神との交わり:賛美と感謝

 

 

  1.賛美と感謝を捧げることで始めなさい。主からもうすでにいただいている祝福を主に感謝していないなら、主にしたって、あなたの祈りに答えて、あなたがほしがっている何か別の物を与えてあげたいという気持ちにはならないだろう!

                     

  2.ちょうど私達が、求める物事に関して神に明確であるように、神が与えられる物に対して感謝する際にも、私達は明確であって、求める時に必死であったのと同じくらいの熱意をこめて、神に感謝

を捧げるべきである。

                     

  3.目が見えることを、あなたはどれだけ神に感謝したことがありますか? ある避暑地で観光者の一行がホテルの階廊から夕焼けを眺めていたのですが、あまりロマンチックではなさそうな小太りの男性が、その夕焼けを最後の最後まで、その輝きがついに消え去ってしまうまで、じっくりと楽しんでいました。そして、そのすべての美しさに、ぞっこん感動し、じっくりと堪能している様子でした。それを見ていた一人の客は、どうしてかなと思い、夕食の時に隣に座った彼にこう尋ねました。 「Bさん、あなたは本当にあの夕焼けを楽しんでおられましたね。画家か何かなのですか?」  「いいえ、奥さん、私はただの鉛管工です。」  その男性はにっこりとほほ笑みながら答えました。 「でも、私は5年間、目が見えなかったのです。」

                     

  4.ある一家の主人が、朝食時にいつものように食前の祈りをし、その豊かな供給を神に感謝しました。ところが、そのすぐ後に彼は、自分がひどい目にあっていることや、自分の食べなければならないまずい食事のこと、その調理のされ方について愚痴をこぼし始めました。

  すると、その様子を見守っていた幼い娘が、こう口をはさみました。 「お父さん、ちょっと前にお父さんが言ったこと、神様、聞かれたと思う?」

   「ああ、もちろんだとも。」 父親は確信たっぷりに答えます。

   「じゃあ、ベーコンやコーヒーについて、お父さんが今言ったことも?」

   「ああ、そうだね。」 今度の答えはあまり確信はありません。

   「それならね、お父さん、神様はそのどっちを信じたの?」

  私達は神の子供として、主が注ぎ込んで下さる祝福を、私達は確かに神に感謝することを覚えています。ところが、私達はよく、この父親のようにしてはいないでしょうか? 私達の言葉と行いとが、私達が口にする感謝の言葉と大きく異なっているようなことがしばしばあるのではないでしょうか?

                     

  5.愚痴をこぼすな。キーキーときしむ歯車は取り替えられてしまうことがよくある。

                     

  6.あなたは首の痛みを訴えているが、それは、あまりにも後ろを振り返り過ぎたことの結果かもしれない。

 

  7.幸福は、自分のトラブルを嘆くのを止め、遭遇していないすべてのトラブルに対して感謝を捧げる時に、やって来る。

                     

  8.満足するには、今現在、自分が持っているすべての物を失ってしまった後で、もう一度、それを取り戻せたとしたら、どんなに幸せであるかを考えるだけでいい!

                     

  9.幸福は、心の中に存在するのであって、状況の中にあるのではない。

                     

