神との交わり

御言葉:

 

  1.ジョン・ウォナメイカーは、アメリカでも指折りの商人になった時、こう語ったことがある。 「私は生涯でたくさんの買い物をしてきました。何千ドルもするような物を購入してきたのです。でも、最高の買い物をしたのは、私が12歳の時でした。2ドル50セントを出して聖書を買ったのです。それが私の最高の買い物だったのです。その聖書のお陰で、今日の私があるからです。」

  ジョン・ウォナメイカーが偉人になったのは、まだ貧しい少年期に、神とその御言葉とを愛したからである。彼は聖書を愛し、聖書を読み、その教えに従った。

 

  2.ある著名な雄弁家が、ディケンズに、全文献の中で一番哀愁に満ちた物語は何かと尋ねた。すると、ディケンズは放蕩息子の物語だと答えた。コレリッジ氏は、全文献の中で一番含蓄のある章句はと問われて、それはマタイ5章の最初の16節だと答えた。また最も偉大なる法律要覧は何かと問われたダニエル・ウエブスターは、山上の垂訓だと答えている。法律ならばモーセに匹敵する者はいないし、詩的な美しさならダビデに勝る者はいないし、幻であればやはりイザヤである。倫理においては何といってもイエスであり、聖なる熱意においてはペテロであるし、熱弁はと言えばアポロスであって、論理学ではパウロが第一人者であるし、聖別された愛と言えばやはりヨハネである。聖書を学ぶことが 「教育上、退化していくことだ」と言うのは、何とばかげたことであろうか。神の御言葉はあらゆる書物に勝って最高のものであり、その著者はどんな教師にも抜きん出る最高の教師である。だからその言葉に耳を傾けたほうが良い。聖書こそ、最も重要な書なのである。

 

  4.ある博識ある中国人が何人かの宣教師に雇われて新約聖書を中国語に訳すことになった。その学者ふうの中国人は、聖書を訳していても、初めの内は何の影響も受けなかった。ところが、しばらくたつと、彼はかなり心動かされるようになり、 「これは何と素晴らしい本なのでしょう!」と言った。そして宣教師がその理由を尋ねると、彼はこう答えたのだ。 「なぜなら、この本には私自身のことが正確に描写されているからです。私のことがすべてこの本に書かれています。きっと、この本の著者が私を造って下さったに違いありません!」

 

  6.偉大なるチャイナ・インランド・ミッション (中国内地における宣教活動をする団体)の創始者であるJ・ハドソン・テイラーは、15歳の時に父親の書斎で簡単なトラクトを読んだことから、イエスを受け入れたのだった。時間をつぶそうと思って、無造作に彼がそのトラクトを取り上げた時、そこから130キロ離れた所では、母親が、息子が救われるようにと祈っていた。彼が、再びそのトラクトを机の上に置いた時には、自分の罪が許されたことを知って喜びにあふれていた! 彼が設立した中国の宣教団体の素晴らしい業績を思う時、神が、そのすべてを成し遂げるきっかけとして、そのような小さな物を使われたということに、私達はただただ驚嘆する!

 

  7.スタンダード石油がエジプトに石油を発見し、今もその油井から石油がくみ出されているという事実は一般的に知られているが、石油を求めて、どうしてその古代の地に出かけて行ったのかについては、たぶんあまり知られていないであろう。

  会社の重役の一人がたまたま聖書の出エジプト記2章を読んでいると、第三節が目に留まった。そこには、モーセの母が幼子のために作ったパピルスの篭に、 「タールと樹脂とを塗った」と書かれていた。

  この重役は、タールがある場所ならばきっと石油があるに違いない、そして、もしモーセの時代に石油があったのなら、きっと現在でもあるはずだと考えた。そこで会社は、地質学者チャールズ・ウィトショットと石油専門家を送り込み、調査をさせた。そして、その結果、石油が発見されたわけである。

 

  10.アドニラム・ジュドソンがビルマに行って20年後、新約聖書がビルマ語に翻訳された。英国とビルマが戦争していた1824年、ジュドソンが投獄されてしまったため、ジュドソン夫人は、印刷に回すばかりになっていたその貴重な原稿を、家の床下に埋めた。ところがひっきりなしに続く土砂降りの雨のために、かびが生え始めたので、夫人は機転を働かせてその宝物を綿でくるみ、カバーをつけて枕にし、ジュドソンに使ってもらうために獄に持ち込んだ。

  9ケ月後、ジュドソンはさらに奥の獄舎に移され、5組の足かせをつけられ、他の100人の者達と一緒に、翌朝の日の出前に、竹ざおに縛り付けられて処刑されると言い渡された。その苦難の夜、貴重な枕の為に、多くの祈りが天に立ち昇った。そして、枕は看守の持ち物となったのである。そこでジュドソン夫人はもっと良い枕を作って、枕の交換を持ちかけたのだった。

  ジュドソンは殺されずに済んだが、慌ただしく別の場所に移されてしまった。彼は、枕は離さず持って行った。ところが、看守の一人がそのカバーとなっていたクッションの紐をほどいて、中の綿を中庭に投げ捨ててしまった。そこにビルマ人のクリスチャンがいた。彼はそれを見つけても、その価値を知らなかったので、愛する主人の形見としてとっておいたのである。そして何ケ月も後になって、その中身は、全く損なわれていない状態で彼の所で発見されたのだった。終戦後にこの新約聖書は印刷され、また1834年、全聖書がビルマ語に翻訳された。ビルマ語は、その構文と複雑な組み合わせのせいで、格別に難しい言語である。

 

  11.S・D・ゴードン博士は、クリスチャンのある老婦人について、こんな話をしている。その老婦人は、年のせいで記憶力がかなり薄れ始めていた。かつては聖書をかなり暗記していたものだったが、最後には、 「わたしは自分の信じてきた方を知っており、またその方は、わたしが彼に委ねているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信している。」という一つの聖句しか記憶に残っていなかった。ところが、その聖句も徐々に記憶から薄れていって、老婦人は 「わたしが彼にゆだねているものを・・・」と静かに繰り返すのだった。そしてとうとうこの世と霊の世界との境目に漂っていた時、家族は、老婦人の唇がかすかに動くのに気づいた。何か必要なのだろうか、と彼らはかがみ込んでそれを聞き取ろうとした。彼女はその聖句の一語を何回も何回も繰り返していたのだった。 「彼、彼、彼、」 彼女は、その一語を除いて、聖書をすべて失ってしまった。けれども、その一語の中に聖書のすべてを持っていたのである。

 

