すべてを主に委ねること

 

 

  1.フローレンス・ナイチンゲールは30才の時、日記にこう記している。 「私は今30才、キリストが宣教を始められた年。さあ、もはや子供のようなことは捨てよう。空しいことは捨て去ろう。主よ、これからは、ただあなたの御心だけを考えさせてください。」何年も後、その輝かしく大胆な生涯を終えようとしていた時、人生の成功の秘訣はと尋ねられて、ナイチンゲールはこう答えた。 「私にできる説明は、ただ一つだけです。それは、私が神から何一つ差し控えることをしなかったということです。」

 

  2.ムーディーには小学校5、6年程度の教育しかなく、それさえもおぼつかないものだった。日曜学校に初めて出席した時、ヨハネの福音書を捜すのに創世記をめくっているほどだった。マウント・ベルモン会衆派教会に加わりたいと申し出た時には、キリスト教に関して全く無知であったために、断られてしまった。彼の友人も、彼ほど、長い期間に渡って公に福音を説く仕事に就くことなどありそうにない人物も、滅多にいないと思っていた。しかし、神は小さくて取るに足らないように思えるものを取って、それを大いに用いることができるのだ。もしそのすべてが完全に神に委ねられるならば。

 

  3.教会の前を歩いていて、 「どうしたら貧しい人達を助けることができるか?」という牧師の説教のテーマを見ためん鳥と豚が、こんな会話を交わしたと言われている。しばらくじっと考えて、めん鳥が言った。 「ああそうだ、こうしよう。朝食にハム・エッグを出してあげようよ!」 すると豚はこう抗議した。 「その朝食は、君にとってはただの寄付に過ぎないけ

れど、僕にとっては全てを捧げることじゃないか!」

 

  4.ある日、セシル氏が部屋に入って行くと、娘がいました。目を輝かせ、幸せそうにして。誰かからきれいなビーズのたくさん入った箱をもらったところだったのです。少女はすぐに父親のところに走って行くと、この小さな贈り物を見せました。

   「とってもきれいだね。でも、さあ、それを今、火の中にくべてしまいなさい。」 父親は言いました。

  少女はしばしその箱を見つめていました。大きな試練だったのです。 「お父さんは無理にそうしなさいって言ってるんじゃない。お前が決めなさい。でも、お父さんは一度だってお前に良くない事はしたことがなかったね−−今、その訳は言えない。でも、もしお父さんを信頼できるなら火にくべてしまうんだ。」

  それには大変な思い切りが必要でした。でも、少女は自分なりに考え始めたのです。−− 「お父さんはいつだって私に良くしてくれる。きっとそうするのが正しいんだわ。」 そこで少女は箱を手に取ると、必死の思いで火に投げ入れたのでした。父親は少しの間、それ以上は何も言いませんでした。ところがその翌日、少女はずっとほしいと思っていた、もっともっと素晴らしい贈り物を父親からもらったのです。 「さあ、聞きなさい。お父さんがこう言ったのは、天におられるもっと偉大な父に、お前が信頼することを教えるためだったんだ。これからのお前の人生で、神は何回も物を手放すことを求められるが、その理由がどうしてもわからないこともある。だけどね、もしお父さんを信頼したように、天の神を信頼するなら、お前はいつだって、そうするのが一番良かったんだってことを知るだろう。」

 

  5.強情さの強さは、身を委ねるほどに強くはない。

 

  6.勝つためには、降伏しなければならない。生きるためには、死ななければならない。受け取るためには、与えなければならない。

 

  7.主イエスのくびきは、強情な首には絶対にしっくりおさまらない。

 

  8.イエスはあなたの傷ついた心を癒される。もしそのすべてを彼に捧げるならば。

 

  9.形造られる為には溶かされなければならない。

 

  10. 「主よ、御国が来ますように。」と祈れるようになるには、まず 「私の国が過ぎ去るように。」と喜んで祈る気持ちを持っていなければならない。

 