  10.あるクリスチャンの将軍とインドの判事とが軍隊の遠征に出ていた。二人がイスラム教地区にやって来ると、あるクリスチャンの宣教団体に属する数人の婦人に出会った。インド人の判事は、この洗練された女性宣教師たちに感銘を受けて、こう言った、 「この婦人方がいったいどうしてその時間を割き、町のこんなにも不潔な場所で働いて、自らを危険にさらしていられるのか、私には理解できません。」 将軍は答えた、 「それは、彼女らの動機を知らない限りは、ちょっと信じられないものですね。」  「ああ、そうです。それが私にはわからないのです。」  「彼女らの動機は感謝の気持ちです。」  「感謝の気持ちですって? この御婦人方が感謝の気持ちをいだくようなどんなことを、私達の貧民たちがしたと言われるのですか? 是非、説明して下さい。」  「その説明をするには、私達の宗教とあなた方の宗教との本質的な違いをお話する必要があります。」  「是非、説明して下さい。聞きますから。」 そこで将軍は、金銭問題で困り果てていたところ、ある親切な見知らぬ人からその借金を支払ってもらったある友人の話をしたのだった。そして、こんな説明を付け加えた。 「私達の負債は支払われ、今私達は自由になってはいるのですが、その支払いを私達の為に済ませて下さった、私達の救い主イエス・キリストに、私達は心の底から感謝の気持ちを抱いています。そして、これがこの女性宣教師たちの動機を説明しているのです。つまり、彼女らには、たった一つの動機しかありません。それは、自分たちの負債を支払って下さった方に対する感謝の気持ちを表そうということなのです。」

                     

  12.キリスト教聖職者が、その一年間の教区報告に以下の項目を含めた。 「海で9人が死亡」 会衆がショックと驚きとを隠し切れないでいると、聖職者はこう付け加えた。 「さて、安全に出航できるように祈りを要請してきた人は11人いましたが、安全に帰ることができたので感謝してほしいと頼んできた人は2人しかいませんでした。だから私は、あとの9人は海で亡くなられたと思うわけです。」

                     

  13.祝福は指で数えて、不幸は計算機で数えるというようなことをすべきではない。

                     

  14.私達のお気に入りの態度は

        感謝であるべき。

                     

  15.自分の持っている良きものを感謝しない人は、手に入れたいと思っているものを手にしても、幸せにはならない。

                     

  16.感謝の言葉を忘れる人は、幸福と語り合うような間柄にはなれない。

                     

  17.自分の受け取ったものに対して感謝できないなら、自分が免れた事に対して感謝しなさい。

                     

  18.礼拝すること、それはクリスチャンの生活の一部ではなく、クリスチャンの生活そのものである。

 

  19.礼拝とは、一被造物による、その創造主の偉大さの宣言である。

                     

  20.ちょうど私達が暗い家には住みたくないように、キリストも悲しい心に住むことを喜ばれない。

                     

  21.エジンバラのアレキサンダー・ホイト博士は、その説教壇での祈りによってよく知られていた。彼は、たとえ状況が芳しくない時でも、常に何か神に感謝することを見つけたものだった。ある嵐の朝、会衆の一人がこう独り言を言った。 「こんな陰うつな日には、牧師さんだって、神に感謝するものが何もないだろう。」 ところが、ホイトは祈り始めた、 「神よ、あなたに感謝します。いつもこのような天気でないことを。」

                     

  22.著名な学者マシュー・ヘンリーは、ある時、強盗どもに襲われて財布を奪われたことがある。以下は彼の日記に綴られた言葉である。

   「まず、感謝させて下さい。私が以前に一度も物を盗まれたことがないことを。第二に、財布は奪われたけれども、命は奪われなかったことを。第三に、私の全財産は奪われてしまったけれども、たいしたものではなかったことを。最後に、強盗にあったのが私であって、私の方が強盗を働いたのでないことを。」

                     

  23.今は主の御元に行っている、スコットランドの著名な盲目の牧師、ジョージ・マセソンはこう言っている。 「わが神よ、私はこれほどにも自分の 『とげ』をあなたに感謝したことはありません!自分のバラのことであなたに感謝したことは数知れませんが、自分の 『とげ』に感謝したことは一度もないのです。私は、自分の十字架の報いを今ここにある栄光として受けるようになる世界を待ち望んできました。私の十字架の栄光を教えて下さい。私の 『とげ』の価値を教えて下さい。私があなたの御元に上って行ったのは、痛みという道を通ってであったことを示して下さい。私の虹ができたのは、私の涙のお陰であったことを示して下さい。」

                     

  24.毎朝、早く起きなければならないことで愚痴をこぼしてはいけない。永遠に起きれなくなる時が来るかもしれないのだから!

