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ティーンエージャーとうまくやっていこう

−−親とティーンエージャーの関係について励ましとなる見方

−−ジェイ・ケスラーによる

 

  この本は、親とティーンと楽観主義について書いてあります。そして、ティーンたちが自分の両親を愛し、尊敬し、従うことは時代遅れではないという信念に基づいて書かれています。多くのティーンもまたそう信じています。

  ある時、私はこの事をしみじみと実感しました。私が子供達とクリスチャン・キャンプで働いていた、ある午後の事です。私はキャンプから抜け出して自分の車の中で野球放送を聞いていました。シカゴカブスの試合を聞いていると、ティーンの男の子たちが車の後ろに集まって来ました。彼らは、ただ立ち話をしているだけでしたが、その若者の中の一人の父親がむこうから歩いてきました。彼は、典型的な父親でした。テレビによく出てくる完壁なアメリカの父親のイメージとはほど遠いものでした。40代半ばで、あかぬけないかっこうをし、太り気味で、かすかに剥げており、心配そうな顔つきをしています。その人は、自分では気づいていなかったかもしれませんが、ティーンが直面する状況の中でも最も難しい状況を作りだしていたのです。つまり、ティーンが友達と一緒にいる時に、自分の両親が近寄ってくるという状況です。これは本当に厳しい立場です。その少年は静かにこうつぶやく事でしょう。「僕が笑い者になるようなことをしないといいけど」、または「ああ、お父さん、恥をかくような事をしないようにしてよ」とか、「やだなあ、今、僕たち家族全員の評判が危機に瀕している。」 というわけで、私の注意は野球の試合よりもこの状況に引きつけられていきました。

  この父親は近寄ってくるなり、私がルール違反だと考えることをしました。つまり、ほかの少年たちは無視して、自分の息子とすぐお金の事を話し始めたのです。父親は、自分が与えた金を全部使ってしまったのか、というような事を息子に聞きました。この話題は年若な息子との間のかなり繊細な問題です。自分の父親が小さな事で息子を信頼していないように見える時には。ほかの少年たちの前で、その父親が17歳の息子に忠告を与えるのを聞いた私は、後ろに倒した座席にもたれかかり、思いました。「何てことだ。この父親はへまをやらかした。何て無知な父親だ!」

  父親は去って行きました。その父親が自分たちの声が届かない所まで行ってしまうと、少年の一人がその息子に言いました。「ふーん。あれがおまえんとこのじじいなのか。」 若者は、真っすぐに立って、その友達を見てこう言いました。「じじいじゃない。父さんだよ!」 私は座席から身を起こして考えました。「父親がどんな人間であろうと、どんな地位にあろうと、そうやって子供が父親を堂々と弁護してくれること、それこそ私の望むところだ。この世界に価値ある目標があるとしたら、それは、こういう息子を持つ事だろう。友達の前で、私のことを自分の父親だと言わないほうがずっと都合の良い時にでも、彼らの前で堂々と私の事を父親だと認め、たとえ、私が少しまぬけな事をしたとしても、『僕の父さんだ。』と言ってくれる息子を。そのような息子は、親が持てる最高の賜物だろう。」

 

二つの世代が衝突する時

  マーガレット・ミードによれば、第二次世界大戦前に生まれた人は誰でも、この惑星における異星人であり、それ以後生まれた人が本当の地球人であるということです。第二次世界大戦以後、この世界では非常に多くの事が起こり、非常に多くの変化が起こったため、この世代に生まれ育ったのでなければ、この世界でくつろぐことなどできないというわけです。

  ある日カリフォルニア行きの飛行機の中で隣り合わせた73歳の老婦人の事が思い出されます。機内で彼女は私に若い人について話し始めました。最初のうちは、私はよく人々がお年寄りにするように、うまく彼女に調子を合わせて聞いているだけでした。しかし、突然私は彼女の言葉に心を奪われてしまったのです。

  「ええとね、若い人と年寄りの違いが何か言いましょうか。それはね、見方ですよ。どのようにこの世界を見るか、の違いなんです。」

  「どういう事ですか?」 興味をそそられた私は聞きました。その婦人は、小さな汚物処理袋を取り出して、その上に四角を書きました。「この四角を73年間の人生だとしましょう。」

  それから、彼女はその袋の上に書いた四角の中に、その5分の1に当たる小さな丸を書きました。13(419)  

「これが最近の15年間をあらわしているとしましょう。さて、ここに73年間の四角があります。この小さな丸はここ最近の15年間です。あとにどれだけ残っているか見てみましょう。

  これが私の持ち分です。私の73年間の人生から、この15年に起こった出来事を取ると、残りはすべて私が持っているという事になります。その部分は幸せと経験と楽観で満ちています。それに、私も世界も、二つの大戦とその他すべての騒動を生き延びてきたのです。

  この残ったものが希望と呼ばれるのです。たった17年の大きさの四角しかない子供のことを考えてみましょう。その子はわずか17歳です。その17年の四角に、この最近の15年間分の丸を書き入れます。その15年はずっと、かなりひどいものでした。そうすると、残りはあまりありません。最近の15年が17年のほとんどを占めてしまっているので、希望もあまり残っていません。なぜなら、17歳の子は、この世界が、こうしたすべてのひどいことを乗り越えて存続していくということを知らないからです。その子は歴史の感覚を持っていないのです。楽観的見方を欠いているのです。でも私たちは持っています。」

  このような信仰こそが、子供を育てるという機会にあずかる時に私たちが持つべき信仰です。もし私達がこの73歳の婦人と同じような楽観的希望を持てるなら、子育てにおいて成功することは間違いありません。その信仰は、若い世代とより年老いた世代の間の衝突を乗越えていく助けになるでしょう。

 

おまえがどんな気持ちかわかるよ

−−でも、本当にわかっているのだろうか?

