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兄弟間のライバル意識

−−セイモア・V・レイト著(「Casper, the Friendly Ghost」の作者、漫画家)

 

前書き

  兄弟姉妹間で緊迫した関係が生じること、つまり好き嫌いとか、仲良くしたり競争すること、かばい合ったり拒絶したりなどするのは、ごくありふれた自然な事である、これが、ある意味で私が皆さんに伝えたい一番大切なメッセージだと思います。家庭に2番目の子供が生まれる時にドラマは始まり、1人新しく生まれるごとに続いていきます。上の子供達は、ぐずぐず言ったり叱られるような事をしたり、あるいは称賛や喝采を浴びようと、何かの技術や能力を向上させたりすることによって、親の関心を要求してくるかもしれません。また赤ちゃんを直接攻撃したり、怒鳴ったり、他の子供達と喧嘩をすることによって怒りを表現することもあるでしょう。赤ちゃんが痛がるほどにきつく抱き締めるかもしれません。心の内の感情を外に出すことはせず、肉体的にその症状が出ることもあります。湿疹が出たり爪を噛んだりといった具合に。ずっとベビーベッドのそばで時間を過ごし、タカのような好戦的関心を持って赤ちゃんの動きを見守るかもしれません。おねしょや、指を吸うといった、幼い頃の癖が再び現れることもあります。また同時に、赤ちゃんの魅力を楽しみもし、一生懸命に保護しようとしたり(時にはやり過ぎることもありますが)、愛情深くしたり、赤ちゃんを誇りに思ったりするのです。そしてもちろん、今や自分が「お兄さん」「お姉さん」になったという特権に満足することでしょう。

  新しく赤ちゃんが生まれるたびに、その赤ちゃんも、様々な感情と行動をもって兄や姉に反応します。お兄さんあるいはお姉さんが出来ることに憧れたり、その特権を羨んだり、決して「追い付け」ないことで欲求不満に感じたり、偉そうにされて反感を抱いたり、自分を守ってくれる頼りになる者がいることを知って安心したり。どちらの反応も、思いやりやお互い同士のかかわり合いを示しており、それらは純粋な親密さや分け合うことの基礎になりますが、そのどちらも、単純でも容易なことでもありません。

 

兄弟間のライバル意識:

人生の現実

  時に受け入れ難いことかも知れませんが、兄弟間のライバル意識というのは、極めて自然で正常なことです。兄弟姉妹間での闘いは(その組み合わせがどんなであろうと)、世界中どこの家庭にも見られる最も基本的な関係の一つです。そういったライバル意識についての話は、はるか昔の聖書の時代、あるいはそれ以前にもさかのぼります。

  現実の生活には喜びや満足感もありますが、浮き沈みがあり、落胆や欲求不満もあれば、家族内でのいさかいも付き物です。多くの大人はつまらない言い争いをしますし、ほとんどの子供もそうです。なぜでしょう? 人間であるなら当然、必要や感情を持ち合わせており、時に、そうした必要や感情の中には、受け入れがたいものや、しっくりこないものもあるからです。特に、まだ成長過程にある幼い子供の複雑で不可解な世界においては。

  簡単に言って、幼い兄弟姉妹の間での競争は、彼らなりの「個性」、つまり私達皆が必要としている尊い自己意識を探る手段の一つです。この感情面の探求は、大人にとって重要であるのと同じぐらい子供達にとっても重要なのです。

  野菜には感情も自己認識の必要もありません。しかし人間には必要です−−そして子供も人間なのです。非常に幼い子供達にとって、こうした欲求は、私達以上に強いといっていいでしょう。子供達はまだ、自我を守る装置が心の内にできあがっておらず、私達が成長する際に身につける社会的行動のルールという保護手段も持ち合わせていないからです。

  では、子供達には行動の基準というものはないのでしょうか? そんなことはありません。−−しかし、一般的に言って、その基準は幾分異なっています。ボサード博士とボル博士の研究グループによれば、「大人は子供の行動を、大人の基準に沿って判断するが、子供達は自分達の行動を子供達の基準で判断する」ということです。この「子供の規範」(公平さや所有権などに関する観念)は、基本的で単純であり、大人のものに比べて未熟です。しかし、大人のと同様に強力で有効なのです。

 

ライバル意識の源

  ライバルとは、辞書によれば、「相手と同じ目標やゴールを目指して競い合う人、あるいは相手と同等またはそれ以上に事を成し遂げようと試みる人。競争相手」のことです。

  兄弟姉妹間のライバル意識はごくありふれたことであり、時にそれは非常に厄介な問題でもあります! ところで、いったいこれはどこからくるのでしょうか?

  ある専門家は、家族構成を「星座」にたとえています。−−夜空の星座に見られるように、家庭内にも特有のパターンや配置があるのです。

  家族という星座−−つまりこの小社会−−には多くの次元があります。援助組織として機能することもあれば、圧力釜の働きをすることもあります。暖かさや安心感や愛を与えると同時に、緊張感や不和やいらだちを作り出すこともあるのです。人間が一緒に近く生活する時、いさかいや意見の相違はつきものです。それぞれの意見や必要や欲求はしばしば異なっており、家族内では絶えず必要や願望がぶつかり合うのです。

  このような衝突には、別の理由もあります。家庭は、大人と子供にとって、避難所と安全弁の両方の働きをしており、私達が、自分の心の底にある、正直な感情を表現出来る場です。−−つまり、ふたを持ち上げて少し蒸気を発散できる場なのです。

  家族内でのお互いへの愛や依存は、家族以外の人に対する愛や依存よりも強く、家族には自分の心の奥深くにある感情をよりオープンに表現するものです。

 

変化するパターン

  人生とは、常に変化し成長する過程です。そして家庭は多くの面でこれを反映しています。

  例えば、二人の親(一人の親の場合もありますが)から成る家庭に初めての赤ちゃんが生まれたとします。そうやってできあがった小さな星座においては、大人はたった一人の子供に集中して愛や気づかいを注ぐことができます。その内に、2人目の赤ちゃんが生まれます。この子は、初めの子と違って、2人の親と1人の姉あるいは兄から成るグループに加わるわけで、3人目の子供は4人のグループに加わります。だからどうだと思われるかもしれませんが、実は、兄弟の性格のパターンを理解する上で重要なポイントです。

  子供の「誕生順」は気まぐれなもの−−つまり誰にも支配できない事柄ですが、この順番には、様々な利点と不利な点とがあります。例えば、最初の子供は、独特の身分を楽しむことでしょう(少なくともある一定の期間は)。親の関心と気づかいはその子に集中的に注がれ、その子は言わば王座に座する小さな君主であり、自分の地位を脅かす者はいません。親もまた、最初の愛児には非常に高い期待と基準を持ちやすいようです。

  ある意味で、2番目の子供は、この最初の子供の地位を侵害することは決して出来ないようです。幾ら頑張ったところで、最初の子供のほうがいつも年上で、体も大きく、普通は能力や体力も上です。けれども、親達は普通、2番目の子供に対しては、もっと穏やかでリラックスしています。最初の子供の時の間違いや経験から学んでいるので、2番目の子供は、最初の子供ほど親の持つ緊張感や心配にさらされることはないのです。親もまた、2番目の子供には、最初の子供に対してほど色々と要求しないかもしれません。

  3番目の子供は時に、より「甘やかされ」、大事にされすぎる事があります。特に上の子供達が就学年令に達している場合はそうです。それに加えて、3番目の子供は、振る舞いにおいて見習うべき兄弟が2人もいます。上の子供達はしばしばこの新しい家族メンバーの指導者や先生の役割を果たします。

  他にも、4番目の子供、5番目の子供、双子など、色々あります。

 

年令差

  兄弟間のライバル意識は、家族構成や誕生順だけでなく、子供同士の年令の開きによっても違ってきます。

  嫉妬とライバル意識は兄弟の年令差が1歳半から3歳の時により激しいというのが、大半の専門家の一致した意見です。その場合、年令差は狭く、発育のパターンも似通っているので、それがより大きな摩擦へとつながるのです。年令が4、5歳離れていると、兄弟間で競い合うことも少なくなります。同じものを必要としたり、同じ行動をすることがあまりないからです。

 

男女別

  調査の結果、嫉妬は一般的に、異性の兄弟同士よりも、男同士、あるいは女同士の兄弟において、より多いようです。同性のしかも年令の近い兄弟姉妹は、必要や興味がかなり似通っているので、喧嘩や対立も増えるのです。

 

比べ合うことと自分を評価すること

  本能的に、子供達は親の言うことだけでなく、自分の技術や能力を他の子供達と比べ合うことによって、自分を評価するようになります。そしてこの目的のために、最も簡単で手軽に比べ合える相手が、自分の兄弟姉妹なのです。特に年令が近い場合はそうです。

