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子供たちに分け合うことを教える

 

−−フレデリィ・メイナード著

−−リーダーズ・ダイジェストより

 

  娘のローナが、夢に描いていたお人形をクリスマスツリーの下に見つけたのは、彼女が8才の時でした。それはとても大きくて、オーソドックスで夢のある人形でした。長い巻毛の金髪、はっきりしたまつげ、ピンクの光沢のある生地にレースをふんだんに織り込んだ優雅なドレスといった具合に。もちろん、友達が「何もらった?」、とお決まりの文句を言った矢先に、この新品の人形は注目の的になりました。私はキッチンで栗の皮をむきながら、会話に耳を傾けていたのですが、だんだんいやな予感がしてきました。

  「おままごとしましょう。私がお母さんで、アンナちゃんは私の子よ。」そう言ったのは、8才になる幾分気の強いキャシーでした。

  「だめよキャシー、だめよ、人形の洋服をとっちゃ。−−こっちの赤ちゃんの人形で遊んで。」

  「私これがいいの。」 金切り声が聞こえ、取り合いをしている様子でした。「独り占めするものじゃないわよ!」

  「独り占め」という言葉が私の心に引っ掛かりました。クリスマスと言えば、天国的な安らぎ、人を思いやる心があるべきなのにうちの娘はスクル−ジのようだわ……。(注:スクル−ジとは、クリスマスキャロルという小説の主人公の名前で、守銭奴だった。) 私は、子供達がにらみ合いをしている部屋に駆け込み、判決を下しました。「ローナ、キャシーに貸してあげなさい。」 キャシーは人形をひったくり、ローナは泣きわめき始めました。私は自分は正しい事をしたんだと思い、奥へ引っ込みました。するとそのすぐ後にキャシーが階段をかけおりてきて、玄関から外に出ていきました。ローナがその後につづきました。その手にはアンナがしっかりと握り締められていましたが、人形の腕はピンクのレースの袖から無残にぶらさがっていました。「アンナの服を脱がさないでって言ったのに。見て−−キャシーが腕をちぎっちゃった−−それにスカートも破れちゃったの!」

  この悲しい出来事を思い返すたびに、自分の知恵のなかったことを思わずにはいられません。−−子供の喧嘩に干渉してしまっただけでなく、ローナに、もらったばかりの尊い新品のプレゼントを友達に貸すよう強要してしまったからです。大人だって同じような立場に置かれたら、自分の尊い物をそう簡単に手放す人はあまりいないことでしょう。もし友人が、私のもらったばかりのアンティックのネックレスを貸してと頼んできたらきっとこう言うでしょう。「このネックレスは私にとって特別なものなので、ちょっとお貸しするのは難しいけど、このアメジストのなら是非使って下さって構いませんわ。」

  殆どの親は、自分の子供に寛大な心をもってほしいと思っているものです。それには、とても良い一つの特別な理由があります。気前の良い行為は、社会に調和をもたらし、個人に幸せをもたらすからです。けれども、それには一つの悪い理由もあるのです。親というものはよく、自分の子供をこの世に対する自分自身のあらわれのように考えます。非常に貪欲で、利己的な子供は、パパとママに関する恐るべき真実を物

語っているというふうに。親である自分達が利己的であるか、あるいは少なくとも自分達が親として無能であるせいだと思ってしまうのです。自分が良い親に思われたいばかりに、子供に無理やり分け合うように強いるなら、子供は与える事の喜びなんてこれぽっちも見い出さないでしょう。子供が学ぶ事と言えば、「私の人形(または、自転車や電車)は結局私の物じゃなくって、パパとママの物なんだわ。自分が貸してあげたくなくても、そうしなくてはいけないんだもの。」という事です。