  12.マーキュリー・ジェミニ企画のジェネラル・マネージャー兼マクドネル航空機会社副社長のウォルター・F・バークは、自分の行っている教会の日曜学校の教師である。彼はインンタビューでこう語った。 「科学や宇宙探検に関するどんな事実を耳にしても、私は、もう聖書は放棄しなければとか、もう救い主イエス・キリストなど拒まなければなどと感じたことはない。私はイエス・キリストを信頼している。宇宙時代にあって、私の精神的な生活はますます深まってきている。私は、前にもまして聖書を読むようになった。私は聖書から、科学からは得ることのできないものを得る。つまり人生において真に重要な物事を。」

 

  13.聖書には二つの主要なテーマがある。一つは、罪によって人間が誘惑された物語。もう一つは、キリストによる人間の救いの物語である。

 

  14.神が唯一の聖なる方であられるように、聖書も唯一の聖なる書物である。

 

  15.聖書は、ただ単に神の書であるだけではなく、もろもろの書の神でもある。

 

  16.人は、罪のゆえにこの書を読まないでいるか、この書のゆえに罪を犯さないようになるか、そのいずれかである。−−ジョン・バニヤン

 

  17.もし御言葉を私達の内に入れたいのであれば、私達の方が御言葉の内に入らなければならない。

 

  18.御言葉を学ばず、それでもなお大いに用いられたクリスチャンなど、一人も見たことがない。

 

  19.御霊が与えられたのは、聖書の学習をしなくてもよくなるようにではなく、聖書の学習がもっと効果的なものになるようにである。

 

  20.もし私が悪魔であったなら、私の最初の狙いは、人が聖書を熱心に読まないようにすることであろう。

 

  21.神の約束は救命具のようなもの。魂が災いの海に沈まないようにしてくれる。

 

  22.主は主の子供達のために食卓を整えて下さるが、あまりにも大勢の人々がダイエットしている。

 

  23.もし神に飢え渇いているのに満たされていない人がどこかにいるとするなら、神の御言葉は空しい。しかし事実は、私達は望んでいるだけ満たされているのである。

 

  24.人は、聖書に基づいて生きれば生きるほど、霊的に深まる。

 

  25.御言葉を読むことに無頓着なクリスチャンは、クリスチャンの生活をする事にも無頓着である!

 

  26.頭いっぱいに聖句を詰め込んでも、心はなお罪に満ちていることがある。

 

  27.私の霊的な深さや私の人格は、私の持って

いる霊的な知識の量ではなく、私の使う知識の量によって決まるということを忘れないように助けて下さい。

 

  28.聖句を信じ、読むなら、キリストの語る御言葉を聞いていることになる。

 

  29.聖書とは、キリストが活字になったものである。霊感された御言葉とは、あるがままのキリストの肖像である。

 

  30.ちょうど楽園の中を歩まれるように、神は人を尋ね求めながら、聖書の中を歩まれる。

 

  31.私達は神の御業にはその御手を見るが、その御言葉の中には神の御顔を見る。

 

  32.人が御言葉の内にあって、強ければ強いほど、その人は祈りの内にも強くなる。

 

  33.御言葉は生きている。それは私に話しかける。御言葉には足がある。それは私の後について走って来る。御言葉には手がある。それは私を捕らえて離さない。−−マルチン・ルター

 

  34.聖書の中で、極めて大切な事柄はすべて明確に記されている。しかし、明確に記されていないことはすべて、それほど大切な事柄ではない。

 

  35.神よりも賢くなろうとしないよう用心しなさい。神がその言葉を書かれたのは、私達がそれに意見する為ではなく、私達がそれに従う為なのだから。

 

  36.私達は、聖書を調べる時、聖書に自分を調べてもらわなければならない。つまり、私達の性格や振る舞いについて聖書に裁いてもらわなければならないのだ。

 

  38.アイザック・ニュートン卿は、ダニエル12章4節の預言に関して、その預言が真実であるなら、新しい交通手段が発明される必要があり、知識がそれほどにも増し加わるために、人は時速80キロのスピードで旅行することができるようになると述べたが、それは驚くべきことである。

  ボルテールは、非常に懐疑的にこう言った。 「さあ、万有引力を発見した、かのニュートンの非常に優れた頭脳を見てみよ。ところが聖書と呼ばれる書物を学び始めた途端に、ニュートンは、聖書のナンセンスに功績を与えるために、人類の知識が増し加わって、われわれは時速80キロのスピードで進むことができるようになると信じてしまった! 哀れむべきほどのもうろくぶりだ!」 だが今日では、懐疑論者でさえこう言わざるを得なくなっている。 「賢い哲学者だったのはニュートンの方で、もうろくしていたのはボルテールの方だった」と。

 

  39.バートル・フレル卿はインドを旅していて、ある小さな町を訪れたのだが、偶像崇拝の神殿や宮はからっぽで、町の人々はキリスト教を信じると言うのに、驚いてしまった。何年か前に、その町の住民の一人が、そこに住んでいたイギリス人から古い上着をもらった。そして、その服のポケットに、現地の言葉で書かれた福音の一部のトラクトが8、9枚入れっ放しになっていたのだった。生命は、種を撒く人の内ではなく、種の内に宿っている。たとえ不信者が聖書を撒き散らしたとしても、彼のしていることは、自らの胸壁を爆破することなのである。

 

  41.ロンドンのある無神論者は最近、聖書について、現代ではどんな本であれ、著者が不明のものを信じるのは到底不可能だと語った。するとあるクリスチャンは、誰がかけ算表を編纂した人かはわかっているかと尋ねた。無論、無神論者は、 「いや、わかっていない」と答えた。

   「それなら、かけ算表が正しいとは思わないわけですね?」

   「いや、正しいと思います。そこに書いてある通りになりますから。」

   「聖書も同じです。」 これに対して無神論者は反論のしようがなかった。

 

  43.私は聖書

 神の素晴らしい図書

時を越えた真理の言葉

疲れ切った巡礼者には、私は頼りになる杖、

暗黒の陰うつさの中に座する者には、私は栄光ある光

重荷を背負って身をかがめる者には、私は甘美な休息

行く道を失った者には、私は安全なガイド

罪によって傷ついた者には、私は癒しの香油

落胆した者には、私は喜ばしき希望のメッセージをささやく

人生の嵐にさいなまれている者には、

  私は確かで不動な錨 (いかり)

たった一人で孤独に悩む者には、

  私は熱にうなされた者の額に置かれる冷ややかで、柔らかい手

ああ、人の子よ、私を擁護したいなら、ただ私を使うことだ!

