グッド・ソーツ

試練と勝利

 

 

  1.しばらく前になるが、私が州知事をしていた頃、ある著名なキリスト教伝道師がYMCAでの講演のために州都を訪れた。伝道師としての華々しい評判はかねがね聞いていたので、その人の支援者から、 「知事、夜の講演が始まる前に、あの方を夕食に招いてはいかがでしょう?」と尋ねられた時、私はすこぶる喜んだ。

  そしてついに、待ちに待った日がやって来た。私は期待に胸をはずませながら、あわただしく知事公邸に戻った。神のために数々の目覚ましい業績を成し遂げた、ダイナミックな伝道師に会えるのだから…。ところが、私の目の前に現れたのは、150センチにも満たない小さな人で、言葉は悪いが「醜い小男」という表現がぴったりの、ダイナミックというイメージとは程遠い人物であった。人は外見では判断できないとわかっていながらも、恥ずかしいことに、私は失望の色が隠せなかった。すると、それを感じ取った伝道師は言った。 「どんな者でも神が使ってくださるというのは、素晴らしいですね?!」 そうだ、確かにその通りだった。

 

  3.ある時、私は飼い犬から一つの教訓を学んだ。父はよく、肉のかたまりやビスケットを近くに置いて、 「お預け!」と言ったものだ。つまり、それを食べてはいけない、触れることさえするな、ということだ。すると、犬は決してその肉を見ない。見てしまうなら、誘惑が大きすぎて命令に背いてしまうことを、知っていたかのように。だから、犬はただじっと父の顔を見つめるのだ。そこに学ぶべき教訓がある。つまり、いつでも主人の、つまりキリストの御顔を見つめていなさい、ということだ。

 

  4.ある生物学者が、自分の体よりもはるかに大きな麦わらを運ぼうとしている一匹のアリを観察していた。アリは、地面の割れ目に差しかかったが、とても越せそうにないような広い割れ目だった。アリは、しばらくの間、じっとしていた。それから、自分が負っていたその麦わらを割れ目に渡すと、その上を歩いて渡って行ったという。

  ここに、誰もが学ぶべき教訓がある! 人の重荷も、進歩になくてはならぬ橋とすることができるのだ。

 

  5.何の障害物もない道というのがあるとすれば、おそらく、その行く手には何もないであろう。

 

  6.自分の問題を忘れる一番の方法とは、誰かの問題の解決に手を貸すこと。

 

  7.あなたは解決に協力しているのか、それとも、問題の一部となっているのか?

 

  8.ワシは興味深い鳥である。険しい山に、あるいは高い木の先端に巣を作る。その巣作りの仕方とは、まず、いばらや鋭く荒い石、その他、あらゆる類いの尖った物を敷く。とても巣作りの材料には思えない物ばかりだ。それから、自分の仕留めた羊や鳥などの毛や羽根でおおう。かくして、ヒナにとって、快適で居心地の良い巣のできあがりだ。

  けれども、ヒナたちは、自分たちのために入念に作られたその巣に、いつまでもとどまっていることは期待されていない。巣立ちの時が来ると、母鳥は巣の中をめちゃくちゃにしてしまう。当然、様々な突起物が現れて、ヒナの肉に食い込んでくる。それまでは、ただくちばしを開きさえすれば、えさを入れてもらえるという生活をしていたが、巣の中がめちゃくちゃにされてしまうと、そのみじめさといったら、巣から抜け出て、どこかよそに行きたくなるほどだ。

  しかし、母鳥の意図はまさにそこにある。母鳥のこの行動は、母鳥が残酷無情だからではなく、ヒナたちに、それまでの楽な生活に不満を抱かせるためである。こうして、ヒナたちは、もっと成長したいと願うようになるからだ。

 

  9.ある養蜂家が私に、ミツバチの巣箱について話してくれた。生まれたばかりのミツバチの幼虫は、六角形の部屋に入っており、部屋の中には、成虫になるまで十分もつだけの蜂蜜が蓄えられている。幼虫は蜂蜜を食べて成虫へと成長するのだ。その部屋はろうでできた膜でふたをされており、蜂蜜がなくなった時が、その膜ぶたを破って出てくる時である。しかし、膜ぶたをくぐって出るためには、全力をふりしぼり、悪戦苦闘をしなくてはならない! ミツバチにとって、それは狭き門である。しかし、その狭さのゆえに、無我夢中で出ようとするミツバチの羽根をおおっていた一種の膜がこすり落とされる。かくして、ミツバチは飛べるようになるのだ!

 

  10.美しい音色と一度聴いたら忘れられないような響きを持つバイオリンを製作するための木を、生涯かけて探し続けていたあるバイオリン作りが、ついに目的を果たした。そこは、ロッキー山脈の海抜3600メートルの地点で、木が生えているのは、そこが最高点だった。強風が絶え間なく吹き荒れ、樹皮さえ育たなかった。また、枝は全部が同じ方向に向いていて、生き延びている木は、生涯、ひざまずくような格好でいなくてはならない。そのような場所こそ、世界で最も美しい響きを持つバイオリンとなる木が生まれ、育ち、そして死ぬ場所である。

 

  11.誘惑から逃げる時には、絶対に転送先を知らせないこと。

 

  13.私達の目が涙で洗われると、もう涙を流すこともない、目に見えない天の国がもっとよく見えるようになる。

 

  15.大いなる災難や混乱を通して、大いなる精神が培(つちか)われる。最も純度の高い貴金属は、最高の温度の炉の中で作られ、最も明るい稲妻は最も暗い嵐の中で光る。

 

  16.嵐の吹きすさぶ中、ツタはしっかりとカシの木にしがみつく。自然の猛威がカシの木を根こそぎにしても、巻きついたツタは、やはりカシの木にしっかりとしがみついている。もしツタが風下にあったなら、大きなカシの木によって守られる。しかし、風雨にさらされる側にあったなら、その嵐によってツタは、より一層、幹にしがみつく。

  人生の嵐にあって、神は、間に立ち入って、私達をかくまって下さることもあるし、また、私達が嵐にさらされるにまかされることもある。だが、たとえ嵐にあっても、私達は、かえって神に引き寄せられるのだ。

 

  17.ジョン・ウェズレーには、ひどい妻がいた。ウェズレーの苦悶(くもん)ははかり知れないほどだったが、自分の成功には妻が大いに貢献していた、と彼は語っている。そのような妻がいたために、ウェズレーは常に祈ることを強いられ、そのゆえに勝利をつかんだからである。

 

  18.共産主義時代のソ連で、ある科学者グループが、安楽な人生が寿命を延ばすか縮めるかを究明するための実験を行ない、以下のような結果報告をまとめた。

   「動物の寿命について一連の実験を行い、一つのグループの動物たちは、生きていくのに理想的な環境のもとにおかれた。静かで、新鮮な空気と豊富な食糧があり、何をしても誰からも干渉されなかった。寝たいだけ寝て、遊びたいだけ遊ぶことができた。そのグループの動物たちの毛はつやつやしてきた。

  もう一つのグループの動物は、苦労や喜びや妨げや驚きやあらゆる種類のことが起こる環境におかれた。

  しかし、最初に病気になり、すっかり弱ってしまったのは、理想的ともいえる環境に暮らしていた動物たちのほうだった。

  そこで、同国の研究者たちは、同じことが人間にもあてはまるかどうかを確認しようと試みている。」

 

  19.自分が少数派にいる時は、勇気が試され、多数派にいる時は、寛容さが試される。

 

  20.お茶から教訓を得よう。お茶の真価は熱湯をくぐり抜ける時に現れる。

 

  21.戦いの傷跡は、王位にとどまるための代価。悲しみは常に偉大さの一部。

 

  22.ヤママユガのまゆはフラスコの形をしている。ついに蛾になると、そのまゆのすぼまった口から出るために、何時間にも及ぶ死闘を強いられる。その際にヤママユガに加わる圧力が、羽根の血管内に体液を送り込むための自然の過程であると言われている。

  ある時、ヤママユガの悪戦苦闘を観察していた人が、見るに見かねて、もっと楽に出て来れるようにと、その狭い入り口をはさみで切ってしまった。すると、ヤママユガの羽根は完全に開き切ることはなかった。虹色の羽根を広げて舞う代わりに、床をはうだけでその短い命を終えてしまったのだ。

  苦しみにあう神の子供たちに、誤った同情心を寄せてはならない。人はややもすれば近視的な物の見方をしてしまう。神が私達に望んでおられること、それは、苦しみのさなかにある彼らを励まして、神の愛を思い出させ、その中から栄光が生じるのを期待する助けとなることである。

 

  25.私達は神の宝石である。神はしばしばこの宝石類を黒い布地の上に展示される。もっと明るく輝くようにと。

 

  26.私達が実際どんな種類のクリスチャンであるかは、私達の試練や困難の対処の仕方によって最も正確に現れる。

 

  27.このことを堅く信じていなさい。もし神が石地の道にあなたを送られるのであれば、神は頑丈な靴を備えて下さるか、足を丈夫に鍛えて下さるか、そのいずれかである!

 

  28.将軍アンティゴノスの下で戦ったある兵士についての、ギリシャの昔話がある。その兵士は実に痛々しい、いつ死ぬとも分からぬ病気にかかっていた。いくさの度に、最前線に出て、猛然と戦った。その重病の痛みを忘れようと、死に物狂いで戦ったのだ。また、明日をも知れぬ命であることから、戦死することを本望としていたのである。

  その兵士の勇敢さにいたく感心した将軍アンティゴノスは、ほうびとして、ある著名な医者に治療をさせ、兵士はついに病気が治った。が、その時から、勇敢な兵士の姿は最前線から消えてしまった。危険に真っ向から挑むどころか、危険を避けるようになり、戦場で命を惜しむようになってしまったのだ。病気という苦難があったからこそ、勇敢に戦ったのだが、健康が回復し、楽になると、役に立たぬ兵士となってしまった。

  あなたも、何かの重荷から解放されたり、病気が治ったり、心配事がなくなったりするならば、志気や精神的な力や影響力を失ってしまうかもしれない。

 

  29.宣教師であるランビエ医師は、アビシニア (現在のエチオピア) にいた時に、橋がかかっていない急流を幾度も渡らねばならなかった。そのような川では、流れに足を取られて流され、深みにはまるか、水中の岩に激突して死ぬ危険があった。ランビエ医師は、そんな危険な川を渡るための最善の方法を、現地の住民たちから学んだ。彼らは、渡る前に、できるだけ重い岩を探した。そして、それを肩にかつぎ、 「おもし」 がわりにして川を渡るのである。岩の重みで川底に足が固定されるので、流されることなしに、安全に渡ることができた。

  ランビエ医師は、これを人生の教訓としている。危険な川を渡る際に、敵である悪魔は私達を攻撃し、ひっくり返らせ、滅ぼそうとする。だから私達は、自分の足が取られることのないよう、重荷や災いの荷というおもしが必要なのだと。

 

  30.いつか、朝刊を手にしてみたら、そこにD・L・ムーディー死去、という記事を読む日が来るだろう。でも、その日が来ても、信じるには及ばない。他ならぬその瞬間に、私は現在よりもはるかに生命に満ちるのだから。−−ドワイト・L・ムーディー

 

  32.ダイヤモンドの美しさは、カットされ、磨かれることによってのみ生じる。同様に、イエスの美しさがクリスチャンの内に生じるのも、試練と試みを通してのみである。

 

  33.あるフランス兵がナポレオンの怒りに触れて、独房に入れられた。友人たちからも見捨てられ、外の世界のすべての人からも忘れられてしまったように感じたその兵は、孤独と絶望にさいなまれた。それから、小石を手に取ると、独房の石壁にこう刻んだのだった。 「誰も顧みてくれない」

  ある日、独房の床の石の小さな割れ目から緑色の芽が出て来た。そして、天井近くにある小さな窓から差し込んでくる光に向かって、次第に大きくなっていくのだった。囚人は、自分に配給される水の一部を取っておいては、いつもその緑の葉に注ぎかけた。すると、その植物はどんどん大きくなって、とうとう、美しい青色の花を咲かせたのだった。花びらがいっぱいに開いた時、独房の囚人は以前に刻み込んだあの言葉をかき消して、今度はその上にこう刻んだ。  「神は顧みて下さる」

 

  35.「アトランティック・マンスリー」誌の編集長、チャールズ W.モートンは、こんな話をしてくれた。ハーバード大学の一年生が、ブリッグズ学部長のオフィスにやってきて、課題の提出が遅れたことについて、こう言い訳した。 「すみません。気分が良くなかったもので。」

  すると、ブリッグズ学部長はこう答えた。 「これまでのところ、世界中の偉業の大部分は、気分の良くない人々によって成し遂げられてきたということを、覚えておきたまえ。」

 

  39.逆境は人をひ弱にはしない。ただ、人がいかにひ弱であるかを示すだけだ。

 

  40.英国の国連大使、キャラドン卿は、試練をキリストの教えによって乗り切る術を心得ていた。1969年5月、米国聖書協会で昼食会が催された際、キャラドン卿は、動乱のまっただ中にあったキプロスで、総督を務めていた時のことを演説の中で語った。

  信心深い父親が気づかってくれていることを知っていた若き総督は、英国から「第二コリント4:8, 9」と書かれた電報を受け取っても驚きはしなかった。その章句をよく知り尽くしていたからである。 「わたしたちは四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に遭っても見捨てられない。倒されても滅びない。」

  それは、励ましと保証のメッセージだった。息子を案じる父親に対する返事はこれだった。 「ローマ5:3, 4」 その返信電報は信仰と希望との証しだった。 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。」

 

  41.昔、エチオピアの、ワラモのソッドゥーにいたエチオピア人が、次のような祈りをした。 「全能なる神よ、私達に災いを送って下さるとようにと、心の底から嘆願いたします。エチオピアの王が追放された時、私達は外国人 (イタリヤ人)統治者たちの下で多くの災いにあっていました。会合もひそかに行わなければならなかったし、私達の身は絶えず危険にさらされていました。でも、私達のクリスチャン仲間と調和の内に働けたのは、その時だったのです。

  長旅をしながら、福音を宣べ伝えたり、教えたりして一日を過ごした後で、戸を堅く閉ざし、疲れ切った体を休めるためにベッドに入っていると、誰かが戸を執ようにたたき続けたものでした。主よ、どんなにか眠かったことでしょう。その人たちにしても、夜中にバプテスマを受け、追われ、追跡され、獄に入れられ、打ちたたかれるといったような目にあうことは、望まなかったはずです。ところが、その人たちは、クリスチャンたちの喜びを見たので、自分たちもその宗教を持ちたいのだ、と言ったのです。そのようにして、毎晩のように人数が増えていきました。

  私達はあなたの御言葉を読み、それについて語り合い、夜を徹して祈りました。主にあって喜びを共にしたのです。私達は、福音を宣べ伝え、また教えるという、ただ一つの願い事をもって、手に手を取り合って働きました。そうしたら、エチオピアの王が戻って来たのです。外国人統治者たちは私達の国から出て行くことを余儀なくされました。

  国には平和が戻りました。バプテスマも昼間、堂々とできます。打ちたたかれることもありません。私達は会合し、共に祈ります。しかし、あなたに対する熱意が次第に欠けてきました。妬みの心が忍び込み、調和が損なわれました。ちっぽけな災いも集会で大げさに語られ、願い事においても利己心が満ちるようになりました。愛する主よ、私達にもっと多くの災いを送って下さるよう祈ります。私達が自分のことを忘れ、あなただけに頼るようになり、クリスチャン仲間に対して利己心や妬みを抱く時間などなくなるようにです。イエス様のために。アァメン。」

 

  42.金づちはガラスを割るが、鋼鉄を鍛える。

 

  43.悲観主義者は災いについてこう言う。  「これは、人にその宗教を捨てさせるに十分だ」と。一方、楽観主義者は言う。 「これは、人にその宗教を実行させるのに絶好のチャンスだ」 と。

 

  45.ハーバード大学の偉大なる総長の一人、チャールズ・ウイリアム・エリオットの話は、語るに値する。醜い顔を持って生まれた彼は、まだ若い頃に、それについてはどうしようもないことを知らされ、この醜い傷痕をもって一生を生き抜いていかなければならないという事実を悟った。この悲しい真実を母親から聞いた時、それは彼にとって、 「人生の最も暗い瞬間」であったという。

  しかし、母親はこう言った。 「チャーリー、このハンディキャップを無くすことはできないの。一流のお医者様たちに診てもらいもしたけれど、できることは何もないそうよ。でも、あなたにできること、それは神の助けによって、人々があなたの顔のことなど忘れてしまうほど、大きな魂と精神の持ち主になることです。」

 

  46.「 ビソーニャ・ソフリーレ・ペア・エセーレ・グランディ」 これは、有名なオペラ歌手、エンリコ・カルーソのお気に入りの言葉です。 「偉大になるためには、苦難を味わわなくてはならぬ。」

  長年の苦労の末に、カルーソは名声を勝ち取りました。しかし、彼がその声を通して伝えたのは、美しい音楽だけではありません。音楽批評家たちは、こう批評しました。 「彼の声は聞く人を愛するが、それは声だけでない。彼は人の苦しみがわかる人間だ。」 これは、人生の苦難を正しい態度で受け入れる人達が、苦難を通して受ける益です。

 

  48.もし心に緑の若枝を保っているなら、いつの日か、歌う鳥が宿るようになる。

 

  49.私達が「逆境」と呼ぶものを、神は「絶好のチャンス」と呼ばれる。私達が「辛い試練」と呼ぶものを、神は「成長」と呼ばれる。

 

  51.時に、最善のインスピレーションは、絶望のどん底で生まれる。

 

  52.摩擦なしにダイヤモンドが磨かれないように、試錬なしに人格がはぐくまれることもない。

 

  53.岩を取りのけてしまうなら、谷川はその歌を失う。

 

  54.人が困難な立場にあっても忠実であるなら、高い地位についても信頼できる。

 

  55.試練とは、信頼の訓練所。

 

  56.神は、ご自身が光であることを証明するために、時々、私達を暗闇に置かれる。

 

  57.自分が好きな仕事よりももう少しきつい仕事に就いたなら、感謝しなさい。かみそりの刃は、ビロードでは研ぐことができないのだから。

 

  58.あおむけに倒れ、何もできなくならない限り、決して天を見上げることをしない人々がいる。

 

  59.問題とは、作業着をまとったチャンスに過ぎない。

 

  62.辛いことを数々経験するのは、何カ国語も話せるようなもの。それによって、いろいろな人たちと話すチャンスが与えられる。

 

  63.人々のことを考えると、

                悩みは大きくなる。

          神のことを考えると、

                悩みはなくなる。

 

  64.中国の教師たちがするたとえ話に、一人息子を亡くした、ある婦人についての話があります。その婦人は、深い悲しみに打ちひしがれるばかりでした。ついにその婦人がある賢者に教えをこいに行くと、こんな返事が返ってきました。 「私のところにからし種を幾つか持ってきてくれるなら、あなたの亡くした息子を戻してあげよう。ただし、そのからし種は、まだ一度も悲しみを味わったことのない家庭からでなければならない。」 そこで婦人は熱心にそのからし種を探し始め、家から家へと回ったのです。でも、どこへ行っても、家族を失った悲しみを味わったことのない家庭などありませんでした。 「私は、自分の悲しみにすっかり浸りきって、何て利己的だったのでしょう。悲しみは、誰にもめぐって来るものなのに。」 婦人はそう言ったそうです。

 

  68.神はよく悲しみのシャベルを使って、喜びの井戸を掘られる!

 

  70.人生は二者択一である。キリストと共に十字架にかかるか、キリストなしに滅びるかだ。

 

  71.死者を真に弔う方法とは、まだ生きているその遺族や友の世話することである。

 

  75.第一次世界大戦中に、ドイツのハルツ山脈からあの美しく歌うカナリヤを輸入することができなくなった時、ニューヨークのある貿易商がカナリヤに歌を覚えさせる方法を考案しました。つまり、鳥の歌声をレコードに録ったのです。この方法はうまくいきました。でも、ある日、ものすごい大発見をし、それが成功へとつながったのです。その大発見というのは、鳥カゴを厚い布でおおってしまい、完全に光を遮断してしまうと、鳥は歌を学ぶということでした。クリスチャンの歌は心の中で出来上がります。そして、多くのクリスチャンたちは、神は、時折、暗闇の中でその子供たちに歌うことを教えられることがある、ということを学んでいます。まことに、 「主は、夜の間に歌を与えられる」のです。

 

  76.最も頑丈な木は、ガラス張りの温室にも、山々に囲まれて強風にさらされることのない谷間にも育たない。最も強い立木は、ノルウェーの岩山に育つ。そこは、嵐が荒れ狂い、長く過酷な冬が訪れる地。このことは、クリスチャンにとっても同様ではないだろうか? 鍛練によって健康になり、活発さによって体力が増す。そして、筋肉は、金づちを振り回すその力強い腕についてくる。

 

  79.暗闇の中にいる時、神が光の中で語られたことを、決して疑ってはならない。

 

  81.少年が小船を造った。小おどりしながら、その船を池に浮かべに出かけて行った。ところが、水に浮かべて遊んでいる内に、船は手の届かない所まで流されて行ってしまった。すっかりしょげかえった少年は、そこにいた年上の子供に助けを求め、その小船を岸に戻してくれるように頼んだ。けれども、その大柄の少年は無言で石を拾うと、その船の方に投げ始めたのだ。それを見た少年は、自分の船を取り戻してくれるどころか、意地悪されているのだと思った。だが、驚いたことに、その大柄の少年が投げている石は、船には当たらないで、船の少し向こうに落ち、小さな波を作っては、その船を岸へ岸へと近づけているではないか。その一つ一つの石はちゃんと計画されていて、ついに船は岸へとたどり着いたのだった。少年は大喜びだった! 自分の宝物を再び取り戻したのだから!

  人生において、不愉快なこと、道理にかなっていないこと、計画どおりではないようなことが起こることがある。しかし、しばし待つなら、一つ一つの試練、すなわち、私達の穏やかな水面を打つ石が、私達を神へと近づけていることがわかる!

