようであると考えるのが好きです。しかし、こうしたイメージは、私たちのほとんどと非常にかけはなれています。実を言うと、私たちは、社会的な臆病者の国です。私からしてみれば、ほとんどの人は、真に個性を持つ人間になることを恐れ、尻込みし、みんなと同じようになることに大部分のエネルギーを費やしているように見えます。

  すると、劣等感からの反応として周りと同調すること自体が、人格パターンとなって表れるわけです。そういった態度を取る人達は、玄関マットのように社会的にみんなから踏み付けられ、自分の意見を言うことを恐れます。そして、確信や信仰を犠牲にしてまでも、みんなから好かれようとするのです。思春期の男女にとっては、すでに述べたように、10年かそこらの間は、周りに同調しようという思いが彼らの行動のほとんどを支配します。従って、思春期の男女の行動は、人から人へと移る、最も伝染性のある現象と言えます。

  例を一つ挙げましょう。昨年のことですが、十代の少年少女の聖歌隊が、舞台で「合衆国賛歌」を歌っていました。ところが一番盛り上がったところで、前列にいた子供が気絶して倒れてしまったのです。指揮者はかまわず演奏を続けましたが、気絶という暗示は、52人の多感な頭に刻み込まれました。バターン、と二人目が倒れました。バターン、バターンと、もう二人倒れました。強迫観念が野火のように広がりました。もう5人のヴォーカリストが顔面蒼白になり、傾いたかと思うと、後列から姿を消しました。曲の最後の「グローリー、グローリー、ハレルヤ」に来た時には、20名の合唱団員が床で意識を失っていたのです。みなさん、まさにこれが、周りとの同調というものです!

 

ハンディを乗り越える!

  ある人がこう言いました。「私たちは、自分が思っている通りの人間ではなく、人が思っている通りの人間ですらない。私たちは、人からこう思われているのではないかと思う通りの人間なのだ。」 この言葉には偉大な真理があります。私たちは一人一人、自分は人からどう思われているかを考え、しばしば、その通りの役割を演じるのです。これで、私たちがどんな人たちと一緒にいるかによって、非常に違った「顔」を装う理由がわかります。ある医師は、患者に対してはにこりともしない専門家であり、患者のいるところでは控え目で賢明な行動をとるかもしれません。患者は医師をそのようにとらえ、医師もそれに応じて行動します。しかし、その日の夕方、彼を青春期の変わり者として覚えている大学時代の友人と再会するとします。彼の性格は180度転換して全くの別人のようなので、それを見たとしたら、患者は驚いてしまうでしょう。同じように、私たちの大半も、人からこう思われているだろうと思う通りの人間となるのです。

  ハンディを負っていても、それを克服して、自信をつけた人は、何万人、いや何百万人もいます。最も典型的な例を、元大統領夫人エレノア・ルーズベルトの生涯の中に見ることができます。10歳で孤児となった彼女は、苦悩に満ちた子供時代を送りました。決して美人ではなく、特に親しい人もいませんでした。ニューハウス・ニュース・サービスのビクター・ウィルソンによると、「彼女はユーモアのない内向的タイプで、信じられないくらい恥ずかしがり屋で、自分は欠点だらけだと思いこみ、自分に対する不安感を克服できない若い女性だった」ということです。しかし、世界中の人々が知っているように、ルーズベルト夫人は感情面での束縛を克服しました。ウィルソンが述べているように、「ルーズベルト夫人は、内面から沸き上がる泉のようなものから、断固とした負けることのない勇気を得、驚異的な自制心と自己訓練によって、自分を制したのです。」 その「内なる泉」とは、ハンディを乗り越えることでもあります。

 

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  あるイギリス人青年がいました。彼は、他の学生達から「にんじん頭」と呼ばれ、何人かの教師からは「成功の機会」を殆ど与えられていませんでした。成績はクラスでも後ろから3番目。平均点は、英語95%、歴史85%、数学50%、ラテン語30%でした。

  内申書にはこうあります。「この生徒は優秀なタイプではなく、同じ学年を2度繰り返しました。時々頑固で反抗的になります。ごく機械的な面を除いては、学校の勉強に対する理解度は、ゼロに近いでしょう。学習能力に関しては、異常とも言えるほどです。彼は、自分に与えられた機会を最大限に用いてはいません。」

