締め切り前ぎりぎりの引用句

 

    子供、 懲らしめ、 敬神的な教育、両親、妊娠と出産と赤ん坊

 

 1.子供は、両親のすべての欠点も含めて、両親の気質、性格、霊性、または霊性の欠如などの両親の産物である。父の罪は三、四代に及ぼされるので、それを神のせいにしてはいけない!(出エジプト20:5) ある人々は、哀れな罪のない子供たちに裁きを及ぼすなんて、神は冷酷な怪物であると言って、その節に不平を鳴らす! それは、神の過失ではない。神はそれをなさらない。彼らがそれをするのである! 彼らが彼ら自身の罪を彼ら自身の子供に及ぼしてきたのであり、その影響は、三、四代の間なくならないのである!

 2.年少非行者は、その義務を怠った両親の産物である!

 3.この仕事の最も必要欠くべからざる部分は、私たちの子供たちである。もし私たちの子供たちが当然そうなるべき者になれず、その責任を請負って、続けて行くことができないなら、私たちは、私たちの仕事の最も重要な部分においてしくじっているのであり、将来を保護することにしくじっているのである!

 4.それが道理にかなったものであり、彼ら、あるいは他の人々に害となるものでない限り、私たちは子供たちにできる限り、彼らの好きなこと、したいことをさせるべきだと思う。

 5.私たちの子供たちは、私たちの愛と心配りと思いやりを感じ、そして主をもっている限り、大きな安心感を持っている。私たちが明日移動しようと、物事をごちゃごちゃにしようと、人員の大移動をしようと、椅子取り遊びをしようと、それは問題ではない。彼らの安心感は少しもなくならないであろう。何故なら彼らは、自分たちにはファミリーがあり、主がおられることを知っており、一体何が起こっても完全に幸福だからである。

 6.もし子供たちが、主やファミリーにではなく、物にすなわち、ある特定の家や地域や学校に愛着心をもっているなら、もし子供たちが人々や主にではなく、 「物」 に愛着心を持つように教えられ、育て上げられてきたのであれば、彼らをそのなじんでいる状況から別の状況へと引き裂くのは、相当、心理的につらいことであろう。−−もし彼らが、神やファミリーにではなく、そういったものやその場所に愛着心を持つのを、あなたが許してきたのであれば!

 7.子供は世界で最も優れた幼児心理学者であり、あなたに心理学を応用してくるであろう! ほおっておくなら、彼らはあなたのうわ手に出て来るであろう。彼らは非常に頭が良く、彼らはそれについてあなたよりも多くのことを知っているので、あなたは少なくとも彼らより一歩先んじていなければならない。

 8.何かの決断を下す際は、特に子供たちをどこに連れて行くかを決断する時は、常にその前にまず立ち止まって、それに関するすべてのことについてよく祈るべきである! 

 9.子供に何かを読んであげる人は、必ず、いつも最初にその本を十分に良く調べ、それが有益な物語であり、小さい者たちが読むのに適切であることを確かめるために、自分でそれを読んでみるべきである!

 10.子供の反応は、大人の態度で決まる。子供は両親の良い態度と信仰を反映する! 

 11.体制のテレビやビデオ・ショーをみる時は、善を選んで悪を避け、それぞれの番組が必ず大人によってあらかじめ下調べされているようにしなさい。また、子供たちと一緒に見ている時は、細かい点まで十分に説明してあげなさい。何かのテレビ・シヨーか映画を見終わった後は、子供たちがその全メッセージを十分に理解していることを確かめ、何か質問がある場合にはそれに答えてあげるようにしなさい。

 12.子供のやりたがっている事で、それがその子や他の人々の害にならない事なら、それを子供に禁じてしまうことを、私は信じない。

 13.他の人々に対する思いやりを学んだことを子供が示すなら、それは成熟したことの真のしるしである。

 14.最初の子を良く訓練するのは非常に重要である。何故なら、年少の子供たちは、後になって、最初の子にとても良くならい、また真似るからである。

 15.乱暴な子供は普通、乱暴な家庭から出る。

 16.たとえ私たちがしくじっても、子供たちは、彼らが学んでいること、すなわち、言語や教訓や訓練をもって、この世界を爆破しようと待ち構えて、カチカチと時を刻む小型時限爆弾のように、まだ存在し続けているであろう!  彼らの学んでいることは決して彼らから離れ去ることはない! これらの子供たちがどんなことをするようになるか考えてもみなさい! 彼らは軍隊を率いるようになるであろう! 彼らは私たちの仕事が決して終わらないことの、私たちの保証である!

 17.たとえそれが、私たち自身の裏庭における危くない遊び時間のように思えても、私たちはいつ如何なる時にも、子供たちだけにしておくようなことは、決してない!

 18.私は、くすぐられるのを一度だって好んだことはない! くすぐられても良い気持ちがしないので、きっとそれは悪いことであるに違いない! それは意地悪みたいである。

 19.すべての人は、常に誰かを必要としている。

 20.もし子供に何かを約束するなら、それが良いものであれ悪いものであれ、可能な際には必ず、彼らに与えるようにすべきである。そうすれば、彼らは、それが良いものであれ、悪いものであれ、遠足であれ、おしおきであれ、あなたが約束を守ることを知るようになる!

 21.子供に対して関心を払い過ぎるということはないと思う。彼らは多くの愛を必要している! 世界は大きく、厳しく、また冷酷である。だから彼らには、多くの愛と関心が必要なのである。

 22.自分の子供が幼年期疾患にかかっているのかどうか、またそれが何であるのかを診てもらうために医者の所に行き、待合い室にいるすべての病人から町中のありとあらゆる病気を移されて病院から出て来るのは、全く残念なことである!

 23.選択の機会がある時には、子供たちに選択させることを私は信じる!

 24.子供たちを一日中教えることはできない! 子供たちは、その日一日分のスクールをもう十分やってしまったので遊びたくて仕方がなく、彼らにほとんど何もさせられなくなってしまう時がある!

 25.私は、私の子供たち全員に「イエス・サー!」と言うことを教えた。私も母にそのように教えられたのであり、自分の子供にもそれを教えようと努めて来た。

 26.子供たちは起こっているすべてのことを理解していないが、あなたは、 わかっているんだと信頼している。

 27.良い子になることで、自分たちのほしいものが得られない場合には、子供たちは、悪い子になることでそれを得ようとする。

 28.学ぶことを楽しいものにしなさい! 子供たちにとっては、すべてが学習活動であるべきだ!

 29.誰でも誰かにとって、特別な存在であると感じる必要がある。だから夫婦があるのである。誰かにとって特別な存在であると感じる必要があるからである!

 30.たとえ子供が8人いても、なお、彼ら全員に少しずつ違った扱いをする。一人一人の子供に何か特別なものを与えることができる。彼らは何らかの形で、自分があなたにとって特別な存在であると感じるべきだ。

 31.子供たちは、自分が自分なりに特別な存在であることを知らなければならない。私たち誰もが、誰かにとって特別な存在であると感じる必要がある。

 32.子供たちには、理解することができないとしても、彼らに物事を説明してやるようにしなければならない。何故なら、あなたが説明しようとしていることを彼らが知っているという事実そのものが助けになるからである!

 33.子供たちの感情は大人のそれとほとんど同じである。ただ、彼らはまだこういった事柄の幾つかを体験したことがなく、最後には物事がすべて解決して、万事が順調に行くようになるということを、あなたのように確信していないので、困難な体験は、大人以上により精神的に深く傷つくものとなることがある。子供たちは、あなたのように、踏み石となるような経験がないのである。

 34.子供たちは多くの事を身をもって体験しなければならない。それは、私たちにとっては小さなことでも、その時点の彼らにとっては、とてつもなく大きなものに見えるかもしれない。

 35.子供たちは、物事が理解できないので、多くの面で大人よりもはるかに傷つきやすい。それは主として、彼らがそれらを理解するための経験を積んでいないからである! だから彼らを扱う時は、大人に対する以上に注意深く、優しく、そしてより多くの思いやりをもってしなければならない。

 36.大人は、いつもといっていいくらい、物事に対する何らかの説明を要求する。だから子供たちだって、説明してもらう権利を、みんなと同じくらい持っているのである。

 37.子供たちは、情緒的及び霊的な世話を、本当に、本当に必要としている! すべての人と同様、子供たちも、自分たちが重要であり、誰かによって本当に愛され、また尊敬されていることを知る必要がある!