 

 「人間の取るに足らぬ考えで、

        主を判断してはいけない。

 主が恵みを施して下さることを信ぜよ。

  顔をくもらせるような辛いことの裏にも

        神は笑顔を隠しておられるのだから!」

 

  82.主は、悪魔がヨブを完全に滅ぼさんばかりにするのを許された。悪魔は、ヨブの家族を殺し、ヨブを無一文にし、さらにはヨブ本人も殺そうとしたのだ。しかし、ヨブは決して悪魔に「参った」とは言わず、妻に、「神を呪って死んではどうか」とまで言われても動じなかった。全身が腫れ物だらけになり、灰の山に座って、陶器のかけらでかさぶたやうみをかき取らねばならなくても、信じ続け、従い続けた。そして、「たとえ神が私を殺そうとも、私は神に信頼する」と言ったのだ。あなたにはできるだろうか? あなたがヨブほどひどい状態にならなくてもいいことを、私は願う! だが、たとえなったとしても、絶対にあきらめてはいけない!--デービッド・ブラント・バーグ

 

  83.私は、大きな製鋼所の試験室に入ったことがある。仕切が沢山あって、幾つもの部屋に分かれていた。鋼鉄は、限界までテストされ、限界点を示す表示が付けられていた。限界までねじられ、ついに折れてしまったところで、そのねじる力が記されるものもあった。また、限界まで引っ張られ、折れた時点でその伸力が記されるものもあった。壊れるまで圧縮され、それが記されるものもあった。何らかの圧力に対して、どれだけこれらの鋼鉄が耐えうるかをその工場で働く人々は知っていた。大きな船やビルや橋に使用されたなら、どれくらい耐久力があるかを。なぜなら、試験室でそれが明らかにされていたからだ。神を信じる人々にとっても同じ場合がよくある。神は私達にガラスの花瓶や陶器にはなってほしくないのだ。室内の観葉植物ではなく、嵐にあいながら強く育つカシの木に、また、風に吹き飛ばされる砂丘の砂ではなく、猛烈な嵐にも耐えるみかげ石になることを望んでおられる。神は私達をそのようにするために、私達を苦難の試験室に入れなくてはならない。キリストと共に大しけの海にいるほうが、キリストなしに穏やかな海にいるよりもよい。

 

 

  84.英国の改革家、サミュエル・プリムソル(1824-98)の尽力により、1876年に商業船舶運搬法が可決された。この法律は、すべての船舶が、プリムソル標(満載喫水線標)と呼ばれる標示をすることを義務づけるもので、これにより、英国商務省は、安全でないと判断した船を取り締まり、積み荷の量を制限できるようになった。おかげで、当時の危険で長い航海がはるかに安全になったのである。プリムソルはその貢献により、「船乗りの友」と呼ばれ、有名になった。港に停泊している船の船首の水面の上のほうに数字と喫水線が記されているのが、プリムソル標である。神の目からすれば、たとえ人には見えなくとも、誰もが似たような標示をつけている。神が私達に与えられる重荷や責任は耐えられないように思えるかもしれないが、神は私達の限界を知っておられ、永遠の腕をもって私達を支えておられるのである。だから、神の恵みによって、沈むことなく、荷を運べる。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)

 

  86.人生での葛藤や苦難なしに、静かにキリストと共に天国に行くことはありえない。

 

  87.勝利に至る第一ステップとは、敵を見破ること。

 

  89. システィナ礼拝堂の壁画の制作を命じられたミケランジェロは、最初、断った。その類いの仕事はまだ一度もしたことがないと言って。だが、選択の余地はなく、どうしても断れば非常に不利な結果を招くことがわかったミケランジェロは、仕事に取りかかった。これが後世に残る偉大な傑作が制作された背景である。

  常に不可能だと考えてきたことに、どうしても取り組まねばならない状況におかれるまでは、人は、自分の内に秘められた可能性をなかなか見いだせない。

 

  96.年老いた人が、斧の柄の材料にするため、ヒッコリーの木を探しに少年を連れて森に入った。やがてヒッコリーの若木が数本生えている所に来た。そこで少年が、 「これなら良い斧の柄ができるよ。さあ、切り倒そう」と言った。

  すると老人は答えた、 「いやいや、低い所に生えているヒッコリーの木には、高い所に吹き荒れるような強風があたらない。もっと上に行かねば。そこなら、嵐で木が揺すられているから。そのような木は雨風にさらされ、堅くなっていて、頑丈な斧の柄ができるんじゃ!」

  誘惑にさらされてきた、つまり、誘惑者であるサタンによって、手荒く揺すられてきた者たちは、もっと強い。私達は 「私達を愛してくださったかたによって、これらすべてのことにおいて勝ち得て余りがある!」

  ヨブは言った、 「彼が私を試みる時、私は金のようになって出て来るであろう」と。

 

  97.神の子供たちの一人が、悲嘆と苦難の暗い川を渡っていた。 「神は私に恵みを施されることを、お忘れになったのだ。私には神がどうお考えなのかわからない。」と言う彼に、一人の牧師が会いに来た。彼が、裏庭で、ぶどうの木のせん定をしていた時だった。彼は言った、 「牧師さん、最近の豪雨で、余分な枝が生えすぎてしまってねえ。こうして余分な枝を取り除いてやれば、もっと良い実ができるようになります。」 すると牧師はこう問いかけた。 「この枝はあなたに逆らったり、抵抗したりしますか?」  「いいえ、もちろんそんなことはしませんよ。」と答えると、牧師はこう尋ねたのだった、 「それならば、あなたがこの枝にしていることを、神があなたのためになさる時、その懲らしめの手について、いったいどうしてあなたはつぶやくのですか?」

 

  98.人生の嵐や火のような試練や苦難は、どんな目的のためにあるのか? そう、ちょうど木の強さを試すように、また、金を精練するかのように、人の強さを試験し、悪魔と戦うチャンスを与えて、簡単にあきらめてしまうかどうか、それとも、戦い続けて主に信頼するかどうかを見るためである。−−デービッド・B・バーグ

 

  101.19世紀のスウェーデンの有名な歌姫ジェニー・リンドは、当時、絶大なる人気を誇っていた。ある日、彼女の歌の指導をしている教師がこう言った。 「ジェニー、君には世界最高の歌手になれるあらゆる才能が備わっているが、たった一つだけ足りないものがある!」 ジェニーは尋ねた。 「それはいったい何ですか? 私は朝から晩まで練習しているし、先生は、人一倍の声域、何でも歌いこなせる能力と才能があるとおっしゃったじゃないですか! 何が足りないんですか?」 教師は答えた。 「真に偉大な歌手になるには、人生で深い失望を味わう経験しなくてはいけない!」 そして、教師は、ジェニーがまさにそれを経験するようにした! ジェニーが自分と恋に落ちた時に、ジェニーをふったのだ。その時から、ジェニーはハートをこめて歌うようになった! ジェニーの歌は、寂しさと涙とを語る彼女自身の歌になった! つまり、ただ曲を歌うのではなく、彼女自身の心の叫びとなったのである!

 

  103.試練は人の人格をテストするにとどまらない。さらに人格に深みを加えていく。ちょうど、かしの木が、嵐によって試みにあうことで、さらに強くなっていくように。

 

  108.人生には、まだキリストが克服していないものは、何一つない。

 

  109.主は、あなたが何かを克服するたびに、さらに強くして下さる。予防接種のようなものだ。病気にかかることがないように、少しずつ注射し、徐々に病気への抵抗力を強めていく。だが、少しもテストされたことがなく、少量を注射されたこともないなら、大きな病気には耐えられないだろう。

  中世や昔の時代には、毒殺が頻繁にあったので、王や重要な人物は毎日少量の毒を飲んでいた。ほんの少量を飲み始め、毎日少しずつ量を増やしていき、だんだん抵抗力がつくようにするのだ。そうすると、誰かに大量の毒をもられても、死ぬことはない!

  それは、主が私達になさることと似ている。主は毎日徐々に、私達をテストし試みられ、私達の力や抵抗力を増強される。毎日私達に予防接種をされ、犠牲、試練、問題、戦いという血清の量を徐々に増やしていかれるのだ。

                                          

111. また新しい年の門出に立つ

    この年の終わりまで旅するうちに

どんな喜びや楽しみ

  あるいは、悲しみや苦難が訪れることか・・・

しかし、賢明なる神は

  私達にとって何が最善かを知っておられる

だから、心は安らぎを覚える

  神がすべてを取りはからって下さるから

 

  112.心をおおうこの重い雲も、優しい神が御手を伸ばして、日陰を作って下さっているにすぎない。

 

 113.小さな花よ、雨が降っているのかい?

       それを喜びなさい

     晴れた日がずっと続くなら、

                        たちまち枯れてしまうから

       陽はまた輝くさ

     雨雲が重くたれ込めている

       でもその上にはいつだって

                        輝く青空がある

 

     優しい心よ、悩みがあるのかい?

       その傷みを喜びなさい

     悲しみの中に

                    内面の美しさがはぐくまれるのだから

       雨の中に咲く花のように

     神は見守られ、日はその顔を現す

       雨雲がそのわざを全うした時に

                          −ルーシー・ラルコム

 

114. 私が常夏(とこなつ)の人生を過ごしているなら

  「私の罪は雪のように白くなる」という聖書の言葉を理解できたろうか

 

快晴で何をしても順調な毎日だけを過ごすなら

「かの御国で主は私の涙をぬぐい去って下さる」という言葉を理解できたろうか

 

身も心も疲れ果てることを知らなかったら

「主は愛する者に眠りをたまわる」という言葉を理解できたろうか

 

墓に行くことがないなら

人生は永遠と思わず、つかの間の夢と思うだけではないだろうか

 

私の冬も涙も疲れも墓でさえも

主からの素晴らしい祝福かもしれない!

 

辛いことに思えても

実は、主から私への愛のしるしであるにちがいない!

 

 

  116.子供の頃に、抜群に優しい女の子がいたのを覚えている。彼女は素晴らしいクリスチャンで、主を愛していて、いつもほほ笑んでいて、快活だった。だが、彼女の姉がいつも彼女の車椅子を押していた。彼女は障害があり、手足のコントロールがきかず、いつも頭をよじり、顔の表情もゆがんでいた。

  でも、ほほ笑むことはできた! 彼女の顔は、喜びで輝き、ほほ笑みながら、主のことを話したり、友人たちとおしゃべりしていた! 彼女は誰からも愛され、彼女もみんなを愛し、とても幸せそうだった。

  けれども何かの理由で、主は彼女をその障害から救い出されなかった。少なくとも私の覚えている限りでは。つまり、私が子供でその教会に行っていた間は。しかし、彼女は本当に幸せそうだった! 障害を抱えながらも、人生を明るく生きていた。

  だが、その教会はいやしを信じ、説いている教会だったので、この女の子がいつも車椅子に乗って礼拝にやって来るというのは、私たちにとって、ばつの悪いことだった! しかも、別の女性は、てんかんの発作でピアノの椅子から倒れたりもした。

  というわけで、主は、こうしたことを使って、私達が思い上がって謙虚な心を忘れることのないように助けて下さっていると思う。−−デービッド・B・バーグ

 

  120.        疲れた者の安らぎ

                悲しむ者の喜び

                やるせない者の希望

                喜ぶ者の光

                旅人の故郷

                最後まで戦う力

                危険からの隠れ場

                それが救い主、それが友!

 

                横たわる者の枕

                その頭を休める愛

                死にかかっている者の平安

                死者の命

                卑しい者の道

                ゴールで待つ賞与

                聖なる者の息

                それが救い主、それが友!

 

                わが足がつまずく時

                あなたに向かって呼ばわる

                柔和な者の冠

                気高き者の十字架

                わが歩みがおぼつかない時

                誠をもって、優しさをもって

                私の上に身をかがめられる

                それが救い主、それが友!

 

                この口はひねもす

                あなたに向かって言い表す

                祝福と、賛美を、

                そして栄光を

                わがすべてを尽くして

                世々限りなく、いつまでも

                あなたにむかって

                呼ばわります

                わが救い主、わが友と!

 

 

  122.「ものすごい誘惑に襲われたなら、一体どうしますか?」と尋ねられたある年老いた聖徒は、こう答えた。 「私は両手を主に向かってあげ、こう言います。 『主よ、あなたの持ち物が危険にさらされています。早く助けて下さい!』 と。そうしたら、後は、また誘惑にあう時まで、そのことは忘れてしまうのです。」

 

  125.たとえこの心がいかに重くても

          またこの瞬間がいかに暗くても

 私の身に起きていることが何であれ

        今この時に耐えるられるなら

 そして、私の世界が崩れ落ちても

        他の全ての人から疑われていても

 神は私を愛しておられるという

          確かな知識に基づいて

静けさと穏やかさとを

          保っていられるなら

心の中で真実であると信じている事を

        堅く信じ続けることができるなら

そう、「暗闇は朝の光で逃げ去って行く」

        この試練も逃げ去って行くと

信じることができるなら

  人生には私を打ち負かすものなどない

この知識をしっかり保っている限り

         何が起きているにせよ、

  私はそれに耐えられるのだから

 

私は知っている、神は 「すべての鎖を」

  私を 「闇」に縛りつけ

恐れで満たそうとするその鎖を

         断ち切って下さると

夜には必ず夜明けが伴うもの

         そして、私にはわかる、

「私の夜明け」も近くにあると。

 

  126.

    イエスさまが、たった一人で十字架を負うから

    私達は何もしないでいいのですか?

    いいえ、十字架はみんなのためにもあるのです

    もちろん、この私のためにも

 

  130.

  神の子供には、何も偶然には起こらない

  すべては、神の素晴らしい計画の一部

  困難、挫折、悲しみ、懲らしめは

  偉大な彫刻家である神からの一削り

 

  恐ろしい事故に見舞われて

  悩み、思い煩う時

  なぜその理由を切に知ろうとするのか?

  それは単なる偶然ではなく

  計画されていたのだから。

 

  何かの地位から降ろされたことがあるだろうか?

  そのことを思い煩って、

  愚痴をこぼしたことは?

  逆らうことをせず、

  その時にこそ、主の御顔を見つめなさい。

  これは単なる偶然ではなく

  計画されていたのだから

 

  迫害や患難が嵐のように襲い

  友人たちは失望し、反対し

  ついには、たった一人で途方に暮れ

  絶望にさいなまれる

  でもその時、主の顔を見ると

  主はほほ笑みを浮かべ、

  「これは計画の一部」と言って下さる

 

  

  何ゆえ神は災いをもたらされるのか、

  何ゆえ苦しみ、悲嘆にくれねばならないのか、

  そう悩む人々に、パウロは語る

  「誰も災いによって動かされてはならない。

  それは計画の一部だと知っているから」

 

  愛する者が病に倒れ、

  ついにはこの世を去ってしまったことは?

  苦悶と災いとによって心が砕かれたことは?

  あなたは主に問いかけ

  「わが神よ、なぜですか?」と叫ぶ

  尋ねてはならない

  それは神のご計画だから

   

  神の子供には、何も偶然には起こらない

    青写真は、神の御手によって作られた

   あらゆる詳細は、神の御子にならってデザインされた

    だから、すべてはご計画に従って起こる

 

   「神ご自身の者」と呼ばれる人々に

    いったい何が起きようとも

  悲しいことも、嬉しいことも

  人生のすべての試練も、御座から送られて来る

  何も偶然に起こらず、計画されている。 ローマ8:28

 

  134.バタン半島を死守するために戦った兵士たちの話がある。隊列を組んだ兵士たちの一団に、司令官がこの決死の任務への志願者を募った。この任務に応じることをいとわない者は、隊列から二歩進み出よ、と。

  司令官は手にした書類にさっと目を通すと、目を上げて、兵士たちの列を見た。ところが、隊列が全く乱れていないではないか。

  司令官は驚き、いぶかしげにつぶやいた。 「何ということだ、一人として志願しないとは!」と。

  すると、かたわらにいた補佐官が言った。 「司令官、それは誤解です。全員が二歩進み出たからです。」

 

  135.あまりにも多くのクリスチャン兵士が、敵である悪魔と親しげにしている。

 

  136.御霊の剣を振り回しているべきなのに、まだほ乳びんから離れられないクリスチャンたちがいる。

 

  147.健全な心とは、ぼろぼろに砕けた心だけ。

 

  148.うつ状態と落胆は、クリスチャンにとって職業上、最悪の危険だ。

 

  150.神はあなたを見捨てられない。だから、あなたも自分を見捨ててはいけない。

 

  151.希望がないと、生気もなくなる。

 

  152.自分を助けてくれるのは全能の主であることを忘れない人は、絶対に絶望しない。

 

  157.問題が起きても、それによってクリスチャンが祈るようになるなら、害よりも益の方が大きい。

 

  158.神には困難はない。困難とは、ただ私達の不信心な思いの内にのみ存在する。

 

  159.神の御心の中に自分の意志をうずめている人には、落胆はない。

 

  160.過酷極まりない戦いに遭う時、また、地獄が門を開いて私達を飲み込まんばかりに思えるような時にこそ、私達の信仰が本当に試される。

 

  164.パズルのピースがすべてピッタリ収まらないように思えても、神に信頼しなさい。

 

  165.神が見つからないと思えることもある。でも、神に信頼できない時というものはない。

 

  166.信仰は筋肉のように、ストレッチすると強くなる。

 

  167.信仰は神を試み、神は御自身が与えられるその信仰を試みられる。

 

  168.神は喜びを使ってささやく。良心を使って語りかける。そして、苦しみを使って大声を張り上げる。苦しみとは、耳を傾けない人達への神のメガホンだ。

 

  169.転んでもあきらめるな、立ち上がれ!

 

  170.貧しくても、満足している人は富んでいる。金持ちでも、満足できない人は貧しい。

 

  171.これを覚えておいて。

      悲しい思い出は

          忘れてしまいなさい。

      でも、これは絶対忘れないで。

      楽しい思い出は

      覚えていなさい。

 

  172.コーンウォール地方に、ビリー・ブレイという信心深いことで知られた炭坑夫がいました。ある年、彼のジャガイモはひどい不作に終わってしまいました。そのイモを掘り起こしていると、悪魔がやって来て、こう言いました。 「おい、ビリーよ、お前は今年、こんなに苦労して神に仕えてきたというのに、これが報酬ではやり切れないな。こんなに小っぽけなジャガイモだなんて!」 すると、ビリーは言い返した、 「何を言うか、悪魔め、また父の悪口を言っているのか? 主の御名はたたえられるべし! お前に仕えていた時には、ジャガイモなんて全然取れなかったじゃないか! この小さなジャガイモを、私は愛する父に感謝する。」

 小さな事を神に感謝する人には、やがてその祝福が倍増されていくのです。

 

  173.ある婦人がスイスで夏の休暇を過ごしていました。ある日のこと、散策しながら山の斜面を登っていると、羊飼いの囲いに差し掛かったので、門のところに行って中をのぞいてみると、羊たちが羊飼いの回りに寝そべっていました。また、羊飼いの横には干し草の山があって、一匹の羊が横たわっていましたが、どうやら苦しんでいるようでした。もっと良く見てみると、脚が折れているではありませんか。たちまち婦人の心に同情心が沸き上がり、婦人は羊飼いの所に行って、その訳を尋ねました。 「いったい、この脚はどうしたんですか?」 けれども、その羊飼いの答えに婦人は驚いてしまいました。何とも思いがけない答えだったからです。 「奥さん、私がその羊の脚を折ったんですよ。」 婦人はとっさに痛々しい顔つきをしましたが、それを察して、羊飼いはさらにこう続けました。 「奥さん、私の飼っている羊の内で、この羊は一番言うことを聞かないんです。私の言い付けに聞き従ったことは一度だってありません。私が行く方向へは絶対行こうとしないし、危険な崖っ縁や目もくらむような穴の近くに迷い出してしまうんですよ。しかも、ただ自分が反抗的なだけでなく、他の羊たちも迷わせてしまう。こんな羊には以前にも経験がありました。だから、その脚を折ったというわけです。最初の日、食事を持って行ってやると、奴は私の手にかみつこうとしました。そこで、二日ほど一匹だけにして横にさせておいたのです。それから、もう一度戻って行って食事を与えると、今度はそれを受け取りました。それどころか、手をなめたり、じゃれついたりして、服従を体中で表し、さらには愛情さえも示してくれるじゃないですか。そこで、ぜひ聞いてください。この羊がもうじきすっかり良くなった時には、これは私の羊の模範生となるんですよ。この羊こそ、どの羊よりも先に私の声に聞き従い、どの羊よりも身近に付いて来てくれるようになるのです。」

 

  174.時として、キリストは、人の体をいやして楽にするより、魂の益になるよう、病が必要だと判断することがある。

 

  175.神が与えたもう悲しみはこの世の喜びに勝る。

 

  176.暗い夜が星を際だたせるのと同じように、悲しみは私達に真実を見せてくれる。

 

  177.涙を流さずして、魂に虹はかからない。

 

  178.最も美しい花は、しばしば悲しみという土壌に育つ。

 

  179.神の御子は罪を知らなかったが、悲しみは知っていた。

 

  181.アフリカには、 「テイスト・ベリー」と呼ばれるフルーツがあるそうです。そのフルーツは人の味覚を変えてしまうので、食べた後はどんな物を食べても甘くておいしくなる、というのがその名の由来です。その 「テイスト・ベリー」を食べたのが何時間も前のことであっても、たとえ酸っぱいフルーツを食べたとしても、甘くておいしくなるのです。クリスチャンにとっては、感謝の気持ちが 「テイスト・ベリー」です。心が感謝でいっぱいなら、神がどんなものを送っても、いやなものだとは思わないでしょう。悲嘆に暮れた心も、感謝の気持ちがあれば、悲しみは甘美さに変わります。重荷を背負っていても、神への賛美を歌えば、心が軽くなります。落胆していても、他の人に喜びをあげるなら、自分の寂しさも消え去ってしまうのです。

 たとえ病気であっても、神は自分を愛するがゆえに懲らしてくださるのだと感謝するなら、心は強くなっていきます。いつも、心に感謝という 「テイスト・ベリー」を持っていましょう。アフリカ人に「テイスト・ベリー」が効くように、あなたにも同じ効果が現れるでしょう。

 

  182.神は正しい者の道を知られる。

        たとえその道が暗く、もの寂しくても

                心身ともに疲れ果て、

        重荷が負い切れないほどであっても、

                 神はそのいっさいをご存じなのだ。

        影が長く伸びる頃、私達は問い掛ける。

                 「主よ 思い煩いというこの重荷を 

        どうか取り去りたまえ!」

                すると、返ってくる答えがある。

         「わが子よ、それはわたしが

                あなたの上に置いたものなのだ!