 

  私達は人によくこう言う傾向があります。「君がどんな気持ちかわかるよ。」「彼が頭の中で、今何を考えているか私には分かるわ。」

  しかし実際には、誰かほかの人の頭の中で何が起こっているかが真に分かる人など誰一人いないのです。自分のある特定の経験から一般論をはじきだし、若者も同じことを考えたり、感じたりしていると言うことはできません。ですから、ティーンを理解するためのルールの一つは、若者が何を考えているのか常に尋ねることです。

  親が若者の状況にいたとしたらどう反応するだろうかということは、全く大切ではありません。当事者である若者がどう行動するか、どう反応するか、どう感じるかが大切なのです。つまり、親は若者がどう感じているかを理解しようとすべきで、親が若者の状況にいたとしたらどう感じるだろうかということは大切ではありません。この二つは全く別のものです。

  私達の子供は私達自身の延長線上にいるのではありません。子供は全く別個の人間なのです。私達が彼らに生命を与えたし、自分達の家で育てているには違いありませんが、子供は自分と異なった人であって、私達の人格の単なる延長ではないのです。

  ある時、ティーンエージャーが私に聞きました。「何か、ドリブルよりも大事なことってないの?」

  「どういうことかい?」

  「あのね、僕はいろいろな事をかなりうまくやるんだ。でもドリブルは上手じゃない。僕の父さんはまるで、人間のやる事で大事なのはドリブルすることだけだと思ってるみたいだ。父さんは前にバスケットの選手だったからね。僕をバスケットの選手にさせたくってやっきになってるよ。」

  ドリブルや、優等生名簿に載ることよりもっと大切な事があります。ですから、私達が、自分の子供達を自分の決めた目標に向かわせようと強いるなら、是非とも伸ばさなくてはならない資質を見逃してしまうことになるでしょう。その資質とは、感受性、両親への愛、他の人への思いやり、探求心、学習心、または責任ある大人になりたいという願望などです。これらは、子供達が40歳になった時に、すっかりぼろぼろになった、高校からもらった最優秀選手のセーターを持っている事よりも、もっともっと価値があります。子供をあるがままに受け入れてあげましょう。

  クリスチャンとして、私達は、一人一人神によって創造され、それぞれ何かの任務を授かっていると理解する義務があります。このことを友人や見知らぬ人に応用する時には全く問題なくとも、私達自身の子供達についてこのことを受け入れるのは、しばしば難しいものです。

  根本的には、私達の子供たちも、他の誰もが持っているのと同じ権利を持っています。選択の権利、神を喜ばす権利、神に従わない権利、天国を選ぶ権利、地獄を選ぶ権利という具合に。悪を選ぶ権利というのは、この地球のどの個人にも、自分の子供にさえも与えられている権利です。これは受け入れにくいことでしょう。私達は子供に影響を与えて、子供が良いことだけを選ぶようにさせたいと思います。しかし、無理矢理子供に善を選ばせようとするなら、私達は、神ご自身がしないと決めておられるまさにそのことをしていることになるのです。

  神は人間一人一人に選択という重い責任を与えられました。この責任と自由は私達の子供にも与えられているのですから、自分の子供を守りたいという正当な願いにかられた親が子供には選択の自由を与えないことをどんなに願っても、子供にもやはり選択の権利があるのです。

  若い人が自分の親について最もよく口にする事は、「両親は私を信頼してくれない。」というものです。この感情は相談室で親と若者との間に大きな緊張を作り出します。若者はこう言います。「もし親が自分達を信頼して自分で物事をするチャンスを与えてくれないなら、何年にもわたって教えられてきたことを自分達が学んだと証明出来る訳がない。すべて予行演習をしているようだ。真剣勝負じゃなくて、すべてがただの練習なんだ」と。

  賢い親は、子供のために決断する状況を作ってやり、徐々にその回数を増やしていきます。それによって若者が、成長するにつれてより大きな決断を下すのを学ぶようにです。時間通りに帰宅することや、お金の扱いについて、また本当のことを言うことなどにおいて信頼されることは、若者が社会に出て真剣勝負をしなくてはいけなくなる前に練習が必要なとても大切な事柄です。

  一般に、若者は私達の期待に応えようとするものです。もし私達が彼らにあまり期待をかけず、彼らは信用できないと考え、彼らが常に保護観察下に置かれ、疑いをかけられているかのように扱うならば、彼らはたいてい、それに見合った振る舞いをすることでしょう。私は実際、若者がこう言うのをよく耳にします。「ふーん。両親が僕のことをそんなふうに考えているなら、僕はきっとそのような者になるんだろう。」

