100 神との交わり・祈り

 

  2.中国のある宣教地にいた宣教師達に、英国公使館から、サニアンを立ち去るようにとの命令が発せられた。敵の軍が迫ってくる危険性があったからだ。荷車を送ってもらえるように手筈を整え、全ての者は、翌日には出発できるように準備した。けれども、宣教師達は、自分達の群れを危険の中に置き去りにして自分達だけが安全な場所に行くのは、神に対する恥辱だと考えた。そこで、祈りの集会が催され、その結果、荷車は送り返して、そこに留どまることが決定されたのであった。千人ものつわものからなる強盗共の一団が町の中を往来し、自分達から20キロと離れていない所にいたにも拘わらず、彼らは心の平安を保っていた。その時、物凄い土砂降りがその地域を襲った。それは何年ぶりかの豪雨で、この土砂降りのために強盗共の一団は散らされ、道路も通行できなくなってしまったのだ。それは、小規模ではあるが、センナケリブの軍勢の時に起こったのと同じことである。

 

  3.ある英国兵が、ある晩、近くの森から自分の宿営にこっそりと戻って来るところを捕らえられてしまった。彼は司令官の前に連れ出され、敵と交信を取り合っているという容疑をかけられた。けれども、自分が森に行ったのは、一人で祈るためだったと兵士は主張した。彼の弁明はそれだけだった。

   「お前には、一人だけで何時間も祈るという習慣があるのか?」 司令官は怒鳴った。「はい、司令官!」 「それならば、ひざまずいて、今、祈ってみろ! 今ほど祈りが必要とされる時はなかっただろうから。」司令官は激しい口調で言った。すぐにも処刑されることを予想して、その兵士はひざまずき、祈りながらその心を注ぎ出した。その流暢な祈りはただ聖霊の力によって霊感されたものでしかあり得なかった。  「行ってもよろしい。」兵士が祈り終えた時、司令官は簡単にそう言った。 「お前の話を信じよう。しょっちゅう訓練していなかったなら、実戦でこんなに良くはできなかっただろうから。」

 

  4.聖書とは祈りの書である。記録されている667の祈りの内、答えが記録されているものの数は454ある。

 

  5.ある少年が親友にこう言った。 「憲法に反するかもしれないけれど、僕はいつも試験の前に祈るんだ。」

 

  6.もし信仰をもって祈ったのであれば、疑いを抱きながら生活を送れる人などいない。

 

  7.親友とは、そばにいることによってあなたを暖め、その秘密を打ち明けてくれて、祈る時にあなたのために祈ってくれる人のこと。

 

  9.霊的に高く成長するためには、人はまず、ひざまずくことを学ばなければならない。

 

  10.アレックシス・カレル博士はノーベル生理医学賞を獲得した外科医である。彼はこう書き記している。 「祈りとは、人が起こすことのできる最も強力なエネルギー形態だ。祈りが人間の思考および体に及ぼす影響力は、セクレチン分泌液の影響力と同様に実証することができる。その成果は、順応性や知力の増加、道徳的なスタミナの増加、人間関係の理解の深まりという形で測定することができる。

  祈りは、完全なる人格の形成に絶対欠かすことのできないものである。祈りによってのみ、私達の精神と体と霊とは完璧に組み立てられることができる。それによって、虚弱な人間的要求にその揺るがぬ力が与えられるのである。私達が祈る時、私達はこの宇宙を回転させている無尽蔵の原動力とつながるのだ。」

 

  11. 『祈りの目的』の中で、E・M・バウンズは、ストーンウェール・ジャクソンは祈りの人であったと語っている。 「私にとって、祈ることは自分の思いの中にしっかりと刻み込まれた習慣となってしまっているので、私は、神の祝福を求めずして一杯の水でも口に持って行くことをしないし、手紙に封をする際にも必ず祈りの言葉をその中に忍び込ませるし、手紙を郵便受けから取り出す時にも天国に向けて簡単な思いを送るようにしているし、また一つの授業が終わって、士官候補生達が教室から出て行き、別の士官候補生達がそこに入ってくる時にも、必ずその両方の士官候補生達の為にとりなしの祈りをしてあげている。」

 

  12.一人の将校が、将軍のストーンウェール・ジャクソンに苦情を申し立てたことがあった。兵士たちの中にテントの中で騒いでいる者たちがいると言うのである。将軍は尋ねた。 「彼らはいったい何をしているのか?」  「今は祈っていますが、それまでは歌を歌っていました。」  「それが違反行為だと言うのか?」  「陸軍軍法会議法には異常な騒音を立てる者は罰せられるべきだとあります。」  「キャンプにおいて、祈りが異常な騒音であるなどということが断じてないように。」 将軍ジャクソンはそう答えた。

 

  14.今まで祈り求めていた日々の食物がとうとう与えられた時に、それがケーキではないなどと愚痴を言ってはいけない。

 

  15.天国のことをはるか彼方のものだと言っている人々がいる。しかし事実、天国は、天国に属する者たちの声の届く範囲内に存在するのである。

 

  17.どんな時代であっても、国家にとって最高この上ない友人とは、その子供達に祈ることを教えた母親である。

 

  18.祈りは、祈られない限り、答えられることはない。

 

  19.ある朝早く起きると

その日の仕事にまっしぐら

しなくてはならない事が山ほどあったので

祈る時間なんてなかった!

 

するとトラブル続きで

やることなすこと、大変になるばかり

 「なぜ神は助けてくれないんだ?」 と考えていたら、

神は答えられた。 「尋ねなかったからだよ!」

 

私は神の御前に来るために

自分の鍵を全部出してドアを開けようとした

すると神は優しく穏やかにこうたしなめられた

 「どうしたんだい。ノックを忘れているよ!」

 

喜びと美しさを見いだしたかったのに

その日は憂うつ、つらくて暗い一日だった

それで主にどうしてか尋ねると

主は言われた。 「求めなかったからだよ!」

 

今朝早く起きると

一日の仕事を始める前に、まず時間を取った。

しなくてはならない事が山ほどあるので

祈るために時間を取らなくてはならなかった!

 

  20.昨夜 私は旅をした

                海の彼方の国へ

        船でもなく 飛行機でもなく

                このひざに乗って

 

        大勢の人がそこにいた

                罪の深みに溺れる人が

        でもイエスは告げられた

                その魂を救いに行けと

 

        私は言った 「イエスよ できません

                こんな仕事は私には無理です」

        すると答えがあった 「いや できる

                あなたのひざで旅することによって」

 

         「祈りなさい 必要物は供給しよう

                求めるならば 答えよう

        これらの魂を心に抱け

                遠きにいても 近きにいても」

 

        そこで私はやってみた 

                自分のくつろぎの時間を祈りのために割いて そうすると感じた 主がそばにおられるのを

                ひざまずいて旅している間

 

        祈るにつれて 魂は救われ

                傷ついた体は癒されて

        畑で働く神のしもべたちにも

                新たな力が生まれた

 

        私は言った 「主よ 私に仕事ができました

                私の願いは、御心を果たすこと

        ひざまずいて旅をすることで

                あなたの召しに従うことができるのです

                    −−サンドラ・グッドウィン

 

  21.私達のほとんどは、もし自分たちの祈りがすべて答えられてしまったら、きっと困った羽目に陥るだろう。

 

  24.ネブラスカのある高校にこんな看板があった。 「地震や竜巻きの際には、学校で祈ることを禁じている最高裁の判定は、一時的に保留される。」

 

  25.力のこもった祈りの方が、長ったらしい祈りに勝る。

 

  26.祈りの明確さを、わかりやすく説明するために、トーレイ博士は次のように語っている。 「何年か前、メーン州のある小さな町は、活気がほとんどない状態だった。諸教会がたいした成果を上げていなかったからである。そこで、教会に心から神を敬う何人かの人たちは、互いにこう言い合った。 「さて、私

達は何の学もない平信徒に過ぎないが、この町で何かがなされる必要がある。祈りのチームを結成しよう。私達全員の祈りを一人の人に集中させるのだ。その対象は誰にしようか!」

  彼らが選んだのは、町の中でも一番心のかたくなな、どうしようもない飲んだくれだった。その人に彼らの祈りが集中された。そして、一週間の内にその人は主を受け入れたのであった。そして、その次に心のかたくなな人に彼らの祈りが集中され、彼もまた主を受け入れたのであった。それからもう一人、さらにもう一人と祈りは続けられ、結局一年もしない内に2〜3000人の人たちがキリストに導かれた。そして、その火は周囲の地方へと広まって行った。罪の獄に捕らわれている人たちのための明確な祈りこそ、現在必要とされているものである。

 

  27.ある日の早朝、ニューマン・ホールは、ウェールズのスノーダウンの山頂に、120人の人たちと一緒にいた。一同は、希に見る壮大な朝焼けの光景にすっかり心を奪われていた。それは期待通りの展望であった。朝日がその栄光に満ちた美しさで山頂を染め、湖にキラキラと輝き渡るのを一同が見守っていた時、ホール博士は説教をするように招かれた。けれども、感情にすっかり押し流されてしまって、説教することができなかったため、ホール博士は祈ることで自分の魂を注ぎ出そうと思ったのであった。

  彼が祈ると、人々のほおには涙がつたった。超自然的な静けさが一同をとらえていた。そして一同は、厳粛な畏怖の念に満たされて、静かに山を下り、それぞれの家へと散って行った。後になってこの地域を訪れた時、ニューマン・ホールはある知らせを受け取った。つまりその朝、40人の人が主を受け入れて、その近所の教会に加わったというのである。ホールは言った。 「でも、私は一言も話しませんでした。ただ祈っただけです。」 「ええ、その通りです。でも、もっと素晴らしいことがあります。それは、あなたの言ったことが人々には全然わからなかったということです。英語の話せる者は一人もいなかったのです。彼らはただウェールズ語しか話せなかったのです。」

 

  29.人が行動で表すその祈りは、口で言い表す祈りと全く同じくらい重要である。

 

  30.祈りは、塩のきいたピーナッツを食べるのに似ている。祈れば祈るほど、もっともっとしたくなるからである。

 

  31.間違いの修正のために祈るのはいいことだが、早めに祈るならそんなに多くの間違いを犯さないですむ。

 

  32.神からの指示を求めて頭をたれた後で、私達はしばしば神の御心に抵抗して首を曲げる。

 

  33. 10セントの祈りに1,000ドルの答えを期待するな。

 

  34.正式の議会専属の牧師が決まるまで、国会議員が一人ずつ交代で国会の開始の祈りをしていたが、とうとう正式な牧師が任命された。

  ある日、その牧師の到着が遅れ、開会の祈りをする時間になっても現れなかった。そこで、ある年配の議員が前に進み出て、祈る準備を始めたのだった。

  国会の議長は小づちで机を叩いて、 「一体どんな権利があって、その紳士は祈ろうとしているのかね?」と言った。

  その祈りの志願者は議長にこう答えた。 「議長、どんな罪人も有する権利によってです。」

  その議員は、祈ることを許可されたのだった。

 

  35.日常生活の中で短い祈りを数多くするなら、緊急事態において長い祈りをする必要性が減少される。

 

  36.私達の大多数はあの執事と同じようにこんな祈り方をする。  「主よ、どうかこの私をあなたの御仕事にお使い下さい。特に、顧問としての地位において。」

 

  37.神にとって意味のある祈りをしたいのなら、自分にとって何かの意味のある祈りを祈らなければならない。

 

  38.短い祈りでも恵みの御座に届く−−もし、あまりにもそこから遠く離れて暮らしていないなら。

 

  39.祈りに証明はいらない。ただ実践のみ。

 

  42.膝まずいているなら、つまずくことはない。

 

  43.ハイドンが2年以上もかけて彼の一大オラトリオ (聖たん曲)に取り組んでいた時、友人たちがやって来て、その仕事を早く終わりにするようにしきりに勧めた。けれども、それに対してハイドンはこう答えた。 「急いで事を行うことはできない。私はあらゆる時代のために書いているのだから。」 ハイドンは毎日、一日の始めに、ひざまずいてその作曲における神からの導きを求めて祈ったのである。

 

  44.私達がフランスにいた時、私達は、サラが以前に会い、その時救われた夫婦に会いました。この夫婦は5年間赤ん坊を作ろうと努力してきましたが、成功しませんでした。私達は、主が彼らに赤ん坊を与えて下さるようにと彼らと共に祈りました。二、三日前に彼らからの手紙を受け取りましたが、彼女は妊娠しているそうです。−−マイケルとサラ

 

  45.会衆席にいる人々の祈りは、説教壇にいる説教師に力を与えてくれる。

 

  46.祈る人は、人生の諸問題に直面しても、もっと良く対処することができる。

 

  47.圧倒的な祈りは永続的な力をもたらす。

 

  48.神は、私達の家を訪問されるが、私達はしょっちゅう家を留守にしている。

 

  49.私達の祈りはいったいどのようにして答えられるのだろうか、と疑問に思ったことがきっと誰にもあると思います。でも、その疑問に終始符を打つような出来事があったのです。

  私はある真夜中に突然、目を覚ましました。非常に現実的な夢を見て、その一番恐ろしい部分で目を覚ましたのでした。夢の中で私は車を運転していました。そして子供をはねてしまったのです。そのショックは実に現実的で、本当にいやな気持ちがしたので、私はベッドから出て、ひざまずき、天の父に祈って、決してそのようなことが起こらないようにと願い求めたのでした。すると、まるで重荷が取り去られたかのように、私は再び眠りにつくことができたのです。

  そして、翌日の午後のことでした。私がハンドルを握って、ワース・ストリートを時速40キロほどのスピードで走っていました。すると、全く突然に、どうしてもブレーキを踏まなければ、という気持ちが込み上げてきたのです。何の理由もないのに。だから、とにかく私はブレーキを踏みました。

  でも、あまりにも急にブレーキをかけたので、同乗していた他の四人の人達はそれぞれにダッシュボードや前部座席に頭をぶつけてしまいました。どうしてそんなにも急に車を止めなければならなかったのかと思ったちょうど矢先に、思いも寄らなかった光景を私達は目撃したのでした。駐車されている車の間から、前方の、本来ならば私達が走っていたちょうどその場所に、おむつしかつけていない幼児がヨチヨチと出て来たのです。私が祈ったので、神がその事故を未然にくい止めて下さったのでした!--オービル・ミッチェル

 

  50.祈りの秘訣、それは秘かに祈ること。

 

  51.高名な牧師ローランド・ヒルは、ある晩、豪雨に襲われたため、ある村の宿屋にたどり着き、どうしてもその宿屋で一夜を過ごさなくてはならなくなってしまいました。夜も更けたので、宿屋の主人が言いました、 「どうぞ、もうお休みになって下さい。灯りを全て消してしまわなければなりません。火事が怖いですから。」  「では休むとしよう。だが、家族揃っての祈りに私も招いてもらえると思っていたのだが。」  「それはまことに良いことです。でもこの宿屋ではできません。」  「そうですか! では、私の馬を用意して下さい。家族揃っての祈りがなされていない家で眠るわけにはいきませんから。」

  主人は、客を失ってしまうよりは自分の偏見を捨てた方が良いと考えて、こう言いました。 「祈りをすることには何の異議もありません。でも、私は祈り方を知らないのです。」  「では、この家の召し使いを呼び入れなさい。何とかなるだろう。」 宿屋の主人がそれに従ったので、ものの数分もしない内にびっくりした召し使いたちは集まって、ひざまずいていました。そして主人は祈るようにと告げられました。 「私は生まれてこのかた祈ったことなどないのです。どうやったら良いのかわかりません。」  「神に尋ねて教えていただきなさい。」 ローランド・ヒルは優しく答えました。主人は手を組み合わせると、 「神よ、私達に祈り方を教えて下さい。」と言いました。すると、ローランド・ヒルは喜びに声を踊らせて言いました、 「友よ、それが祈りです。さあ続けて!」  「でも、もうこれ以上は何と言っていいのか。」  「いや、あなたにはできる。神は祈り方を教えて下さったのだ。さあ、そのことを神に感謝しなさい。」  「全能の神よ、私達に祈らせて下さって感謝します。」  「アァメン! アァメン!」 興奮したローランド・ヒルは、その後で自ら祈りを続けたのでした。

  その2年後、ローランド・ヒルがその村に戻って来ると、そこには礼拝堂と学校が建っていました。 「ブラック・リオン」で、あの時、家族揃っての祈りを最初に求めたことの結果として。

 

  52.必死の祈りをした後で、主は、入国管理事務所の係員の心を私達に対して完全に変えて下さいました! 月の最初は、彼らはアンジェラを国外追放にまでしようと望み、私達全員に問題を引き起こしたがっていました。けれども、月の終わりである今は、彼らは私達のことを愛しており、私達のビザ更新スタンプのお金まで払ってくれたのです! TYJ!−−                            アンソニーとジョイ

 

  54.実行に移す祈りは、ズボンのひざよりも靴の底に傷みが生じやすい。

 

  56.もし祈りで掻き回すことを忘れてしまうなら、人生は焦げ付き、固まりの多いものになってしまう。

 

  57.ある忠実な牧師がいた。彼は真夜中に目を覚まして、どうしてもアフリカにいるある宣教師のために祈らなければという圧倒されるような重荷を感じた。そこで、彼は身を起こして、自分の友人の安全のためのとりなしの祈りをしたのである。それと全く時を同じくして、アフリカの奥地では次のようなことが起きていたのだ。その宣教師は、一人の土着民を連れて狩猟に出掛けていた。進んで行くと、雄ライオン2頭と雌ライオン1頭に出会った。宣教師は、一頭は銃で撃ち殺し、もう一頭は傷を負わせた。雌ライオンの方はどうやら逃げ去ってしまったようだった。ところが、実際にはジャングルの中に姿をくらませていただけだったのである。宣教師は進んで行って、その傷を負ったライオンにとどめをさした。しかし、ライフルの引き金を引くやいなや、凶暴な雌ライオンが薮 (やぶ)の中から急に飛び出して来たのである。そして、雌ライオンは宣教師に一撃をくらわせ、地に打ち倒した。そして、あっと言う間に、その歯は宣教師の腕に食らいつき、その鋭い爪は宣教師の肩を掻きむしっていた。宣教師は土着民に銃を撃つように叫んだが、宣教師がライオンの前にいたために発砲できないでいた。そして、パニック状態に陥った土着民はとにかく空に向けてライフルを発射した。すると雌ライオンはばっとその顔を上げた。そして、浅い溝の中に逃げ込んでしまったのであった。そして、また再び宣教師に飛び掛かってその仕事を終えてしまう代わりに、雌ライオンは向きを変えると、ジャングルの中に入って行ってしまったのである。血を流している宣教師はキャンプに連れ戻され、手当を受けた。そして、まさに九死に一生を得た牧師は、6週間後には、その傷も完全に回復したのであった。神はまことにその宣教師のために 「ししの口を封じられた」のである。この素晴らしい奇跡の知らせは自国にいるあの忠実な牧師のもとにも伝えられた。そして、祈った者は、今、その祈りのわけを知ることになった。彼は、友人に忍び寄っていたその危機のことを聞いて知り、あの晩、どうして真夜中に神に起こされて祈ったのかを知ったのだ。その時に奇跡的な救出がなされたことを知ったのである。彼が祈ったが故に、また、信仰によって祈ったがゆえに、素晴らしい答えの中に神の栄光を見ることができたのである。また、私達にもそれは可能である。−−もし、私達もそのようにして祈るならば。

