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できる内にしつけなさい!

−ジェームズ・ドブソン著

 

前書き

  家庭という船を進めていくには、進むべき方向を明確に表す境界線がなくてはなりません。私達には、子供達を安全に健康に育てる助けとなる何らかの指針が必要です。この本では、特に「強情な」子供のしつけを取り上げていきます。殆どの家庭には、世界はどのように動いているべきかについて非常に強い考えを持っていて、自分と意見の違う人に対して忍耐のない子供が少なくとも一人はいます。

  頑固な子供というのは、たいてい自分より素直な兄弟達よりもより創造的な可能性と個性を持っていると私は確信しています。しかし、それには条件があります。親がその衝動的な性格をうまく導き、その乱暴なまでの意志の強さをうまくコントロールしてやらなくてはいけないのです。以下は、その目的のために書かれました。

 

奔放でつかみどころのない意志!

  犬は時々、主人の権威に挑戦しますが、幼い子供もそれと同じことをします。それも犬以上にするのです。これは取るに足らない意見などではなく、人間の生まれつきの性質に関することです。けれども、しつけに関する本を書く「専門家」たちは、めったにこのことに気付いて(あるいは認めて)いません。子供の意志との対決は実に疲れるものです。そして、ほとんどの親や教師がいつもこれを経験しているというのに、親や教師向けに書かれたもので、その苦闘を指摘しているものを私はまだ見たことがないのです。大人の支配権が、若い世代から抵抗もなしにすんなり受け入れられることなど殆どありません。子供や若者は、服従することや指示に従うことを大人から要求されると、大人の支配権を「テストし」、従うに値するものかどうかを必ず確認しようとするのです。

  しかし、どうして子供はそんなに喧嘩好きなのでしょうか? 子供達が正義や規則や秩序や安定した境界を愛することは周知の事実です。聖書のヘブル人への手紙の著者も、しつけを受けない子供は、自分が私生児のようで、家族の一員でないように感じると書いています。(ヘブル12:8参照) ではどうして、親はすべての衝突を静かな話し合いや説明、頭をなでることによって解決することができないのでしょうか? 答えは子供の不思議な価値観にあります。子供は、(愛と組み合わさった)強さと勇気を尊敬するのです。

  この強さと勇気に対する尊敬から、子供は自分のリーダーがどれだけ「タフ」かも知りたいという思いに駆られます。親がどれだけ堅く決意しているかをテストするというはっきりした目的のために、時折、親の指示に背くのです。「酋長への挑戦」と呼ばれるこの反抗ゲームは、非常に幼い子供でも、驚くほど高度なテクニックを使って行うのです。その反抗の種が成長し、人生に大損害を与える可能性もあります。その悩みの多い思春期において、そのとげのある雑草がいっそうからみあって大きなイバラになるかもしれません。

 

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  テキサス州のヒューストン警察署は、不良少年を育てるための規則が書かれたパンフレットを発行しました。内容は以下の通りです。

  「赤ん坊の時からほしがる物は何でも与えること。悪い言葉を覚えたら、笑ってあげること。絶対に精神面での訓練を行わないこと。精神面や道徳面については、21歳になってから自分で選択させる。『いけない』という言葉を使わない。子供は罪悪感を覚えるかもしれないから。子供のために何でもしてやること。そうすれば、子供は何でも責任は他人に押しつけるようになる。何でも手に入る印刷物は片っ端から読むのを許すこと。

  子供の前で頻繁に喧嘩すること。そうすれば家庭が崩壊しても、ショックが少なくてすむ。小遣いは望むだけ与える。若い頃に自分がしたような苦労を子供にはさせるべきではない。そして、悲嘆にくれる人生を送る準備をしなさい。必ずそうなるから!」

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  反抗的に挑戦してくる子供に真っ向から対決するのを親が拒むと、その親子関係には変化が生じます。子供は、父母に対する尊敬を失い始め、父母は自分が服従するにふさわしい人間ではないと思うようになるのです。さらに深刻なことに、そんなに自分を愛してくれているのなら、どうして悪いことをしたい放題にさせておくのだろうと考えます。子供たちの考えで最も矛盾したように見えるもの、それは、子供たちは親に導いてもらいたいのですが、父母が、子供を導く権利を行いで獲得することを望んでいることです。

  独断的で独立的な子供を持つ親に私が真っ先に提供したいアドバイスとは、幼い内から子供の意志を形づくり始めることの重要性についてです。この仮定を証明するのは困難ですが、しかし、反抗的な子供は大人になってから反社会的行動を取る「危険度が高い」と、私は心から信じています。けれども、全体的に見れば暗い見通しではないことも私は強調したいと思います。強情な子供というのは、素直な子供達よりもより個性が強く、実り多き人生を送る可能性が高いのです。しかし、それが実現するかどうかは、子供が幼い内から厳しいながらも愛のこもった家庭環境で育つか否かにかかっていると言えるでしょう。ですから、私はもう一度忠告を繰り返します。子供がまだよちよち歩きの頃に、子供の意志を形づくり始めなさい。(ただし、子供の意志を砕けとか、たたきつぶせとか、抹殺せよと言っているのではありません!)