  赤ちゃんは利己的です。9ケ月の赤ちゃんは、もしかしたら遊んでいる時は、天使のようなスマイルで自分のクッキーを人にあげるかもしれません。−−しかし、お兄ちゃんが一口それをかじると泣き始めるのです。2才児は自分の青い自動車を手放すかも知れません−−もしその子がみどりの車に目を留め、青いほうを手放す気分になってきたら。あるいは最初から、その青い車にそれ程関心がなかったなら。でもそれでは、分け与えている事にはなりません。これは、ただ気の向くままに行動しているにすぎないのです。私の2才になる子供は、よその子が彼女のオルゴールを回し始めたとたん、憤慨し始めました。「パトリックはちょっとやってみたいだけよ。」、「帰る時には返してくれるわ。」と言って私はなだめようとしましたが、ジョイシーは侵入者の前にしっかりと立ちはだかって、「パトリック! 家に帰って!」と言うばかりです。

  子供が玩具を自由に貸し与えるようになるためには、子供はまずそれが本当に自分の物であると知る必要があります。4才未満の子供に短い時間でも何かを手渡すように求める場合には、その前にまず、子供の所有する権利をもう一度確認してあげるのが賢明でしょう。ささいな口喧嘩だったら、これを試してみて下さい。「サラちゃんはね、ちょっとの間お人形を乳母車に乗せたいだけよ。だから、すぐに戻ってくるわ。そうでしょう、サラ?」 こう言ったからといって、人形の持ち主の言うなりになっていることにはなりません。必要が満たされることによって子供が寛大さを身につけるよう、その基礎を築いているのです。

 

  4才ぐらいになると、たいていの子供達は、友達と遊ぶ事の楽しさを発見していき、とりかえっこなどをして遊ぶようになります。滑り台も一緒に声をあげて遊ぶ友達がいた方がもっと楽しいでしょう。3才児が人に物を貸すのは、多くの場合(いつもそうとは限りませんが)自分も何か得すると思っているからです。それがその子にとって良い取り引きになるとか、それをすると友達と仲よくなれるとか、大人にほめられるとか、「自分はいい子だぞ!」といった気分を味わえるからなのです。たっぷり愛され、よく指導された子供は、4才の頃までには、三輪車を持っていない子供がどのように感じるかなどが理解できます。

  もし子供を寛大な子に育てたいのであれば、すべきでないことは明らかです。

 

 ・子供が夢中になっている持ち物をわけ与えるよう強要しないこと。例えば、使い慣れた野球のバット、ママからもらった古い大切にしている人形。

 ・非利己的になる事がいかに素晴らしく、わけ与えない事がいかに恐ろしい事かに関するお説教を過度にしない事。

 ・子供が分け合わないからといって、あまりきつくお仕置きをしないこと。学齢前の子供が物のことで大喧嘩をしているなら、その子を別室に送り、態度を改めるまでそこから出させないようにしたらいいでしょう。体罰を与えたり、その玩具を永久的に取り上げたりすると、子供はますます怒り、これからもわけ与えたくないと思うようになってしまいがちです。

 

  ではいったい、どうすべきなのでしょうか? 建設的なアプローチをここにあげます。

  1.手本によって交渉する術を教える。例えば、ジェイソンがニコールに自転車を貸そうとしないので、ニコールががっかりしてしまったとします。

  大人:「あなたがジェイソンに、ばかなんて言ったら、ジェイソンは、あなたに自転車貸してあげたいって思うかしら? あなたがジェイソンの事をぶったりしたら、あなたに乗らせてくれると思う?」

  ニコール(渋々ながらもその意味をのみ込む):「ううん」

  大人:「おわったら、乗せてもらえないか聞いてごらんなさい。そして、ちゃんとありがとうって言うのよ。」

  この単純な策は意外とうまくいきます。幼児ですら、自分がぶったりいやな事を言ったりするなら、相手は自分のしてほしい事をしてくれないだろうと言う事は理解できます。そして両者共に使っている人が終わったら、自分の番が回ってくると知って安心するのです。持ち主は、自分が指揮権を握っているように感じます。持ち主が、いつその物を他の子に貸すかを決めるのですから。そして借りたい方の側は、自分の番が回ってくるという約束によって慰められるのです。