  ですから、ある意味で、兄弟はお互いを鏡として使い、それによって自分がどんなで、どんな者になれるのかを見ているのです。弟や妹は、兄や姉をまね、彼らのすることを模倣しようとします。また兄や姉は、弟や妹と比べることで、自分の成長の進み具合を見て、進歩しているという満足感や達成感を得るのです。

 

行動と互い同士の関係

  兄弟間で、暖かさや愛や分かち合いの精神を育むこともでき、また実際にそれが育まれているのですが、時に、互い同士の関係において、感情が傷ついたり、摩擦や喧嘩、挑戦や非難、怒りや嫉妬、恨みが生じることもあります。そして、子供達(特に幼い子供達)はあまり気をつかったりはしないために、余計にそういう感情が生じやすいのです。子供達の言葉はぶっきらぼうで、彼らは感情のままに振る舞い、その感情は率直で単純です。子供達は「君の態度に怒りを覚えるのだが。」とか「君の振る舞いは受け入れられない。」などとは言わず、「お前なんて大嫌いだ!」と言います。−−それだけなのです。

 

親の愛を求めて競い合う

  子供達の間の競争の大部分−−年令によっては、殆どですが−−は、単に親の愛や称賛を求めての競争です。子供にとって、親の愛は必要不可欠であり、何にもまして重要です。親の愛は、安全や安心感や心の支えの源だからです。

  子供達が心の底から必要としており、最も欲しているのは、自分が全面的に依存している大人(達)から愛を受けることです。そのように依存していることから、幼い子供は、親が他の子供に愛を示すと、自分は親に愛してもらっていないのではないかと恐れることがあるのです。

 

誕生の順番

  アルバート・アインシュタイン、ウィリアム・シェークスピア、マーガレット・ミード、ベートーベン、ハリー・S・トルーマンに共通するものは何でしょうか? 有名になった事はもちろんですが、実は、彼らは皆、弟や妹を持つ長男長女だったのです。

  何年にも渡る研究の結果、子供の誕生順に応じて、ある一般的なパターンや性格の特徴が確かにあることがわかっています。実際、この生まれた順番が果たす特有の役割について何も知らないでは、兄弟の行動の本質を真に把握することは出来ません。

  兄弟の内でどの子供も、生まれ育つ時の家庭の状況が違っていることに気付いていない親が大勢います。この原則を念頭において、兄弟というはしごの段を一つ一つ簡単に見てみましょう。

 

最初の子供

  最初の赤ちゃんは一人っ子で、特権を持った子供であり、すべての関心の的になります。

  初めての子供は家族の中心的存在となり、他の子供とパパやママを分け合わなくてもよいので、子供の自信や自己評価に、肯定的で永続的な良い影響を及ぼすことになります。初めの数年間は、その子供は子供同士の関係よりも親子の関係にかかわることになります。その結果、最初の子供という地位はその子供に「ある種の独善さ」を与えると、研究者のアービング・ハリス氏は語っています。同氏や他の人達は、一番上の子供の最も幼い頃の記憶は大人と関係したものばかりであることから、その子供は権威をよりよく受け入れ、より一貫性があり、道徳的にもより厳格になると言っています。また、自分の正しさをより信じる傾向もあるようです。また、下の子供達と違って、一番上の子は妥協するよりむしろ頑固に戦いたいと思うようです。

  このような特権があるものの、最初の子供であることには欠点もあります。両親はまだ親として未熟なため、間違いも犯しやすいようです。また子育てという仕事のことで、あれこれ心配したり神経質になりがちです。

  また、最初の子供にはより厳しくなりがちです。一番年上なので、他の子供の模範となり、頼りがいがあり、責任感があり、しっかりしていることを期待されるのです。

  2番目の子供が生まれ、最初の子供が「退位」する時が来ると、それは上の子供にとってショッキングな体験とも言え、2番目や3番目の子供が経験しないような特別な順応が必要になります。

 

2番目の子供

  先に述べたように、兄弟間での競争心やライバル意識が最も激しいのは普通、年令が近い時、つまりその差が3歳以下の時です。またその兄弟が同性の場合にもより顕著になるようです。

  2人兄弟の家庭では、上の子供が何かと勝っていますが、下の子は心理的手段を使って補うことができます。年令的に勝ることができず、上の子のあとをたどる運命にあるので、2番目の子供は兄あるいは姉をうまく操ったり、からかったり、けしかけたりするのが上手になったりします。

  2番目の子供の多くは両親が一番目の子にした間違いから益を被ります。父親や母親が、困難な方法、つまり試練や失敗を通して学んだからです。もちろん、2番目の子供はプレッシャーを感じます。どうしても上の子供のほうが先を行っているからです。同時に、年上の模範と生活することは、下の子がずっと早く進歩する助けになり得ます。従って、2番目の子供は、より早い時期に遊びや自転車の乗り方、自分で洋服を着ることなどを学ぶことがよくあります。

  またよりリラックスした親のもとで育ち、規制も少ないために、2番目の子供は何かもっと自由で、より冒険的になり、「規則」に関してそれほど厳格にならない傾向にあるようです。

 

真ん中の子供

  3番目の赤ちゃんが生まれる前は、真ん中の子供は末っ子でした。ある意味で、最初の子供は実験用の「モルモット」ですが、2番目の子が生まれる頃には、普通、両親共にすべきことすべきでないことについて多くを学んでいます。ですから、この子供は、親が神経質になったり、あれこれ気をもんだりするという経験はしなくて済みます。3番目の赤ちゃんが生まれると、親の関心は赤ちゃんのほうに移り、真ん中の子供は幾つかの規制からある程度自由になります。

  真ん中の子供は、兄あるいは姉の地位にも決して届かないし、同時に、下の子に注がれている愛や関心を自分が再び得ることもないかもしれません。これが理由で、真ん中の子供は自信に欠けることもあります。だからこの面でも、親は重要な責任を負っています。親は、真ん中の子供が自分は不当に扱われているとか、なおざりにされていると感じないようにすることができるし、またそうしなくてはいけません。これには、莫大な時間や努力は必要ありません。ただ少し余分の気遣いと思いやりと心くばりがあればいいのです。

  年令や男女の違いによって、真ん中の子供はどちらかの兄弟と特別なきずなを持つようになるかもしれません。一番上の子供がかなり年上であれば、下の2人は自然と互いに引き寄せられるでしょう。1番目と2番目の子供の年令が近ければ、この2人が多分近い関係を築くことでしょう。4人兄弟であれば、真ん中の2人が親しくなることがしばしばです。−−友人としてもライバルとしても。

 

末っ子

  一般的に言って、末っ子は、甘やかされたり、過保護になる傾向にあるようで、それによって依存心、あるいは自信の欠如などが助長されたりします。けれども、その反面、末っ子には1人あるいはそれ以上の兄や姉がいて、彼らが目に見える手本となり、末っ子が学び成長するのを助けてくれます。年上の子供達に付きまとい、常に彼らのする事をしようと頑張ることで、末っ子はより早い進歩を遂げ、幼い時期に貴重な経験をすることがしばしばです。

  末っ子は、1番上や真ん中の兄弟よりも、より友好的で社交的になる傾向があり、他の子供達にも人気があります。色々な年令の子供達と話したり一緒に行動するのに慣れているため、家族外の友達といても気楽で、グループでの行動にも首尾よく簡単に溶け込みます。必ずしも自己イメージが強いわけではありませんが、末っ子が内向的だったり、一匹狼タイプになることは滅多にありません。

  研究によれば、お姉さん達のいる男の子の末っ子は、将来、女性とのつきあいも容易でうまくやっていくそうです。家庭において女性に慣れており、その中で甘やかされることに慣れているので、女性と一緒にいても一般的にリラックスし、陽気で、暖かさや愛情を簡単に表現することが出来ます。同様に、お兄さん達のいる女の子の末っ子も、安心感を持ち、よく保護されていると感じて育ちます。将来、男性とうまくやっていくのが普通です。彼女の男性に対する期待は高く、多くを要求するかもしれませんが、自分の出会った男性を大切にし、彼らに愛情を示すことも簡単なのです。

 

競争心−−そして対処の仕方

  親は時々、兄弟間のライバル意識について知っていれば、それを防ぐことが出来ると感じるようです。親は、喧嘩をなだめたり、仲裁に入ったりできるし、実際にそうしますが、兄弟間の競争心の殆どは、話したり、願ったり、説明をすればなくなるものではありません。ですから、親の役割とは、それを、納得のいく健全な範囲にとどめておくよう助けることなのです。

 