  11.ロバート・G・レトルニューはこう記している。 「若者たちは福音礼拝を開くために定期的に布教所に通っていた。そして、私も彼らに同行していた。ある晩、私にはしなければならない特別な仕事があった。その当時、私は小さな工場を経営していて、次の日までに機械を組み立てなければならなかったため、翌朝、組み立て工員が組み立てられるように、その晩の内に設計しなければならなかったのである。でも、自分の仕事をして、また同時に、布教所での集会に出席するなんてことが、どうして可能だろうか? どうすべきかを決断していた時、主と私はかなりの言い合いをしていた。翌朝に間に合うようにいったいどうやって設計図を書いたらいいのかわからなかったが、とにかく、私は若者たちと一緒に出掛けて、有益な時を過ごした。家に戻ったのは10時だった。その時点ではまだ、私は一つも設計できないでいた。ところが製図用デスクに腰を下ろすやいなや、わずか5分で設計の概略がいとも明瞭になったのだ。また、それ以上に素晴らしいのは、その晩設計された機械は、その時以来私が設計してきたすべての機械の基本となったのである。神をまず第一に置くと報われる。」

 

  13.福音伝道は余暇の活動ではない。

 

  14.福音を伝道することは、クリスチャンのあらゆる活動の中に染み込んでいる態度であるべきだ。

 

  16.神はあなたの意志に逆らってあなたの意志を変えることはなさらない。

 

  17.偉人は誰でもまず、従い方、従うべき人、そして従うべき時を学んだ。

 

  18.この話は前に聞いたことがあるし、読んだこともあるが、先日私は、R.A.トーリー博士が語った、この短く悲劇的な話を偶然に見掛けたのだった。

  ある晩、英国のブライトンでアレキサンダー氏と一緒だった時、奉仕員の一人が会議の後で、あるレストランに夕食に出掛けた。すると、給仕をしてくれていた男性に自分の注意が行き、そのウェイターに彼の魂のことについて話しかけなくては、という強烈な印象を受けた。でも、そんなことをするのはあまりに突飛なことに思えたので、後回しにしていた。

  さて、食事が済み、代金も支払って、レストランの外に出たのだが、やはりあのウェイターに話さなければと感じたので、彼が出て来るまで外で待っていることにした。しばらくすると、経営者が出て来て、何故待っているのかと尋ねられたので、自分のテーブルを給仕してくれた人と話したくて待っているのだと答えた。だが、経営者はこう言ったのだ。 「もうあのウェイターとは二度と話すことができません。お客様に給仕し終わった後、彼は部屋に戻り、ピストルで自殺してしまったからです。」

 

  19.サー・トーマス・ウィリアム提督は実直で卓越した人物だった。その彼が船長を務めて大西洋を横断していた時のことである。その進路にはアセンション島がかすかに見えたが、その当時は無人島だったため、亀の収集という目的以外では誰もその島を訪れたりはしなかった。

  その島は水平線の彼方にかすかに見えただけだったが、その島を見た時サー・トーマスは、その方向に向かって舵を取りたいという、訳のわからない願望に捕われたのだった。そしてその気持ちは一刻を争うような、心が裂けるようなものに強まって行った。もし今すぐ行動に移さなければその願望を満足させるのが難しくなるのを知ったサー・トーマスは、大尉に 「船の進路を変え」て、その方向に向かう準備をするようにと告げたのだった。大尉は尊敬の念をこめながらも、進路を変更すると船が大幅に遅れてしまうということを指摘した。しかし提督の懸念は増しゆくばかりで、とうとう、その島に向かって舵が取られたのである。

  乗組員全員の目がその島に注がれていた。そして、まもなく岸辺に何かが見えてきたのである。 「白いものだ。−−旗だぞ。−−信号に違いない!」 岸辺に近づいた時、彼らはそこに16人の人を発見した。彼らは、何日も前に船が難破して岸に打ち上げられ、飢餓に苦しんでいたのだった。そして救助される望みは無きに等しかったにもかかわらず、信号の旗を掲げていたのだ。

  提督を動かして、彼自身や乗組員の行きたかった方向とは全く反対にその船の舵を取らせたものは、まさに神の超自然的な御霊だったのである。

 

  20.人生における成功はあなたの動機に依存する。自分の足の速さを誇った犬の寓話がある。ある日、その犬がうさぎを追って走ったけれども、捕まえることができなかった。他の犬たちは、以前その犬が自慢していたことを思い返して嘲笑した。すると、犬はこう言い返したのである。 「うさぎは自分の命を救うために走っていたけど、僕の方はただ夕食のために走っていただけだっていうことを忘れちゃいけないよ。」 動機は非常に大切なもの。

 

  21.神は、御心を選ぶ意志を私達に与えられている。

 

  22.私は、神の御心から外れて英国の王座に座するよりも、むしろ神の御心の中にあってアフリカの奥地にいたい。−−リビングストーン

 