 38.恐らく、親にとって問題だったのは、単に時間が足りなかったということだったのかも知れないが、もしそれを説明してやらないなら、子供はそれを愛の欠如とみなすかもしれない。子供は、自分が関心を払ってもらえないというだけで、それを愛の欠如だと考えてしまうかもしれない。

 39.ほとんどの問題児にとって、問題があるのは普通彼らの両親の方であり、両親が彼らに、彼らが望み、また必要としていた愛情深い関心を、あるいはしつけを示さなかったことにある。

 40.子供を理解するには、自分自身を理解することである! 子供は小さな人々である。だから、自分のことを考えるように子供のことも考え始めたら良いではないか?

 41.愛と注目と関心と思いやりを与えられる人々は、力強く成長する。だから、もし子供たちがそれを受けていないなら、あるいは、それを受けていないと思うなら、つまり、拒絶されたと感じるなら、ちょうど私たちすべての者と同様に、傷つくであろう。

 42.ただ自分自身を子供たちの立場に置いて考えるなら、子供たちはそれほど理解しにくいものでもない!

 43.子供が体験することは、私たちが体験することと非常に似通っていることを悟り始めなさい。ただ彼らにとっては、その内の多くが霊的なものであることを悟っていないために、より理解しにくく、より耐えにくく、また戦いにくいのである。

 44.自分自身をできるだけ子供たちの立場に置き、できる限り理解をもって説明してあげるように努め、時間がある時にできるだけ優しくしてあげなさい。何か特別な小さな事をしてあげたり、特別な言葉をかけてあげたり、さらには、体にちょっと触れてあげることは長い時間に渡って本当に人々を進め続けてくれる。

 45.たとえ問題のもとが何であるのか分からなくても、問題が何であれ、主は理解しておられるのであり、答えは愛なのである。そして主は主の愛を通してあなたに明確な解決策を示すことができる。

 46.人は複雑である。子供たちも人であり、彼らの問題もまた複雑である。もし私たちが、子供の事を 「子供」 として考えることをやめ、人として考えるなら、彼らの何処が誤っているのかをもっとよく知るようなるであろう。そうするなら、はるかに良く理解できるようになるからである。

 47.子供の問題は常に大人の、あるいは両親の過失であるとは言えない。子供の問題を常に大人のせいにはできないのである。もしかしたらその問題は、あなたがそれからの解決のために必死の祈りをする必要のある霊的な問題であるのかもしれない。

 48.深刻な問題に関しては、もしかしたらあなたはそれを引き起こさなかったかもしれないが、あなたが、余りにも長い間それを放置していたのかもしれない。もし問題がかなり悪いものになるなら、それを、そんなにも深刻なものにしてしまったことで、必ず誰かに責任があるのである。誰かが十分に必死になって、真に祈り、解決策を見つけたり、彼らに多くの愛を与えたりする努力をしなかったのである。

 49.子供たちを決して真っ暗な部屋の中で眠らせてはならない! 常に灯をつけておきなさい!

 50.子供たちは、十代という十分な年齢に育ち、霊的に一人立ちして、自分の世話をすることができるほど強くなるまでは、絶対に彼らだけで眠るようなことがあってはならない!

 51.コミュニケーションは、とても大切である! 悪い行いをしたような場合には、ただスパンクするのではなく、特に物事について語り、子供に自分の立場を弁明させ、とことんまで話し合うためのチャンスを与えた方がもっと良い! 何故、悪い行いをしているのか、その理由を見つけ出すようにしなさい。状況をよく理解するまでは、子供に罰を与えるべきではない。

 52.水泳は、最も危険なスポーツの一つである。死とは、紙一重しか離れていないので、あなたは、子供たちに手の届く範囲から決して離れてはならない! 水中でたった一回大きくあえぐだけで、溺れてしまうからである!

 53.一つ残らずすべての、私たちのファミリー・ホームには、どんどん増えていく私たちの子供たちのための、霊感された良き御言葉の教師が必要である! 最良の教師とは学ぶことを楽しいものにする者たちである−−子供たちに、御言葉を学びたいという機を起こさせるアイディア人間である!

 54.教師とは、学びたいという意欲を起こしてくれる人、学ぶことを喜ばしく、また楽しいものにしてくれる人−−子供たちが学びたいと頼むくらい、子供たちに興味を持たせる人−−である!

 55.悪い子になるのは容易で、良い子になるのは困難である。否定的なことや悪いことを学び取るのは子供たちの生まれながらの性向である。私たちは罪の中に生まれた、生まれながらの罪人だからであり、真に善良になることを学ばなければならないからである。

 56.どうしても子供たちに告げてはいけないことがある! 私の母はよく、 「悪魔のことを話すなら、悪魔が現れてくる!」 と言っていたものである。それは良いことではない。そうなると、彼らはそういった否定的な事柄を思うようになり、恐れ始めるようになって、あまりにも多くの時間をそのことについて考えるのに費やすようになる。 (ピリピ4:8)

  57.代わりに食べることのできる良い物があるなら、子供たちは、食べたくない物を強制的に食べさせられるべきではない。

 58.どんな人であっても、私たちは馬鹿げた振舞い、または乱暴で、人々に害を及ぼし、悪く、不従順で、片意地で、強情で反抗的な振舞いに我慢はしない。警告は、普通、その人に、自分で良い方向に変わることを選択する時間を与えるために、必要とされる。しかし、そうでないなら、 「懲らしめの鞭は、これを遠く追い出す。」(箴言22:15)

 59.子供は、自分の子を持った時、一人前の大人になると言われている。何故なら、彼は本当に犠牲を払い、誰か他の人のために生きるからである。さて、私たちの子供たちは、それ以前に一人前の大人になると思う。何故なら、彼らは若くして他の人々のために犠牲を払い、互いに分け合い、また助け合うことを学び始めるからである。そして主の目には、それこそ成熟なのである。

 60.主は、これまでに聞いてきた神の声と全く同じくらいの明瞭さで、 「あなたは子供を守らなければならない。彼らこそ将来だからである!」 と私に言われた。

 61.  私たちの子供たちは金のように良く、

いつも言いつけられたことを守る。

私たちは何年も心理学を用いてきたが、

その時にも、彼らの小さなお尻をスパンクしたものだった。

 62.子供がその最善の教訓を学ぶ場所は、その母親のひざもとではなく、そのひざの上でおしおきを受ける時である。

 63.問題児の場合、問題の根っ子 (おしり) をたたかない限り、うまく行くことはない。

 64. 「主は愛する者を訓練し、また鞭打たれる!」(ヘブル12:6) そのたぐいの愛は、 他のたぐいの愛と合わせて、 すべてのことに対する答えである。

 65.罰の威しは、最も効果的な抑制力の一つである。

 66.罰は犯罪に見合ったものにするように努めなさい!−−彼らがあくまでも改めようとしないなら、何をもらうのか分かるように、公正な警告と威しの後で、罪を犯した体の部分を、断固とした態度で必ず罰するようにしなさい。−−もし、してはならないと警告されていることを行うなら、常に必ず、確実に罰を受けることを知るように、怠ることなく、首尾一貫して罰しなさい。

 67.あなたの最初の訓戒が、愛情のこもった、優しく、祈りに満ちたものであり、それが何故であるのかの十分な説明と快活な警告がなされることがないようにしなさい。しかし、彼らが改めないなら、彼らを徹底的に罰しなさい!−−けれども決して、実際にけがをさせてしまうほどの粗暴な、あるいは情け容赦のない強さでしてはならない。ただ痛みを与えるだけにしなさい。主がなされるように、それを愛の内にしなさい。(ヘブル12章) −−そしてもしあなたが本当に彼らを愛しているなら、彼らはそれを知り、あなたを愛し、結局は、あなたの戒めを守るようになる!(ヨハネ14:15) −−そして最後には、みんながより幸福になるのである!

 68.もしすべての人が、規則を知り、同意し、それに従って行動するなら、単に両親だけではなく、すべての人が子供をしつけるようになれる! 両親は、彼らの育児ヘルパーが最善を行なってくれると、彼らを信頼しなければならず、全員が一緒に規則に同意しなげればならない。

 69.もし規則をあまりにも厳格にするなら、人々はそれを破ってしまいがちである! 言わばモーセの律法のように、誰も守ることができない規則を作ることによって、政府自体が多くの人々を犯罪者にしてきたのである

 70.自分がそれを守らなければならなくなったり、彼らにそれを守らせなければならなくなったあとで後悔してしまうほど、あなたの規則をひどく厳しいものにしてはならない。

 71.子供が、思いがけなくやってしまった事に対して、私はこれまでに一度だってスパンクを与えたことはない!

 72.あなたは、自分の語っていることが本気であることを、人々に教えなければならない! それだけが効果のあるただひとつの類いのしつけである:  すなわち、物事を本気で言い、言ったことを守り、あなたの子供たちもそのことを知っているという類いのしつけである!