 

  58.ジョンは郵便局の前でバイクを盗まれてしまいました。私達は団結した祈りをしました。そのすぐ後で、誰かがそれに乗っているのを見ました。私達がもう一度祈ると、その泥棒は私達の隣にバイクを駐車させたので、それを取り戻すことができました。これは郵便局からずっと離れた所で、30分後に起こりました。全くの奇跡です! このバイクは、私達がインドに行くための資金を集めるために大切な役割を果たしています!−−ジーン

 

  59.私達の車が盗まれましたが、主がそれを守り、取り戻して下さるように私達は祈りました。そして、10日後に、ケースに入ったギター含めて、車の中にあった物がすべて手をつけられないまま、きちんとした状態で見つかったのです!−−ジョンとルツ

 

  60.クリスチャンの家庭で育ったわけではなく、祈りのことなど何一つ知らず、全くそんなことには無関心の子供が、魚雷の攻撃を受けている船に乗っていた。そして、その船が転覆し、全員が船外に投げ出されしまった。少年12人が一緒に集まって泳いでいると、ぞっとする光景が迫っていた。燃え上がる油が彼らの方に向かって流れてきていたのである。それから逃れることは不可能だった。いったい何ができただろうか? しかし、その時、その少年達の中のただ一人のクリスチャンが大声で祈り始めたのであった。それは、神の憐れみを知る者がその憐れみを求めて絶望的に祈るその祈りだった。 「ああ、神よ、お救いください! 神よ、お救いください! 神よ、僕達をお救いください!」 それを聞いて、私達の愛の神のことなど全く知らない他の11人も口々に呼ばわった。 「お願いです。神様! どうぞ神様!」 すると突然、燃え上がる油が彼らの前方でパッと二つに分かれたのである。慈しみ深い私達の神は、少年達の行く手に一体何を置かれたのであろうか? いかだである! この顛末(てんまつ)を話してくれたその少年は、こう話を結んだ。 「神が祈りを聞かれないなどということを僕らに納得させる事のできる人は誰一人いません。」

 

  61.ある年若き、きゃしゃな、優しそうな女性、彼女は救世軍の幹部だった。だがその彼女が、インドのある村の担当になった。その村はカースト制度に支配されていて、どんな類いの宣教活動もほとんど絶望的なほどに困難なものとされていた。だから、表面上は、何一つ益となるようなことなど成し遂げることができないかのように思われた。けれども白人の隊長は祈りに出て行った。毎朝、まだ人々がぐっすりと眠っている間に、彼女は村を後にしてかなたのジャングルへと出掛けて行くのであった。ただ聖書だけを道連れに。そして、来る朝も来る朝も同じ場所にやって来ては、神の−−つまり、彼女が祈りの中で呼ぶ、そのインドの神の−−御前に倒れ伏して、自分を取り巻く暗黒の中に座している魂のためにとりなしをしていたのである。そしてその祈りが聞き届けられたのであ

る。もっともその答えられ方は彼女が求めた通りでもなければ、期待していた通りでもなかったが。彼女は死んで、自分では決してその成果を見ることはなかった。彼女の死後、だいぶたってから、聡明そうな目をした、堂々たる趣の、背丈のある、力強い、ハンサムなヒンズー教徒が、かの忠実な隊長が生前住んでいた小さな土でできた小屋に立ち寄って、その後任者に、前任の隊長の祈りの話を聞かせたのである。その祈りは誰一人知る人などいなかったはずなのに。そのヒンズー教徒は、ジャングルに行く彼女の後を追って行った。そして、生い茂った草の間からのぞき見ていると、彼女が身を投げ出して、地に顔を伏せ、インド−−つまり、彼の祖国であるインド−−の神に、涙を流しながら呼ばわって、その村人の−−すなわち、彼女が自分の民と言ったその村人の−−ために、とりなしをしていたのである。ヒンズー教徒は言った。 「その時、その女性の神が真の神であると私は信じたのです。そして、その神を礼拝しようと決意したのです。」そして、これが始まりで、その村において、魂獲得の大いなる波が起こったのである。

 

  62.ある日、私が食事をしていると、激しい嵐が私達の住んでいる地域を襲い、強い風のために家は揺れていました。私は恐れ、大声で 「主よ、この嵐を止めて下さい!」 と叫びました。すると10秒後には風は完全にやんだのです! 私は直ちに主に感謝しました!−−アルバート

 

  63.祈りに対する答えの一部とは、しばしばそれを待つことにある。

 

  64.ひざまずいて、一時間心配しながら時を過ごすのは祈りではない。時には、ある問題を祈りの内に神に託してしまったなら、祈ることをやめ、信頼し、解決策に至るために必要な仕事を行うこと、それこそが私達の任務であることもある。

 

  65.福音伝道者イヤール氏の集会で、ある有力な弁護士が立ち上がり、こう言った。 「私はよく祈りの力ということを聞いてきた。しかしながら、そんなたわごとはこれっぽっちも信じていない。もし、この私をテストにかけたいなら、やってみたまえ。」 福音伝道者は彼に前に出て来るようにと招いた。だが彼は、 「いや、そんなことはしたくない。ただ、 『祈りの力』を持っているなら、それを試してみよ、と言っているのだ。」と答えた。その集会を閉じるにあたって、イヤール氏は出席者全員に、弁護士の指定した時刻に彼のために祈ることを求め、弁護士に何が起こるかに注目するようにと告げたのである。三日目には、弁護士は涙を流しながら神に憐れみを求めていた。そして、法律の本をすべて売り払って、キリストのしもべとなったのである。

 

  66.土着民たちが、土の小屋の中に大勢、ほとんど何のプライバシーもなく暮らしているアフリカの幾つかの地方では、クリスチャンはそれぞれ、森の中の木を一本選んで、そこに祈りに行っては神と二人だけになる。もし誰かが忠実ではなくなって、その祈りの場所へ出かけていくのを怠慢にしていると、他の人がこう呼びかける。 「兄弟よ、あなたの道には雑草が生い茂っていますよ。」

 

  67.J・H・ジョーウェット博士は、自分の教会のメンバーになるための申請を出したある女中のことをよく話したものだった。主のためにあなたは何をしているのかと尋ねられた彼女は、自分には休み時間がほとんどないし、教会での礼拝や集会にもなかなか出られないけれども、いつも寝る時には寝室に新聞を持って行くと言った。ジョーエット博士は、それが何の益になるのかと尋ねた。 「それはですね、私はいつも出生欄と結婚欄と死亡欄とを見るのです。出生欄を見る時には、この赤ちゃんたちが早く救い主のもとに導かれ、その両親に対する祝福となるようにと、また結婚欄を見る時には、これらの花嫁花婿たちがとても幸せになり、常に互いに対して誠実であれるようにと、また、死亡欄を見る時には、その遺族の方々がその悲しみを、永続的な慰めを与えて下さる唯一の方に差し出すようにと祈るのです。」

 

  68.期末試験がある限り、学校内には少なくとも秘かな祈りが存在するだろう。

 

  69.祈りの内にひざまずいているなら、煩いという重荷で私達の背が曲がることはない。

 

  70.祈りは弱き者に力を、小心の者に信仰を、恐れる者に勇気を与える。

 

  71.もし私達が期待をこめて生活し、断固とした信仰を持ち、積極的に祈るなら、素晴らしいことが起こる。

 

  72.サタンは祈りを妨げるが、祈りもサタンを妨げる。

 

  73.ある中国人のクリスチャンが、家の火災よけの手段として偶像に捧げ物をするために使うお金を寄付するよう求められました。彼は、自分は生ける神に信頼しており、偶像は火災よけにはならないからという理由で断りました。偶像崇拝の儀式が終わった時に、彼の家のある通りで火災が発生し、120軒以上の家が焼失しました。炎が彼の家にどんどん近づいて行った時、人々は彼に家財道具を家から持ち出すよう説得しようとしましたが、彼はそれを拒否して、みんなの見ている前で、神に、神こそ万軍の主であって、大いなる災害から自分を救い出す為には、必要なら、天使の軍勢を送ることもできるという事を人々に示して下さいと祈りました。どんどん炎は近づいて来て、彼の家と炎の間には一軒の家があるだけでした。すると突然風向きが変わり、彼の家は無事だったのです。

 

  74.昔、死の床に伏していた片輪の女性がいた。彼女は自らを神に捧げていたが、さまよえる者たちの間で主の為に精力的に働くことができないことで意気消沈していた。見舞いに来た牧師にその心の内を告げると、その牧師は、病床にいながらでも熱心に祈ることはできるという助言を授けた。牧師はそこを立ち去ると、その事は忘れてしまっていた。やがて、村全体に宗教的な関心が高まり、教会は夜毎に人で一杯になった。片輪の女性は、信仰復興が起こっていることを耳にすると、誰が救われているのかを興味深げに尋ねるのだった。その二、三週間後、彼女は死んだ。そして、彼女の枕の下にあった何枚もの紙の中から、小さな紙が見つかった。その紙には56人の人の名前が書かれていたのだが、その人達が一人残らず、その信仰復興において救われていたのである。それぞれの名前の脇には小さな十字架が書き込まれていた。その哀れな片輪の聖徒は、改宗者の名が伝えられる度に、その名前の脇に十字架の印をつけていったのである。

 

  75.1912年4月のある日曜の夜、アメリカのある女性は、とても疲れていたのにどうしても眠れないでいた。何かの恐れが心に重くのしかかっていたのだ。とうとう彼女は祈りたいという重荷を抱いた。そして、心から熱心に、その時刻に大西洋の真ん中で、タイタニック号の乗客として帰途についていた夫のために祈ったのである。何時間経過しても、安心感が全くなく、彼女はただ苦悶しながら、ただひたすら祈り続けた。そして、大いなる平安につつまれて眠りにつけたのは、明け方の5時になってからのことだった。一方、夫のグレーシー大佐の方は、氷山によってその船体を引き裂かれた豪華客船から、死に物狂いで救命ボートに乗ろうとしていた、死に運命づけられていた大勢の人々の中に混じっていた。彼はもう自分が救われるという望みは断念し、女子供を助けることに最善を尽くしていた。ただ、妻には最後のメッセージを届けたいという一心で、心の底から、 「愛しの妻よ、さようなら。」と叫んだのである。その時、船全体が沈み、彼は大きな渦巻きの中に吸い込まれて行った。彼は本能的にその凍りつくような水中で泳ぎ、心では、 「さようなら、愛する妻よ、また会う時まで。」と叫ぶのだった。すると突然、彼は水面に浮上していた。すぐ近くには逆さまにひっくり返った救命ボートが浮いていた。そこで、他の数人の人たちと一緒に彼は救命ボートに乗り込んで、結局、別の救命ボートによって救助されたのである。その時刻は明け方の5時、祈る妻に平安が臨んだちょうどその時刻だった! とりなしの祈りとは、まさにこの事である! ノーという答えを拒絶し、天国の胸壁にまで突進して行って、地獄のあらゆる勢力、さらには死そのものにさえ、混乱をもたらし、それらを打ち破るような祈りである!

 

  76.私の発見は全て祈りに対する答えである。

  アイザック・ニュートン

 

  77.小さすぎるからという理由で神の御前に携えて行くことができないようなものは何一つないと信じるべきである。病気で医者に行ったのに、肝心の医者に症状を事細かに説明しない人を、私達はどう思うだろうか?

 

  78.矢を放つなら、その落ちる場所を見る。船出があれば、その帰港を期待する。種を蒔けば収穫を待ち望む。それと同様に、神のふところの中に祈りを蒔くなら、その答えを待ち望まないだろうか?

 

  79.作家のF・W・ボアハムは、重病にかかって床に伏していたスコットランドの老人についてのこんな話をしている。ある時、その老人の牧師が見舞いにやって来た。牧師がベッドの脇の椅子に腰掛けると、ベッドの向こう側にはもう一つの椅子があって、あたかも別の見舞い客が来ていて、ちょうど立ち去ったばかりのような感じで置かれていた。牧師は言った、 「ドナルドさん、今日は私が初めての見舞い客ではなかったようですね。」 老人が驚いたような顔つきで見あげたので、牧師はその椅子を指さした。 「ああ、その椅子のことですか。それにはこんなわけがあるんです。何年も前のことですが、私はどうしても祈ることができませんでした。ひざまずいていても、ひどい疲れのせいですぐに眠ってしまうのです。また、たとえ目は覚めていたとしても、色々違うことを考えてばかりいました。ある日、私はその事をひどく心配して、牧師に相談しました。そうしたら、ひざまずく必要などないと言われたのです。 『ただ、腰掛けるようにしなさい。そして、椅子をもう一つ反対側に置いて、そこにイエスが座っていると想像し、ちょうど友人と話すような感じでイエスに話しかけたらいいのです』と。そんなわけで、その時以来、私はずっとそうしているのです。これで、その椅子がどうしてそんな風に置かれているか、おわかりになるでしょう。」

  一週間後、そのスコットランド人の老人の娘が牧師の家まで車で出向き、ドアをノックした。書斎に通された娘は、牧師が入って来るのを見ると、どうしても自分を押さえることができず、すすり泣きながらこう言った。 「父が、昨晩、他界したのです。こんなに早く死んでしまうなんて思ってもいませんでした。父はとても気持ち良さそうに眠っていたので、私、1、2時間ほど横になりに行ったのです。ところが、戻ってみると、もう死んでいたのです。最後に私が父を見たその時から、体は全く動いていませんでしたが、父は、片方の手を人の座っていない椅子に置いていたのです。どうしてなのかわかりますか?」牧師は答えた。 「ええ、わかります。わかりますとも。」

 

  80.祈り深い態度でいて、しかも同時に悲観的な態度を取ることは不可能である。

 

  81.祈りのない魂は、空気のない肺のようだ。

 

  82.全ての説教師の祈り方に対する提案。 「主よ、私の心を価値あるもので満たし、十分にしゃべったならば、そっとひじで突いて下さい。」

 

  83.祈るほどのことでもない問題は、心配するほどのことでもない。

 

  84.私達の祈りの中で、状況を変えて下さいと祈る事はしょっちゅうあるが、性格を変えて下さいと祈ることが滅多にないというのは、おかしなものだ。

 

  85.有名な英国人福音伝道者、ジョージ・ホワイトフィールドは言った、 「おお主よ、私に魂を与えたまえ。さもなければ私の魂を取り去りたまえ!」

  宣教師のヘンリー・マーティンもインドのサンゴ礁にひざまずいて、こう叫んだ、 「さあ、私を今ここで神のために燃え尽きさせたまえ!」

   「祈りのハイド」と呼ばれたインドのある宣教師も言った、 「父よ、これらの魂を私に与えたまえ。そうして下さらないなら、私は死にます。」

 

  86.神の為に多くの事を成し遂げてきた人は、祈りの人であった。ジョン・ウェズレーは毎日少なくとも2時間を祈りに費やすことを習慣としていた。サムエル・ルサフォードは、毎朝3時に起きて、神の御前にかしずいた。ジョン・フレッチャーはその祈りの吐息によって彼の寝室の壁にしみをつけたと言われている。偉大な宣教師は誰も祈りの人だった。29歳の若さで死んだデービッド・ブレナードや、31歳の若さで死んだヘンリー・マーティンの事を考えてみなさい。彼らの名は、宣教師の中でもひときわ明るい星として輝いている。これらの若者は、彼らの世代に強烈な影響を及ぼしただけでなく、それに続くどの世代にも同じ影響を及ぼしてきた。その影響力は彼らの実際の働きの故ではない。その働きは、短期間で終わりを告げた。その影響力は、その祈りの生活と、その結果として形成された聖人にふさわしい人格の故なのである。

 

  87.アメリカから送り出された中で、おそらくは最も偉大な宣教師だったと思われるアドニラム・ジュドソンは、祈りを大いに力説していた。彼の言葉をここに引用する。 「祈りに関しては意志を堅く持ちなさい。それを維持する為にはいかなる犠牲をも忍びなさい。時が短いこと、また仕事や友人が、あなたとあなたの神との間に入り込むのを許すべきではない事を、よく心していなさい。」 彼は、神の栄光の為に偉大なるビルマ帝国に大きな影響を及ぼした人だった。

 

  90.説教は、祈りづけにされるまでは、決して説かれるべきではない。

 

  91.現代人の問題の大半は、暇がありあまるほどあるのに、ひざまずいて過ごす時間を十分にとっていないことに起因している。

 

  92.人前で祈りを導く時には、人々に聞こえる程度に大きな声で、また、神に聞いていただけるように誠意をこめて。

 

  93.祈った後は、それを実現に至らせるために何かをすべきである。

 

  94.ウォルター・ラレイ卿が一度、女王にある要請をしたところ、女王はいらだたしそうにこう答えた。 「ラレイ、そなたはいつになったらその物乞いをやめるのですか?」 それに対してウォルター卿は言った。 「女王陛下が与えるのをやめられる時です。」こうして、彼の要請は聞き入れられた。しかし、恵みに満ち満ちた神は、私達が求めても決していらだつことはなさらないし、私達が神のところに来たことで叱責されることは決してない。

 

  95.教会に行動させる一番手っ取り早い方法は、まずひざまずかせることである。

 

  96.夫が海外に駐在していたある晩のこと、私はどうしても祈らなければという思いに駆られて目を覚ましました。心は乱れ、騒いでいました。夫が重大な危険にさらされている、何かが私にそう告げるのです。そこで私は夜を徹して、私の愛する夫のために神にとりなしをしたのでした。

  翌日、ラジオで 「ベルギーのバルジの戦い」のニュースが報じられた時、私は、自分の不安な気持ちがこのことと関連していることを何となく察したのでした。私は昨夜の日時を記録して、夫が生きて戻って来た場合に備えて、その日時を照合できるようにしておこうと決心しました。

  それから一年後、夫が戻って来た時に、私が最初に尋ねたのは、私が祈ったあの夜に夫の方では何が起こっていたのかということでした。私達は時間帯のことまで考慮に入れました。そして夫の日記を調べてみると、私が祈っていたちょうどその時に、夫の方では、夫の属していた大隊がドイツ軍に包囲されていたことを知ったのです。その戦いによって夫の戦友の多くは無残にも殺されてしまい、悲惨な運命に遭いましたが、神は彼を生きながらえさせて下さったのです。

 

  97.FBIの局長、J・エドガー・フーバーはこう語っている。 「一国全体が祈っている姿を見ることの方が、原子爆弾の爆発よりも畏敬の念を起こさせるものだ。祈りの力の方が、人造の、あるいは人間によってコントロールされた力のいかなる組み合わせにも勝って大いなるものである。祈りとは、無尽蔵の源を開発する最高の手段だからである。祈りによって神の憐れみと力を刺激することは、悩み、無力な、地に住む人々に、平和と安全とを保証する有効な手段となる。」

 