  23.アイルランドのとある町でのこと、一人の貧しい人がジャガ芋の詰まった大きな袋を背負って家路についていた。そこへ、見知らぬ人が一頭立ての馬車に乗ってやって来て、馬車を停めると、徒歩の人に一緒に乗って行くようにと誘った。この貧しい人は馬車に乗った。しかし、座席に座ったことは座ったものの、ジャガ芋の袋は腕にかかえたままだった。その袋を下ろしたらどうかと言われると、貧しい人は心からこう答えた。 「いいえ、とんでもございません。わざわざ乗せて下さって上に、これ以上ご迷惑はお掛けできません。ジャガ芋は私が持っています。」

  時々、私達は自分で重荷を運ぶことで主のためになることをしてあげていると思うことがある。だが、仕事も主のものだし、重荷も主のものである。そして主が私達に求めておられるのはただ、忠実であることだけなのである。

 

  25.ハドソン・テイラーはその晩年、非常に体が弱っていて、親友にこのような手紙を書いた。 「私はもうとても弱ってしまって働くことができない。聖書を読むこともできないし、祈ることさえできない。できることはただ、まるで幼な子のように、こうして神の御腕の中に静かに横たわり、信頼していることだけだ。」 あれほどの霊的な力を有していた、この驚くべき神の人も、ただ静かに横たわって、信頼することしかできないような状態にまで、肉体的に弱り、苦しんでいたのである。そして神が愛する子供であるあなたに求めておられるのも、ただそれだけなのである。災いの激しい炎の中で信仰が薄れそうになる時、強くなろうとしてはいけない。ただ静まっていればいい。

 

  26.私達がキリストの中に入れる深さは、キリストに私達の中に入っていただくその深さでしかない。

 

  27.私はこの手に多くの物をつかんできたが、そのすべてを失ってしまった。しかし、神の御手の中に預けたものは、今もなお持っている。

 

  28.真に聖別されることには、何のためらいも許されない。

 

  30.従いたくないという理由で祈る祈りを、神は受け入れられない。

 

  32.ある老人の75歳の誕生日を祝うために、ある飛行機狂が、ウエスト・バージニアの小さな町の上空を飛行機に乗せて飛んであげようと申し出ました。その町は老人が全生涯を過ごした町だったのです。老人はその申し出を受け入れました。町の上空を20分ほど旋回した後で、地上に戻った老人に、友人がこう尋ねました。 「ダッドレーさん、怖かったでしょう?」  「い、いや、」ためらったような答えが戻ってきました。 「だが、自分の体重をすべてかけることはできなかったがね。」 その老人の言葉に私達はほほ笑んでしまいます。でも、それと全く同じことをしているクリスチャンが大勢いることは、否定できない事実です。提供されて、救いを受け入れたのに、つまり、キリストの中に入ったのに、その体重をすべてキリストに任せることをしないのです。キリストは彼らをいつも抱えて下さっているのに、彼らはクリスチャンとしての生活の中で緊張し、くつろぐことができずにいて、キリストの内にあって完全に安らぐことから来る喜びを知らずにいるのです。

 

  33.何年も前のこと、ある若者がシカゴで小さなチーズ業務を始めましたが、倒産してしまい、巨額の負債を抱えてしまいました。そこへクリスチャンの友人がやって来て、こう言いました、 「君は神を君の仕事に加えなかった。神と一緒に働いてこなかった。」若者は思いました、 「もしチーズ業務を神がしたいと思われるなら、神にはそれができる。そうだ、僕は神のために、また神と共に働こう!」 その時点から、彼の業務では神が社長となりました。会社は大きくなり、繁盛し、チーズ業界では世界最大になったのです! その若者の名は? J.L.クラフト、クラフト・チーズの社長になった人です!