 73.あなたの設ける規則や罰則、あるいは処罰が必ず御霊に導かれたものであり、守るのがあまりにも困難であったり、余りにも厳し過ぎるものであることがないように、そして怒りの内に、または祈りなしになされることがないようにしなさい。

 74.神は多くの規則を持っておられる。しかし、愛の律法の下で、神は、幾つかの規則はさらに厳しく施行してこられた。また愛の下で、神は、それがあまりにも耐え難いものにならないように、他の幾つかの規則はゆるめてこられた。自分の立場を守って一歩も譲らないようにすべき時はいつか、また時には、彼らを励まし、彼らの方法で物事を行うことに同意すべき時はいつか、その違いを知るために、あなたにはどうしても主の知恵がなければならない。

 75.悪い行いに対して正しい怒りをこめてしつけることは、何も悪いことではない。神は、それをなされる! 私たちは罪に対しては怒るべきである。

 76.忍耐は、必ずしも常に美徳ではない。非行を働く子供に対しては、あまり忍耐を持ちすぎてはいけない。

 77.あまりにも、忍耐を持ちすぎるといったようなことが実際にある。忍耐をもってはいけない時が多くあるのである。何故なら、まだ芽のうちに摘む必要があり、あまりにも長く待ってはいけないこともあるからである。あなたは時折、興奮して怒る必要があり、あまりにも行きすぎてしまう前に、ただちに不従順を罰し、問題のある状況を正す必要がある。

 78.遅延された裁きは、延期の、そして恐らくは撤廃の望みを与える。 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行なわれないために、人の心はもっぱら悪を行うことに傾いている!」 (伝道の書8:11)

 79.単に過ちを犯した子供自身の親だけではなく、どんな人でもすべての子供をしつけることができるように、子供たちが従うべきであるとされているすべての規則を、親たちやヘルパーたちや子供たち全員が知り、また同意しているのは、大切な事である! 子供が不従順である時に、裁きや処罰がすみやかに与えられることは重要である。

 80.ひとたび実際に刑罰を断言してしまったなら、一時的に刑の執行を引きのばし、彼らを保護観察処分にしても構わない。しかし、ひとたび 「今、あなたは保護観察の身分であり、私たちはあなたにこれこれのことを行い、ここそこのホームに追放するか、完全に破門することに決定した」 と言ってしまい、その刑罰がどんなものであるにせよ、当面は、その刑の執行を延期しているならば、彼らには、 「でも、あなたがこの保護観察処分中に良くならず、身を正さないなら、これこれの追放処分、もしくは完全な破門処分がただちに適用されるだろう!」 と告げてやりなさい。

 81.ただ大人たちだけが、規則に同意しなければならないのではなく、子供たちにも何らかの発言権を与えるべきである。子供は普通、あなた以上に、自分たち自身に対して厳しいものである。

 82.その規則の制定に子供たちも手を貸しているなら、彼らはそれらの規則をより意識するようになり、また、それに従う傾向がより強まり、彼ら自身が設けた結果をもっと受け入れるようになるであろう。

 83.もし子供が、何かをして罰を受けずに逃げおおすことを許されるなら、彼らは不従順を罰せずに放置した大人に信頼をなくすようになる!

 84.御言葉は、子供たちに正しいことをする動機を与える助けになる。そしてそれは確かに、つえと相伴って、しつけ上の問題に対する長期に渡る解決策である。しかし、もし彼らが御言葉を与えられなかったのであれば、当面の解決策とは、どんなものであれ、手に負えない子供たちを従わせるような懲戒を用いることである。

 85.子供たちをしつけ、服従させるには、法を定めなければならない。そしてその後は、彼らに正しいことをさせ、不従順な時には彼らが御霊によって良心の呵責を受けるのを助けるために、彼らに動機を与えてくれる御言葉を与え続けなければならない。

 86.長期的な目標、それは、子供たちが愛の故に従い、何が正しく何が間違っているのかを知り、それ故に正しいことを行うことを選ぶための確信を持つように、子供たちを励ますことである。

 87.理想的には、子供たちに物事を説明しようと努め、彼らが、どうして間違ったことをしたのかを理解するのを助け、それを説明してやるための時間を割くことであるが、もし深刻な問題をかかえ、多くの子供たちが泣きわめいているなら、説明を与える時ではない。−−罰を与える時である!

 88.異なる子供たちのために異なる基準があるなら、それは子供たちを混乱させる。そして、それが争いや不和や不調和の原因となり得ることは、言うまでもない!

 89.定期的な育児カウンセラル・ミーティングを催しているホームは、かかえている問題児の数が最も少ないように思われる!

 90.父親よりは、子供が泣くほうが良い。

 91.スクールの意図は、学ぶことにある。生徒にとって学ぶことをもっと簡単にする方法があるならば、その方法を行いなさい!

 92.私たちは、全員が、四六時中教えているべきである!

 93.何であれ、子供たちが楽しんで学ぶことは、彼らが一番良く学ぶ事である。

 94.子供たちを御言葉で真に満たすことは、実に満足感を与えてくれる! それが永遠に彼らと共にあり、常に祝福となってくれることを知っているからである! 一つの御言葉さえ無駄にはならない!

 95.最良の学園、それは母親のひざ。

 96.今、私たちは、新世界の新しい教育のために、ひとつの教育体系と教材とを開発している!

 97.あなたには、活気が、熱意が、インスピレーションがなければならない。小さな子供の関心を本当に引き、また保つためには、彼らに体当たりでぶつかり、その中に真の意味と興味とを沢山注ぎ込まなければならない。実例を使って、実際的にそれをはっきり説明し、自分の持っている全てを、真に子供に教える事に注ぎ込まなければならない。もしそこに座って、何かの体制の本をあるいはTKであっても、それをだらだらと単調に読み続けるなら、子供たちは肉体的に、あるいは少なくとも霊の内に、そこから迷い出て、その一切を忘れてしまうであろう。

 98.至福千年の最中に、もし私たちがイエス・キリストの厳格で、厳しいしつけと権威とによって、鉄の杖をもって地を治めるようになるのであれば、それは私たちが人々を訓練し、教育し、善良になるように教えるようになるという意味以外の何であろうか。

 99.永遠に私たちの子供たちは未来である! 彼らは至福千年のための−−次の十年、次の千年間のための−−未来である! 彼らこそその未来となるので、今、彼らが学んでいることを、彼らは後で他の者たちに教え、次から次へと教えていくように他の者たちに教えるようになるであろう。

 100.自分よりも若い世代を批判したいような気持ちになったら、誰が彼らを育ててきたかを思い出すことだ。

 101.親が子供に費やすことのできる最善のもの、それはお金ではなく、時間である。

 102.自分の両親の愛を理解するには、自分で子供を育てなければならない。

 103.私たちの子供たちは、私たちの最大の任務である。彼らは、神があなたたちに与えておられる責任であり、小さな弟子たちであって、あなたたちは彼らの世話をし、また訓練しなければならない。そして彼らは、主の薫陶と訓戒とによって良く教え、良く育てられ、年老いても離れることがないように、その行くべき道に従って訓練された方が  良いであろう。

 104.あなたたたちは皆、育児係である。あなたたちは皆、子供のために働くことに関心を持ち、何らかの方法で、子供の世話を助けているべきである。私は、彼らが今、私たちの最大の任務であると考えるからである。私たちには、彼らがおり、彼らは私たちのものである。彼らは、私たちの個人的な責任、ファミリー・メンバーひとりひとりの責任なのである!−−すなわち、単に育児係と言われている者たちだけではなく、すべての秘書、すべてのコック、すべての維持係、すべての文書伝道者、バスカー (バスキングする者) 、その他の全員の責任である。そしてあなたたちは、子供たちが如何に貴重な存在であるのかを発見しつつある。あなたたちが、子供たちの世話をし、子供たちがあなたたちの世話をするからである!

 105.子供を甘やかすには、一人の親で十分である!

 106.子供たちの世話をする尊き者たち、詩歌にたたえられない革命の英雄たち、未来の保護者たちに神の祝福を!

 107.恐れは伝染する。もし両親が気を動転させ、それを子供たちが見るなら、無論、子供たちも気を動転させるだろう。

 108.親としての、私たち自身の態度と信仰の見本は、子供たちにとっては素晴しい基準である。彼らのいやしのことで、私たちが彼らに示す信仰、または祈りの努力が増せば増すほど、彼らもまた自分たち自身のためにもっと必死になる。

 109.私たちが、皆共に暮らす時、私たち全員は子供たちに対する責任を共に負うのである。

 110.もし赤ん坊の頃から、子供をしつけないなら、1才になる頃には失敗者、不出来な者、へま、問題児になるであろう!

 111.妊婦はまばゆいばかりの光輝を放っている! 彼女にはきらめくようなさん然とした輝きがある。妊婦には二重のオーラ (霊気) があるに違いない。彼女は実にまばゆく輝いている!