競争心の様々な局面

  まず初めに、私達は激しい競争社会に生きています。人間は本能的に功績を上げたいと思うもので、歴史の始まりから、自分自身や世界を向上させようとしてきました。

  有名な例を一つあげてみましょう。1953年の5月、エドモンド・ヒラリー卿は、世界の最高峰であるエベレスト山の頂上へたどり着きました。なぜ登ることに決めたのかという質問に、彼は、先の登山家の言葉を借りて、「そこに山があったから。」と答えました。この言葉は非常に有名になりました。ヒラリー卿にとってはそれが十分な理由だったのです。というわけで、私達も皆それぞれ、自分のエベレスト山を征服しようと努めます。その達成はそれほど劇的ではなくとも、達成した時の満足感はやはり素晴らしいのです。

  より単純で基本的なレベルにおいて、子供達も達成に関しては同じ気持ちを持っています。どの子も大きくなるにつれ、向上したい、物事をより上手にしたいという、人間の昔からの衝動はどの子にも見られるのです。

  もちろん、競争という行動には2つの面があります。つまり、良い面と敵対心です。ほとんどの子供にとって、競争とは過程であり、生きるか死ぬかの真剣勝負ではありません。しかし、度を越してしまうこともあり、多くの場合、それは大人の期待が引き金となっています。

  親が子供に期待をかけすぎたために起こった、悲しい物語はいくらでもあります。そうした親は無慈悲にも、スポーツなどにおいて、「勝て、勝て、何が何でも勝て」と子供を駆り立てるのです。

  競争することで、子供は遊び方や勝ち方、また負け方を学んでいきます。この負け方というのは重要です。誰にもやがては、敗北を受け入れ、その衝撃を柔軟な態度で受け止めなくてはならない時が来るからです。このバランスをうまく取ることは容易ではありません。しかし、不可能ではないのです。子供達が、大人が勝っても負けてもそれを快く受け入れるのを見ながら育ち、試合の時にも、勝つことだけしか眼中にないのではなく、ただ自分のベストを尽くすことが大切なのだと強調されている環境で育つならば。

  どんな形の競争でもそうですが、兄弟間の競争にもプラス面とマイナス面があります。親はどのようにしたら、プラスの面を奨励し、マイナス面を最小限にとどめる(あるいは排除する)ことが出来るのでしょう? 基本的な面について、一つ一つ検討してみましょう。

 

大きさと強さ

  例外もありますが、上の子供達は大抵、弟や妹よりも背が高く、力もあり、身体的能力が発達しています。そして子供達は年令や体の大きさや腕力を非常に気にすることから、この事が羨望や憧れの混じった感情につながることもあります。

  兄弟が成長していくにつれ、この自然なギャップや違いをなくすことはあまりできません。しかし、両親は下の子供達に、彼らも時が来ればより大きく、強くなるのだと安心させることで支えてやることが出来ます。これは当たり前で、取るに足らない事にさえ思えますが、子供にとっては、このように思い出させてもらうことが極めて重要なのです。「去年、お前がどんなに小さかったか覚えてる? それからどれだけ大きくなったか見てごらん! もう少し辛抱してれば、いつかはお前もアレンのように大きくなるよ。」 このようなちょっとした言葉は子供を安心させ、兄や姉が新しいレベルへと卒業する時には特に大切です。例えば、兄や姉が学校に入学する時や、初めて自転車に乗れた時、永久歯がはえ始めた時、などです。取るに足らないこと、そうかも知れません。しかし、子供にとっては大切なのです。大人と違って、幼い子供達は、将来を予測する基盤となるものが限られているからです。彼らは、何を期待すべきか、何を当てにして待つべきかを告げてもらう事を切に必要としています。

 

模範となる上の子供達

  殆どの場合、弟や妹は兄や姉のやる事を熱心に真似します。例えば、12歳のティムがギターを弾き、自分のギターで練習するとします。すると9歳の弟フィルはティムに憧れ、真似をしたがります。この場合は、ティムに、フィルを助けてやるよう励ましてあげたらいいでしょう。多分、フィルの年令に合わせた、より簡単な歌やコードから始めるのです。

 

   ――――――――――

 主よ、私は、偉い王や王子として

 あなたの御前に立つ事は望みません。

 子供と手をつないであなたの御元に行く事

 そのことだけを求めます。

 

 優しい声をした子供に祈る事を教え

 その二つの目で、あなたの御顔を仰ぐ事を教え

 その二本の足を、あなたのまっすぐな道に導く事

 このことを切に求めます。

 

 どうか、あなたの忍耐を授けて下さい、

 あなたの聖なるおきて、真実の言葉

 主よ、そしてあなたの恵みを。

 私の心が子供への愛であふれんばかりに

 満たされますように。

 

 信頼と確信と自由をもって

 一歩、また一歩

 子供と私は日々歩み

 あなたと過ごす甘美な時間を見いだすのです。

   ――――――――――

 

制限を設ける

  兄弟が肉体的に競争する時、親は必要であれば保護する役目を担うことが出来ます。兄や姉が自分の体の大きいことを利用して、弟や妹をいじめたり傷つけたりしないようにするのは、親の責任です。小さな喧嘩や大騒ぎはつきものですが、親は、必要な場合にはいつでも制限を設けなければなりません。競争が肉体的虐待につながっているような場合には特にそうです。これに対しては、単純明快なルールを導入すればいいでしょう。「自分の感情を言葉で表現するのはいいわ。本当に怒っている時には、いつでも私のところへ話しに来なさい。いつでも聞いてあげましょう。でもうちの家庭では、たたいたり、暴力をふるうことは許しません!」

  子供達は、家庭で学んだ価値観や振る舞いを、生涯自分のものとし、またそれによって外の世界にも影響を与えます。ですから、たたくことであれ、殴ることであれ、また人を噛んだり、蹴ったりすることであれ、暴力は一切許されないということをはっきりさせるのは非常に大切です。

  暴力はまた、言葉という形を取ることもあります。悪意に満ちたひどい罵倒は、肉体的な一発と同じぐらい人を傷つけるものであり、同様に断固として規制されるべきです。もちろん、子供同士の会話をすべて聞いているわけにはいきませんが、意地悪な言葉、悪意のある言葉を耳にしたら、ためらわずに止めることです。−−ののしった子供にその場で謝らせましょう。

 

仲裁に入るべきか、否か?

  兄弟喧嘩には親が口出しをしないのが最善の場合もあります。口げんかは、日常の問題を子供達が自分達で解決していくことを学ぶ助けにもなるのです。−−実際彼らはうまく解決します。

  兄弟姉妹が一緒に遊び、競い合う時、一般的に彼らは、自分達の満足のいくようにルールや規制を設けます。これは子供達が社会ルールを実践し、互いにうまく意志の疎通をはかる事に磨きをかける助けになります。ルールを設け、それについて口論し、そのルールを調整していく、これは、幼い競争者達には当たり前の事です。仲裁に入るよう明確に頼まれた場合以外は、親が口出しする必要はありません。−−ただしその場合も、公平さがモットーです。

  もちろん、収拾がつかなくなり、暴力にまで発展するなら、中に割って入らなければならないでしょう。しかし、色々敏感に察する親なら、大抵の場合、爆発が予測出来ます。このまま放っておくなら容認できない行動に走るという前兆を感知することができるのです。

  肉体的ライバル意識は、兄弟同士で競い合うという衝動を満足させる方法の一つに過ぎません。肉体的に劣っている子供は、学習面で秀でるように努めることによって埋め合わせようとするかもしれません。

  例えば、9歳のハリエットはボールがきちんと投げられません。運動面で彼女は少し無器用で、もっと運動神経の発達している兄や姉からよくからかわれます。しかしハリエットは優等生です。勉強熱心で、成績も良く、学習面の競争に勝ち始めるくらいです。これは兄や姉を感心させ、ハリエットに必要な励ましとなります。

  何人もの兄弟を育てる親としてのあなたの仕事は、うまくバランスをとり、必要な時に常識を働かせ、何らかのパターンから手に負えない状態に発展しないようにすることです。時には、こう自問してみたらいいでしょう。「この新しい興味(あるいは技術や能力)は埋め合わせであって、この子はそれに逃避しようとしているのだろうか?」

  私達の例を見て考えてみましょう。

  優等生のハリエットは、自分の成績を、運動が上手でないことの埋め合わせにしてしています。子供達がする他の普通の遊びや活動も段々としなくなり、本の中に閉じこもり、孤独な勉強家への道をたどっています。

  ごくありふれた意欲も自己破壊という角を曲がると、何らかの親の干渉が必要になります。しかし、この場合も、「取り扱い要注意」が合い言葉です。子供の一時的な問題に対して、極端に心配したり大袈裟な反応をしがちな親もいますが、親の助けや助言が必要な時、親はタイミングに気をつけ、知恵を働かせなくてはならない事を覚えておいて下さい。