        だが、あなたに対する恵みは十分である。

                これによって 

        あなたはわたしのためにもっと強くなる。

                だから疲れ切った子よ、 

        父なるわたしに信頼せよ。

                わたしはあなたを知っており 

        あなたを顧みるのだから!」

 

  183.アーサー・ブリスベーンは昔、こんな話をしたことがあります。青虫たちが、悲しみにくれつつ「まゆ」のなきがらを墓地に運んでいたそうです。かわいそうに、心を痛めた青虫たちは、黒い服を着て、涙を流していました。でも一方、白い美しいチョウは、永遠に肉体の殻から自由になり、混乱の地上を見下ろしながら、うれしそうにひらひら飛んでいました。言うまでもなく、これはごく普通の葬式のことですが、彼は、愛する人達が亡くなった時に、うれしそうなチョウのことを忘れて「まゆ」のことだけを思い、なきがらにばかり注意を向けるのは愚かなことだということを伝えようとしたのです。

 

  184.痛みや苦しみは必ずしも神の怒りを表すわけではない。その正反対であることもある。

 

  185.イエスがかぶっている苦難の冠についたいばらが、私達の額にささり、ズキズキ痛むなら、それはイエスの御顔がすぐ近くにあるという証拠だ。

 

  186.時々、望遠鏡よりも涙を通して見た方が、もっと良く見えることがある。

 

  187.苦難の時は、クリスチャンにとって収穫の時。

 

   188.苦しみの中から最強の人物が現れる。強い人というものは、体中、傷跡だらけだ。

 

  190.ヘンデルは健康を失い、右半身は麻ひしていた。財産もなかった。金貸したちは彼を獄に投げ込むと脅した。その非劇的な経験によって、すっかり落胆してしまったヘンデルは、もう少しのところで信仰を失い、絶望にさいなまれるところだった。しかしながら、彼はその難儀を忍び抜き、最大の作品を完成させた。「ハレルヤ・コーラス」、つまり彼の大作「メシヤ」のクライマックスである。

 ヨハネはこう言った。 「私達の信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」

 

  191.第二次世界大戦後、ドイツのケルンで、ある地下室の壁に次のような言葉が書き残されていた。

          私は信じる‥‥

  太陽を信じる。

      たとえ輝いていなくても。

  愛を信じる。

      それが感じられなくても。

  神を信じる。

      たとえ沈黙されていても。

 

  192.ビスマルクは、死後の世界についてこう語った。 「私は、死後の世界があることを一時も疑わない。この人生はあまりにも悲しく、あまりにも不完全だから、私達の最高の心の願いを満たすことができない。この人生は、私達を高貴なる者とするための闘いなのだ。この闘いが無駄だということがありえようか? 私はそうは思わない。私は、最終的な完璧さがあると信じる。神が私達のために用意しておられる完璧さが。

 

  193.ある少女の弟は、まだ赤ちゃんだったのに死んでしまいました。少女は母親に、「赤ちゃんはどこに行ってしまったの」と尋ねました。 「イエス様のところに行ったのよ」と母親は答えました。数日後、尋ねてきた友人に、母親が 「赤ん坊を亡くしてしまって、もう悲しくて悲しくて」とこぼすのを聞いていた少女は、母親の言葉を思い出し、その顔を見あげると、またこう尋ねたのでした。 「ママ、どこにあるのかわかっているのに、なくなったなんてことあるの?」

  「いいえ、そんなことはありませんよ。」  「それだったら何故、赤ちゃんがなくなってしまったの? イエス様のところに行ったって、わかっているのに!」 母親は決してこの言葉を忘れませんでした。まさに真実だったからです。

 

 

  195.苦しみの時は、学ぶ時である。

 

  196.苦しみとは、十字架の小さな切れ端に過ぎない。

 

  197.神は、健康と繁栄の内でささやくが、私達の耳が遠くて、しばしば神の御声を聞けないことがある。そこで神は苦しみという手段を使ってスピーカーのボリュームを上げる。すると、神の声がとどろき渡るのだ。

 

  198.夫の留守中に二人の子供をコレラで亡くしてしまった婦人がいた。優しく、いたわりながら二人のからだを横たえると、シーツでおおい、戸口で夫の帰りを待っていた。

 夫が帰宅すると、婦人はこう告げた。 「ある方から宝石を貸していただいたのですが、返してほしいと言ってこられたのです。どうしましょうか?」 夫は答えた。 「当然、返すべきだ。」 そこで婦人は夫の手を取って寝室へ行き、何も言わずに、二人の子供にかけたシーツを取りのけたのだった。

 

  201.何故、信心深く、謙遜で、信仰に満ちている人々が苦しみに遭うかは、大問題ではない。本当の問題とは、苦しみに遭わない人がいるということだ。

 

  202.体がどんな病で患おうとも、魂は必ずそこから益を受ける。

 

  203.善人はしばしば大いなる苦しみに遭う。

 

  204.聖徒は罪を恐れるべきではあるが、決して苦しみを恐れるべきではない。

 

  205.神の清さにあずかるには、何らかの形の苦しみが必要不可欠だ。

 

  206.神が傷つけるのはいやしのため。罪が口づけするのは殺すため。

 

  209.聖書には苦しみのことが非常に多く書かれているが、そのほとんどは励みになる。

 

  210.カルバリは、神の御心に沿った苦しみは必ず栄光へとつながることの、神の最大の証明である。

 

   211.人が打ちたたかれるのは、それによって、もっと良くなるためである。

 

  212.人は、慰めの杖よりも、打ちたたく杖によってもっと多くを学ぶ。

 

  213.栄えている時には、友が集まる。逆境にいる時には、友を知る。

 

  216.神は時々、私達の一番明るいろうそくの火をもみ消す。それによって、神の永遠の星に目を向けさせるのだ。

 

  217.災いは、心の薬。

 

  218.時に、クリスチャンは愚かにも不純物に頑固にしがみついているが、ただ、災いという熱い炉の中においてのみ、それを捨てることができる。

 

  219.災いに陥るまでは、決して神の御言葉の意味がわからなかった。    

                            マルチン・ルター

 

  220.主の道は大嵐の中にある。

                               ナホム書1章3節

 

  223.「主よ、この荷は重すぎます。」

        おののきながら、震える声で私は言った。

         「もうこれ以上は運べません!」

        そして、涙が流れ出た。

        その時、助けを呼ばわる声が聞こえた。

        痛みで苦しむ人がいた。

        私はその人を探し出して、心から、

        全力を注いで助けを与えた。

        そして、ふと、自分の重荷のことを考えた。

 

        ところが何と、それはなくなっていた!

        陰うつな影と疑いとは消えてなくなり、

        愛の光が輝いていた!

 

  224.災いとは、人格を築く上で欠かせない鉄骨である。

 

  226.恵みは冬に一番良く成長する。

 

  227.試練を避けようとすることで、私達は祝福を避けていることになる。

 

  231.もし試練がなかったなら、決して発見できなかった美徳もある。

 

  232.イエスは山上で変貌した。でも、イエスが私達を変貌させるのは、谷間だ。

 

  236.私達は、この世が味方になってくれる平穏さの中よりも、神が送られる嵐の中での方が、もっと安全でいられる。

 

  237.鯨はヨナを飲み込んだが、それは彼を安全に地にたどり着かせるための手段だった。

 

  240.   利己心

        死が愛する人を取り去った…。

        私達は悲嘆に暮れる。でも誰のために?

        それは利己的ではないのか?

        自分のために弔いの涙を流すのであって

        死者には何も悲しみはないのだから。

                 マーガレット・E・ブルーナー

 

  242.私の祝福のリストのトップにあるもの、それは、私の心が血を流したこと。

 

  243.聖徒はしばしば十字架を負っているが、決して呪いを負うことはない。

 

  244.聖徒は数多いが、傷跡のない聖徒はまだ一人としていない。

 

  245.クリスチャンの人生は、バラいっぱいの人生だ。もちろん、たくさんのトゲも付き物だが。

 

  247.不朽の名声に輝く人の実に多くが、重いハンディを克服して名誉殿堂に入ったというのは、素晴らしいことだ。ホーマーは盲目の吟遊詩人だった。ミルトンもまた盲目だった。ベートーベンは耳が不自由だった。 「雷鳴さえ聞こえないほどであったにもかかわらず、ベートーベンはその魂をもって、かつてない壮大なる音楽を作った。」 アレキサンダー大王はせむしだった。アレキサンダー・ポープもまたそうだったし、おまけに虚弱体質でもあった。聖パウロは小男であって、劣悪な敵どもの物笑いの種だった (第二コリント10:1,10)。「背丈は、150センチ足らず」聖クリュソストモスは記す、  「それでも彼は星に触れた」と。そして、彼と似たような背丈の低い人たちに、ホラティオ・ネルソン、ナポレオン、シェークスピアがいた。また、シェークスピアは体が不自由であったことを自ら証言している。そして、身体障害者と言えば、スコット、バイロン、カルビンもいるし、エピクテトスもその例に漏れない。

 

  248.ある女の子が近所の家から帰ってきました。最近亡くなった友達の家です。

  「どうして、お邪魔したんだい?」と尋ねる父親に、女の子は、

  「おばさんを慰めてあげたかったの」と答えました。

  「でも、いったいどうやって?」 父の問いに、女の子はこう答えました。

  「おばさんのひざの上に乗って、一緒に泣いてあげたの。」

 

  254.嵐の中を歩むとも、

        上を見上げて行こう。

        闇を恐れてはいけない。

        嵐の向こうには

        黄金の空がある。

        ひばりがさえずる空がある。

        風を吹かれても

        雨に打たれても

        夢がはかなく吹き飛ばされても

        ただひたすら、

        希望を胸に抱いて

        黙々と歩きなさい。

        そうすれば、決して、決して

        一人ぼっちではないから。

 

  259.聖書の結論。患難とは、本物のキリスト教からおのずと生じる副産物である。

 

  260.テストされることは、重要であり、避けられない。自分の真価を見せなければならないからだ。

 

  261. J・R・ミレーはこう言いました。私達は自分の杯を受けるべきであって、そこにはこの世の人生で私達が経験するすべてが満ちていると。その杯を下さるのは天の父です。だから杯とは、いと高き知恵を持った愛なる神が与えて下さる、最善のものであるに違いありません。死がクリスチャンの家庭に入り込む時、神は今取り去られた友のために一番最善のことをして下さったと考えるなら、甘美な慰めを得られるのです。私達は、愛する友のために、最も豊かな祝福を授けて下さるようにと祈りました。主がしてくださったのは、まさにそれではないのでしょうか。

 

  266.逆境とは、研磨用のダイヤモンドだ。天国はその逆境を使って宝石を磨く。

 

  269.繁栄の日々には、隠れ場が数多くあるが、逆境の日には、ただ主の元に行くしかない。

 

  270.私は荷を軽くして下さるようにとは祈りません。むしろ、足腰を強くして下さるようにと祈ります。

 

  273.ある王様についての話です。この王様は、道に大きな岩を置いて、身を隠し、誰がその岩をどけるだろうかと見ていました。様々な階級の男達がやって来ましたが、皆、その岩をよけて通り、道に障害物があるまま放っておいていると言って、大声で王様を非難する人もいましたが、岩をどかそうとする人は誰一人いませんでした。ついに、町に行く途中の貧しい農夫が、羊の群れを引き連れてやって来ました。そしてその岩をじっと見てから、荷物を降ろし、岩を溝まで転がしたのです。農夫が後ろを振り返ると、岩のあったところに財布があることに気がつきました。財布の中は金貨でいっぱいで、王様からの手紙も入っていました。なんと、その金貨は岩をどかした人に与えようと書いてあります。私達の王である神も、すべての障害の下に祝福を隠しておられます。私達は、苦難という十字架に背を向けたり、それをよけて通ることもできますが、そうするなら、私達は永遠に敗者となってしまいます。十字架を避けて行くということは、神の祝福を避けて行くということです。十字架を拒むということは、冠を受ける機会を逃してしまうということです。神はしっかり見ておられます。(ルカによる福音書14章27節、ヨハネ11章39節)

 

  274.著名な宣教師フィデリア・フィスクは、ある時、異教徒の女性たちを教えていた。ところが、その国の習慣で、床の上でずっと、何の背もたれもないまま座った姿勢を続けなくてはならなかった。しかも、病気あがりだったので、彼女は非常に疲れてしまった。すると、信者の女性の一人がそれに気づき、さっと駆け寄ってミス・フィスクの真後ろに座り、彼女の背中に自分の背を当てがったのである。その親切とタイミングの良さとを感じ取ったミス・フィスクが、そっとその背にもたれようとすると、そのクリスチャンの女性はこう言ったのだった。 「だめ、だめ! 私を愛しているなら、もっとしっかりもたれかかって!」

 

  275.福音書の記録には、魚は、主がなされた奇跡の内でも際立った重要性を持っている、とされている。パンと魚とが大勢の人たちを養うために用いられた奇跡が二回あった。また、奇跡的なおびただしい数の魚が捕れたことも二回あった。そして主は復活の後、テベリヤの海べで、せっせと働く、腹をすかした弟子たちに魚の食事を与え、またペテロには、魚の口の中に税金とするお金が見つかると指示された。その魚がどこにいて、そのお金がどこにあるのかを、主はご存知だったからである。

  そして、ギリシヤ語の 「魚」という単語は、主の称号のイニシャルで形成されているので、それは迫害と災いの下にあった頃のクリスチャンのシンボルになった。そのシンボルはよくキャタコンベに見受けられる。ギリシヤ語の 「魚」という言葉は5つの文字でできている。そして、それは以下のような順序で、次のギリシヤ語の頭文字となっているのである。イエス・キリスト、神の、御子、−−救い主。 (マタイによる福音書14章17節-19節。マルコによる福音書8章7節。ルカによる福音書5章6節。ヨハネによる福音書21章11節。)

 

  278.水クモは水の中で暮らし、水生生物として造られているが、空気がなくては生きていくことができない。水中では溺れるので、水クモは常に危険な環境に囲まれて生活しているわけだが、にもかかわらず、困難に立ち向かって、幸せな生活を営んでいる。水クモは体中、厚い毛で覆われている。水クモが水中に飛び込む際には、毛に気嚢(きのう)がくっついて、それがたちまち気泡となって体を取り巻く。それから行き場所を決めて、水藻に絹のようなドームを付着させ、このドーム内に気泡を注入する。そして、ついにはそのすみかに必要な空気がいっぱいに満ちるまで、次から次へとその仕事を繰り返すのである。

 (ローマ人への手紙8章37節。コリント人への第二の手紙4章8節,9節。)

 

  279.サムエル・ラザフォードは、信仰のために迫害され、300年前にアバディーンの獄中から手紙を書き綴った。これは、彼が 「教区民」に充てた有名な 「書簡」の一つの締めくくりの言葉だ。 「イエス・キリストが昨夜、私の独房を尋ねて下さったのだが、獄中のすべての石がまるでルビーのように輝いた。」

 (ルカによる福音書24章15節,32節。テモテへの第二の手紙4章17節。)

 

  280.金を精練する人は、金が火にくべられている時には決して炉の口から離れない。それと同じように、神の御子もまた、聖なる子供たちが炎に投げ込まれる時には、常にその中を歩かれる。

  (イザヤ書43章2節。ダニエル書3章22節-25節。ペテロへの第一の手紙1章7節,8節。)

 

  281.宝石商は、ダイヤモンドを査定する確実なテストの一つとして、 「水による検査」というのを行う。イミテーションのダイヤモンドには本物が持っているような輝きは決してない。その違いを見破るだけの経験がない場合には、簡単なテストはその両者を水に入れてしまうことだ。すると、イミテーションの方は事実上、輝きを失ってしまう。本物の方は水の中でもキラキラ光り、その違いは一目瞭然だ。本物のダイヤモンドとイミテーションのダイヤモンドとを水の中に入れて見比べると、その違いは経験のない人の目にでも明白なものとなる。

  試練がない時に、自分の信仰に確信を持つことができる人は多いが、悲しみや災いの水が上にあふれる時、その信仰は輝きを失ってしまう。だが、真の神の子供たちは、こういった状況下で、正真正銘の宝石のように輝くのだ。 (ヨブ書23章10節。イザヤ書43章1節,2節。ペテロへの第一の手紙1章7節。)

 

  283.神に重荷を載せていただきなさい。そうすれば必ず足腰を強くして下さるから。

 

  284.災い自体が人を清くするのではない。災いは人を疲労させ、苦しめ、意気消沈させ、誘惑する。主が私達の人生全体と災いとを関連づける時、神の存在と、神が災いを用いられることによって、逆境が転じて益となるのである。

 

  288.ダビデは深く心を悩ませ、涙を流した。それも不思議ではない。祖国から追放され、流罪の辛苦をなめ、民をゴリアテやペリシテ人から救ってあげたのに感謝もされず、神から任命された王であるのに、それをなかなか自分の民に認めてもらえず、たった一撃で、持ち物や、ダビデが大切にしていた物すべてが奪い去られ、追従者は反逆し、人々から 「ダビデを石で撃とう」と言われたのだから。 「しかし、ダビデは主によって自分を力づけた」のだ。 (サムエル記上30章6節。テモテへの第二の手紙4章17節。)

 

  290.神の与える傷は悪魔の与える塗り薬に勝る。

 

  291.災いは、神があなたをご自身の子とされたことのしるしである。

 

  292.痛みを覚える度に神をほめたたえ、重荷を負う度に神を祝し、悲しみに遭う度に歌い、懲らしめられる度に喜ぶことができるなら、それは神が私達の心の中で力あるわざをなさった証拠だ。

 

  293.逆境によって私達は弱くなるのではない。ただどれほど弱いかを知るだけだ。

 

  294.かわいそうなダビデ王、私達も時々そうだが、彼は多くの悩みと悲嘆を抱えていた。私はいつも詩篇を読んで慰められるが、それは、自分がつらい目にあったり、悩みを抱えたり、悲嘆に暮れたりしている時には、いつでも、 「あのダビデ王だって、同じ問題を抱えていたことがあったんだ!」と思い出すことができるからだ。ダビデは、もう絶対絶命だ、と思ったことさえあった!  「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるだろう!」と言ったことがあるではないか。 (サムエル記上27章1節。) 確かに、たいした信仰ではないね。絶対、敵に殺されると思ったのだから。しかし、殺されはしなかった。80代という老齢で安らかに死んだのだ。敵どもに殺されはしなかったし、敵に殺されるといった心配事は何も実現しなかった。だから、この私が心配すべきでないのと同じように、ダビデ王も、そんな心配事などしなければ良かったのだ。

 でも、ダビデ王の詩篇全部と、ダビデが幾度も落ち込み、涙を流し、悲嘆に暮れ、嘆き、呼ばわった時について良い点とは、彼は決してそのままでいはしなかったということだ! ダビデ王は必ず立ち直り、結局は建設的な言葉を残した。ダビデ王がありとあらゆる問題、悩みを持つことを主が許されたのは、彼がそれを書き記し、それによって私達も、もし主を見上げているならば、それらの問題を乗り越えることができるということを示すためだったのだろう。−−デービッド・B・バーグ

 

  295.ロンドンを焼き尽くすほどの大火事があったのは、恐怖のペスト大流行によって大勢の人々が死んでいった後だったが、その火事が起こったのは、おそらく最善のことであっただろうと言われている。ねずみや、病原菌を運ぶ害虫などのはびこる建物を文字通り一掃し、ロンドンの町からペストの残骸物である不廃物をなくし、町を清めるには、そういう火事が必要だったのだ。その火事がなかったら、ロンドンは商業の中心だったので、ペストは全世界に広がっていたかもしれない! ロンドンを滅ぼした火事は、当時は大惨事のように思われたが、今では祝福と見なされている。その火事によって、過去の疫病が完全に消滅したからだ! ペストも大火事も、ロンドンの邪悪な世代に対する神の裁きだと思われるが、神はたいてい憐れみ深い裁きを下される。この場合も例外ではなく、これらの裁きは結果的に、主の子供達を清め改善するための懲らしめという祝福になった!−−デービッド・B・バーグ

 

  296.災いは、もしそれゆえに主をたたえることができるなら、私達には祝福である。

 

  297.懲らしめの杖を振るう方に近づくなら、打たれても痛みは軽い。

 

  298.私達は、災いが素早く取り除かれることよりも、災いから益を受けることを、もっと切望すべきである。

 

  299.災いの日々とは、祈りの日々であるべきだ。

 

  300.火が熱い内に、精練者と親しく交わりなさい。

 

  303.たとえ私の船がすべて、

        マストも折れ、帆も破れて、

        漂いつつ港に戻っても、

       私は決して疑わない。

        私は、決して失敗することのない御手を信じる。

        一見して災いと思えるものでも、私には益となるのだ。

        帆がぼろぼろに破れ、涙が流れても、

        たとえ一番の希望が砕け散っても、

        私は叫ぶ。

          「主よ、あなたを信頼します」と。

 

       たとえ私の祈りが

        天におられる方の元から

        沈黙のまま

        戻って来ても、

        それが知恵ある方の

        愛であることを信じる。

       たとえその方が、私の望みをことごとく

        拒まれたとしても、

        そして、悲嘆に暮れずにはおれない時が

        あったとしても、

        私の信仰は熱烈に、

かすむことなく燃え続ける。

 

        悲しみが雨のように降り、

        悩みが蜜バチのように飛び交っても、

        私は決して疑わない。

        私が目指す、あの高地に到達するには

        苦悶と痛みとによるしかないのだ。

       そしてまた、自分の十字架におののき、うめいても、

        それでも私には

        最も大きな損失を通して得られる

        より大きな利得が見える。

 

       頑丈な船のように、

        信仰にしっかりと錨を下ろし、

        私は決して疑わない。

        私の魂はどんな大風にもひるまない。

        その勇気はじつに強く、

        決してくじけずに

        死という強力な未知の海原をも乗り切って進む。

       この体から霊が離れても、

        耳を傾けている世界にこの声が聞こえるように、

        私は最後の息で叫ぶ。

           「私は決して疑わない」と。

           エーラ・ウィーラー・ウィルコックス

 

 309.雨の中にも陽光を見ることができますように。

        私に損失と思えることでも

        どうか益となりますように。

        たとえ泣きたい気分でも、歌を歌うことができますように。

        あなたがそばにおられるのだから!

 

 310.主は、渇いた地に影をつくる岩の裂け目に

        わが身を潜ませられる

        主はその愛の深みに私の人生を潜ませ

        その御手でこの身を覆われる

                         ファニー・クロスビー

 

 316.私が学んでいる法則がある。

        私は日々そこから励ましを得る。

        主は何かを取り去られるたびに必ず

        より良いものを送って下さるのだ。

 

  317.私が改宗してから一週間もたたない時、セントルイスの街角を歩いていると、ある画廊のウインドーに、ライオンの穴にいるダニエルの版画がかかっていました。預言者ダニエルは手を後ろで縛られていて、ライオンが彼を遠巻きにしています。そして、ダニエルは上を見上げて、王の質問に答えています。その当時、私が死ぬほど恐れていたのは、過去の罪の生活に戻ってしまうことでした。イエスを受け入れた当時の私は、セントルイスの酔っ払い弁護士でした。強い酒を断つ力もなく、バーやホテルやクラブを見かけるなり、通りを渡って行ってしまうのではないかと恐れていました。日夜、苦悶にあえいでいたのです。イエス・キリストの力を自分のものとできるなどとは、誰も教えてはくれませんでした。私はその絵の前に立っていました。すると、大いなる希望と信仰とが心に訪れたのです。私はこう思いました。 「このライオンどもは私を取り巻いている。私の昔の習慣や罪の数々が。でも、ダニエルのためにライオンの口を封じて下さった神は、私のためにもその口を封じて下さることができる。」 神にはそれができるということを、私は知りました。彼は私を救って下さったのだから、ライオンから私を救い出すこともできるのだと。ああ、その時の安らぎといったら!

 

  318.自分の十字架を、つまずきの石としてではなく、進んで行くのを助けてくれる松葉杖として用いなさい。

 

  319.試練があるのは、単に価値を試すだけではなく、価値を増し加えるためでもある。ちょうど、かしの木が嵐によって試されるだけでなく、強められもするように。

 

  321.健康は良いものだ。だが、病気も、それによって神のもとに導かれるなら、健康よりもずっと良いものになる。

 

  322.病気や悲しみほど、聖書を開かせてくれる注釈は他にない。

 

  324.喜びは私達の翼。悲しみは私達の刺激。

 

  325.悲しみの日には、いかに素早く物事を学ぶことか!