                     

  27.物事が昔のようではないと言う年老いた偏屈者の何人かは、その中に自分を含めるのをいつ

も忘れている。

                     

  28.すさまじい雷雨のお陰で、バスルの町は、その地域を包囲していたロシア・ハンガリー連合軍の砲弾から守られたことがあった。神を敬うそこの町の人たちは、神への感謝の気持ちをこめて、感謝の捧げ物として、クリスチャン宣教師の養成学校を創立した。これが、何百人もの宣教師を送り出した、偉大なるバスル宣教師協会の起源である。彼らはその感謝の気持ちを実践に移したのであった。

                     

  29.昔、スペインにアルフォンソ12世と呼ばれる良い王様がいました。さて、王宮にはべる騎士見習いたちが日々の食事を神に感謝するのを忘れたということが、王様の耳に入りました。そこで、彼らを叱ってやろうと心に決めたのでした。王様が彼らを宴会に招くと、彼らは皆出席しました。食卓にはありとあらゆる良き物が並べられ、見習いの騎士たちは心ゆくまで味わったのでした。けれども、食物を神に感謝することを覚えていた者は一人としていません。

  一同がまだ食事をしている時に、薄汚れた、みすぼらしいボロをまとった乞食が入って来ました。その乞食は王様の食卓に座し、心ゆくまで飲み食いしたのでした。最初、見習い騎士たちはあっけにとられていましたが、きっと王様がその乞食を追い払うようにとの命令を出されると思いました。しかし、アルファンソは一言も言いません。乞食は食事を終えると、感謝の言葉を一言も言わずに立ち去って行きました。するともう、見習い騎士たちは沈黙を守っていられません。 「いったい何という見下げた礼儀知らずなんだ!」 見習い騎士たちは口々に叫びました。

  ところが、王様は彼らを黙らせると、はっきりとした、穏やかな口調で、こう言ったのです。 「諸君らは、この乞食よりもはるかに厚かましく、はるかに傍若無人だったのだ。あなたがたは毎日、天の父の豊かさによって供給される食卓についているが、神の祝福を求めることも、また神に向かってあなたがたの感謝の意を表明することもしない。」

                     

  31.もし、ぬかるみを愚痴るなら、

        雨を求めて祈るべきではない。

                     

  32.贈り物は、その寄贈者に感謝するまでは、自分のものにはならないという言葉には、一理ある。

                     

 

  33.天国とは、私達が受けるに値しなかったものを受け取ったことに対して、また、私達が受けて当然だったものを受け取らなかったことに対して感謝している心の状態。

                     

  34.持っているものを感謝し、持っていないものを残念がらないこと。

                     

  37.神への賛美をあまりにも語り過ぎることを心配する必要はない。それをあまり語らないことに危険が存在しているのである。

                     

  38.祈りで勝ち取られるものは、賛美をもって着飾らなければならない。

                     

  39.クリスチャンがもっと神を賛美するなら、この世の人々が持つ神への疑いは少なくなるだろう。

                     

  40.大海のような憐れみに対して、一滴の賛美しか返さないというのは、全く十分な謝礼とは言えない。

                     

  41.賛美を他に知らせないようにするということは、主からその栄光の半分を剥奪していることである。

                     

  43.少しの賛美は、陰うつなムードを一掃する一番の方法である。戦争で唖になってしまった人を知っていた。それは、爆弾性ショックによるものだった。ある日曜日、その人は日曜礼拝に出席していた。そこでは詩篇 100篇−−賛美の詩篇−−が朗読されていた。その退役軍人は、自分が唖であるのも忘れて、神の慈しみをほめたたえ始めたのだった。すると、話せるようになってしまったのである!