 

反抗? それとも、 責任を問われない行為?

  質問:私には、強情な反抗と、責任を問われない子供っぽい行為との違いがよくわかりません。説明していただけますか?

  回答:強情な反抗は、その名の通りわざと背く事です。これは、子供が親から何を期待されているかを知っていながら、横柄にもそれと反対のことをする事を自分で選択する時を言います。つまり、親の指揮権を認めるのを拒むことで、呼ばれたのに逃げたり、親を侮辱するような言葉をわめいたり、明らかに不従順な行為をする事などです。それとは逆に、責任を問われない子供っぽい行為というのは、うっかり忘れていたり、アクシデントや間違い、また、集中力が続かなかったり、欲求不満に堪えることができないとか、未熟な事などが原因です。しかし、前者の場合は、子供は自分が悪いことをしていると知っていて、親がそれにどう対処するか見ようとしているのです。後者の場合は、自分が計画もしていなかったような結果に知らずになってしまったのです。私の意見としては、子供に責任を教えるために体罰を適用するのは間違いです。(もちろん、子供が大胆にそれを受け入れることを拒むのなら別ですが) 私達は子供が後になって自らの意志で神に従うようになるための準備として、私達の愛ある指導に服従するよう教えるべきです。

 

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  あなたは子供の内に、自分の蒔いたものを刈り取ることになる。特に、子供をしつけないなら! 子供を行くべき道に従って訓練すること(箴言22:6)こそ、親としての役目である。

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意志を形づくる!

  誕生から7か月まで:子供が6か月になる頃には、するなと言われていたことをした場合、時々ぴしゃっとたたかれる事によって(たいていは手を)学べるはずです。その頃には、どうしていけないのかその理由はわかっていなくとも、「いけません」の意味はほとんど必ずと言っていいほどわかっています。例えばあなたの眼鏡を無理に引っ張るなら、それが割れてしまうからといった理由はわからなくとも、「だめよ」と言う言葉はわかるので、あなたの言うことに逆らうなら、それは不従順を犯しているのだと悟ります。けれども、おむつを変える時にもがいたり、深夜に泣くことで6か月の子供をたたくのは重大な間違いです。何と言っても、それくらい幼い子供は、抱き締められ、愛されること、さらに大切な事として、なだめてくれる人間の声が必要なのです。お腹が空いている時には食べさせてもらい、きれいにしてもらい、おむつも替えてもらい、暖かくしてもらっているべきです。

  その一方で、メソメソ泣いたり、溜め息をつく度に急いで子供を抱き上げるなら、機嫌が悪く、わがままな赤ん坊にしてしまう可能性もあります。赤ん坊は、強化と呼ばれる過程を通して親をうまく操ることを学ぶ能力を十分備えています。それによって、自分の気に入る結果を生み出すような行為を親が繰り返し行うようにするのです。だから、健康な

赤ん坊はただ泣き声をあげるだけで、母親を昼間(または夜)12時間も自分のまわりでおろおろさせておくことができます。こんな結果にならないよう、子供に必要なだけ構ってあげることと小さな独裁者にさせてしまうことの間で適切なバランスを見いださなくてはいけません。

  しかし、要求の強いその独裁者が、永遠の魂を持ち、創造主の心の中で特別な位置を占める、よく考え、愛する人間となるのです。疲れきっていて悩まされてばかりの新しいお母さんたちに一言言わせて下さい。「頑張って下さい! あなたは宇宙で一番重要な仕事をしているのだから!」

  8か月から1歳2か月:大勢の子供達は次の7か月間に親の権威をテストし始めます。1歳の誕生日の頃には、対決は小さく、まれですが、それは将来の苦闘を暗示するかのようです。

 

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  規則や罰や判決を定める時には、必ず御霊に導かれてしなさい。守るのが難しすぎたり、厳しすぎるものは定めず、怒って、または祈りぬきで施行することがないように。