 

  326.私のある友人は、美しい奥さんと、心の優しい3歳になる娘さんと一緒に、とても幸せに暮らしていました。ところが、突如、悲しみがその家庭を襲ったのです。その年、若い奥さんが交通事故で亡くなってしまったのでした。彼の人生からは、あたかもすべての明かりが永遠に消え去ってしまったかのようでした。無事にお葬式を済ませた翌日の夜のこと、若いお父さんが慣れない手つきで娘のパジャマのボタンをかけようとしていると、突然、家中の電気が消えてしまったのです。きっと地下室のヒューズが飛んだのだろうと思って、お父さんは娘に言いました、 「パパはすぐに戻って来るよ。ここで静かに待っていなさい。」 でも、一人っきりになると思うと怖くなって、娘は一緒に連れて行ってと、お父さんにせがみました。そこで、お父さんは娘を腕に抱え上げると、真っ暗な廊下を通って、階段を下へと降りて行きました。娘はしばらくの間、お父さんの腕の中にしがみついて、じっとしていましたが、いよいよ地下室に入ると、しっかりとお父さんの首に抱きついて、こう言ったのです、 「とっても暗いわ。でも、怖くなんかない。パパが一緒だもの!」 お父さんの体はむせび泣きで震えました。そして、その顔を娘の髪に埋めると、このように答えたのでした、 「そうだね、本当に真っ暗だ。でも、パパだって怖くなんかないよ。愛する神様がここにいて下さるから!」 「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」 (ヘブル人への手紙13章5節)

 

  327.これは、インドのある美しいクリスチャンの娘さんについての話です。彼女は結婚が間近に控えていました。孤児院で働いており、その施設でも信頼されていました。ところがある日、手に腫れ物ができたので診察してもらうと、らい病だということがわかったのです。彼女は孤児院での務めをやめさせられ、らい病の施設に移されました。弟と一緒に、その身の毛もよだつような場所へ行った時、彼女は流れるような白く美しいドレスを着ていました。そこにいた女性たちは不潔で、薄汚れていました。また、顔も悲しみと絶望とで憂えていました。その光景を見た時、彼女は弟の肩に顔を埋めてただただ泣きじゃくるのでした。 「ああ神様、私もあの人たちのようになってしまうのですか?」 その落胆は想像を絶するほどのもので、回りにいた人たちは、彼女が井戸にでも飛び込んでしまうのではないかと心配したほどでした。そこにいた宣教師たちは彼女の悲しみを見て取ると、チャレンジを与えました。そこにいるかわいそうな女性たちの助けになってやりたくはないかと言ったのです。一筋の希望の光が差し込みました。そうです、彼女はビジョンをつかんだのです。彼女は学校を始め、そこの女性たちに歌うことや読み書きを教えました。楽器が弾けたので、宣教師からアコーディオンを調達してもらいました。そして、徐々に、変化が起こって行きました。家々は清潔にされ、きちんと整頓されました。女性たちは服を洗濯し、髪をとかすようになり、その身の毛もよだつような場所がとうとう祝福の場所に変わったのです。

 これは、そこにしばらくいた後で彼女が語った言葉です。 「この施設に最初にやって来た時、私は神様がいるということさえ疑っていました。でも、今は、神様が私のために仕事を用意して下さったのを知っています。私がらい病にならなかったなら、決して自分の仕事を見つけることはなかったでしょう。私は毎日、朝目を覚ますと、ここに私をつかわして下さった神様に感謝するのです。そして、こんなにも素晴らしい仕事を与えて下さったことを。」

 

  328.神が災いを送る理由がわかっているなら、神の子はどんな災いにも悩ませられることはない。

 

  329.クリスチャンは逆境に遭っても、倒れる理由などない。ひざまずく時以外は。

 

  331.全然パンクもせずに、成功への道をつっ走ることのできる人は、ほとんどいない。

 

  332.罪を投げ捨てた場所に、悩みもまた投げ捨てなさい。

 

  333.英国北東部にあるダーラムのハンドレー・モール司教は、ウエスト・スタンレーでの炭坑爆発の事故の直後に、現地を訪れました。炭鉱の入り口にたたずむ人々に向かって、彼は語りかけました。人々の中には炭鉱の中に生き埋めになっている被害者の親族もいたのです。 「このような悲惨な災害が起こるのを何故に神が許されるのか、それを理解するのは困難なことです。でも、私達は神を知っており、また信頼します。そして、万事が結局はうまく行くようになることを知っています。私は家に、母からもらった古いしおりを持っていますが、それは絹に刺しゅうされたもので、裏側を見ると、ただ糸のもつれしか見えません。まるで大間違いのようにしか見えないのです。きっと刺しゅうのしの字も知らない人が作ったのだろうと思うかもしれません。でも、ひっくり返して表を見ると、そこには『神は愛である』という、見事な刺しゅう文字があるのです。私達は今日、このすべての出来事を裏側から見ています。でも、いつの日か、違った観点から見て、一部始終を理解できる時が来るでしょう。」

 

  335.車に戻ってみたら、駐車違反の紙が貼られていたという経験はありませんか? 実にいやな気分ですよね。私は何年間も、シカゴの自宅近くにある裏通りに車を停めていました。そこは駐車禁止の規制がなかったので、私も、また同じことをしている他の人たちも、駐車違反になるようなことはなかったのです。ところがある朝、出勤時に車の所へ行くと、駐車違反の紙が貼られており、3ドルの罰金も取られたのでした。それからのしばらくの間、私は、神の子供たちには万事が共に働いて益となるその 「すべてのこと」の中に、その苦い経験を入れるのをためらっていました。でも、数日後、その苦い経験が神の御手から出ていたことを知ったのでした。巨大なかしの木が暴風雨のせいで、いつもなら私が車を停めていたちょうどその場所に倒れたのです。ああ、もし私の車がそこにあったなら、ちょうどその真上に倒れていたことだったでしょう!  「ご計画に従って召された」者たちである、神の子供たちにふりかかる事には、偶然で起きることなど何一つないという事実に、私は身を低くして感謝したのでした。

 

  336.災いは長く続くかもしれないが、永遠には続かない。

 

  338.神が望んでおられるのは、私達が勝利者になることであって、犠牲者になることではない。また、私達が成長することであって、屈することではない。高く舞い上がることであって、沈んでしまうことではない。克服することであって、うち負かされることではない。

 

  339.サタンが私達の分別を利用して何か語ったら、信仰にあふれる聖句を使い、正反対のことを語りなさい。

 

  340.災いの闇夜に、戸の引き金を引くこともできずにただ約束の戸の外に立ち尽くすなんて、クリスチャンにとって何と悲しいことだろう!

 

  341.死期の近い老人が、牧師にこう語っていました。 「私は長年、神の御言葉から尊い約束を暗記し、慰めに満ちた思いを心に育んでは、死の陰の谷に入るたびに、それらの約束を何度も思い出してきました。でも、今、記憶がすっかり消えてしまったのです。」 牧師は老人にこう尋ねました。「あなたは神が約束を忘れてしまったと思うのですか?」  「いいえ、牧師さん、そんなことはありません。」  牧師はこう答えました。「それならば、その約束を与えて下さった方を信頼して安らぐことですよ。」

 

  343.ある日、ウェズレーが車輪の跡でいっぱいの細い泥道を馬車に乗って旅をしていると、泥にはまり込んで馬車が動かなくなってしまった。次の町でどうしても福音を宣べ伝えたかったので、彼はこの遅れに非常に困り果てた。何人かの人が手を貸して馬車を動かそうと躍起になっているところへ、もう一人、クリスチャンがやって来た。

  彼と少し言葉を交わしたウェズレーは、その人が深く悩んでいることを察知した。どうしてそんなに気を落としているのかと問い掛けると、作物の栽培に失敗して、日々の生活にも困っているとのことだった。 「家賃を払うお金を集めることさえできないのです。家主は私達を追い出す気でいます。妻や子供をかかえて、いったいどこに行ったらいいのかわかりません。」 「借金は幾らほどあるのですか?」ウェズレーは尋ねた。 「では、私達に任せなさい。主は私があなたと会うことを望まれたのです。」

  ふところの財布からお金を取り出すと、それを男に手渡して、ウェズレーはこう言った。 「さあ、これで幸せになりなさい!」 それから、今度は連れの方を向き、興奮した口調でこう言うのだった。 「馬車がどうして泥の中にはまり込んだのか、やっとわかった。先に進めなかったのは、あの困った家族を助けるためだったのだ。」

 

  351.クリスチャンにとって、試練や誘惑は、信仰を試す手段であるばかりでなく、人生をより良いものに変えるためのものでもある。

 

  352.クリスチャンの真夜中は、罪人の真昼よりも明るい。

 

  353.災いとは、信仰を教える学校だ。

 

  354.災いとはよく、姿を変えた神の最高の祝福であることがある。

 

  355.夜が暗ければ暗いほど、星もその明るさを増し加え、火が熱ければ熱いほど、金もその純度を増し加える。

 

  356.義の木は、風に揺れれば揺れるほど、ますますキリストに深く根差すようになる。

 

  357.これは、難破船唯一の生存者の話です。彼はある無人島に打ち上げられてまもなく、何とか小屋を建て、そこ住み、難破した時に持っていた少しの持ち物をその中にしまっておきました。どうか救って下さいと神に祈り、来る日も来る日も、期待を込めつつ水平線の彼方を眺めては、船が通り過ぎないかと見守っていました。ある日、食糧の調達に出掛けて戻って来ると、こともあろうに、あれだけ必死の思いで建てた小屋が燃えているではありませんか! 持ち物すべてが煙となってしまったのです。まるで最悪の事態が訪れたかのようでした。けれども、その最悪とも思えたことが、実際には最善のことだったのです。その翌日に船がやって来たからです。船長はこう言いました。 「私達はあなたの出した煙の信号を見つけたのです」と。もし私達の人生が神の御手の内にあるなら、 「万事が共に働いて益となる」のです。 (ローマ人への手紙8章28節。)

 

  360.ベンジャミン・フランクリンは、自伝の中で、あるかじ屋から斧を買った男の話をしている。その男は、斧全体を刃と同じようにピカピカにしてくれと頼んだ。するとかじ屋は、自分が斧を磨いている間、その人が輪を回してくれるなら、という条件でそれに同                                   意した。その輪を回すというのは、大変な骨の折れる仕事だった。男はしばしば手を休めては、斧はどうなっているかと尋ねた。けれども、かじ屋の方は、 「さあ、回して、回し続けて。だんだん光ってきますから。でも、まだ、まだらですよ。」 すると、男はこう言った、 「そうか、でも、まだらの斧の方が一番だと思うよ。」

  神の子供にも、このような人が大勢いないだろうか? すっかり聖別され、満ち足りたクリスチャンの生活を送るために、全工程を最後まで徹底して行く代わりに、 「まだらの斧」のようなクリスチャンの生活、つまり、神の最善に一歩及ばないもので満足してしまうのである。

 

  361.来世において涙を拭い去ってもらいたければ、この世で涙を流さなければならない。

 

  362.最高の聖徒達は、最悪の苦しみに耐えてきた。

 

  363.試練とは、信頼を学ぶ学校。

 

  364.星は暗黒の夜に一番輝く。ぶどうは圧搾されて初めて、価値がわかる。スパイスはつぶされると最高に良い香りを放つ。若木も風に揺すられるなら、根付きが早い。金は磨かれる時その輝きを増し、ビャクシンも火にくべられた時の方がこうばしい香りを放つ。

 

  366.セオドア・ルーズベルト大統領は、晩年、極度の近眼になった。いつも度の違う眼鏡を二つ携帯していたといわれる。一つは近くの物を、もう一つは遠くの物を見るために。彼は、最後の選挙運動中、ミルウォーキーの町でシュレンクと呼ばれる男に撃たれが、傷の治療にあたった外科医は、彼が一命を取り留めたのは、いつもベストのポケットに携帯している眼鏡のケースのお陰だと言って、壊れた鉄製のメガネ・ケースを手渡したのだった。つまり、そのケースがあったために、弾丸の力がそがれ、進路が変わって心臓を外れたのである。 「さてと、これは奇妙なことだ。」 ルーズベルトは、粉々になった眼鏡の入ったケースを受け取りながらつぶやいた。 「眼鏡を二組も、特にこのケースに入った重い方をいつも持ち歩かなければならないのを、私はいつも重荷やハンディだと思っていた。ところが、それのおかげで命拾いするとは…。」 私達はこの世では、自分たちが負う障害の理由を理解するとは限らない。しかしながら、それがしばしば姿を変えた祝福であることを、私達はよく承知している。盲目の詩人ミルトンは、目が見えていた時よりも盲目になってから、奇才を発揮した。バニヤンは獄中で、将来の世代のために書き綴っていた。時々、人の体が不自由になるのは、それによって、あせらずに、もっと長生きし、自分の仕事を継続するためである。神が私達の人生になされる出来事が、私達の想像をはるかに越えているということを表している例は、数限りない。

 

  367.ウィリアム・ディーン・ハウエルとマーク・トウェインが、ある朝、教会から出て来ると、雨が激しく降り始めた。

   「君は、この雨が止むと思うかね?」、

と尋ねるハウエルに、トウェインは

   「止まなかったためしはないさ」と答えたという。

 

  368.火のような試練は、金のようなクリスチャンを育てる。

 

  369.私達の上にのしかかる圧力や災いを取りのけて下さるように、神に呼ばわる時、たとえそれが取り除かれなくても、それは主の手が短いためでも、主の耳が鈍いためでもない。そうではなくて、災いがまだそのわざを全うしていないからである。

 

  370.試練や誘惑なしに聖書を真に理解できる者は一人もいない。マルチン・ルター

 

  371.神が時々昼間を取り去られなかったなら、私達は決して星を見ることはなかっただろう。

 

  372.意志があれば、おのずと道が開ける。フランシス・マウセロンは1895年度のフランス絵画協会の最優秀絵画賞に輝いて、1,000フランの賞金を獲得したが、彼には両手がなかった。擬手を使って見事に絵を描いたのであった。

  アントワープのある画家にも、両腕がなかった。そこで彼はブラシを右足の指に挟んで絵を描いた。彼はその仕事を絶妙に、かつ精巧に成し遂げた。兄弟よ、やる気があるなら、必ず道は開けるものである。

 

  373.ある宣教師が、主によって辺境の地に置かれたまま、重病にかかってしまいました。悲しみに追い討ちをかけるかのように、小切手が届かず、来る日も来る日も必要としていた良い食事が取れないまま、オートミールとミルクの缶詰だけで暮らすことを余儀なくされたのです。けれども、様々な困難にもかかわらず、彼女の様態は快方に向かいました。そして、オートミールだけが丸30日も続いた食餌法の後で、とうとう小切手が届き、食卓には違った食べ物が並ぶようになったのでした。

  病気中に、彼女は、主は自分に良くして下さっていないという小さな疑いが忍び寄るのを感じました。休暇の時期がやって来たので、彼女は熱心に耳を傾ける聴衆に、その大いなる試練を打ち明けました。すると、集会の終わりに、親切そうな医師がその病気の症状を聞きに来ました。消化器官がどのように具合悪かったのかを聞いて、その医師はこう言ったのです。「ちゃんと小切手が届いていたとしたら、あなたは今日こうして私と話をしてはいなかったでしょう。そういう症状には、私はいつも30日間のオートミール食餌法を処方するのです。」

 

  374.ある日、フーバート・デビッドソン博士が有名な女流詩人マイラ・ブルックス・ウェルチを尋ねました。彼女の代表作「主の御手の触感」はおそらく一番良く知られている詩でしょう。博士の帰り際に、マイラ・ウェルチは車椅子の腕の部分を軽くたたいて、こう言いました。 「私はこの車椅子を神に感謝しているんです。」 車椅子に感謝しているなんてことがあるのでしょうか? そう、彼女の才能は、車椅子に乗る以前には発見されていなかったのです。苦々しい心を持つ代わりに、彼女はより良い道を進みました。そして、彼女の素晴らしいミニストリーは、大きな祝福の新しい扉を開いたのでした。彼女の詩は全世界に対する祝福となったからです。

 

  375.ヘンリー・フォーセットはある日、父親の狩りに同行した。ところが、父親の持っていたショットガンが暴発し、息子の両目をつぶしてしまったのだ。息子は当時まだ20歳という若さであった。

  その事故の前には、息子は前途有望なる大志を抱いた聡明な若者だった。たとえその事故によって苦々しい心を持ち、絶望に打ちひしがれてしまったとしても、彼を責める者などなかったであろう。そして、初めの内は、彼もそのような道をたどるかのように見えたのだった。しかし、彼の救いとなるものが一つだけあった。彼は父親を深く愛しており、父親は息子にしてしまったことを苦に思って気もふれんばかりになっていたことを、息子は知っていたのである。

  父親の正気を保つただ一つの方法とは、無残な絶望状態を克服するような希望の道を選ぶことであった。だから、彼はそうしたのである。実際にはそんな気分ではなかったのに、彼は快活なふりをした。人生に興味などないのに、そんなふりをした。そして、実際にそんな希望はなかったのだけれども、有用な市民になれるのだという希望を抱いているようなふりをした。

  その時、奇妙なことが起きたのである。その見せ掛けが現実のものになったのであった。まるで意志の力が働いたかのように、彼は悪霊を追い払い、退治してしまった。その結果、ヘンリー・フォーセットは下院議員に選出され、後には、グラッドストーンの要請で郵政大臣となり、英国の郵便と電報制度を大きく改善したのである。

 

  376.逆境に勝る教育はない。

 

  377.闇の時、イエスは明るく輝く。

 

  378.偉大なる建築技師である神は、ある道具を大いに使おうとしている時、しばしばそれを長時間火の中に置いて、強化し、仕事にふさわしいものとする。

 

  379.試練とは、私達を考えさせ、この世から離れさせ、聖書に駆り立て、ひざまずかせるためのもの。

 

  380.貧困と災いとは、プライドを養う燃料を断つ。

 

  381.信仰の目を澄んだものに保つためには、災いの涙がしばしば必要とされる。

 

  382.ある日、トーマス・エジソンの工場が火事になった。莫大な費用のかかった実験のすべてを炎に包み込んで、燃え上がるその工場を、なすすべもなく見守っていたエジソンは、息子のチャールズを呼んでこう言った。 「さあ、来なさい! このようなものには二度とお目にかかれないだろう!」 それから妻を呼び、三人で炎を見つめながら、エジソンは言った。 「私達の間違いが全部灰になる。これで新たに再出発できるね。」 そして二週間以内に、彼は工場を再建し始めた。蓄音機が発明されたのはその後まもなくのことだった。

 

  383.キャサリン・ベービスがこう語った。ある有名大学に、松葉杖をついた若者がいた。彼には、人なつっこさと根っからの明るく楽観的な性格という、まれな賜物があったので、クラスメイトから深い尊敬を受けていた。ある日、障害者になった原因を聞かれた彼は、あれこれ細かく説明したくはなかったので、単に「小児マヒ」と答えた。でも、「不幸を背負っていながら、どうしてそんなに快活でいられるの?」と尋ねるクラスメイトの問いに、その若いクリスチャンはほほ笑みながらこう答えたのだった。 「ああ、心は病気にかからなかったのさ。」

 

  384.冷たい風は、炎をより高く、よりさかんに燃え上がらせる。

 

  385.砂漠を軽んじてはいけない。そこは、神が美しく輝く宝石を磨かれる場所である。

 

  386.枝をせん定されて成長する方が、切り取られて焼かれるよりも良い。

 

  387.一滴の罪の中には、災いという大海の中よりももっと多くの悪がある。

 

  388.キリストは十字架を経て冠を受け取った。だから、私達がそれと違う方法で冠を受け取れると考えてはいけない。

 

  トーマス・エジソンは、30歳で蓄音機を発明したが、彼は子供の時から耳が聞こえないも同然だった。ただ、怒鳴り声とか騒音しか聞こえなかったのである。エジソンは、多少このことがうれしかったようだ。というのも、彼はこんな風に言っている。「叫ぶことしか出来ない者は、決して嘘をつけない!」

  エジソンはその他にも、電球、マイク、謄写版、蛍光透視鏡、映画を発明した。

 

  389.バイロン卿とサー・ウォルター・スコットは二人とも足が不自由だった。バイロンは足が不自由なために苦々しい思いを抱き、くよくよし、ついにはそれをひどくいやがるようになった。そして彼は、公の場に現れるたびに、自分の足を気にした。それに伴って精神も衰え、顔色も、生きる意欲も彼から失せてしまった。

  一方、スコットの方は、身体的欠陥について一言も不平や辛らつな言葉を漏らさなかった。一番身近な親友にさえ漏らさなかったのである。そういうわけで、サー・ウォルター・スコットがバイロン卿からこのような手紙を受け取ったのも驚きではない。 「ああ、スコットよ、あなたの幸福が得られるなら、わが名声をも与えよう。」

 

  390.ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、生まれて数カ月間、病弱だったので、生命が危ぶまれていた。病気がちであったため、学校でも成績はかんばしくはなかった。また、激しい運動にも加われなかったので、本を読むのが好きになった。特に海についての本を。そして、成人前に、もうすでに自分で小説を書くようになった。

  彼は一生涯、病気に悩んだ。けれども、彼の勇気と快活さは、まれに見るものだった。あこがれていたような精力的な人生を送ることはできなかったが、決してそのことについて不平を言うまいと決意したのだった。彼が健康のためにサモアの孤島に移り住むと、まもなくサモアの住民たちが毎晩集まって来ては、 「語りべ」の話に耳を傾けるようになった。

  彼は、この島で、1894年の12月に生涯の幕を閉じ、そこに埋葬された。彼の業績は文学界に豊かさを増し加えた。子供なら誰でも、あの魅力的な物語、 「宝島」を知っている。彼は、小説を書いて有名になったが、その底にははるかに永続的で、ためになる遺産がある。それは、打ちのめされるようほどのハンディを物ともしない、勇気と快活である。

 

  391.涙をぬぐいながら、なお鋤(すき)を握りしめること、それがキリスト教である。

 

  393.神は、愛する者たちをバラバラにし、その後でもう一度組み立てられる。

 

  394.一見して矛盾しているようだが、神が病気や災害や失望を用いるのは、ただ私達をより良くするためだけでなく、より幸せにするためでもある。

 

  396.アフリカ西部では、最初の改宗者が教会に来るようになるまでに14年かかった。アフリカ東部では10年、ニュージーランドでは9年の歳月を経て、やっと一人の人がバプテスマを受けるに至り、領聖者が出るまでにはさらに2年かかった。タヒチでも、最初の収穫まで16年の歳月がかかった。

  ウィリアム・カーレイも、ヒンズー教徒に初めてバプテスマを施すまでに7年を要した。ビルマでも、ジャドソンは7年間の労苦の後でやっと一人の改宗者を得たのであり、彼はある時、イギリスにこのような手紙を書き送ってきた。 「諸教会に忍耐を嘆願してください。たとえ、船がやって来て、この私を世界のどこにでも連れて行くことができても、私は、自分の宣教地を決して離れません。成功は、忠実な神の約束と全く同じように確実なものだと、兄弟たちにお伝え下さい。」

 

  397.床を掃くことほど退屈な仕事はあるでしょうか? でも、オハイオ州のカントンにあるデパートの雑役夫、ミューレイ・スパングラーは、床を掃きながらゼイゼイと息を切らし、咳き込みながらも、そうは思いませんでした。その仕事に就いた人は大勢いたけれども、皆、投げ出して辞めていきました。ところが、スパングラーは床掃除の良い方法を見つけようと決意したのでした。 「ほうきなんて無くしてしまえないものだろうか?‥‥何か、塵を吸い込んでしまうようなものは‥‥?」

  そう考えていく内に、スパングラーは簡単ながら、十分に使用できる掃除機を発明しました。そして彼は、旧友の皮革業者に融資の話を持ちかけました。その友人は、フーバー掃除機で有名な、H・W・フーバーです。

 

  398.マドラスの主教が晩年にトラバンコールを訪れていた時、 「子供の使徒」と呼ばれる少女が紹介されました。他の人にキリストを証しする熱意のゆえに、少女はその称号を獲得したのでした。その穏やかで、堅実な粘り強さによって、何人もの人がキリストに改宗されたのです。ところが、彼女は筆舌に尽くしがたいほどの残忍な迫害にも遭いました。主教に紹介された時、少女の顔、首、両腕は変形していて、むち打ちの跡や傷で覆われていました。主教は少女を見ると、目に涙を浮かべて言いました、 「ああ、わが子よ、いったいどうしてこんな仕打ちに耐えられるのか?」

  ところが、少女は驚いたように主教を見上げると、こう言ったのです。 「主教さま、あなたはキリストのために苦しみたくないのですか?」

 

  400.災いを運んで来る者が誰であれ、それを送られる方は神である。

 

  401.もし父の御心であるならば、さあ、災いよ、来い。そして、しかめっ面をした友となれ。しかめっ面の友は笑顔の敵に勝るから。

 

  402.試練はいつも神と私達との関係を変える。私達を神の近くに駆り立てるか、遠くへ追いやるかのどちらかに。

 

  403.もし同じ災いに二度訪問されたくなかったら、その災いが教えようとしていることに、すぐ耳を傾けることだ。

 

  404.初代クリスチャンたちには、政治的、あるいは世俗的な 「コネ」が全くなかったので、たびたび投獄された。しかし、彼らは聖霊の力に満たされていたので、どんな獄も彼らをとどめておくほどの力はなかった!