                     

  45.あるらい病者の隔離地区を尋ねていた医者が、快活な歌声を耳にした。それは、年老いたらい病患者の歌声だった。医者には彼女の様態が思わしくないことがわかっていた。 「こんにちは。今日はかなり気分が良さそうですね、−−とっても幸せそうに歌っているから。」

  すると、彼女は苦痛に歪んだ顔を医者に向けて、こう答えた、 「先生、傷が痛くて痛くて、歌わずにはおれないんです!」

                     

  46.南北戦争でのある激戦の後で、死にかかっていた一人の何軍兵士が軍の付き添い牧師に会うことを願った。やって来た牧師は、その兵士の願いはきっと回復を神にとりなすことだと思ったが、それは全く見当違いであった。兵士がまず最初に願ったことは、母親に送るために自分の髪をひとふさ切り取ってほしいということだった。それから、牧師にひざまづいて神に感謝することをお願いした。驚いた牧師が、 「何のために?」と尋ねると、「こんなにも素晴らしい母親を与えて下さったこと。私がクリスチャンであること。死ぬ時の恵みを与えて下さっていること。そして、かなたに約束して下さった故郷のことのために。」 そこで、牧師は死にかかっている兵士のそばにひざまづいた。そして、祈りの内に捧げたのはただ賛美と感謝の言葉ばかりで、願い事は一言もなかったのである。

                     

  47.祈りにとって最高の環境とは、

        賛美である。

                     

  48.私達は、ただ時折やしの葉を振りかざすだけではなく、常に賛美の衣をまとっているべきである。

                     

  49.礼拝とは、私達が私達の関心事、熱意、そして忠誠心を捧げる対象である。

                     

  50.たとえ過酷な患いを与えられても、心をこめて神をたたえなさい。

                     

  51.神が何よりも優しく耳を傾けて下さるのは、主のいつくしみと、主がその子供たちを救って下さるそのくすしきみわざとに対するテスティモニーによって、主の子供たちが互いに助け合っている時である。

                     

  53.何事も思い煩ってはならない。

        何事にも祈りをこめよ。

        どんな事にも感謝せよ。

                          D・L・ムーディー

                     

  54.祝福して下さる方をほめたたえずに、自分の祝福を数えることをしてはいけない。

                     

  55.感謝すること以上に緊急を要する任務はない。

                     

  58.賛美は、あらゆるいけにえの中でも最高のものであり、信心深さの真の証拠である。

 

  59.もし新生児が家中にその泣き声を響き渡せるほどの肺活量を持っていないなら、それは悪い兆候である。それと同様に、新しく主を受け入れた者が生まれ付きの唖であって、皆に聞こえるように神をほめたたえる声を持っていないなら、これもまた悪い兆候である。

                     

  60.新旧を問わず、聖書の中でほとんど他のどんな任務にも増して強調されてるのは、主にあって喜ぶことである。喜ばないのは、悔い改めないのと同様に罪である。

                     

  62.偉大な音楽家ハイドンは、彼の教会音楽がどうしてそんなにも快活であるのかと問われて、こう答えた。 「神のことを思うと、私の心は喜びに満ち満ちて、私のペンから音符がひとりでに踊ったり跳ねたりしてしまうのです。また、神は私に快活な心を与えて下さっているので、快活な霊をもって神に仕えることが許されているのです。」

                     

  63.しわは、ほほ笑みのあった箇所を示しているべきである。

                     

  64.祈りに熱烈であっても、賛美に冷めていてはならない。

                     

  65.満足感は貧しい人をも富ます。不満は富んだ人をも貧しくする。

                     

  66.家庭とは、私達が最高の待遇を受けていながら、一番たくさん愚痴をこぼす場所である。

                     

  67.悲観主義者: 良くなった時に、気分が悪くなることを心配して、気分が良くても気分が悪くなる人のこと。

                     

  68.自分の持っている物で満足するのはいいが、今のままの自分で満足してはいけない。

                     

  70.少しの物に感謝している人は、大いに楽しむ。

                     

  73. 「私はどんな境遇にあっても、足ることを学んだ。」  不当な扱いを受け、不正にも投獄され、そしてついには死刑執行人の斧の犠牲者となった人の口から発せられたものでなかったなら、この言葉もたいした意味を持たなかったことであろう。−−使徒パウロである!