  キャンプでのある日、少年が私のところにやってきました。彼の父親には会ったことはありませんが、その父親は確かに誉に値する人物です。

  「とってもおかしなことが僕に起こったんです。」と、その少年は私に言いました。「僕は父さんの車を借りて乗り出し、本当に馬鹿な事をしてしまったんです。道路を走っていって、充分に注意を払わないでいました。突然、僕は踏み切りのところにいて、列車が車に向かって走ってきてたんです。かろうじて踏み切りを渡り切りましたが、どうやって命を取り留めたのか自分でも全くわかりません。

  もう少しで列車がぶつかってくるところだったのです。僕はとても怖くて、車を道路の脇に止めると、ただそこに座って祈るだけでした。死ぬほど怖い思いをしました。

  それから家に戻ると、父さんに車の鍵を渡しました。

  『父さん、もう僕に車を貸さないほうがいいよ。僕はまだそれだけの責任を持てないんだ。』 そう僕が言うと、父さんはどうしたと思いますか?全く不思議なことに、父さんは僕に鍵を返してよこし、こう言ったのです。

  『おまえはとても大切な教訓を学んだわけだから、前よりもっと信頼しておまえに車を貸すことができるよ。』 どうして、父さんはこう言ったんでしょう?」

  私はとても感動して答えました。「そうだね、君のお父さんは、自分も人間であることを認めているんだ。すべての父親、すべての運転手はね、みんな君と似たような経験を持っているんだよ。正直に打ち明け、みんなが学ぶべき教訓を学んだ息子に報いてくれるとは、素晴らしいお父さんだねえ。」

  私はこういう友達も知っています。自分の子供達が車の運転を習う時、彼はこう言うのでした。「初めて交通違反をした時の罰金は、お父さんが払ってあげよう。その後は自分で払うんだよ。」 これも、前の父親と同じ考え方です。

 

私の息子は大学へ行って、だめにされた

  今日、ティーンを扱っている人すべてが明らかに持っていると思われる大きな問題があるとしたら、それは、親が若者に怠慢であることではなく、親が過保護になって子供の自立を妨げる傾向にあることででしょう。この最も典型なのは、親がこう言う時です。「私の息子は、大学(または軍隊)へ行ったら、そこでだめにされてしまいました。」

  実のところは、若者が家を離れて、つっかい棒がはずされたので、彼本来の者になったというわけです。若い人も選択をする権利を持っており、私達は、若者を守って選択をさせないでいることはできません。親子関係で最も基本的な事柄は、子育てとは子供の依存心でなく自立心を伸ばすことであると理解する事です。

  ちょうど、こまどりの母親がひなを連れて、少しずつ巣から遠くへと円を描いて飛ぶように、私達も巣である家からだんだん大きな旅へと、若者に機会を与えなければなりません。

  初めて家を出るのが、大学に行くなど、大きな別離となる経験であるなら、若者は本当に困難な状況に置かれることでしょう。それはまるで、こまどりの母親が、小さなひなの初体験として、近所のネコと顔を合わさせるようなものです。しかし、こまどりの母親はそうはしません。最初は、安全な近くの木の茂みまで連れて行くだけです。10代の頃の、安全な一泊だけの短い旅は、それと同じようなものです。

  私の子供の中には、お金がうまく扱えない子がいます。私達は、特定のものにかかる分のお金だけをその子に持たせて学校へ送りだします。他の子供には、「お釣りは持って帰りなさい。」と言って5ドル紙幣を渡しても平気ですが、その子にはそれができません。しかし遅かれ早かれ、私は5ドルをその子に預ける危険をおかさなければならないでしょう。彼の昼食代は2ドル40セントだから、5ドルをその子に渡せば2ドル60セントを失ってしまう危険があるわけです。

  この事は、実際そんなに費用をかけないで、責任感や、大人のように責任のある行動をする機会を子供に与えるきっかけとなるでしょう。もし、いつまでもぴったり2ドル40セントだけしかその子に持たせないなら、私はその子の成長の機会を取りあげてしまっていることになります。

 

にきびなどの悩み

  賢い親なら、高校時代に子供が直面する生理学的な問題に気がつかなければなりません。女の子は、少なく見積もっても、この面で男の子と同じくらい大きな問題に直面していることでしょう。マディソン・アベニュー(広告業)は、美しい女性の容姿に関する固定観念を作り出してきました。サイズは91-56-90センチ、身長は165センチぐらい、歯は、セックス・アピールがあり、特定の種類の服を身につけ、知る人ぞ知る風情がただよっているというわけです。もし、あなたがたまたま、58-56-58センチのサイズで身長が173センチあり、自分をほうきの棒のように感じている娘を持っているとした

ら、あなたは彼女が何やらほかに問題を持ち始めている事に気がつくことでしょう。彼女は自分の部屋に閉じこもりがちになり、あなたは彼女にこう質問するでしょう。「どうしてそんなに沈んでるの? どうして友達を家に連れてこないの?」

