84.正義/自己正義

 

  わたしが好むのは憐れみであって、いけにえではない。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるためである。 (マタイ3:13)

 

 1.あなたは決して、イエスにとって悪過ぎる者にはなり得ない。ただ良過ぎるだけである!

 2.あなたには、キリストの義以外には、誰の義もない。そして義をあなたに与えることのできる方、それはただキリストだけである!

 3.最も偉大なる聖徒とは、自分が最悪の罪人であることを知っていた人々であり、そのことの故に全面的に神に依存した人々であった。

 4.善に関する、神の考えは、神への依存である−−すなわち、神が必要であることを知っており、救いを神に依存する罪人である!

 5.自己努力は、罪である! それは間違いである! それは体を酷使さえする! あなたはなるに任せ、神に委ねる必要がある! しなければならないこと、それはただ、あなたを通して、主にしていただくことである! ただ油が流れるに任せなさい! 水が流れるに任せなさい! 主が、流れるに任せなさい! 主にそれをしていただきなさい!

 6.世界にかつて起こった、最も激しい宗教的論争とは、常に自分の力で行う式の宗教と、神だけが救うことのできる式の宗教との間でなされてきた。

 7.すべての罪の内で最悪の罪とは、自己正義である。

 8.もしあなたに、主の善がないなら、あなたには何の善もない。

 9.もし、偽善者の背後に隠れるなら、あなたはその偽善者よりも小さい!

 10.聖人であるということについての、神の考えは、罪のない完璧さでもなければ自己正義でもない。それは、徹底的な主への依存である。 11.神の上への道は下がること−−すなわち、自己と自己正義との敗北に下り、十字架の勝利と他の人々のための自己への死によって上がることである!

 12.すべての偽りの宗教は、自己正義と彼ら自身のやり方とに依存している!

 13.神が、あらゆるものの内で最悪の罪から、私たちを救い出されたまわんことを! すなわちそれは、人間自身の宗教的で、偽善的な自己正義であり、悪の知識であり、戦争を含めたあらゆる形態の残虐性による、権力への貪欲さである!

 14.もし、あなた自身の義、あなた自身の完璧さに信頼しているなら、自分の間違いや短所を告白することは、不可能同然になってしまう。何故なら、それを告白することは、あなたの自己正義を滅ぼし、あなたの自己依存を、ほとんど粉々に打ち砕いてしまうからであり、あなたが完全ではないことを立証し、あなたは、自分自身に関してそれを認めさえするのがいやだからである!

 15.義とは何か? それは正しいことである!−−義で満ちていることである!−−主で満たされていることである。主だけが全く正しい方だからである!

 16.自己正義の完璧主義者は、共に暮らすのが世界中で最も困難な人である。

 17.自分の義を、神の義の上に置くことは、究極の罪である! 自分の意志を神の御心の上に置くことは、究極的な偶像礼拝である!

 18.火を持っていない者たちは、火を持っている人々を黙らせ、またその火を消すことを好む。それは、火を持っていないことに対して、自らを弁解するためである!

 19.もしあなたが、自尊心の内に高慢になり、自分が罪人のような者でないことを嬉しく思うなら、あなたの状態はもっと悪い! あなたは独善的であり、偽善的である!

 20.あなたの不信仰に対するほど、主はあなたの行いに対して、責任を追及されることはない。

 21.それほども自分が義であり、また善であると感じるなら、それはあなたが自己正義であって、神に近いからではなく、自分自身にもっと近いからである。

 22.人間の最大の誘惑とは、義を手に入れるために、良きわざを生み出すことであり、信頼する代わりに、努力することである。

 23.鍋に、やかんは黒いと言わせてはならない。

 24.主は、偽善的で、独善的な人よりも、正直な罪人を愛される。

 25.唯一の聖徒とは、恵みによって救われた罪人のことである!

 26.完璧になろうと努めることを忘れなさい−−あなたは決して完璧になることはない!−−ただ神だけが善である!

 27.あなたが、神に使っていただけないほど、余りにも大きくなってしまうことは可能であるが、神に使っていただけないほど、余りにも小さくなってしまうということは、決してない。

 28.他の人々を、

    彼らがしなかったすべてのことで非難している時、

    彼らの著しい誤りは、

    そのままあなたに反射して、

    スポットライトがあなたに向けられる!

 29.私たちの新しい人生は、ただ恵みだけによるのであって、決して行いによるのでも、告白集会によるのでも、あるいは、私たちの罪に対する、肉における戦いによるのでもない。

 30.完璧になろうと努めることを忘れなさい−−何故なら、私たちは決して完璧にはなれないからである! 主に従い、主にできる最善のことをなそうではないか!

 31.汚れのついた指で、汚れをきれいにしようとする者は、それをより大きな汚れにしてしまう。

 32.自己正義とは、あらゆる罪の内で、最悪のものである。何故なら、それは、自尊心であり、悪魔の破滅の原因だったからである!