  99.私達の祈りと神の憐れみとは、井戸の二つのバケツのようなもの。一つが上に上がれば、もう一つが下に下がる。

 

  100.神が、私達が求めるものなら何でも与えると誓約なさっているとしたら、私は二度と祈ることをしないであろう。なぜなら、自分に、神に何かを求めるだけの知恵があるという自信がないからである。

 

  101.祈りとは、神が何かをしないよう神を説き伏せようとすることではなく、むしろ、何かのことで神と話し合いをすることである。

 

  102.この世の生み出した中でも最も偉大な科学者の一人が、神への信仰をこのように証言している。 「望遠鏡を使えば、この大宇宙の何万何億キロも遠くを見ることができるが、望遠鏡から離れて自室に行き、戸を閉ざして、熱心に祈るなら、望遠鏡など、地上の物質的な媒介物の助けを借りるよりも、天をもっと広く見ることができるし、神にずっと近くなることができる。」      アイザック・ニュートン

 

  103.ビリー・サンデーは、ある牧師が家庭訪問をしていた時のことをこう話している。その牧師者がある家にやって来ると、子供がドアを開けたので、                                              

 「お母さんはいますか」と尋ねた。ところがその子供はこう答えた。 「今、お母さんには会ないです。9時から10時までは祈りの時間だから。」 牧師はその母親に会うのに40分待った。そして、祈りの部屋から出てきた母親を見ると、その顔は栄光の輝きに満ちていた。牧師は、その家庭がどうしてそんなにも明るいのか、また、どうしてその二人の息子が聖職についていて、また娘も宣教師をしているのか、その理由を悟ったのである。 「地獄がどんなに躍起になっても、祈っている母親から息子や娘を引き裂くことはできない。」 ビリー・サンデーのコメントである。

 

  104.17人の子供を持つスザンナ・ウェズレーは、毎日一時間、自分の部屋でただ神と二人きりになって、子供たちのために祈ることに費やした。そして、その二人の息子は、神のもとに、英国に信仰復興をもたらした。ちなみに、フランスは、それと時を同じくして、恐ろしい流血革命に巻き込まれていた。

 

  105.三人の子供を持つある母親が二、三日家を留守にすることになった。子供たちを集めると、母親は自分が家を留守にすること、また、戻って来るまでの振る舞いや祈りのことを、子供たちに話して聞かせた。それから、子供たちと一緒に、祈ることによって心を注ぎ出したのである。皆が頭を上げると、どの顔も光輝いていた。一瞬の静けさを破って、二歳の男の子が頭を母親の頬に押し当ててこう言った。 「もっと。」 親の愛と手本が刺激となって、子供たちがもっと多くの祈りを求めるようになるなら、その家庭の幸せは保証されている。

 

  106.戦争が勃発して夫が徴集された時、私は5人の子供と後に残されました。一番幼い子供は11ケ月でした。二年後、夫は戦死しました。そして、その時18歳だった長男も軍隊に加わらなければならなくなったのです。息子の安全を私は昼も夜も祈りました。最初の休暇で戻って来るや、息子はこんなことを言いました。 「お母さんは僕の為に祈ってくれてたんだね。」  「ええ、昼も夜も祈っていましたよ。」私は答えました。すると息子はある出来事の事を話してくれたのです。 「僕達が6人で塹壕の中にいた時だった。砲弾のヒューーッという音がして、突然、塹壕の中に砲弾が落下したんだ。ところが、その砲弾は泥の中に埋もれただけで爆発しなかったんだ。で、緊張の沈黙を破って、青年兵の一人がこう言ったんだ。  『僕らのお母さんたちが祈ってくれていたからだ。』」

 

  107.人間の最も熱烈な祈りは、膝まずいている時にではなく、仰向けに倒れている時になされる。

 

  108.好天の時に祈らない者は、曇天の時にどうやって祈ったらいいかわからないだろう。

 

  109.トラブルにあわないように、という祈りの方が、トラブルから救い出して下さい、という祈りよりも、答えるのがずっと簡単である。

 

  110.私は祈りの霊の中にあって生活する。私は、歩き回りながら祈るし、又、伏している時も起き上がる時も祈る。そして、答えはいつもやって来る。                          ジョージ・ミューラー

 

  111.ある若者が外国の宣教の地に召された。その若者にはまだ、説教をする習慣が身についていなかったが、一つのことだけは知っていた。すなわち、祈って答えを得る方法である。ある日、若者は友人の所へ行ってこう言った。 「宣教の地で、神がいったいどのようにして僕のことを用いて下さるのかわからない。僕にはこれといった特別な才能が何もないのだから。」 友人は言った。 「兄弟よ、神が宣教の地にほしいのは、祈ることのできる人なんだ。今、説教者は大勢いるが、祈れる人は数えるほどしかいないから。」

 

  112.私達は祈って、信じて、受け取ることもできるし、祈って、疑って、受け取ることなしに済ませることもできる。

 

  113.あなたは王に近づこうとしている、

        だから大いなるものを願い求めよ。

         王の恵みと力は豊かなので、

        願い求めすぎることはない。

 

  114.ある牧師が道路工事の現場で働く人たちを眺めていた。すると、道路の穴に埋めるのに、ある年配の人が、ひざまずいて石を砕いているそのやり方がとりわけ関心を引いた。しかも、その年配の人は、立ちながら働いている人たちよりももっと多くの仕事をこなしていたのである。そこでその牧師は、自分のよく知っているそのひざまずいて働いている年配の人にこう言った。 「ジョン、ちょうど君がその石を砕くような感じで、私も私の説教を聞く人たちの石のような心を砕くことができたらいいんだが!」 すると、目に輝きをたたえて、ジョンは答えた。 「牧師さん、膝まずいて働くなら、そうすることができますよ!」

 

  116.アフリカの掘っ立て小屋の中で、スリルに満ちた出来事があった。一人の宣教師が突然、目を覚まし、何か危険が迫っているのを感じた。恐れが、邪悪な支配力を有しているかのように、彼女を捕らえた。窓からは月光が差し込んでいたが、気配とは裏腹                                             

に邪悪なものは何も目に入らなかった。けれども、まだ大きな危険が差し迫っているのを感じたので、夫を起こして、二人は小声で話し合った。そして、ベッドの脇に目を向けてみると、何と、身の毛もよだつような生き物がいたのだった。それは、頭をもたげ、今にも、その猛毒をもって二人に襲いかかろうとしていた、巨大なコブラであった。夫は素早くライフルをつかむと、コブラの頭を撃ち抜いた。

  この話は、これで終わりではない。ある日、その二人の宣教師たちの友人が、カナダの町の自宅の床を掃除していた時、突然、この宣教師たちのために祈らなければという気持ちに襲われた。 「二人はたった今、大きな危険にさらされている」  彼女はそう独り言を言った。そして、二人のために祈ってあげると、心が神の平安に満たされたので、その時、かなたの友人たちのために、神が物事を解決して下さったということを知った。後に、宣教師たちから、あの恐ろしい夜の体験を聞かされた時、彼女がその二つの体験の日付と時間とを比べ合わせてみると、宣教師たちの危機と、二人のために祈らなくてはと感じた時の時間が、ピッタリと分単位で一致していたのである!

   「祈りを通して成し遂げられることを、この世は決して夢に描くこともできない!」

 

  117.わが国にとってより大きな害となることは、学校で祈りが禁じられることよりも、家庭での祈りが忘れられることである。

 

  118.祈りが答えてもらえないということよりは、祈りがなされていないということに、私達の悲劇がある。

 

  119.私達は、自分達の祈りに関して、生活の他の分野に関するのと同じくらいに熱心だろうか?

 

  120.神の目を覚ます祈りというものは、私達の目も覚ますほどのものでなくてはならない。

 

  121.祈りとは私達の使用する銃、熱意はそれを発砲する際の火、そして信仰は恵みの御座を撃ち貫くその銃弾である。

 

  122.英雄的なゴードン将軍がスーダンに行った際、私に宛てて別れのメッセージをカードに書いてくれたが、そのメッセージには、彼の自宅で催されたある祈りの集会のことが書いてあった。 「私は、スーダンのすべての財宝にも勝って、あの小さな祈りのサークルを尊ぶ。」

 

  123.ジョージ・グラブ師は、その著書 『神が

なされたこと』の中に、次のような出来事を記している。ある伝道活動で、ある晩いつもより早めにテントに入ってみると、黒人のテントの案内係が列になった座席を足で踏み付けながら、行ったり来たりしていた。「何をしているのですか?」 グラブ師は尋ねた。

  すると彼はこう言ったのだ。 「今夜、ここの席に座るようになるすべての人が、イエスの者になることを要求しているのです。神は、 『あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、あなたがたに与えるであろう』と言っておられるので、これらの座席の上を歩いて、神にそれを要求しているのです。」 (ヨシュア1:3)

 

  124.懐疑論者である弁舌家ブラッドラフが講義をする段取りがなされた。彼は力強い弁舌家なので、町の信者たちの小さなグループは、この彼の来訪がその地域の若者の魂に大きな害をもたらすことを懸念した。彼らは共に協議して、その集会を妨げて下さるよう神に願い求めた。しかしながら、その夜がやって来て、ブラッドラフは演壇に上り、満員の聴衆の前に姿を現した。誠実な者たちの祈りは答えられないままに終わってしまったのだろうか? 司会が紹介の辞を述べた後で、この不信者は前に進み出て、演説を始めようとした。 「皆さん、」彼はそう言うと、手を額のところに持っていった。そして二度目に同じことを繰り返し、また三度目にも同じことをした。そして、司会の方を向くと、こう言ったのだ。 「何かわからないのですが、頭の中が曇ってしまって、続けることができません。聴衆を失望させてしまって、すみませんでした。」 彼はそう言うと席に腰を下ろしてしまったのである。司会は謝罪し、聴衆は解散した。そして、ブラッドラフはもう二度とその場所へは戻って来なかった。

 

  125.祈る時には、心がこもっていて言葉にならない方が、心のこもっていない流暢な言葉よりもいい。

 

  126.利己的に祈る人は、聖書にのっとって祈ることはできない。

 

  127.ちょうど弁護士を扱うように神を扱う人々がいる。ただ、トラブルが起こった時だけ神のところに行くのである。

 

  128.朝、神のもとから逃げ出す者は、その後の一日中ほとんど神を見つけることはない。

 

  129.人生の道程が険しくすべりやすい時、祈りを行動に移すなら、摩擦と牽引力とを与えてくれる。

 

  131.グッドリッチ医師は、中国の義和団の乱が起こっていた時、北京の壁で見張りをしていました。すると敵が攻めて来て、もう壁を乗り越えるところでした。ところが突然、敵の攻撃隊がくるりと背中を向けて、大混乱の内に逃げ始めたのです。逃げていた何人かは捕まり、どうして逃げたのかと聞かれるとこう答えました。 「突然、壁に白い天使がいっぱい現れたので、 『神々が、外国人のために戦おうと降りて来たんだ。もう俺達の負けだ。』 と叫んだんだ。」

 

  132.山中に迷子になっていて、2日後に捜索隊に発見された5歳の子供が、 「怖かったかい?」と尋ねられて、こう答えた。

   「うん、怖かった。でも、僕、祈ったんだ。そしたら、神様は、よく面倒を見てくれたんです。」

 

  133.レイモンド少年が喜びに満ちて日曜学校から帰宅した。そして戸を開けるなり、 「お母さん、今日ね、校長先生が祈りの中で、僕のことについて、とても良いことを言ってくれたんだ。」と興奮気味に言うのだった。

   「それはよかったわね。で、何ておっしゃったの?」

   「校長先生はね、主よ、食物とレイモンド (訳注:レイメント 『衣服』のように聞こえる)を感謝します、って言ったんだ。」

 

  134.最も偉大なる人も、キリストの御前に来た時は、物乞いをする人にならなければならない。

 

  135.神をあなたの顧問としなさい。天国は地獄を見渡している。いつでも神には、地獄で企てられているどんな陰謀をもあなたに告げることができる。

 

  136.祈りは迅速なる使者である。瞬(またた)く間に天国まで行って、そこから答えを持ち帰ることができる。

 

  137.愛する人と、人前でしか会えないとしたら、それで満足できるだろうか?

 

  138.祈りの主要目的は、答えの中で神に栄光が帰されることにある。

 

  139.祈りとは、ただ私達が神に望んでいることだけではなく、神が私達に望んでおられることを求めることでもある。

 

  141.あなたの心の痛みを主に打ち明け

        その孤独な気持ちも主に伝え

        果たせずに終わった夢も聞いていただきなさい。

        どうしていいのかわからないなら

        力ある聖なる方の背に

        あなたのすべての重荷を託し

        自分の荷のことなど忘れてしまい

        そしてかわりに歌を口づさみなさい

 

  142.祈りで組み打ちするならどんなことでもなせる。

       最大の苦境に安堵をもたらすことも

        祈るなら、

        鉄格子や真ちゅうの扉が立ちはだかっても

        そこに道を通すことができる。

 

  144.私達がデボーションの時間になっても寝ている時に、揺り篭をゆらしているのはサタンである。

 

  145.人々の中には働きでしか成し遂げられない物事のために祈り、祈りでしか成し遂げられない物事のために働く者が大勢いる。

 

  146.愛のない祈りには吸引力はない。そんな祈りでは、祝福を地上まで引き降ろすことはできない。

 

  147.あなたの祈りから嘆きを引っ張り出して、賛美の叫びを押し込みなさい。

 

  148.罪に対抗して祈った後で、祈りに対抗して罪を犯すのは愚かなことだ。

 

  149.祈りなさい。その後で、その祈りに答え始めなさい。

 

  150.主よ、私を解放して下さい・・・

        未来に対する恐れから

        明日を思い煩うことから

        誰かに対して苦い根を生やすことから

        危険に直面した際に臆病風に吹かれることから

        絶好機にあって失敗してしまうことから

        仕事に対する怠慢から

 

  151.主よ、私を

                あなたの平和の使いとして下さい。

        憎しみのあるところに・・・

               愛を蒔かせたまえ

        傷のあるところに・・・

                許しを蒔かせたまえ

        疑いのあるところに・・・

                信仰を蒔かせたまえ

        絶望のあるところに・・・

               希望を蒔かせたまえ

        暗闇のあるところに・・・

                光を蒔かせたまえ

        悲しみのあるところに・・・

                喜びを蒔かせたまえ

 

        ああ、主よ、私は慰められるよりも

                むしろ、慰めたいのです

        理解されるよりも

                むしろ、理解したいのです

        愛されるよりも

                むしろ、愛したいのです

        それは、与えることによって、私達は与えられ、

        許すことによって、許され、

        死ぬことによって、

        永遠の命に生まれ変わるからです。

             アシジの聖フランシス

 

  152.祈りとは実に単純なもの

        それはまるで静かに戸を開いて

        神の御前にそっと忍び込み、

        その静けさの中で

        御声に耳を傾け、

        願い事を申し上げるか、

        あるいは、ただ聞くことに専心すること

        そのいずれであっても問題はない

        祈りとはただ

        神の御前に

        いるということ!

 

  153.ぬかるみを愚痴るのなら、どうか雨のために祈らないでほしい。

 

  154.人への愛を起こす最善の方法とは、その人のために祈ってあげることである。

 

  155.祈りとは私達にできる最小限のことではない。それは私達にできる最大のことである。

 

  156.どんな仕事であれ、祈りなしにそれを企てることは、豆鉄砲で宇宙観測機を打ち上げようとするのと同じくらい無益なことである。

 

  157.私達には、祈りが最後の手段ではなくて、最初の手段であるようなクリスチャンがもっと必要である。

 

  159.祈る時には、あなたのアンテナを立てなくてはならない。あなたの霊はあなたのアンテナだ。なぜなら、それは霊的に敏感だからである。あなたが祈っている時には、あなたの霊は主を求めている。ある意味では、あなたの霊が出てきて、上に延び、主に接触しようとするのだ。あなたが主のことについて考え始め、霊的に敏感になるやいなや、あなたの霊のアンテナは上に延びる! そして、あなたが霊の内に感じる印象や衝撃を受け取るのである。神は、そのようにルールを作られた。そのようにして、あなたはそのルールに従わなければならないのである! あなたは、一人で静かにしているか、最も霊的に敏感な時か、眠っている時に、霊の内にそのような事を受け取る。あなたのアンテナは、その時少し高く延び、もっと良い受信状態になるようだ。−−ダッド

 

  160.利己主義は、祈りの回路をショートさせる。

 

  161.飛行機がまるでたいまつのように燃え上がった。

  これは、そのパイロットの話である。 「意識はまだはっきりしていました。そこで操縦席の脇の小さな窓から脱出しようとしたのです。私の背中と脚とをなめるようにして炎が燃えていました。窓から体半分が出たのですが、パラシュートが引っ掛かってどうしても抜け出せなかったので、もう一度火の中に逆戻りして、パラシュートをはずそうとしました。でも、それもできません。指が麻ひしてしまっていたからです。記憶に残っている内で私が最後にしたことは、 『神よ、どうか私を助けて下さい!』と叫ぶことでした。そして、次の瞬間には、私の体はもう地面に横たえられており、医者が身をかがめて私を覗きこんでいたのでした。いったいどうやって私が機体から抜け出したのかは、誰にもわかりません。」

  パイロットはちょっとためらっていましたが、それからこう付け加えました。 「私の理論は、無論、主が素早く引っ張り出して下さったというものです。」

 

  162.祈る気がしない時こそ、一番祈る必要のある時である! どんなことに対しても、物憂げな気分を克服する唯一の方法は、その任務の中に私達自身をもっと注ぎ込むことであって、その中から抜け出ようとすることではない。祈る気がしない時に祈ることは、偽善ではない。それは人生の最大の任務に対する忠実さである。

 

  164.神はあざけられるべきではない。もしもうすでに私達に対して答えを与えておられるのに、私達の方がそれを喜んで用いようとしていないなら、神は祈りに答えられはしない。

 

  165.祈りをあまり重要視しないということ                                             

は、人生において神を重要視していないということだ。                      

 

  166.祈ると、より偉大なる仕事ができようになるのではない。祈りこそが、神のためのより偉大なる仕事なのである。

 

  167.祈りとは、言語能力が最高に用いられた形態である。

 

  169.仕立て屋の仕事が洋服を仕立てることであって、靴直しの仕事が靴を修理することであるように、クリスチャンの仕事は祈ることである。

 

  170.他の人に対する私達の愛は、その人のために祈る私達の祈りの頻度と誠実さによって測ることができる。

 

  171.祈りに答えてでなければ、神は何事もなさらない。

 

  173.ある新しい町を開拓するために、自分たちだけでペンションに暮らしていた困難な日々に、主が私達のためにして下さった励ましの奇跡を、私は決して忘れないでしょう。ある日、書類の手配や家探しや文書伝道でソスが忙しかったので、私は子供を四人全部連れて必要物を調達しに行きました。

  私は赤ん坊を腕に抱き、スカートには二人の子供がしがみつき、一番上の子供は鞄やほ乳びんでいっぱいのベビーカーを押していました。そう、あの人通りの多い街を私は必死の思いで歩いていたのでした! 主に感謝すべきことに、それはどうしても私達自身の力ではできないことだったので、私達は道端に寄って祈ることにしたのです。

  目を開けると、外国人の老婦人が二人立っていました。二人は、肌が白く、白髪だったので、この国の人ではありませんでした。年令も確かに80はいっていました。そして、その言葉がさっぱりわかりません!それなのに、私達の輪に近寄って祈りを聞こうとしていたのです!