 

  74.サタンは慢性不平症患者である。クリスチャンは生ける賛美歌でなければならない。

                     

  75.私のスウェーデン人のおじいちゃんはいつも、食後に食事の感謝を主に捧げた。人から何かをしてもらって感謝するのは、普通、何かをしたもらった後ではないだろうか? 食前であれ、食後であれ、主に感謝する限り、主はそのどちらでも気になさらないと思う。−−ダッド

                     

  76.感謝を捧げることは良い。感謝に生きることはもっと良い。

                     

  77.ジョージア州アトランタの連邦刑務所の牧師をしていたパーク・タッカー博士は、人生全般に関して気が重く、憂うつで、悩みを抱えながら、ある町の通りを歩いていた時の話をした。通りを歩いていて、ふと見上げてみると、通りを隔てた向こう側に葬儀場があるのに気づいた。そして、自分の見ているものが目の錯覚ではないのかと思い、彼はまばたきを繰り返した。

  ところが、やはり、その葬儀場の窓には大きな看板があって、太い文字で次のように書かれていたのである。 「何故、半分死んだような顔付きで歩き回っているのですか? 埋葬代69ドル50セントであなたを埋葬して差し上げます。追伸:尚、ブルースタンプも差し上げおります。」 タッカー博士は、そのユーモアが自分の魂の良薬となったと語った。多くの人々は半分死んだようになって歩きまわっているが、それは、悩んで問題が大きな山のようになって、そこには道すら見いだせないほどになり、そうした運命に身を任せてしまっているからである。

                     

  78.いちじくの木は花咲かず、

        ぶどうの木は実らず、

        オリデの木の産はむなしくなり、

        田畑は食物を生ぜず、

        おりには羊が絶え、

        牛舎には牛がいなくなる。

        しかし、わたしは主によって楽しみ、

        わが救いの神によって喜ぶ。

                             (ハバクク3:17,18)

                     

  80.賛美と感謝で始めなさい。主がすでに与えて下さっているもろもろの祝福を主に感謝しないなら、あなたが何か他のものをほしがり、それを与えて下さいと主に祈っても、主はその祈りに答えたいとはあまり思われないだろう!

 

  81.私達の先祖は13世紀まで砂糖なしでやってきた。また、14世紀までは石炭による火なしで、15世紀まではバターを塗られたパンなしで、16世紀まではジャガ芋なしで、17世紀まではコーヒー、紅茶、スープなしで、18世紀まではプリンなしで、19世紀までは卵、マッチ、電気なしで、20世紀までは缶詰なしでやってきた。さて、あなたは何を愚痴っていたのか?

                     

  82.時々、うんざりして、人生にあきあきしたら、次のような言葉を自分に語りかけると、心のときめきをよみがえらせることができる。

  今この時しか時間がなかったとしたら。この夕焼けも、この月明かりも、この交響曲も、このバターがたっぷりと塗られたトーストも、この眠っている子供も、この空にたなびく旗も・・・もう二度と味わうことができないとしたら!

  実際、それ自体を取り上げたら、陳腐でつまらない物はほとんどない。ただ、歳月の経過に伴って鈍くなってしまうのは、そういった物事に対する私達の反応の方なのである。

                     

  83.ある所に、幸せになれないで苦しんでいた王様がいました。占星学者に尋ねたところ、その苦しみをいやす唯一の方法は、ある幸せな人を見つけて、その人のシャツをもらい、一昼夜それを着ていることだと言われました。そこで、王様の権威の及ぶあらゆる所に使者が遣わされ、そのような人を探し歩いたのでした。幸せな人を見つけたならば、必ずその人のシャツを持ち帰るようにとの命令を携えて。

  何ケ月かたち、国中をくまなく探し歩いたというのに、使者たちは手ぶらで戻って来るだけでした。シャツはどこでも手に入らなかったのです。

   「私の国中で本当に幸せな人を誰か見つけてきたか?」 王様は尋ねました。

   「はい、王様、たった一人だけいました。全国でただ一人だけです。」

   「それならば、どうしてその人のシャツを持って帰らなかったのか?」 王様は強い語調で言いました。

   「王様、その人はシャツを持っていなかったのです。」

                     