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  親はどのように1歳児をしつけるべきでしょうか? 非常に注意深く、優しくです! この年の子供は、他に注意をそらしたりするのがかなり簡単です。子供の手から陶器のカップを奪い取るよりは、代わりに子供の関心を引く何か色鮮やかなものを見せ、子供がカップに関心を失って落っことす時のために、それを受け止める準備をしていましょう。どうしても対決しなくてはいけない状況が生じたなら、あくまでも断固とした態度をとることで子供を従わせるようにし、手をピシャリとやるのは最後の手段とすることです。改めて言いますが、子供が泣いてもためらわないで下さい。涙は、昼寝やおふろを拒んだり、夜寝る時間を遅らせるための強力な武器となりえるからです。子供に厳しくしすぎたり、意地悪にしたり、荒々しい扱いをすることなしに、子供を導くだけの勇気を持ちましょう。

  1歳3か月から2歳になる前まで:すべての人間は大きく二つに分かれると言われています。人生での様々な提案に対して「賛成」側に回る人々と、「反対」側に回る人々です。世界中のすべてのよちよち歩きの子供は否定的な立場を取ると、私は確信をもって言うことができます! 1歳3か月から2歳までの子供達の特徴を一言で言い表すとすれば、それは、否定的なことです。ご飯を食べたくない、おもちゃで遊びたくない、いつでも絶対にベッドに行きたくない、という具合に。

  よちよち歩きの子供を育てる時に生じる緊張を和らげるのではないかと思うしつけに関する助言を幾つかここに挙げましょう。しかしその前に、この不安定な時期の否定的な態度は、正常かつ健康的であり、1歳半の子供に5歳児のように振る舞わせるのは不可能であると、とりあえず言っておきます。

  さて第一の助言。これは明らかな理由が伴っていますが、父親がしつけを助け、可能な限り子育てに参加することがこの上もなく重要であるということです。

  特に、強情なよちよち歩きの子供のしつけにおいては、1歳3か月から1歳半の間に軽いお仕置きを始めることができます。しかし、ほんの時たま、反抗する時だけにしなくてはいけません。

  痛いお仕置きをするべきでしょうか? そうです。さもないと、子供に何の影響も与えないでしょう。濡れた3枚重ねのおむつの上からピシャリとたたいても、子供に親が教えたい事をしっかりわからせることはできません。しかし、幼い子供には少し痛みを覚えさせると効果絶大です。必ずしもムチで打たなくてはいけないという事はありません。足やお尻に痛いのを2、3発くらわすだけで、たいていは、「おまえは私に従わなくてはいけない」という要点を子供は理解します。そして最後のポイントですが、お仕置きは、子供が悪い事をした直後にする事が非常に大切です。そうでないなら、全然お仕置きしないほうがましです。よちよち歩きの子供の記憶力では、正当な処置が10分遅れただけで、自分が何の為にお仕置きされているのかわからなくなってしまうからです。お仕置きが終わり、涙も止まったところで、子供は、父か母に抱き締めてもらいたがり、慰めを求めることでしょう。そういう子供を絶対に拒んではいけません。愛をこめて子供を腕に抱き、しっかりと包んであげて下さい。優しくゆらしてあげなさい。どんなに子供のことを愛しているかや、どうして子供は「パパが言った通りにする」必要があるのかを教えてあげて下さい。これは、一日の内で最も大切なひとときかもしれません。

  学び進歩する為に必要な自然な行動をした子供を罰したりしないようにと、私は親の皆さんに忠告します。たとえば自分のいる環境を探検するのは、知的な面での刺激に非常に重要です。私達大人は、クリスタルの装飾品を見ると、それを目で観察する事によって、自分のほしい情報を全部得ます。しかし、よちよち歩きの子供達は、それを手に取り、味わい、においをかぎ、振り回し、壁にぶつけ、部屋の向こうに投げて、それが砕ける時に美しい音がするのを聞くのです。その過程から、子供は重力や、3(140)  

なめらかな表面とざらざらした表面、グラスのもろい性質、そして、母の怒りについて幾つかの驚くべき事柄を学ぶのです。

  私は、子供が家とそこにあるすべての物を破壊するのを許すべきだと提案しているのでしょうか?いいえ、ですが、好奇心いっぱいの子供に、じっと手を動かさないでいるよう期待するのも正しくはありません。親は壊れやすい物や特に危険な物を取り除いておくべきです。

  2歳と3歳:多分、「恐ろしい2歳児」について最もいらいらさせられる要因とは、子供が何かをこぼしたり、物を壊したり、普通では考えられないものを口に入れたり、何かから落ちたり、トイレに物を流したり、生き物を殺したり、危険な場所に入り込んだりする傾向があることです。また、昼食の席で近くの人に向かってくしゃみを飛ばすなど、大人が赤面するようなことがお手のものだということです。この幼児期には、子供がどういうわけか30秒以上静かにしていると、大人は突然パニック状態に陥ります。