  後に、その若者は真剣に勉強に取り組むようになり、間もなく世界中で、ウィンストン・チャーチルの名が知られるようになったのでした。

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  明らかに、障害に対してどんな態度を取るかで、その人の人生に与える影響が決まります。貧困が犯罪の原因であるとか、離婚家庭が非行児童を生み出すとか、病める社会は若者に薬物中毒をもたらすとか言って、無責任な行動を環境のせいにする傾向が広まっています。このような間違った理由づけは、個人の肩からすべての責任を取り除いてしまうものです。こうした言い訳は無意味です。私たちは、内的な劣等感と外的な困難にどう対処するかを、各自、決めなければならないのです。

  正直なところ、不利な障害に打ち勝つには勇気が必要です。それを克服するにはガッツが必要で、中には普通よりももっとガッツが必要な人もいます。自己憐憫にふけったり、麻薬に走ったり、世の中を憎んだり、現実から逃避したり、内向的になったり、妥協したりするほうが、ずっと簡単です。けれども、最終的にどんな行動に出ようと、それを選ぶのは自分であって、誰もその選択を取り去ることはできません。困難や障害が、私たちの行動を決めてしまうわけではないのです。でも、それらは明らかに私たちの行動に影響を及ぼします。

 

子供に親切になることを教える!

  子供に、互いに仲間を尊敬することを教えることはできるでしょうか? 確かにできます! 若者は大人よりずっと感受性に富み、思いやる気持ちを持っています。子供が弱者や自分よりも立場が悪い人に対して破壊的なのは、私たち大人が、互いに人の気持ちを「察する」ことを教えなかったからです。

  一つ例を挙げましょう。私の懸念をわかっていただけると思います。ある婦人が、4年生になる娘のクラスで助手をした時のことを話してくれました。彼女は、バレンタインのパーティーで先生を手伝うため、教室を訪れたのです。(前にも触れたように、バレンタインデーは、人気のない子供にとっては1年で一番つらい日です。生徒はみな、自分にどれだけ社会的価値があるかの直接的評価として、バレンタインプレゼントの数を数えるのです。) 教師は、男子・女子に分かれてゲームをすると言ったそうです。それが先生の最初の間違いでした。というのも、4年生は、異性に引きつけられるという、楽しいホルモンの分泌がまだないからです。先生が相手を選ぶよう生徒に指示するやいなや、男の子達はみな大笑いをして、教室の中で一番パッとしなくて、一番人気のない女の子を指したのでした。その女の子は太って、出っ歯で、人の目を見ることもできない程内向的な子供だったのです。

  みんなが、「ヘイゼルと組ませないでよ!」と馬鹿にした調子で言いました。「他の子ならいいけど、ヘイゼルはだめだよ。ばい菌をうつすんだよ! ゲーッ! どうかヘイゼルに当たりませんように。」 その母親は、厳しいことで有名なその教師が攻撃の的となった少女を助けに行くのを待ちました。ところが、がっかりしたことに、先生は侮辱を加えている男の子達には何も言わず、代わりに、ヘイゼルを孤独というつらい状況に放っておいたのです。

  同性からからかわれるのも悲惨ですが、異性から拒絶されるのは、自己イメージに大なたを振るうようなものです。このように打ちのめされた子供にどういう答ができるというのでしょうか? 9人の攻撃的な男の子に対して、太った4年生の女の子がどうやって身を守ることができるのでしょうか? 神が全世界の所有物よりも愛しておられるこの子供は、この瞬間を(または助けが必要だった時に彼女を見捨てた先生を)決して忘れることはないでしょう。

 

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  子供は、多くの点で大人よりもはるかにずっと傷つきやすい。経験がないので、色々な事を理解できないのだ! だから、子供は大人よりも、もっと注意深く、優しく、思慮深く扱われないといけない。

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  もし私が宿命的なバレンタインデーの日にこのヘイゼルの教師だったとしたなら、彼女をからかい、冗談を言った子供たちをただではおかなかったことでしょう。もちろん、学校の第一日から他の子供の感情を思いやる事について話し合って、こうした侮辱を防ぐことができれば、それに越した事はありません。けれども、あのような衝突が起こって、ヘイゼルの自我が、突然皆の目に見えるかたちでズタズタにされてしまったならば、私は自分の教師としての権威をすべてつぎ込んで、彼女の味方になるでしょう。