 

  44.ドワイト・L・ムーディーは、後のムーディー聖書協会の最初の建物となったビルを主に捧げようとして、まず隅の頭石を金ごてで叩き、それから次のような祈りをした。 「主よ、この世が他の何にも増して必要としているのは、あなたの御言葉である事を、あなたはご存知です。もしも聖書が教えている事と矛盾した事が、ここで教えられるようになったら、主よ、どうぞ地の表からこの学校を消し去って下さい!」

 

  46.神学校に行っているある若者が、祖母に会いにやって来た。祖母をからかってやろうとして、若者は、 「おばあさん、おばあさんが信じていると言っているこの聖書は、ヘブル語とギリシャ語で書かれていたのを知ってましたか? 偉大な学者達の手によって僕達の言語に翻訳されなければならなかったのです。その翻訳が正しいと、どうやって分かるのですか?」  「ああ、そんなことなら心配いらないよ。わたしは、聖書の約束のいくつかを自分で試してみて、うまく行ったんだから!」

 

  47.もし宗教書がこの国の大衆の間に広く行き渡らず、人々が信心を持たないなら、我々は一国家としていったいどうなってしまうのだろうか? それを考えるだけでも、全ての愛国者やクリスチャンは厳粛な気分になるものだ。もし真実が広まらないなら、間違いが広まるであろう。もし神と神の御言葉とが知られ、受け入れられないなら、悪魔と悪魔の仕業とが優位に立つであろう。もし伝道の本があらゆる村落に達しないなら、腐敗とわいせつの本が広まるであろう。

              ダニエル・ウェブスター

 

  49.人の心の深い悲しみを癒してくれるものは何か、また、向上するにあたって、試練の時に自分を支えてくれ、避けて通ることのできない災いに立ち向かわせてくれる力を求めて、第一に目を向けるべきものは何かと問われたら、私は、ある有名な賛美歌の中で 「昔の昔の物語」と呼ばれている物語を挙げるであろう。そしてその物語は、昔の昔の本に記されているもので、その本は、人類が受け取った中で、最高かつ最善の贈り物である。−−大英帝国の首相を三度務めたウィリアム・E・グラッドストーン

 

  50.ある若いクリスチャンが旅の荷支度をしていて、友人にこう言った。 「荷支度はもうほとんど終わりだ。あと詰め込まなければならないのは、ガイドブックとランプと鏡、それに顕微鏡、詩の本、伝記を数冊、古い手紙の束、剣、ハンマー、そして勉強中の本一セットだけさ。」 そう言って彼は、聖書をスーツケースの片すみに入れ、スーツケースを閉じた。

  神がその聖なる御名に勝って高く置かれた、さいわいなる神の御言葉は、このすべて−−さらにそれらをしのぐもの。 (詩篇138篇2節)

  仮にこの若者が、蜂蜜の缶、金の袋を入れたとしたら、聖書の真髄を象徴する二つの物も入れたことになる。

 

  51.暫く前の事だが、ニュージャージー州に住むある老人が、古い家庭用聖書をめくっていた時に、非常に珍しい発見をした。その聖書は随分前に死んだその老人の叔母の形見だった。遺言の中に以下の事が書かれていた。「私の愛するスティーブン・マーシュ、私は、この聖書とそれに含まれている一切のものをあなたに贈ります。また、私の財産の中から、葬式費用と負債を払った残りをあなたに譲与します。」 すべて一段落した時、その甥のもとに残ったのは、数百ドルと、遺言の中に記されていた古い聖書だけだった。

  その金を使い果たした時、彼の生活を支えるのは、小額の年金だけで、それから30年間、彼は貧乏な生活を送ったのだった。そんなある日、彼は自分が老後を過ごそうと思っていた息子の家に移るため、荷造りをしていた。一つのトランクの中には、彼が叔母から受け取った家庭用聖書が入っていたが、それを開いた彼は仰天した。というのも、その本のページの間の至る所に紙幣がはさまれていたからである。数えてみると、それは5千ドル以上もあった。彼のすぐ手の届く所に、彼が一生を楽しめるだけの富があったのに、彼はそれを知らなかったのである。

 

  52.英国のウィリアム4世が死んだ時、宮殿では一人の乙女が眠っていた。乙女は人々に起こされ、今や自分が英国の女王になったことを告げられた。乙女はその知らせを聞くやいなや、ひざまずき、これからの何年もの間、自分を助け、導いて下さるようにと天の父に願い求めたのだった。

  その乙女は、ヴィクトリア女王として、64年間大英帝国を治めた。ヴィクトリア女王の治世下、英国の成し遂げた進歩は比類なきものだった。インドの王女から英国の成功の鍵は、と問われたヴィクトリア女王は、その問いに対して、近くのテーブルからそっと一冊の本を取り上げると、 「これがその鍵です。」と答えたと言う。その本は神の御言葉、すなわち、聖書だったのである。

 

  53.聖書にある歴史上の記録は、考古学的発見によって、その信じがたいほどの正確さが何回となく立証されている。発見されたものの内、何一つとして聖書の記述と矛盾するものはない。−−ユダヤ人考古学者、ネルソン・グレック博士

 

  54.第一の国家財産である英語の聖書という高

貴な遺産を、わが臣下たちが今後いつまでも寵愛し続けてくれること、それこそ、私が強く望むことである。聖書は、その大いなる霊的意義のゆえに、この世界で最も貴重なるものである。−−ジョージ5世

 

  55.スイスの最高裁の建物には巨大な絵画が掛けられている。それはポール・ロバートという画家の作品で、 「裁き人に指図する正義」と題されている。

  前景には訴訟当事者達がいる−−夫を訴える妻、建築者を訴える設計者、などなど。その上に立つのはスイス人判事らで、小さな白い胸当てをつけている。これらの人々は一体どのようにして色々な訴訟を裁くのか? 社会学上の全論理があらわにされている。

  画家の答えはこのような簡単なものだ。正義の女神 (普通は、目隠しされていて、剣を垂直に立てている)は、この絵では、目隠しを解かれていて、その剣の先は、下に置かれた本に向けられており、その本の表紙には、 「神の御言葉」と書かれているのだ。

 

  56.バウンティー号の謀反に関する実話は何回も語られてきたが、繰り返し話すに値する一つの部分とは、一冊の本によってもたらされた変貌である。謀反を起こした9人の乗組員と、6人の土着民、そして12人の (タヒチ人)土着民の女性たちは、1808年、ピトケアン島に上陸した。乗組員の一人がまもなくアルコールを蒸留し始めて、その小さな植民地は、堕落し、悪に陥ってしまった。

  10年後、白人で生き残っていたのは一人だけで、彼は、土着民の女性達と、混血の子供達に囲まれていた。そしてある日、バウンティー号の古い大箱の中から、彼は一冊の聖書を見つけ出したのだった。彼はその聖書を読み、それを他の人々に教え始めた。その結果、彼自身の人生、そして結局は植民地にいたすべての人々の人生がすっかり変わったのである。1808年、USSトパーズに発見された時、ピトケアン島は、刑務所もなく、ウイスキーもなく、犯罪も怠慢さもない、豊かな社会になっていたのだった。

 