  あなたが正気でいるためにも、2歳と3歳の時期にはユーモアのセンスを失わないようにしなくてはいけません。しかし、それと同時に、権威に対する従順と尊敬をしっかり教え込むという仕事も遂行する必要があります。まだよちよち歩きの頃からいつもいつも大人との対決や衝突に勝利しているなら、2歳、3歳になるともっと手に負えなくなってしまいます。そして、幼い頭の中には、権威に尊敬を払わないという生涯に渡る考え方が定着し始めてしまうことがよくあります。ですから、以下の二つの明確なメッセージを、2歳になる前に子供の心にしっかり刻み込んでおくことの重要性は、いくら強調してもし足りないくらいです。

1)「おまえが想像もできないくらい私はおまえのことを愛しているよ。おまえは私にとって大切な存在で、私におまえを育てさせて下さっている神に毎日感謝しているよ!」

2)「おまえを愛しているから、私に従うように教えるんだよ。おまえの世話をし、害になるようなことからおまえを守る方法はそれしかないんだ。聖書の言葉を読もう。『子たる者よ、主にあって両親に従いなさい。』」(エペソ6:1)

  健全な子育てとは、つまるところ、愛と統制という二つの重要な要素から成り立っています。この二つの間で行き過ぎを抑えて均衡を取るのです。愛することばかりに専念して統制を怠るなら、たいていは子供が親を尊敬しなくなり、親を軽蔑するようになってしまいます。

  具体的に言って、「いたずらな」2歳児や3歳児をどうやってしつければいいのでしょうか? 考えられる一つの方法は、子供を椅子に座らせ、自分のしたことについて反省させることです。この年頃の子供は大半がエネルギーのかたまりで、10分間も椅子に座ったままじっとしているなんて絶対にいやがります。子供によっては、この種類の罰のほうがお仕置きするよりもずっと効果があり、長く覚えています。

 

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  子供のしつけは、その子供自身の必要や性格にあったものではなくてはいけない! 子供によって大きく違う。何が子供に一番効果があるかによって。

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  4歳から8歳まで:子供が4歳になる頃には、しつけは、振る舞いだけでなく、その振る舞いを起こす原因となった子供の態度にも焦点があてられるべきです。この性格形成という仕事は、幾分簡単なこともあれば、途方もなく困難なこともあります。それは、子供の本来の気質によって違ってきます。生れつき温厚で優しく、素直な子供もいれば、世界中のみんなが自分を攻撃していると考える子供もいます。ある子供は与えることや分かち合うことを楽しむけれども、その兄弟は利己的でわがままだという場合もあります。1日中ほほ笑んでいる子供もいれば、歯磨きから植物に至るまで何でもかんでも不平や泣き言を言う子供もいます。

  しかし、子供の態度を良い方向に形づくるにはどうしたらよいのでしょうか? たいていの親にとっては、不快な子供の気質や性格に対処するよりは、あからさまな不従順に対処するほうがより簡単です。親のための昔からある助言を、ここに記しておきましょう。

  1.子供に望む振るまいを教えるのに、良き手本を示す事にまさる方法はありません。誰かがこう書いていました。「子供がたどる足跡というのは、たいてい、親がうまく隠したと思ったものである事がよくある。」これは真実です。子供達は親を注意深く見守っていて、本能的に親の行動をまねるのです。だから、私達自身がいつも不平ばかり言い、利己的なら、子供が親切で喜んで与える人になる事を期待するのは殆ど無理というものです。また私達が家庭や外で、「お願いします」や「ありがとう」を決して言わないのに、子供達に感謝する事を教える事などできません。電話をかけてきた借金の取立人に対して、「お父さんは出かけてる」と子供に嘘を言わせるなら、正直な子供を育てる事はできません。このような事に関して、子供達は即座に私達の言葉と行動の違いを見分けてしまうからです。そして選択する時には、たいていは、私達の行動のほうを選び、口先だけの説教など無視するのです。

  2.子供に教えるべき好ましい行為のほとんどは聖書に基づいており、それらは、正直さ、尊敬、親切、愛、高潔、従順、責任などです。では、これらの名誉ある道義はいかにして次の世代に伝えられるべきでしょうか? 答えは、4千年以上も前にモーセの申命記に記されています。「子供達を教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝る時も起きてすぐの時も、これを語り聞かせなさい。さらに、これを自分の指に結び、額につけ、あなたの家の戸口の柱にも書き記しなさい。」(申命記6:7-9) つまり、子供にこれらの態度を植え付けるには、たった2分間の短い寝る前の祈りや、たまにする特別な訓練の機会だけでは十分でないということです。私達は朝から晩まで、それを自ら実践しなくてはいけないのです。

  9歳から12歳まで:青春期を直前にひかえたこの年令層の場合には、体罰はごくまれにしか与えるべきではありません。もちろん、まるで体罰をしてくれと言わんばかりの強情な子供達の中には、実際に体罰を受けるべき子供達もいます。しかし、素直な子供達は、10歳を過ぎると大きな体罰を受けることはなくなるはずです。