 33.もし私たちが、それほども義であって、何の弱点も持っていなかったら、あまり他の人々を助けることはできなかったであろう。もし私たちが、それほども独善的で、また完璧であったなら、同情心を持つことも、あるいは憐れみを持つこともできなかったであろう。他の人を理解することさえできなかったであろう。

 34.ホモやてんかん患者やその他の障害を持った人々に対して、批判的な、見下すような態度を持つことに用心しなさい! あなた自身が、嫉妬とか、霊の罪とかいったような、もっと悪い事において、有罪であるかもしれない! その自らを正しいとする、鼻持ちならない、一人よがりの態度は、それ自体で、哀れな人間の肉体的災いや身体的障害、及び苦悩以上に、はるかにひどい罪なのである。

 35.ダビデは、それほども横柄で、独善的であった時よりは、大罪人となった後の方が、はるかに義であった。

 36.自己正義とは、行いを重視する生き方である。

 37.聖書の中の最も偉大な人々とは、ものすごい過ちを犯し、自分たちが罪人であり、神が必要であることを悟った者たちであった。

 38.全世界で、最も小さな小包とは、自分自身によって包まれた人間のことである。

 39.世界が考えている正しさとは、独善的な完璧さである。神が考えておられる正しさとは、自分には神が必要であることを知っている、哀れで絶望的で、失われた、謙遜な、愛情深い、罪深い罪人である!

 40.イエスは言われた、「あなたは神が『わたしが好むのは憐れみであって、いけにえではない。』 と言われたのは、どういう意味か、学んでくる必要がある。」(マタイ9:13; 12:7) 言い換えるなら、いけにえを捧げたり、任務を果たしたりするというこの犠牲的な律法遵守よりはは、愛を持っているのを見たい、ということである。ただそれほども独善的であるよりは、私はむしろ、あなたが誰かに愛を与えることの方を好む。

 41.人間の数字は6であるので、悪魔のアンチキリストのための数字が、666つまり、3つの6であるというのは、特に意味深長であると思う! さてそれは、極めて意味深長である。何故ならそれは、あたかも人間に成し得る究極の事のようだからである。またそれは、サタンの三位一体の象徴でもあるからである。

 42.6は、ほとんど7であるが、完全に7ではない。6はほとんど完全であり、ほとんど7であるが、7ではない。そしてそれこそ、まさに人間のしようとしていることなのである。 すなわち人間が完璧であることを、立証しようとしているのである−−つまり、7なしに、人間が世界を管理運営することができるということを証明しようとしていることである−−人間は、自分がすべてを持っており、神は必要ではなく、自分でできることを証明しようとしている。自己正義における究極は、人間が自分自身を救おうと努め、その一部始終を最終的な恐ろしい混乱状態にしているということである!−−すなわち、神なしでは、人間にそれをすることができないことを、また6は、7がなければ無に等しいことを証明しているのである!

   (No.A,35,45,,117A,159,258,266,286,312,524,525,531,

605,635,647,648,720,784,845,919,1017,1371も参照。)

 

 

 43.創世記15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 44.ヨブ9:2b 人はどうして、神に対して正しくあり得ようか。

 45.ヨブ9:20 もしわたしが正しいと言うなら、わたしの口は、わたしを罪ある者とする。もしわたしを完璧であると言うなら、それによってわたしが曲がった者であることがまた証明される。

 46.ヨブ13:16b 偽善者は、神の前に出ることができない。

 47.ヨブ15:14-16  人は如何なるものか、どうしてこれが清くあり得よう。女から生まれたものが、どうして正しくあり得よう。見よ、神はその聖なる者にすら、信頼を置かれない。もろもろの天も、彼の目には清くない。まして憎むべき汚れたもの、また不義を水のように飲む人においては。

 48.詩篇4:5  義のいけにえを捧げて、主により頼みなさい。

 49.詩篇130:3  主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。

 50.箴言20:6 自分は良いという人が多い。しかし、誰が忠実な人に会うであろうか。

 51.箴言20:9 だれが 「わたしは、自分の心を清めた。わたしの罪は清められた。」 と言うことができようか。

 52.箴言21:2  人の道は、自分の目には正しく見える。しかし主は、人の心をはかられる。

 53.箴言21:21  正義といつくしみとを追い求める者は、命と正義と誉れとを得る。

 54.箴言30:12  世には、自分の目に自らを清い者として、なおその汚れを洗われないものがある。

 55.イザヤ64:6 われわれはみな、汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな、木の葉のように枯れ、われわれの不義は、風のようにわれわれを吹き去る。

 56.エレミヤ17:9 心はよろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを良く知ることができようか。

 57.マタイ5:20 わたしは言っておく、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない。

 58.マタイ19:17a イエスは言われた、 「何故わたしを良い者と呼ぶのか、良い方はただ一人、それは神だけである。」

 59.ルカ20:46,47  律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い着物を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座を喜ぶ。やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっと厳しい裁きを受けるであろう。

 60.ヨハネ8:7  彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして、彼らに言われた、 「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるが良い。」

 61.ヨハネ9:41 イエスは彼らに言われた、 「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが 『見える』 と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」

 62.ヨハネ15:22  もしわたしが来て、彼らに語らなかったならば、彼らは、罪を犯さないで済んだであろう。しかし今となっては、彼らにはその罪について言い逃れる道がない。

 63.ローマ3:10 次のように書いてある、 「義人はいない、一人もいない」

 64.Tコリント7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。

 65.ガラテヤ3:6  このようにアブラハムは、 「神を信じた。それによって、彼は義と認められた。」のである。

 66.ピリピ3:9  律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義。

 67.テトス3:5  わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神の憐れみによって、再生の洗いを受け、聖霊により、新たにされて、わたしたちは救われたのである。

  (マタイ23:2-33;  ルカ11:39,42,44,52; ルカ13:13-17;  ローマ2:1,3; 17-29も参照。)