  57.聖書が広まったところでは必ず文明が根づき、人間性を殺し、人を堕落させるような慣習は、姿を消してきた。難破船から二人の水夫が南太平洋の人食い人種の島に泳ぎついた。 「おれたち、きっと釜ゆでの運命だぜ!」 一人が言った。しかし、食べ物を探しに奥地に入っていった二人が、留守の小屋に恐る恐る入ると、テーブルの上に聖書を見つけたのだった。 「おれたちは無事だ! もう大丈夫だ!」

 

  58.福音は、かたくなな心を砕き、砕けた心を癒してくれる。

 

  59.どんな知識も普通は、自分の頭にしまっておくためにではなく、人に与えるために与えられる。

 

  60.たとえ聖書を知っていても、それを信じず、それに従わないなら、助けにはならない。

 

  61.何でも批判する者もいれば、何でもすぐ喜んで受け入れてしまう者もいる。賢い人は、御言葉によってすべてのものを計りにかける。

 

  63.大事なのは、聖書を何回読んだかではなく、聖書が何回、またどれだけ徹底的にあなたの心に通じたかである。−−ジプシー・スミス

 

  64.神の思いは聖書の内に現されているが、聖霊という眼鏡をかけずには何ひとつ見ることはできない。

 

  66.偉大なる人物は、神の御心を見いだすために神の言葉を学ぶという鍛練を重ねることによって、形成されてきた。--ジェームス・W・アレキサンダー

 

  67.もし聖書を使わないでいるなら、きっとあなたも使いものにならなくなってしまう。

 

  69.御言葉にしっかりとしがみつきなさい。御言葉があなたから離れなくなるくらいに。

 

  70.聖書は本質的にいって明瞭な書物だと信じている。それを読むには常識があれば素晴らしい助けになる。

 

  71.御言葉を読んで事実を知り、御言葉を学んで意味をつかみ、御言葉を深く考えて益を受けなさい。

  72.いかに無害なものに見えても、私が御言葉を学ぶのを妨げるものは、何であれ、私の敵である。

 

  73.命のパンは決してひからびることがない。

 

  74.人が聖書を拒むのは、聖書自体に矛盾があるからではなく、自分達が聖書と矛盾しているからである。

 

  75.神の御言葉‥‥頭で知り、心にたくわえ、世界に蒔き、生活で示しなさい!

 

  76.この世のパンくずで満足してはならない。生けるパンをおいしく味わいなさい。

 

  77.他の本は私達の情報のために書かれているが、聖書は私達の変貌のために書かれた。

 

  78.御言葉を知っている人は無知な者ではないが、御言葉の教えを知らない人は、賢い人とは言えない。

 

  79.地獄には懐疑主義者はいない。また無神論者も、不信者も、不可知論者もいない。来世ではすべての人が聖書の信者となる。

 

  80.御言葉‥‥それを読み、祈って吸収し、行動に移し、他の人に伝えなさい。

 

  82.中国人の異教徒が、宣教師からもらった聖書を返して、こう言った。 「この本は、読むたびに、私を手厳しく批判するんです!」

 

  83.幼児期に、もう走れなくなった競走馬と引き換えにされたジョージ・ワシントン・カーバーは、ピーナッツの価値について、上院の農業評議会で、こう証言した。 「私はピーナッツに関する知識を全部、聖書から手に入れた。」  「では聖書にはピーナッツについて何と書かれているのか。」と問われた彼の答えはこうだった。 「聖書にはピーナッツのことは何も書かれていません。でも、聖書は神のことを私に教えてくれました。そしてその神がピーナッツのことを教えてくれたのです!」

 

  84.ホーワード・W・ポープ博士は、ある若い女性の話をしてくれました。その女性がある本を購入して、一通り最後まで読み終えた時、その本はこれまで読んできた本の中でも一番つまらない本だったという感想をもらしたそうです。その後しばらくして、女性はある若い男性と知り合いました。そして付き合いを重ねる内に友情は愛へと育っていき、二人は婚約したのです。ある日の夜、フィアンセの家を訪れていた時、女性は彼に言いました、 「私、書斎に本を持っているのだけれど、著者の名が全くあなたの名前と同じなの。これって偶然の一致かしら。」 すると、彼は答えました。 「そうは思わないな。」 「どうして?」  「なぜって、僕がその本を書いたからさ。」

  その日、彼女は翌朝、夜が明けるまで、一晩中かかって、もう一度その本を読んだそうです。そして読み終えた時、彼女はその本がこれまでの人生で一番興味深いものだと思ったのです! そのわけは? 彼女は今、その著者を知っていたし、また彼を愛していたからです。

 

  86.人の作る本と、人を作りあげる本には、雲泥の差がある。

 

  87.ロンドンのある著名な新聞の編集者が、国会議員、大学教授、作家、実業家などの重要人物100人に、一通の手紙を送った。質問の内容はこうである: 「あなたが刑務所に送られてしまうと仮定します。そしてたった三冊しか本を持っていけないとしたら、どの本を持っていきますか? 重要だと思う本から順番に列記して下さい。」

  返答された100通の内、98通がそのリストの一番上に、聖書と書き記していた。その人達の内には宗教に非常な関心を持っている人はほとんどいなかったし、多くは教会にも通っていない人達だった。また、不可知論者や無神論者もいた。それなのに、暗く困難な時には、聖書以外に喜びや慰めを与えてくれる本はないということを知っていたのである。

 

  91.この革命においては、爆弾や火炎びんのような貧弱なものを人々に投げつけるような事はしない。私達が投げつけるのは神の御言葉である!--ダッド

 

  95.あるアフリカの酋長が、英国の偉大さの秘密を知りたがった時、ヴィクトリア女王はその手に聖書を持ってこう言った。 「酋長にこう告げなさい。この本、聖書こそ、我々の偉大さの秘密ですと!」 (詩篇19篇9節 箴言14章34節)

 

  96.ムーディーは言った。 「私達を自由にしてくれるのはキリストの血だけである。そして、私達をゆるぎない者としてくれるのは御言葉だけである。」

 

  99.何年か前のこと、イスラエル人実業家エクセル・フェダーマンは、聖書にあるソドムとゴモラの破滅の描写 ( 「すると、見よ、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。」)のことをじっと考えていて、そのような大火災はひょっとしたら地下にガスがあるということなのかもしれない、そして、地下にガスがあるということは石油があるのかもしれない、と考えた。彼は正しかった。1953年、イスラエルの最初の油田が、古代のソドムとゴモラの地の近くで操業されたのである。

 

  100.謙虚で祈り深い霊を持った人は、高慢で自信満々な学者たちが全く見極めることもできないような事柄を数限りなく、聖書の内に発見する。

 

  101.私達は、ちょうど秘宝を求めて地を掘り進むかのように、御言葉を読まなければならない。

 

  102.御言葉をおろそかにすることは、主をおろそかにすること。

 

  103.神の仕事を行うためには、神の力が必要である。神の力を持つためには、神の御心を知っていなければならない。また、御心を知るためには、神の御言葉を学ばなければならない。

 