 

  405.どんなに耐え難い日にも明日がある

        暗闇の夜にも夜明けが来る

        だから昨日の悲しみに背を向けて

        勇気をふるって前進しよう!

 

  406.二匹のカエルがクリームの缶の中に落ちた

        缶の内側はつるつる

        登ろうとしてもズルズル

        クリームは冷たく

        底知れぬほど深く

        一番目のカエルいわく

         「へん、もがいたって何になる?

        これが運命ってもんなのさ!

        友よ、さらば! この世よ、さらば!」

        泣きながら、彼はクリームの底へ

        ところが、二番目のカエルときたら

        こちらは全然あきらめない

        懸命のカエル泳ぎ

        もがいては、またあえぎ

        体中がクリームだらけ

         「やるだけはやってみるさ

        一匹のカエルだって

        やれば何かができるだろう!」

 

        必死の思いで1時間

        両手両足、力の限り

        一瞬たりとも休まずに

        とにかくやるだけやってみた

        すると、カエルはピョンと

        缶の外へと飛び出した

        いったい何が起きたのか?

        おやおや、あのクリームがいつの間にか

        固いバターに変わっていた!

                       −−T・C・ハムレット

 

  407.ある日、ジョン・ウェズレーが馬に乗って旅をしていたところ、もう丸3日間も迫害を受けていないことに気がついた。つまり、3日間もレンガも卵も投げつけられていないのである。

  そのことに気づいたウェズレーは、馬を停めると、こう叫んだ。 「これは、私が罪を犯したためなのか? 背信したからなのか?」

  馬から降りると、ウェズレーはひざまずいて神に祈り、何か間違っていたならどこがに間違いがあったのかを示していただこうとした。

  すると、垣根の向こうでウェズレーの祈りを聞いていた荒くれ者がいた。それがこの牧師の祈りだとわかると、その荒くれ者は、 「いっちょ、あのメソジストの坊主を痛めつけてやろう」と言って、レンガを拾い上げると、それをウェズレー目掛けて投げつけたのだった。だが、レンガは的を外れ、ウェズレーのそばに落ちた。すると途端にウェズレーは飛び上がって喜び、こう感謝したのだった、 「神よ、感謝します。万事は順調だ。神はまだ私と共におられる。」

 

  408.試練とは、私達のいつくしみ深き、知恵ある医者が処方して下さる薬である。その薬が私達に必要だからだ。主は、症状に応じて、薬の回数と量とを調合される。

 

  409.神の御顔の陽光が照らしてくれるなら、私は災いの雨をも喜んで忍ぼう。

 

  410.危険や恐怖は、私達を神から引き離すのではなく、神の方へと駆り立てるべきものだ。

 

  411.クリスチャンとは、春にも、また冬にもさえずることのできる鳥。

 

  413.ビルマで宣教した、かの有名なアドニラム・ジャドソンは、キリストのため、失われた者たちに救いの手を差し伸べようとして、筆舌に尽くしがたいほどの苦難を忍んだ。胸も張り裂けんばかりのその7年間は、飢餓と貧困の歳月だった。この期間中に彼はアバ刑務所に入れられ、17ケ月というもの、想像も絶するほどの虐待を受けた。その結果、彼の手足には、残忍にも彼を縛り付けていた鎖と手かせ足かせでできた醜いあざが、一生涯残ったのであった。

  釈放に際して、彼は、大胆にも別の省へ行って、引き続き福音を宣べ伝える許可を願い求めた。神を敬わない統治者は、憤りをもってその要請を却下した。 「わが国民は、宣教師の言うことなどにたぶらかされるほど愚かではないが、その傷痕に感銘して、お前の宗教に転じてしまうかもしれないではないか!」

 

  414.アドニラム・ジャドソンが、ビルマのある不潔な刑務所で、20キロ近くもある鎖につながれ、足を竹ざおに縛られたまま横たわっていた。すると、ある人があざ笑いながらこう尋ねた、「異教徒を改宗させる見通しはどんなもんかね?」 すると、すかさずジャドソンはこう言い返した、「見通しは、決してたがわぬことのない神の約束と同じくらい明るい!」

 

  415.悲嘆 損失 苦痛 しかし

        われらの道には、ただ前進あるのみ

        われらはビルマの不毛の地に種を蒔き

        シオンの丘にて喜び躍る

                       アドニラム・ジャドソン

 

  417.主よ、あなたからの強い災いが、あなたへの強い情愛を扇ぎ立てるなら、何と幸いなことでしょう!

 

  418.平均的な人は、成功よりも逆境のようがより良く対応できる。

 

  419.事態が困難を極める時には、研磨されて初めて艶(つや)が出ることを思い出しなさい。

 

  420.人格は、ちょうど香ばしい薬草のように、押しつぶされた時に一番芳香を放つ。

 

  421.困難に対処する方法には二通りある。困難を変えてしまうか、それに応じられるように自分が変わるか、である。

 

  422.投げ出してしまう人より始末に負えないのは、怖がって何も始めない人だ。

 

  425.皇帝バレンスは、ある時、使者を遣わし、美辞麗句を並べ、魅力的な約束を掲げてローマ教皇エウセビエスを異端の道に誘いこもうとした。その時に、エウセビエスはこのように答えた。 「災いなるかな、これらの言葉は子供だましに過ぎません。けれど、聖なる書物に学び、はぐくまれている私どもには通用しません。私どもは、聖書の一点一画が変えられることを容認するよりは、幾千の死をも死ぬ覚悟でございます。」

  そこで皇帝は、全財産の没収、拷問、流刑、さらには死刑にすると言って、エウセビエスを脅しにかかった。ところが、その雄々しいクリスチャンはこう答えた。

   「何も失う物を持っていない人は、物が押収されることを恐れる必要はありません。また、天国を故国としている人には、流刑も恐れるに足りません。また、体は一撃で滅びてしまうものなのだから、拷問も死も恐れるには足らないのです。死は、罪と悲しみから解放してくれる唯一の道だからです。」

 

  427.もし試みられたことも、テストにかけられたこともないのなら、人は信仰が弱いか強いかがどうやってわかるのか?

 

  428.友は繁栄の中でできるが、逆境は友を試す。

 

  429.神はよく、まず少しのもので試みて、私達が多くのものをどのように扱うかを見る。

 

  431.人生の勝利の歌も、マイナー・キーがなくてはメロディーにならない。

 

  432.間違いを犯すのも、それを習慣にしてしまわない限り、さほど悪くはないものである。

 

  434.身を切るようなある厳寒の日、スンダー・シンは一人のチベット人と一緒に旅をしていた。雪が深々と降り積もる中、旅は困難を極め、この寒さを生き抜くことはできないかのように思われた。すると、ある険しい絶壁までやって来た時、人がすべり落ちて倒れているのが見えた。はるか下の岩の上で死にかかっていたのである。スンダーは、その哀れな人を安全な場所に運んでやろうと連れに行った。ところが、チベット人の連れは、自分が生き残るのすらやっとなのにと言って、助けることを拒み、スンダーを置き去りに先を行ってしまった。スンダーは死にものぐるいで、倒れた人を何とか丘の上に引き上げ、背にかついで進んで行ったのであった。まもなく、彼はあのチベット人の連れの姿を見たが、凍りついた死体と化していた。悪戦苦闘しながら前進するスンダーにかつがれて、死に際で救助された人の体は、スンダーの体との接触で起こる摩擦熱によって温もりを取り戻し始め、とうとう息を吹き返したのだった。また、スンダー自身も、愛の労苦のおかげで次第に暖かくなっていった。そして、とうとう二人は安全に村に到着したのである。スンダーは感慨深く、主の言葉を思い起こしていた。「誰でも自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにそれを失う者はそれを救うであろう。」

 

  442.ムーディーがロンドンで大規模な宣教活動をしている時のことだった。ある日、上流の人々でぎっしり埋まった劇場で、集会を開いていた。この中には貴族の男女も少なくはなく、皇族の著名人たちも貴賓席に腰掛けていた。

  ムーディーは立ち上がって、聖書からの教訓を朗読しようとした。 「また預言者エリヤの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいた」と書かれた、ルカ4章27節を読もうとしたのである。ところが、そのエリヤという言葉がなかなか言えなくて、何度もどもり、詰まっては、また初めからその節を読み直し、三度繰り返して読もうとした。だが、どうしてもその言葉が言えなかった。ムーディーは、深く何かを思って聖書を閉じると、上を見あげてこう言った。 「ああ、神よ、ここにいる人々に十字架につけられたキリストを宣べ伝えるために、このどもる口をお使い下さい。」

  神の力がムーディーに臨んだ。その時、その場に居合わせて、以前にもムーディーの語るのを聞いたことのある人が、こう証言した。 「あの時ほどに、ムーディーがとうとうと流れ出るような雄弁さで心を注ぎ出したのを、私は一度だって聞いたことはない。全会衆は、神の力によって溶かされてしまった。」

 

  443.人格とは、危機に際して形成されるのではなく、ただその時に、明らかになるのである。

 

  444.勇気とは、自分自身を率直な心で、自分の敵を親切な心で、また、自分の挫折を平穏な心で見つめる資質のこと。

 

  445.悩みとは、自分の力を見つけるか、あるいは、力のなさを見つけるチャンスを与えてくれる。

 

  446.キリスト教を真に表現するもの、それは、溜め息ではなく、歌である。

 

  450.青空は、雲よりもずっと大きい。

 

  451.東ドイツのある共産主義の教師が受け持ちの児童に言った、 「さあ、起立して、『神はいない』と言いなさい。」 クリスチャンの家庭の出である8歳の少女はそれを拒んだ。脅されたにもかかわらず、少女はその言葉を言おうとはしなかった。ついに教師は怒りに震えて、 「家に帰って、50回、 『神はいない』と書いて、明日、その紙を私のところに持ってきなさい!」 その晩、少女は50回、「Es gibt doch ein Gott」と書き綴った。つまり、 「神はいます!」と書き綴ったのである。教師は怒った。 「家に帰ったら、今度は500回、『神はいない』と書きなさい。さもないと、ひどい目に遭うぞ!」 その翌日、少女と父親とは校長の所に出掛けて、事のいきさつを話した。ところが、驚いたことに、校長は少女にこう告げたのだった。 「心配はいらないよ。君の担任の先生は、昨日、オートバイの事故で死んでしまったから。問題は解決したわけだ。教室にお行き!」

 

  452.才気縦横たる、ある中国人の学生に、政府の高い地位を与えようとの申し出があった。ところが彼は、その素晴らしい申し出を拒んで、むしろわずかな収入にしかならない福音伝道の方を志願したので、その理由を尋ねてみると、彼はこう言った。

   「義和団員の暴動があった時、私は内地のある村に住んでいました。そこには、悪魔崇拝のための宮がありました。クリスチャンらは兵隊に引率されて、その宮に行き、自分たちの宗教を撤回してその悪鬼の偶像を拝するように、さもなければ、処刑されると言い渡されたのです。ちょっと頭を下げさえすれば命が救われたのに、直立したままその悪鬼の神の前を通り過ぎた人が、なんと163人もいたのです。その人たちは首を大きな梁(はり)に載せられ、処刑人が刀を降り下ろすと、その頭は地面に転がり落ちたのでした。私の父もその一人でした。私の心に感銘を与え、新しい人生を切望させたのは、彼らの揺らぐことのない誠実な信仰でした。だから、私も今、戻って行って、郷里の人たちにキリストの愛と、人を救うその力とを教えてあげたいのです。」

 

  453.クリスチャンは、ひざまずいてから、初めて立つことができるようになる。

 

  454.クリスチャンにとっては、十字架をかつぐ方が、引きずって歩くより、ずっとたやすい。

 

  455.不平の原因となるのは、普通、私達のトラブルの大きさではなく、どちらかと言えば、私達の霊の小ささによる。

 

  456.敗北よりも悪いものがたくさんある。悪に対する妥協もその一つだ。

 

  457.ある金曜の朝、スタンフォード大学出身の熱意に燃えた若者が、ルイス・ジャニンの前に立って、パート・タイムの仕事に雇ってもらおうとしていた。「私の会社に今必要なのは、速記タイピストだけだ」と言うジャニンに対して、若者は、「はい、引き受けます。でも、どうか来週の火曜まで待って下さい」と懇願した。火曜日になって、若者は任務に出頭した。「どうして火曜になるまで待てと言ったのかね?」と尋ねたジャニンに、若者は意外な答えをした。「タイプライターを借りて、まず使い方を習得しなければならなかったからです。」 その即興仕立てのタイピストが、ハーバート・フーバー(米国第 31 代大統領)である!

 

  460.今ここでキリストのために傷を受ける者は、かの世ではキリストと共に星をまとう。

 

  461.ある日、台所から卵を溶く音がするので行ってみると、お母さんがケーキを作っていました。それで、お母さんのしていることをながめていました。お母さんの作るあのおいしいチョコレートケーキには、いったい何が入っているのだろうかと興味があったのです。もちろん、チョコレートが入っているのは言うまでもありません。でも、テーブルから落ちた小さなかたまりを口に放り込んだところ、何とそれは苦かったのです。そこで、テーブルの上に並んでいる他の色々なものをざっと眺めてみました。酸っぱくなった牛乳もありました。まさか、それをケーキに入れはしないでしょう! ところが、こともあろうに、その酸っぱくなった牛乳を、一度、腹痛を起こした時に飲まされたことのある、あのひどい味の重曹と一緒にケーキの中に混ぜてしまったのです。そのような材料からいったいどんなケーキができるというのでしょう? 私は鼻を曲げました。でも、お母さんはただにっこりとほほ笑んで、まあ、待っていなさい、と言うのでした。

  さて、デザートの時間です。まあ、見たところはいつもと同じようにおいしそうです。でも、はじっこの部分をちょっぴりつまんで口に入れてみました。それから、もう少し、そして、ついには大きなかたまりを。こんなにおいしいケーキなんてありません! あの酸っぱくなった牛乳や重曹のことなどすっかり忘れて、私はもう一切れお母さんにお願いしたのです。

  人生は甘い味だけで作られているものではありません。苦い味も多分にあるのです。そして、苦い味のする物から何か良い物ができるなんて、ちょっと信じがたいことです。もちろん、すべての物が良い物ではありません。でも、 「万事は共に働いて益となる」のです。これは、神を愛する人たちへの、神の約束です。神は、あなたを望み通りの人間に作りあげるために、日々あなたを練り上げておられます。だから、神が間違ってあなたの人生に何かを混ぜることなど決して有り得ません。

 

  469.災いほど、招いて高くつく客はいない。

 

  471.自分の災いが最悪の状態である時には、喜びなさい。それから起こることはすべて改善のみとなっていくのだから。

 

  472.自分のトラブルを良く調べてみると、製造元が自分であったということがしょっちゅうある。

 

 

  474.アフリカに行った、ニューヨークのある靴販売員が、その製造元に電報をよこした。 「もう国に帰りたい。アフリカのこの地域には、靴を履いている人などいないから。」 そこで、その販売員は本国に戻され、別の販売員が急きょその地域に送られた。すると、彼は追加注文を何回も繰り返し、製造元に宛てた手紙にこう書き送ってきたのだった。 「ここではみんな靴が必要です!」

 

  475.ある晩、ある人が夢を見ました。主と浜辺を歩いている夢です。空には、自分の人生の様々な光景が次々に現れ、一つの光景ごとに、砂に二組の足跡がついていました。一組は自分のもの、もう一つは主のものです。

  でも、最後に映った光景を見てから、振り返って砂に残された足跡を見てみると、人生の過程で、一組の足跡しかない箇所がいくつもあるではありませんか。しかも、そういう箇所は、自分の人生で一番つらい時期でした。

  このことが気になって仕方がなかったので、主にこう尋ねました。「主よ、あなたは、いったん私があなたを心に受け入れたら、最後までいつも一緒にいてくださると言われました。でも、人生で最もつらかった時に、足跡が一組しかついていません。一番あなたを必要としていた時に、どうして私から離れてしまわれたのですか。」

  すると主は答えられました。「いとしい者よ、わたしはあなたを愛しているから、決してあなたの元を離れたりはしない。あなたが試練や苦しみにあっていた時に足跡が一組しかないのは、わたしがその時、あなたを抱えながら歩いていたからなのだよ。」

 

  477.自分がしみったれになりかかっているなあ、と感じることはありませんか? ニューヨーク州にある裕福な農夫がいました。彼は名うてのしみったれでしたが、クリスチャンになりました。ある時、火災で家を失い、一文無しになってしまった哀れな男が、施しを求めてやって来ました。農夫は、気前良く、自分のくん製所からハムをくれてやろうと思ったのです。くん製所に行こうとしていると、悪魔がこうささやき掛けました。

   「一番小さいのをやったらいいさ。」

  大きなのをやるべきか、小さなので済ませるべきか、彼は迷いに迷いました。でも、ついに決心して一番大きなハムを取り出したのです。

   「お前は愚かな男だ。」 悪魔が言いました。

  すると、それに対して農夫はこう言い返したのです。 「おい、もしおとなしくしていないなら、くん製所にあるハムを全部やっちまうぞ。」

 

  478.毎朝、目覚める時に、好むと好まざるとにかかわらず、必ずやらなければならないことがあるのを、神に感謝しなさい。働かざるを得ず、また、最善を尽くさざるを得ないことによって、あなたの内には、寛容、自制、勤勉さ、意志力、快活さ、満足感、そして、無為に時を過ごしていたなら決して味わうことのできないような数々の徳が培われるのです。

 

  479.悩みはいっぺんに一つずつしか負わないこと。ある人々は三つも負っている。今あるすべての悩み、過去のすべての悩み、そして、今後かかえるかもしれないすべての悩みを。

 

  480.灰色サギには、非常に変わった身の守り方があると言われている。鷲や鷹に襲われると、くちばしを剣のようにしてただじっと立ち尽くし、敵が勢いよく攻撃してくると、自分のくちばしに敵が身を貫くに任せるのである。クリスチャンの身の守り方もそれと非常に良く似通っている。私達には御霊の剣がある。だから、敵に襲われたなら、堅く立って、その剣をかざすだけでいい。敵がどう猛に攻撃してくればくるだけ、剣によって身を貫かれるのは、ますます確実になるわけである。

 

  481.

        あなたは主に忍耐を求めたか?

        祈って、それを嘆願したか?

        でも、患難に試みられた時、

        あなたは主に捨てられたとは思ったのか?

        ああ、わが子よ、主は確かに聞き入れられたのだ。

        あなたの誠実な願いを完全にかなえられたのだ。

         「患難は忍耐を生む!」

        今なら、その理由がわかるだろう。

 

        あなたは主に服従したいと願ったか?

        祈って、それを求めたか?

        でも、苦しみに襲われた時、

        あなたは不公平だとは思ったのか?

        ああ、いとしの子よ、主は確かに聞き入れられたのだ。

        無論、あなたの願っていた通りにではなかったが。

        われわれが服従することを学ぶのは、

        ただ、この世で苦しむことを通してだけだから。

 

        あなたがほしかったのは、非利己的な心ではなかったか?

        祈って、それを嘆願したか?

        でも、主から求められたその犠牲は

        大きすぎて負い切れないもののようだったのか?

        ああ、主は顧みられ、確かに聞き入れられたのだ。

        あなたの心からの祈りにことごとく答えられたのだ。

        われわれが非利己的になるのを学ぶのは、

        われわれが負う犠牲を通してだから。

 

        あなたは主に勝利を求めたか?

        そう、主はそれを言葉通りに受け取られた。

        四方八方戦いだらけで、

        主は聞き入れて下さったのかといぶかしんでも、

        ああ、わが子よ、主は確かに聞き入れられたのだ。

        あなたの心の願いをかなえられたのだ。

        一度もテストに遭わなければ

        勝利など決して得られないのだから。

 

        あなたは謙遜になることを求めたか?

        独善的なプライドを持たないようにと?

        でも、あなたの失敗がことごとく、

        あまたに宣べ広められると、いぶかしむ。

        それこそ、子よ、あなたの必死な祈りに対する

        主の答えに他ならないのだ。

        謙遜にされる最も確実な方法とは、

        屈辱を受けることなのだから。

 

        自分の祈りの答えられ方を見た時に、

        人間的な考えで、神を裁いてはいけない。

        クリスチャンの真実の道は、

        しばしば災いの谷を通過するのだから。

        そして、主の与えられるその答えは、

        確かに慈しみ深い、有益なものなのだ。

        たとえ、天国で振り返る時が来るまで

        それらを理解できないとしても!

  −−ジョセフィー・ホープ・ウエスターベルト

 

  482.もし私達が、祝福を忘れてしまうほど容易に悩みも忘れられるなら!

 

  483.窮地に陥ったなら、感謝しなさい。神はそこにおられるから!

 

  484.ある人々がトラブルに陥るのを主が許されることがあるのは、そういう時しか主のことを思わないからなのかもしれない。

 

  485.逆境の大学とは、たとえ課程が困難になっても学生を退学させることのない唯一の大学だろう。

 

  486.笑いとは、人生の打撃を和らげるショック吸収装置である。

 

  488.神は、決して「しみ」にならないペンで物を書き、決してすべることのない口で語り、決して失敗することのない手をもって行動される。

 

  489.私達の悩みの半分は、自分勝手な道を行きたがることから来る。悩みのもう半分は、その道を進むことから来る。

 

  491.もし、自分の悩みに対して一番責任のある人を蹴っ飛ばすことができたとしたら、一週間ほど椅子に座れなくなってしまうだろう。

 

  492.はげ頭でも、ないよりはまし。

 

  494.イエス・キリストはまだ一度も重要でない人に会ったことはない。私達の身代わりとして死ぬために、神が御子イエスを送られたのはそのためである。もし誰かがあなたに代わって死んでくれるなら、きっとあなたは重要であるに違いない。

 

  495.貧困を恥じる必要はない。自分自身の罪によってそれを招いたのでない限り。

 

  496.悩みに遭うと、ある人は自制心を失い、ある人は我に帰る。

 

  501.人々がもしその祝福を、災いと同じぐらいに誇張するなら、この世界はどれほど違った世界となることだろうか。

 

  502.最善のものを最大限に利用し、最悪のものを最小限にとどめるなら、より良い人生を送れる。

 

  503.人生は鏡のよう。渋っ面をすれば、渋っ面が返ってくる。ほほ笑むなら、ほほ笑みが返ってくる。

 

  504.あなたの人生が曇っているなら、魂の窓を洗う必要がある。

 

  505.困難を笑い飛ばせるなら、困難と共に生きて行くこともできる。

 

  510.過去のことについて陰うつな態度を取るならば、将来のことについて陽気にはなれない。

 

  511.楽観主義者は、コップにはまだ半分入っていると言う。しかし、悲観主義者は、コップにはもう半分しか入っていないと言う。

 

  513.水曜の夜の祈りの集会で、いつもこんな言葉で祈りを締めくくる年を取った執事がいた。 「そして、主よ、私の生活の中からすべてのくもの巣を取り払って下さい。」 つまり、くもの巣とは、そこにあってはいけないのに、一週間の内にたまってしまうもののことである。しかし、その締めくくりの言葉にいささかうんざりしていた人がいた。そして、その晩、この執事の祈りを聞いた時、とうとう忍耐が尽きてしまったのであった。そこで、この執事の祈りを聞いた時、彼は椅子から飛び上がって、こう叫んだ。 「主よ、主よ、そうではなくて、そのくもを殺して下さい!」 それこそ、必要なのである!