 

  34.ある夏の朝、一人の子供が大きな大聖堂の中に立って、美しいステンドグラスの窓から陽光が差し込んでくるのを見つめていました。窓には聖書の登場人物達が描かれていて、光り輝く見事な色彩となって照らし出されていました。 「聖徒って何のこと?」と誰かに尋ねられて、少女は、 「聖徒って、自分を通して光に輝いてもらう人のことよ。」と答えたのでした。

 

  35.あなたのするすべてのことで神を喜ばせ、神のなされるすべてのことで喜びなさい。

 

  36.神の手が制御してくれていないなら、私達は皆、危険人物である。

 

  37.熱意とは、自分の仕事に恋していることの確かな証拠。

 

  38.ホワイトハウスにフランクリン・D・ルーズベルトを訪れたウェンデル・ウィルキーは、大統領にこう尋ねたと言われている。 「大統領、あなたはどうしてあのハリー・ホプキンズという病弱のきゃしゃな男を近くに置いておられるのですか?」 大統領は答えた。 「ウィルキー君、あの扉から毎日大勢の男女が流れ込んで来るが、ほとんどの人が、私から何かを欲しがっている。だが、ハリー・ホプキンズは、ただ私に仕えることだけを望んでいる。だから、彼は私の側近なのだ!」 この素晴らしい称賛の言葉をよく考えて、キリストのしもべを自称している私達も、主への奉仕に入って行く自分たちの動機をもう一度吟味し直してみようではないか。

 

  40.スミルナの尊敬すべき司教、ポリュカルポスは、使徒ヨハネの親友であり、また生徒であった。86歳の時、ポリュカルポスはローマの執政官に強制されて、キリストを辱めるなら、自由の身にしてあげようと言い渡された。

   「私は86年キリストに仕えてきた。そしてキリストは私に一度だって危害を加えたことはなかった。それなのに、いったいどうしてわが王、わが救い主を汚せるだろうか?」

  ポリュカルポスは、殉教者の仲間に加えられるに足る者とされたことを神に感謝しながら、喜びに満ちて火刑柱に向かって行った。

 

  41.アレキサンダー大王がペルシヤに向かって軍を進めていた。そして、かつての大帝国もアレキサンダーの軍隊を前にしては、今にも崩れんばかりで、結局、後に崩壊することになった。ところが、もう少しで悲惨な結果となり兼ねなかった決定的瞬間が存在したのである。アレキサンダーの軍隊は、金銀その他の宝物を大量に持っていた為に、文字通りその重みで潰されんばかりになっていたのだ。アレキサンダーはその全てを一つの大きな山にしてそれに火をつけてしまった。

  兵士らは憤った。しかしすぐに彼らは、自分たちのリーダーの思慮深さに気づいた。まるで体に翼が与えられたかのように、彼らは身軽に進軍して行ったのだ。そしてその軍事行動は勝利へとつながったのである。

 

 42.もし息子に一つだけしか贈り物が出来ないとしたら、熱意を与えることだ。

 

 43.南部の黒人牧師は、訪れていた白人牧師を会衆に紹介すると、その白人牧師の為にこう祈った。 「そして、おお主よ、われわれがただイエスだけを見ることができるように、彼を拭い去って下さい!」

 

  44.3歳になるボビーは強情にもハイチェアーの上に立ち上がり続けた。母親は椅子に座っているようにボビーをさとし、二度ボビーを座らせ、強く注意した。ところが、三度目に椅子に座らされたボビーは母親を鋭く見つめながら、こう言った、 「ママ、僕、心の中でまだ立ってるもん。」

 

  45.イーグルス・ジョージ・デイスパルテスの伝説には、自己犠牲に関して、歴史を通じて最も多く語り継がれているのは、ある橋の建設にまつわる出来事についての話だと書いてある。厳冬の時期、フランス軍は四方八方からコサック人に圧力を加えられて、ある川を渡らなければならなくなった。敵が橋という橋をすべて破壊してしまっていたので、ナポレオンも途方に暮れるほどだった。だが突然、何らかの橋を川に架けよという命令が発せられ、そのために水際にいた兵士たちからまず、その不可能とも思える任務を遂行しなければならなかった。何人かは激流に流されてしまった。他の者たちは、ほんの数分もしない内に寒さと疲労のために水の中に沈んでしまった。しかし、兵士が次々に補充され、その仕事はできるだけ迅速に進められたのであった。

  そして、とうとう橋は完成し、軍は川の向こう岸に無事たどり着いた。そう、最も劇的な場面が起きたのは、その時だった。歴史に記されている出来事の中でも一番感動的な場面の一つである。橋を建設した兵士たちに、川から出よとの命令が発せられたが、一人として微動だにしなかったのだ。支柱にしがみついたまま、兵士たちは物も言わずに、不動の状態で立っていた。彼らは凍死していたのである。あのナポレオンさえ涙を流したと言う。

 