  84.クリスチャンは感謝に満ちた態度を持っているべきだ。

                     

  85.私はヘラルド・アボットをもう何年も知っています。彼はミズーリ州ウェッブ・シティー、南マジソン・アベニュー820に住んでいます。彼は昔、私の講師でした。ある日、私がカンサス・シティーで彼と出会うと、彼はミズーリ州ベルトンにある私の農場まで車で送ってくれました。車の中で、どうやって心配しないようにしているのですかと彼に尋ねると、彼はある霊感に満ちた話をしてくれました。私はその話を決して忘れないでしょう。

   「私はくよくよ心配ばかりしていたものでした。ところが、1934年のある春のこと、ウェッブ・シティーのウエスト・ドーティー・ストリートを歩いていたら、自分の心配事をすべて消し去ってしまうような光景を目にしたのです。そのすべてはわずか10秒の間に起こりました。けれども、その10秒間に、私は生き方について、それまでの10年間で学んできた以上のことを学んだのです。私は、2年間、ウェッブ・シティーで食糧雑貨店を経営していました。蓄えをいっさい失ってしまったわけではありませんが、私は大きな負債を抱えてしまって、その返済に7年間もかかったのです。自分の経営していた食糧雑貨店は前の週の日曜日から閉店していたし、その時、私はマーチャンツ・アンド・マイナーズ銀行から借金して、カンサス・シティーに行き、仕事を見つけようとしていたのでした。

  私の歩く様はまるで敗北者でした。闘志も信仰もすっかりなくしていました。ところが、通りを歩いていると、突然、両脚のない男の人が目につきました。木で作った板の座にローラースケートの輪をつけた物の上に座っていたのです。そして、道を行く時には両手に持った木片で道路を滑走していました。私がその人を見たのは、その人が大通りを横切った直後のことで、ちょうど歩道の縁石までの数センチ分、自分の身を上げていたところだったのです。そして、彼がその木製の座を傾けた時に、私達の目と目が合ったのでした。すると、大きなほほ笑みで彼は私に挨拶してくれました。 『おはようございます。今朝はいい天気ですね。』 そのような快活さで彼は挨拶してくれたのです。

  立ち止まって彼のことを見つめていた私は、その時、自分がいかに富んでいるかに気づいたのです。私には二本の脚がありました。歩くこともできるのです。自分を哀れんでいたその態度に、私は恥ずかしくなりました。そして、こう自分に言ったのでした。 『もしあの人が、両脚もないのに、あれほど幸せで、快活で、自信に満ちていられるなら、脚のある私には確かにそうなれるはずだ』と。すでに、心が軽くなるのがわかりました。私は、マーチャンツ・アンド・マイナーズ銀行で 100ドルだけしか借りるつもりがありませんでした。でも、 200ドル貸して下さいと頼む勇気が涌いたのです。そして、その理由としては、カンサス・シティーに行って仕事を探すつもりだと銀行に言うはずだったのですが、今では、カンサス・シティーに行って仕事に就くのだと確信をこめて言ったのでした。そしてお金も借りることができたし、仕事にも就くことができました。

                     

  今、バスルームの鏡には、次のような言葉が貼られています。そして毎朝、髭を剃るたびにそれを読むのです。

  靴がなかったので、私はすっかり落ち込んでいた。

  そんなある日、私は町である人に出会った。

  よく見ると、彼には足もなかったのだ。」

                     

  86.人々がビリー・グラハム夫人にこう尋ねた。 「たいてい出かけていて家にいないような人とどうして結婚していられるのですか?」 すると夫人はこう答えた。 「私には、誰か他の人がずっと一緒にいるよりは、ビリー・グラハムがほんの少しでも一緒にいてくれるほうがいいんです!」  アァメン? あなた達は少しでも神が与えられたものに感謝していたほうがいい。さもないと、神はそのすべてをあなたから取り返されるかもしれない!