  2.人がどう感じるかを子供に理解させる。リサーチプログラムの対象になったある幼稚園では、子供達にビー玉をなくしたある子の反応に関するビデオを見せました。そのビデオは、その子の悲しみに沈んだ顔がクローズアップになって終わりました。それを見終わった後、小さな視聴者達に選択が与えられました。お絵かきボードで遊ぶか、ビー玉が出てくる機械の軸を回して、ビー玉を全部それをなくした子にあげられるようにするかの選択です。ビデオを見て心を動かされた子供達は、ビー玉を出そうと興奮して軸を回しました。困っている子供の気持ちを感じとったので、ただ自分が楽しむよりも、その子を助けたいという気持ちになったのです。

  親は、子供達が自らを人の立場に置いて、その人の気持をくみとる事ができるよう助けてあげる事ができます。どうしてザラがフィリップのレゴを倒してしまったのか説明してあげるのです。「あなたが一緒に遊ばせてあげないから、ザラは悲しくなってしまったのよ。人っていうのは、悲しくなると、時たま怒ってしまう事があるの。ザラに、一緒に橋を作りたいかどうか聞いてみたらどうかしら。」

  3.子供に分かちあう事を練習させる。これは、寛大さのきざしが見える前から、赤ちゃんの頃から始めることができます。赤ちゃんが鏡を持っていて、あなたが何本かのスプーンを持っているとします。やさしく、しかも楽しそうに、赤ちゃんにスプーンを渡し、鏡を取り上げ、自分を映し、(「あそこにママがいる!」)と言ってまた彼女に返します。これを何回も繰り返す内に、その子供は交換することや信頼することを学ぶのです。

  年長の子供たちにとって、わけ与えることを学ぶのに最善なのは、その物が十二分にある時−−大きなすいか、たくさんのポップコーンのある時−−あるいは、どれだけ楽しめるかが、みんなが協力するかどうかにかかっている時です。シーソーを例にとって見てもわかるように。シーソーは、二人が一緒にしないとうまく遊べない玩具です。

  そういった小さな励ましによって、子供達は、分かちあうというのはその物を完全に放棄することとは違うという事に気づくでしょう。分かちあうことは、物を楽しむ新しい方法であり、またより成熟した方法なのです。

  4.問題を防ぐために「リハーサル」をする。2才の子が誕生パーティに招かれた場合、前もってコーチされなければ、お誕生日の男の子のプレゼントをきっと取り上げることでしょう。(「どうして彼ばっかりおもちゃをもらうのかしら?」) 少なくとも自分の持ってきたおもちゃは手放したくないと思う事でしょう。その子に前もって何度もこう言わなければなりません。「今回はお友達がパーティをして、おもちゃをもらう番なのよ。でもまた別の時に、あなたの番がくるの。」と。プレゼントを子供に選ばせてあげるなら、それを友達にあげる時のショックも軽くなるでしょう。特に、その子が自分のためにも何か小さいものを選べるとしたら。

  5.子供たちに、困っている人を助けるという体験をさせる。いく世代にも渡って母親は子供たちに全部食べさせるために、次の手段を使います。「インドの子供たちは飢えているんですよ。」 これがピーマンをおいしく見せるかどうかは別問題ですが。これだけでは子供に世界の飢饉についての知識を植え付けるのに十分ではありません。私達はテレビを通して、家にいながらにして、大人だけでなく子供までが様々な苦しみを味わっている事を知ります。親は犠牲的に他の人々を助けていく事に、子供も含めて家族全員を参加させたらいいでしょう。

  6.物だけではなく、関心も分け与えられなければならない事を示す。私の孫達はいつも別々に私の所を訪問してきました。一人一人が私の関心を一人占めにし、ほぼ完全に甘やかしてもらうようにです。けれども昨年、7才のオードリィと3才のチャーリィが一緒にやってきました。第一日目はハチャメチャでした。オードリィは弟が小さすぎて水上滑り台に乗れない為、水の国へ遊びにいけないと言って文句を言い出し、チャーリィは人形売場なんかいやだとわめきちらしました。ようやく平和が訪れたのは、オードリィにもっと指揮を取らせてあげるなら、彼女も少しの制限は受け入れるだろうという事に私が気づいてからでした。「チャーリィは何をするのが好きかしらね?」と私は尋ねました。オードリィは普段よくやる遊びを考え始めました。「彼は縫ったりすることはできないでしょう。もしかしたら、私と一緒に屋根裏部屋を探険しに行くのは好きかもしれない−−レストランごっこもいいかもしれないわ。」 レストランごっこは2人よりも3人の方が楽しいという事がわかり、私も参加させてもらいましたが、オードリィは屋根裏探険のガイドを楽しんでいたようでした。−−「ほら見てチャーリィ、ビーズの入っている箱があるわ。糸に通してみたい? これはママがちっちゃかった頃の写真よ。」‥‥訪問も終わりに近付いた頃には、オードレィは自分に関心を払ってと要求ばかりするのではなく、弟に関心を払い、先生役を楽しんでいました。