 112.妊娠が進めば進むほど、女性はますます母親らしく、またより美しくなる!

 113.私はいつでも、妊婦は天的な美しさで輝いている、と言ったものだった!

 114.私の母は胎教を信じていた! 彼女は、私が生まれる以前にも、彼女が私の人格に大いに影響を及ぼしていたということを、心から信じていた。そして、実際にそうであったと私も信じている!

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  1.(管理と組織化) 変更のための余地が残されていない計画は、悪い計画である。

 2.(背信者と放蕩者) 背信者はめったに自分だけでは背信しない。彼らの悪風はまたたく間に広がるのであり、そのつぶやきや不和を広めることによって、できるだけ大勢の人に影響を及ぼそうと努める。彼らは、立ち去って行くことに対して、自らを正当化するためにそれをしなければならないのであり、自分が正しいこと、またそのように感じているのは自分だけではないことを示すために、できるだけ大勢の人々にそれと同じことをするように納得させなければならないのである。彼らは、権威に逆らってまた、 彼らのホームやリーダーシップに逆らって、彼らの反乱を組織し、彼らの反乱を計画するために特別な小ミーティングを共に催すのである。

 3.(背信者と放蕩者) 内部にいる問題児に関する、最大の危険は、より多くの不一致、不和、つぶやきを蒔き、キャンプを毒することである! 彼らの語る事−−それが最大の危険である!−−すなわち、キャンプを毒することとつぶやくことである!

 4.(背信者と放蕩者) たとえすべてのものを、つまり、あなたの長子の権、相続財産、その他いっさいのものを失ってしまっても、父はそれでもあなたを愛し、あなたを救いたいと望まれる。あなたは今でも戻ってきて、その愛と救いとを楽しむことができる。たとえ報酬はなくても、少なくともあなたは、父の家にいるのである。

 5.(背信者と放蕩者) 神は憐れみの内に私たちを砕かれ、私たちが砕かれる際に、憐れみを持たれる。だから、あなたが父の家を立ち去ったとしても、神はいつの日かあなたを連れ戻すためにあなたを砕かれるのである。あなたは祝福とあなたの報酬とを逸してしまった。すなわち、冠を手に入れるにはもう手遅れだが、神に感謝すべきことに、あなたは救われているのである。

 6.(背信者と放蕩者) 多くの者が私に逆らって来たが、多くの者はその悪しき日々に、悔い改めて彼らの父の家に戻り、神が正しかったことを知るようになるであろう。報酬を得るには手遅れだが、救いを持っていることを感謝するようになるのである。

 7.(大胆さ/内気) 若かった頃、私は内気で、劣等感を抱き、自信が無かった。しかし、御霊に満たされた時、私は多くの確信を持った!−−だが、それは自信ではなく、キリスト信、キリスト意識であった!

 8.(変化) ほとんどの人に必要なひとつのこと、それは定期的な変化である。人には変化が必要であると聖書は言っている。(詩篇55:19)

 9.(変化) ひとつのことを改善することは、千のことが間違っていることを証明すること以上に価値がある。

 10.(変化) もはやそのようにしないこと、それは最も誠実な悔い改めである。

 11.(変化) 私たちはいろいろな方針を立てるが、重要な仕事のため、他の人々のためなら、一つの方針を破ることができる時がある。すなわち、他の人々の命を救うためなら、自分の命を、あるいは何であれ、それに必要とされるものを危険にさらすことさえも!

 12.(変化) 私は、状況や状態や時に応じて考えを変える。すべてのことに時がある。蒔くに時があり、刈るに時がある。笑うに時があり、泣くに時がある。すべてのことには時がある!

 13.(確信/妥協) 大いなることを行うのに、偉大な人間はいらない。ただ献身的な人間が必要なだけである。

 14.(創造) 自然は、生きた、目に見える神の衣である。

 15.(非難とゴシップ) 他人の悪口を言うことは、自我自賛の不正直なやり方である。

 16.(非難とゴシップ) いわれのない噂は、一般に多くの人の口によって言われる。

 17.(非難とゴシップ) ゴシップの反対はしばしば真実である。

 18.(死/生命) あなたには、喜んで死に、なお主を信頼する気持ちがあるか?−−死ぬ時にもなお信仰を持っているか? あなたは信仰の内に死ぬことができるか? 信仰の最大のテストは死である! 主を信頼しながら死ぬことができるかどうか、それが究極のテストである。

 19.(死/生命) 人生は、家路に向かう航海である。

 20.(悪魔の策略) 悪魔は、油断した一瞬に多くの人々の中に入り込む。あなたがちょっと警戒を怠る時、油断したり、霊から外れたり、不従順になったり、片意地になったり、つぶやいたり、不平を言ったり、悪魔が利用できるどんな小さな罪でも持つその瞬間、 悪魔は中に入り込んで来ることができる。待ち構えているのである。

 21.(悪魔の策略) 悪魔は私たちを恐れている。そして悪魔は、入り込むむことのできるどんな小道を利用してでも、私たちに攻撃してくる−−あなた、あるいは誰か弱い人物、弱い姉妹、または100%の熱意もなく、忠誠心もなく、忠実でも、勤勉でも、霊的でもなく、私たちやファミリーやイエスを全面的に支持してもいない誰かの中に入り込んで。

 22.(悪魔の策略) 一つの小石は、大きな荷車をひっくり返してしまうことがある。

 23.(仕事における勤勉さ) たとえ主を知らなくても、神は正直で、誠実で、勤勉な、正しい人々を祝福される!

 24.(弟子であること) 崇高な大義のためなら、いつ如何なる時にも、自分のからだ、自分の福利、自分の命を危険にさらす用意のできていない者は誰であれ、値打ちがない。

 25.(疑い) 私たちの疑いは、裏切り者であり、私たちがしばしば勝ち取るかもしれない価値あるものを、試みることを恐れさせることによって、失わせてしまう。

 26.(エキソシズムと霊的諸問題) 私たちは、神の子供が悪魔の使いによって、完全に霊に取り付かれてしまうことは信じないが、あなたに言わせてもらおう、私は主を愛している救われた何人かの神の子供たちが、かんしゃくを起こしたり、悪魔にしか彼らを通して成し得ることのできなかったような幾つかの卑劣な行為を彼らがするのを見てきているのである!

 27.(エキソシズムと霊的諸問題) それらの悪鬼どもが最も望んでいないことは、追い出されることである! からだから出される悪鬼であれ、教会から追い出されるトラブルメーカーであれ−−彼らが一番恐れているのはそれなのである! 悪魔が望むのは、他でもなく、あなたが彼らをもて遊び、彼らをあやし続けることである! とりわけ、彼らは巣の中にとどまり、問題児でいることを望む−−それが彼らの使命だからである。

 28.(エキソシズムと霊的諸問題) あなたが最後通告を与えず、きっぱりとした処罰を行わず、彼らを懲戒しないので、あなたの問題児たちは実に多くのことを罰を受けずにやりおおしている! いったん約束したなら、好むと好まざるとにかかわらず、必ず刑を執行しなければならない。

 29.(エキソシズムと霊的諸問題) 敵は外部に持つ方が内部に持つよりもはるかによい!

 30.(エキソシズムと霊的諸問題) 悪魔は常に彼自身が有罪であることについてあなたを訴える。悪鬼を幸せに保つことがひとつだけがある−−それは、彼が問題を起こしているからだの中にとどまることである。

 31.(エキソシズムと霊的諸問題) 悪魔は、自分の正体をあまりにもあらわしすぎて、まさに追い出される寸前であることを知り、自分にどんな代価がかかろうとしているのかに気づき始める時、追い出されてしまうことを望まないので、裁きを逃れようとして、彼はしばしば非常に柔和で服従的な態度に出てくる!

 32.(エキソシズムと霊的諸問題) たとえ二、三本の指、二、三本の肢体が如何に重要であり、それらの損失が如何に悲劇的であっても、それが原因となってからだ全体を腐らせ、全部を損失してしまうよりは、むしろそれらを失う方がましである!

 33.(信仰と信頼) 時々、 人々は、自分たちには信仰があると考えているが、もしそれが起こらないなら、実際にはないのである。たとえそう考え、それを期待しても、もし起こらないならば、明らかに彼らには信仰がなかったのである。起こるだろうと考えていたこと、あるいは起こることを期待し、また望んでいたことが起こらないなら、明らかに彼らの信仰は真の信仰ではない。それは単なる仮定に過ぎない。−−あるいは、霊的な自尊心でさえあるかもしれない。

 34.(信仰と信頼)  「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それはだれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8,9)  そしてその原理はすべてのことに当てはまる。いやしや他のすべてのことを含めて!