  大方の高校は、一般的な型にはまらない子供に対してはとても残酷な場所ですから、賢い親はそういう子供を特別に励ましてあげる努力をしなければなりません。

  また、ほかの生理学的な問題も考慮に入れましょう。十代の頃は、性的に目覚めてくる年頃でもあります。加えて、油性肌、ホルモンのアンバランス、にきび、太り過ぎなどの悩みがあります。十代の頃には、こうしたすべての影響を受けるのです。

  このような問題のほとんどは、成長と共になくなっていくものですが、子供達にとっては本当に無気味な脅威です。

  娘が同窓会ダンスパーティーのクィーンの一人に選ばれるほどの美貌を備えてはいないと気がついたら、母親は、おそらく彼女に裁縫、料理、公の場での礼儀作法などを教え始めるのが賢明でしょう。礼儀正しさなどの面で彼女を褒めるのす。何かに優れるために、肉体的な美しさは必要ないということを示してあげることです。

  子供は、親の持っている、子供はこうあるべきというイメージに自分がそぐわないと感じて緊張感を抱くことが多いようです。子供をありのままに受け入れ、子供が変わることのできる面で変わるのを忍耐強く助けてあげること、また、何はありのままに受け入れるべきで、何は変わることができるかを教えてあげるのは、親にとって大きなチャレンジです。

  問題をずばり指摘したり、叱ったりするなら、変われる可能性のあることでも変われなくなってしまいかねません。良い振る舞いの手本を見せてやり、子供が良い振る舞いをした時に、ほめるなどして良い振る舞いが習慣になるよう助けていくなら、良い変化が現れてくるものです。「口で何と言おうと、実際の行動のほうがはるかに影響力を持つ。」、「説教よりも手本」とよく言われますが、それは真実です。永続する価値を子供達に教えるのは、非常に知恵を要する仕事です。

  あなたの娘は、母親が幸せで充実した女性であるのを見るなら、女性である事の意義をもっとよく理解する事でしょう。夫が妻に愛情や尊敬を示し、また機会あるごとに、妻のことを認め、妻の良いところをほめてやるなら、妻は幸せで充実してくるものです。男の子についても同じ事が言えます。修理修繕の仕事や大工仕事などをさせてもらったり、父親が責任を持ってそういう仕事をするのを見たりしていると、彼らもそういう仕事ができるようになり、男らしさを増していくのです。

  子供達の振る舞いをどうやって変えたらいいのでしょうか? 例えば、男の子のテーブル・マナーが良くないと感じると、私達は、その子にあれこれがみがみ言うこともできます。話す前に食べ物を噛みなさい、噛んでいる時には口を閉じていなさい、フォークをハンマーみたいに持たない、水をこぼさないで、などなど。食事のたびに、こうしたやり取りが繰り返されるのです。

  しかし、赤面させられることですが、子供達はかなりの面で私達自身の食事作法をまねているものです。このことは子供達の大方の振る舞いにも言えることです。子供達は、私達が異性とどう接するかを見ながら、異性との接しかたを学んでいきます。彼らは、私達がほかの人種をどう扱うかもまねることでしょう。また、私達が面白いと思うものから、何が面白いのかを学んでいくのです。さあ、あなたは子供にどのような手本を示しているでしょうか?

 

スキンシップ

  父親が娘とスキンシップを持つのは特に大切です。とりわけ中学生の少女には子猫のような一面があるようです。皆さんも、子猫が足にすり寄ってきて、こっちの足首からもう片方の足首へと交互に体をすりつけてきたという経験があることでしょう。中学生の少女もよくそれに似たことをします。父親とのスキンシップがないなら、しばしば、家庭外で他の人から間違った形のふれあいを求めることがあります。

  息子たちも、同様に母親から愛情を示してもらう必要があります。しかし、他の男の子たちがいる前でしたり、「出かける前にママにキスしてちょうだい」としつこく言わないように気をつけましょう。けれども息子も、一人でいる時など、適切な状況においての母親とのスキンシップは感謝するでしょう。

 

子供のために一日過ごす!

  最近私はデトロイトでの朝食会でスピーチをしましたが、その時、幹部の一人が欠席していました。きっと来るものと思っていたので、意外でした。翌週その人は私にこんな手紙を送ってきました。「欠席してすみませんでした。その日は、あなたが日ごろ説いておられることを実践し、息子と時間を過ごしていたのです。」

  この人は年におそらく5万ドルの利益をあげている人ですが、その手紙にはさらに、息子が養鶏事業を始めたがっていることが説明してありました。そしてあの日、小さな25羽のヒナを配達しなくてはいけなかったそうです。その少年の夢は多分、大規模な養鶏事業をすることだったのでしょう。貴重な時間をさくことも、子供が親にとってどんなに大切な存在かを子供に伝える方法です。たとえ父親が仕事の関係でよく家をあけなくてはいけなくとも。

  しばらく前のことですが、シカゴのラジオ局は非常に興味深いコマーシャルを流していました。それはこうです。「クリスマスには息子さんに何をプレゼントしようかとお考えですか? あなたと過ごす1日をプレゼントしてはどうでしょう。」 これは、私が以前に自分の子供たちからもらったアドバイスとほとんど同じです。私は親たちに話をしに行く予定でしたので、子供たちに、「集まった親にどうしたら良い父親になれるかを話すつもりだが、何を話したらいいだろう」と尋ねました。

