49.律法 対 恵み

 

  わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。(ローマ7:4)

 

 1.イエスは律法を成就された。それ故彼はそれを終わらせたのである。

 2.悪魔は審判の為であり、彼は律法尊重主義者である。彼はほとんど警察のようであり、律法を破る者に対して律法を施行するのである!

 3.律法は、律法を守る者のためではなく、律法を破る者のために作られた!(Tテモテ1:9)

  4.もしあまりにも厳しすぎる規則を定めるなら、人々は反抗的になり、それをことごとく投げ捨ててしまうのである。

 5.裁きには全く憐れみがない。裁きは単にその事が正しいか間違っているかを決めているのであって、それだけである。しかし、愛と憐れみは、罪人たちが間違っていると知っていながらも、許すのである。

 6.あまりにも優しすぎる律法はめったに従われることがなく、あまりにも苛酷なものはめったに施行されることがない。

 7.律法は衣服のようであるべきである。それらが役立つと意図された人々に合うように作られるべきである。

 8.私たちは、その国の法律、すなわち、もし私たちがそれについて知っているならば、自分たちにできる限り、すべてのものに、従うべきだと信じている。私たちは、どんな人も傷付けず、人々を助け、平和的であるように努めることを信じている。これが、私たちの生き方であり、私たちのメッセージである。

 9.もし私たちが、何人かの人々が、疑いを持っていることを全て止めてしまうなら、何一つできないであろう! 彼らがそれに疑いを持っているのであれば、彼らはそれを行うべきではないが、私たちはやり続けなければならない!

 10.もしあなたが神を愛し、また他の人々を愛しているなら、あなたには他のどんな律法が必要なのか?−−あなたは、誰かを傷付けるようなことは何一つしないであろう。

 11.私たちはただ、神の愛の律法だけによって縛られているのであり、このことは私たちに、多くの自由を与えてくれる。しかし別の面では、それは全ての律法の内で最も拘束力のある律法である!−−何故なら、神の愛の律法は、ただ単に盗んではいけない、 殺してはいけない、 これをしてはいけない、 あれをしてはいけない、と言うだけではなく、全ての人を愛さなければならない、と言っているからである!−−そしてそれは、あらゆる事柄の内でするのが最も困難なことの一つである。

 12.律法は私たちをキリストのもとに連れて行くための、私たちの養育係であり、律法は私たちが当然持っているべき愛、あるいは自由を持っていない場合、多くの状況を解決するために、私たちが頼みとしなければならないものである。もし神が、完全な自由を私たちに任せることができるのであれば、つまりもし私たちが他の人々に対してそれだけ多くの愛や配慮や非利己的さや思いやりや真の心配りを持っており、誰かを傷つけたりすることを望まず、全ての人を愛するなら、神は私たちにより多くの自由を任せることもできるのであろうが、大抵の場合、神はそれをすることができない。何故なら、それほども非利己的な、あるいは愛情深い、あるいは思いやりのある人は、ほとんど一人もいないからである。

 13.あるのはただこの律法、すなわち愛の律法だけである:  心をつくして神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ−−それだけが十戒の内であなたが今、守らなければならない部分である! 何故なら、もしその部分を守るなら、残りは全て守っているからである。事実イエスは、彼らがただ単に十戒ばかりではなく、さらにもっと多くのものを守っていることを彼らに示された。何故なら十戒は、ただ正しいこと、義なることを行うようにとだけ告げていたのであるが、イエスの愛の律法のもとでは、公正や正義以上のことを行うべきことになっていたからである。つまり、愛と憐れみとを持つべきことになっていたのであり、それは公正や正義を越えたものなのである。

 14.神は、私たちにこの全ての自由を与えて下さっておられるのであるが、私たちは完全に自由になることはできない。何故なら、私たちが住んでいる世界は自由ではなく、自由に反するありとあらゆる種類の律法を持っているからである! だからあなたは、そういった法律を破らないように気をつけなければならない。あるいは少なくとも、それらを破っているところを見られないように気をつけなければならない。

 15.イエス・キリスト以前であれ、あるいはイエス・キリスト以後であれ、これまでにイエス・キリストにおける、神の恵み以外の何かによって救われた者は、一人もいなかった。私たちは皆、信仰によるアブラハムの子供である。アブラハムは信仰によって救われた。

 16.もし自分を愛するように、あなたの隣人を愛するなら、あなたは自分自身を彼の立場に置くであろうし、自分がそこにいたらどのように感じるだろうかと思いめぐらし、満ち足りるために何を望み、また必要とするだろうか、と思いめぐらすであろう。