  104.御言葉の中に見いだされる答えは、手っ取り早い、あるいは、容易な答えであるとは限らないが、実際、御言葉の中にある答えだけが、真の答えと言えるのである。

 

  105.熱心に聖書を読み、聖書に書かれていることはことごとく自分のために書かれていると考えなさい。

 

  107.私達の心の中に、自分にまさる存在を持っていないなら、私達は、自分を取り巻いているものと妥協してしまう。

 

  109.古くてばらばらになってしまった聖書の持ち主は、大抵素晴しい人生を送っているものである。

  110.聖書を持ち歩いていても、聖書を読まないのでは、意味がない。

 

  111.御言葉を読むのに理想的な時はいつか、それは、いつもである。

 

  112.聖書を開いているならば、天国の扉が閉ざされることはない。

 

  113.手にある一冊の聖書は、本棚にある二冊の聖書にまさる。

 

  114.たとえ聖書にほこりがかぶっていても、聖書が無味乾燥な本だということではない。

 

  116.聖書に何が書かれているのか知らないでいて、聖書に信仰を持つことなどできるだろうか?

 

  117.人を神へと引き上げることのできる本は、神から下ってきたに違いない。

 

  118.聖書は、魂を健全なものとするビタミン剤である。

 

  120.聖書を所有するというのは、非常に重い責任である。

 

  121.聖書を学ぶのは特権だと考えるべきであって、義務だと考えるべきではない。

 

  122.聖書を批判するな。聖書に自分を批判させよ。

 

  123.ボヘミヤのローマ・カトリック教区を旅してまわっていた書物行商人は、ある錠前屋に出会ってびっくりした。彼が聖書をよく知っていたからである。17年前に、ある神父が聖書をすべて集めて、それで焚火をしたそうだ。すると一陣の風が吹いて、燃えかかっていた2枚の紙切れをさらっていき、それを錠前屋が拾って読んだのである。最初に目に留まったのはこの言葉だった。 「天地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることがない。」 それを読んでとても感銘を受けた錠前屋は、父親と一緒に、燃やされようとしていた聖書を丸一冊取って置き、聖書をよく読み、学ぶ人となったということだっだ。

 

  124.集会でみんなが自分のテスティモニーを話していた。一人の人が新約聖書を手に立ち上がると、こう話し出した。 「私のテスティモニーは、他の人達のとは違っています。私はスリだったのです。ある日、腰のポケットを大きくふくらませて歩いている人を見かけました。あっ、札がたっぷりと入った財布だ、私はそう思い、そぐにそれは私のポケットに収められました。ところが、家に帰って見てみると、何とそれは本だったではありませんか。私は腹が立ち、その本を部屋の片すみに投げ捨てました。でも、後になって、ちょっと好奇心に誘われ、私はその本を読み出したのです。そして何日もたたない内に、私はキリストを知り、救い主として受け入れたのです。」

  このテスティモニーは、それを聞いていた聖書協会のボランティア販売員の関心を引きました。礼拝が終わると、彼はその新約聖書を見せてほしいと頼みました。その聖書は、彼が何年も持ち歩いていた聖書、なくしたと思っていた聖書だったのです。この話は、人の人生を変える神の御言葉の力を立証するものではないでしょうか? 御言葉は、あなたのために、何をなしたのでしょうか?

 

  125.敬虔に聖書を読むとはいったいどういうことなのかと友人に尋ねられた若い女性は、このような答え方をしたそうです。

   「昨日の朝、私は手紙を受け取りました。私が身も心も捧げている方からの手紙です。隠さずに言いますけど、私はその手紙をもう5回も読みました。でもそれは、一回読んだだけでは理解できなかったからでもなければ、何回も手紙を読んだということで手紙を書いてくれた人に褒めてほしかったからでもありません。私にとってそれは、義務感とかいうものではなく、純然たる楽しみなのです。それを読むのは、私が、その手紙の送り主に身も心も捧げているからです。

  そのような動機で聖書を読む事が、敬虔に聖書を読むということです。そして、そのような態度で読む人にとっては、聖書はまさにラブ・レターなのです。」

 

  126.著名なJ・O・キンナマン博士は言った、 「考古学者達によって発見された何千何万にも及ぶ物の内、一つとして、聖書の単語、文、節、文章に矛盾したり、反したりするものはなく、かえって、それらは常に、聖書に記されている記録を裏付け、証明するのです。」

 

  127.まだ救われてまもない人に誰かがこう尋ねた。 「聖書が霊感を受けて書かれてるって、いったいどうして信じることができるんだい?」  「僕に霊感を与えてくれるからさ!」と彼は答えた。

 

  129.あるクリスチャンが、貧乏に苦しむ、みすぼらしい家を訪れた時に、がたのきているテーブルの下から、ほこりをかぶった聖書を見つけました。帰り際に彼はこう言いました。 「この家には宝があります。もしそれを発見し、またその価値を知るなら、あなたがたは皆、裕福になりますよ!」 そこでその家族は、その隠された宝を見つけようと、家中を隅々まで捜し始めました。 「前にこの家に住んでいた人が残していった宝石なのだろうか、それとも金の壷だろうか。」と互いに言い合っていたのですが、いくら探しても、宝は見つかりませんでした。

  暫くして、母親が古い聖書を拾い上げ、その読まれたことのない聖書をパラパラとめくりました。表紙の裏にはこう書いてありました。 「あなたの証しは、私のためには幾千の金銀貨幣にもまさるものです!」母親は興奮して、 「ああ! これがあの人の言っていた宝じゃないかしら?」と言いました。そうしてその家族の人達はそろって、聖書を読み始めたのです。すると、彼らの人生に変化が起こり、彼らの家庭にも変化が起こりました。罪や満たされない思いでいっぱいだった心に、愛や喜びや平和が訪れたのです。

  そのクリスチャンが再びその家を訪れると、感謝の気持ちでいっぱいの家族は、感激してこう言いました。「あの宝を見つけたのです。そしてそれを読んで信じています。それに私達は救い主も見つけたのです!」

 

  130.神経質で感情の起伏の激しいある女性が、世界的に有名な医者ホーワード・A・ケリー博士を訪ねた。この女性は、この世の煩いのために、肉体ばかりか理性までも危機にさらされていたのだ。自分の症状を医者に話した彼女は、与えられた処方せんにびっくりしてしまった。 「奥さん、あなたに必要なのは、もっと聖書を読むことです!」 途方に暮れた女性は言った、 「でも、先生‥‥」  「さあ、帰って、一日一時間、聖書を読むようにしなさい。そして、一ケ月たったら、また戻ってきなさい。」 高名なる医者は権威をもって優しくそう繰り返した。