  町の混乱と慌ただしさの中にあって、二人は全く穏やかな霊を持っていました。そして、とうとう一人が片言の英語でこう言ったのです。 「あなたがたはまるで、美しい花でいっぱいのきれいな庭のようです!」ワァ!−−そして、子供達の一人の手に多額の寄付をそっと忍ばせると、まるで天使のようなほほ笑みを浮かべて、通りを歩いて行ってしまったのです! 私達は、この 「外国人たち」が、天国から来た天使たちだったのだと、今でも信じています! 主をほめたたえよ!−−ソスとアフライ

 

  174.祈るだけで自分では働こうとしないなら、神をあざけっていることになり、働くだけで祈ろうとしないなら、神から栄光を奪っていることになる。

 

  175.祈りは、すべての土台であるべきで、付け足しであってはいけない。

 

  177.  ある宣教師の願い

愛するお母さんへ

 本国のみんなは私達の為に祈ってくれていますか?   祈りのために集ってくれているでしょうか?

 それとも、私がまだそちらにいた時と

   同じことをしているのでしょうか?

 

 送って下さるお金は感謝しています。

  そのすべての心尽くしにも感謝しています。

 でも愛するお母さん、どうか彼らに告げて下さい。

  私達がどんなに彼らの祈りを必要としているかを。

 私達の天の父の御座で会い集い、

  共に祈ってくれるように、

           是非、伝えてもらえますか?

 時々、孤立してしまったように感じる時に、

  私達がよろめき倒れることのないように。

 勇気がくじけそうになる時だってあるし、

  危険に取り巻かれる時だってある。

 だから、愛するお母さん、

          是非、もう一度告げて下さい、

 私達がどんなに彼らの祈りを必要としているかを。

 

            あなたの宣教師の子供たちより

 

  179.約束という形で天国から来る物は、祈りという形で天国に送り返されるべきだ。

 

  185.祈りに対する主の答えは、極めて完璧だ。パンのように見えるけれども実際には石である物を私達が求めて祈ると、主はしばしば、私達の近視的な目には石にしか見えないけれども実際はパンである物を与えて下さる。

 

  188.祈りの価値は、その長さで計ることはできない。

 

  189.神に近づいて祈ることは確かに必要なことである。しかし、誰もが 「アァメン」という言葉を聞きたくてどうしようもなくなってしまうまで、あなたの祈りを長引かせることは要求されていない。

 

  191.とりなし  グランドマザー

        あなたの戦いの激しさを、私が理解しないなどと

                言ってはならない。

        あなたの暗きにあって、私は幾たびも

                あなたと一緒だったのだから。

        たとえ二人の間に大きな隔たりがあり、

                歳月や年令の違いがあったとしても、

        その心の中の苦悶、痛みを、

                私はしばしば感じたのだから。

 

        ぞっとするような暗黒の中で、たった一人で

                戦っていたなどと言ってはならない。

        御座にあって、あなたのかたわらで、

                私はいつも祈りの中で

          あなたと一緒だったのだから。

        信仰の楯を持ち、御霊の剣を振るって、

                主の御言葉の命じるままに、

        あなたの最初の呼び掛けを聞いた時、

                あなたのかたわらにあって、

           戦いに駆けつけたのだから。

         「こんなに遠くの叫びがわかるなんて、

                夢物語にすぎない」などと言ってはならない。

        私達は、愛する主にあって一つであり、

                主の御霊は二人を近づけてくれるのだから。

        そして主は、しばしば私の心に

                「早く祈りなさい」

                 との呼び掛けをささやかれる。

        だから、たとえあなたが遠くにいても、

                私は祈りによって、あなたの所に行けたのだ。

 

  192.すべてのものは、神の御心の外側にあるのでない限り、祈りの射程距離内にある。

 

  193.祈っている時ほど、少しの時間を消費するだけで多くのことが成せる時はない。

 

  195.祈るなら、神になせるどんなことでもなせる。

 

  196.悪魔の関心事は、聖徒を祈らせないようにしておくことである。祈りの込められていない学習、仕事、宗教など、悪魔は全く恐れてはいない。悪魔は私達の労苦を笑い、私達の知恵をあざける。だが、私達が祈る時、悪魔は震え上がるのだ。

 

  197.祈りとは鍾楼から吊されたロープのようなもの。引っ張ると、上にある天国の鐘が鳴る。

 

  198.神の前にひざまずく者は、どんなものに

対しても立ち上がることができる。

 

  199.祈りは決定打を浴びせ、・・・奉仕はその結果を集める。

 

  203.ある工場で、非常に繊細な織物が織られていた。その操作係は、もし糸が少しでもからんだら、いつでもボタンを押して、主任を呼んで直してもらうようにと言い渡されていた。けれどもある時、ベテランの女性は、主任を呼ばなくとも自分でもつれを直せると考えたのだった。しかし、彼女はもつれをさらにひどくしてしまった。主任が来た時、彼女は言った。 「私は最善を尽くしたのですが。」

  主任はこう答えた。 「君がすべき最善のことは、私を呼ぶことだということを覚えておきなさい。」

  状況がもつれてきた時にすべき最善のこととは、 「主人」 を呼び、自分の代わりにそれを直してくれるようにと求めることである。

 

  204.神は祈りによって世界を形作られる。

 

  205.罪を告白することは、神に知らせることではなく、神に同意することである。

 

  206.神が時々、その憐れみによって、私達が求めるものを与えないようにして下さらなかったら、私達は、自分達の願いがかなって自滅していたことだろう。

 

  207.祈りは独白ではなく、対話である。私の声に応じる神の御声が、その最も重要な部分である。神の御声に耳を傾けることは、神が私の声に耳を傾けて下さるという確信を得るための秘訣である。

 

  208.祈りにおいて、私達は、神の御心を私達の意志に従わせているように見えるが、現実には、私達は自分の意志を神の御心に従わせているのだ。

 

  209.聖書を祈りに変えなさい。

 

  210.私達が銀を求めると、神は時々、ノーという答えを金で包んで送られることがある。

 

  211.友人同志の二人が、ある大きな駅に立って、最新のエンジンを装備した特急電車が疾走していくのを見守っていた。「何て強力なエンジンなんだ!」その内の一人が、もう一人の、その駅の駅長である友人に語った。すると、クリスチャンである駅長はこう答えた。 「その通り! 線路の上ならば。しかし、脱線してしまうなら、世界中で最も弱いものだ。これは                                             

何とクリスチャンに似ていることか! クリスチャンの力は、その主、救い主との交わりの内に存在する。だが、その交わりの道から外れてしまうなら、クリスチャンは世界中で一番弱い者となる。」

 

  212.ある牧師は、毎日正午に決まって自分の教会にやって来ては、ものの数分もしない内に出て行く、だらしのない格好の老人を見るたびに、煩わしい老人だと思っていた。いったいあの老人は何をしているのだろう? 牧師は教会の管理人にそのことを告げ、その老人にわけを聞くように言った。建物の中には高価な装飾品が置いてあるからである。

   「祈りに来るんですよ。」 その老人は管理人の問いかけにこう答えた。

   「そんなことを言って。あなたはいつだって、すぐに出て行ってしまい、祈ることができるほど教会の中にいないじゃないですか。」

   「実は、私は長い祈りはできないんですよ。でも、毎日12時になると、ここに来て、 『イエス様、ジムです。』と言い、それから一分待って、帰るのです。小さな祈りですが、でも、イエス様は聞いて下さるんです。」

  その後しばらくして、ジムは大怪我をして入院した。そしてジムが病棟に与えた影響は大きなものだった。愚痴をこぼしていた患者たちは快活になり、全病棟が笑いで埋もれることもしばしばだった。

  ある日のことシスターがジムに言った。 「病棟の人達がこんなに変わったのは、あなたのおかげだと聞いていますけど、あなたはいつも幸せだそうですね。」   「ええ、シスター、そうなんですよ。幸せにならずにはおれないんです。それは、私を見舞いに来てくれる人がいるからなんです。毎日、その方が私を幸せにして下さるのです。」

   「あなたの見舞い客ですって?」 シスターは不思議に思った。見舞い時間に、ジムの椅子は常にからっぽだったのを知っていたからだ。ジムは親戚のない、一人ぼっちの孤独な老人だったのである。 「お見舞いの人がいらっしゃるんですか? その人はいつみえるのかしら?」

   「毎日ですよ。」 そう答えるジムの目は、明るく輝いていた。 「ええ、毎日、正午に来て下さって、私のベッドの足元に立たれるのです。私が目を上げてその方を見ると、その方はほほ笑んで、 『ジム、イエスだよ。』と言って下さるのです。」

 

  213.祈りに対する答えはどんなものであれ、私達の優秀さを示すものではない。それは神の憐れみを示すものなのである。

 

  214.信仰の伴わない祈りは実もない。

 

  216.もし私達が空っぽで、しかも貧しいなら、それは神に与える力がないためではなく、私達の手が開かれていないためである。

 

  218.もし神との交わりという面において弱いならば、私達は他のどんな面においても弱い。

 

  219.神と共に歩む者は、必ずその目的地に到達する。

 

  221.スパージョン氏がある時、ブリストルにやって来た。ブリストル市内の三大礼拝堂で説教するためだった。また、彼の経営している孤児院のために直ちに必要とされていた 300ポンドの資金を集めるという目的も兼ねていた。そして、その資金は調達された。訪問の最後の晩にベッドに横たわっていると、スパージョンはある声を耳にしたが、それは主の御声のようであって、 「その 300ポンドをジョージ・ミューラーに与えよ。」と言うのであった。そこでスパージョンは言った。 「でも、主よ、そのお金はロンドンにいる私の愛する子供たちのために必要なのです。」すると、もう一度声がして、 「その 300ポンドをジョージ・ミューラーに与えよ。」と言った。そして、眠りにつくことができたのは、彼がとうとう 「わかりました。主よ、そうします。」と言った時だった。

  翌朝、スパージョンがジョージ・ミューラーの孤児院に出向くと、ジョージ・ミューラーは開かれた聖書を前にしてひざまずいていた。有名な牧師スパージョンは、その祈っている人の肩に手を置いて言った。 「ジョージ、神はこの 300ポンドを君に与えるようにと言われたのだ。」  「おお、スパージョンさん、私は主にその同じ金額を求めていたのです。」 こうして二人の祈る人達は喜びを共にしたのであった。

  スパージョンがロンドンに戻ると、自分の机の上に一通の手紙が置かれていた。封を切って中を見てみると、なんと300ギニーが同封されていたのである。スパージョンは喜び躍った。 「やったぞ! 主は私の300ポンドに300シリングの利子をつけて返済して下さった。」

 

  224.神を尋ね求める者たちに対する神の一番の贈り物は、神御自身である。

 

  225.他の人のために、私が神の所まで使い走りすると、必ずと言っていいほど、自分のためにも何かもらってしまう。

 

  226.ある自然を愛する人が、友達と都会の人や車の多い通りを歩いていると、突然立ち止まって、友達にこう尋ねました。 「コオロギの鳴く声が聞こえ                                             

るかい?」

  すると友達は笑って、 「聞こえるわけがないよ。こんなにうるさい車の騒音じゃ、コオロギの鳴く声なんて聞こえるはずないだろう。」と答えました。

   「でも、僕には聞こえるんだ。」と言って、自然を愛する人は石をひっくり返し、コオロギを見つけたのです。

   「こんなにやかましい通りなのに、コオロギがチンチロ鳴くのが聞こえたのか?」と友達がびっくりした様子で言うと、 「そうだよ。」とその自然を愛する人は答えました。 「私は、森であろうが、野原であろうが、町中であろうが、いつでも自然に耳を傾けているんだ。誰でも、自分が耳を傾けているものは聞こえるものだよ。」

  それから彼は、ポケットから硬貨を取り出すと、歩道に落としました。すると、そばを通りすぎる人達の誰もが、自分のポケットに手を入れて、自分が落としたのではないかと調べたのです。

  あなたは何に耳を傾けていますか? 金ですか、それとも神ですか? ラジオの周波数が、遠く離れたラジオ局からの番組を受信できるように調整されているように、あなたの耳も、何かを聞くために調整されています。そして神の耳は、私達の祈りを聞くように調整されているのです。あなたの耳は、神の司令を聞くように調整されていますか?

 

  227.ミシシッピー州のトゥーペロを猛烈な嵐が襲った。その翌日、ある黒人が友人の一人に、昨日の嵐の時に神に祈ったかどうかと尋ねた。友人はユニークで心を引き付けるような口調でこう答えた。 「もちろん祈ったさ! あんな嵐に祈らないでおれる人があるかい?」 すると、黙って聞いていた三人目の黒人がこう付け加えた。 「きっと主は、昨夜このあたりで、多くの耳慣れない声を聞かれたに違いない。」

 

  228.私が若かった頃、私は神にこう言った。 「主よ、宇宙の神秘を教えて下さい」と。その時、神は、 「その知識はただ私だけのものである」と言われたようだった。そこで私は言った。 「神よ、ピーナッツの神秘を教えて下さい」 すると神は、 「そうだな、ジョージ、その方がお前のサイズにもっとふさわしいだろう!」と言われたようだった。そして主は私にその神秘を告げて下さったのである!

         −−ジョージ・ワシントン・カーバー博士

 

  229.間違いを正す為に祈るのは良いことだ。だが、もっと早めに祈るなら、間違いをそんなにたくさん犯さないですむ。

 

  230.祈りが混乱していても、神はその中から真義をつかむことができる。

 

  231.神は生ける神なので聞くことができる。神は愛に満ちた神なので聞いて下さる。神は私達の契約の神なので聞くように御自身を束縛しておられる。

 

  232.草は、私がするように、露を求めて呼ばわることはできない。そのように祈っていない植物をも訪ねて下さる主は、確かに、嘆願する主の子供たちに答えて下さるのである。

 

  233.あなたの単純なトランジスター・ラジオや、もっと複雑な電話セットでさえも同じような原則で動く。その周波数が、コントロールする様々な操作者、つまり放送局と、あなた達受信者の両方によって正しく操作されるなら、その製造者によってあらかじめセットされた周波数に合うと反応するよう設計されているのだ。放送局は、一定の、あるいは幾つかの周波数で、ものすごいパワーをもって送信する。しかし、あなた達受信者は、大きなパワーや知恵を必要としない。しかし、どのようにして自分自身の小さなパワーをオンにするかという単純な技術、つまり、自分自身の小さなバッテリー−−自分自身の霊−−ちっぽけなミニボルトパワーかそのごく少量に接続して、自分自身の回路を始動させる方法だけは知っておく必要がある。そして空中からの音をキャッチするために、放送局からの強力な周波数に合わせられるだけの技術もである!−−スイッチを入れ、波長を合わせなさい。そして主から落ちてくる電波を受信しなさい。または、あなたの回路が天から落ちてくる主の力強いメッセージを受信するために始動するよう、主がすでにあなたの小さなバッテリー−−あなた自身の霊−−に充電してあるあなたの小さなパワーか霊の力をオンにしなさい! −−ダッド

 

  234.主が与えられるものを受け取るのも大切だが、使うのに十分良いものを主が与えて下さるよう求めるのも大切なことである!

  私は昔会った人のことを思い出す。彼は、車がどうしても必要だったので、こう言った。 「主よ、どうか私に車を与えて下さい! 主よ、私には車が必要なんです! どんな車でもかまいませんから!」  すると、その通りの車を彼は受け取ったのだった。かなりのオンボロ車を! あなたは自分が求めるとおりのものを受け取るし、自分が得られると信仰を持っている通りのものを得る! 神はあなたの言葉通りに受け取られる!−−ダッド

 

  235.祈りは数学の問題のようなものだ。問題が複雑であればあるほど、もっといろいろな要因がからんできて、解決はより難しくなる。問題が大きければ大きいほど、問題にからむ要因が多ければ多いほど、解決するのは困難になる。しかし、2+2のような単純で小さな問題なら、答えは4というように、とても単純である。なぜなら、そんなに多くがからんでいないからだ。それで、解決は簡単になる。

 

  236.もし祈らないなら、私達はキリストを失望させ、自分に敗北をもたらし、悪魔を喜ばせてしまう。

 

  237.神は、何であれ私達の重荷となるものは、神に委ねよと言われる。

 

  238.善人は、倒れた時ひざまずく。

 

  239.朝、目覚めたら一番に神の御胸に思いをはせる事によって、その日一日に祝福のバプテスマを授けなさい。朝の一時間目はその日一日の舵となる。

 

  240.クリスチャンの生活は祈りの生活でなくて何であろうか?

 

  241.それは少しばかり天文学に似ている。正しい成果を得るためには、すべての星や星座や太陽や月や惑星などが、正しい時に、ある一定の位置になくてはならない。神をせきたてることはできない。惑星や星をせきたてることはできない。すべてが一定の位置に来るまで待たなくてはならないのだ。神の時が来るまで待たなくてはならない。しかし、もし神の時を待ち、適当な時にまっすぐ打ち込むなら、正しい答えを得られる!−−ダッド

 

  242.私は昔公園で、ある無神論者のユダヤ人を黙らせたことがある。私が、聖書だけを彼に読むと言い張ると、群衆が、彼に向かってこう叫んだのだ。 「おまえは黙れ。私達は、聖書に何と書いてあるか知りたいんだから!」  御言葉の力を決して過小評価してはならない! または、そのような場合には、祈りの力を! しばしば私は、祈り始めることで、くだらぬことをしゃべりまくったり、やじり倒そうとする者達を黙らせたものだ。祈りに、少なくともあなたの祈る権利に敬意を払わない人はまずいない。

  ホーは一度、ニューヨークの大がかりなTVショーでそれをやって、聴衆を静かにさせた。彼が祈り終わった時には、涙を光らせている人々もいた! 祈りは、感動的なショックのようなものを与えるのだ! また小さな賛美も! もしあなた達みんなが一斉に主を賛美し始めるなら、彼らにいったい何ができるだろうか? あなた達は揃って彼らの声をかき消すことができる! 心のこもった歌や、祈りや賛美、または聖書の朗読のほうが、いかなる議論よりもはるかに効果

があると確信している。しかしながら、もし自分がインタビューを受けることにあらかじめ同意していたのなら、混乱を静めるためにするのでない限り、それを始めるのは、哀れなか弱い司会者にとって公平ではないかもしれない! だから、緊急事態であって、並はずれた結果を得る必要がある時以外は、必ずしも、そのような極端な手段に出る必要はない!−−ダッド

 

  243.神は一度イスラエルに、悪い事がいろいろと起こっているのは、 「わたしの名を呼ぶ者が誰もない」 からだと言われた! (イザヤ64:7) 私の母は、ある年取った宣教師に起こった事を話してくれた。中国にいたその宣教師は、ある日曜日に説教壇で説教をしていた。すると共産軍がその町に入ってきて、その教会の正面のドアを勢いよく開けると、説教壇にいた説教師と会衆全員に、マシンガンを乱射した。身の毛もよだつような恐ろしい虐殺だった!