  子供達はいろいろなことを言い始めましたが、どれも一銭もかからぬことばかりです。父親がもっと家にいるようにとか、野球を一緒にするようにとか、夜にはモノポリー・ゲームをするようにとか、そう父親たちに言ってほしいと言うのです。どれも何かを買うこととは関係なく、父親と一緒に時間を過ごすことに関係していたのです。

 

プライバシー

  大勢の子供は13歳から14歳くらいになると、どこか自分専用の場所を家の中に確保するようになります。屋根裏の小さな空間をねぐらや勉強部屋や趣味の部屋にしたり、階段の下のスペースで飛行機のプラモデルを作ったり、化学実験をしたり、無線に取り組んだりするのです。このようなプライバシーは、それくらいの年頃の子供にとってはごく自然の必要なので、親はこれを尊重し、守ってあげなくてはいけません。

  しかし、プライバシーへの探求に関して、事を複雑にする一面もあります。私の所に来て、「息子の部屋を掃除していたら、たまたまこんな手紙が出てきたんです」とか、「息子の洋服だんすをあけたら、こんなものを見つけました」という母親がよくいるものです。

  確かに母親が洗濯のために、息子のたんすを開けないでおくのは不可能です。しかし、たいていの状況では、私の見たところ、親の側の疑いや恐れが危機を早めているようです。親は好奇心からついやってしまうのです。そして、手紙か雑誌か何かを発見して恐れおののいてしまいます。母親は、息子の物を探っていたことを話すべきでしょうか? どうすべきでしょうか?

  「知らぬが仏」という言葉がありますが、常にそうとは限りません。たいていの場合では、疑いが生じた時にすぐ子供と向かい合って、どうしてそんな疑いを持つようになったのか、どんな兆候を自分が見ているかを説明し、その疑いは正当かどうかを尋ねるほうがよいようです。私自身は、子供のプライバシーを侵害してまでも少しの情報を得るよりは、子供にプライバシーを持たせ、その価値も尊重するほうを好みます。

 

ティーンを働かせる秘訣!

  ティーンエージャーに仕事をさせるには、二つの秘訣があります。第一は、自分の嫌いなことを最初に片付ければ、後で楽しいことができるという原理を教えることです。例えば、「ジョン、公園に行く前にガレージを掃除してくれないか」と言うと、成功率が高いでしょうし、その素早い仕事ぶりに驚くことでしょう。それから、こうほのめかすのです。「終わったら呼んでくれるか。おまえが遊びに行く前にガレージを見にくるから。」 これを言うと、遊びに行く楽しみが、馬の鼻先に吊されたニンジンのように、仕事をするための刺激剤となります。

  第二に、仕事に制限時間を設けることです。たいていの若者は、ゆくゆくは怠けることなしに長時間働けるようにならなくてはいけません。これはかなり成熟していないとできないことです。しかし、「これこれを1時間でやってほしい」というような制限時間を設けるなら、やる気を起こさせることができます。毎朝1時間芝刈りをすることのほうが、1日中それをやることよりも子供にとって引き受けやすいことでしょう。

  がみがみ言うことは、コミュニケーションの一番の障害となるので、やる気を起こさせるテクニックにはなりません。子供が勉強しない場合、そのことで毎日口論するよりは、子供をその結果に直面させるべきです。

 

ティーントーク

  何かをしながら話す。ほとんどの父親は、顔と顔とを突き合わせて「じゃ、話をしようか」と言うよりも、息子と一緒に何かをしながら話すほうが話しやすいということを見いだしてきました。面と向かって話す事は、もうほとんど「すたれた冗談」のようになってきています。別にそんなことをわざわざしなくてもいいのです。

  釣りや車の修理、芝を刈ったり何の仕事でもいいですから一緒にやっている時に、父と息子が、考えたり、話すことのできる時間を見つけるのです。

  ティーンエージャーを見下した話し方をしないこと。子供もティーンになったら、基本的に大人と同じようなルールに基づいて会話をする資格があるということに気づいて初めて、私達はコミュニケーションの腕を磨くことができます。

  話すことだけがコミュニケーションのすべてではない。お互いを良く知り、愛し合っている人々は、あまり多くの言葉を使わずにコミュニケーションすることがよくあります。私達は若者がいったい何を必要としているかに、もっと敏感にならなければなりません。あまり言葉ではコミュニケーションせず、話もしない方が好きな子もいれば、一日中ペチャクチャ話していないと気が済まない子もいます。一人一人の子供によって違いますから、その子の性格を理解した上でどのようにコミュニケーションするかを決めればいいでしょう。しょっちゅうあなたのティーンと話していないからといって、自分があまりコミュニケーションをしていないと思わないで下さい。

 

  私は、タイミング良くあいづちを入れるのが、カウンセルにおいて一番有効だということを発見しました。それに、30秒の沈黙によって突破口が見いだせる時もあります。時々、ティーンが自分の心の中にあることを打ち明け後に、−−もう何も言うことがなくなったと見えた時、−−私はただじっと座って待ちます。別に驚いた表情をしたり、疲れたり退屈してきたような態度は見せませんが、私はただそこに座って子供に耳を傾けようとするのです。その沈黙の時に絶望的になって、「僕が本当に言いたかったことは‥‥」と思わず言ったティーンのことを知っています。ついにティーンは事の核心に触れたのでした。