  この青春期直前の子供に対する全体的な目標は、自分の行動には必ず何らかの結果が伴うということを教えることです。これらの二つの要因、つまり、行動と結果を結びつけるのを怠ったことは、寛大すぎる社会がもたらした深刻な問題の一つです。

  最善の方法は、少年少女にその年令に合った責任を負うことを期待し、時たま、無責任から生じた苦々しい結果を味わわせることです。

  次に紹介する実話は、11,2歳の子供達に読ませてあげたらいいでしょう。これは、日食が起こった数日後にユナイテッド・プレス・インターナショナルが掲載したものです。

 

  「ただじっと見つめていました。」「すっかり夢中になってしまって」 盲目になった少女は日食についてこう語った!

  ティプトン、インディアナ。(UPI)−−アン・ターナー(15)は、日食を裸眼で見ることの危険の生き証人である。彼女は盲目になってしまった。3月7日、警告を読んでいたにもかかわらず、自宅でアンは進行中の日食を見るため、「窓の外にさっと目が行ってしまった。」と言う。「どういうわけか、じっと窓から見つめ続けていたんです。」とアンはティプトン・デイリー・トリビューン紙のパット・クライン記者に語った。「空で起こっていることにすっかり夢中になってしまって。見ている時には、何の痛みも不快感もありませんでした。多分4分か5分見ていたと思います。そしたら母がそれを見つけて、私を窓から離しました。」 その時に、「目の前に点が幾つか見えたけれども、あまり深刻に受け止めなかった」と言う。そのすぐ後に町に歩いて出たが、信号を見た時に自分がそれが見分けられないことに気がついた。おびえたアンはすぐに家に引き返したが、家のポーチが近づいた時には、「闇の中を歩いていた」と言う。怖くなった彼女は、翌日まで家族にこのことを黙っていたが、「何か恐ろしい事が起こっているのではと直感した」とのことだ。彼女はこう言う。「私は激しく泣きました。盲になりたくなかったんです。神は、私が一生闇の中に住みたくはないことを知っておられます。この悪夢が終わって、また目が見えるようになることを願いましたが、闇はますます深くなっていきました。私は怖くなりました。両親や他の人達からの警告に背いたんです。起こってしまったことを変えることはできませんでした。手遅れだったんです。」

  そのことを知ったコイ・ターナー夫妻はアンを専門医の所に連れて行ったが、医者たちは首を振り、アンが見えるようになるのは不可能だと言うだけだった。彼女は90%盲目で、以前の彼女の正常な時の視野の範囲内にある大きな物体の輪郭がかすかに見えるだけだと言う。彼女は、家庭教師の助けによって勉学は続けていくつもりだとのことだ。そして今、闇の世界に順応することを学んでいる。

 

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  従順という容易な道を行くのを拒むなら、聖書にはこうある。「背く者の道は困難である」−−箴言13:15

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  この劇的な物語を少年少女に読んで聞かせた後で、こう言うのが賢明でしょう。「こんな恐ろしいことがアンに起こったのは、アンが親や他の大人の言ったことを信用しなかったからだ。その代わりに、自分の判断に頼ってしまった。これをおまえに読んで聞かせたのは、おまえもすぐにアンと似たような状況に遭遇するようになると理解してほしいからだ。ティーンエージャーになると、私達から害があると教えられてきたことを実際にためしてみるチャンスにたくさんめぐりあうことだろう。例えば、一見したところ、また実際に試してみても、さほど害がありそうには思えない麻薬を誰かがおまえに勧めることもあるだろう。ちょうどアンのように、手遅れになるまでその結果に気がつくことはないかもしれない。だから、おまえが自分自身の判断に頼るよりは、教えられてきた警告を信じることが重要になるんだ。一生に影響を及ぼすような間違いを十代の時に犯す若者は大勢いる。だから、おまえがそのような問題に陥らないように助けたいんだ。しかし、本当のことを言えば、おまえの進路を定め、行くべき道を選べるのはおまえ本人だけなんだ。アンのように自分の目による判断に頼ることもできるし、あるいは、母さんや私が言ったこと、さらに大切なこととして、神のみ言葉で読んだことを信じることもできる。おまえは正しい決断をすると信頼しているし、おまえの成長を見守るのは楽しみだ。」

  まとめ:親が子供の動機や状況を理解していない限り、子供を正しくしつけることは不可能です。体罰はあからさまな不従順や反抗に対してだけ行われるべきです。

  「しかし、それがあからさまな反抗だと知る、確実な方法は何なのか?」という質問を、私は何百回も受けました。たとえばある母親がこう言うとします。「私がおふろに入りなさいと言った時に、息子は生意気な口のききかたをしたと思います。でも、あの子が何を考えているかわからなくって。」