  中国のその小さな村のクリスチャンは、一人残らず殺されてしまった! 私の母はそのニュースを聞いてぞっとした! 母はこう尋ねた。 「神様、どうしてですか? どうしてあなたは、その尊い中国人のクリスチャン達と、福音を宣べ伝えるために中国まで行った善良な宣教師にこのようなことが起こるのを許されたのですか?」

   「主よ、どうしてですか?」 彼女は主に対して怒った様子で尋ねていた。 「主よ、どうしてそのような事が起こるのを許されたのですか?」 すると、彼女が以前に聞いたのと同じようにはっきりと神は彼女に答えられた。

   「なぜなら、わたしの民は、わたしの宣教師のために祈らないからだ!」  神はその責任を私達に向けられたのだった! 私達は神を責めていたが、神は、それは私達のせいだと言われたのだ! さて、あなたが祈ることができ、祈りは物事を変えることができるのに、物事が変わらないなら、それは、あなたが祈ったり、信じたりしておらず、神が何かをして下さるように求めていないせいだ。−−ダッド

 

  244.祈りは昼の鍵、夜の錠であるべきだ。

 

  245.イエスは、弟子たちが苦悶の内に目を覚まして祈っている時には、決して一時たりとも眠られたことはない。

 

  246.望む通りに祈ることができないなら、できる通りに祈りなさい。神はあなたの心をご存知である。

 

  247.私は、もう他にどこにも行く所がないという絶対的な確信によって、何回もひざまずかせられたことがある。

 

  248.神の人とは常に祈りの人である。

                      

  250.世界に対して善をなしたいと思うなら、私達の第一の任務は祈ることである。私達がそのことを決して決して忘れることのないように!

                      

  252.クリスチャンの祈りはひそかになされるが、その成果が隠されたままでいることはない。

                      

  253.祈りによらずに無理なく期待できるほど小さな祝福はないし、また、祈りによって獲得できないほ大きな祝福もないと、私は知っている。

                      

  255.祈りは天国の宝箱を開ける鍵である。

                      

  256.私は、正しい者の祈りに立ちはだかるぐらいなら、むしろ、悪しき者の大砲に立ちはだかる方を選ぶ。

                      

  257.人は、御言葉にあって強くなればなるほど、祈りにあっても強くなる。

                      

  258.祈りの際には、神の約束が私達の願いとなるべきだ。

                      

  259.ある時私は、英国のダウンハムの小さな家で祈っていて、眠ってしまった。それはクリスマスの時だったので、ファミリーが皆、私を取り巻くようにして座っていた。そして私は祈りに祈って、ついには祈りながら眠ってしまったのであるが、みんなの話では、私は眠りながらも祈り続けていたそうである。それは、経験した中でも一番奇妙な感じである。私は、目を覚ましてみて、まだ自分が祈りまくっていることにビックリしたのであった!−−ダッド

                      

  260.祈りは電話をかけるみたいなものだ。あなたは交換手のようなものだ。神がご自身の御霊からあなたの思いの中に大切な電話を入れられると、あなたは、それを受け取る必要のある人につながなくてはならない。しかし、もし彼らのことを考えるだけで、その思いを、彼らのための嘆願という形で主に伝えず、そうする代わりにそれを切ってしまうなら、神からの電話を切ってしまっているようなものだ!

  それは、神が電話をかけようとされる時に、神はあなたに番号を教え、あなたがそれをつなぐようなものだ。神は交換手であるあなたに教える。神こそ、電話をかけておられる方である。神はあなたに、愛が本当はどんなものであるかを教えたいので、あなたを通してそれを伝えようとされる。

  愛とは、あなたの愛を必要とする誰かに接続させるようなものだ。あなたは、愛によって、神とその人とをつなぐものとなる。私達が証しする時には、何をしていても、メッセージを送っておられるのは神である。そうだろう? そして、その相手の人こそ、神が連絡を取りたいと思っておられる人だ。

  しかし、それはあなたを通してでなくてはならない。あなたが交換手なのだから。そして、もし、あなたが接続をしないなら、もし怠慢で、のろくて、関心がなく、そのような電話にわずらわされたくないと思うなら、その人との電話連絡が切れてしまい、彼らがメッセージを受けることはないだろうし、愛を受け取ることもないだろう。そして、決して答えも受け取らないだろう。−−ダッド

                      

  263.アフリカの奥地で宣教にあたっていた私の友人、ミス・L・デニスは、コンゴのある村でクリスマスを過ごした唯一のヨーロッパ人だった。夕食時に食べ物を欠いていた彼女は、一部屋しかない土着民の小さな掘っ立て小屋の中のベッドの脇でひざまずき、 「日ごとの食物を今日もお与えください」と祈っていた。祈り終わって立ち上がると、外からめん鳥が舞い込んで来た。 「コケッコーコーコー」 そして、ベッドの下で最初の卵を産んだのである。

 

  266.聞くための時間を割く者に、神は今でも語られる。

                      

  267.もし祈る時、神に聞いていただきたいのなら、神が語られる時に、神に耳を傾けていなければならない。

                      

  268.難問をかかえていたあるクリスチャン、祈りはしたが、その祈りの内に安堵感を見いだすことはできなかった。そこで、ひざまずいていた場所から目を上げてみると、一枚のカードに目が留まった。そこには、 「感謝してみなさい!」と書いてあった。彼は早速、実行に移した。すると、主は平安を与えられ、その煩いを取り去って下さった。(ピリピ4:6、第一テモテ2:1)

                      

  269.祈りの重量はどれくらいなのだろうか?祈りの重さを計ろうしたことのある人が、私の知っている限りでは、たった一人いたが、その人もまだその重量がどれだけかは知らない。

  その人も昔はその重量を知っていると思っていた。ウエスト・サイドに一軒の小さな食糧雑貨店を経営していた時のことだった。時は、世界大戦後のクリスマスの一週間前。ある疲れ切った表情の女性が店に入ってきて、子供たちのためにクリスマスの夕食を用意するのに十分なだけの食糧を彼に求めたのである。彼は、いったい幾ら払えるのかと尋ねた。

  すると、その女性は、 「夫は戦死しました。だから、小さな祈り以外に捧げるものは何もありません」と答えた。

  この人が告白したところには、彼はその当時、あまりセンチな面を持ち合わせていなかったそうである。食糧雑貨店が無料食糧配給所のようなやり方で経営できるはずがない。

  そこで彼は、 「では、紙にその祈りを書きなさい。」と言って、自分の仕事を続けた。

  ところが、驚いたことに、女性はふところから一枚の紙切れを取り出すと、カウンター越しにそれを手渡して言った、 「祈りは昨夜、病気の子供の看病をしながら書きました。」

  まだ驚きから立ち直れないままに店長はその紙切れを受け取った。そしてそのあと受け取ってしまったことを悔やんでいた! どうしたらいいのだろうか?いったい何と言ったらいいのか?

  その時ふと、ある考えがひらめいた。そこで、その祈りを読みもしないで、古風な天秤ばかりの一方の受け皿にその紙切れを乗せたのである。 「これがいったいどれだけ分の食糧に値するか、はかってみよう。」  そう言いながらパンを一斤、もう一方の受け皿に乗せた。ところがビックリ仰天したことに、天秤は動かない。混乱し、当惑しながら、何でも手当たり次第に食糧をのせ続けたが、一向に天秤は動かない。人々はその成り行きを見守っていた。

  彼はつっけんどんな態度を取り、手元も狂い始めた。顔面は真っ赤になり、怒りのあまり狼狽してしまった。

  そこでとうとうこう言った。 「さあ、秤に乗るのはどっちみちそれだけだ。袋がここにあるから、自分で入れなさい。忙しいんだから。」

  すすり泣きのような声を漏らして、女性は袋を手に取ると、食糧を中に詰め込み始めた。そして、手があくたびに袖口で涙をぬぐうのだった。店長はそれを見ないように努めた。しかし、ちょっと大き過ぎる袋をあげてしまったので、まだ、袋はいっぱいになっていない。そして、いやでもそれが目に入ってしまうのだ。そこで、カウンター越しに大きなチーズの固まりを投げ与えた。無言のままで。この食糧雑貨店の主人は、自分の表向きの態度とは裏腹の行為に対して、彼女が、少しおそるおそるではあるが涙に濡れた目で感謝をこめてほほ笑んだのを見ることもなかった。

  その女性が行ってしまうと、主人は秤を見に行った。頭を掻き、当惑したように首をかしげながら。するとその訳がわかった。秤は壊れていたのだった。

  店長はもう年老いていた。髪も白かった。けれど、彼はなおもその頭を掻きながら、どうしてもわか

らないといった表情のまま、首をかしげていた。その女性はもう二度と姿を現さなかった。よくよく考えてみると、以前にも見たことのない女性だった。それなのに、それからというもの、主人は世界中の他のどんな女性にもまさって彼女のことを良く覚えており、また、しばしば彼女のことを思い出したのだった。

  その出来事が単なる想像ではなかったことは、わかっていた。彼の所には、今でもあの女性が書いたその祈りの紙切れがあるからである。 「主よ、どうぞ、日ごとの食物を今日もお与えください。」(マタイ6:11)                      

 

  270.もしあなたが、 「心をつくして主に信頼し、自分の知識に頼ることなく、すべての道で主を認める」なら、 「主はあなたの道を導かれる。」 (箴言3:5-6) あなたの道を導いていただくためには、まず、あなたの方で三つのことをしなければならない。主に信頼すること。主を認めること。自分の知識に頼らないこと!−−ダッド

                      

  271.あなたが必死に祈り求めているなら、主は、あなたが魚を求めているのにへびを与えるようなことはされないし、パンを求めているのに岩を与えるようなことはされないと、あなたは知っている。 (マタイ7:9、18) −−ダッド

 

  272.罪を犯すと祈りは止まり、祈ると罪を犯すことがやむ。

                      

  274.今、主と小さな交霊会をしようか? 私達の霊の内の団結と、私達の愛と、愛情を示すために、手をつなぎ、触れよう! 触れ合うことには、多くの意味がある。そうするのは、とても大切だ! 自分達のオーラを交わらせ、電流が流れるのを感じる。回路が完全につながるのだ。自分が一番向こうの人に直接手が届かないからといって、それは、回路がつながっていないということではない。長い一続きの回線になっていて、沢山の電気が流れているのだから。主をほめたたえよ?−−ダッド

                      

  275.祈りとは、全能なるものに頼る弱さのこと。

                      

  276.ジプシー・スミスは一度、どうやって信仰復興を興すのかと尋ねられたことがある。

  彼はこう答えた。 「まず家に帰りなさい。そして部屋に閉じこもって鍵をかけ、部屋の真ん中にひざまずきなさい。そして、自分の回りにチョークで輪を描き、そのチョークの内側から信仰復興を始めて下さるように神に願い求めるのである。神がその祈りに答えて下さった時、信仰復興が始まる。」

                                             

  277.ある中国人がたくさんの友人を伝道所に連れてきた。そんなにたくさん連れて来ることができた成功の秘訣は何かと聞かれて、その中国人はこう答えた。 「わたし、膝まづいて、話す、話す、するね。それから、立ち上がって、歩く、歩く、するよ。」  祈り、それから、行なったのだ。行ないのない祈りは何にもならない。祈るだけで行なわないのは、行なうだけで祈らないようなものである。私達も、話すと歩くとをしよう。

                      

  278.ある上級軍曹が中東に駐留していた時に、救世軍の伝道所で救われた。彼は、カイロ−ハイファ間を走る蒸気機関車の責任者だった。救われた後、彼は、汽車が出る前に必ず、汽車と乗客の安全のために祈った。ある時、エンジンが何の理由もなしに急に止まってしまった。その汽車の技師とエンジン係は故障の原因を究明しようとしたが、できなかった。それは午前3時のことだった。そして、夜明けが近づいた時、その線路のずっと先まで行っていた二人の作業員が走って戻って来て、暴風雨のせいで線路が切れていたので、もし汽車がそのまま進んでいたら全車両が転落していたところだったと報告したのだった。 「何て運が良かったんでしょう!」 と乗客が言った。しかし、運転士は穏やかに証しをし、自分が運転台に立つ時には必ず乗客の安全のために祈りを捧げていたことを話した。そして、乗客にとっては奇妙なことに思えたが、線路が元通りに修復されると、14時間も動かなかったエンジンがまた動き出したのだった。

                      

  281.中国で宣教師として40年間過ごしたオルガ・クリステンセンが次のことを証言している。

   「私の中国での滞在が終わりに近づいた頃、伝道所には、大体80人くらいの避難者と、そこで働いている何人かの婦人達がいました。ある夜、盗賊どもが近くまで来ているのが聞こえました。離れた通りからは、銃声がしていて、神が介入して下さらないなら、間違いなく、殺害と災いが自分達の身に降り懸かるのだと、私達にはわかりました。私は小部屋に入り、自分の心と他の人達の心を落ち着かせるために、神が御言葉を下さるようにと祈りました。そして、それまで苦悩していた私はある御言葉を受け取りました。それは、今まで何度も読んだことがある聖句だったのですが、その時、本当に現実的なものとなったのです。 『あなたが伏す時、恐れることはなく、あなたの眠りは心地よい。あなたはにわかに起こる恐慌を恐れることなく、悪しき者の滅びが来ても、それを恐れることはない。』それ以上に良い言葉があるでしょうか? 私はそれを全員に知らせ、もう休むようにと言いました。ふとんに入る時、私は服を着たままで寝たいという気持ちになり、少し考えてしまいましたが、結局、

服を脱いで横になりました。翌朝、伝道所の外には死体があちこちにころがっていました。でも、争いや殺害があったにもかかわらず、誰も私達の伝道所の戸をたたくことさえしなかったのです。」

                      

  282.スパージョンはある時、そのミニストリーにおいてどうしてそれほどに驚くべき力を有しているのかと尋ねられたことがある。そこでスパージョンは、メトロポリタン礼拝堂の床を指さしてこう言った。 「この下の部屋では、300人のクリスチャンが祈っています。彼らは、私が説教するたびに、そこに集まり、絶え間なき祈りと嘆願とをもって、私を支えてくれるのです。もろもろの祝福の秘訣があるのは、その部屋の中なのです。」

                      

  284.輪になって手をつないで祈ると、肉と霊の両方での団結を感じる。手をつなぐことで、次から次へとつながれ、団結した強さと力が電気のように流れているのを感じるのだ。そのつながりは、途切れのない輪になっていて、あの世での終わりのない永遠を象徴している。終わりのない輪であり、その内にすべてを包み込んでいるのだ!−−ダッド

                      

  285.主よ、あなたの御言葉を感謝します。あなたの御言葉は、私達が時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づくことができ、また、御霊自ら、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私達のためにとりなして下さるという信仰を与えてくれます。イエスの御名によって! (ヘブル4:16、ローマ8:26) −−マリヤ

                      

  286.あなたは、アンテナを立て、しっかりと御言葉の上に立ち、スイッチを入れ、周波数を合わせなくてはならない!−−ダッド

                      

  287.とりなしとは、他の人々の立場に立ち、彼らの代わりに神の御前に来ることである。

                      

  288.世界は、私達にとってあまりにも騒々しすぎる!−−聖書に出てくる神の人は、モーセからイエスに至るまで、誰もが、冥想し祈るために、また、神との交わりを持つことによって人々の必要とする神の律法を得る為に、しばらく群衆から離れ、ひっきりなしに出てくる彼らの要求や必要のことから逃れて、一人で山にこもらなくてはならなかった−−ダッド

                      

  289.フェヌロンの伝記を書き綴った人たちは、フェヌロンはその顔が輝くほどに、神との非常に親密な交わりを持っていたと語っている。キリスト教を信じない懐疑論者ピーターバロは、ある晩、フェヌロンと一緒の宿に泊まることを余儀なくされた。翌朝、彼は慌ただしく飛び出してくるやいなや、 「あの男ともう一晩でも一緒にいるなら、こんな私でもクリスチャンになってしまう。」と叫んだ。また他の人もフェヌロンについてこう語っている。 「彼の物腰は恵みに満ち、その声は愛に満ち、またその表情は栄光に満ちている。」

                      

  290.グラスゴーのある成功を収めた実業家、アーチボルト・オール・ユーウィングは、宣教師として中国に行った。主イエス・キリストとの交わりを通して、彼の顔が非常な輝きを帯びるようになったため、人々は新しい名を彼に授けたのだった。その名は、 「ミスター・グローリー・フェイス (栄光に満ちた顔)」であった。

 (出エジプト34:29; 第二コリント3:18; 4:6)

                      

  291.主よ、私の内にあって、私を力づけ、

        私の外にあって、私を守り、

        私の上にあって、私を覆い、

        私の下にあって、私を支え、

        私の前にあって、私を導き、

        私の背後にあって、私を後押しし、

        私の周囲にあって、私の砦となりたまえ。

                −−ランセロット・アンドリュー

 

  292.持ち物はすべて奪っていったらいい。だが、栄光の王と共に歩み、語る、この甘美な祝福だけは奪い去らないでほしい!