 

  515.楽観主義者には、暖炉とは暖かさと美しさの中心である。しかし悲観主義者には、煙と灰の出る場所である。

 

  517.限界に縛られている人は、 「絶対にできっこない」と言う。空気力学の法則によれば、マルハナバチは飛ぶことができない。つまり、翼の幅と比較した時の大きさ、重さ、体形を考えると、飛行が不可能なのだ。しかし、マルハナバチはそんな科学的な事実などつゆ知らず、飛び回っているのである。

 

  521.本当の大人とは、他の人のためには口実を見つけてあげても、自分のためには決して口実を見つけない人のこと。

 

  522.身に降り懸かる事柄の多くに対して私達には責任はないかもしれないが、それが起こった時の反応の仕方には責任がある。

 

  523.虹は、嵐に対する謝罪。

 

  524.物事の結果を最大限にうまく利用できる人には、物事が最大限にうまく行く。

 

  525.喜びを共にすると二倍になり、悲しみを共にすると半分になる。

 

  526.1910年のある嵐の晩、旅回りの音楽家たちの一団が、バルチック海に面したリガという町に到着した。そこでコンサートの契約があったからである。

  天候は最悪で、しかもコンサート会場は町からずっと離れた所にあったので、オーケストラの指揮者は、運営者側にコンサートのキャンセルを説得しようとした。こんなひどい嵐の夜に、敢えてコンサートに来る者など一人もいないと思ったからである。

  運営者側は、一応キャンセルをことわったが、もし一人も客が来なければ、フィンランドのヘルシンキに向かうその夜の船に間に合うように、早めに出発してもいいということに同意したのだった。

  コンサート会場に音楽家たちが到着した時、客席にはたった一人の人がぽつんと座っているだけだった。体つきのがっちりとした、老齢の紳士で、すべての人にほほ笑んでいるようだった。

  このたった一人の音楽愛好家のために、音楽家たちはコンサートのプログラムを最後まで演奏することを余儀なくされた。それゆえに、早めに引き上げて、その船に乗ることはできなかったわけである。

  コンサートが終了した後も、その老人は席を離れなかった。きっと眠ってしまったのだろうと思って、案内係はその老人の肩をそっとたたいた。ところが、老人は死んでいたのだった。音楽家たちは死人のために、そのコンサートの全プログラムを演奏したのである!

  ところが、これによって音楽家たちは全員、救われたのである。というのは、本当なら彼らが乗っていたはずのヘルシンキ行きの船が、その晩、嵐のために沈没して、乗客全員が死亡してしまったからである。

 

  529.これは、自分の仕事があたかも興味深いものであるかのように振る舞うことが、結局は割に合うことを知った、あるタイピストの話である。彼女はよく自分の仕事を嫌ったものだが、もうそんなことはない。

  「私のオフィスにはタイピストが4人います。そして、各人がそれぞれ数人の人たちから手紙を引き受けるように任命されていたのです。時折り、私達はその割り当てを押し付けられてしまうことがあります。ある日、部長補佐から長い手紙を再タイプするように言われて、私は口答えをし始めたのでした。その手紙は、再タイプしなくても修正できるということを部長補佐に指摘しようとしたのですが、彼は、もしタイプし直さないなら、誰か他の人にそれをしてもらうと言ってきたのです! 私はもう頭から湯気を出していました! けれども、この手紙をタイプし直し始めた時、私は突然こう思ったのでした。つまり、この仕事をするチャンスがあるならば喜んで飛びついてくる人たちが他に大勢いるということを。そしてまた、タイプのし直しだけでも、同様の給料をもらえたのです。すると、ずっと気分が良くなりました。そして、私は楽しんで仕事をしているのだと自分に言い聞かせようと、心に決めたのです。たとえ、いやな仕事ではあっても。その時、大切な事に気がついたのでした。つまり、仕事を心から楽しんでいるかのようにするなら、ある程度は楽しめるということです。だから、今では、残業する必要はほとんどありません。また、この新しい態度によって、私は良い働き手という評判をもらい、ある部長に秘書が必要だった時には、私に白羽の矢が立てられたのでした。むっつりすることもなく、余分な仕事を喜んでしてくれるという理由で! というわけで、このように精神的な態度を変えることによって生まれる力というのは、私にとっては極めて重要な発見でした。素晴らしい結果が生まれているからです!

 

  530.白いあごひげをたくわえたピエール・ルノアールが友人にこう言いました。 「私は幸運な男だ。今は、自分の好きな絵かきの仕事しかできない状態にあるのだから。」

  彼は車椅子に乗っていました。この内気な小男は、調子っぱずれの歌を口ずさんでいました。でも、指や関節はリウマチでゆがんでいたのです。片腕にくくり着けられていたのは、絵筆でした。それを使って、彼は目の前に置かれたキャンバスに向かって、痛々しそうに筆を振るうのです。しかし、彼の画架だけを見るなら、彼がどれだけ苦しんでいるかは到底想像もつきません。ただ、美しさのみを描いていたからです。彼はもうすでに有名だったので、過去の栄光に浸って引退することもできたのですが、なお石のように強張った手に鞭打って、美しい絵画を創作し続けたのです。そして後に、収集家たちや美術館は、彼の意志の堅さが成したわざに対して、大金を払ったのでした。

  彼が大業を成し遂げたのは、それをしたいと思ったからです。何もしていない事に我慢がならなかったのです。ルノアールは、大病というつらい経験をしなくても、何かをしたいという気持ちを持ちました。いわゆる天才だったのです。そして天才とは、ややもすると人間が陥ってしまう「怠慢さ」に勝って、何かを成し遂げたいという願望を持っているものなのです。

 

  531.歌曲 「軍艦ピナフォア」は、きっと幸せで、苦労のない人によって書かれたに違いありません。少なくとも、そのように思われます。

  でも、実際はアーサー・サリバン卿が腎臓結石でひどく痛み苦しんでいた時に書かれたものです。日夜続くその痛みも、彼が物事を成し遂げるのを阻むことはできませんでした。哀歌ではなく、陽気な音楽を創作することによって、彼はその痛みをもっとたえやすいものにしたのでした。

 

  532.何かを本当にやりたいと思う人は道を見い出す。他の人たちは口実を見いだす。

 

  533.子供の頃からずっとバレエのレッスンを受けていた若い娘さんがいました。そして、今や、プロのバレリーナになるために、いっさいを投げ出しても必要な訓練を受ける準備が備わったと感じたのです。彼女は、バレエ団の主役を務めるプリマバレリーナになりたかったのですが、まずは自分にそれだけの特別な才能があるかどうかを確かめたいと思いました。そこで、あるバレエ団がやって来た時に、幕が降りた後で舞台裏に行って、団長と話したのです。

   「私、バレリーナになりたいのです。でも、その才能があるかどうかわかりません。」

   「では、踊ってごらんなさい。」 団長に言われて踊ったところ、ものの一分もしない内に、 「だめだ。だめだ」と言われてしまいました。 「君には光るものがないな。」

  娘は失意を抱いて家に戻りました。バレエ・シューズを押し入れの中にほうり込み、もう二度と履きはしませんでした。そして、結婚し、赤ん坊を産みました。子供たちが大きくなったので、彼女はコンビニエンス・ストアーのレジ係りとしてパート・タイムの仕事に就きました。

  何年も後で、バレエを鑑賞し終わってから、彼女はあの老いた団長にバッタリと出くわしました。団長は、もうすでに80代になっていました。彼女は、 「以前、あなたとお目にかかったことがあります」と挨拶して、自分の子供たちの写真を見せ、コンビニエンス・ストアーでの仕事のことなどを話し、それから、こう一言つけ足したのです。 「でも、一つだけ納得いかないことがあるのです。私に光るものがないなんて、いったいどうしてそんなにすぐに見抜けたのですか?」

   「ああ、私はあなたのダンスをざっと見ただけです。私の所に来る人には誰にもそう言うんです。」  「でも、そんなのひどいわ。あなたは私の一生を台なしにしてしまったのです。ひょっとしたら、プリマバレリーナになれたかもしれないのに。」 

 「いいえ、そうは思いません。もしあなたに才能があったなら、私の言うことなどには耳を貸さなかったでしょうから。」 それが、団長の答えでした。

 

  534.男性用品店のブルックス・ブラザーズは、ちょっとのことでは容易に動じないということで定評があった。1950年のシカゴ支店の開店日、店長は販売員らに概要説明を与えていた。そして、店がオープンするその直前に、ある一台のキャデラックが運転を誤って、ショーウィンドーを突き破って飛び込んできたのだった。すると、店長はその販売員らに語った。 「紳士諸君、最初のお客様がいらっしゃった。」

 

  535.丘のすぐ向こうには美しい谷がある。でも丘を登らなければ、それを見る事はできない。

 

 536.ルイスは盲目の少年でした。生まれた時には目が見えたのですが、事故で視力を失ってしまったのでした。そこで、盲目の子供たちのための特別な学校に送られることになりました。

  けれども、ルイスは自分が他の子供達のように目が見えないという事で自分を哀れに思いながら、時間を浪費するようなことはしませんでした。本を読めるようになるという事は、ルイスが一番切に望んでいたことでした。そして、盲目の人でも容易に読むのを助けてあげられるような方法を夢に描き始めたのです。彼は、次から次へと色々なやり方を試みてみましたが成果はあがりませんでした。そんなある日、ルイスは、軍隊で隊長が夜、兵士達にメッセージを送る時に用いる方法について耳にしました。ダンボールの紙に穴を開けることによって、その表面に文字を作り出すという方法でそれをしたのです。その時、ルイスにはわかりました。それこそが、自分がずっと捜していた答えだと。

  このシステムをうまくいかせるのに、10年の歳月がかかりました。でも、彼は着実にそれに従事して、ついに完成させたのでした。だから今日、この盲目の少年の名は世界中で、特に盲人達の間で知れ渡っています。彼の名はルイス・ブライユ、そう、ブライユ式点字法の生みの親なのです。

 

  537. 「私には、もっと良い仕事場が、もっと良い道具が必要です」というのは、よく使われる言い訳です。ところが、キューリー夫人はぼろぼろの掘っ立て小屋でラジウムを分離させました。ブラッシャーズも、かの有名な天体望遠鏡のレンズを同じくらいぼろぼろの、そしてはるかに小さな小屋で造りました。ロキタンスキーは小屋で病理解剖学を確立しました。アインシュタインは、ごくありきたりの部屋の食台で作業しました。

  仕事場がどんなに粗末でも、それが人々をがっかりさせるわけではありません。人々は自分でがっかりしてしまうのです。

   「まわりに人がいて、それが邪魔になり、物事が成し遂げられないのです」というのも、回避者たちのもう一つの申開きです。

  ところが、A・コナン・ドイルは、かの有名な 「シャーロック・ホームズの冒険」の幾つかを10人以上もの人々が話したり、出入りしたりしている部屋の片すみで書き上げました。ジョージ・サンドは、友人に取り囲まれていても物を書き綴りました。そのような仕事には集中力が要求されますが、ある人々は何にも妨げられることなく、物事を成し遂げてしまうのです。他の人々がいて気をそらされてしまうからというだけで、努力を怠るようなことはしないからです。

 

  539.あなたは勝利を自分のものとして要求しなければならない。敵を叱責し、悪しき者に立ち向かわなければならない。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。イエスの御名によって!−−デービッド・B・バーグ

 

  541.13歳になる少女が村を出て、旅をしながら別の場所に向かっていると、途上でラマと出会い、こんな質問を受けた。 「子よ、お前はクリスチャンだと思うが、それは、お前の父親がクリスチャンだからなのか?」

  それに対して少女はこう答えた、 「いいえ、あるクリスチャンの僧侶が私達の家にやって来て、教えを説いて下さったのです。そのことを私は何回も何回も考えました。そして、自分の経験からキリストが救い主だとわかったので、クリスチャンになったのです。」

  ラマはこれを聞いて憤った。ラマは少女を連れ去り、暗い部屋に閉じ込めて、食べ物も水も与えることをしなかった。けれども、少女が大いなる喜びに満たされて歌う声を聞いて、ラマは驚嘆した。四日の後、ラマは少女に会いに行った。しかし、そこでラマが見たものは何だったのか? あの哀れな少女は歌をうたってはいなかった。目を閉じ、誰かに向かって静かに話しかけていたのだった。いったい何を言っていたのだろうか? ラマはその声に耳を澄まして、聞こうと努めた。すると、こんな感じのことを言っていた。

   「ああ、主よ、あなたのために苦しむという、この特権を受けていることをあなたに感謝します。主よ、このラマに憐れみを与えて下さい。その心の目を開いて、光を見させて下さい。」

 

  この誠実な祈りを聞いて、ラマは心が砕かれ、涙を流した。少女の足元にひざまずき、少女の語るその言葉を受け入れたのだった。ラマは、会う全ての人に、少女の持っていたその素晴らしい力のことを伝えた。又、そればかりではなく、ラマ自身その素晴らしい力を受け入れようと決心したのだった。

 (列王記下5:2,3; 使徒行伝1:8; 5:14)

 

  545.F・B・メイヤーは、栄光の世界に移って行く前に、こう言い残した。 「他の人達は、私が、自分で思っていたよりも早めに故郷に帰ったと伝えなさい。そうしたら、しもべのことではなく救い主のことを語るようにと言いなさい。」

 (ガラテヤ2:20; ピリピ1:19,20)

 

  546. 6,000の聖歌を書いた盲目のファニー・クロスビーは、こう証言している。 「私は全地で一番幸せな人間です。」

 

  ああ、私は何て幸せな人間なのか

        たとえ、目は見えなくでも

  私は決意した、この世では

        充実した人生を送ろうと。

  私に味わえても他の人に味わえない祝福が

        いったい幾つあるだろうか?

  だから、ただ自分が盲目だからというだけで

        涙することなど、決して私はしたくない。

(8歳の時、ファニー・クロスビーによって書かれる。)

 

  549.言葉は非常に重要である! それを用いる必要がある。 「あなたは、その語る言葉によって義とされ、また罪に定められる。」 主は言葉を聞かれるし、天の万軍もまたそれを聞くし、あなたも聞くし、悪魔もまたそれを聞く。もしあなたが聖句を引用したり主をほめたたえたり、悪魔を叱責したりするのに忙しくしているなら、自分の傷みや苦痛や悲しみを考えている時間などあまりないはずだ! もしあなたの思いが何よりも主に置かれていて、しかも、主に留どめられているなら、その時には、あなたが考えている方は主であって、一度に悪魔と主の両方を考えていることはできない。−−デービッド・B・バーグ

 

  584.たとえ、ささやくことしかできなくても、こういった聖句を自分に向かって、主に向かって、また悪魔に向かって、そして誰でも聞いている者に向かって、天と地獄の万軍に向かってささやきなさい! 霊界から私達を見守っている大いなる雲のような証人たちは、あなたの積極的な態度と、御霊における声を出しての明確な攻撃とに、胸をときめかせることだろう!−−デービッド・B・バーグ

 

  560.一番厚い黒雲は、最も豊かな雨を降らせてくれる。

 

  561.内を見ると幻滅し、まわりを見ると考え込んでしまう。だが、イエス・キリストを見るなら祝福を受ける。

 

  566.  作家のアルバート・エドワード・ウィッガムが、ある年配の黒人に会った。その人は人一倍の苦労をしているにもかかわらず、いつも快活さを保っているのだった。 「アンクル・ジョー、いったいどうやって、そんなに快活で、落ち着いていられるのですか?」

  すると、アンクル・ジョーは答えた、 「ああ、そうさな。避けられないものに協調して生きて行くのを、わしゃ、学んだんじゃよ。」

 

 568.私と明日とは何の関係もない。

           明日はわが救い主の世話されること。

        明日の恵みや力は前借りできないのだから

          その煩いを借りることもない。

                      D・W・ウィットル少佐

 

  575.ビクトリア女王は言った。 「私達は、敗北の可能性になど全く興味はありません。そんなものは存在しないのです。」

                     

                     

  588.アメリカを発見する為に出港したコロンブスの目の前に現れるのは、来る日も来る日も海原ばかりで、水夫たちは何回も反乱を企て、引き返すようにコロンブスを説得した。しかしコロンブスはその哀願に耳を貸さず、毎日、日誌にこの二つの文字を書き込んだのだった−−「航行前進」 (出エジプト14:15; 民数記13:30; ルカ9:62; ヘブル6:2)

                     

  589.1896年、グラスゴーの大学で講話をしたデビッド・リビングストーンはこう語った:  「人の話している言葉に理解できず、私に対する態度も常にはっきりとせず、また敵意を抱いていることもしばしばあるといった、その異郷生活の歳月において、私の支えとなったのがいったい何だったかを教えてあげましょう。それは、この 『見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいるであろう』という聖句だったのです。この言葉に私はいっさいのものを賭けました。そしてこの言葉は、決して私を失望させることはなかったのです。」

                     

  590.ウィルバーフォースは小男で、常に病弱でした。20年間も、彼は医師の命令で薬を飲み続け、それによって辛うじて死を免れていたのでした。けれども英国の奴隷貿易に歯止めをかけたのは、彼でした。ある時、ボズウェルが彼の講話を聞きに出掛けました。これはその後でボズウェルが語った言葉です。 「講壇に昇ったのはまるでエビのような小男でした。けれども講話が進むにつれて、そのエビがどんどん大きくなって、しまいには鯨のようになってしまったのです。」

  歴史上で何よりも人々への刺激となってきたのは、何らかの限界や障害を負っていながら、なおかつ成功した人々のストーリーです。

                     

  591.200年前ほど前、イギリスにウィリアム・ウィルバーフォースという人がいました。神はその人に、 「わたしはお前に大英帝国にいる全ての奴隷を解放してほしい」と言われたようでした。でも人間の考え方からすると、ウィルバーフォースにそんなことができるようには思われませんでした。彼は体が不自由で、背中も曲がっており、そのよじれ具合といったら、その当時のある作家が彼の事を、「人間のコルクの栓抜き」と言ったほどでした。当時の指導者達の大半は、大英帝国が奴隷貿易をやめることなど望んでいませんでした。でもウィルバーフォースは、神にとって不可能なことなど何一つないと信じていたのです。キリストの力があればどんな事でもできると。彼の消耗し切った体がウェストミンスター寺院の敷石の下に置かれた、その葬式の日、イギリスの議会は、英国旗の下に生きる全ての奴隷は解放された、という法律を通過させたのです。

                     

  592.傷痕とは、信者たちが皆、キリストへの忠誠心の故に支払うべき代価である。

                     

  593.神よ、是非ともイエスの御名によって答えて下さい! 神よ、私達は断固として要求します! 聖なる御名と、あなたが預言者に与えた聖なる御言葉に栄誉を与えて下さい! 主よ、あなたに命じます! 御言葉を成就し、預言者の言葉を果たし、また、あなたの助けを尋ね求める私達を助けて下さい! そして、悪しき者の攻撃から私達を救い出して、あなたの御名とイエス・キリストの名とに栄誉を帰して下さい!−−デービッド・B・バーグ

                     

  596.ビリー・サンデーは、野球の選手であり、しかも福音伝道者、宗教改革者だった。彼は罪に挑むという果敢な攻撃の手を、自分に対しても、また助けてあげたいと望んだ人達に対しても、決して休めなかった。彼は、1890年代から大恐慌の時代に至るまで、烈火のごとく悪を攻撃した。そして、1935年に他界するまで、人間が抱える必要に対する唯一の答えであるキリストを宣べ伝えたのであった。

   「私は罪に敵対する。片足でも残っている限り、私は罪を蹴っ飛ばそう。ひとつでも拳(こぶし)がある限り、私は罪を殴りつけよう。また、頭がある限り、頭突きをくらわしてやろう。そして、歯が一本でも残っている限り、かみついてやろう。そして、年を取り、拳も足も歯も何一つなくなってしまっても、私は自分が栄光に至り、また罪が滅びに至るまで、歯茎を使ってでも罪に挑み続けよう!」

                     

  597.マルチン・ルターはよく、悪魔のやり口を非常にありありと描写したものだった。ある時、どのようにして悪魔を打ち負かしたのかと尋ねられて、マルチン・ルターはこう答えた。 「悪魔がやって来て、私の心の戸をたたき、『ここに住んでいるのは誰だ』と尋ねたら、私に代わって愛する主イエスに戸口に出ていただくのだ。すると、イエスはこう言われる。『マルチン・ルターは以前ここに住んでいたが、もう引っ越してしまった。今は私がここに住んでいる』と。悪魔はその手にある釘の跡を見、槍で刺し貫かれた脇腹を見ると、あっという間に逃げ去ってしまうのだ。」

                     

  598.あの有名なダンケルク戦の直後は、現代世界でも一番の暗黒時代だった。災害は極めて大きく、損失も決定的で、イギリスは今にも侵攻されそうな状態にあった。ダンケルクの後、ノルウェー沖の会戦では戦艦が47隻も濠沈されてしまった。撤退が完了した時、イギリスの駆逐艦の半数は修理のために造船所に停泊し、一方、英国空軍も爆撃機の40%を失ってしまった。英国は飢饉の瀬戸際に立たされ、陸軍には武器も武力もなくなっていた。フランスに5万もの車両を残してきたからである。

  チャーチルは無防備な島民のために演説した。 「たとえどんな代価がかかろうとも、われわれは祖国を守る。海岸で戦い、野原で戦い、市街戦を行い、山中で戦おう。われわれは決して降伏しない。たとえ、この島国が統治下に置かれ、飢餓に陥るようなことがあっても、海上にいるわれわれの帝国は闘争を続け、結局は神の定められた時に、新世界がその権威と力とをもって、この旧世界を救出し、解放してくれるようになるだろう。」

                     

                     

  600.クリスチャンとしてすべてを捧げるようにとの召しは、基本的には幸せを享楽せよとの召しではなく、苦難を耐え忍べという召しである。

                     

  601.第二世紀の始め、小アジアのローマ総督プリニウスは、裁判のために自分の前に引き出されたクリスチャンが全く不可解であったので、皇帝トラヤヌスにかの有名な手紙を書き送って、助言を求めた。プリニウスはが直面していたのは、このような問題だった。

  引き出されて来た一人の名もないクリスチャンに対して、プリニウスは何のとがも認めなかったが、脅しをかけ、 「お前を流刑に処してやろう」とすごんだ。ところがそのクリスチャンは答えた。

   「いいえ、それはできません。全世界が私の父の家ですから。」

   「それならば、お前を殺してしまおう。」

   「いいえ、それもできません。私の命はキリストの内に隠されていますから。」

   「では、財産をすべて没収してしまおう。」

   「それもできません。私の宝は天に積まれていますから。」

   「人の世からお前を追い払い、友もない状態にしてやろう。」 それが最後の脅しだった。

  すると、再度、穏やかな答えが返ってきた。 「それもできません。私には、あなたが見ることもできない友がいて、その方を私から切り離すことはできませんから。」

  そのような人にあっては、生と死と、拷問と、火刑柱をすべて駆使する権威を持ったローマの総督でも、全く太刀打ちできないのである。

 

  605.イエス・キリストの真の兵士でありながら、戦わないでいるというのは不可能である。

                     

  610.私が山上にいる時

        主は輝ける明けの明星

         山の中腹にいる時には

        主はシャロンのバラ

         谷間にいる時には

        主は谷のユリであられる

 

                     

  616.悪魔から見習うべきことが一つある。それは粘り強さと根気強さだ。

                     

  617.自分がやっている事が本当に間違っていることを確かめるまでは、やめてはいけない。

 