 35.(信仰と信頼) この仕事で一番大事なのは信仰と信頼、どんなことがあっても、主に信頼することである! 主は、あなたが実際に真の信仰を持っているのかどうか、またどんなことがあっても、とにかく主に信頼するつもりがあるのかどうかを見たがっておられる!−−たとえあなたが輝ける見本ではなく、意気揚々たる勝利を得なかったとしても!−−一見して敗北とも思えることにおいて主を信頼するなら、それだけで一つの勝利なのである。つまり、負けても悪びれない敗者となることである!−−それは征服者以上のものである!

 36.(信仰と信頼) 将来のことを、明日のことを、さらには次の一時間のことを思い煩うのはやめなさい。その時が来れば、神は恵みを与えられる!−−単に、その時間だけではなく、その瞬間、その一瞬のための力をその瞬間に与えられるのである! あなたに必要なのはそれだけである。

 37.(信仰と信頼) あなたの恐れは胸にしまっておき、あなたの勇気は他の人と分け合いなさい。

 38.(忠実さ) あなたの人生とミニストリーのために最善の節の一つ:  「終わりに至るまで忠実な者には、命の冠を与えよう!」 (黙示録2:10)

  39.(忠実さ) あなたは一日ずつしか生きることができない。一日ずつしか忠実になることができない。昨日、忠実でなかった時のことや、明日、忠実になれるかどうかを思い煩ってはならない。ただ、今日、忠実になるために自分の最善を尽くしなさい。過去は忘れなさい。そして明日は、明日自身が、あるいは、主が取り計らってくれる。

 40.(忠実さ)  「忠実さ」 とは、 あなたが骨折って築き上げ、またあなたが行った何らかの働きであると考えている人が、あまりにも大勢いすぎる。しかし、もしあなたが信仰 (Faith) で満ち (Ful) ているなら、あなたは忠実 (Faithful) なのである。 信仰は主から来るのであり、御言葉を聞き、御言葉を読むことによって来るからである。

 41.(忠実さ) 私はただ、自分を忠実な者に保って下さることを、主に頼らなければならないだけ、ただそれだけであり、私の信仰は主から来るので、それがなくならないことを、 主に信頼しなければならないだけである。信仰は神の賜物である。

 42.(忠実さ) ただ主だけが、あなたを忠実な者に保つことができる。無論、少しは主に協力しなければならない。つまり、耳を傾け、読み、従わなければならないのであるが、それは楽な部分である。あなたを忠実な者に保ち、信仰で満たし、主から来る信仰でいっぱいに保つのは、主の仕事である。それは神の賜物である! もし十分な信仰がないなら、あなたがしなければならないことはただ、御言葉を聞き、御言葉を読むことだけである。それが信仰の源なのである。そして主はあなたが必要としているすべての信仰を与えられる。ただ主に信頼し続け、思い煩わないことである。

 43.(忠実さ) 明日のための信仰を持つ必要はない! 来週、あるいは来月、ましてや来年、または患難期のための信仰を、今持つ必要はない! その時が来れば、それを得るであろう。その時に応じた力を!あなたに必要な信仰はただ今日のための信仰だけである。

 44.(忠実さ) あなたは一日分のための信仰さえ持つ必要はない。ただ、たった今この瞬間のための信仰を、一刻毎に持てば良い。この一瞬のための信仰がなければならないだけなのである。

 45.(忠実さ) もしからし種一粒ほどの信仰が、山全体を移すことができるなら、あなたがしなければならない小さなことを一日中し続けるには、顕微鏡でしか見えない微生物ほどの信仰さえ必要ないはずである。

 46.(恐れからの解放) 私たちの恐れは、常に、私たちの危険よりも数が多い。

 47.(フェローシップ) 私たちがここに置かれたのは、ただホームと天的なフェローシップと自由とを持つためだけではなかった。それは、私たちの主要な仕事を可能にするために、主が私たちに与えて下さっている神の祝福の一部である。従順と主に従うこと、主が私たちに命じられたこと−−つまり、そこに出て行って刈り取ること−−を行っていることに対する報酬や祝福として、主はこれらすべてのものを与えて下さっている。そして、私たちが刈り取り続け、従い続け、神から命じられたことを行い続けている限り、主は供給と祝福と保護を与え続けて下さるのであり、私たちがただそれらの事を行うなら、主はそれらを可能にし続けて下さるのである。

 48.(良き戦いを戦う) 一生の間には、多くの転落があるが、ただ、決してあきらめてはならない、ということを忘れてはいけない! すぐに身を起こしなさい! 水溜まりに倒れるようなことがあっても、そこに寝そべっている必要はない!

 49.(良き戦いを戦う) 戦いをあきらめない限り、敗北する者は独りとしていない。

 50.(許しと憐れみ) 恨みを抱くこと、それは人が負う荷の内で最も重い部類に入る。

 51.(許しと憐れみ) 恨みは、長く担えば担うほど重くなる。

 52.(許しと憐れみ) 神の恵みによらなければ私もそのようになってしまう。

 53.(実り豊かさ) 他の者の荷を軽くする者で、この世界で役に立たない者はひとりもいない。

 54.(実り豊かさ) 成果をあげていない人、また収益、利益、配当のない所に、損になる投資をしたくはない。

 55.(実り豊かさ) 私たちは投資家と全く同じである。何が益となる投資であるかを知らなければならない。私たちはどのような成果が得られるようになるのかを知らなければならない。もうけのためでなく、魂を救うことに対して。

 56.(与えること) 自分の心を与える者は、自分のお金を与えるのをいとわない。

 57.(与えること) 心の中に余裕があるなら、家にも余裕がある。

 58.(与えること) 貧しい者に貸す者は、神からその利子を得る。

 59.(神の方法対人間の方法) 神が人の寸法を計る時、その頭ではなく、心を巻き尺で測る。

 60.(いやし) 主よ、私たちがそれらの医学書を読むことがないように助けて下さい! それは、信仰を築くものではなく、恐れを引き起こすものである!

 61.(聖霊) 私たちはアラジンよりもさらにすぐれた力と富と精霊たちを持っている。あらゆる奇跡の内で最高の奇跡を行うことができる聖霊を持っている! 聖霊は、世界最高の精霊である!

 62.(聖霊) 御霊で満たされる時、すべての人が異言の賜物を受け取るわけではない。また、御霊で満たされていることを証明するためには、異言の賜物を持っている必要はない。

 63.(聖霊) 私たちは異言の賜物が聖霊によるバプテスマを受けた証拠であるとは信じない。

 64.(聖霊) 聖霊を持っているほとんどの人々は、いつかは異言で語る事もできるようになる。それが素晴しい祈り方の一つであるからだ。それは最もありふれた賜物の一つであるが、証しをしたり、リーダーや他の何かになったりする事に関しては、実際には最も役に立たないものである。異言で祈る事ができるという事は、主として、あなた自身の益と御霊において、あなた自身の徳を高めるためであるにすぎない。

 65.(謙遜/自尊心) すべての人を小さく感じさせる偉人がいる。しかし本当に偉大な人とは、すべての人を偉大に感じさせる人である。

 66.(謙遜/自尊心) 聖書に出て来るダビデ王はとても悪い見本であったが、彼は明らかに、しばらくの間は自尊心の内に高ぶり、それゆえに大いなる罪を犯し、そのために大いに卑しめられることと大いなる裁きとを味わい、大いなる告白をなし、そして何もかもすべてのものをはぎ取られなければならなかった偉人の大いなる見本であった。

 67.(謙遜/自尊心) それが主であることを知り、神にすべての栄光と誉れとを与え、思いあがったり、高慢になったりすることがないように、主が本当にあなたを謙虚にし、また砕かれるまでは、あなたを本当に高ぶらせるかもしれないような仕事、とてもすごいテスティモニー、あるいは桁外れに重大な責任をあなたに任せることはできない!