                      

  293.私達は主の仕事にあまりにも心を奪われてしまって、仕事の主を忘れてしまっている。

                      

  294.聖書の中には興味深い物語が数多くあるが、その中にエリヤとカラスの話がある。アハブから身を潜めて、小川のほとりに隠れていたエリヤの所に、神がカラスを遣わして食物を運ばせたという話を知っている人もいるかもしれない。ところが、時々私達は、そのような素晴らしい出来事はずっと昔のことであって、今はもう起こらないと思ってしまうことがある。しかし、それは間違っている。神は今でもご自分の民を世話しておられるからである。私達が神を必要とする時、神はいつでも近くにおられる。

  デービッド・ブレイナードは、インディアンに福音を宣べ伝えに行った有名な宣教師である。その働きの実として、多くのインディアンがその救い主を知るに至った。ブレイナードは祈りの人だった。その日記には旅行談が数多く記されていて、主がどのようにして彼の祈りを聞きまた答えられたかが綴られている。

  ある日、インディアンのある部族を訪ねに出掛けた時、彼は激しい嵐に見舞われた。ともかく雨宿りする場所を探し求めて、結局、あるとても大きな木の根元にあった穴を見つけた。彼はその穴の中で、インディアンのために、また、主が自分の世話をされ、必要物を満たして下さるようにと祈ったのだった。

  食事の時間になった。しかし、空腹の彼には何も食べる物がなかった。すると、一匹のリスが木に近づいて来るのに気づいた。リスはしばらくの間、おしゃべりをしていた。そして、リスが行ってしまうと、そのいた所に木の実が幾つか落ちていたのだった。宣教師はその木の実を食べた。

  嵐は三日間続いた。その三日間、ブレイナードはその穴の中に留どまっていた。ところが、来る日も来る日もリスが訪ねて来ては、木の実を穴の入り口に残して行ってくれたのである。デービッド・ブレイナードは、そのリスが主から送られたものだということを知っていた。

                      

  295.チャーランと私達の年長の子供4人は、老人ホームで歌った後、そこのお年寄り達をイエスを受け入れるように導き、55人全員が祈りました。パーティーをしていたそのお年寄り達は、番号くじで小さな景品をもらっていましたが、ほとんどの人が、もらった景品を子供達にプレゼントしてくれました。

  私達は、とても役に立つ物を幾つかもらいましたが、一つ奇跡があったのです。それは、3歳になるラーラはねまきが必要だったのですが、景品の一つが彼女にぴったり合う、暖かくてきれいなネルのねまきだったのです! 景品はみな、お年寄りのためだったのに! 主がいつも私達に供給して下さることを、イエスに感謝します!−−ジョブとチャーラン

                      

  297.ムーディーは人前での長ったらしい祈りに我慢できなかったと言われている。その集会の一つで、ムーディーはある兄弟に祈らせたことがあったが、彼は全能なる方へのほめ言葉に完全に夢中になってしまった。その祈りがいつまでたっても終わりそうにないことを悟ったムーディーは、突然こう言った。 「では、この兄弟が祈りを終えるまでの間に、聖歌第 75を歌いましょう。」 その時、この長ったらしい祈りに飽き飽きしていた一人の医学生は、帰ろうと思い、帽子に手を延ばしかかっていたのだが、ムーディーが突然に祈りから聖歌に切り替えたことによって、また彼の注意が引き付けられた。彼は帽子を置いて、礼拝に留どまり、そして主を受け入れたのだ。その医学生は、後に著名な宣教師となった、ウイリアム・グレンフェル卿であった。

                      

  298.マリーの友人が彼女をカジノに連れて行きました。彼女は前に一度もギャンブルをしたことがありませんでした。彼女は、主が彼女に油を注ぎ、勝                                              

たせて下さるようにと主に祈りました。すると、彼女は 110ドル手に入れたのです。1週間後に、別の友人が彼女をカジノに連れて行きました。彼女はただそこにいて、その友人が勝つようにと祈っていました。すると友人は 100ドル手にしました。後で彼女がその事をその友人に話すと、友人はその 100ドルを彼女にくれました−−ジョハナスとジョアンナ、太平洋地域

                      

  299.イエスの御名によって捧げられた祈りがかなえられる時、それは、父のイエスへの愛と、父がイエスに栄誉を与えられていることを表している。

                      

  300.何年も前に、あるバイオリン奏者についての素朴な話を読んだのを覚えています。彼は貧しい人でしたがバイオリンを持っていて、そのバイオリンは、心を和らげるようなやわらかな音色によって、いつも人の心を魅了したのでした。バイオリンは彼の思うがままに操られては、思い通りの音を出し、いつも決まって人々の心にある和音をかなでたのです! その魅惑的な音色のことを尋ねられると、バイオリン奏者はいつも、流れるような曲線美を持ったバイオリンに優しくふれて、こう言うのです。  「この素材の木には、太陽の光がたっぷりと注ぎ込まれているのです。そして、中に入り込んだものが外に出てくるのです。」  あなたの人生には、神の陽光がどれくらい注ぎ込まれていますか? 主の御前で、その輝きに浴しながら、いったいどれだけの時間を過ごしてきましたか?私達は皆、自分の魂に神の輝きをもっとふんだんに入れているならば、平安や希望を回りの人たちに対してもっとふんだんに輝かせることができるのです。

 

  302.ウォルター・ウイルソン博士とその友人の宣教師は、アフリカでの宣教の仕事のためにとても必要な車を求めて祈っていた。その宣教師が、 「ああ、神よ、あなたは私の仕事のためにどれだけ車が必要か、ご存じです。主よ、どうぞ、車を与えて下さい。どんな古いオンボロ車でもかまいません!」 と祈っていると、ウイルソン博士が、こうさえぎった。 「兄弟よ、そんなふうに祈るのはやめなさい! 神はガラクタ業をしているのではないのだから!」

                      

  304.米国国会議事堂の控えの間で、二人の上院議員が話をしていた。どちらがより良いクリスチャンであるかを論じ合っていたのである。一人が言った、 「君はきっと主の祈りさえ暗唱できないだろう。10ドル賭けてもいいぞ。」 「いや、暗唱できるさ。」もう一人が言い返した。 「じゃあ、聞こうじゃないか。」  すると、そう言われた上院議員は直ちにこう暗唱した。 「今、私は伏して眠ります。主よ、私の魂をお守り下さい・・・」 もう一人の上院議員は驚嘆

して聴き入っていた。そして、 「ほら、10ドルだ。君が主の祈りを知っていたとは知らなかった!」と言ったのだった。

                      

  305.祈りに証拠はいらない。要るのは実践である。

                      

  308.良い収穫のために祈りなさい。そして、耕し続けなさい。

                      

  309.ある日、一人の婦人が幼い甥に勉強を教えていた。彼は大概は良い子で、よく耳を傾けていたのだが、この時は、どうしても自分の勉強に集中できないでいた。そして突然に言った。 「叔母さん、ひざまずいて、僕のビー玉を見つけられるように神様に祈ってもいい?」 叔母からの同意をもらうと、少年は目を閉じて椅子のかたわらにひざまずき、静かに祈った。それから立ち上がると、満足したように自分の勉強を続けるのだった。翌日まだビー玉が見つかっていなかったら、その少年がその素朴な信仰を失ってしまうかもしれないと思って、なかばおそるおそる叔母はこう質問した。 「ビー玉は見つかったの?」 すると少年は答えた。 「ううん、でも神様は、もうほしくないようにして下さったんだ。」 神は、必ずしも常に私達が望んでいたり、期待したりしている方法で祈りに答えて下さるとは限らない。でも、もし私達が誠実であるなら、神はその聖なる御心とは相反する願いを、私達の心から取り去って下さるのである。

                      

  310.祈りの目的が自分の利益であるなら、その祈りは、神を崇拝するものではなく自己本位である。                      

 

  311.大半の人は、自分の友に対して犯すのと同じ罪を神に対しても犯してしまう。自分で一方的にしゃべりまくってしまうのだ。

                      

  312.人の心に触れる秘訣とは、神の心に触れる秘訣を知ること。

                      

  313.牧師が大声で祈るのを聞いた幼いピーターが母親に言った。 「もし牧師さんが神様の近くに暮らしているなら、あんなに大きな声で話さなくってもいいんじゃない?」

                      

  314.夜に目を覚ましているのを好む。

        世界がすっかり静まりかえり

        わが父のみ声を聞くことができるから

        そして、私はわが救い主の御心を知る

        主は私の心を探るため

        まばゆい光線を私の心に輝かせられる

                                              

        そして、その奥深くに隠された過ちを

        私に示して下さる

        その一つひとつを総くずれにさせられる

        どうして不眠の悩みに薬で戦おうとするのか?

        どうして夜が訪れるのを憂うつに思うのか?

        夜こそ永遠の光を見いだすのに

        最もふさわしい時だというのに。

                        −−フランシス・クーク

                      

  316.弟子たちが戸を閉ざした時、キリストは自分が歓迎されていることを知っておられた。戸が開いていては騒音や混乱が入ってきてしまうので、主は弟子たちの耳を捕らえることができなかったのである。この世に対して戸を閉ざすことは、主に対して戸を開くことである。それは中に入って下さいとの、主に対する最高の招待なのである。

                      

  317.トーマス・ブラッドビュリー師の、家庭礼拝に捧げた時間に対するき帳面さには驚くべきものがあった。ある日の夕べ、呼び鈴が鳴らされた時、召し使いたちは祈るために二階に行き、道路に面した庭用扉を締めるのを忘れていた。すると、その扉が開けっ放しになっているのを数人の者達が見かけ、その内の一人が家に侵入して物を盗もうとした。

  忍び足でそっと二階に上がって行くと、年老いた紳士がその家を盗賊から守って下さるようにと神に祈っているが聞こえた。侵入者は仰天した。そして自分の計画を実行することができなかった。彼は戻って行って、その状況を仲間たちに報告した。彼らはその男の臆病さを笑い飛ばした。ところが、彼はそれによって本当に影響を受けたので、その後しばらくして、その状況のことをブラッドビュリー氏に告げ、彼のアシスタントになったのである。

                      

  318.ある昼のこと、一人のクリスチャンの農夫が、町でレストランに入り、ハンバーガーとフライド・ポテトを注文した。それがテーブルに並べられると、農夫は静かに頭を垂れ、食べ物を主に感謝した。隣のテーブルに座っていた人たちは農夫を見ると、彼をからかってやろうと思った。そして、一人がこう言った、 「おい、農夫のおっつぁんよ、あんたのとこじゃ、みんなそうするのかい?」 農夫は答えた。 「いいや、豚は祈らんよ。」

                      

  319.一日の説教 (ペンテコストの日)は10日間の祈りの後になされた。だが私達は、ほんの1日の祈りの後で、10日間説教をする。

                      

  320.ローマ軍の中でも一番有名な軍隊が二つあったが、それは第十軍団と雷鳴軍団とであった。第十軍団は、シーザーの老練な突撃専用部隊で形成されていた。緊急事態が起きてその軍団が召集されるたびに、その軍団は必ずシーザーの思い通りのことを遂行するのだった。雷鳴軍団という名は、哲人皇帝−−でありながら、教会を最もひどく迫害した皇帝−−マルカス・アウレリウスの時代に、在郷軍人に対して与えられたものだった。

  その軍団が 『雷鳴軍団』の異名を受けたいきさつを、テルトゥリアヌスはこう語っている。時は西暦176年、皇帝軍はドイツ軍と戦いを交えていた。ところが、ローマ軍は兵を進めている内に、その野蛮人の敵どもが占拠していた断崖絶壁の山々に取り囲まれてしまったのである。この危険にさらに追い討ちをかけるかのように、軍隊は干ばつに見舞われて喉の渇きに苦しんだのであった。この在郷軍団がクリスチャンによって構成されていて、祈りの力を信じているということが近衛兵の司令官によって皇帝に通告されたのは、ちょうどそんな時のことだった。

  皇帝は言った。 「それならば、彼らに祈らせよ。」そこで軍団の兵士らは地に頭を垂れて、キリストの名によって、ローマ軍を救い出して下さるようにと神に嘆願したのである。彼らがその祈りを終えて立ち上がったのと、ひょうを伴った雷雲が沸き上がるようにして現れたのとは、ほとんど時を同じくしていた。その嵐によって野蛮人らは砦から散らされ、山から下って来てはローマ軍に憐れみを嘆願したのである。皇帝の軍は、野蛮人らの手にかかって死ぬのを免れ、また干ばつによる死をも免れた。それゆえに皇帝は、この軍団を 「雷鳴軍団」を呼ぶようにという勅令を下したのである。また、クリスチャンに対する迫害の手も、これによって幾分緩和されたと言われている。

                      

  321.それは取り立てて何という美しさもない土の器でした。けれども、その器に近寄ると人は皆、それから発散される繊細で馨 (かぐわ)しい香りに魅了されるのです。誰かが陶器師に尋ねました。 「この器には、あなたの店に入って来る人が皆魅了されてしまいますが、あなたは、この器を作った粘度に何を入れたのですか?」  「いえ、何も入れてはいません!でも、私自身、この器の材料である粘土から花のような馨しい香りがいるのに気づいてはいました。だから、この粘土が発掘される場所に行ってみたのです。そこには野ばらが咲き乱れていました。花びらがあたり一面を覆い、芳香がその場所全体に漂っていたのです。毎年毎年、地に落ちるその花びらが、きっと粘土にその香りを与えたのだと思います。」

  私達も、日々の生活から主の恵み、慈しみ、甘美な馨しさがほとばしり出るように、キリストの近くにいなければなりません。

                      

                                             

  322.主が送られるものはすべて必要なものである。主が差し控えられるもので必要なものは何一つない。

                      

  323.祈りの目的は人の意志が天でなされることではなく、神の御心が地上でなされることである。

                      

  324.ちょうど生まれながらの人が呼吸するのが当たり前であるように、霊的な人が祈るのも当たり前である。

                      

  325.時間と労働とを一番経済的に用いる方法は、祈りの内に見いだされる。

                      

  326.どんな問題であれ、最も手っ取り早い解決策は、まずその問題を祈りに浸してしまうことである。

                      

  327.モンゴルでの宣教師であったジェームス・ギルモアは、ある時、負傷した兵士の治療を求められたことがあった。彼は医者ではなかったが、応急処置の心得はあったので、その要請をしりぞけることはできないと感じた。負傷兵の内の二人は、その傷口に薬を塗ってあげるだけで済んだのだが、あとの一人は大腿部の骨が複雑に骨折していた。そのような傷をどうやって処置したらよいものか、宣教師には見当もつかなかった。そこで、その兵士の隣にひざまずくと、彼は主に助けを求めて祈った。

  神がいったいどうやってその祈りに答えて下さるのかわからなかったが、その必要が必ず満たされることには確信があった。その原始的な病院には生理学の本など一冊も見当たらず、医者も一人としてやって来なかった。また、さらに悪いことに、乞食の一団がお金を乞いに来たのである。その宣教師は、患者を深く気づかっていたが、そのぼろをまとった乞食たちも助けてあげたいと思った。それで彼は急いで、彼らに小額の贈り物と、それに加えて、優しい、魂のための忠告の言葉をあげたのである。

  次の瞬間、彼は、帰らずに残っていた、疲れ切ったふうの乞食を、驚きをもって見つめた。飢えで半分死にかかったその乞食は、生ける骸骨よりは少しましという程度だったのだ。だが彼は、主が解剖学の生ける標本を送って下さったことに、はっと気づいたのだった! そこで彼は、その乞食に頼んで体を調べさせてもらった。自分の指で注意深く乞食の大腿部の骨に触れてみて、兵士の骨折を治療する方法を学び、かくして宣教師はその骨折の治療に成功したのだった。

                      

  328.ブリティッシュ・コロンビアの中部の、あるとても人里離れた村の人々のための宣教師が、雑貨店の前で野外礼拝を行っていた。ところがその礼拝は、泥酔状態のカウボーイの出現で突然、中断されてしまった。カウボーイが馬にまたがったまま、宣教師目掛けて一直線に突進してきたのである。その場に居合わせた者たちの内、宣教師が心から発した、神の御座への、指示と助けを求める瞬時の叫びに気づいた者は、誰一人としていなかった。そして彼は、その瞬間にこう決意したのだ。 「主よ、あなたは守ることのできるお方です。でも、たとえ、あの馬とカウボーイとによって私が倒されてしまうことをあなたが許されたとしても、御心がなりますように。」 馬は物凄い勢いで迫ってきて、あともう一歩で、次の脚が宣教師を地に打ち付けようとしていた。ところが、馬は突如その後足を高く上げて急停止したのだった。まるで主の目に見えない保護の壁に阻まれたかのように。ぐでんぐでんに酔っ払ったカウボーイは、三度鞭を振るって宣教師に襲い掛かろうとしたが、三度ともに馬はそれを拒み、結局、その宣教師に致命的な打撃を加えるはずであった最後の一歩を踏ませることができなかったのである。そして、礼拝はまるで何事もなかったかのように、最後まで無事なされたのであった。

                      

  329. 「イエスの御名」によって祈るということは、イエスの御霊によって、イエスの憐れみによって、イエスの愛によって、イエスの感情によって、イエスの思いやりによって、祈るということである。言い換えるなら、それはイエス御自身が祈られるかのように祈るということである。

                      

  330.ある精神病医の報告によると、彼自身は信心ある者のように振る舞うことはしないが、ニューヨーク・シティーでの25年間に及ぶ開業生活の後で、実際に自分が扱った患者の中で、本当に祈り方を知っていた人が一人もいなかったという事実に、感嘆せざるを得なかったということである。

                      

  331.災いは人を祈りに駆り立てるかもしれないが、祈りは災いを追い払う。

                      

  332.以前、私達の教会は高い絶壁の上に建てられていました。教会の前の道路は広かったので、経験を積んだ運転手ならそこで車をUターンさせることはわけないことでした。でも、私は長いこと車に乗っていなかったので、自分の運転に自信がなく、たいていはUターンするのにもっと安全な場所を捜したものでした。ところがある時、私は急いでいたために、がけの近くでUターンしようとしたのです。何が起きたのかわかりませんが、気がついてみると、車が猛スピードで後進していたのです。しかも、ブレーキが効きません。がけの縁の所がわずかに高くなってはいたのですが、車を止められるほどのものではありません。この世のすべての望みはなくなってしまいました。窮地に置かれた私は必死で主に呼ばわりました。すると、その瞬間に車が止まったのです。後輪はがけを突っ切って宙に浮かんだままでした。家に帰ると、私は聖書を開いて感謝の詩篇を捜そうとしました。すると、この言葉に目が留まったのです。 「主は耳を傾けて、私の叫びを聞かれた。主は私を滅びの穴から、泥の沼から引き上げて、私の足を岩の上に置かれた。」その御言葉は、このことが奇跡であったことを、さらにはっきりとしたものにしてくれたのでした。

                      

  333.マラヤの宣教師が二人、自分たちに送られたお金を受け取りに、遠くの村まで歩いて行ったのですが、帰る途中で夜になってしまいました。二人は祈り、自分達の身を神の御手に委ねました。そして人気のない丘の中腹に横たわって眠ったのでした。何週間かして、ある人がミッション病院に治療を受けに来ました。でも、宣教師の医者の顔をまじまじと見つめ、 「前にお会いしたことがあります。」と言うのです。医者は、 「いや、お目に掛かったことがあるとは思いませんが。」と答えました。 「いいえ、お会いしたことがあります! ある晩、あなたは丘の中腹で寝ていました。というのも、あなたがたが銀行からお金を下ろすのを、仲間が見たので、暗くなるのを待ってそれを盗もうと、私達はあなたがたの後を追って行ったのです。でも、近づくことはできませんでした。あなたがたは兵士たちによって取り囲まれていたからです。」 「兵士だって?」 宣教師は驚きました。 「私達には兵士など一緒にいなかったが!」 強盗は言いました。 「いや、確かに兵士たちがいたのです。16人もいました! しかも剣が抜かれていました。私達は縮み上がるような思いで逃げ去って来たのです!」

   「主の使いは主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助け出される」 (詩篇34:7)

                      

  334.祈ると、 「偶然」は起こり、祈らないと、起こらない。

                      

  335.神は、聖徒たちの祈りによって世界を治めておられるのだということを、大多数の人は理解していない。

                      

  337.聖なる人生は、必ずしも常に祈りの部屋の中で送られるとは限らないが、祈りの部屋がなかったら聖なる人生を送ることはできない。 (マタイ6:6)

                      

  338.教師たちよ、準備しておくにはあらかじめ祈っておく必要がある。

                      

 

  339.西タンザニヤのイブガ教会で、神が復活祭の日にどんな働きをなさったかを、あるアフリカ人から聞いたことがある。イブガのクリスチャンたちは、出席者全員を建物に収めることができなかったため、野外で集会を開かなければならなかった。彼らは歌い、礼拝していたが、誰一人、その近隣地を襲っていた災難を知るよしもなかった。

  彼らが礼拝を始めた頃、凶暴な雌ライオンが森から出て来たのであった。普通、ライオンは殺すならその獲物を食べるが、この雌ライオンはただ殺すことだけしか眼中になかった。雌ライオンは家から家へと飛び回り、その行く手にあるものをことごとく襲った。山羊を三頭、牛一頭、それから女性一人、またその子供を! 苦悶の叫びが高まる中、ライオンは、イブガ教会が集会を開いている方向へと走って行った。村人たちは、次に襲われるのは 「ムング・ミュエナ」 (神は善なり)の人たちだと互いに言い合った。雌ライオンが彼らのいた方向に向かっていたからである。

  会衆が気づいた時、その獣はもう数メートルの所まで接近していた。雌ライオンは足を止めると、どう猛なうなり声を上げた。人々はショックに震えおののいた! けれども、牧師は叫んだ。 「皆さん、怖がらないで下さい。ダニエルをライオンの牙から救って下さった神がここにおられるのです。復活し、よみがえられたキリストがここにおられるのです!」 そして、神からの信仰と権威とを持って、牧師は雌ライオンの方を向き、こう叫んだ、 「ライオンよ、イエス・キリストの御名によってお前を呪う!」

  その時、思いがけない、驚くべきことが起こったのである。後にも先にもずっと雨が降っていなかったのだが、青空に点々と浮かんだ雲から、突如、一筋の稲妻が起こって雌ライオンを直撃し、ライオンはその場で死んだのである。牧師は走って行って、その屍の上で躍り上がり、それを説教壇の代わりにして説教を続けたのだった!