 17.愛は律法よりも大いなるものである。何故なら、神は愛だからである。愛は神であり、神は何一つ間違ったことをすることがあり得ない。

 18.本当の愛が何か間違った事をすることはあり得ないので、一体どうしてその愛が何らかの律法の下にいられるであろうか? 一体どうしてその愛が、何かの律法に反することがあり得ようか? 主は言われる、 「これらを否定する律法はない」 (ガラテヤ5:22,23)  そのような愛を否定する律法はない。だから何かあなたが愛の内に行う事が一体どうして律法に反し得ようか? 人間の律法や教会の律法に反する事はあるかもしれないが、それは確かに神の律法には反していないのである。

 19.神に関する限りでは、愛と信仰の外におり、神も持たず、キリストを拒む罪人たちに対する律法を除けば、愛以外の律法は存在しない。それらの罪人たちは、昔の律法のもとにいる。しかし、信者であり、 またクリスチャンであって信仰を持ち、心の中にイエス・キリストと神と神の愛とをもっている私たちはそうではない。

 20.私たちは、昔の律法によっては裁かれない。私たちはただ愛によって、すなわち私たちが一体どれだけ愛を持っており、どれだけ多くのものを与えどれだけものを分け合うかによって裁かれる。

 21.主が本当に好まれたのは、全てが恵みと信仰によって始められることだったのであり、それが主の元来の計画だったのである。しかし人々が、恵みと信仰と愛とに従わなかったが故に、 主は規則を設けて、厳重に取り締まらなければならなかった。しかし規則を守ることは、彼らを救いはしなかった。それはただ彼らが誤っていることを彼らに示しただけだった。

 22.私たちに関する限りでは、全てのモーセの律法は無効なものであることを知っている。キリストが律法の終わりだったのであり、律法を成就したのである。だから私たちはそれ以後、もはや律法の下にはいない。

 23.モーセの律法によれば、誰かが善良になる事は不可能である。モーセの律法は、私たち全ての者を罪人にする。何故なら、私たちの内の一人としてそれを守れる者はいないからである。イエス・キリスト御自身を除けば、これまでに十戒を守った者は一人もいないし、それを守るのは不可能である。イエスが私たちのために死ななければならなかったのは、それが理由なのである。すなわち、それによって私たちが許され、律法なしに主の恵みと、主の憐れみと、主の愛とによって救われることができるようにである。

 24.私たちは律法によって、私たちの罪を裁かれ、死と苦しみとを宣告される。しかしイエスは、愛と、主の恵みと、主の憐れみとによって私たちを救うために来られたのであり、その愛と憐れみの方が律法よりも大いなるものであることを示して下さったのである。

 25.私たちの愛の全教義は、彼らの憎しみの教義、強制の教義、恐れと戦慄の教義とに相反している−−それは完全に、彼らの全てのやり方と相反している、それ故に、無論私たち愛と主を愛する者たちは、律法と律法尊重主義を愛する者たちと衝突するようになるのであり、到底彼らを喜ばせることはできないのである。何故なら愛は愛であり、律法は律法であって、この二つは決して合意することがないからである。

 26.神の唯一の律法は愛であり、今ではその他の律法は何もない。モーセの律法もなければ、教会の法律もなく、姦淫に反する法律もない−−私たちに関する限り、それらの律法は存在していない。それらの律法は、Tテモテ1:9の中で主が言っておられるように、 ただ神を敬わない者たちを規制するためのものなのであって、 神の律法を破っている不義な者たちは、それによって裁かれるようになるのである。

 27.神の愛は、たとえそれが教会の目には罪であっても、また人の目には犯罪であっても、神の目には絶対的に合法なのである。すなわち、もしそれが愛によるものであるならば、神の目にはやはり絶対的に潔白なのである。

 28.神は今、ただ私たちが、愛を持っているかいないかに応じて−−愛を持っているのか、それとも憎しみを持っているのかに応じて−−私たちの行うことが愛の内に成されたものなのか、あるいは利己主義と愛の欠如の内に成されたものなのかに応じて−−裁かれる。愛を持ち、愛の内に行動した者の方が無罪なのであり、愛を持っていなかったが故に、愛なしに行動した者の方が有罪なのである。

 29.もし自分が愛の内に行動していることを知っているならば、あなたは神の御言葉に従って、信仰によって先へ進むことができるし、他の何も必要ではない。つまりあなたには、それに従って行動するための、他の何かの律法も必要ではないし、それを裏づけるための他の何かの律法も必要ではない。行っていることが何であれ、それを愛の内に行っている限り、あなたは神の律法に背いているということで有罪にはならないのである。

 30.もしあなたが霊の内に十分強く、主の愛によって満たされているなら、この自由を他の人々を助けるための有益な道具としてあなたに任せることができる。しかしもしあなたが肉にあって弱く、肉的な欲望に満たされていて、危険な玩具のようにそれを使って愚かに遊ぶならば、それはただあなたと他の人々に対して害となるだけであり、また神の御仕事に対する妨げとなるだけである。