                                  −−ダッド

                     

  87.自分がほしいものを持っていないからと言って不平を言ってはいけない。むしろ、自分が受けて当然のものを受けないでいることを心から喜びなさい。

                     

  88.私が愚痴をこぼすのは、自分の試練がとても大きいからではなく、自分の信仰がとても小さいからだ。

                     

  89.もし今持っているものを楽しめないなら、もっと多くのものを持って、いったいどうやって幸せになれるのか? 

                     

  90.人生は、その終わりが来る時まで、その真価を感謝できないことがよくある。

                     

  91.人を感謝の気持ちで満たすのは、ポケットに入っているものではなく、心にあるものである。

                     

 

  96.私達は、当然そうあるべき私達ではない。また、そうなりたいと望んでいる私達でもない。また、これからそうなるであろうような私達でもない。だが、神に感謝しなさい。私達が過去の私達でないことを!

                     

  100.主が、主によって地獄から救い出された者たちに対して、主に感謝の気持ちを表すようにと嘆願するというのは、何と奇妙なことだろうか。

                     

  103.今日バスに乗っていたら、金髪のかわいい女の子がいた。

  その子がいかにも明るく楽しそうだったので、

  私もあんなに奇麗だったなら、

  とうらやんでいた。

  すると、その子は立ち上がって

  バスから降りようとした。

  ところが、

  何とびっこを引いて歩いているではないか。

  片足がなく、松葉杖をついていた。

  でも、通り過ぎるその目には、笑みがあった。

      ああ、神よ、

    私が不平を言っていたことを許して下さい。

    私には足が二本あるのだから!

 

そして、ある店に寄って買い物をした。

  店番の子供には

  とても人を引き付ける魅力があった。

  少し話していると、彼はこう言った、

   「すてきだね、

  君みたいな人と話ができるのは。

  僕ね、目が見えないんだよ。」

        ああ、神よ、

    私が不平を言っていたことを許して下さい。

    私には見える目が二つもあるのだから!

 

それから通りをさらに歩いていった。

  すると、青い目をした子供に会った。

  他の子供達が遊ぶのを、

  一人で黙って見ていたのだった。

  私は立ち止まり、それからその子にこう言った、

    「みんなと一緒に遊んだら?」

  その子は一言も言わずに、前を見たきりだった。

    そう、彼は耳が聞こえないんだ。

        ああ、神よ、

        私が不平を言っていたことを許して下さい。

        私には聞こえる耳が二つもあるのだから!

   行きたい所に連れて行ってくれる足がある。

   奇麗な夕焼けを見れるこの目がある。

   知りたいことを知れるこの耳がある。

        ああ、神よ、

    私が不平を言っていたことを許して下さい。

        私は本当に祝福されているのだから!

                     

  105.グランドマザーが第二次世界大戦中に、4日間もぶっ通しで、マイアミからシカゴ経由でロスアンゼルスまでの汽車の旅をした。汽車はひどく混んでいて、乗客は、通路や、頭上の荷物棚の上で寝ていた! 寝台車は人でいっぱいだったため、彼女は眠ることができなかった。その上、その旅の間中、彼女は孫の一人をひざに抱いて座らなくてはならなかったのだ! あまりにも窮屈だったので、ある夜彼女は、黒人の雑役係りに眠れないと訴えた。するとその黒人は言った。 「ご婦人、どうしたらいいか教えてあげますだよ! ただ目を閉じて、戦場の、砲弾の破裂でできた穴の中で、血の混じった泥水にひざまでつかりながら眠ろうとしている男達のことを考えるんですよ。戦闘の真っ只中にいて、いつ砲弾が当たるかと心配している男達のことを。ただあの男達が味わっていることを考えて、座席に深く座って休みなせえ。そしたら、赤ん坊のようによく眠れますだよ。」  彼女はこの黒人の言うことに従った。すると彼女は、自分の今の状態をとても感謝したので、ぐっすりと眠ったのだった!−−ダッド