  この親のジレンマを解決する、簡単な方法があります。最初にそういうことが起こった時を利用して、次の時のことをはっきりさせておくのです。たとえばこんなふうに。「チャック、今の答えかたは生意気に聞こえたわ。どういう意味で言ったのかよくわからないの。でも私たちがお互いにもっと理解し合えるように、もうそんな話しかたは私にしないでね。」 もし、もう一度そのようなことがあれば、わざとしているのだとわかります。

  しつけの方法について混乱があるのは、たいてい親が適切な限界をはっきりさせておくのを怠ったからです。容認できることとできないことについて親があいまいなら、子供はその2倍混乱してしまいます。だから、誤解の余地がないほどに非常に明確に限界を定めるまでは、罰を与えてはいけません。限界がはっきりしているなら、たいていの子供はそれを受け入れ、破ることはめったにないでしょう。

 

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  あなたは子供に自分が本気で言っていることを教えなくてはいけない! 本気で言っていて、その言葉を守り、子供がそのことを承知しているような種類のしつけしかうまくいかない。

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 「子供に行動させるにはどうしたらいいのですか?」

  質問:子供に怒るなとおっしゃるのは簡単でしょうが、時々子供は私をかんかんに怒らせるようなことをするんです! 例えば、10歳の娘を毎朝スクールバスに乗せるのに、ものすごく苦労しています。私からしつこく言われてやっと起きても、のろのろしていて、私が部屋を出るとすぐ、ぐずぐずして何もしないんです。だから、5分おきに追いたて、せきたて、口を酸っぱくして警告します。そうでもしないと遅刻してしまうんです。だから、私はますますかっかしてきて、しまいには子供にわめきちらす事がほとんどです。これはどうしようもない子供を扱う最善の方法じゃないと知ってはいるんですが、本当に、娘をこっぴどくやっつけたい気持ちになってきます! どうしたら、娘にさっさと行動させることができて、毎日こんなにかっかしなくて済むのか教えて下さい。

  回答:あなたは娘さんが毎朝学校に行けるよう準備するという責任は自分のものと思いこんでいますね。だから、娘さんに主導権を握られているのです。10歳の子供なら、自分でその仕事ができるはずですが、あなたが怒っても、娘さんがちゃんとするようにはならないでしょう。私達も去年、娘のことで似たような問題がありました。私達が見いだした解決策はあなたの助けになるかもしれません。

  ディネーの朝の時間の問題は、おもに自分の部屋をきれいにしなくてはいけないことに関係していました。ディネーはベッドが完璧にきれいに整えられ、すべてのこまごまとした物も整頓されていない限り、学校に行こうとはしません。私達がそう教えたわけでもないのに、自分の持ち物についてたいそう細かいのです。(付け加えておきますが、弟のライアンはそんな問題は全くありません!) ディネーはやる気がある時は簡単にそのような仕事を終えられるのですが、一度として特に急いだことはありませんでした。だから、妻は毎日、あなたが言っていたのと同じような状態に陥り始めました。警告したり、脅したり、罰したり、せきたてたり、ついには時計の針が刻々と学校に行く時間に近づくにつれて怒ったりもしたのです。

  シャーリーと私はその問題について話し合い、朝の時間の使い方として何かもっと良い方法があるに違いないという事で意見が一致しました。私は後で、「チェックポイント」と呼ばれるシステムを作りました。方法はこうです。ディネーは、毎朝6時半になる前に起きてベッドから出るよう指示されています。ラジオ時計をセットして起きるのはディネーの責任です。定刻通りに起きれたなら(1分遅れでさえも遅刻とみなされます。)、キッチンに直行します。そこの冷蔵庫に表が貼ってあるのです。それから、その日の最初のチェックポイントについて、「はい」か「いいえ」をまるで囲みます。これ以上に簡単なことはありません。ただ、6時半までに起きたか起きなかったかだけですから。

  2番目のチェックポイントは、40分後の7時10分です。満足のゆくまで部屋をきちんとして、着替え、歯を磨き、髪の毛をとかしたりした後、少し読書もできるようにしておきます。以上の仕事のためには40分もあれば十分です。実のところ、本人がさっさと済ませたいなら10分か15分でできるのです。だから、わざとなまける以外にこの第二ポイントを逃すことなど考えられません。