  最初の内は、女性は怒りっぽくなりがちだった。ところが、彼女は、自分が日々神の御言葉を読むのをおろそかにしていたこと、そして、以前には 「いと高き者の陰に」宿り、主と共に過ごす時間を取っていたのに、それをしなくなっていたことを思い、良心の痛みを感じた。そこで、神と神の御言葉とに立ち返ると、忘れてしまっていた救いの喜びが戻って来たのだった。一ケ月後、もう一度医者のところに行った彼女に、医者は言った。 「あなたは医者の言うことをよく聞く患者さんだったようですね。今、他に薬が何かいると思いますか?」  「いいえ、先生、私、まるで別人のように感じます。でも、私に聖書を読むことが必要だと、どうしてわかったのですか?」 すると医者は、至るところにあれこれ書き込んである、自分の読み古された聖書を手に取り、こう言った。 「もし私が神の御言葉を毎日読むことをしなかったら、私は自分の喜びを失ってしまうばかりか、力の源も失い、医者としての技術も失うことでしょう‥‥あなたに必要だったのは、あなたの心に働きかけて、平安と力とを与えてくれるものだったわけです。私の与える処方せんは、試してみるなら、奇跡をなすのです!」

 

  131.もし神が約束という形で御自身を私達に与えて下さるなら、私達も任務を遂行することによって自分自身を与えなければならない。

 

  132.神の約束を糧として生きている者を飢えさせることは、誰にもできない。

 

  133.神の戒めに従わないなら、神の約束に頼ることはできない。

 

  134.小さな聖徒でも、大いなる約束を享受することができる。

 

  135.賢明なクリスチャンは、病いに備えて健康の約束を蓄え、将来の危機に備えて平安の約束を蓄えておく。

 

  136.ある牧師が集会を開くために、森林地帯の村落に出向いて行った。ところが、帰る時にはもうすでに時間も遅く、真っ暗な夜になっていた。森の住民は、やに松の木で出来たたいまつを持たせてくれたが、その類いのものを一度も見たことのなかった牧師は、 「すぐに燃え尽きてしまう。」と言った。「いや、大丈夫です、帰るまでもちます。」と森の住民は答えた。 「風に吹き消されてしまうかもしれない。」 「いや、大丈夫です、帰るまでもちます。」 やはり同じ答えが戻ってきた。 「でも、雨が降ってきたら?」  「いや、大丈夫です、帰るまでもちます。」 またも答えは同じだった。そして、牧師の心配とは裏腹に、たいまつは、家に戻るまで消えなかった。神の御言葉は、私達一人一人が手に受け取ったたいまつのようなものである。もし雨が降ったらどうするのか? 風が吹いたら? 迫害という火に襲われたなら? もしそのたいまつを高く掲げるなら、その明かりは消えることなく、家に帰るまで、道を照らしてくれるのだ。

 

  137.インガーソルは聖書を一冊掲げてこう言った。 「15年で、私はこの本を葬りさってやろう。」 15年が経過した時、葬りさられていたのはインガーソルの方だった。だが、聖書は今もなお生き続けている。ボルテールは、聖書は100年したら時代遅れのものとなって、忘れられ、博物館にしか見られなくなると言った。ところが、その100年が経過すると、ボルテールの家は、ジュネーブの聖書協会によって所有され、用いられていたのだ。そして最近、ボルテールの作品92部−−ダービー伯爵の図書の一部−−が2ドルで売られていた!

 

  139.聖書には

        神の思い

         人間の状態

          罪人に定められた運命

           信じる者の幸福が含まれている

        その教えは聖であり

         その戒めには拘束力があり

          その歴史は真実で

           その決定は不変である

 

  140.神の約束は、どんな公債や銀行の手形や金融機関にもまさり、また最も安定した政府にもまさる。こうしたものはすべて、支払い拒否をすることもあるからである。だが神は決してそうされない。

 

  141.キリストを信じることによって約束されている精神的な祝福に手をかけて、 「私のものだ」と言うことを学びなさい。

 

  142.神の約束はちょうど星のようだ。夜が暗ければ暗いほど、もっと明るく輝く。

 

  144.御言葉に恐るべきものなし。しかし、読むのをなおざりにされることだけは例外である。

 

  145.聖書はクリスチャン文明の憲法である。

 

  146.聖書をよく読むなら、その1冊の聖書は、ただ持っているだけの10の聖書にまさる。

 

  147.聖書は単に世界のベスト・セラーであるだけではなく、人が買うことのできる物の中で最高の物である。

 

  148.心に蓄えられた聖書は、ただトランクの底にしまってあるだけの10の聖書にまさる。

 

  150.サタンは、ほこりをかぶった聖書など恐れもしない。

 

  151.聖書も、開かれなければ役に立たない。

 

  152.御言葉を読まない者は、御言葉を読めない者に、何らまさるところがない。

 

  153.年老いた祖父は、毎日数時間聖書を読む理由をこう説明した。 「人生の最後の試験に備えて、詰め込み勉強をしてるといったところかな。」

 

  154.シスター・ジョーンズは聖書を取り出し、主の導きで、その日のために必要な節を得ようと決めた。そこで彼女は、目を閉じたまま聖書を開き、指を一つの節の上に置いた。目を開けて読んでみると、 「ユダは出て行って、首を吊って死んだ」とあった。彼女は急いで別の節を捜した。もう一度目を閉じて、ある場所に指を置いたのだった。今度は 「あなたも行って同じようにしなさい!」とあり、がっかりしてしまった。しかし、ひるまずに三度同じことを試みた。すると、三度目の節は、 「あなたのしようと思っていることを、今すぐしなさい!」だったのだ。

 

  155.聖書がその読者の狂信的信仰や無知にもかかわらず今まで存続してきたという事実、それほど、聖書が神からの霊感を受けて書かれたもので、誤りが皆無であるということを証明するものはない。

 

  156.家庭用聖書は、ほとんど使われないので、代々受け継がれていくことであろう。

 

  158.御言葉を知ることではなく、御言葉に従うことに、価値があるのだ。

 

  159.若い時にいつも聖書を持ち歩いているなら、年取った時には、聖書があなたを支え、歩ませてくれる。

 

  161.自分の読んだ御言葉を全部理解することはできなくても、理解したことに従うことはできる。

 

  162.御言葉は、私達が許すなら、あるがままの私達を、あるべき私達に変えてくれる。

 

  163.この国にある、しまいこまれた聖書全部のちりを一斉に払うなら、何年来なかったような砂嵐に見舞われることだろう。

 

  164.月面の足跡よりも、聖書につけられた指の跡の方が重要である。

 

  165.ある人達の 「御霊の剣 (御言葉) 」の使い方を見ていると、それはつまらないことをとやかく切り刻むためにあるのだと思ってしまう。

 

  167.御言葉を読みなさい。

 1.冴えた頭で、ゆっくりと。

 2.注意深く祈りをこめて。

 3.期待を込め、希望を抱きながら。

 4.楽しみながら。

 5.心に変化が起こることを期待して。

 6.自分に向けられたメッセージを求めて。

 7.感銘を与える節を声に出して繰り返しながら。

 8.毎日、それを読む時間をしっかり守りながら。

 9.一日中読み返すことができるように、鍵となるような節を書き写して。

 