 

             

 

  「僕が何だかわかる?」とある日、ティーンエ  ージャーが私に尋ねました。

  「ウウン、わからないな」

  「僕はコンマだよ。」

  「君がコンマだとは、どういうことかい?」

  「父さんが話しているとするでしょう。そして次に僕が意見を言い始めると、父さんは自分の話にコンマを打つんだ。僕の話を聞くことは聞く。っていうか、一応、自分が話すのはやめる。だけど、父さんがまた話し始める時には、ちゃんとさっき自分が言い終えた所から話すんだよ。僕の話したことなんか、父さんの話すことと何の関係もないんだよ。要するに父さんは自分の考え方を全然変えない人なんだ。父さんは僕をコンマとみなしているだけなんだ。」

  親である皆さん、あなたの子供がこのようにコンマになっていないかどうか考えてみて下さい!

  私は、ジョン・ケネディの伝記の中のある長い一章にとても興味をそそられたことがあります。それはジョセフ・ケネディ(ジョン・ケネディの父親)と彼の家族の会話に関してでした。ジョセフ・ケネディは子供達が非常に幼い頃から、夕食のテーブルで一般の人があまりしないような質問を子供達にしていました。あなたはこう言うかもしれませんね。「だけど、ケネディ一家はうちの家庭とは違いますからね。」「あの人達は有名人ですから。」 それは確かにそうですが、子供達は別に家にいる時までそんな事を気にしたりしないと思います。とにかくその質問とは、皆さんの家庭でも同じ成果を生むことのできるものだと思います。

  それは、例えば「これやあれについてはどう思うかね?」といった質問です。何かについてどう思うかぐらいの質問は誰でもできます。「戦争についてはどう思うかい? どうしてこの人はこれに関してこうしたと思うかい? お前はこう思うかい? それともこう思うかい?」という具合に。

  ジョセフ・ケネディは、このようにいつも子供達に色々なことについて、どう思うかを夕食の席で尋ねていました。そして、最後に彼自身の意見を述べたのです。このような質問の仕方は公平で、この種の質問をするなら、子供の成長が促されます。

  ところが親たちは、何かを探り出し、疑っているかのような質問をしなければならないと感じています。そうすると、子供は反抗的になり、殻に閉じこもってしまい、何も答えようとしなくなってしまうのです。

 

愛としつけ

  親と話していると、しつけと愛という二つの言葉が頻繁に会話に出てくるので、この二つは一つのテーマとして一緒に考えていかなければなりません。「もし私があまりにも愛を与えてやると、子供がわがままになり、その結果として、しつけや良い行儀作法の重要性が分からなくなってしまうのではないかと懸念しているのですが、もう一方で、あまりしつけを厳しくしすぎると、子供が親の愛を知らずに、十分な愛なしに育ってしまうのではないかと心配です。」と言う人がいます。

  すべての親にとってそのバランスを正しく保つのは非常に難しいことです。そのバランスを理解する前にまず、愛としつけは全く相反するものではないということを念頭に置く必要があります。愛とは弱くてしつけをしないという事ではありません。そして、しつけには愛という観念が全くないというわけではないのです。

  実際には、この二つが揃って初めて完璧なものとなるのです。真の愛があるなら、子供のことを十分に気づかってしつけをするし、真のしつけをするなら、子供を思って愛を示してやります。

  しつけなしの愛は、わがままにさせ、愛なしのしつけはただ単に暴君的です。私達は両親として、この二つを組合せるための正しい見方が必要です。

  一度面白いテレビのコマーシャルを見たことがあります。それは犬の目から見たキッチンが映しだされていました。小さなダックスフンドがキッチンに入ってきて、ご主人がかがんで自分の皿に食事を入れてくれるのを待っているのです。犬に見えるのは、戸棚の低い部分の把手や椅子の足やご主人の靴、ストーブとかいったものだけでした。このコマーシャルを見てみると、犬がどのように世界を見ているのかが次第にわかるようになり、どうして犬がこのドッグフードを好きなのかがわかるのです。

  私達は、愛としつけの世界というものを、親の観点とティーンの観点の両方から見て、より良い見かたをするようにする必要があります。

 

             

 

  たいていの若者は境界線を探していて、もし境界線がはっきりとしていないなら、誰かに止められるまでどんどん走って行こうとします。

  ある若者が私の元に来てこう言いました。「うちの両親は私のことなんか愛してないんです。」 もちろん、カウンセルの仕事をしていると、こういったことをよく聞きますが、私は、「そうか、この若者の両親は子供を愛していないんだ」とすぐに結論を出すことはしません。

  「何が理由で、両親が君のことを愛していないと思うのかい?」と尋ねました。

  「うちの近所には犬がいます。ぶちのある子犬です。その子犬が家に戻らないなら、その家の人は茂みの間を探したり、通りにまで出ていって口笛を吹き、スポッティおいで、スポッティおいで、と探し続け、犬が見つかるまで決して寝たりしません。僕は家を自由に出たり入ったりしますが、両親は、別に僕がどこに行ってきたのか聞きもしません。いつ家に帰るべきかも言わないし、僕をただ野放しにしてます。近所の人はちゃんと犬を愛しているのに、僕の両親は僕の事を愛してないんです。」