 68.(謙虚/自尊心) どれほど肉の腕に頼って準備をしても、主なくしては何の意味にもならない。ただ主のみにそれをすることができる。あなたが実際、完全にしかも全面的に主に依存していることを真に思い起こさせるために、主があなたに圧力を加え、対処されておられる時に、もしあなたが本当に地位を二、三段引き落とされて、卑しめられ、 「イエス・サー!」 と言わせられる必要があるなら、かなり過酷な状況下でも、かなり手荒く困難な手段でも、それをされることができるのである。

 69.(謙遜/自尊心) 自分が低い地位におろされた時に謙遜でいるのはたいしたことではないが、称賛を博している時に謙遜でいるのは偉大なる立派な達成である。

 70.(謙遜/自尊心) 謙虚さなしには、真の神聖さはない。

 71.(謙虚/自尊心) 他人の目は、己れの身を滅ぼす目である。もし己れ以外のすべての者が盲であるなら、立派な衣服も、立派な家も、立派な家具も望まないはずである。

 72.(謙遜/自尊心) 主よ、私が間違っている時には、それを認め、正しい時には、他の人にとってもっと一緒に暮らしやすい者となるのを助けて下さい。

 73.(謙遜/自尊心) すべてを知っている人ほど学ぶべきことが沢山ある者はいない。

 74.(謙遜/自尊心) 一度道を迷い出してしまうよりは、十度尋ねる方が増しである。

 75.(謙遜/自尊心) 忠告を受けようとしない者は、助けを受けることができない。

 76.(謙遜/自尊心) 悪魔は自尊心の内に思い上がって、ついには神の右手、また光を携える者であることに満足しなくなり、神ご自身になることを望んだので、 その地位を失ってしまった。神は彼を卑しめられ、彼はそれ以来ずっとなおも神になろうと努めてきたのであり、最終的にはこの地上で神になろうと努めるようになるのである。もし宇宙の神になれないなら、少なくともこの世界の神になろうとするのであり、主もそれを許されるのである。それは、少なくとも彼とアンチキリストと世界とすべての者たちとに対して、人間は、さらには悪魔さえ、神なしには何一つすることができず、へまをしでかしてしまうようになることを示すためである。

 77.(インスピレーションと熱意) この一団においては、気が狂うことは引き合う!−−主と主の仕事に対して、気が狂うほど夢中になることは!

 78.(嫉妬) 嫉妬を起こしてあなたが他の者に向けて燃え上がらせる火は、彼らよりもあなたの方を燃やしてしまう。

 79.(律法対恵み) あなたは旧約のクリスチャンか、それとも、新約のクリスチャンか? あなたは、今でも律法の下にいるのか、それとも、イエス・キリストの恵みと真理とによって、自由で解放された人生を送っているのか?

 80.(律法対恵み) わが神よ、私たちを助け、あの忌まわしい昔のモーセの律法から救い出して下さい!−−それが呪われているのは、それがもうすでに裁かれ、片づけられ、済まされていて、もはや存在していないからである。私たちは、モーセの律法、あるいは古代のユダヤ教とは何の関係も持っていない。私たちはユダヤ系キリスト教を持ってはいない。私たちが持っているのは神の愛とイエスの愛である! 私たちは自由だ! もしそれを信じないなら、あなたは親愛なる使徒パウロの書簡を初めから終わりまで読んでみるべきだ。

 81.(律法対恵み) 恵みと愛の律法との下に生きているクリスチャンにとってはもはや、姦淫といったものは存在しない。神の愛の律法の下に生きている者たちには、 「すべてのことは許されている。」 もし許されていないなら、そうでないなら、主はどうしてそう言われたのか?

 82.(リーダーと羊飼い) あるリーダーにとって手に負えない状況がある場合、それがどんなものであれ、それを処理することのできる上官に報告する必要がある。

 83.(リーダーと羊飼い) 子供を甘やかしている欠陥のある親たちを見抜くことのできないホームの頭は、しくじっている。

 84.(リーダーと羊飼い) もしトップ・リーダーがその家族をまとめることも、管理することもできず、自分の家を良く治めることもできないのであれば、彼は、トップ・リーダーとなるにふさわしくはない!

 85.(リーダーと羊飼い) 高慢になって、悪魔の非難に陥るかもしれないので、信者になってまもない者には、大きな責任、またはリーダーシップの地位を与えてはならない、と新約聖書は言っている。 (Tテモテ3:6)

  86.(リーダーと羊飼い) あなたを思い上がらせ、また高慢にするために、悪魔は実に自尊心であなたを試みる。そしてもしあなたが、人の称賛を受け入れ、それが主であることを、彼らに思い起こさせないならば、特にそうである。

 87.(リーダーと羊飼い) 私の告白は、他のどんなものよりも多いくらいの感謝と謝意とを引き起こしてきた。私の挫折は、ほとんど私の成功よりももっとファミリーを励ましてきたと言える! 何故ならそれは、私もまた人間であり、私もまた同様に誤り易く、弱く、悪く、そして彼らと同じくらい多くの問題をかかえてはいるが、しかし、主をほめたたえるべきことに、私が何らかの方法で何とか乗り越え、また主がとにかく私を切り抜けさせて下さったことを、示したからである。

 88.(リーダーと羊飼い) 人々にとっては、彼らのリーダーたちさえもが完璧ではなく、人間であることを知るのは、励ましである。聖書、さらには教会史に出て来るリーダーは皆、人間であった。−−すなわち、信仰の人ではあったが、彼らは誰もが人格的にもろい部分を持っていたのであり、皆、間違いを犯したのである。主は、彼らが単なる人間と、肉と血であるにすぎず、私たちと同じくらい虚弱で、私たちのように間違いを犯すということを、そしてそのすべてが主であったということを示さなければならなかった! それらの偉大なリーダーたちは輝ける見本になった−−彼ら自身の偉大さではなく、彼らの主に対する徹底的な依存心の見本に。

 89.(リーダーと羊飼い) 偉大になるための代価は、責任である。

 90.(愛) 犬に骨を与えることは愛ではない。愛とは、あなたが犬と同じくらい空腹の時に、犬と骨を分け合うことである。

 91. (愛) 全然愛さなかったよりは愛して失った方がいい。

 92.(従順) 神に従わない限り、必要不可欠の人などいない。もし彼らが不従順で反抗的で、強情で、片意地で、喜んで訂正してもらう気持ちがないならば、私たちはどんな場所においても彼らを置いておくという危険を冒すわけにはいかない。

 93.(従順) 悪しき者が従うのは恐れからであり、善良な者が従うのは愛からである。

 94.(迫害) 私たち、神の子供たちは、私たちの敵共に危害を加える必要はなく、イエスがなされたように、 黄金律 (自分にしてほしいことを他の人にもすること) を生きることができる。私たちの敵共には、神ご自身が私たちに代わって対処される!

 95.(迫害) 預言者や殉教者は大声であざける群衆を見ることはない。その目は永遠に留められているのである。

 96.(迫害) 死んだ聖者をほめたたえ、生きた聖者を迫害するというのが、この世の習わしである。

 97.(迫害) 真理の与え手を殺そうと努めること以外には、彼らが真理と戦うことのできる方法はない。そしてこれこそが、イエスや主の弟子たちや族長たちの何人かに、また神のすべての預言者や神の真理を語るために現れてきたすべての神の人に対して、彼らがしたことなのである!

 98.(迫害) あなたのしていることを、すべての者が是認するなら、何が間違っているのかを自分自身に問うべきである。

 99.(迫害) 人々が木に石を投げつけるのは、実のある木だけ。

 100.(出版物と紙の力) 私たちの敵共は、私たちに対するありとあらゆるたわごとやほらや嘘を、世に知らせることを怠っていない。だったら、私たちだって、神のために、私たちの行っている善を世に知らせようではないか!

 101.(読むことと見ること) 新聞を正しく読むためには、誰がその記事を書き、誰がそれを出版し、色々な論点について、どんな立場をとっているのか、何故そうしているのかを、知らなければならない。そうすれば、正しい解釈を得ることができる。

 102.(人々との関係) あなたは、他の人の背中を軽くなでてあげることだけで、その挑戦的な態度を変えることができる。

 103.(体制との関係) 名声はすべて危険である:  善はねたみ、悪は、恥をもたらす。

 104.(悪魔に立ち向かう) もし御言葉を投げつけてやるなら、悪魔は間違いなく逃げて行く!

 105.(悪魔に立ち向かう) イエスを裏切るという仕事をするために、悪魔は自らユダに取りついた。そしてもしあなたも気をつけていないなら、悪魔は、彼にできるあらゆる方法を使って、あなたに入り込み、できるものならそれと同じことをしようとするであろう! あなたは主と御言葉と御霊とにおいて、万全の備えをしていなければならない。そうでないと、悪魔は、あなたに入り込み、同じことをすることができるであろう!