 31.人々がこういった昔の律法尊重主義的な聖句に、さらにはパウロの律法尊重主義の幾つかに立ち返り始めるなら、その時彼らは、主が私たちに与えて下さっておられる恵みの自由と解放に背を向けているのであり、パウロや彼の時代のためだけではなく、ましてやモーセや彼の時代のためでもない、今日の今ここにおける私たちのための新しいぶどう酒、新しい真理、そして新しい啓示に対してその背を向けているのである。

 32.私たちの唯一の規則、そして神の唯一の律法は愛である。あなたは、あなたの心の中に神の愛を持っていなければならない。御子イエスを信じなければならない。そして互いに愛し合い、自分を愛するように隣人を愛さなければならない。

 33.神の律法は愛であり、何処かの宗教の偽りの非聖書的で神を敬わない、規則に従った、冷淡で、厳格で、伝統的で、独善的な奉仕ではない。

 34.神は、もしそれを望まれるなら、御自身の規則を破ることができる。またこの最後の世代にあってルールブックを全て破棄され、あなたにそれに従って行動するための、全く新しい一連の愛の規則を与えることを望まれるとしても、規則を作られるのは神なのであって−−人間ではない!

 35.神は使徒の時代にさかのぼってクリスチャン革命を始められた時に、モーセのルールブック全体を破棄された。神は事実上、旧約聖書、モーセの律法、十戒、そして昔の律法尊重主義のほとんどを破棄されたのであり、ただ愛の規則だけでもう一度全てを始められたのである!

 36.教会の各世代は、神の恵みを通して、そのような律法の厳しい規制から、愛による完全な自由へと、すなわち物質的な象徴主義と、機械的な儀式主義とから、霊的な現実と、完全な霊的自由−− 「自由にされた義人の霊」 −−へと自由を目指して、新しいステップをたどってきた!

 37.昔のモーセの律法は、もしあなたに愛があり、また他の人々を愛すなら、あなたが当然すべきことが何であるのか、またどのようにしてそれを行うべきかを、これはしてはいけないとか、それはしてもよいとかいったように、詳細に渡ってはっきりと説明している。しかし一度あなたが、御霊ご自身を持ち、愛自体を持ってしまえば、その古い律法は必要ではない。何故ならあなたは、そういったすべきでない事柄をするようなことは全くないであろうし、そういったすべき事柄を自ら進んで行うようになるからである!

   (No. S,25,45,73A,91,121,302A,317B,531,576,592,594,

605,635,647,648,696,999,1004,1253,1439,1500,1548も参照。)

 

 

 38.マタイ5:17 わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである。

 39.マタイ7:12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者である。

 40.ルカ11:41b 見よ、いっさいはあなたがたにとって清い。

 41.ヨハネ1:17 律法はモーセをとおして与えられ、恵みとまこととは、イエス・キリストをとおして来たのである。

 42.使徒行伝13:39 そしてモーセの律法では義とされる事ができなかったすべてのことについても、信じる者はもれなくイエスによって義とされるのである。

 43.ローマ3:20 何故なら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 44.ローマ6:14 何故なら、あなたがたは律法のもとにあるのではなく、恵みのもとにあるので罪に支配されることはないからである。

 45.ローマ7:4 私の兄弟たちよ、このようにあなたがたもキリストの体をとおして、律法に対して死んだのである。

 46.ローマ7:6  わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

 47.ガラテヤ3:24  このようにして律法は、わたしたちが、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れていく養育係となった。

 48.ローマ10:4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである。

 49.ローマ13:8  互いに愛し合う事のほかは、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は律法を全うするのである。

 50.ローマ13:10b 愛は律法を完成するものである。

 51.ローマ14:20 食物のことで神の御業を破壊してはならない。すべてのものは清い。ただそれを食べて人をつまずかせる者には悪となる。

 52.Tコリント6:12 すべてのことは、わたしに許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない。すべてのことはわたしに許されている。しかしわたしは、何ものにも支配されることはない。

 53.Uコリント3:6b 文字は人を殺し、 霊は人を生かす。

  54.ガラテヤ3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れていく養育係となった。

 55.ガラテヤ5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法のもとにはいない。

 56.Tテモテ1:9a すなわち律法は、正しい人のために定められたのではなく、不法な者と不従順な者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者のために定められている。

 57.テトス1:15 清い人にはすべてのものが清い。しかし汚れている不信仰な人には、清いものはひとつもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。

 58.ヘブル10:9 次に主は、 「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」 と言われた。すなわち彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。

 59.ヤコブ1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人はその行いによって祝福される。

 60.ヤコブ2:8 もしあなたが、 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」 という聖書の言葉に従って、この極めて尊い律法を守るならば、それは良いことである。

  (ローマ14:1-23; Tコリント8:8-13; ヘブル10:1-5も参照。)