 

             

 

  境界線を引く時、時々オリを作ってしまう親がいます。私はオリの中に住みたいと言ったティーンにはいまだかつて会ったことがありません。あまりに多くの規則や決まりや条件などがあると、子供はまるで柵か何かにとり囲まれているかのように感じてしまいます。

  しかし、若者はやはり制限の枠の中で暮らしたがります。ある程度、自分で判断しながら決めていくという自由も必要ですが、ティーンが制限を越えそうになったら、注意してもらい、「おまえを愛しているよ」という事を示してもらう必要があるのです。若者が「これをしちゃいけないって知らなかったよ」とか「こうしなくちゃいけなかったなんて知らなかったよ」と言う時、これはコミニュケーションがうまくいっていなかった事を示しています。そういった時は、じっくりと話し合って境界線を定めるようにする事が大切です。ティーン相手の場合、親が勝手気ままに境界線を引く事はできないという事を覚えておいて下さい。筋の通ったやり方をしなくてはなりません。ティーンと一緒に座って、話し合って同意に達するには時間がかかるかもしれませんが、親としてそれをする事を恐れないで下さい。

 

             

 

  「もういざこざはこりごりなので、口をつぐんでいよう。」 今日非常に多くの子供が、親との口論を避ける為に、ただ単に内に引きこもってしまうようです。両親は私の所に相談に来ます。「うちの息子にはもうお手上げですよ。」「貝のように口を閉ざし、何も返事してくれないんです。無表情に私を見つめ、まるでガラスの器の中にいるみたいです。」

  子供は、自分の言い分を言っても聞いてもらえないと思うと、最終的にこのような無関心な態度を取るようになってしまいます。亀のように頭を引っ込めて、何の反応もしてやるものかと。もちろん、両親はますますイライラし、さらに子供をつっついたりしますが、結局は行き詰まってしまいます。

  これを解決するための私の提案は、ティーンのしている事にもっと関心を持つという事です。私達の反応を少し改善してみて下さい。怒鳴ったりせず冷静に、問題の解決策を見いだしていくのです。気を取り乱したりしないように。子供が殻から抜け出られるよう助けてあげましょう。何人もの子供が亀をつっつき、煩わすなら、亀はすぐに頭や手足を引っ込めてしまう事でしょう。子供達が大声をあげたり、飛び跳ねたり、笑ったり、つっついたりするなら、亀は頭を引っ込めてしまうのです。しかし、子供達が静かになり、亀に興味をなくし、いたずらしなくなった途端に、亀は芝生の上を歩いている事でしょう。ティーンについても同じ事が言えます。

 

             

 

  ティーンエージャーのしつけについて、ちょっと提案をしましょう。まず初めに覚えておいてほしいことは、ティーンエージャーのしつけは年少の子のしつけとは違うということです。子供がティーンの年頃になったら、高圧的に締め付けるよりも、例をあげ説明し、理解を示し、コミュニケーションをとるほうがもっと効果的です。あなたが高圧的だと子供の方も怒りっぽくなってしまいます。

  一貫性。子供が予想できるような方法でしつける。同じようなふるまいにはいつも同じ反応をするように。−−あなたの気分次第で反応を変えたりせず、感情に左右されずに状況に応じてしつけをすることです。しつけは、子供の間違いに見合ったものとなるようにしてください。

  罰をすると脅しておきながら、その言葉を守らないという事がない様に。何かの罰を与えると告げる場合には、確実に言葉通りにできる事を確認しなさい。果たせないと分かっているのに、娘に向かって、6ケ月の外出禁止にするぞなどと脅してはいけません。2日間だけの外出禁止にした方が、実行に移せないような脅しをするよりずっと賢明です。

  実行に移す前に、どうしつけるべきかについてよく考えること。毎日裁判所にいる裁判官ですら、一つ一つの事件をどのように処理していくかについて、少しは時間を取るものです。場合によっては、自分の下そうとしている判決が良い結果を生むかどうか、事実に基づいてもう一度考え直すために休廷にすることもあります。ですから、しつけをする場合もこのことを念頭に置いてください。

  子供に自業自得という自然の法則について学ばせること。息子が毎晩宿題をしないからといって、母親ががみがみ言っても息子の気持ちを変えることはできませんが、息子はいずれにせよ先生に叱られるでしょうし、落第することで校長からも叱られるかもしれません。忍耐をもって、その子に怠慢で怠けているとどんなことになるかを学ばせたほうが、家全体怒りに燃えるよりも賢明です。

  質問によっては、答える時に「どうして」なのか理由を説明すること。よく両親がこんなことを言うのを耳にします。「うちの子供は『だめ』と言っても聞かないんですよ。」 子供は別に、両親の言う「だめ」を素直に受け入れることができないわけではありません。問題は、子供はそれが「どうして」だめなのかを知りたがることにあります。どうして大人が「だめ」と言ったのかその理由がわかれば、子供はもっと素直に「だめ」を受け入れます。

 

友達はどこに?