 106.(報酬) 私たちを喜んで受け入れてくれた者は、喜びをもって報われるであろう。また、私たちを拒んだ者は、滅びをもって裁かれるであろう。

 107.(報酬) 何ということであろう、たとえ救われていたとしても、何と悲惨な運命であろうか。−−好機を逸し、楽しみを逃し、報いをもらいそこなったということを知るのは何と悲惨なことだろう。しかし、少なくともあなたは救われているのである。それは確かに地獄よりはましだが、あなたの失敗の記憶と限りなき恥と恥辱とがあなたの地獄となるであろう。何という運命! 何ということか! しかしとにかく地獄よりはましである。自分の失敗とその代価とを思い出し、限りなき恥と恥辱とを苦しまなければならないというのは、言わば天国における地獄のようなものである。言わば天国における永遠の地獄のようなものである。

 108.(正義/自己正義) 独善的な宗教的自尊心よりもひどい自尊心はない! すなわち自分が、他の男や他の女のようではないことを神に感謝し、自分と同じくらいの信仰もなく、これやあれをしていないが故に、彼らを見下げる独善的でパリサイ人的で、高慢な信心ぶった人である! 独善は、信仰を持っていない、やりぬくことのできない哀れな人々、単なる純粋な信仰だけにではなく、他の手段に頼らなければならない人々に対して、あなたがこれっぽっちの同情心も持たないようにさせることがある。

 109.(正義/自己正義) すべての人は悪い。誰もがお仕置きや罰をうけて当然である。みんなが最悪の罰を受けるにふさわしい。私たちは皆罪人である。神があなたを責められるのはそのことの故にではない。神が責められるのは、あなたが神に助けを呼び求めないこと、悔い改めないこと、神に自分を変えさせないこと、神にそれをしていただかないことである。あなた自身ではそれをすることができない。

 110.(正義/自己正義) 主は、時々、あなたにそういったテストの幾つかを通らせられ、主はあなたに対して少しばかりきつすぎる、と考えることさえさせられる! 「主は私たちの子供たちを、一体どうしてこのような苦しみに合わせることができるのか? 人々に一体どうしてそのようなことをすることができるのか? どうして、そのようなことなどを起こるままにしておくことができるのか?」 悪魔は常にまわりにいて、そういった質問を尋ねてきては、あなたに主を疑わせ、さらには主を批判させ、あなた自身を神に対して義なる者としようと努めるのである!

 111.(正義/自己正義) ヨブはとうとう、自分の罪が独善、すなわち、自己完全主義であるということを理解した。ヨブは、自分には全く罪がないと考えていたので、神が何故このすべてのことを自分に対してしておられるのか理解できなかったのである。そしてついに、自分は正しくなく、そのすべては主であると告白した時、ヨブはいやされたのである!

 112.(正義/自己正義)  「墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか?」 (Tコリント15:55) 死のとげは罪である。そして、墓の勝利は、あなたを死んだままにしておくことである! しかし、義の驚異は信仰である! 信仰は実際、ただ一つの義であって、その結果として墓に対する勝利、すなわち、復活が生じる!

 113.(正義/自己正義) 最も悪い類いの罪とは、実際に悪いのに善良である振りをすること!−−偽善である!

 114.(正義/自己正義) 真に偉大な人で、かつそれと同時に真に善良ではなかった人は、一人もいない。

 115.(正義/自己正義) もしある人が、いつも正しいなら、何か間違ったところがある。

 116.(救い) 誰も失望しないように、悔い改めた盗人の臨終のざんげの記録が一つある。だがまた誰もが、図々しく自分もそうなれると考えないように、それは一つしかない。

 117.(見本) その子供や召し使いや隣人たちに対するよりも、御使やセラピムたちに対してより親しい関係で暮らしている人には、実際的なキリスト教は、あまり存在しない。

 118.(沈黙) 自分の舌を制することを学びなさい。5つの言葉を語ったために、ザカリヤは40週の間、沈黙せねばならなくなった。 (ルカ1:20) 

 119.(沈黙) もし他人にあなたの秘密を守ってほしいなら、まず、自分の口から出さないことだ。

 120.(罪) 秘密の罪といったようなものはない! あなたの罪は、必ずあなたの身に及び、遅かれ早かれあなたは暴露され、自分ではうまく隠したと考えた、その秘密の墓の中に蒔いたものを刈り取るようになる!(民数記32:23)

 121.(罪) すべきでないことをする罪もあれば、する必要のあることをしない罪もある。

 122.(霊界) もし、主と主の御使たちがいて下さらなかったならば、私たちは、とっくの昔に滅びていただろう。私たちを取り巻いているこの御使たちの活動範囲の外には、中に入り込もうと努めている悪霊共や悪鬼共や、サタン自身のさらに大きな活動範囲がある!−−すなわち、ほんの小さな機会、一つの割れ目、あなたの思い、または心に浮かぶ一つの悪い考え、邪悪な思いつきを待ち受けているのであり、それが彼の領域になり、あなたに入り込むための彼の道となってしまうのである。

 123.(霊界) 個人的な証し、すなわち、一対一の、個人に向けられた、顔と顔とを合わせての証しよりも力強いものは何もない。何故なら、あなたには天国中が、神の聖霊、イエス・キリスト、神の御使たち、すべての者が味方についているからである。あなたが一人の罪人を主に導く時、彼らはほとんど、かたずを飲んで、喜び踊ろうと待ち構えている。あなたがひとつの魂に証しするたびに、あなたには、あなたのために祈り、あなたを盛んに応援しながら、あなたを見守っている非常に大きな雲のような証人たちがついているのである。

 124.(霊界) 神がサタンを創造されたのは、最悪の見本とするため、また悪をもって世界をテストするためだった。そうでなければ、悪がどのようなものであるのかを、彼らは決して知らなかったであろう。

 125.(強さと力) それは主でなければならない。そして主はそれをしたいのであり、そのことに対して誉れと栄光とを得たいのである。もしどんな面であれ、どんな形であれ、そのことに対して、自分が少しの誉れを得て、自分が如何にそれを行い、成し遂げ、また信仰やその他すべてのものを持っていたのかを、自慢することができると考えるなら、あなたを本当に謙遜にさせ、あなたにただ主だけを見つめさせるために、主はややもすれば、あなたをちょっと張り倒して誰がボスであるかを示されるであろう!

 126.(成功/失敗) 天国には、後悔した人々が、涙を流して泣く人々が、大勢いるようになるであろう。神はそこで彼らの涙を拭い去り、元気づけてあげるように努めなければならなくなるのである! しかし、過去や彼らの失敗、罪、そしてその結果を消し去るものは、何一つないであろう。彼らは、たとえ救われていても、全くの明白な失敗によって自分たちが蒔いてきたものを、永遠に渡って刈り取るようになる。−−もし彼らが従っていたならば、なるべきようになっていたかもしれないし、 なり得たであろうに!

 127.(成功/失敗) 神を喜ばせる人間には、二種類ある−−神を知っているが故に、心を尽くして神に仕える者と、神を知らないが故に、心を尽くして神を尋ね求める者とである。

 128.(供給) 神はすべての鳥に食物を与えられる。しかし、巣の中に食物を投げ込むようなことはなされない。

 129.(行動に移す!) 善行をいっぺんにまとめてしようと待つ者は、決して何もしない。

 130.(行動に移す!)  「いつかその内に」 とは、いつまでたってもしないということである。

 131.(行動に移す!)  「それが何になるのか?」 と言う者は、決して機関車にはならず、常に最後尾車両である。

 132.(行動に移す!) 今いる場所で、持っているものを使って、自分にできることをやりなさい。

 133.(行動に移す!) 登ったことのない者は、落ちたことがない。

 134.(感謝/不平) 異民族間の結婚をしてはいけない、という神からの律法を出したばかりだったのに、モーセがエチオピア人と結婚したので、人々は彼に向かってつぶやいた! 神が罰せられたのはモーセであったか、それとも、つぶやく者たちであったか? どちらの罪の方が大きかったのか?−−つぶやく者たちの方が非常に厳しい懲戒を受けたのである! (民数記12:1-10)

 135.(感謝/不平) 神とリーダーシップに対するつぶやきは、最悪の罪の一つである。

 136.(感謝/不平) 私たちが任務から解任しなければならなかった何人かの人々は、正当と認められる苦情を持っていた。しかし、彼らのつぶやきは、正当とは認められなかったのである! もし彼らが正しい霊の内にやって来て、これらの事柄を告げてくれたなら、何も問題はなかった。しかし、霊が間違っていたのである! つぶやく者を幸せにしてくれるものが一つだけある。それは、つぶやきを続けて、ついには仕事を破壊してしまうことである!

 137.(感謝/不平) ひっきりなしの苦情には、決して同情が寄せられない。

 138.(感謝/不平) もし何に感謝して良いのか分からないなら、かかえていないすべての悩みを感謝しなさい。

 139.(時を生かして用いる) あなたの時間をとった人は、あなたに借りがあるとは決して思わない。しかしそれは彼が決して返すことのできない唯一の借りである。

 140.(時を生かして用いる) 

       彼は月夜に眠り、

      日の下に浴した。

彼は未来にその夢を託して暮らしたが、

何も成し遂げずに死んで行った。

 141.(時を生かして用いる) 神があなたにそれをする時間を与えずに、任務を課せられるということは、 決してない。

 142.(時を生かして用いる) 私は、自分の知らないことについては心配しない! 多くの人々は、知っているべきことよりも、自分たちが知らないことについてもっと心配しているようだ! 彼らは、実際に知っていることを行って忙しくしているべき時に、いろいろな質問を思いついたり、重要でさえなく、今は知る必要もない事柄について質問したりするために、より多くの時間があるようだ!