  元々自信がないために、子供達は、ありのままの自分よりも、むしろ自分の出来ることのゆえに受け入れてもらい、称賛を受けようと頑張ることがよくあります。これは昔から子供達によく見られる態度ですが、愛情深く理解のある親は、それを和らげてあげることができます。どの子供も、何かの才能や能力のあるなしにかかわらず、自分は一個人として尊重されるに値すると知る必要があるのです。

 

レッテルを貼る

  子供にレッテルを貼る親が大勢います。「この子は我が家の本の虫なんです。」とか「この娘は頭がいいのよ。」、あるいは「この子は無器用なの。」など。他にも「道化師」とか「恥ずかしがり屋」、「にぶい」、「役者」、「心配屋」など色々あります。大人は冗談半分で言っていても、子供達は真剣にとりがちです。レッテルを貼るのは危険なことです。子供の自己イメージを強め、それも多くの場合、悪い自己イメージを抱かせるからです。幼い子供が家庭で常に、無器用だとか、だらしがない、にぶいなどといったレッテルを貼られていると、もっとそのようになりがちです。ですからレッテルは、子供がどんな人間になるかを予告し、実際にその通りにしてしまうのです。

 

比較すること

  「お姉ちゃんの部屋を見てごらん。どうしてお姉ちゃんみたいに、きちんと整頓できないの?」

  「お前もお兄ちゃんみたいに、学校でいい成績を取るつもりか?」

  こんな言葉、または似たような言葉をよく耳にします。身体面で、親は子供達の目や髪、肌の色、体の大きさや強さを比べます。また、子供達の能力や学校の成績、振る舞いや、性格的な特徴なども比較するでしょう。

  もちろん、親が比べないようにすることは難しいですが、こういった類いの言葉には落とし穴があります。特に、子供が聞いている所で、そういう比較をする場合には。子供の主な仕事は、完成された人間へと成長していくことであり、親の役目はこれを助け励ますことです。しかし親が常に比べるなら、その過程に障害物を置くことになります。比べるというのは、判決を下すようなもので、普通は一方が悲しむ結果になるのです。

  2人兄弟の家庭で、1人の子供が常にもう1人と比べて、外見や頭の良さやお行儀の良さなどでほめられているなら、そうやって常に比べられる「劣った」ほうの子供は、当然、次のような結論に達します。「自分には、ほめられるに値する資質がない。」ほめてもらえない子は、恨みや妬みを抱くようになり、その内に落胆し、向上しようと頑張るのさえやめてしまうかもしれません。

 

「それ僕のだぞ!」「違うわ、私のよ!」

  年令の近い兄弟は洋服のことで喧嘩するでしょうし、どの兄弟も、おもちゃや本などをめぐって、誰のものかで喧嘩をします。例えば、「一番大きいケーキ」をめぐって喧嘩するのです。

  子供の所有物とは、その子供自身の延長です。それを使う自由や楽しむ自由も含まれています。家庭生活において、これを受け入れることは互いへの尊敬を築くのに役立ちます。例えば、4才の子供が友達とブロックを使って何か大掛かりなものを作り、長い間楽しく遊んでいるとします。そこへ2才の弟がやってきて、一瞬の内にそれを床に倒してしまいました。2才の子供にとってはごく自然な行為ですが、それに対して、4才の子供はあの怒りに満ちた叫び声をあげます! この場合、上の子供に、弟は「小さいから理解できないのよ」と言ってやるだけでは十分ではありません。そう言うのも大切なのですが、弟や妹の思慮のない行動から上の子供を守るためのステップも考えてあげるべきです。年令や家族内での地位にかかわらず、兄弟はそれぞれ、自分の権利が守られ保護されることを知っている必要があります。そうすれば子供は、他の人の必要や権利を尊重することを学んでいくのです。

 

年令差

  自分の兄弟が持っているものすべてを必ずしも自分も持てる訳ではない、ということを子供達が学び、受け入れることは助けになります。4人の子供を持つある母親が言ったように、「子供の靴がすべて同時にすり減るわけではありません。」 確かに年令や体の大きさには違いがあり、それに伴っていくらかの特典があることを認識することは、子供が成長する過程の一部です。だから、取り残されたように感じている子には、次のように安心させてやることが大切でしょう。「ボビーは大きいから自転車に乗れるけど、あなたにはまだ危ないわ。もう少し待ってボビーの年になったら、あなたにも買ってあげるからね。」

 

分け合うべきか、分け合うべきでないか

  それぞれ自分の持ち物を保管する特別な場所を持つことは、子供が自我意識を持つ助けになります。家庭内の物事の配置の中に、自分自身の特別な場所があるということの象徴なのですから。ですから、同じ部屋を使う兄弟が、注意深く「あなたの側」と「私の側」に部屋を分けたからといって、心配しないで下さい。あなたにとっては、それは奇妙で馬鹿げたことに思えるかもしれませんが、子供にとっては真剣なことであり、自我を主張する方法なのです。分け合うことは、子供の成長に重要なことです。しかし、この貴重な所有権も同様に重要なのです。

 

赤ちゃんが生まれて4人になる

  4歳のロバートは、わがままで強情な子供です。彼の両親は、当然のことながら、新しい赤ちゃんが加わることについての彼の反応を心配していました。もちろん、親は、注意深くロバートをそれに備えようとしました。彼は、来るべきイベントについてのすべてを学びました。そして、母親が赤ちゃんを産んだので、今自分には素晴らしい赤ちゃんの弟がいることを知りました。やがて、母親と赤ちゃんと看護婦が病院から帰宅し、皆が問題に備えました。ところが、驚いたことに、ロバートは落ち着いたもので、小さな赤ん坊に適度の興味すら示したのです。彼は数日に渡って機嫌も良く、家族の新しいメンバーを囲んで皆が騒いでいても冷静でした。父親と母親は、この反応に喜び、息子をよく準備できたことでお互いに喜び合っていました。

  その週の終わり、赤ちゃんに付き添っていた看護婦が帰ることになり、スーツケースに荷物をまとめると、ロバートにさようならのキスをし、ドアを出て行こうとしました。するとロバートは彼女の後を追い掛け、こう叫んだのです。「ねえ、おばさん、赤ちゃんを忘れたよ!」

  ロバートが突然発見したように、2番目の子供の到着は、何でもない出来事とか、一時的な出来事とは程遠いものです。2番目の赤ちゃんが生まれるのは、喜びと満足感で一杯の最高の出来事ですが、それと共に数多くの要求やチャレンジもやってきます。−−肉体的、経済的、感情的な要求やチャレンジが。ある心理学者が指摘したように、最初の赤ちゃんは夫婦の間に生まれますが、2番目の赤ちゃんは一つの家族に生まれてくるのです。この新しいメンバーを受け入れるためには、家族という星座の中のすべてが移り変り、変化しなければなりません。

  親の気遣いや関心を分け合わなくてはならないというのは、幼い子供にとって理解しがたい概念です。幼い子供は、愛情を限られた量のものとしてとらえます。幼い子供の単純な考え方からすると、以前には受け取っていた愛の幾らかがもらえなくなり、他の子供に与えられている、となってしまうのです。カップに入ったアイスクリームやコップ一杯のオレンジジュースのように、誰かに幾らかあげるなら、自分のが減ってしまうというわけです。これは事実であり、ごく普通のことなのですが、子供、特に幼い子供は新しい赤ちゃんの到来を、自分の地位に対する脅威として見るのです。つまり、彼らにとって、赤ちゃんとは侵害者であり、崩壊を意味するのです。やがて彼らが赤ちゃん受け入れるようになるための鍵とは、親から愛されなくなったり、構ってもらえなくなるということはなく、引き続き愛してもらえるのだということを、最初の子供に示すことです。

 

ヨチヨチ歩きの子供や幼稚園児の心を準備する

  どの子供にも、新来者が到着することを前もって知る権利があります。驚きのニュースを、子供がよく吸収し、じっくり考え、それに慣れるようにしなければなりません。

  幼稚園児は、母親の体形の変化について質問したり、母親が頻繁に疲れたり横になったりしなければならないことを不思議に思っているかもしれません。質問してきたら、その質問に答えることで、自然な形でそのニュースを知らせることができます。大袈裟に話す必要はありません。ただ「私達の家族に赤ちゃんが生まれるのよ。」とか何とか、そういう意味のことを言うだけで十分です。その後は、様子を見ながら必要に応じて話したりしていけばいいのです。子供がこの時点でそれ以上興味を示さなければ、そのことばかり話す必要はありません。興味や好奇心があるようなら−−殆どの場合はそうですが−−もう少し話してもいいでしょう。多くの子供達は、母親のおなかに触れたり、誕生についてもう少し学ぶのが大好きです。