  7.模範は励ましになることを覚えておく。大人から皮肉っぽい冷めた物の見方を学ぶまで、子供たちは良いことを信じ、実際にあった英雄の話に感動します。−−例えば、ある金持ちの夫人が、夫と共に死ぬ事を望んで、沈むばかりのタイタニック号から救命ボートに乗るのを拒否した話とか、探検家のローレンスE.G.オーテスが、第二スコット探検隊と共に南極点を目指していた時に、少なくなった食糧を仲間のために残すために吹雪の中へ出て行ったという話に。

 

  それほど高尚ではないかもしれませんが、それに等しく強力であるのは、親の手本で、それは子供たちの行く手に光を灯すものとなります。母親が近所の困っている人のために余分にクッキーを焼いたり、父親が近所の年老いた人に電力芝刈り機を貸したり、またはその人のために芝を刈ってあげたりすると、子供はそれに気づくのです。

  非常に無私無欲な人々の人生について研究した、心理学者のエルビン・スティブはこのように言っています。「愛他主義を最も効果的に子供たちに伝授した親は、子供達をしっかりとした監督下におき、厳しさと優しさと説明とをうまく取り合せて使っています。そして、子供が分け与え、人の役に立つ事をするよう熱心に積極的に導くのです。」

  寛大さは元々、自分に対する自信や誇りからくるものです。自分自身を高く評価している人には自然と、人の事を思いやったり、分け合ったり、親切にしようという思いが備ってくるものです。教育者のジョン・ホルトはボクサー・チャンピオンのジョンL.サリバンについてこんな話を語っています。路面電車に乗っていて、喧嘩ごしの酔っ払いに乱暴に押しやられた時、サリバンはそっとその場を譲りました。彼と一緒にいた人が不満に思い、「あんなことをされて我慢するつもりなのか? おまえはヘビー級の世界チャンピオンじゃないか。そんなふうに礼儀なんて示してやる必要ないさ。」と言ったところ、ジョンはこう答えました。「ヘビー級の世界チャンピオンだからこそ、礼儀正しくするだけの余裕があるのさ。」

  さて、自分は愛されており、大切な存在で、善良だと感じている子供達は皆、ヘビー級チャンピオンです。ホルト氏はこう言っています。「子供が大人になった時に、自分は尊厳や能力を備えた、価値のある存在だと強く感じられるように、子供を育てなさい。そうすれば、その子達は他の人々も、威厳や能力を備えた価値ある存在として扱うようになるでしょう。」

 

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あの子はまだ7才。

次のものから成り立っている。

騒音、エネルギー、創造力、好奇心、

  空腹感。

彼は、「そこの通りに住んでいる

  かわいい坊や」であり、

「隣の悪ガキ」であり、「私の息子」である。

人によって呼びかたも様々なのだ。

彼を守り、食べさせ、服を着せ、

  健康で幸せに保ち、

トラブルに陥らないように

  してあげなければ。

そして‥‥

彼は明日そのものでもある。

彼こそ、将来であり、私達はその為に

  働いている。

彼は、世界で最も大切な世代の一人。

私達の世代は、彼らを愛し、

  勝ち取らなければならない。

彼の世代が、それをした価値があったか

  どうかを決める。

彼は歴史上最も重要な人物の一人

だから、彼の人生に

  影響をおよぼす人は皆、重要人物

そう、あなたも!

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