  46.何年か前、シャヌンガ号という船がリバプールからニューヨークへ向かう途中、206 人の乗客を乗せたハンブルグからのスウェーデン帆船イドゥーナ号と衝突してしまった。非常に霧が濃い日だった。イドゥーナ号は衝突後およそ半時間して沈没してしまった。シャヌンガ号からは直ちに救命ボートが出され、帆船からも一漕のボートが出されたが、乗り込むことのできたのはわずかに34人だけだった。船長モバーグを含む172人が亡くなってしまったのだ。

  シャヌンガ号の船長パターンは、その大惨事を報告するにあたって、その身の毛もよだつような瞬間の恐ろしさは言葉では表し切れないと語った。生存者は全て、水面に浮かんでいたところをボートに乗せてもらった人達だった。生存者がそれほども少数だったのは、一つに、その大多数がその腹に金や銀のベルトを身につけていたという理由が挙げられる。自分の持っていた金を失うまいと企てた人達は、救命ボートがやって来て救ってくれるまで浮かんでいることができず、命も金も両方とも失ってしまったのであった。

 

  47.神が扉を閉ざし、かんぬきを掛けられた時は、窓から入り込もうとしてはならない。

 

  48.キリストがから手のまま帰らせなさるのは、自分のことばかりでいっぱいの人たちだけ。

 

  49.忠実さは、それが最も困難な時にこそ、最も必要とされる。

 

  50.全ての人がソクラテスに贈り物を与えているのを見たアイスキネスは、ソクラテスにこう言った、 「私には与えるべきものが他に何もないので、私自身を差し上げましょう。」 するとソクラテスは言った、「そうなさい。そうしたらあなたを、私に与えられた時のあなたよりも良いあなたにしてお返ししよう。」

 

  51.ある二人の対照的な人生を、ハロルド・E・ルコックがこう書き表している。一方はロンドンで亡くなった女性で、 「ヨーロッパのベスト・ドレッサー」として有名な女性だった。彼女は千に近い数のドレスを持っていたが、どのドレスを着ても、彼女が 「見ることのできぬ目、聞くことのできぬ耳、塗りたくられた顔」を持っていたことには変わりがなかった。もう一方は、同じ町で亡くなった男性だが、その人には赤い襟のついた青いスーツ一着しかなかった。救世軍の創始者、ウィリアム・ブースである。だが、彼には一着のスーツしかなかったが、千人の人生の内に生きたのである。

 

  52.彫刻家ダネッカーはその初期の頃、アリアドネとギリシヤの女神たちの彫刻で非常な評判を博した。その最盛期に及んで、ダネッカーは自分の力と時間をすべて結集して、一大傑作を作るべきだと感じるようになり、こうしてキリストの御姿を彫ることにしたのであった。

  そして二度の失敗の後で、ダネッカーはとうとうキリストの御姿を実に完璧に彫り刻んだ。その美しさはまさに絶妙で、それを見る人々はただただ愛し、驚嘆せずにはおれなかった。後にナポレオンがダネッカーをパリに迎えようとして言った、 「パリに来て、ルーブル博物館に置くため、私のためにビーナスの像を作ってくれ。」 ところが、そのようなものはもはやダネッカーの心を動かしはしなかった。そして、このような簡単な返答を書き送ったのである。 「閣下、キリストを彫った手は、もう二度と異教徒の女神を彫ることなどできません。」

 

  53.英国のエリザベス女王一世は、帝国の裕福な商人に、女王のための重要な任務に出るようにと依頼したということです。そうした奉仕の返礼として、多くの報酬を与えると女王は約束しました。しかし、商人はそれを断ろうとしました。自分がいない間に、商売が損害を被るというのがその理由でした。しかし女王は、彼に、 「あなたが行って私のために任務を果たしてくれるなら、私はあなたの仕事を世話しましょう。」と請け負ったのです。彼が任務を果たして戻って来ると、女王は約束を守り、彼は以前にまして裕福な者となっていました。

 

  54.あるクエーカー教徒の教会を訪れていた人が、隣に座っている人にこうささやいた。 「サービス(礼拝)はいつ始まるのですか?」 すると答えは、 「サービス(奉仕)は、集会が終わった時始まるのです。」であった。

 

  55.デービッド・リビングストーンの初期の頃の日記にこう記されている。 「私は、自分に並ならぬ知的才能がないことを知った。だが、今日この日、私は並ならぬクリスチャンになることを決意した。」

 