  当たり前のことですが、誕生が近づくにつれ、期待に胸がふくらむものです。その興奮は表現すべきであり、子供にも話すべきですが、その大きな出来事を押し売りし過ぎないようにしましょう。新生児には余分な世話がかかるのは確かで、かなり長い間は、幼い子供の楽しい遊び相手にはなりません。これに関しては率直に話せばいいでしょう。赤ちゃんは小さくて無力なことや、多分たくさん泣くだろうとか、多くの世話が必要だという事実を話すのです。赤ちゃんと限りなく楽しい時間が持て、すぐに遊び相手になるといったバラ色の想像をさせるのは不公平です。また逆に、悲観的な話し方をしたり、赤ちゃんが生まれることで謝ったり、赤ちゃんは悩みの種以外の何ものでもないなどとほのめかしたりするのも考えものです。ですから、いつものように、このことについて幼い子供と話す時には、常識を働かせ、適度なバランスを持たせるようにしましょう。  一般的に、最初の子供に間もなく生まれる赤ちゃんについて話す時に、覚えておくべきポイントが3つあります。

  1)率直に、隠さずに。子供の質問には、簡潔に正直に、知恵や愛を込めて、常識を働かせて答えること。

  2)「データ入力」に気をつける。子供の興味には出来るだけ暖かく反応したいものですが、幼い子供が望む以上に、あるいは彼らが処理できる以上に詳細を話して、彼らに重荷を負わせてはいけない。

  3)期待に胸踊らせる気持ちを、子供にも伝えたらいいが、やたらとしゃべったり、過度にそればかりに夢中にならないこと。後で幻滅につながるような、あまりにも理想的な、バラ色の想像をさせるのは賢明ではない。

  新しい赤ちゃんに備えて、感情面だけでなく、実際面での準備も必要です。すなわち、ベビー服や他のものも買わなくてはいけないし、家の中の色々な物の設置の仕方も変えなくてはいけないなど。

  再び言いますが、上の子供にもそういったことに参加させるのは助けになります。新しい赤ちゃんのために場所を設けているということを説明し、そのために自分の必要が満たされなくなるわけではないということを子供が理解するようにして下さい。

 

赤ちゃんを連れて帰る

  あなたと赤ちゃんが病院から帰宅するというのは、家族全員にとって楽しくエキサイティングな出来事であるものです。けれども、あなたが上の子供をどれほど安心させようとし、多くの愛情を示してやっても、上の子供は新しい「侵入者」について心配してしまいます。ですから、常識からして、興奮を少し抑えるべきでしょう。赤ちゃんの誕生を強調し過ぎてはいけません。逆に、あまりにも何でもないことのように振る舞い過ぎでもいけません。強調すべきポイントは、あなたがやっと家に戻ったことや、家族が一緒になったこと、あなたが上の子供に再会できてとても嬉しいということです。

  上の子供が特に新しい赤ん坊を拒絶し、無視するのでない限り、最初から、その子供が赤ちゃんになじむよう助けることです。赤ちゃんに触れさせ、着物を取るのを手伝わせ、赤ちゃんを抱かせたりするのです。−−もちろん、あなたの監督のもとで。

  繰り返しますが、最初の子供の必要は、新しい赤ん坊の必要と同様に正当なものであることを頭に入れておいて下さい。もちろん、最初の数ケ月間はあなたに負担がかかります。赤ちゃんの世話をし、上の子供にも十分な関心を与えるのですから。しかし、それは可能であり、努力する価値のあることです。赤ちゃんの必要は必ず満たされる必要がありますが、それでも、あなたの時間を上の子供にも注がなければなりません。上の子供の納得のゆく要求を延ばし延ばしにしてはいけません。「そのことは後にして」とか「赤ちゃんの世話で忙しいのがわからないの?」などといった発言はしないことです。赤ん坊のせいで自分がなおざりにされているということを子供にほのめかすような答え方をするなら、ライバル意識が芽生えるのを促すだけです。ですから、上の子供が、赤ちゃんのせいで自分が構ってもらえないと感じることがないように努めましょう。

  赤ちゃんが生まれると、色々な人が、赤ちゃんを見たがり、贈り物持参でやってくるものです。

  こうした訪問、赤ちゃんを囲んでの興奮に満ちた会話は、上の子供のいない所でなされることもありますが、上の子供がいる所で、会話がもっぱら赤ちゃんのことばかりのようであれば、その子もその中にうまく引き入れてやったらいいでしょう。子供に、最近描いた絵や幼稚園での工作を客に見せてあげるように言ったり、その子供が赤ちゃんの世話をよく助けてくれていることを話したりするのです。つまり、本当に役立つ一個人としてその子供を認めてやるのです。「サリーは赤ちゃんの世話をよく助けてくれるのよ。本当に助かるわ。」とか「私がいない間にボビーはとても良い子だったのよ。とても嬉しかったわ。」などと言うだけで良いのです。

 

嫉 妬

  「赤ちゃんなんて要らないよ。」

  ヨチヨチ歩きの子供や幼稚園児は、このような率直であからさまなコメントによって嫉妬心を表現することもあれば、怒りや恨みを内に秘め、あまり表に出さない場合もあります。

  ヨチヨチ歩きの子供にとって、赤ちゃんの誕生とは単に(子供の目からすれば)自分の安全を脅かすものでしかありません。そして、大人でもそうであるように、この類いの脅威は強い感情として表れざるを得ないのです。幼い子供が赤ちゃんにいたずらをしたり、問題を起こす時、その子は一生懸命に自分の感情的な領域を守ろうとしているのです。単純で未熟な方法で、周りの状況を壊そうとしているわけです。しかし、親が知恵を働かし、うまくそれに対処するなら、そういった否定的な反応を和らげたり、あるいはすっかりなくす事さえできるのです。

 

「私だって赤ちゃんよ!」

  また、多くの親が経験したことですが、よちよち歩きの子供達や幼稚園児達が「退行」することもあります。赤ちゃんだった頃の行動に逆戻りしてしまうのです。せっかくのトイレ訓練も忘れ、おねしょをし始めたり、ほ乳びんを欲しがったり、はいはいをしたり、親指を吸ったり、赤ちゃんと一緒にベビーベッドに登ろうとしたり、泣きわめいたり、かんしゃくを起こしたりなどするのです。

  こういった退行現象には、2つの目的があります。一つは、親の手を煩わせるようなことをして、関心を赤ちゃんから自分に向けようとするのです。つまり、「僕がおもらしすれば、ママは赤ちゃんをおいて僕の世話をしなくちゃいけない。」という具合です。

  もう一つは、もう一度実際に赤ちゃんに戻ろうとすることで、愛と関心を要求しているのかも知れません。「ママはいつも赤ちゃんのことで大騒ぎしている。だから僕も赤ちゃんになるんだ。」

  親が忍耐強く、注意深く扱うと、これらの問題は短期間でなくなるようです。子供の成長過程はエスカレーター式にはいかないと覚えておくのは良いことです。−−2歩進んでは、1歩戻る、あるいは時には2歩戻ってしまう事もあります! どんな面で逆戻りしたにせよ、子供が赤ちゃんのように振る舞うからと言って、恥をかかせたり屈辱を与えてはいけません。そういった状況にいる子供に「赤ちゃんみたいにするのはよしなさい。あなたはもうお姉ちゃんなのよ。」と言うのは、おそらく最悪の事でしょう。一旦、上の子供が赤ちゃんの侵入者に慣れ、自分は脇に追いやられたのではないという事実がわかれば、再び赤ちゃんになるという必要は減少します。とは言うものの、こういった行動はむしろいじらしく、小さい子供達が、絶えず大人からの支えや愛情を切実に必要としている事を物語っています。

 

就学年令に達した子供達を準備する

  研究によると、兄弟の年令差が大きい程、羨望の念も少なくなる傾向にあるようです。最も緊迫感が強まるのは、最初の子供が3、4歳以下の時に2番目の赤ちゃんが生まれる時です。上の子供が5歳であれば、緊張はより少なく、6歳、7歳、8歳以上なら摩擦もさらに少ないことがよくあります。

  子供が就学年令に達すると、パパやママに頼ることがより少なくなり、自分の人生を自分でコントロールするのだと感じる度合いが大きくなるようです。その結果、新しい赤ちゃんはものすごい脅威としてではなく、単に興味深い、今までに見たことのないもの、また時にはちょっと厄介な家族が加わったと見られるのです。

  しかし、就学年令の子供もやはり子供であるということを頭に入れておかねばなりません。彼らは、しばしば穏やかで責任ある行動をとる反面、やはり嫉妬も感じるのです。結局のところ、新しい赤ちゃんとは、混乱をもたらすものなのです。家族の行動パターンも部屋も何らかの変更を要するし、家庭のスケジュールも変わり、以前には上の子供と過ごしていた時間でも赤ちゃんのために幾らかとらなくてはなりません。赤ちゃんは、上の子供の思慮深さに欠けた、思いやりのない行動から保護されなくてはならないかもしれません。

  逆に、赤ちゃんがはいはいや歩くことを始めると、そのヨチヨチ歩きの子供が邪魔しないように、上の子供が保護される必要があるかも知れません!