  さて、このチェックポイントにはどんな意味があるのでしょうか? それを逃してしまったからといって娘が猛烈に怒ったり、じだんだを踏んだりするでしょうか? もちろんしません。その結果は率直で公平です。ディネーが一つのチェックポイントをミスするなら、その夜いつもより30分早く寝なくてはいけません。もし二つミスするなら、いつもより1時間早く寝なくてはいけません。その間ベッドで読書をすることは許されているものの、テレビを見たり、電話で話すことは禁じられています。この方法によって、プレッシャーはシャーリーの肩から、もともと負うべき娘の肩に移りました。妻が朝食の準備にやっと間に合う頃に起きてくると、ちゃんと服を着て、すっかり目が覚めているディネーが一人ぽつんと真剣な顔でテーブルについていることも幾度かありました。

  このしつけの方法は、子供の行動のことで同じような問題を抱えている親にも使える実例です。別に押しつけがましくもなく、そればかりか、ディネーは努力目標があるのを楽しんでいるようです。

 

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  規則を定めるのを子供が手伝ったなら、子供はもっと規則に気をつけるようになる。そして、それに従う可能性は高く、自ら引き起こしてしまった結果を受け入れやすくなる傾向がある。

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「だめ!」

  質問:子供のしつけで親がよくやる間違いは他に何がありますか?

  回答:一つは、子供に対して「だめ」と言う習慣に陥りやすいことがあげられます。「外に行ってはだめだ。」、「ビスケットを食べてはだめだ」、「電話を使ってはだめだ」、「友達と外泊してはだめだ」 私達親は、沢山の要請に対して肯定的に答えることもできるのに、ほとんど即座に否定的な答えをするのです。どうしてでしょうか? それは、私達がそこで結果について考えることをしないからです。また、子供に「いいよ」と言うなら、私達にとって手間がかかったり、気をつかわなくてはいけなくなるからです。また、それが危険かもしれないからです。子供は1日に千回くらい頼み事をしてくるので、全部拒否するほうが楽だということも言えます。

  子供はぜいたくすぎるような願いは、却下されることに慣れる必要があるものの、親もそれぞれの要求の利点を個別に考慮する必要があります。人生には、どうしても「だめ」なことがたくさんあるので、できる時にはいつでも「いいよ」と言うべきです。

  つまるところ、立派な子育ての鍵とは、子供が見るものを見、子供の感じるものを感じることができるようになることです。子供が孤独な時には、あなたが一緒にいてやることが必要です。反抗している時には、その衝動を抑えるためにあなたの助けが必要です。恐れている時には、あなたから抱き締められることで安心する必要があります。好奇心を抱いている時には、あなたの忍耐ある導きが必要なのです。幸福な時には、その笑いと喜びを自分を愛する人達と分かち合う必要があります。

  子供の感情が直観的にわかる親は、適切に反応し、子供の明らかな必要に応じることができます。そうなると、健全な子供を育てることは高度に進歩した芸術となり、神が私達に与えて下さった大いなる知恵と忍耐と献身と愛とを要します。使徒パウロはそのようなクリスチャンの人生を「あなたがたのなすべき奉仕」であると言いました。私達親は子供の振る舞いについても同じ基準を適用するために頑張るべきです。

 

家庭内のライバル意識がもたらす災い

  1.子供の自然の嫉妬心をかきたてるようなことをしない。言うまでもなく、家庭でのライバル意識は目新しいことではありません。歴史に残る最初の殺人もこれが原因でした。それ以来、二人の子供のいる家庭ではどこでもこれが存在しているのです。この衝突の根本原因は、昔からある子供同士の嫉妬や競争です。

  嫉妬がそれほどありふれたものであるのなら、どうしたら親は、子供が時々兄弟や姉妹に対して感じる敵対心を減らすことができるでしょうか? 最初のステップは、子供達が互いに否定的に比べ合わないような環境を作るよう心がけることです。講演家のビル・ゴタードは、劣等感の根源はすべて比較することにあると言っています。私も同感です。「私はうまくやっているだろうか?」ではなく、「ジョンやスティーブンやマリオンに比べて自分はうまくやっているだろうか?」と考えるのです。自分がどれだけ速く走れるかではなく、誰が一番最初にゴールラインを通過するかが問題となります。

  状況に応じて、親は、他の子よりも一人の子をひいきするような、子供同士比較する発言を控えるようにすべきです。これは三つの面に関して言えることです。第一に、身体的な魅力や特徴について子供は極端なほど繊細です。例えば、たまたまシャロンが、親が自分の姉のことをこう言っているのを聞いてしまったとします。「ベティーはきっとすごい美人になるわね。」 しかしシャロンのことは語られなかったことで、この姉妹は互いにライバルになるかもしれません。

  第二に、知性というのも、細心の注意をこめて扱われる必要がある非常に繊細な話題です。親が子供の前で、「下の子のほうが上の子よりも賢いと思う」などと言うのも珍しいことではありません。大人は、そのような評価が子供の心にどんなに強い影響を与えるかなかなか理解していないのです。

 