  すぐに17人が救われた。その屍 (しかばね)を地元の警察所まで運びながら、村人たちは興奮し、警官と共に口々に言い合った、 「この 『ムング・ミュエナ』の人たちの神は、確かに奇跡の神だ!」と。

                      

  340.祈りは、魂に対しては盾、神に対してはいけにえ、また、サタンに対してはたたりである。

                      

  341.従順の伴った祈りは力である。従順の伴わない祈りはずうずうしさである!

                      

  342.祈りは、聖徒から発せられる時には弱く、活気のないものだが、聖徒の祈りという矢が、キリストのとりなしという弓の中に置かれるなら、それは恵みの御座をも射止めるものとなる。

                                             

  343.神の約束を嘆願して祈る時ほど祈りが力強いことはない。

                      

  344.もうすでに天の父の御元に行っている、ある著名な宣教師が話してくれた話にこんなのがある。ある時、宣教の地において彼は、何がなんでもある場所に大急ぎで行かなければならなかった。ところが、渡らなければならない深い川が氾濫していて、しかも舟も手に入らなかったのだ。人間の見方からして、今その川を渡るのは不可能だった。そこで、彼とその一行は、キャンプを張って祈ることにした。天の父はすべてをことごとくご存じだったのである。祈っていた時、突然、大きなけたたましい物音がしたので、目を開けて見てみると、何年もの間、嵐をしのいで立っていた巨木が倒れて、氾濫している川にちょうどうまい具合に橋を架けたのであった。主はまことに神を信じる者たちを救う方法をご存じである。

                      

  345.共産主義がまだ中国を支配していなかった頃、 「神の愚か者」であるジョン・ティンは神のために力強い仕事をなしました。ジョンは 「小さき群れの福音伝道主義者」の一員でした。その生活と証しとによって、ジョンは多くの中国人をキリストに勝ち取ったのです。彼は、神が世話して下さるということを全面的に信頼してました。次のスリルに満ちた出来事が、それを立証しています。

  ある日、ジョンとその一行は、どうしても渡らなければならない一つの川にさしかかりましたが、水は土手から溢れ、しかも物凄く深くなっていました。ジョンとその一行は追いはぎから逃れようとしていたところでした。人間の力ではどうしようもない、絶望的な状況であるように思われました! でもジョンは言ったのです。 「私達の神は力ある神だ。川を分けて道を開いて下さることができる!」 ジョンは簡単に、また誠意をこめて祈りました。 「ああ、主よ、川の水をせき止め、敵どもから逃れる道を備えて下さい!」 そう言ってジョンは荒れ狂う川にひざまで入って行きました。そして、頭を垂れ、静かに祈りながら、他の者たちに川を渡るようにと合図したのです。一瞬、ジョンの一行はたじろぎました。でも、その時、驚いたことに、水位がぐんぐんと下がっていくのが見えたのです。そして、一行全員が向こう岸に安全に到着したのは、その後まもなくのことでした!

  信じる者の祈りに答えてこの奇跡をなされた神、紅海を分け、ヨルダン川を巻物のように押し戻して主の民を安全に通過させて下さった神は、今でも生きておられるのです! その神は今もその子供たちに熱心に語っておられます。 「わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」 (エレミヤ33:3)

                      

  346.1931年2月、私達の教区は飢饉状態に陥っていました。しかも、小麦の収穫まで、まだ一ケ月もありました。私達は多くの人を助けてきましたが、ある日クリスチャンたちが助けにやって来てくれた時には、もう何も残っていないと告げなければならなかったのです。神は祈りを聞かれるし、またその祈りに答えて下さると、私は彼らに話しました。そして、彼らも毎日午後の時間に祈りに参加すると言ってくれたのです。祈り始めて四日目、集会の途中で私は呼び出されました。何かが起きていると言うのです。北の空には真っ黒な雲が現れてしました。見守っていると、黒雲は私達の教区を覆い、激しい雨を降らせたのでした。しかも、それは普通の雨ではありません。小さな黒い種が、シャベルですくい上げられるほどたくさん、どっと降ってきたのでした。人々は尋ねました。 「何だ、これは?」 似たような質問をした荒野のイスラエルの子らを思い出させます。そして、その種は食べられることがわかりました。しかも量がとても多かったので、収穫の時期まで食いつなぐことができたのです。後でわかったのですが、その嵐はモンゴルで発生したものだったそうです。嵐がモンゴルを襲った時に、この穀物が蓄えられていた場所を破壊したのです。種は、私達の教区まで、2400キロも運ばれて、祈りの答えとなって落ちてきたのでした。

                      

  347.クリスチャンとしての私達の力は、力の源であられる方とのコミュニケーションのあり方で決まってくる。

                      

  348.主を尋ね求めるなら、私達はすぐに、主が決して私達から遠く離れてはおられなかったことに気づく。

                      

  349.祈りは、神の仕事を神の御手の内に委ね、委ねたままにする。

                      

  350.空気が命にとって必要不可欠であるように、祈りは、信仰に必要不可欠のものである。

                      

  351.神の耳は、信じる者の唇のすぐ近くにある。

                      

  352.この全宇宙で、大いなるエホバが服する唯一の力とは、信仰による祈りだけである。

                      

  353.ある朝のこと、私はひざまずき、自動車の免許が取れるように何らかの方法で10ドルを送って下さるようにと神に祈っていました。次の日曜日に                                             

刑務所で説教するのであれば、そこへ行くための手段が必要だったからです。だから、もし私がそこで祈ることを神が望んでおられるのであれば、それは神の問題であって私の問題ではないと、祈っていたのです。

  私が主にそうやって語りかけていた時、妻は下でカーペットに掃除機をかけていました。すると、掃除機の音がやんで、二階まで声が聞こえてきました、 「あなた、10ドルを求めて祈っているの?」

  私は、そうだと答えました。

 「だったらもう祈るのをおやめなさい。ドアの郵便受けに、誰かが今その10ドルを押し込んでくれたわ。」

                      

  354.手おのを持ったインディアン達が、奇妙なテントにこっそりと近づいて行った。だが、用心深く、入り口の布の下から中をのぞくと、彼らはそこにいる人間を殺しにきたことも忘れてしまった。というのも、そのテントの真ん中には一人の男がひざまずいていたのだが、ガラガラ蛇がその祈っている男の足のところをはって行き、そして動きを止めて、攻撃の構えをしたからだ。しかし蛇は攻撃しなかった。蛇はその頭をまた下げると、テントの外にするすると出て行ってしまった。それから長いことたって、テントにいたその男、デービッド・ブレイナードは、自分がそのインディアンの村に行った時、どうして大変な称賛をもって迎え入れられたかを知った。彼は最初、そのインディアン達が自分を殺そうとするだろうと予想していた。しかし、インディアン達の気が変わったのは、彼らの部族の者達が、彼らが目撃した驚くべきことについて報告した為だった。インディアン達は、デービッド・ブレイナードを偉大な霊からの使者として尊敬した。確かにその通りだった。彼が森の奥深くまでやって来たのは、野蛮人達に神の御言葉を伝える為だったからだ。良き仕事に際しては常に、その働き手に、神の保護が共にあるというのは確かに良い事だ。

                      

  355.祈った後で神を信頼していないなら、私達は、祈りにおいて神に嘘をついたことになる。

                      

  356.悪魔は、聴衆に向けられた祈りを聞くのを大いに楽しむ。

                      

  357.冷たい祈りでは決して暖かい答えを得ることはない。

                      

  358.教会の進展の歴史は祈りの歴史でもある。

                      

  360.地上のどこであれ、二人の人が同じ祈りを祈るなら、天国に激動が起こる!

 

  361.人が祈るなら、神は喜んでその人を弾丸や砲弾から守りたいと思っておられ、またそうすることができるという話を、第一次世界大戦のある将校から聞いたことがある。ドイツ軍のマシンガンは、彼の部隊が出たり入ったりするざんごうに照準を合わせて設置されていた。そのために、多くの死傷者が出た。最後の手段として、一斉射撃をしながらざんごうの外に飛び出して行くための志願者が募られた。そして15人が志願した。全員が殺されるかもしれないし、少なくとも大多数が生き残れないということは、みんなが承知していた。たとえ敵の砲火を静めるのに成功したとしても、その背後から鉛の雨を浴びるのを免れる可能性は非常に薄かったのである。この話をしてくれた将校の友人であった若い将校に、その任務遂行の責任が与えられた。そして彼は、ざんごうを出て行く前に、志願者に対してこう言ったのだ。 『みんな、僕はクリスチャンだ。僕はどんな任務でも、それを遂行する前に祈るようにしている。もし祈りたい人がいるなら、この任務の為に僕と一緒にひざまずいて祈ってほしい。』 そう言って、彼がヘルメットを外し、ひざまずいて、自分たちの命を守って下さるようにと、でも、誰であれ死ななければならないなら、その魂が救われるようにと祈ったのである。その祈りが済んで立ち上がると、将校は、志願者全員がヘルメットをはずしてその祈りに参加していたことを知った。そしてざんごうからはい出ると、鉛や鉄の飛び交う中を敵のマシンガンの設置されている場所目掛けて突進した。私達は敵のマシンガン部隊に打ち勝ち、マシンガンをずたずたにし、それを奪い取って自軍のざんごうに戻ったのである。戻って来られなかった者や重傷者は一人もいなかった。これは、それを見守っていた兵士たちにとってまさに奇跡であった。奇跡の時代はもう過去のものだと言う者は、もはやその中に一人もいなかったということだ。神はその 『計り知れないほど大いなる尊い約束』を決して撤回してはおられない。

                      

  362.H・クレイ・トランバルは著書 「個人的な祈り」の中で、ある未亡人のことを書いている。彼女はその二人の子供たちの必要をやっとの思いで満たしていた。ある嵐の夜、彼女の家には次の日に必要な食物が全くなかった。その夜、その未亡人は、二人の子供たちと一緒に祈ったが、その必要については二人に告げないでいた。翌朝になると、彼女は日々の食物のために祈り、天の父は必ず供給して下さると言って聞かせて、子供たちを安心させたのである。主だけがその方法をご存じだったからだ。彼女は、朝食前に海岸まで行ってきれいな砂を集めてくるようにと、子供たちに告げた。カーペットが使用されるようになる以前には、ニューイングランド地方の貧しい家庭では、床に砂を敷き詰めておく慣習があったのだ。子供たちが行ってしまうと、母親はもう一度ひざまずいて日々の食物のために祈るのだった。祈りが済むと、彼女は食卓を整えた。食べ物はなかったのだが。でも突然、子供たちが戻って来た。砂は持っていなかったけれど、その代わりに立派な魚を抱えてにっこりとほほ笑んでいたのである。子供たちは、その魚が嵐の後の引き潮時に海岸の浅瀬に取り残されていたのを見つけ、一緒に捕らえたのだった。彼女は感謝の心に満たされて、そのいつくしみを神に感謝し、朝食のためにその魚を料理した。

                      

  363.時々、あなたの祈りのパターンを変えてはどうでしょうか? 朝目が覚めたらこう尋ねるのです。 「愛する主よ、今日、あなたのために何か私にできることがありますか?」

                      

  364.祈りは世界を動かしておられる方の腕を動かす!

                      

  365.私達が、自分の祈りが答えられたとわかった時に驚くのは、私達の心に不信心がとても深く宿っているからに違いない。

                      

  366.私にはしなくてはならない事が山ほどあるので、その山を片付けることができるためには、まず数時間祈らなくてはならない。

                      

  367.福音伝道アライアンス・ミッションのウィリアム・ハキストは、義和団の時代のある逃走体験をこのように告げている。彼らは6日間旅をして、ある選択の岐路に差しかかった。つまり、その後の旅を陸路で行くか、水路で行くかの決断を下さなければならなかったのである。しかし、漢水はその時、干ばつのために水がなかった。その上、荷物運搬人夫や道案内人たちは、陸路でなければもうこれ以上旅を続けないと言い出した。そこで、現地人の宿屋で祈りの集会が開かれ、神の指示を仰いだ。そして、底の平らな大きな川のボートを二隻手に入れるように導きを受けたのである。彼らは食糧を買い、荷物と一緒に舟に積み込んだ。でも、川には水がなかったのである。 「私達の滞在していた場所は高い丘に取り囲まれていました。でも、祈りながら待機していると、正午になろうかという頃、丘の上に厚い黒雲が立ち込めてきたのです。そして、見たこともないような土砂降りに見舞われたのです。突然の豪雨でした。またたく間に水が川床に満ちてきたので、私達は舟のロープを解いて、難なく川を下って行くことができたわけです。また、陸路を取らずに行くようにとの導きを受けた理由が後になってわかりました。陸路で行ったなら、山中で数百人から成る山賊どもが私達の来るのを待ち構えており、殺しを図っていたからです。神は私達を安全な道へと送って下さったのです。」

                      

  368.開拓をしていた牧師が、こんな体験談をしてくれた。 「私は、ある開拓地で仕事をしていたのですが、馬泥棒と盗賊の一味の首領から敵意を抱かれるようになってしまい、その首領は、 『おまえを殺してやる』 と本気で言っていました。ある日の午後、一人の男が木から落ちて傷を負い、私は呼ばれました。その伐採場に行くには、すでに木が伐採された、荒涼とした土地を通り抜けなくてはなりませんでした。そこを通りかかった時にはもう夜になっていて、突然私は、恐れと胸騒ぎで、震えが止まらなくなってしまい、とうとう、馬からおりて主の御前に自分の苦悩を打ち明けることにしました。すると、震えは止まりました。そしてまた進み続け、何事もなく無事に着くことができました。翌日、盗賊の首領が手下の一人に撃たれ、また私は、死にかかっているその首領のもとへと呼ばれました。その男は、その前の晩、その伐採済みの場所で私を殺そうと待ち伏せしていたことを告白したのですが、 『しかし、おまえと一緒にいた、馬に乗った男たちは誰だ。』 と言ったのです。私が、自分は一人きりだったと言うと、その男は 『違うぞ! 二人の男がおまえと一緒だった。一人ずつおまえの右と左にいたんだ。そして、今まで俺は一度だって、あの男達が乗っていたような馬は見たことがない。奴らは誰なんだ?』 と叫びました。その男は興奮しすぎたために大量に出血し、そのまま昏睡状態に陥りました。そして、二度と意識が戻らなかったのです。私は、その夜自分がおびえていた時に、神が超自然的な保護を送って私を救って下さったのだということを、一度でも疑ったことはありません。」

                      

  369.1940年12月、カナダのナイアガラ・フォールズ市に住むA・E・ギャズビーは、スコットランドのプレスウィックに住む娘にクリスマスの小包を送り、無事に届くようにと祈りました。ところが、その郵便物を運搬していた船がアイルランドの西海岸沖で魚雷を受け、沈没してしまったのです。でも、潮の流れに乗って小包は寸分違わぬ正確さでプレスウィックの海岸まで運ばれていきました。中の物はびっしょりでしたが、何の問題もなく使用できる状態でした。宛て先もまだ判読できたので、その小包はクリスマスの二日後に送り先まで届けられたのでした。

                      

  370.白髪をその後光とし、深いしわの刻まれた頬には涙が流れ、貧しい部屋の洗濯板の上で手を忙しく働かせながら、息子のジョンの為に祈っている老婆を頭に描いてみて下さい。そのジョンという息子は、まだ十代の頃に、船乗りになりたくて家を飛び出していき、かなりの悪人になってしまっていると聞いていました。老婆は、その息子が神に仕えるようにと年中祈っていたのでした。母親は二つの事を信じていました。それは祈りの力と、息子が改心することでした。そして神は、ジョン・ニュートンの心に奇跡を起こすことによって、この祈りに答えられたのです。

  ジョン・ニュートンは船乗りの説教師となりました。また、ジョン・ニュートンがキリストに導いた幾千もの男女の中にはトーマス・スコットがいました。トーマスは、救われる前は、教養はあるけれども、利己的で、自己満足した人間でしたが、この洗濯桶の祈りによって、また一つの奇跡が起こったわけです。トーマス・スコットは、その書いたものと語りとによって、神を信じない人々を何千もキリストに勝ち取りました。そして、その中にも、憂うつで怒りっぽい陰気な若者がいました。ウィリアム・クーパーがその名前です。彼もまた清めの血によって洗われ、一瞬のインスピレーションによって、 「血で満ちた泉がある」を書いたのでした。そしてこの歌は、数えきれないほどの人々をカルバリの丘で死んで下さった方に導いたのです。このすべてが起こったのも、神の御言葉をそのまま信じ、息子の心が洗濯桶の石鹸水のように白くなるようにと祈った、一人の母親のおかげだったのです。

 

  371.戦時中に、絶対的な権限を握っていた日本の警察官は、ある台湾の山里の人全員に、三日以内に警察所に出所して自分がクリスチャンではないことを宣誓しなければならない、さもないと、手足を縛られ、石にくくりつけて高い橋から下の濁流に投げ込まれる、と告げた。クリスチャンはどうすべきかを決めようと、真夜中に集まった。すると、ある人たちはこう言った。 「こうなったら、もうあきらめるしかない。もうクリスチャンでいることはできない。絶対、あの警察官に殺されてしまう。」 すると、年若い少年が立ち上がった。 「でも、体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、むしろ、体も魂も滅ぼすことのできる方を恐れなさい、と言われたイエス様の言葉を覚えてはいないのですか? たとえ殺されたとしても、死ぬのは、僕たちの体だけです。魂は、イエス様の御元に行くのです。」 「その通りだ。」  彼らは互いに言い合った。それから、賛否の票が採られて、すべての人の手が挙がった。皆、死ぬことの方を選んだのである。翌日、警察官は冷酷な笑いを浮かべながら、 「明日はお前たちもこの世とはおさらばだ」と言った。さて、この警察官は釣りが好きだったので、川の中に入って釣りをしていた。すると、石か木かが流されて、その足を打ち、骨を折ってしまった。そして、山里でまだ彼らが祈っていた時、誰かが慌ただしく駆け込んで来てこう知らせたのだ。 「明日、あなたがたを殺そうとしていた人が、たった今、川で溺れ死にました。」