 

親達が2番目の

赤ちゃんについて話す

  ローラ・T。7歳のアリソンと12歳のブルースの母親。

  「一旦新しい赤ちゃんが生まれると、親が最初の子供を全く新しい目で見ることに気付きました。最初の子供はそれまで自分の赤ちゃんだったのに、突然大きくなったように感じるのです。出産した直後から、幼い子供が非常に大きく強くなったように感じ、突然、妹や弟を傷付けるだけの能力を持っていると思えるのです。ある親達は私に、上の子供は『危険人物』だと言いました。つまり突然に害を及ぼすだけの能力を持っているということです。そしてこの上の子供に対して、非常に否定的な感情を抱くこともあり得ます。ですから、兄弟のライバル意識は、ある意味で、必ずしも子供の側だけではないのです。子供だけが変わるのではなく、親も最初の子供に対する見方を変えることがありえるのです。確かに親は新しい赤ちゃんに非常に強い所有欲を抱くので、自分達の間を邪魔しようとするものをすべて押し退けてしまいたくなります。私から見れば、これほど、兄弟のライバル意識を促進するものはないと思います。そして、これは重要なポイントです。

  もう一つ気づいたことがあります。それは、子供達が新しい赤ちゃんに対して様々な期待を抱いていることです。ちょうど親が2番目3番目の子供が生まれる時に家族とはこうあるべきだといった期待を抱くのと同様です。子供達が、赤ちゃんが自分の遊び相手や友達になってくれると期待しているのを、何度も何度も耳にするでしょう。そして赤ちゃんが期待通りでないことで、子供達は真剣に怒るのです。ですから、子供達から彼らが赤ちゃんから何を期待しているのかを聞き出すのは良い考えかもしれません。こちらからはあまり沢山話さず、ただ聞くだけです。例えば、「赤ちゃんが生まれたら、赤ちゃんと何をすると思う? 赤ちゃんってどんな感じか考えたことある?」など。まず彼らが何を期待しているのかが分かれば、もっと現実的になるのを助けてあげられるでしょう。誰か新生児のいる人達のところに連れて行ってあげてもいいでしょいう。彼らは赤ちゃんが本当に小さくてしわだらけなのを見るでしょう。そして皆がまわりに集まっては『本当にかわいいわ!』と言うのを。でも実際には赤ちゃんとは、両親や親戚以外にはそれほどかわいいとは言えないのです!」

 

愛はクッキーの入れ物ではない

  分け合う事は日常の家庭生活において必要な部分であり、子供達は確かに様々な持ち物や活動を共に分け合うことを学びます。しかし、幼い兄弟にとって、学ぶのが最も困難なレッスンとは、親からの世話や愛もまた兄弟姉妹と分け合わねばならないということです。どうしてそれに抵抗するのでしょう?兄弟達が、自分こそ母親や父親の関心を完全に独占しようと、執ように競うのはなぜでしょうか?

  実は幼い子供には、クッキーの入れ物のようなイメージがあるのです。つまり、入れ物の中身には限界があり、やがてなくなってしまうということです。パパやママが弟のBにその入れ物からクッキーを与えているのを見ると、兄のAは、自分がもらえるクッキーが1つ減ってしまったと思います。これはやや単純化しすぎのように思えるかもしれませんが、大勢の幼い子供達の一般的な考え方です。大人である私達は、親の愛情が独特のものであることが理解できます。それはひとりでに補給され、「使い果たされる」ことはないと分かっているのです。しかし、幼い子供にとっては難しい概念です。あなたの役割は、愛は無限のものであり、皆のために十分にあり、「クッキーの供給源」は正に無尽蔵であることを、子供達の一人一人にわからせることです。

  上の子が無視され、親の時間と関心がもっぱら新しい子供に集中しているのならば、上の子供に「私達は赤ちゃんもあなたも同じくらい愛しているのよ。」と言うだけでは十分ではありません。

  ある母親が、4歳になるトミーの事を無視して、新しい赤ちゃんにすべての関心と手間を注いでいる事をとがめられましたが、彼女は、「あら、トミーは私から愛されているってわかっているわよ。」と言って受け流しました。でもこう尋ねずにはいられませんでした。「どうやってトミーにそれがわかるの?」 子供達は親の行動に敏感で、素早く無言のメッセージを受け取って、解釈するものです。この場合、それほど明らかに母親の関心が赤ちゃんに集中しているなら、トミーは自分は大切な存在ではないのだと感じ始めるかもしれません。自分の見るものや感じるものを基準に、彼はそれが正しかろうが間違っていようが、とにかく自分が不正に扱われているという判断を下すかもしれないのです。構ってもらう事に飢えている4歳児が受け取るメッセージは、母親の愛が取り上げられ、今は他に注がれているというものです。トミーの反応は明白です。関心を得るためにもっと乱暴で手に負えなくなるか、憤りという殻に閉じこもってしまうかも知れません。

  愛情深い親なら、どんなに忙しくても、家庭のすべての子供の必要を満たすために時間を見付けなければなりません。トミーの場合、時々ぎゅっと抱きしめてあげたり、朝食や昼食の時に2人だけで話をしたり、新しいゲームやパズルをするのに少しの間彼を助けてあげるだけで、驚くほど変化があります。父親が仕事から帰宅した時にも、赤ちゃんの相手をする前に、まず息子の相手をするといいでしょう。こういった短い時間も、「トミーの時間」、つまり彼だけのためにとっておかれた時間となるのです。このような類いの関心、あるいは思いやりは、子供に、赤ちゃんと共に自分も本当に大切な存在と思われ、愛されているということを伝えます。

 

旅行と休暇

  休暇をとる場所に行く過程でも、それなりの小さな落とし穴があります。車かバスか飛行機かにかかわらず、誰が「一番いい」席に座るかについて口論が始まることがよくあります。車の前の座席に座るか、後部座席に座るかについての口げんかは、多くの家庭でならわしとなっています。

  提案:

  1)誰がどこにどれくらいの間座るかを前以て決めておく。

  2)皆で出来る遊びを決める。

  3)1番下の子供が眠ってしまったら、上の子供達はどうやって静かに遊ぶかを決める。

  4)どこで休憩するかを知らせる。

  5)一人で静かに遊ぶ時間がある事を知らせる。

  6)子供に自分の運ぶカバンを詰めさせるか、それを手伝ってやり、大好きなおもちゃや、ゲームや本で一杯にする。

  7)旅の付き添いとして必要なもの(ぬいぐるみ、いつも持ち歩いている毛布など)を持って行くものに入れる。

  8)「サバイバルバッグ」を詰める。中にはティッシュやウェットティッシュ、バンドエイド、安全ピン、ジュースの入った魔法びん、スナックなどを入れる。

 

家族での集まり/親戚訪問

  家族で一緒に行動する時には、親戚の家を訪問することもあるでしょう。まず、前もってその親戚と話して、以下のことをしましょう。

  1)他の子供達もそこにいるかどうか、また彼らの年令を聞く。

  2)彼らが子供達にして欲しいことや、遊んだり食べたりする場所などを聞く。

  3)子供が楽しめるように、ゲームやおもちゃなどを持って行くことを提案する。

  4)自分の子供について必要な情報を与える。例えば、ペニーは昼寝が必要だとか、ヘンリーは初対面の人には恥ずかしがること、フィリップは食物のアレルギーがあることなど。

  5)必要であれば、何か特別な食物を持って行くようにしましょう。

 

  今度は、自分の子供に「訪問する時の行儀作法」について話しましょう。彼らが「郷に入っては郷に従え」ということわざにならうのを助けてあげるのです。

 

  1)恥ずかしがり屋のヘンリーに、あなたが必ず近くにいると言って安心させる。

  2)おばあちゃん(叔父さん、叔母さん、いとこ)が何を期待しているのかについて話し合う。丁寧なあいさつ? 家の中で暴れないこと?

  3)兄弟げんかをしない? 他の子供達と仲よくする?