  彼女をからかい、冗談を言っている子供達に対して、私はたぶん、とっさにこのような反応をしたことでしょう。「ちょっと待ちたまえ! 君たちはいったい何の権利があって、ヘイゼルに対してこんな意地の悪い、不親切なことをするんだい? 君たちの中で誰にもからかわれることのない完璧な人間は、何人いるのかな? 先生は君たちをよく知っている。君たちの家庭のことも、学校の成績も、個人的な秘密も知っている。クラスでこれらのことをみんなの前で話し合い、たった今ヘイゼルにしたように、みんなで笑おうか? 先生はそうしようと思ったらできるんだよ! みんなを穴があったら入りたいようにさせ、絶望に陥れることもできる。だが、先生の言うことをよく聞きなさい! 君たちは何も怖がることはない。先生は君たちをそういうかたちで恥をかかすようなことはしない。どうしてかって? 自分の友達に笑われることくらい傷つくことはないからだ。それは足の爪先をぶつけたり、指を切ったり、蜂に刺されたりするより痛いんだよ。

  先生はさっきまで人をからかって楽しんでいた君たちに言いたい。友達仲間から同じようにからかわれた経験はあるかい? もしなかったとしたら、しっかりと覚悟しておきなさい。いつか君の身にも起こるから。君たちも何かばかなことを言うことがあるだろう。そして友達から指さされ、人前で笑われるだろう。その時、今日の出来事を思い出してほしい。」

  (それから、クラス全員に向かって:)「今日の午後ここで起きたことから、何か大切な事をしっかり学ぶようにしよう。まず第一に、このクラスでは互いに意地悪をしないようにしよう。何かおかしいことがあったら、みんなで一緒に笑おう。でもそれが、誰かを傷つけるようなことにならないようにしよう。第二に、私は、このクラスの誰をも辱めるようなことは決してしない。それについては安心していなさい。君たち一人一人は神様の子供なんだ。神様は君たち一人一人を愛の御手で造られた。そして、神様は私たちが人間としてみな同じ価値を持っている、と言われた。つまり、スージーがチャールズやメリーやブレントよりも優れているわけでも、劣っているわけでもないという意味だ。君たちは、人より大切な人もいれば、あまり大切じゃない人もいると思っているようだが、そうじゃない。君たち一人一人は、神様の前にかけがえのない存在だ。君たちはそれほど価値があるんだよ。神様はこのクラスにいる君たち一人一人を愛しておられる。だから、私もまた、君たち一人一人を愛している。神様は私たちがみな互いに親切であることを望んでおられる。この学年の残りの期間、この親切を実行しようじゃないか。」

  しっかりした愛情のある教師が、今言ったようにクラスで人気のない子供を助ける時、教室の雰囲気に劇的な変化が起こります。子供達みんなが、ほっと溜め息をつくようです。「もし太ったヘイゼルがからかわれなくなるんだったら、私も安心だ」という、共通した思いが小さな頭の中を駆け巡っているからです。教室で一番人気のない子を守ることによって、教師が示しているのは、第一に、教師はえこひいきをしないこと、第二に、みんなを尊重していること、第三に、不公平に扱われた生徒のために戦う、ということです。これらは子供達が最も高く評価し、彼らの精神衛生に役立つ3つの徳なのです!

 

唯一の真の価値!

  ここで私たちは、肉体的な魅力や頭の良さや富を、人間の価値を決める要素として認める事を拒否したのですから、それに代わるものを今決めなければなりません。

  親が子供に対してできる最も大切なことは、神への純粋な信仰を教えることにある、と私は信じています。全宇宙の創造主を個人的に知ることほど、人間に深い満足を与えるものがあるでしょうか? 神は、全世界が所有するものにも増して、自分の価値を認めて下さっていること、恐れや心配を理解して下さること、誰も顧みてくれない時でも計り知れない愛をもって気づかって下さること、ご自身のひとり子を自分のために与えて下さったこと、自分のマイナス面をプラスに、空しさを充実へと変えてくださること、この人生の後にはより良い人生があること、そして現在のハンディも欠点もなくなること、さらにこの世の苦痛や苦難は、単におぼろげに記憶に残るだけだということを教えるのです!  試してみて下さい。きっと気に入るでしょう!