  618.どうして悪魔の存在を信じることができるのか、と尋ねられたチャールズ・G・フィニーは、こうやり返した。 「あなたも時々、悪魔に立ち向かってみたらわかるだろう。そうしたら、悪魔が本当に存在するかどうかすぐわかるから。」

                     

  621.歴史は、障害を克服した人達で一杯である。英国の詩人、ポープは病弱で、無情な固定器の助けなしには立つ事もできなかった。スペインの作家セルバンテスはどもりだったが、後に驚くべきほどパワフルな大衆演説者となった。又、ショパンとセオドア・ルーズベルトも子供時代は病弱で、大人になるまで生き延びはしないと思われていた。スティファン・A・ダグラスはせむしだったが政治家となった。エジソンは耳が不自由だったにもかかわらず、蓄音機を完成させた。ミルトンは盲目だったが、英国史上最高の詩を書き残した。フランクリン・D・ルーズベルトは小児マヒで体が不自由になったが、アメリカの大統領になった。彼らは皆、障害を克服したのである。

                     

  622.イリノイ州の小さな村ロックグローブに、絶対に必要とされている夫婦がいます。ロックグローブの農民相互電話局を営んでいるジョーとレバ・スコフィールドで、二人の二階建ての家に電話交換機が設置されているのです。二人は代わる代わる交換器の前に立ち、それぞれ220人のお客さんを声だけで判読することができました。だから、ロックグローブの人たちは電話をかける時には決して電話番号を使いません。ただ、 「ジョン・ジョーンズへ」とか何とか言うだけで良かったのです。

  ジョー・スコフィールドは超一流のボーイスカウトの団長でした。彼の部隊は八人のイーグル・スカウトから成っていましたが、それだけでも、珍しいことでした。普通、ほとんどの小さな村々からは、イーグル・スカウトの位の人は10年に一人しか出なかったからです。

  そして、ハイキングの際には、ジョーが一緒に同行し、キャンプのやり方や野外生活の知識や、コンパスの読み方や手細工の仕方を教え込んだことは言うまでもありません。

  この中年の夫婦はまた、余暇を利用してほうきを作ったり、雑巾を縫ったりもします。また、魅力的な札入れや、ベルトや、名刺入れも作りますし、特にジョーはアンチックの家具の仕上げ直しに特別の才能を発揮していたのです。

  ジョーとレバは二人共、ロックグローブの聖パウロ・ルター派教会の活動的なメンバーでもありました。そして、意味のある人生を発見することにおいて何よりも大きな助けとなってくれたのは、この信仰であったと、二人は口を揃えて言っています。ちなみに、ジョーとレバとは、二人とも目が見えませんでした。

 

  630.歓迎会の最中のことだった。バージニア州の州境に面したある郡から一人の農夫がやって来て、リンカーン大統領に陳情した。連邦軍が彼の農場を通過した際に、干し草ばかりか彼の馬まで取っていったので、何とかするよう、適当な将校に命じてほしいと言うのだ。

  リンカーン大統領はこの話を聞いて、ある旧友の事を思い出した。その友はイリノイ州の木材切り出し人夫、 「ジャック」・チェースといって、堅実かつ慎重な人で、一番のいかだ乗りだった。急流に乗っていかだに組まれた丸太を運ぶのには、かなりの手腕が必要とされた。けれどもジャックはその扱いに巧みであり、いつもいかだを水路に沿って真っすぐに保つのだった。蒸気船が導入された時にもジャックは船長となった。いつでも彼が舵を取り、急流を下るのだった。ある日、逆巻くような急流に巻き込まれ、彼の船は激しく揺り動かされながら川を下っていた。ちょうど、船を狭い水路に保つために、ジャックの不断の警戒が最大限に必要とされていた時のことである。一人の少年が、ジャックの制服の裾を引っ張ってこう言ったのだった。 「船長さん! ちょっとだけ船を停めていただけませんか。僕、リンゴを川に落としちゃったんです!」

                     

  632.一生涯の間、勇ましく戦い抜き、何か生きがいになるもの、戦う目的のようなものを持つことこそ、生きる原動力であるというのは定説である。引退を強いられると、もはや戦う目的が余り残っていないために、気力や闘志や生きる意志をなくしてしまい、そのまま死んでしまうのである。例えば、アメリカの大統領がその例だ。大統領が引退するか敗退した後で長生きしたケースは希で、その多くが、大統領の座をおりて間もなく亡くなっている。それは殺人的な職務であり、ただ闘志によって進み続ける。だから、その職務から退き、闘志をなくした時に、多くの場合、命まで失ってしまうのである。

  マッカーサーは、「老兵は死なず、ただ序々に色あせて姿を消していくだけ」と言ったが、彼自身、その例にもれず、仕事から退いた時、ただ色あせて姿を消して行った。仕事こそが彼らを生かし続けるものであって、神が恵みのゆえに与えられる力のゆえに進み続けるのである! しかし仕事から身を引くと、進み続ける目的がなくなってしまう。それでただ色あせ、姿を消して、間もなくして死んでしまうのだ。用心せよ! 戦いをやめる時、ゲームから外れる時、腰をおろして安易な生活を楽しもうとする時、あなたは死んでしまうのだから!−−デービッド・B・バーグ

 

  640.イエスの側に敗者はなく、悪魔の側に勝者はない。

                     

  642.最前戦にいる時には、毎瞬間が行動の時、毎瞬間がサスペンスと危険と興奮の時である。次に何が待ち構えているのかわからないからだ!

                     

  645.ある哀れな婦人がいました。彼女は手術の後でひどく気分が滅入り、孤独感にさいなまれていたので、看護婦さんに、どうかしばらく一緒にいて手を握っていて下さい、と頼んだのでした。ところが、看護婦さんはただ笑いながらその手を取ると、すぐにまた慌ただしく仕事に戻ってしまいました。主は、看護婦さんの代わりにその婦人の所へ行ってあげるようにと、私の心に語られました。手術後、三日しかたっていなかった私は、ほとんどベッドに寝たきりでした。

  ふらつく足で何とか部屋を横切って婦人のベッドまでたどり着くと、私は腰をおろして婦人の手をにぎってあげました。それが私にとってかなり大変なことであるのを婦人も知っていたので、その行為は彼女の心にふれたようでした。私はしばらくそこに座り、婦人と話をしました。そして、彼女はそのことを決して忘れませんでした。そうして、私は退院する前に、一緒に祈ってイエスを受け入れるよう婦人を導くことができたのです。 「私達は、私達自身、神から慰めていただいたその同じ慰めをもって、他の人を慰めるのである」。 (コリント人への第二の手紙1章4節)

  また、別の女性も、手術の前に私自身の慰めになった節で慰めてあげることができました。そして、その女性もイエスを受け入れたのです! 手術の後で彼女は、ずっと私の事や、私が彼女のために祈っていると言った言葉を考えていたと話してくれました。私は彼女にとって見ず知らずの者でしたが、大変な時期にあって、彼女の支えとなれたのです。 (私も、人生が最悪と思えた時に、同じ経験をしました。あらゆるものが価値が薄れて感じられた時に、三つ、変わらぬ価値を留どめているものがありました。主と、主の御言葉と、愛に満ちたファミリーです。)

                     

  646.第一次世界大戦のヨーク軍曹は、良心的兵役拒否者であるのに、どうして単身で敵のマシンガン射手の分団を殺し、600人以上もの兵士たちを捕虜にしたのか、と問われた時にこう答えた。 「多数を救うためには、少数を殺した方が良い、と主が告げられたからだ!」

 

  647.私がサタンの存在を信じている理由には二つある。第一に、聖書がそう言っているから。第二に、私自身、彼と取引をしてきたから。誘惑されるのと、その誘惑に負けるのとは、別問題だ。

                     

  648.落胆には、防腐処置を施すのではなく、火葬にすべきだ。

                     

  651.ある日、ボブは母親から「絶対に近くの池に泳ぎに行ってはいけません」ときっぱり告げられた。その後、ボブは運動場に行く途中、その池の近くを通らなければならなかった。そこで、誘惑にあった場合に備えて、ボブは海水パンツを持っていったのだった! これは、自らの欲を満たす事に心を向けているようなものだ! 「スイカ畑を通るとどうしてもよだれが出てしまうけど、でも走って通り抜けることはできる!」と言った黒人の少年と、どれほどの違いがあることか!

                     

  652.あなたは自分の信仰を宣言して、それを悪魔の面前で振りかざす必要がある! 祈りと賛美とを声にして、聖句の燃える火の矢を悪魔に投げ付けるのだ!−−デービッド・B・バーグ

                     

  653.言いなさい! 行いなさい! 聞きなさい! 見なさい! 語りなさい! 御言葉、口、異言、話すこと、告白することに関するすべての聖句を思いつくだけ引用しなさい! それは極めて重要である! あなたの証し、あなたのテスティモニーの一部だからである! それはあなたの言葉であって、救いもするし、いやしもするし、悪魔に立ち向かうこともできる。特にそれが主の御言葉であるならば! でも、あなたは自分の言葉でそれを言わなければならない!−−デービッド・B・バーグ

                     

  654.全世界のすべての水をもってしても、

          また、どんなに懸命に試みても、

        船を沈めることはできない。

          水が中に入り込まない限りは。

 

        全世界のすべての悪をもってしても、

          邪悪さや罪がこぞってやってきても、

        魂の船を沈めることはできない。

          悪が中に入り込まない限りは。

                     

  655.心理学者によると、もし熱湯の中にカエルを入れるとカエルはすぐ飛び出すが、冷水の中にカエルを入れて序々に暖めていくと、最後にはそのままゆだってしまう、ということだ。カエルは、湯が熱すぎて耐えられなくなる時がいつなのかがわからない。忌まわしい誘惑が突如、その醜い頭をもたげるなら、たいていの人は反射的に後ずさりする。しかし、多くの人々は、ほとんど気づかない内に日に日に漂って行くことで、神から離れて行ってしまう。最善の防御策とは、水がなま暖かくなる前に飛び出してしまうことだ。

                     

  659.カーディフのA・マックレーの興味深い人生の中でも、彼の人柄が非常によく表われている話がある。 「あるホテルの食堂で多数のビジネスマンが昼食を取っていた。その中には、病的なほどに神を冒涜し、不快な事なら何でも専門としていることで名高い人がいた。A・マックレーもそこで静かに食事を楽しんでいた。ところが、突然にこの汚れた言葉を吐く不貞のやからによって、その和やかな雰囲気が破られ、主イエス・キリストに関するありとあらゆる悪口が延々と熱っぽく語られたのであった。食堂全体の緊張が高まり、その場はピリピリした雰囲気になった。しかし、それに応じて何か言う者は一人もなく、ただ陰うつな沈黙だけがあった。するとその沈黙を破るかのように、一人の人がこう叫んだ。『マックレーさん、これに対して何も言うべきことがないのですか?』 一同は息もつかずに何らかの返答を待った。そして、その返答は感情を押さえてでもいるかのように穏やかなものだった。彼はこう言った。『皆さん、あなた方と同様に、この冒涜と下劣な言葉がいやでも私の耳に入ってきました。私はずっと、何と言うべきかを考えていました。では、このように言ってもよろしいでしょうか? 皆さんは私をとても良く知っています。私の妻の事、妻が私にとってどれほど大切であって、また私が妻にどれだけの恩を負っているかもです。そして、私達の家庭生活がどれほど円満で幸福に満ちたものであるかについて、私が決して誇張しているのでないことは皆様もご存知の通りです。だから、もし誰かが妻の事についていかがわしい醜聞を浴びせかけたりしたら、私がどう感じるかは察しがつくと思います。それなのに、この人は、無知であり盲目であったとはいえ、この地上のどんなに親しい友よりも親密な方、つまり私のために死んで下さった方、私が誰よりも愛する方について、こういった偽りの言葉を発したのです。誰もそんなことをしたことはありません。だから、罪人達のために十字架につけられ、今や神の御座の右に座して主となり、キリストとなっておられる、私の主イエス・キリストへの忠誠を宣誓すること、それが私の返答です。』」

  その言葉の背後には非常なる徳が現れていて、豊かな恵みに満たされていたため、そこに居合わせた人々は一同に立ち上がって腹の底から叫び声を挙げた。 「万歳、マックレーさん!」 また、ある人は、 「イエス・キリストに乾杯!」と叫びました。

 (ペテロへの第一の手紙2章7節、黙示録5章9節、10節。)

                     

  668.ワシントンにあるトーマス・ハート・ベントンの自宅が火事で焼け落ちた時、ベントンは米国議会から出て、その廃きょに行くと、こう語った。 「これで死ぬのがもっと簡単になった。後に残すべきものがずっと少なくなったから。」

                     

  669.ほほ笑みを浮かべながら十字架を負うことができるなら、他の人の悲しみを紛らわして喜びにしてあげることができる。

                     

  670.実り豊かな人生とは、陽光はもちろん、にわか雨をも求める。

                     

  671.神はいつでも杖と一緒に支えも送られる。

                     

  672.クリスチャンは、どんな地上の王国よりも優れた王国に属している。生まれ変わる時、人は天国の市民となる。天国全体が、クリスチャンの成功に関心を寄せている。神は人をあがなうために御子を与えて下さった。人を救い、守るために、神はその恵みを与えて下さった。罪人が救われると御使いたちは喜ぶ。神の子の背後には天国全体がいて、応援してくれる。どんな世俗的な権威でも、その従属者に決してしてできないような素晴らしいことを、主は主御自身の者たちにして下さる。

                     

  674.チャールズ・ウェズレーは、アイルランドのキリーリーグの近くで、恒例の野外集会を営んでいた。説教をしていると、何人かの人たちが彼の見解に異議を唱えて、襲いかかった。荒れ狂う群衆に、ウェズレーは命からがらその場を逃げ去った。

  そして、近くの農家に逃れ場を求めた。その農家の主婦は心の優しい人だったので、あえぐように息をしているこの福音伝道者を乳牛小屋にかくまったのであった。彼女がウェズレーをかくまい終えたのと、ウェズレーを襲う者たちが慌ただしくやって来たのとは、ほとんど同時だった。彼女は、何か冷たい物を出して彼らの注意をそらそうと努めた。敷地内を探し回られて、福音伝道者が見つかってしまうのではないかと心配した彼女は、訪問者たちのために冷たい飲み物を取りに行くふりをして、乳牛小屋に行ったのだった。そして言った。「急いで、この裏の窓から外に出て、垣根の下に隠れて下さい。」 ウェズレーはやっとのことで窓をよじ登って外に出ると、垣根の脇に小川が流れていて、小さな池を作り、その上には木の枝が茂っているのを見た。快適で安全な、隠れ場にはおあつらえ向きの場所だった。

  執念深いアイルランド人があきらめて立ち去ってしまうのを待つ間、ウェズレーはポケットから鉛筆と紙とを取り出して、かの不朽の聖歌を書いたのである。それは、「わが魂の恋人イエス」だ。私達がよく歌うもう一つの聖歌、 「立て、立て、イエスのために」の作家であるジョージ・ダッフィールド博士はかつて、ウェズレーの聖歌についてこう語ったことがある。 「クリスチャンが持つ、喜びと悲しみ、災いと繁栄、生と死の経験を歌った歌が何かあるとするならば、その聖歌こそまさに、あらゆる時代の聖歌である。」

                     

  675.小説家のA・J・クローニンがウェールズのある小さな炭鉱の町で開業医をしていた頃、素晴らしい看護婦が一緒に働いてくれていた。その看護婦の名はオリーブン・デイビスといって、彼女は20年以上もその能力、忍耐、快活さとをもって人々に尽くしていた。だが、オリーブンの友人である医師は、彼女が献身的に仕事をしているのに、その報いである給料が実に少ないことに、憤りを感じていた。

   「ある時、一人の特別に骨の折れる患者を扱った後で、二人で一緒にお茶を飲んでいた時に、勇気を奮い起こしてその事を彼女に抗議してみたのです。 『何故もっと給料を要求しないのですか? そんなに僅かな給料で働くなんて、ばかげているとは思いませんか?』 彼女はちょっと眉をひそめたが、ほほ笑んでこう言った。『暮らしていくのに十分なだけはもらっています。』 でも私はさらに抗議を繰り返して、『いいえ、そんな事はありませんよ』と続け、『少なくとも一週につきもう1ポンドは余分にもらうべきです。それに値していることは神がご存知です』と言いました。

  しばらく沈黙がありました。顔にはほほ笑みが残っていましたが、視線には重々しさがあって、その緊迫感に私は驚愕してしまったほどでした。彼女はこう言いました。 「先生! もし神が私の価値をご存知であるならば、それで十分なのです!」

                     

  676.この世の人々が神の民に対して一番顔をしかめる時、神は、神の民に一番ほほえみかけて下さる。

                     

  677.重荷が大きくなれば、

        神の恵みは増し加わり、

        仕事が増えれば、力もそれに伴い、

        災いのたびに、憐れみも与えられ、

        試練が来ると、平安も施される。

             −−アニー・ジョンソン・フリント

                     

  678.キリストを尋ね求めよ、そうすれば、彼を見いだす。そして、彼と共に、他のすべてのものが添えて与えられる。

                     

  679.ロスチャイルド家の初期の創始者の一人が、若かりし日に事業を始めるにあたって、ある友人から小額の資金を融資してもらった。何の担保もないまま、差し迫った必要を埋め合わせてもらったわけである。彼はドイツの遠隔の地域に出て行き、そこで多くの歳月が流れた。半世紀近くたった頃、ロスチャイルド家は世界的な名声を極めていたが、そのかつての寄贈者は、それがあの昔の友達と同一人物であるなどとは夢にも思っていなかった。ところが、すでに年老いて、健康もそこなわれ、財産も失い、しかも家族を扶養しなければならず、暗い陰が立ち込めていた彼の元に、フランクフルトのロスチャイルド家から一通の手紙が届いたのであった。それは、ある銀行で重要な面談があるので、そこへ来るようにとの手紙だった。彼が大銀行家の専用オフィスに入って行くと、予想もしていなかったような歓待を受けた。大銀行家は彼の旧友であったことを知らせると、机から一枚の為替手形を取り出すのだった。十万ドルという巨額小切手で、それを旧友に渡しながら、大銀行家はこう言った。「あなたをお招きしたのは、殆ど50年近くも前に私の銀行に融資して下さった株の配当金をお支払いする為だったのです。」 肝をつぶした旧友は、そのお金を受け取るのを拒んだ。 そんな贈り物を要求する権利は自分にはないと言うのだった。でも大銀行家は、「これは贈り物などではありません。ただあなたが私に与えて下さったお金の純益であって、それが何倍にもなり、実際にこれほどの支払い額になってしまったのです。」 A・B・シンプソンがこう言っているように、「私達が主の管理に預けた信頼が何百万倍にもなって返済される日がやって来る。私達は、神が私達の宝のいかに優れた投資者であるかを知るようになる」のだ。

 

  680.ある少年が、アメリカの西部にある二つの都市を結ぶ列車の普通客席に座っていました。その日はちょうど蒸し暑く、ほこりっぽくて、旅行には全く不快な日でした。ところが、この少年は我慢づよく、過ぎ行く野原や垣根を眺めていました。とうとう優しい年配の婦人がたまりかねて、同情のこもった口ぶりで、少年にこう尋ねました。 「坊や、こんな長旅はいやにならない? しかもこんなにほこりっぽいし、蒸し暑くて。」 すると、少年は明るく上を見上げ、ほほ笑みながらこう言ったのです。 「ええ、ちょっとは。でもあまり気になりません。終着駅に着いたら父が僕を待っていてくれるので。」 時々、人生にうんざりし、単調きわまりなく思える時、私達が希望と信頼とをこめて前方を見つめる事ができるというのは、何と素晴らしいことでしょうか。あの少年のように、私達の旅の終わりには父が待っていて下さるので、 「あまり気にならない」でいられるのです。旅の終わりには、父が私達を出迎えていて下さいます。神に感謝!

 

  681.信仰は、人生のどんな質問にも必ず答えることができる。

 

  682.キリストには孤独な気持ちがわかる。彼自身それを経験しておられるのだから。

 

  683.誰もほとんど気づかないが、信者であろうとなかろうと、人の孤独な気持ちとは実際、神を慕うホームシックのようなものである。                     

 

684.貧困は祈りの友。

                −−ジョージ・スウィンノック

                     

  685.私は病気によっていやされ、貧困によって富を受け、弱さによって力を受ける。

                     

  687.私達はこの世の富をほとんど持っていなくても、神をほめたたえるべきものは豊富に持っている。ある女性が救貧院で死にかかっていた。医者がその女性の上にかがみこむと、 「主をほめたたえよ」とささやく声が聞こえたので、 「何故? こんな救貧院で死のうとしているのに、どうして神をほめたたえることができるのか?」と尋ねた。彼女は答えた。「ああ、先生、救貧院から天の大邸宅に行くのはとても素晴らしいことです。」

                     

  690.雨は一滴たりとも無駄になることはない。

                     

  691.私達は、自分の土台が揺らぐと、あわてて神の方を向くが、その時、神がその土台を揺すっておられたことを知る。

                     

  692.神は人間の失敗によって挫折することはない。

                     

693.偶然とか事故とかいったものはない。そういった言葉は、私達が、直接の、本当の原因を知らないことを示しているにすぎない。

                     

  694.私達を眠らせてしまう平穏さは、ひょっとしたら、目を大きく開かせる嵐よりも致命的かもしれない。

                     

  695.人生は鏡のようだ。ほほ笑む時、一番の成果が表れる。

                     

  696.ウィル・メイヨー医師はこう語った。「あらゆる基準からして、もう死んだも同然の患者たちを、私はこの目で見てきた。彼らがもう生きられないことは確かだった。ところが、一人の聖職者がベッドの脇にやって来て、私がしてやれなかった事を患者のためにしたのだった。私としては、医学的にあらゆる手を尽くしたが、もう出来ることはなかった。しかし、何かが患者の内にある不死の火花に触れ、医学的な知識や常識とは裏腹に、その患者は生気を取り戻し、回復したのである!」

  メイヨー兄弟、つまり、ウィル&チャールズ・メイヨー医師は、世界的に有名なメイヨー・クリニックの創始者である。

                     

  697.ウォルター・スコット卿はかつて、「私に想像力を与えよ。そうすれば獄中にいても幸せでいる事ができる」と言った。エリザベス女王の臨終の床にあって、法廷の不評を買ってしまったウォルター・ラレイ卿は、13年間、ロンドン塔に幽閉された。しかし、その活発な思いや霊を閉じこめたり鎖にかけることはできなかった。彼は素晴らしい世界史を書き残し、後生の人々はそれを傑作と呼んだ。

  ジョン・バニヤンは、もはや福音を宣べ伝えられないように、ベッドフォードの獄に幽閉されたが、その疲れを知らない魂は鎖につながれたままでいることを拒んだ。彼は、英語で書かれた本の中でも幾世紀にも渡って一番の人気を博した書物、「天路歴程」を書いたのである。パウロ自身、ローマの獄に捕らわれ、出て行って諸教会に福音を宣べ伝えることができないといらだっていた時、数々の書簡を書き残した。それによってパウロの名は不朽となり、後々の世代にそのメッセージを携えることになったのである。

                     

  698.人間が意を決する時、いったい何がその人を止められるだろうか? 体の障害か? すると、ウォルター・スコット卿が生まれる。独房に入れるのか? すると、ジョン・バニヤンが生まれる。バリー・フォッジの雪の中に埋めるのか? すると、ジョージ・ワシントンが生まれる。絶望的な貧困の中に生まれさせるのか? すると、リンカーンが生まれる。辛らつ極まる人種的な偏見の荷を負わせるのか? すると、ディズレーリが生まれる。

  少年期に父親の腕の中で息を詰まらせるほどのぜん息を患わせるのか? すると、セオドア・ルーズベルトが生まれる。アヘン剤を飲まなければ眠る事もできないほどのリューマチ痛で撃つのか? すると、シュタインメッツが生まれる。機関車の車庫にある油の中に浸けるのか? すると、ウォルター・クライスラーが生まれる。名もない南アメリカのオーケストラの控えバイオリン奏者にするのか? すると、トスカニーニが生まれる。

                     

  699.人生最大の難問とは、負債、汚れ、悪魔の三者から同時に離れていることである。

                     

  700.今、神が遠くにおられるように思われるなら、いったい初めに離れたのは誰だったのか?