  大人からしてみれば、良い振る舞いをする人というのは、よく訓練され、身繕いが良く、自信をもって将来に臨み、良家の出であり、教養のある言葉を使って、現状に順応する若者のことです。

  大人は自分たちと同じような考え方をする人達と一緒にいる方が居心地良く感じるみたいですが、若者は違った見方を持った人といると居心地良く感じるようで、別に友達になるためにはその人と同じ考えを持たなくてはいけないとは思ってはいません。若者は、違った考えかたを持った人と一緒にいても、別にその人から悪い影響を受けずに済むと思っているのです。私達は、若者社会と大人社会との間の、この非常に重要な−−おそらくは一番重要な−−違いにうまく対処していくことを学んでいかなければなりません。

 

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  若者達を苛立たせることの一つとして、大人がすぐに結論に走るということがあげられます。子供が集まって立ち話をしているのを見ると、大人は、そこに行って、きまりを守りなさいなどといった忠告をしたり、何をしているのか尋ねたりして、彼らの行動を不審に思っているといった態度をとらなければいけないと感じてしまうのです。

  大人が行ってしまった後、子供達の所にいて、その反応を見るのは面白いものです。私はよくこんな場面に出くわし、子供が実際に後で何を言っていたか聞いたものです。子供はこのように言っていました。

  「何も悪いことなんかしてないのに。」

  「どうして大人はいつもああやって疑い深いのかしら。」

  「(大切なことを)話してたのに、それ位のことわからないのかしら?」

  そして、おそらくその子たちは本当に大切なことを話していたのでしょう。子供たちがただぶらついているだけの事もありますが、別に誰のことも傷つけてはいません。疑い深い大人が、ちゃんとその状況を把握せず、性急に判断し、自分自身を子供達から遠ざけてしまうことがよくあります。子供のしている事を肯定的に見て子供のグループの所に行ったほうが、道徳的なカウンセルをしてやろうという感じで出向くより、もっと効果的であるようです。

  学校、教会、キャンプ、店先など、よくティーンがたむろしている所で、大人とティーンがほんのつまらない事で衝突する事がよくあります。例えば、レストランで子供が椅子の上に足を置いているとします。子供達の多くは物質的な物に関しての配慮があまりないのです。店主がやってきて子供の顔をにらみつけ、「足を椅子の上から外してもらえないかね? 椅子にだって金はかかってんだからね。今までどんなしつけをされてきたんだ。人に対する心遣いってものがないのかね? 最近の若者は全く困ったもんだ。」この人はティーンを気まずい思いにさせてしまいました。それでティーンの方も仕返しに何か生意気な事を言いたくなってくるのです。

  もしこの大人が自分の家具を大事にするのと同じくらいこの子の自尊心も大切にしてくれたなら、彼はこう言っていた事でしょう。「椅子から足をおろしてもらえるといいんだが?」 あるいは、ただその子のところに来て、足を軽くたたくなら、その子も要点をつかんだ事でしょう。もしかしたら、その子はそういうレストラン用の椅子を買った事がないので、たまたまちょっとした間違いをしてしまっただけなのかもしれません。このような教訓は、この子が自分で応接セットを24ケ月の分割払いでようやく払い終えた時に、きっと良く学ぶことでしょう! それまでは、こういったことは意外と小さなことに思えるのです。

  ティーンの事を尊重してあげる事は非常に重要です−−特に、ティーンが物事に対して、ゆったりとした自然な取り組みかたをするよう願うならば。

 

 私のこと愛しているのはわかるけど

−−私のこと好きなの?

 

  ある父親が娘の言った事を心配して私の所に相談に来ました。「ねぇ、パパが私のこと愛してくれてるのはわかるけど、実際に私のこと好きなの?」と娘は尋ねたのです。

  「いったい何を言ってるんだい。」

  「だって、誰かのことを好きだったら、その人と一緒にいたがるものでしょう。何とか理由を付けてその人のそばにいようとするでしょう。」

  「でもパパは家族より、他の人の方が好きみたい。家であまり時間を過ごしたくないみたいだし。パパにはよっぽど大切なことが、他にあるみたいだわ。」

  これは非常に重要な質問です。家族がお互いのことを好きでしょうか? 私達はクリスチャンであり、親なのだから、お互い同士、それに子供達を愛さなければなりません。私達がお互いのことを好きかどうかというのは興味深い質問です。子供は、私達が互いを愛することだけでなく、互いのことを好きになることを真に学んでほしいと思っているのです。

  時間を取り、お互いが興味のあることについて語り合ったりすることによって、私達はお互いを好きになることを学びます。互いに愛し合っていると言う家族より、互いが好きであると言う家族のほうが幸せである率が高いと思います。誰かのことが好きなら、その人を愛することもできます。もしあなたが義務感から「愛しているよ」と言っても、その人を最終的に好きになるかどうかは別問題です。理想的なのはもちろん、お互いが好きで愛し合っていることです。主があなたにティーンのための真の愛を与えられますように!

LET'S SUCCEED WITH OUR TEENAGERS”--Japanese