  第三に、子供達(特に男の子)は運動神経について極端に競争心を抱きやすいようです。兄弟よりものろく、弱く、運動神経が劣っている子供は、自分が一番でないことを潔く受け入れることがなかなかできません。

  容姿や頭の良さや運動神経については、親が自分を他の兄弟や姉妹と同等に尊重してくれていると子供は知っているようにすべきです。他の子供よりも世の中で成功する子供も必ず出てきますが、家庭での賛美や批判はできるだけ平等に行われるべきです。

 

  2.実行可能な賞罰システムを確立する。あなたの最も大切な責任の一つは、家庭で公正な賞罰を行なうシステムと、平等な力のバランスを確立することです。家族の一人一人に公平に適用される適当な「法律」が存在すべきです。

 

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  年老いた白髪の母親がほほえみながら座っていた。彼女は著名な息子ドワイト・アイゼンハワーの到着を待っていたのだ。誰かが彼女に言った。「偉大な輝かしい息子さんをさぞや誇りに思っていらっしゃることでしょうね。」 すると彼女は尋ねた。「どの息子ですか?」 その高潔な母親には、どの子供もその偉大さは変わらないのだ。

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ハミーとシギー!

  質問:あなたは、重大な決断はお子さんに代わって決断すると、確固たる確信をもっておっしゃるのですか? あなたのなさっていることが結局お子さん達にとって健全な行為であるとどうしてわかるのですか?

  回答:私が間違いや失敗をするのは間違いないでしょう。私の人間的な弱さというのは隠せませんし、時には、子供達がそのような不完全さから害を被ることもあると思います。しかし、自分が無限の知恵と洞察力に欠けているというだけの理由で、子供達を指導するという責任を放棄してしまうわけにはいきません。おまけに私は、子供がその年令に至るまでに積んだ経験よりも多くの経験とより良い見方をもとに決断することができます。私は子供達の経験しようとしていることを実際に経験してきたからです。

  多分次のような少々露骨な例を使えば、もっとよく説明できるでしょう。私の娘はハミーという名のハムスターを飼っています。ハミーは自由になりたくてたまりません。毎晩、長い時間、自分のおりの鉄格子をかじったり、扉に頭を押しつけて開けようとしているのです。最近私は、ハミーがおりから脱出しようとせわしく試みているのを座って見守っていました。けれども、この毛がふさふさした小さな生き物を観察していたのは私一人ではありませんでした。少し離れた暗い陰に年老いたシグムンド、そう私達が飼っているダックスフントが座っていたのです。ぴんと立った耳、細目に開いた目、せわしい息づかいが、その心にある陰険な思いを表していました。シギーはこう考えていたのです。「ほらほら、おりを破って自由になるんだ! 格子を噛みきってしまえ。そうすれば、今まで経験したこともなかったスリルを俺様が味わわせてやるから!」

  そのハムスターの強い願望が不幸にも実現してしまったなら、即座に悲惨な死を迎えることになるというのは、何と意味深いことだろうと私は考えました。ハミーは自分の願いの愚かさに気付くほど、先を見通す力を持っていないのです。動物によって演じられたこのドラマは私に深い印象を残し、これが人間にもあまりにもあてはまっていることに、私はただただ驚いてしまいました。子供達の願望がかなえば、それが子供達に害を及ぼしたり、恐ろしい結果になることもあるのです。子供達は深夜に寝て、勉強を全然しないで、テレビ漫画をいつまでもいつまでも見て、何十個ものチョコレート・サンデーを食べることを選ぶでしょう。そして何年かしたら、麻薬中毒の害や、楽しみやゲームばかりの人生の害もわからないまま、それにはまり込んでしまうかもしれません。ハミーのように、子供達は陰にひそんでいる危険を察知するという「先見の明」に欠けているのです。ああ、大勢の若者が、自分が致命的な間違いを犯したと知る前に、すでに「食い尽くされて」しまっているのです!

  それから私は、自分自身の神との関係と、個人的な祈りで私が主に要求した数々のことを思います。私は、自分の「オリ」がどれだけ自分を守ってくれているかに感謝せずに、ただ主にそのオリのドアを開けて下さるように求めたことが何度あったことでしょうか。私は、主から否定的な答えを受け取っても、ただそれを受け入れ、将来は主の御手に委ねることを決心しました。質問に戻りますが、私が子供の代わりに下す決断は、無限の知恵を反映するものではないことを改めて言いたいと思います。しかしそれは、愛と、最善を尽くしたいという必死の思いからなされたものです。その上、私の毎日の生活で最終的な結果は、神に委ねられているのです。聖書の中でイエスが語っておられた婦人のように、「私はできる限りのことをした」(マルコ14:8)のです。 これがあなたにとって助けとなるよう願っています!