                     

  701.安全とは、危険がないことではない。そうではなくて、どんな危険があろうとも、神が共におられることである。

                     

  702.繁栄は大きな憐れみである。しかし、逆境も、もし私達をキリストに近づけてくれるなら、その方がはるかに大いなる憐れみである。

                     

  704.十字架の後には、命の冠

        涙の後には、歌

        悲しみの夜の後には、栄光に満ちた輝く夜明けがある

 

        心の痛みの後には、慰め

        嵐の後には、穏やかさ

        苦しみと溜め息の後には、神の愛といやしの香油がある

 

        切望の後には、現実となる

        さまよいの後には、道

        別れの痛みの後には、再会の日の喜びがある

 

        嘆きの後には、喜びの油

        暗闇の後には、光

        この世の労苦と試練の後には、キリストの恵みに満ちた御顔がある

                         −−エダ・A・レイド

                     

  705.ジョージ・マセソンは、婚約中に、自分の目がやがて見えなくなることを知り、フィアンセから、「私は目の見えない人とは結婚できないわ」と言われた。彼の夢は無残にも砕かれ、自殺をしようとまで考えたほどだったが、我に帰り、感動的な聖歌、「ああ、決して私を見捨てることのない愛よ」を書いたのだった。

 

 

ああ、決して私を見捨てることのない愛よ、

 わが魂をあなたの内に休めます。

 あなたからいただいた命をお返しします。

その命が、豊かに、満ち満ちたものとなりますように。 

 

ああ、行く手を最後まで照らしてくれる光よ、

 この心はあなたからの光で再び輝きます。

 わたしのよわいが、あなたの陽光の中にあって、

   明るく、麗しく輝きますように。

 

 ああ、痛みの中で私を探し求める喜びよ、

 わが心をあなたに閉ざすことはできません。

雨の中でもあなたの虹を追い、

きっとかなう約束を心に感じます。

涙のない明日の世界を見られますように。

 

 ああ、わがこうべをもたげてくれる十字架よ、

 あなたの元から飛び去ることなど求めません。

 この世の栄光を捨て、わたしはちりに倒れ伏します。

 その倒れた地面から、いつか赤々と

 永遠に至る命が開花しますように。

                     

  707.神にとって、偶然に起こることはなく、何ひとつ偶然には起こりえない。

             −−ヘンリー・W・ロングフェロー

                     

  708.もし悪から善を引き出すことができないのなら、神は決して悪が起こるのを許さない。

                     

  709.ちょうど6ケ月分の食物を食いだめしたり、一週間分の空気を肺に溜め込んだりできないように、人は、未来の恵みを前もって受け取ることはできない。私達はただ必要に応じて、日ごとに、神の限界もなく貯蔵された恵みを引き出さなければならない。

                     

  710.この言葉は、まるで金貨が真珠の階段を転がり落ちる時のような荘厳な響きを持っている。この言葉から、私達はヘレン・ケラーの幸せな心をかいま見るのだ。

   「この多くの制限を抱えた肉体を持つ私の人生が、世界の美に触れることができるというのは、信じがたいことでしょうか? 暗闇や沈黙にさえ、奇跡があります。そして私は、どんな状態であっても、自分のいる状態に満足することを学びました。確かに、時にはまるで冷たい霧のような孤立感に包まれて、人生の閉じられた扉の前に、ただ一人取り残されたように感じることもあります。扉の向こうには光や音楽や暖かい交わりがあるのに、この私は入れないのです。‥‥沈黙は、私の魂に重くのしかかります。でも、そんな時に、希望がほほ笑みながらやって来て、「自分を忘れることの内に喜びがある」とささやいてくれるのです。だから私は、他の人の目の中にある光を私の太陽とするのです。他の人の耳に聞こえる音楽を私の交響曲とするのです。他の人の唇に浮かぶほほ笑みを私の幸福とするのです。」

                     

  711.ある時、大西洋定期航路船が嵐に襲われ、丸二日間、暴風が吹き荒れました。乗客たちは不安でした。ついに、心配でじっとしていられなくなった乗客が、操舵(だ)室が見える所まで行ってみました。すると、その乗客は、戻ってきて他の乗客たちに喜ばしい知らせを告げたのです。「大丈夫ですよ! 船はちゃんと港に着きます。操舵手を見てきましたが、笑顔で舵(かじ)を取っていたから。」 私たちには、人生の旅路を導いてくださる偉大なる操舵手がいるので、どんな嵐に遭ってもほほえみ、安心していられるのです。

                                            

  712.神は、任務をするための時間を与えずに、それを押し付けることは決してなさらない。                     −−ジョン・ラスキン

                     

  713.神が水路を干上がらせられるのは、それによって人が、果てしのない幸福の海原に出て行くよう強いられるためである。

                     

  715.いわゆる美人ではなくても、美しい心はそれを埋め合わせて余りある。

                     

  716.勝利の後も、戦いの前のような警戒を怠ることがないように。

                     

  719.笑いは、多くの小さな病をいやしてくれる。医者がくれる小さな錠剤よりもずっと効き目が早い。

                     

  726.はげ頭にも利点がひとつある。きちんとしていること。

                     

  727.敗北には一つの答えしかない。それは、勝利である。

                     

  728.人生で一番危険な瞬間とは、大勝利の直後である。

                     

  729.戦いなくして、勝利はない。                     

 

 730.嵐が激しければ激しいほど、錨の必要性も大きくなる。

                     

  732.ああ、主イエスよ、私たちは愚かさで満たされているがために、しばしば罪を犯して、ゆるしを求めなければなりません。だからどうか、自分がゆるされたいと思うように他の人をゆるし、昔受けたとがを口にせず、それをいつまでも思っているのでもなく、心の中でそれに影響されてしまうのでもなく、あなたが私達を愛して下さったように、私達も互いに心から愛し合えますように。あなたの御名で祈ります。アァメン。

                     

  733.昔、アーサー王の騎士達が戦場から王の宮廷に戻って来る場合、体にいくさの傷痕が一つも残っていないなら、王はその騎士を戦場に返して、「行け、そして、傷痕をつけてきなさい!」と命令したと言われている。

                     

  739.愛とは、決して色あせることのない織物。逆境や悲嘆の水で何回洗われても、やはり色あせることはない。

                     

  740.人の価値は、どの程度の抵抗に遭ったら、落胆を味わうかによって決定される。

                     

  741.人生最大の重荷とは、起こりそうに見えて起こらない物事である。

                     

  742.神が人に重荷を負わせられる時には、それを運んで行けるように、御腕をその人の下に添えて下さる。

                     

  743.崖っ淵に立つ木々は、根を深く下ろしていなければならない。

 

  744.病人の看病で一番大切なのは、魂の看病である。

                     

  746.強い人も弱い人と同じように多くの間違いを犯す。ただその違いは、強い人は間違いを認め、間違いを笑い飛ばし、間違いから学ぶことにある。だから、強くなれるのだ。

                     

  749.神の子にとって死とは何なのか? それは単に、見えない世界の入り口に立って待っている御使いが、地上の魂の衣を脱がせ、王の御前に出て行く準備をしてくれる事である。

                     

  751.敗北とは、より良いものへの第一歩に過ぎない。

                     

  752.失敗とは、再び始めるチャンス。次はもっと機知を働かせることができる。

                     

  753.自分が失敗した時に、成功を収めた人と一緒に喜んであげることができるなら、あなたは成熟したことになる。

                     

  754.やってみて失敗する人の方が、何もせずに成功する人よりはるかに優れている。

                                            

  755.神の御心の内にいるなら失敗はない。神の御心から外れているなら真の成功はない。

                     

  758.運びやすそうに見える重荷は、もうすでに他の人たちが運んでいる。

                     

  759.みんなでするなら、ほとんどどんな重荷でも持ち上がる。

                     

  760.ある人たちは、自分が持っていないものを最大限に利用して、幸福を見つける。

                     

  761.ゲームの仕方で人の性格がいくらかわかる。でも、負け方を見ればその人のすべてがわかる。

                     

  762.神の愛は必ずしも試練を取り去ってはくれないが、その愛は、試練を切り抜けるのを助けてくれる。

                     

  763.キリストなしに「なぎ」の海にいるよりは、キリストと共に嵐の海にいる方がはるかに安全である。                     

 

  765.試練がきつくなると、弱音をはくだけの人もいるが、試練を通して偉人が生まれることもある。

 

  766.天国に至るはしごは十字架だけ。

                     

  769.神の力が背後にあり、神の愛が内にあり、神の腕が支えているなら、前途の日々を十分に生きていける。

                     

  770.キリストが内におられるなら、外のどんな危機にも立ち向かうことができる。

                     

  771.人を押しつぶすのは重荷ではなく、運び方である。

 

  772.ヘンリー・ワード・ビーチャーの大好きな話の一つに、ニューイングランドのある工場で職を申請していた若者についての話しがある。工場長を尋ねて行くと、何の希望もないかのような、憂うつそうな顔をして、神経質そうにイライラしている人がいた。職を申請している若者に、その人はこう言った。「ここで空いている仕事は、副社長の仕事だけだよ。その仕事を引き受ける人は、私の煩いをいっさい背負ってくれなければならない。」

  若者は言った。「それはきつい仕事ですね。で、給料は?」

   「もし君が本当に私のすべての心配事を引き受けてくれるなら、年給1万ドル払おう。」

   「ところで、その1万ドルはどこから来るのですか?」 申請者はいぶかしげに尋ねた。

  すると、工場長の答えはこうだった。「それがね、君の最初の心配事なんだよ。」

                     

  774.野球の選手のようにエラーを毎日報道されたとしたら、と思うと、事態は比較的楽に感じられる。

                     

  775.私が祈るのは、荷を軽くして下さる事ではなく、腰を強くして下さるようにという事です。

 

  776.主からたくさんの懲らしめを受け、利用価値のある人間になるほうが、楽な人生を送って、力のない人間になるよりいい。

                     

  777.自分が始めた仕事が取り上げられて別の人に与えられるのを見ても、なお苦い根をはやすことがないならば、それこそ成熟した証拠である。

                     

  778.自分の方がもっと能力がある仕事に他の人が選ばれるのを見ても、気分を害することがないならば、それこそ成熟した証拠である。

                     

  781.クリスチャンは、生きるために死ぬ。

                        −−D・L・ムーディー

                     

  782.ある農夫が新聞にこう投書した。「私は教会にも行かない。クリスチャンですらない。日曜日に畑を耕すし、種蒔きもする。そのお陰で、大豊作だった! すべてがうまく行っている! ところが、隣りに住むクリスチャンは、トラブルというトラブルをすべてかかえこんでいる。日曜には、畑を耕すことも、働くこともせず、教会に行く。だけど、私よりずっと哀れな状態だ!」 賢明な新聞編集者は特別寄稿欄の端にこう書き込んだ。「神は秋に全部支払うわけではありません!」 つまり、「まあ、待って見ていなさい!」ということである。                     

 

  783.もし初めて何かをして、うまくいかないなら、それは平均的なことである。

                     

  786.中国の万里の長城は、莫大な費用と労力とが注がれた巨大な建造物だ。完成時、それは難攻不落であるかに思われた。しかし、敵はその突破口を切り開いたのである。破壊したり、迂回したりすることによってではなかった。門番たちに賄賂を与えたのである。

                     

  787.チャールズ・スパージョンは死の床に伏していた時に、ある友人にこう証言した。「私の神学体系は四つの言葉に集約される。『イエスは、私の、ために、死んだ。』 もしも私が再び生を受けた場合にこの言葉のみを説くとは思わないが、死ぬ時の拠り所としては、この言葉で十二分である。」

                     

  788.自意識過剰への一番の解決法は、神を意識すること。

                     

  789.

人はあきらめない限り、敗北することはない。

  止まらない限り、

  お払い箱になることもない。

たとえどれだけ失敗が大きくても

  たとえいくたび倒れても

ちりに倒れ伏して 起き上がることを拒むまでは

決して負けではない。

 

たとえ運命にこづかれ 打ちのめされても

  体がガタガタになるまで 打ちたたかれても

ひょっこり体をもたげ 穏やかに

  さらに多くを求める限り 敗北はない。

人は死ぬ時 初めて死者となる。

試みるのをやめない限り、敗北することはない。

                         −−エドガー・ゲスト

                     

  791.

試みがたとえ実を結ばずに終わっても

  誠実にゴールを目指しているならば

穏やかに平地で暮らし

  臆病な人生を無為に過ごすよりはいい。

 

戦いに勇気を奮い 喝采のすべてを

  たとえ逃してしまったとしても

決して大義のために冒険もせず

  自己満足に埋もれているよりはいい。

 

何故なら 試みて失敗する者は

  より良い明日の土台となるかもしれないから。

たとえ勝利の日を見れずとも

  他の人がそこから学ぶのだから。

                        −−エドガー・ゲスト

                     

  792.神があなたを愛しておられる証拠に他ならないのは、あなたにイエス・キリストの十字架を負わせること。

                     

  793.神から捨て去られてしまったように思われる時こそ、私達は自分を捨てて、神にすべてを委ねなければならない。

                     

  794.もし失望、悩み、挫折、失敗が私達の決断に影響を与えたことがあるなら、それを行動に移す際には二重の用心が必要である。もしパウロとシラスとがピリピへの歓待によって、その導きを曲げてしまっていたなら、ヨーロッパはまだ福音を受けていなかったかもしれない。

                     

  796.私達が命と呼ぶもの、それは死への旅である。私達が死と呼ぶもの、それは命への門口である。

                     

  798.ラム夫妻−−16世紀のスコットランド人殉教者。両者ともに当局から死刑を言い渡された。夫は絞首刑、妻はあら布の袋に縛られて池の中に。これは、その別れに際して、妻が夫に言い残した言葉: 「あなた、喜びに満ちた多くの日々を共に過ごせたことを、どうぞ喜んで下さい。そして、私達が死ぬ今日というこの日こそ、生涯の内で最も喜ばしい日だと考えるべきです。今、私達は永遠に喜びを持つようになるからです。だから、あなた、 『さよなら』は言いません。天国ですぐ会えるのですから。」

                     

  799.もしクリスチャンがその計画を変更するようなことがあるなら、それは常に、神が何かもっと良いものを用意しておられるからである。

                     

  806.グランドマザーは、全身麻ひに近い状態で5年近くもの間病床に伏していたが、とうとう神に呼ばわると、その途端に、奇跡的にいやされた! この力強い神のいやしのテスティモニーで多くの魂が勝ち取られ、多くのクリスチャンを霊感して、主への信仰をもっと促したのである。けれども、グランドマザーは、そのテスティモニーを話すたびに、毎回決まって悪魔からの物凄いテストを受けなければならなかった。つまり、ひどい病気になるか、眼鏡を壊してしまうか、倒れたり、怪我をしたりしたのだ。「悪魔は、私の証しを恐れているので、私を阻もうとするのです!」 彼女はよくそう言っていたものだった。

  ある時、グランドマザーが、自分の話す順番を待ちながら腰掛けていると、突然、体が麻ひしていくのを感じた。脚を動かすこともできなければ、ちょっと身を起こすこともできなくなってしまったのだ。「主よ、いったいどうしたのでしょう?」と尋ねると、主は即座に答えて下さった、 「これはむなしい虚偽である!」(詩篇31篇6節、ヨナ書2章8節) 言い換えるなら、それは単なる悪魔の嘘ということである! 悪魔は、実際にはそうではないのに体が麻ひしてしまったとグランドマザーに信じこませようとしていたのだ! そこで、彼女は悪魔を叱責した。そしてちょうどその時に彼女の名が呼ばれ、彼女は椅子から飛び上がるようにして立ち上がり、説教壇に上がって、かつてないほどのパワーをもってテスティモニーを話したのである! その何年か後に彼女はこう言ったことがある。「もし悪魔を信じて、その嘘を受け入れていたなら、おそらく私は今も体が麻ひしていたことでしょう!」−−デービッド・B・バーグ

                     

  809.偽りの宗教による束縛を逃れてきた、ある若いメキシコ人改宗者が、一人の宣教師の話に耳を傾けていました。王権を表す儀式に用いる様々な物が保管されているロンドン塔を訪れた時の話でした。彼女は、英国国王の戴冠式でその冠を飾っていた、かの有名なコーイヌールのダイヤモンドを見たことがあるのです。その王冠はこの上なく美しい宝石で飾られていました! その目もくらまんばかりのまばゆさ、輝き、気高さといったら! 宝石の美しさを描写した後で、こういった宝石がどのようにして磨かれているかが詳しく説明され、それからマラキ3章の言葉が引用されたのでした。この黒い目の、熱心な若者は、この言葉を一言も漏らすまいと、聴き入っていました。そして礼拝の終わりに宣教師のもとに歩み寄って、こう告げたのです。「僕が、そのようにして磨かれることを忍び、たとえ僕が救い主の王冠を飾る一番ちっぽけな宝石であったとしても、それに値するものとなれるように、どうか祈って下さい。僕だって安っぽい冠はかぶりたくありません!」 その数箇月後、彼は殉教死しました。

                     

  810.路面電車の車掌の娘は、困難な方法でレッスンを学ばなければなりませんでした。その娘は歌手になることを夢見ていました。でも、容姿に恵まれず、口が大きく、出っ歯であることをとても気にしていました。最初に人前で歌ったのは、ニュージャージのナイトクラブでした。その時、彼女は出っ歯を隠そうとして、上唇を下にさげようさげようと努め、また「魅力的」に振る舞おうともしました。でも、その結果は? 全くのお笑い草で、彼女はすっかり落ち込んでしまいました。

  ところが、このナイトクラブには一人、彼女の歌に聴き入っていた人がいました。その才能が、この人には見えました。そして無骨に、「さあ、こっちへおいで。私は君の舞台を見ていたが、君が何を隠そうとしていたのかちゃんとわかっている。出っ歯を恥じているんだ!」と言ったのです。彼女は当惑してしまいました。ところがその男性は続けます。「いったい何なんだ。出っ歯を持っていると罪だという法律でもあるのか? 隠そうとする必要はない! 口を大きく開け! それを恥ずかしく思っていない君を、観衆は大好きになるだろう! しかも、」彼は鋭い洞察力をもって言いました。 「君が隠そうとしているその歯が、君に巨万の富をもたらしてくれるようになるかもしれない!」 キャス・デイリーはその助言を受け入れ、自分の歯のことを忘れました。その時以来、彼女はただ観衆のことだけを考えるようになったのです。彼女は口を大きく開き、真の風格と喜びとをもって歌いました。そして、映画・ラジオ界のトップ・スターとなったのです。今では他のタレントがそのまねをしようとしています!

                     

 

  811.ジョージ・バーナード・ショーは、人前でのその巧みな話術をどうやって身につけたのかを問われた時、このように答えました。「ちょうどスケートを学んだのと同じ方法ですよ。ともかく、何が何でも自分をピエロにして、それに慣れるようにしたのです。」 ショーはロンドンでも一番の内気な若者でした。彼はよく、一軒の家のドアがノックできなくて、20分以上も堤防を歩いていたことがよくありました。「臆病さをひどく恥じている人ほど、辛い思いをする人はいないことでしょう。」 彼はそう告白しています。

  そして、ショーはついに、一番手っ取り早く、確実で、最善の、内気さ、臆病、恐れの克服法を思いついたのです。自分の弱点を一番の長所にしようと決心したのでした。ロンドンで大衆討論会というものがあれば、必ず出席しました。また、いつも立ち上がって議論に参加しました。そして、社会主義の大義に身を投じることによって、又、外に出てその大義を弁じる事によって、ジョージ・バーナード・ショーは20世紀前半でも一番の才気縦横たる、自信に満ちた雄弁家の一人となったのです!

                     

  813.たやすい勝利は安っぽい。価値ある勝利とは、困難な闘争を経て手に入れたものである。

 

  814.敗北の中には勝利よりも栄光に満ちたものがある。

                     

  815.わが魂よ、おまえは父より音楽のレッスンを授かっている。目には見えない聖歌隊のために教育されている。交響曲の中には、おまえにしか歌えない部分がある。わが父は、御使いさえ歌うことのできないその部分のために、おまえを訓練しているのだ。悲しみという学校において。父は、夜の間に、あなたの歌を備えられ、谷間において、おまえの声を調律され、雲の中で、おまえの和音に深みを与えられ、雨の中であなたのメロディーに甘みを加え、寒さの中でおまえの表現力を形成される。悲しみという学校を軽視してはいけない。−−ジョージ・マセソン

                     

  816.理想的な環境は完璧な成果を保証するものではない。アダムは、堕落した時、パラダイスにいたことを思い出しなさい。

                     

  817.神は、戦いに出て行こうとしない兵士には、弾薬を与えられない。

                     

  818.もし失敗することによって、人が神の御前に追い込まれるなら、神は人に失敗を許されることもある。

                     

                                         

  823.私は、 「砕けたもの」の持つ、見積もることのできない価値について考えていた。砕かれた壷が豊かな明かりを与えて勝利に至らしめた。(士師記7章9節-21節) 裂かれたパンが飢えた者たちを十分に養った。(マタイによる福音書14章19節-21節) 壊れたつぼが全世界に芳香を与えた。 (マルコによる福音書14章3節、9節) 砕かれた体がメシヤを信じ、受け入れるすべての者に対する救いとなった。 (イザヤ書53章5,6,12節、コリント人への第一の手紙11章24節) だから、その砕かれた方に、私達の破れた計画、企画、また砕けた心を使ってできないことがあるだろうか?

                     

  824.ある牧師が、交通事故で息子を亡くしたばかりの家庭を訪れた。母親は牧師に向かってこうののしった。 「息子が死んだ時、あんたの神はどこにいたのよ?」 牧師は静かにこう答えた。「御自身の御子が死なれた時と同じ場所ですよ。」

                     

  825.ある人々がトラブルに陥るのを主が許されるのは、そうしないと彼らは主のことを考えないからかもしれない。

                     

  826.スコットランドの歴史において、たった一度だけ、あのエジンバラ城が略奪された事がある。その事の次第はこうだった。城には弱い箇所がひとつあったが、そこは歩哨が守っていた。けれども、城の険しい部分は近づきがたく、難攻不落であるかのように思われたため、歩哨は一人もいなかった。そこで、斥候部隊はその歩哨のいない山腹をよじ登り、守備隊に奇襲をかけて、降伏に落とし込んだのであった。‥‥城の強い部分が実は弱い部分となったわけである。

  これは人生においても、しばしば真実である。人が倒れる時にはいつでも、普通、自分が強いと考えているところから倒れるのだ。

                     

  827.私は、自分の障害を神に感謝しています。それによって、自分自身を、自分の仕事を、自分の神を見いだしたからです。   −−ヘレン・ケラー

                     

  830.キリストがわれらと共におられるなら、誰がわれらに敵し得ようか? われらは勝利を堅く信じて戦うことができる。キリストと共に、また、キリストのゆえに、勝利は定まっている。

            −−クレアボークスの聖バーナード