  4)子供達が会うことになる様々な人達について簡単に説明する。バージニアおばさんやいとこのジョー、ラッセルおじさんについて良い事を話すようにする。ずっと大人と一緒にいなくても良いことを子供達に言って安心させる。

  5)子供が十分に大きければ、家系図を書いてやると大喜びするかもしれません。

 

  親戚が自分の家に来るのなら、もてなす側としてどのように行動するのかを子供達と計画するにあたって、同様の秘訣を用いて下さい。

  1人か2人のお気にいりの親戚を持つという恵まれた家族もたくさんあります。−−いとこやおばさん、おじさん、また子供と心が通じ合っておじさん、おばさんと呼ばれるような仲になった特別な人達もそうです。

  こういったお気にいりの人達は、時として親の代理の役割をしたり、また誰よりも効果的に兄弟喧嘩を鎮められることもよくあります。なぜでしょうか? おそらく、子供達がこの特別な大人からの尊敬を失いたくないからでしょう。毎日毎日顔を合わせていることからくる、いつものプレッシャーを感じないのかもしれません。あるいは、単におばさんやおじさん、いとこなどが、子供達が喧嘩することを大目に見る人達ではないのかもしれません。

  子供達は、メアリーおばさんやいとこのトムといった親戚の人達と、自分の両親との関係とは一味違った関係を育んでいけると感じます。メアリーおばさんは何となく、もっと自分の話に耳を傾けたり、同情したり、慰めてくれる時間を持ち合わせているようだし、いとこのトムはいつもわくわくするようなハイキングに連れて行ってくれたり、模型飛行機や人形の家を組み立てるのを助けてくれるのです。

 

二人一組

  兄弟関係全般に渡って、双子の関係ほど風変りで独特のものはありません。他のどの二人兄弟とも全く異なった組み合わせなのです。

  この性質や違いをじっくりと見ていく前に、双子についての定義を幾つかあげてみましょう。

  一卵性双生児は、1つの卵子が受精する時に2つに分かれた結果です。同じ遺伝子源からきているので、一卵性双生児は必ず同性です。

  二卵性双生児は、2つの卵子が別々に受精し、子宮の中で一緒に育つことの結果です。二卵性双生児は、同性あるいは異性であることもあります。

  一卵性双生児は、容姿も声も似る傾向にあり、似たような成長の仕方をします。一卵性双生児は、血液型も同じで、顔かたちも全体の目や髪の色も、指紋でさえも同様になります。一方、二卵性双生児は普通、はっきりと肉体的違いが表れます。同性である場合も、異性である場合もありますが、どちらにしても、この二人は、かなり簡単に見分けがつきます。

  利 点:一卵性であろうと二卵性であろうと、生まれつき、仲間がすでにいます。つまり、まさに子宮の中から人生経験を共にする人がもう一人いるわけです。一般的に双子は、お互いを気にいり、受け入れます。そして(特に幼い頃には)双子でない兄弟関係と比べて、それほど摩擦も喧嘩もありません。家族の中に他の子供達、すなわち上か下の兄弟がいれば、双子は普通、彼らとはあまり深くかかわらず、自分達同士で満足しています。彼らの世界では、「二人なら気が合う」という格言が現実にあてはまるのです。

  双子はまた、常時分け合うという経験をしています。別々に、順番に生まれてきた子供達は、兄弟と分け合うことを学ばなくてはなりませんが、双子にとってそれは自然なことなのです。生まれた瞬間から、双子は親を分け合い、親が与えてくれる安心感も分け合います。成長するにつれて、彼らは子供時代の問題を共に経験して、外の世界に一つのチームとして立ち向かうことが出来るのです。この親密な関係プラスその状況の独自性によって、双子には余分な強みがあります。けれども、純粋な祝福ばかりではありません。近い兄弟である2人組には難点もあるのです。

  難 点:双子はほとんどいつも互い同士で比べられます。どれほど良い動機があって、ただほめたつもりだったとしても、このようにしょっちゅう比較されるのは、ある意味でどちらが優れているか判定されるようなもので、嫉妬や競争心を高める原因にもなり得ます。

  双子は絶えず一緒で、成長のほとんどの過程を共にするという自然な衝動に従うことから、お互いに対して非常に依存心が強くなり、離れていると不安になることがよくあります。場合によっては、幼い双子がほんの少しの間でさえ離れていると、泣いたり、ひどく心配することもあります。これは極端な例ですが、落とし穴と言えるでしょう。

 

双子のライバル意識

  幼い双子も、他の子供達と変わりません。親の愛情や、自信、達成感などを必要としています。また、嫉妬やライバル意識がかき立てられるのも同じです。

  双子であることから、おもちゃや持ち物を分け合うように求められることが多いかも知れません。しかしすべてを常に分け合う必要があると、怒りを引き起こしたり、ライバル意識を激しくすることにもなりかねません。ですから、可能なら、一緒に使うものに加えて、双子もそれぞれ別のおもちゃを持つことは大切です。

  兄弟間のライバル意識という、一般的な問題については、双子には重要な違いがもう一つあります。年令差がないことや、双子はどちらかといえば一緒に経験を共にしていくことから、年上、あるいは年下の兄弟の特権を羨むといったことはありません。二卵性双生児は、同じ頃に自転車に乗れるようになったり、保育園に行き始めたり、もっと遅くまで起きていることが許されたりなどするのです。兄弟間の摩擦が少ない傾向にあるのは、このせいもあります。

 

親の役割

  他の兄弟姉妹の状況と同様、親が努力すべき点とは、出来るだけ公平に、それぞれの子供を扱うということです。一個人としてです。プリンストンセンター幼児研究所の児童教育専門家は、双子に同じような響きの、かわいい名前をつけることには賛成しないと言っています。また、双子の子供達に全く同じ洋服を着せたり、同一のおもちゃや友人などを分け合うことを期待しないように、とも言っています。一般的に言って、双子には出来る限り、自分自身の好き嫌い、友人、能力や興味などを育むよう励ますべきです。プリンストンセンター幼児研究所の専門家達は、「親はそれぞれの子供を、別個の存在として扱うべきであり、双子を二人一組として見るのは避けるべきである。」と要約しています。

  双子を持つ親は、家族に一人で生まれた兄弟に対しても特別な責任があります。愛情を公平に注いでもらえなかったり、2人の子供が一度に生まれたことで親が興奮しすぎて、彼らの人生を暗くしないようにしなくてはいけないのです。一旦、誕生の騒ぎや興奮が冷めたら、関心を−−実際には余分な関心を−−他の子供に与えてあげましょう。彼らには、自分が真に愛され、家族の重要なメンバーであると知り、また感じることが、かつて以上に必要なのですから。

 

母子または父子家庭と

兄弟のライバル意識

  トーマス・L。ニューヨーク在住の離婚した父親がこう言っています。

 

  「ウェンディと私は、2年ほど前に別れました。ジェイミーが5歳、レスリーが8歳の時です。ウェンディも私も、今のところ再婚していません。子供達は現在、母親と住んでいて、隔週末と夏の間に少し、私のところへ来ます。私達はとても仲よくやっていますし、私はいつも彼らと近くあるようにしてきました。しかし、最初の年に、私はいくつかの微妙な変化に気付きました。離婚前にも、子供達はとてもよく喧嘩していて、今でもそうです。けれどもウェンディと私が別れてからは、どちらかと言えば、私の関心を買おうと張り合っているようなのです。多分、私とあまり会えないとか、そんな理由からでしょう。しかし、子供達は私の隣りに座ったり、私と話をしたいためにしょっちゅう争っています。」

 

  他にもこれと似たような子供達の反応を報告している親達が何人かいます。このような家庭では、兄弟間のライバル意識は激しくなりがちで、特に親の関心を得ようと争うようです。それぞれの子供が離婚のせいでやや不安に感じるのは仕方のないことで、一緒にいる親からより大きな関心を得ようと懸命になり、その権利が脅やかされることに対してより敏感になるようです。ですから、親の愛と承認を求めて争いが激しくなるのかも知れません。

  正反対の反応が起こる場合もあります。少なくとも離婚してしばらくの間、兄弟のライバル意識が減少したと報告してきた親が大勢います。これらの子供達は、突然に不安定になった状況に直面するために力を合わせるといった、一種の緊張緩和策を打ち立てるのです。離婚寸前の大人の仲たがいは特にきつく、大声をあげたり怒りのこもった口論を伴います。その中で、この類いの兄弟の協力が真剣さを増すのも納得がいきます。そのような時に、おそらく、いえ、実際に子供達は一定の安定感や支えを互いに求め合うので、自分達の間の不和は薄れていくのです。

  どちらの反応もやがて過ぎ去ります。最初の数ケ月が最も困難であると覚えておくとよいでしょう。段々と新しい生活が軌道に乗り、時がたつにつれ、子供達は結局のところ離婚が世の終わりではなかったことに気付くので、正常に戻ります。

 

継父、継母

  米国国勢調査局によれば、ステップファミリー(継家族)の状況にいる大人は、現在アメリカでは分割禁止3,500万人いるということです。離婚と再婚のパターンにより、幼い子供を連れた新しいステップファミリーが、毎日千以上も出来上がっているそうです。それに加えて、子供達が自分の親とその同棲相手と住む家庭、つまり再婚に似たような状況も多くあります。新しい人生や新しい家族関係を築こうと奮闘するこれらの大人達は、子育てや兄弟のライバル意識に関する問題を初めて身をもって経験することになるのです。