                     

  106.かつて、年中愚痴をこぼしたり、嘆いたり、溜め息をついたり、不平や不満を言っていた年取った婦人がいた。その婦人は、あまりにも暗く、悲観的だったので、人々は彼女に、 「ごきげんいかがですか?」 というありふれた挨拶をするのさえ嫌っていた。なぜなら、そう言うと、婦人は、待ってましたとばかりに、自分の悩みだの問題だの何もかもぶちまけ始めるからだった! それでとうとう、ある日誰かが彼女に、 「気分の良い日は全然ないんですか?」 と聞いた。彼女は気難しそうにこう答えた。 「ええ、時々はね。でも気分の良い時だって、あたしゃ気分が悪いんですよ。だって、どうせその内すぐに気分が悪くなるってわかってるから!」   何と悲しいことだろう! この婦人のようになってはならない!                −−ダッド

                     

  107.自分の悲惨さのゆえに神をほめたたえるならば−−その悲惨さは終わる。自分の祝福のゆえに神をほめたたえるならば−−その祝福が倍増される。

  108.施された憐れみに対する私達の賛美には、必要とされる憐れみに対する祈りと同じくらいに熱意が込められているべきだ。

                     

  109.クリスチャンはつま先から頭のてっぺんまで、ハレルヤであるべきだ。

                      −−聖アウグスティヌス

                     

  111.感謝することは、私達にとって、求めることと同じくらい習慣的なものであるべきだ。

                     

  112.神は私達を崇拝者として創造された。私達をこの地上に置かれた神の目的はそれだったのだ。

                     

  115.祈りによって与えられ、感謝された祝福は、何よりもかぐわしいものである。

                     

  117.主は、喜んで与える者を愛されるように、喜んで感謝する者も愛される。

                     

  118.私達は、恩恵を主に求めるのと同じくらい多くの時間を、主に感謝することに費やすべきだ。

 

  120.人前で礼拝しても、人のいない所で礼拝しなくてもいいという口実にはならない。

                     

  121.今日の世界の最大の悲劇とは、神は人を御自身に似せて創造され、神を拝するように造られ、人が日夜、神の御前で礼拝のたて琴を奏でるように意図されたのに、人は神を失望させ、その琴を落としたままでいることである。それは、音もたてずに足元に横たわっている。

                     

  123.人格の最大のテストは、その人が持つ感謝の気持ちの量と力とに見受けられる。

                     

  124.神が寄贈者となられると、人は負債者となる。

                     

  126.不平はしばしば呪いに帰結する。

                      −−トーマス・ワトソン

                     

  127.機会が戸をたたく時、中にはそのノックの音を嫌う人もいる!

                     

  128.もし、自分の祝福を忘れてしまうくらい簡単に自分のトラブルも忘れることができるなら、人生はどんなに変わるだろうか。

                     

  129.主を喜ぶことは、主の民の力、

        その悲嘆と陰うつさとを散らす陽光、

        悲しみの砂漠にほとばしる泉であって、

        荒野を喜びとばら色の輝きで覆う。

 

        主を喜ぶことは、人生の重荷を担う力、

        一つ一つの任務に天国的な刺激を与え、

        労苦する者の仕事に甘美な音楽を添え、

 

        働く者の休む床を柔らかくしてくれる。

      主を喜ぶことは人生の試練のための力、

      打ちひしがれた心を悲しみや煩いから救い、

 

        ナイチンゲールの調べのように、

      暗闇の中でも歌い、

        いちじくに実が一つもつかなくても、

      喜ぶことができる。

 

        主を喜ぶことで

        私達の召しには望みが与えられ、

        主の再臨のために、心をこめて祈る!

        喜びの声をあげてシオンに戻る時、

        悲しみと溜め息とは

        瞬時の内に消え去ってしまう。

                            A・B・シンプソン