  168.戦争が始まる数年前、ポーランド東部のある小さな集落に住む一人の人が、自分の宿の泊まり客から一冊の聖書を受け取った。彼はその聖書を読み、クリスチャンとなり、その聖書を他の人に回した。そして、その一冊の聖書を通して、さらに200人が信者となった。

  その同じ人が1940年の夏に町を訪れた時、その村人達はただ単に聖書の章だけではなく、聖書の色々な書をすっかり暗記していることを知った。マタイとルカ、それに創世記を半分知っていた者が13人いた。詩篇をすべて暗記してしまっていた人も一人いた。そして、村人全員を合わせるなら、事実上、聖書全部を暗記していたことになる。家族から家族へと回され、日曜日には集会に持ち出されて、その古い聖書はすっかり使い古されてしまい、その文字はほとんど判読できないほどだったと言う。

 

  172.私達の主は、聖書を閉じている者に対しては、天国の窓を開かれない。

 

  173.聖書に関する知識がほとんどないクリスチャンがいるが、もし彼らが、それと同じくらい、自分の職に関する知識もなかったなら、毎日、自分の職場にも一人ではいけないことだろう。

 

 

  174.聖書は、怠け者にはパンを約束していない。

 

  177.あなたの思いを神の御言葉の光で満たしなさい。そうすれば、闇は逃げ去って行く! 聖句を引用しなさい! 悪魔の嘘に耳を貸してはならない!そんなことはしない方がいい。さもないと、イヴに起こったことがあなたの身にも起こるであろう。悪魔に耳を貸すことさえするな! その疑い、恐れ、落胆、誘惑、その他もろもろに耳を傾けることをせず、神の御言葉で悪魔に攻撃をかけなさい!−−ダッド

 

  178.もし神の御言葉を疑うなら、神の御心を疑っている事になる。また御言葉を疑っているなら、あなたには立つべき土台が何一つないので、さまよい出すことは決まりきっている! これがまさしくサウルのした事である。サウルは神の御言葉を疑い、神の預言者を疑って、結局自分で進んで行き、物事を自分で処理して、このように言ったも同然だった。 「あの神の預言者を待ちながら、ここで何もしないでいることはできない! 自分達が滅ぼされ、打ち負かされるのを何もしないでじっと見ていることはできない。何かをしなければ! 神や預言者から告げられようと告げられまいと、私がそれをしなければ! 自分のやり方でしてやろう!」 そして、結局サウルは、破滅したのだ! 神はサウルから王位を剥奪し、その王国を滅ぼされた! サウルは長子の権も、王座も、冠も、家族も、いっさいのものを失った! −−ダッド

 

  179.私には、魂を養い、体に力を与え、思いを新たにし、霊を高め、心を励まし、私のすべてを清めてくれる御言葉がなければならない。御言葉というすがすがしい新鮮な水、また、霊感に満ちた信仰の歌が!−−ダッド

 

  180.ある聖句を生涯を通して何度読んでも、意味がわからないことがある。ところが、ある日、聖霊がその聖句をあなたに語りかけ、あなたの状況にそれを当てはめてくれると、それが生き生きとしたものになるのだ! 主の御言葉の声といわれるのは、主がある御言葉を何かのことであなた個人に与えて下さったり、答えとして与えて下さった時に、それを生き生きとしたものとされ、あなたの状況にあてはめて下さり、突如それがあなたにとって生きたものとなる、そんな場合のことである! その時、その言葉はもはやただの言葉でもなければ、ただ頭を素通りするだけの言葉でもない。むしろ、全く突然にガーンといった感じでやってきて、あなたは突然、真の意味がつかめるようになるのだ!−−ダッド

 

  181.たとえ御言葉を読みたいだけ読んでも、もし御霊によって生きたものとされていないなら、それは何にもならない! たとえ聖書から御言葉を一言も違えずに引用することができたとしても、愛の内にその御言葉の中に生きないなら、それは何の益にもならない!−−ダッド

 

  182.あなた達は、 「お父さん、僕は読まなくてはいけない物が沢山あるし、仕事も沢山あるのに、どうして、聖書を読む時間が取れるでしょうか?」 と言うが、もし聖書を読む時間がないのに、どうしてビデオを見る時間があるのだろうか! 聖書を読む時間や、宿題をする時間がないのなら、ビデオを見る時間だって当然ないはずだろう? ビデオは、ただの純粋な楽しみや息抜きや娯楽やレクリエーションに過ぎないからだ。それは結構なことだし、その時間もなくてはならない。しかし、はっきり言って、私は、あなた達くらいの年の頃には、家に帰ってすぐに遊びに行くようなことは決してしなかった。後で宿題のことを心配しなくてもいいように、いつも、必ず、最初に宿題をすませた。宿題を終えてから、それから遊びに行ったのだ! だから、まず宿題から先にしなさい! アァメン? PTL!−−ダッド

 

  183. 「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子なのである。また、真理を知るであろう。そして、真理はあなたがたに自由を得させるであろう!」−−ただし、神の御言葉の内にとどまっているなら! 地上には他に自由はない! 地上には他に真理はない! 自由になる方法は他に何もない! 御言葉こそが、私達に真理を与えてくれるものであり、御言葉こそが私達に自由を得させるものである! 他には何もない! だから、もし人々が御言葉を持っていないなら、御言葉を信じないなら、神の御言葉を信じないなら、彼らには真理もなければ自由もなく、悪魔の奴隷とされているのだ!−−世界の人々の大部分がそうである!−−ダッド

 

  184.私は新しいもの、絶えず新しいものを見つける。聖書は決して古びることはない! 直接の預言や啓示はもとより、聖書の中からも、神は常に何か新しいものを啓示して下さる。−−ダッド

 

  185.

 疲れた時、聖書は私の休む床となり、

 暗闇の中では、聖書は私の光となり、

空腹の時には、生けるパンとなり、

 おじけた時には、戦うための武具となり、

  淋しい時には、私は聖書の内に多くの友を見いだす。

 

私が働く時には、聖書は私の道具となり、

 戯れる時には、美しい調べを奏でる立て琴となり、

無知な時には、私の教師となり、

 沈みかけている時には、堅固なる地となり、

寒い時には、私の炎となり、

   大胆に大志を抱いた時には、私に翼を与えてくれる。

 

 憂うつで、気分も滅入っているのか? 聖書は太陽だ。

醜さに満ちた世界にあって、聖書は美しい花園。

 喉が渇いた時には、この冷ややかな水は喉を潤してくれる。

息苦しい時には、新鮮な空気を送り込んでくれる。偉大なる書よ、あなたは私にあなたのすべてを  与えてくれている。

だから私も、私自身をあなたに捧げよう!