  「どうしてあなたの言うことなんか聞かなくちゃいけないの−−私の本当のパパじゃないのに!」

  「ママが再婚した人は、いつも自分の子供の肩ばかり持って、僕達の味方は絶対しないんだ。」

  「どうしてあの子に優しくしなくちゃいけないの? だって、あの子は私の本当の妹じゃないわ。」

  こういったコメントはステップファミリーが抱える問題の氷山の一角に過ぎません。しかし、大人が再婚して子供達を前の家族から連れてくる時に起こる問題をよく表わしています。皆が新しい家族の間での調和と幸福を求め、望むのが理想ですが、兄弟間のライバル意識も含めて現実には意外なストレスや緊張状態が発生するのです。それには、率直で正直に、また時にはほとんど超人的な忍耐を以て対処されなくてはなりません。

  ステップファミリーでしっかりと満足のいく家族関係を築くことは確かに困難な仕事です。しかし、これは到達可能なゴールであり、特定の原則を忘れないでおくなら、その過程で大いに助けになります。

  即座の愛:何よりもまず、即座に愛することができるようになるというのは、ありそうなことでも論理的でもないという事実を受け入れなければなりません。つまり、それを期待するのは単純すぎます。愛はクッキーの入れ物でもなければ、電気のスイッチでもありません。思い通りにつけたり消したり出来るものではないのです。愛情、信頼、暖かい感情、これらは皆、徐々に育まれるもの。成長し、深まるには、時間がかかります。特に幼い継子の間ではそうです。結局のところ、片方の親の子供がもう片方の親の子供に対して、即、自動的に愛情を感じなくてはならないという理由はないのですから。それどころか、しばしば幼い子供達は、この新しい組み合わせに対して、心配と疑い、また多くの場合には純粋な敵意を抱くものです。

  普通ライバル意識は、いずれは自然に解決され、受け入れられるレベルにまでおさまりますが、多くのことが大人達の公平さと忍耐にかかっています。それに、あまり現実離れした期待をしないことも大切です。

  継親の役割:即座の愛がステップファミリーにとって空想めいた理想であるのと同様、即座の親という概念もそうです。最近、子供のいる女性と再婚したある父親が、こう言いました。「良い親になるのは難しいと思っていましたが、良い継父になることの難しさとは比べものになりませんね。」

  継親の役割は、親の役割よりもはるかに多くの意識的努力を要します。というのも、継親が自然に振る舞うのは困難なことなのです。友人や親戚、また夫(あるいは妻)や子供達自身からも、自分が常にテストされていることを知っているからです。そして、継母の役割がたぶん最も難しいでしょう。自分の演技が観察され、評点をつけられているのを感じることがよくあるからです。従って、うまくそれをこなすには、「スーパーママ」にならなくてはならないのです。

  自分の子供と継子がけんかしているのを、えこひいきだと言って非難されずに止めることは、継父にはより困難なことです。そして、自分でも心の底にある動機を真剣に自問してみるといいかもしれません。逆に、この同じ親が、ひいきするのを恐れるあまり、自分の子供にはむやみにきつくなり、継子にはできるだけ寛大で、黙認しようとすることもあります。

  この板ばさみの状況に対処し克服するには、忍耐とねばり強さが必要です。近道も簡単な答えもありませんが、なされ得るのです。継親は、自分の役割が普通の親とは違う特別なものであることを認識しなければなりません。従って、普通の親にとっては子供達からの支持や承認を勝ち取るのはごく自然なことでも、継親はそのために、より懸命に努力しなくてはならないのです。長年に渡って試行錯誤を続けてきたある継母の言葉は、この事をうまく要約しています。

  「私は継子達の実の母親ではありません。それは私も子供達も知っていることです。しかし彼らはまた、一つの家庭に一緒に住むことについての、特定の単純なルールがあることも知っています。彼らの父親も私も、このルールに従うことを求めており、子供達は私が彼らを公平に扱うことを求めています。そして、お互いに正直に協力し合えば、ちゃんとうまくいくことがわかりました。」

 

まとめ

  親が兄弟間の争いを理解し、それに対応する上で助けになる様々なガイドラインを今まであげてきました。では、それらの提案の中からより重要な点を幾つか復習してみましょう。

  1)兄弟姉妹が競い合うのは普通のことである。ライバル意識は自分自身のことを学んだり、自分の強さや弱さを試すのに役立つ。

  2)喧嘩に論理的な「理由」を探さないこと、また、それを見付けるのを期待しないこと。兄弟間でのライバル意識の多くは、本能的なものである。2人の兄弟がおもちゃやクッキーをめぐって喧嘩する時、本当に問題なのはその物ではない。クッキーは、子供が「人生における公平な分け前」に飢えていることを象徴していることが多い。

  3)喧嘩には、その子供が、親の愛や関心を深く激しく必要としていることが原因であることが多い。それは親が、子供それぞれを一人の個人として扱い、出来るだけ惜しみなく愛情を与えなくてはいけない重要な理由である。

  4)ほとんどの場合、親は兄弟の口論に口出ししないのが、最善の策である。子供達が口論を終え、自分達でその喧嘩をおさめる時、自信と自立心を得る。もちろん、これは大人として社会に出る準備になる。

  5)暴力が使用された場合は、明らかに、介入しないという規則の例外である。親は、それが肉体的なものであれ、言葉の上であれ、兄弟の間で絶対に暴力を許すべきではない。この規則は幼い頃から実施し、断固として遂行されるべきである。

  6)必然的に、時には親は審判役として争いを鎮めるために呼ばれることがある。親の決断が下されなければならない時は、簡単で出来るだけ公平なものにすること。ただ、皆を喜ばせることは出来ないのを親も覚えておくこと。どの状況でもいつも100パーセント公平というのはあり得ない。

  7)親は子供同士を比べないようにすべきである。比較とは優劣を判断するようなものである。結局、双方にとって敗北となる。また、「親に気にいられている姉妹あるいは兄弟のようになる」ために自分の振る舞いを変えた子供はいない。

  8)分け合うことは重要なことである。しかし、どの子供にも自分の持ち物と、それらを保存する適切な場所を持つ権利がある。これらの権利は、家族全員から尊重されるべきである。

  9)新しい赤ちゃんの誕生は、上の子供あるいは子供達に多くの緊張を強いる傾向がある。赤ちゃんの必要は明らかに急を要するものの、これが、感情的であれ、肉体的なものであれ、他の子供達の必要を顧みなかったり、無関心になる原因となってはならない。

  10)年令、性別、生まれた順番などはすべて、子供の発育に影響している。子供が一人生まれる毎に、家庭はそれまでと同じではなくなり、全く同じペースで育つ子供達などいない。これは自分の子供を評価したり、自分の期待通りにならせようとせきたてる時に、しっかり頭に入れておくべきである。

  11)継親は意識的な努力を払わなくてはいけないことから、彼らが直面する感情的なプレッシャーは、普通の親よりも大きいことがよくある。継親は、本能的に自分の子供をひいきしたり保護しないように、気をつけていなければならない。逆に、自分がどれほど「公平か」を示そうと、極端な態度をとるべきでもない。真に公平なアプローチとは、子供達一人一人に対して正直に接し、その子供自身の必要や性質に応じて扱うことである。

  12)兄弟姉妹や、彼らの間でのライバル意識を扱う時、親の愛というものは、量が限られておらず、一杯一杯計って与えられる物でもないということを、頭に入れておくことが大切である。それぞれの子供は独自の存在で、個性を持った一人の人間であることを感じる必要がある。「公平に扱うこと」と「全く同じ扱いをすること」は必ずしも同じではない。子供は、それぞれ独自の異なった必要を抱えている。

  それぞれの家庭は、独自の性質を備え、それなりの悩みや必要や特別な心配があります。しかし、皆に共通して言えることは、家族が一緒に住み、家族関係を築いていくことの必要性です。家庭とは、子供達の未来を形造るのを助ける場であり、私達が愛や知恵や配慮、理解を示すことで、彼らの未来をより希望に満ち、満足感があり、より成功したものにするために貢献できるのです。

 

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子供の魂は、神の庭に咲く

一番美しい花のよう。

世話を受けながら、

そのか弱い存在は知識と力を受け、

土のかたまりの中から大空へと伸び、

  美しく優しく育つ。

世話を怠れば、

  いたずらに荒々しくなってしまう。

もろく、驚くほどに希な花、

それが優しく、夢いっぱいの子供の魂。

庭師よ、どうか心を込めて、

必要な水や、暖かさや光をあげて下さい。

霜や害虫から花を守るため、

念入りな世話を怠らないで。

花開く時、喜びは来る。

繊細な子供の魂に

まるで天使が微笑んだかのような、

言葉にならない美しさと優しさを映し出して。

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"SIBLING RIVALRY"--JAPANESE.