 143.(時を生かして用いる) もしあなたにそれを読む時間もないなら、私にはそれを書く時間もない。

 144.(試練とテスト) 涙はしばしば、人がはるか天国を見るために用いる望遠鏡になる。

 145.(試練とテスト) 天には、どんな地上の悲しみもいやすことができる。

 146.(試練とテスト) 私が知っていることはただ、私たちはとにかく神に信頼しなければならない、ということだけである! あの少女が、 「そして主よ、何よりもあなたのお体をお大事になさって下さい。もしあなたの身に何か起こるなら、私たちみんなが困ってしまいますから!」 と言ったように。私たちは、たとえ理解できなくても、どんなことが起ころうと、とにかく主を信頼しなければならない。今はわからなくても、いつかはわかるようになるのだから。私たちに理解できず、また、わからない幾つかの事柄を神が起こされるのは、ただ、私たちの信仰をテストして、私たちがそれでもなおとにかく主を信頼するかどうかを見るためなのであろう!

 147.(試練とテスト) あなたが一見して、敗北を喫したかのように思えても、なお主を信頼するなら、それはあらゆるものの内で最大の勝利である! あなたが敗れ、挫折し、やり抜けなかったように思えても、なおとにかくヨブのように主に信頼するなら、それは他の何よりも神に一番喜ばれることであり、偉大なことに違いない!−−惨事をものともしない信仰、苦悩をものともしない信仰、死をものともしない信仰である!

 148.(試練とテスト) 多くの人の人生の偉大さは、彼らのとてつもない困難のおかげだ。

 149.(試練とテスト) 人生に打ちのめされてひざまづく時、あなたは祈る姿勢をとっている。

 150.(試練とテスト) 危険もなく、征服を果たすなら、栄光もなしに凱旋する。

 151.(試練とテスト) 今、私たちに理解できないことは沢山ある。 「神は何故、罪や苦しみを許されるのか?」 これはこの人生における永遠の大問題の一つであり−−恐らく、天国に行くまでは、その質問に対するすべての答えを知ることはないであろう。幾つかの答えを知ることはできるし、幾つかの理由を理解することはできるが、その大部分は、私たちがそこに到着して、その全体図を見るまでは、本当に把握することはできないと思う。理由を学び、最終的にすべての答えを得ること、それは私たちの訓練と教育の一部となるであろう!

 152.(真実) 宣戦が布告されると、真実が最初の犠牲者となる。

 153.(真実) 疑いがあるなら、真実を告げなさい。

 154.(真実) 事実は無視されても、絶えることがない。

 155.(真実) 真実は常に最強の論拠である。

 156.(ビジョンとゴール) あなたは物事を見て、 「何故?」 と言う。しかし私は、存在していない物事を夢見て、 「何故そうであってはいけないのか?」 と言う。

 157.(ビジョンとゴール) 私は、道を見つけるか、作ってしまうか、そのいずれかである。

 158.(ヒジョンとゴール) この世界には、2種類の不満がある。それについて何かする不満とただ座り込みぶつぶつと不平を言っているだけの不満とである。前者は、その望むものを手に入れ、後者はその持っているものを失う。

 159.(ビジョンとゴール) 小さな計画を立ててはならない:  それには人間の血を奮い立たせる魔力はない‥‥大きな計画を立て、希望と実行とにおいて高きをめざしなさい。

 160.(ビジョンとゴール) 益が大きければ、危険もまた大きい。

 161.(ビジョンとゴール) 私が、あなたに与えることのできるのは、ただ最初のひと押しと正しい方向だけであり、何がなされることを神が望んでおられるのかをあなたに告げることだけである。細々とした事柄については、あなたが進めなければならない。

 162.(知恵と賢く話すこと) ある人々は賢く、ある人々はそうでない。

 163.(知恵と賢く話すこと) あなたの語る言葉を沈黙にまさるものとせよ。そうでなければ黙っておれ。

 164.(証し) 時々、私たちにできる最善のことは、 「私は知らない!」 と言うことである。私が知っているのは神だけである! 何故だかわからないが、私が知っているのは、主がいますこと、主が愛されること、また主が最善を知っておられること、ただそれだけである! もし今理解できなくても、あとで理解できるようになる。

 165.(証し) もし教養のある知識人と話をするつもりであるならば、あなたは、世界で起きていることを知り、ほとんどどんな主題についてでも話すことが、できる必要がある。あなたは修道院の壁の裏側に閉じ込められていて、彼らのすべての策略を知らないわけではなく、現実の状況を、起きていることを知っているのである! あなたたちは、外で起きていることを知らない無知の集団ではない。あなたたちは、そのすべてを知っており、はるかに多くのものを持っている!

 166.(証し) 聖書は今でも、かなり良く認められている権威であるので、もし聖書を用いるなら、あなたの言葉にもっと説得力が加わるであろう。何故なら、救われてはおらず、教会づけにもされていない人々の多くや、世界中のいわゆる邪悪な罪人たちは、今でも、主と聖書とに対して、尊敬の念を抱いているからである。

 167.(証し) 私は、個人伝道、証しと魂の獲得に夢中になっている。この世界にはそれに匹敵するものは、何ひとつないと思う! 何もない! 文書だって、ラジオだって、音楽だって、すべての牧師や教会やテレビだって、何もそれに匹敵しない! 彼らが、ほとんど抵抗することもできない神の力と神の愛とに満たされたあなたによる、あの個人的な、電撃的で、強力な、顔と顔とを合わせた、一対一の証しに匹敵するものはない。

 168.(証し) 他のことが何もうまくいかなかったような場合、私は友好的な態度の内に、片手は彼らの手を取り、もう一方の手は彼らの肩において、 「じゃあ、祈りましょう」 と言って祈り始めると効果があることを発見した。すなわち、彼らの心の奥底に衝撃を与える神の力と聖霊と神への恐れには、何か特別なものがあるので、彼らは口を開くのも恐れてしまうほどなのである。神が彼らの口を閉ざされる! そして彼らの方は耳を傾けなければならないので、あなたには、彼らに良い祈りで証しするチャンスができるわけである。

 169.(証し) 私は、個人福音伝道を支持する。私は証しを支持する。その個人伝道が街頭でなされるものであれ、個別伝道であれ、公園やレストランでの歌唱であれ、バスキングやFF伝道であれ、畑におけるこの個人的な顔と顔とを合わせての証し以上に効果的かつ、能率的で、より多くの実を結び、しかもより確実に絶対的な成果を上げ、魂を勝ち取ることのできるミニストリーが他にあるとは思わない。

 170.(御言葉) 御言葉はあなたの魔法のランプである! あなたのためにその魔法の力を発揮できるように、それをあなたの頭やおなかや心にこすりつけて、あなたのためにそれを輝かせなければならない。

 171.(御言葉) 聖書は単なる教会用のハンドブックではない。聖書は全世界で最も素晴しく、超自然的かつ奇跡的で、驚くべき、非常に優れた本である!−−聖書には、すべてのことに対する答えが載っている!−−私たちは、何処から来たのか、どうやってここに来たのか、何故ここにいるのか、ここにいる間は、如何にして生き延び、また幸せになるのか、そして如何にして愛し、如何にしたら永遠に幸福を持てるのか、ということに対する答えである!

 172.(御言葉) 聖書が本当に神御自身による奇跡的で超自然的な言葉であることの最大の証明は、それが効果を得るということである!

 173.(御言葉) 聖書に関して、最も素晴しいのは、その言葉を通して、私たちがその著者を知れるということである!−−聖書は、私たちに宛てられた神の素晴しきラブレターだからである! その命を与える御言葉が、聖書を世界最高の本にしているのであり、 その方は、私たちがただそれを読み、その主人公を信じさえするなら、命と愛と幸福と天国とを永遠に保証することのできる、世界でただ一人の作家なのである。そして、その主人公とは、私たちを救うために御自身の命を与えて下さったほど私たちを愛して下さった方−−神の御子、イエス・キリストである!

 174.(譲渡) 神は歴史のくず山の上にサウルを捨てなければならなかった。彼は、使いものにならない道具、すなわち、自分自身の道を進み続け、どんどん遠くへと迷い出て行き続けた、扱いにくい、強情な、譲渡をしない道具であった。そしてとうとう神は、彼に取って代わらせるために、野原のほんの小さな羊飼いの少年、取るに足らない、無きに等しい者を選ばなければならなくなったのである。

 175.(譲渡) 自分たちを使ってではなく、自分たちのために神に何かをしていただこうと待ち望んでいる者が、あまりにも大勢いる。