 (詩篇12:6; 19:7; 119:50; エペソ5:26; 6:17; コロサイ3:16)

 

  186.ある反抗的な若者が家出をし、何年も音沙汰がなかった。ところが、風の便りに父親が亡くなったという知らせを聞いて家に戻ったところ、思いがけず母親からの暖かい歓迎を受けた。遺言を読み上げる日がやって来た。親族がこぞって現れた。そして弁護士が遺書を読んだ。ところが、遺書には、家出をしていた反抗的な息子の経歴が詳細に渡って記されており、そこにいた者は皆驚いてしまった。息子は憤って立ち上がり、ものすごいけんまくで部屋から出て行ってしまった。そして、それから3年間、その息子からは何も連絡が来なかった。ところが後になって発見された時、息子は、遺言には、彼のわがままな振る舞いを並べたてた後、彼が1万5千ドルという遺産を相続すると書かれていたことを知ったのだった。もし彼が、ただ最後までそれを聞いていたなら、彼自身、また他の人達も、どれだけ悲しまずに済んだことだろうか? 多くの人はこのように、聖書を半分しか読まずに、不満を抱いたまま読むのをやめてしまう。聖書には、 「罪の支払う報酬は死である」とある。それは確かだ。だがその先があるのである、 「しかし、神の賜物は永遠の命である」と。

 

  189.どれだけ疲れていようとも、聖書を読まずして、夜、床につくことなどない−−ダグラス・マッカーサー

 

  190.神は、果たせないような約束をされることはない。

 

  191.東方のいわゆる聖なる書物と呼ばれている、コーラン、ヒンズー教のベーダ、仏教のパーリ語経典、ゼンド・アベスターに関する最高の権威者であろうとされているモニエール・ウィリアムス卿は言った。 「それらの書はどれも、書かれた当初には真の光が持つきらめきを持っていたが、結局最後には暗闇に葬られた。聖書と、東方のいわゆる聖典とされている諸書との間には、一つの大きな隔たりがある。そして、それらを隔てているのは、宗教思想のいかなる体系的知識を用いても、決して橋渡しすることなど絶対に、また永遠にできない深淵なのである!」

 

  192.御言葉の持つ七つの不思議

 1.その構成の不思議−−それがどうやって一つにまとめられたかは歴史の神秘の一つ

 2.その統一性の不思議−−66の書が合わさったものなのに、しかも一冊の本

 3.その年代の不思議−−あらゆる書物の中でも最古のもの

 4.その販売部数の不思議−−どの本をも凌ぐベストセラー

 5.その人の興味を引き起こす力の不思議−−世界で唯一の、あらゆる階級の人々によって読まれている本 6.その言葉づかいの不思議−−おもに教養のない人々によって書かれているにもかかわらず、文学的観点から見ても最高の水準

 7.その保存の不思議−−あらゆる本の中でも一番憎まれてきたにもかかわらず、なお存在している。 「われらの神の言葉は永遠に堅く立つ。」

 

  193.天国からの七面鳥の丸焼きを食べることができるのに、霊的にひからびたパンとかびの生えたチーズばかり食べているクリスチャンがいる!

 

  194.かつて社会に起こったどんな革命も、イエス・キリストの言葉によってもたらされる革命とは、到底比較するに及ばない

 

  196.家に帰って、15分間、説教の内容についてじっくり考えるよりも、説教を聞きに、10キロの道を行くことの方が楽である。

 

  197.御言葉を行う者こそ、御言葉を最もよく聞く者である。

 

  198.王の仕事をするのに忙しくしているからといって、王をなおざりにしていいということにはならない。

 

  199.誰も、自分の安楽を求めるあまり思いにふけって、隣り人に対する務めを忘れてしまうような生活をする権利など持っていないし、又、神を深く思う事をおろそかにしてしまうほどに活動的な生活に浸る権利をも持ってはいない。−−聖アウグスティヌス

 

  201.私達の神の概念は、この世の中に見るものではなく、聖書を基盤としたものでなければならない。

 

  202.私は、聖書の中にある一見して矛盾と思えるものはすべて、自分の無知のゆえだと考える。−−ジョン・ニュートン

 

  203.主は、私達が主の御言葉を私達の光として受け取らない限り、私達を照らしては下さらない。

 

  204.聖書は私達に最高の生き方、最も高貴な苦しみ方、最も快適な死に方を教えてくれる。

 

  205.他の本は情報を与えてくれ、中には、改善をもたらしてくれる本も少しはあるが、聖書だけが、完全なる変貌をもたらす。

 

  206.聖書の言葉はただ単に清いだけではなく、清める力も持っている。

 

  207.戦いの砂塵がおさまる時、私達は聖書の66冊の書が皆揃って、パウロと共に、 「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」と叫ぶのを聞くだろう。

 

  208.聖書を学ぶにあたって、 「始まりに際しては、あなたに聖書を読ませまいとして身を潜めている悪鬼どもの軍勢に出会うだろう」とサムエル・ツエマー博士は警告する。そういう場合は、どんな分野の学問でもそうであるように、エマーソンの言う通り、 「集中力こそ成功の秘訣」なのである。

  D・L・ムーディーは言った。 「聖書を学ばずして、なお大いに用いられたクリスチャンを、私は今だかつて一人も見たことがない。もし人が聖書をおろそかにするなら、あまり聖霊の働く余地は残されていない。私達には御言葉がなければならない。」 そしてベンガルの助言は極めて適切である。 「熱心に聖書を読み、聖書の言葉はことごとく自分のために書かれていると考えなさい。」

 

  209.あるアメリカ人がパリに行った。そして妻に何か贈り物をしたいと思った彼は、燐光性で真珠色のマッチ箱の入れ物を買い求めた。暗闇の中に置くと美しく輝くと書いてあったからである。彼はそれをトランクに詰め込み、アメリカに持ち帰った。そして、家族に歓迎してもらい、おいしい夕食を食べた後で、彼は明かりを消すようにと言ったのだった。部屋が暗くなると、彼はポケットからそのマッチ箱を取り出して、妻に手渡した。ところがそれは、周囲の闇と全く同じくらい黒かったのである。 「これは外国人に売りつけるまやかし物だったんだ。ペテンにかけられた。」 翌日、ちょっと興味を抱いた妻がそのマッチ箱の入れ物を見てみると、フランス語で説明が書いてあった。そこでフランス人の女中を使っている友人の家に行き、その説明文の翻訳を頼んだのだった。その晩、暗闇の中でそのマッチ箱は明るく輝いていた。箱に書いてあった通りにしたからである。 「もし私を昼間の間ずっと太陽のあたる所に置いてくれたら、私はあなたのために一晩中、暗い中で輝きましょう。」

 (第二コリント4章6節; ピリピ2章15節)