                      

  373.祈りは真剣なことだ。私達の祈った通りのことが起こるかもしれないから。

                      

  374.祈るのがひどく大変な時こそ、非常に熱心に祈るべきだ。

                      

  375.祈りは神の力を引き出すことである。なぜなら、祈りは、神に、私達にできないことをして下さいと頼むことだから。

                      

  376.ひざまずいているクリスチャンには、つま先立ちしている哲学者よりも物事がよく見える。

                      

  377.もし祈りによって自分の生活から罪を追い出すことができないなら、罪が祈りを追い出してしまうだろう。

                      

  378.アフリカのある現地民のクリスチャンが物凄い高熱にうなされていた。宣教師は携帯していた簡単な薬を用いることは用いたのだが、どうしても氷のうが必要だった。しかし、氷など手に入るわけがなかったので、宣教師はその願いをかき消してしまった。すると、発病していた少年の母親が尋ねた。 「大いなる神は、私の愛する子のために、氷を送って下さることができないのですか?」 そして母親は、神は奇跡を行うことを喜ばれると語った宣教師自身の説教を、彼に思い起こさせたのである。 「でも、氷を手に入れられるだろうか、氷を手に入れられるだろうか。」と言う宣教師の疑いには耳も傾けないで、母親は、確固たる信仰を持って 「祈りましょうか?」と言うのだった。二人はひざまずいて祈った。初めに祈ったのは宣教師で、彼は主に、主がすでに知っておられたことを告げ、非常に漠然とした要求をした。けれども母親は言った。 「主よ、もしこの子の癒しに氷が必要なのでしたら、あなたは氷を送って下さることができます。心からそれを信じます。」 その祈りが終わった時、くるみほどの大きさのひょうが小屋の中に転がり込んで来た。外を見ると、戸の外にひょうがたまっていたのである。母親は牧師の体を揺すって、感嘆の声を挙げた、 「大いなる神は、素晴らしい方法で祈りに答えて下さいましたね?」 このひょうは局地的なものだったため、近所の作物は害を被らなかった。そして、息子は完全に回復し、この奇跡の知らせを聞いたすべての人の信仰を大いに増し加えたのであった。そして牧師も、決して神の力を見限ってはならないという教訓を学んだのだった。

                      

                                             

  380.たとえ短い祈りでも、あまりにも御座から遠く離れて生活しているのでないならば、御座に届く。

                      

  382.神の計画を求めて切なる祈りをするよりは、むしろ自分の計画を立てようとするのが、人の常である。

                      

  383.主よ、私達がしなければならないのは、スイッチを入れ、あなたの力によって私達自身を溢れんばかりに満たしていただき、あなたの周波数に合わせる事だけです。あなたは周期的にではなく、常にその場におられるからです! アァメン!−−ダッド

                      

  384.人間の祈りを集めるために地上に遣わされた二人の御使 (みつかい)についての伝説がある。一人は、人間の願い事を集めてバスケットを満たすことになっていた。そしてもう一人は、人間の感謝の祈りを集めることになっていた。しばらくたってから、二人は父の家に戻った。一人は、バスケットを溢れんばかりにいっぱいにしていた。それはおびただしい数の願い事であった。だがもう一人は、悲嘆に暮れ、重い心を引きずって戻ってきたのだった。そのバスケットにはほとんど何も入っていなかったからである。御使は勤勉に捜し求めたのに、人間の感謝の声は地上ではめったに聞かれなかったからである。だから、私達は祈る時、感謝の部分も忘れないようにしようではないか。

                      

  387.もし神との交わりにあって弱いなら、私達はどの分野でも弱い。

                      

  388.効果的な祈りとはカルテットである−−父と、子と、聖霊と、クリスチャンとの。

                      

  389.神のことを人に語って聞かせるのは偉大なことだ。だが、人のために神に語りかけることの方がはるかに偉大だ。

                      

  390.神から何かを望む者は、手を空っぽにして神のもとに行かなければならない。

                      

  391.聖書は神が私達に送って下さった手紙。祈りは私達が神に送る手紙。

                      

  392.祈りとは期待によって受け取ること。

                      

  394.祈りとは、全能なる方の筋肉を動かす細い筋である。

 

  395.祈りとは、創造物である人間が使うことのできるあらゆる武器の中でも、最強のもの。

                      

  396.ひざまずけば、どんな荷でも、負うことができる。

                      

  399.あなたを強くして下さるキリストによって、あなたは何事でもすることができる! 神に助けを求めなさい。あなたが本当に重荷を負いすぎているなら、主は助けて下さる! 本当に助けが必要なら、まずイエスに言いなさい。主を求めなさい!  「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる!」 ただその荷を主のところにころがして、自分はさっさと寝てしまいなさい! 心配事は主に任せなさい! どんな重荷でも負えるほど、そう、ご自身の重荷も含めて、全部の重荷も負えるほど、主の肩は広いのだから!−−ダッド

                      

  400.マッカサー将軍は、アメリカ聖書協会からの訪問者にこう言った。 「疲れ切っていたとしても、就寝前に聖書を読まずに一日を終えたことは、一回としてない。」 (ヨハネ5:39、使徒行伝17:11)

                      

  402.ある伝説には、モーセが羊飼いの祈りを聞いた時の様子が記されている。 「ああ、神よ、あなたがどこにおられるのか、お示し下さい。そうしたら、私はあなたのしもべとなって、あなたの靴を磨き、あなたの髪をとかし、あなたの服を縫って、食事を運んで差し上げましょう。」 するとモーセは、こう言って羊飼いを叱責した。 「神は霊であるのだから、そのように仕える必要などないのだ。」 それを聞くと羊飼いは、失望のあまり衣服を引き裂き、荒野へ逃げて行った。すると、今度はモーセが神に叱責された。 「お前はわたしのしもべを追い払ってしまった・・・わたしが重きをおくのは、語られた言葉ではなく、その言葉の出てくる心なのだ。」

                      

  403.ある暑い夏の日のこと、若い農夫が暑さのせいで疲れきってトウモロコシ畑から戻って来た。農夫は神の御名をみだりに唱えて、雑草が伸び放題のトウモロコシ畑を神の御名をもって呪っていた。結局、農夫はトウモロコシ畑の草取りをすっかり終えた。雨が降り、太陽が昇ったが、トウモロコシ畑には全く実りがなかった。収穫期が来て、農夫は不平を言った。収穫が肥料代にもならないほど貧弱なものだったからである。農夫の妻はクリスチャンだったが、穏やかな口調で夫をたしなめた、 「あなたはトウモロコシ畑を呪って下さるようにと神にお願いしませんでしたか?」 それを聞いた若い農夫は、自分の言葉を思い返して悔い改めた。神は確かに私達の語る言葉を聞かれ、またそれに答えられる。不敬な言葉を吐く多くの人達は、もし自分が何を求めているのかに気づくなら、もう少し自分の語る言葉に注意するようになることだろう。

                      

  405.ほとんどのクリスチャンは、 「主よ、お話し下さい。しもべは聞いています。」と言ったサムエルの祈りを祈らない。彼らの祈り方はこうだ。 「主よ、お聞き下さい。しもべは話しております!」 つまり、主から何かを聞くことを本当に期待してはいないのである。それは悲しいことではないか? しかし神には、自分たちの言い分を聞いていただくことを期待している。けれども祈りの主たる部分とは、単に話すことではなく耳を傾けることにある。もし主に話していただきたいのなら、その御声が聞けるように、あなたは口を閉ざさなければならない!−−ダッド

                      

  406.第二次世界大戦中、日本軍がジャワ島を侵略していた時、マルキッタ・ビショップと呼ばれる女性とその娘は、家を捨てて敵の手から逃れなければならなかった。長い旅の後で二人はあるオランダ人の家にやって来た。そして二人はオランダ人の農園の小さな小屋に滞在させてもらい、食糧まで与えてもらった。

  けれども、その後しばらくして、この人も敵に捕らえられてどこかに連れ去られてしまったため、二人の女性は困り果ててしまった。食べ物がなかったために、二人は飢餓状態に近かったのである。絶望のあまり、二人は地面を掘って何か食べられる根などを探し求めたのだった。

  不意にマルキッタは思った。 「そうだ、神に助けを求めよう」と。そこで、ひざまずき、 「神様、私達は飢えています。食べなければなりません。だから、神様、お願いです。今、食べ物を与えて下さい!」と祈ったのだ。

  すると、ほとんど同時に、大きな鳥が飛んで来た。しかも、くちばしに鶏をくわえながら。鳥は近づいて来ると、その鶏を落とした。二人からほんの数メートルも離れていない所に。そこで二人はその鶏を料理して、命をつないだのだった。

  後になってこの話をしていた時、マルキッタはこう言った。 「もちろん、奇跡は起こるのです。そして、もちろん神はおられるのです。」

                      

  407.ある善良なクリスチャンの婦人がいた。子供たちを抱えた未亡人だった。ナポレオンの軍隊が国を抜けて進軍していた時、彼女は、兵士に家を荒らされてしまうことを懸念して、その夜、家の祭壇でこう祈ったのだった。 「ああ、神よ、この家の回りに壁を築き、私達を敵からお守り下さい。」 子供たちは

ベッドに入ると、互いに言い合った。 「僕たちの家の回りに壁を築いて下さいって祈ってたけど、いったいどんな意味だったんだろう?」 朝になって、その意味がわかった。夜の間に吹雪があって、雪がその家の回りに壁のようになって積もり重なったのである。兵士たちはそこを通ったのだが、そこに家があることには気づかなかった。その母親は、神の約束を用いたのである。だから、あなたも用いることができる。そうしたら、神に答えを感謝できるようになるだろう。

                      

  408.あなたがしなくてはならない一番大切なこととは、神が自分に示されることを聞いたり見たりすることである。それ以上に大切なことなどない。

                                    −−ダッド

                      

  409.1921年の春、エジプトのシナイ砂漠で英国の兵士達が、喉の乾きのために死ぬ寸前だった。

  彼らは、小さな砂漠パトロール隊だったが、激しい砂嵐に見舞われて道に迷い、水がなくなってしまったのだ。死に物狂いの兵士達は、地下水を探し当てることを願いながら、砂を掘ってみることにした。

  突然、一人の兵士が、聖書の中で、モーセが砂漠の岩を打つとイスラエルの民のために水があふれ出てきた章を思い出した。その兵士は、仲間たちに、そこが同じシナイ砂漠だったことを指摘した。そして、近くに岩が突き出ていたので、モーセがやったように自分達も水を探し当ててみようじゃないかと言った。

  苦しみのあまり、何でも信じようという気になっていた兵士達は、直ちに自分達が持っていた小さなつるはしをその突き出た岩に打ち込み始めた。彼らが無我夢中でその岩を打っていると、奇跡が起こった。その岩の表面から、澄んだ、甘い水がぽたぽたと落ちてきたのだ。

  その岩は実際に柔らかい石灰岩で、その一部が、隠れた泉をおおっていたのだった。この水のおかげで、兵士達は生き延びることができた。そしてついに、彼らは救出され‥‥旧約聖書の奇跡は20世紀にも起こりうるということの証明となった。

                      

  413.デービッド・ブレイナードは大いなる霊的な力を持った人だった。彼が祈りによって成し遂げた働きは、ただただ素晴らしいものである。A・J・ゴードン博士は、ブレイナードの次のような体験談を紹介している。

   「森の中奥深く、たった一人きりで、インディアンの言葉も話せなかった彼は、来る日も来る日も文字通り祈ることで一日を過ごしていた。一体何の為に祈っていたのか? 彼は、それらの野蛮人に自分の力で救いの手を差し伸べる事ができないと知っていた。言葉すらわからなかったのだから。もし少しでも話そうと思うなら、自分の思いを漠然とでも通訳することのできる者を見つけなければならなかった。だから、彼がすべきことは、何であれ、神の力によってなされなければならないと、彼は知っていたわけである。

  そこで彼は来る日も来る日も一日中祈っていた。ただ聖霊が彼に臨んで、これらの人々が何の誤解もなく、その霊の力に圧倒されてしまうようにと。で、その答えはどうだったのか? ある日彼が説教をした時、通訳者はひどく酔っ払っていて、立つこともできないほどだった。ブレイナードはより良い通訳者を見つけることができなかった。しかし、その説教を通して何十人もの人々が改宗した。そして、それはただ彼の背後におられた神の驚異的な力によるものとしか言えないのである。

                      

  414.もし街頭や公園での証しや宣教があまりうまく行かないなら、立ち止まって祈りなさい。あなたにできないなら、神にしていただきなさい! コンピューターがどうしてもうまく作動しない時にも、仕事を止めて、コンピューターに手を置き祈りなさい!ひよっとしたら、悪魔かその手下どもが入り込んでいるのかもしれないからだ! また、料理がうまく行かないようなら、手をやすめて祈りなさい! そして、何かの理由で帳簿の差し引きが合わないなら、中断して祈りなさい! もしかしたら、その計算が狂うように、どこかで悪魔が策略をたくらんでいたり、妨害したりしているのかもしれないのだから!−−ダッド

                      

  416.主よ、祈りに答えて下さったことを感謝します! 私達の命をながらえさせて下さったこと、また、私達を縮み上がらせて、私達がいかにあなたに依存しており、あなたの愛情深い保護の手とやさしい愛の溢れる世話なしにはやって行くことができないかということを再認識させて下さったことを感謝します。そして主よ、こういった試練や災いや患難を通して、祈ることを思い起こさせて下さったことを感謝します!  「私達は、失望せずに常に祈る必要がある」 (ルカ18:1)し、あなたとあなたの保護とに依存していることを忘れないようにし、あなたに語りかけ、私達があなたなしではやって行けないことをあなたに思い起こさせ、私達の世話をお願いする必要があるのです! あなたは、私達が私達の愛と信仰とあなたへの依存を表明するのを聞きたいし、見たいのです。そして、それをした時に、あなたは答えて下さるのです。−−ダッド

                      

  417.愛する主よ、私達が自分の意志や考えや思いを持たず、ただあなたが私達のために用意しておられるものを喜んで受け取るのを助けて下さい。捜すなら、見いだすからです。 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ。そうすれば、開けてもらえるであろう。」 (マタイ7:7) 義に、そして答えに、飢え渇いている者は、満たされるようになる! (マタイ5:6)

                                    −−ダッド

                      

  418.主があなたに教訓としてほしいことも、もしあなたが時間を取って主に、 「あなたは何を私に示したがっておられるのですか?」 と尋ねないなら、それは教訓にならないかもしれない。−−ダッド

                      

  419.主はここにおられる! だから、座って主に話しなさい。そして、主に語っていただきなさい。それこそが一番重要なことだから。−−ダッド

                      

  420.祈る時には、ただひざまずいて、自分の言いたいことを述べるだけではなく、主にご自分の言いたいことを語っていただくことも忘れてはいけない! そして、主が答えられるまで待つことだ!

                                    −−ダッド

                      

  423.あなた達はこう言う。 「どうして主は祈りを簡単にして下さらないのですか? どうして霊たちは私達に何かを伝えるのにそんなに苦労するのですか?」  しかし、あなた達は、現在存在している波長や、空中にある音を、すべて敏感にキャッチしてはいないことを感謝しないのかい? もしそんなのを全部聞き取れるなら、ぞっとするとは思わないのかい? そうなったら、あなた達は悪いものも沢山受け取っていることだろう? そういうわけで主は、あなた達が本当に正しいシグナルを求め、それを見つけ出し、それに波長を合わせなくてはならないようにされたのだ!−−ただスイッチを入れるだけでなく。私は沢山ペンテコステ派の人達を見たが、全く彼らはスイッチが入っていてものすごく夢中だ。しかし、ペンテコステ派の人達には、どうやって波長を合わせるかや、それから何かをどうやって受け取るかが全くわかっていないようだ! 彼らが受け取ったものは、感情ばかりだった。彼らは、波長を合わせて、主から何かを受け取る方法を学ぶ必要がある! 私がほとんどのペンテコステ派の教会で聞いた異言は、ただしゃべりまくるだけで、誰もそれから何かのメッセージを受け取ってはいない!−−ダッド

                      

  424.祈りは仕事である! 真の必死な祈りは戦うことである!−−ただ平穏にいやしの節を引用するのではなく、祈りにあって本当に必死になり、勝利を目指して本当に戦っていることである!−−ダッド

                      

  425.祈りはあなたの姿勢とは何の関係もない。立って祈ってもいいし、ひざまずいてもいいし、座っていてもいいし、横たわっていてもいいし、歩き回っていてもいいし、キッチンで働きながらでもいい! キッチンというのは、あなたが本当に沢山祈っていなくてはならない所だ。なぜなら、そこは危険で、とても大切な部屋だから。しかし、そこは、耳を傾けるのに最も適当な場所というわけではない!

                                    −−ダッド

                      

  426.祈ったり、冥想したり、主と二人だけで静かになって、主と直接に交わりをするというのは、非常に必要なことである。何故なら、あなたの思いが一日の出来事でいっぱいの状態の時に、主があなたにその言わんとしておられることを伝えるのは、ちょっと難しいからである。−−ダッド

                      

  428.時に、私達が問題をかかえるのを主が許されることがあるのは、それによって私達に答えを与えるためなのかもしれない! 主は、私達が祈るのを、また、私達だけでは自分たちの問題を解決できないと知るのを好まれる! 結局のところ、もし全てのことを自分たちで考え出し、問題をいっさい解決することができるとしたら、主は必要ではなくなってしまう! そこで主は、私達には主が必要であることを、また祈らなければならないことを示すために、時折、私達に少しの問題を抱えさせられる。私達が主に依存していること、主が必要であることを思い起こさせるために、主は答えを与えることを好まれる。また、私達が主を愛し、主に感謝することも好まれる。だから主をほめたたえよ! アァメン? 主は私達が主の助けを感謝し、そのことのゆえに主を愛することを好まれる−−ちょうど、父親と同じである!−−ダッド

                      

  429.あなたは毎日神から聞くことができる。また、毎日、神から聞いているべきである! 神は、その子供たち、つまり、神とその御心と御言葉とを個人的に知っている者たちが、自ら親しく、直接に神に触れ、誰か他の人の信仰や祈りによってではなく、じかに神と接触することを期待される。−−ダッド

                      

  430.もし主から聞きたいのなら、もし自分の声以外のものを何か聞きたいのなら、そのスイッチを入れて、整調しなければならないだろう! それには少しの努力、少しの集中力が必要だが、もし十分な時間を取って、他の物事が邪魔にならないように頭の中から追い出し、ただ神に注意を払うなら、神の声を聞くようになる。−−ダッド

                      

  431.神はあなたに必要な器具をすべて与えておられる。あなたは神を持っており、力を持っている。