  56.たとえ世界が明日滅び去ってしまうと知っていたとしても、私はやはり自分のリンゴの木を植え、借金を支払うだろう。  −−マルチン・ルター

 

  57.ムーア主教はこんな話をした。一人の少年は、ある日湖で泳いでいて急に体に支障をきたし、泳げなくなってしまった。少年は必死にもがいた。そして少年は二度沈みかかったのだが、ちょうどその時、力強い男の人の腕が自分を引き上げるのを感じたのだった。その男の人は少年が必死にもがいているさまを見て、泳いで助けに来てくれたのだ。そしてその男性は、少年を安全に岸辺まで連れて行き、何も問題がないことを確かめると、立ち去ろうとした。そこで少年が 「おじさん、ありがとう。命を救ってくれて。」と言うと、その人はこう答えたのだった。 「ああ、いいんだよ。救ってもらっただけの価値があったと言えるような人生を生きなさい。」

  ムーア主教は、この言葉を決して忘れたことはなかったと言う。名前さえ告げずに立ち去って行ったこの男の人に命を救ってもらった少年とは、自分のことだったからである。

  クリスチャンが自問すると良い質問はこれである。 「私は救ってもらうだけの価値があるだろうか?」神はキリストにあって、私達一人ひとりの人生に巨額の投資をして下さっている。そして神は、その投資の対象から利益を期待する権利を十二分に持っておられるのである。

 

  58.ドロシア・ディックスという29歳になる学校の教師がいた。彼女は虚弱体質で、生きる望みは僅かしかなかった。出血を引き起こしている肺病で死ぬことがなかったとしても、医者の見解では、おそらくは寝たきりの病人になってしまうという事だった。

  彼女は英国に行って休養を取ることになった。そこで新約聖書を読み、何回かこのように自問したのだった。 「キリストは私にいったい何をしてほしいのだろうか?」 

  本国に戻って、ある聖職者からマサチューセッツ州イースト・ケンブリッジにある女性精神病棟で聖書を教えてほしいと頼まれた時、彼女はその答えを見つけたのだった。その精神病棟の状態は極めて残忍なものである事を知ったミス・ディックスは、精神病患者に対する残忍行為を立証する山程の書類を集めて、州議会にやって来てこう叫んだ。 「皆様、私は、この州内にあって、おり、密室、独房、小部屋、囲いの中に入れられて、裸で鎖につながれ、こん棒や鞭で打ちたたかれ、言うことを聞かされている精神病患者達の状態に、皆様が目を向けるよう促したいと思います!」

  その演説はニューイングランドを揺り動かした。彼女は次々に別の州へと移動して行って、それと似たような情況を発見した。そして嘲弄を物ともせずに、彼女は州議会で病院の建設や改善を強く促したのだった。

  そして彼女はカナダ、スコットランド、イギリス、イタリアへと行っては、行動を呼び掛けた。バチカンのすぐ隣りにも残忍な精神病院があるのを発見した。そして、それをローマ法王に訴えると、法王は行動に出てくれた。

  寝たきりの状態になったのは彼女が80歳の時だった。その生涯の最後の5年間に彼女は沢山の贈呈物を受け取り、また多数の著名人の訪問を受けた。又、その臨終に際しては、病院長自らが彼女についてこう語ったのである。 「アメリカがこれまでに生み出した内で最も社会に貢献し、また最も際立った女性が亡くなった。」

 

  59.私達が福音を宣べ伝えるのは、それが楽しいからではなく、容易だからでもなく、また成功者になりたいからでもない。ただ、キリストが私達を召して下さったからである。キリストは私達の主である。私達には彼に従う以外の選択はない。

 

  60.ピアニストのパデレフスキーは、自分が毎日忠実に練習していることについてこんな説明をしたことがある。 「もし一日でも練習を怠るなら、自分でそれに気づく。もし二日怠るなら、評論家がそれに気づく。そして三日怠るなら、聴衆がそれに気づく。」

 

  61.もし隣りの芝がもっと濃く見えるなら、それは隣り人が良くその手入れをしているからなのかもしれない。

 

  62.駅馬車時代、ある人が旅に出て客席には一等、二等、三等と三段階あることを知った。でも、馬車の中の座席はどれも同じように見えたので、彼は三等切符を買った。暫くの間、旅は何事もなく続いた。そして彼はお金を節約できたことで内心喜んでいた。

  ところが、やがてとても険しい坂道のふもとにやって来ると、御者は馬を止めこう呼び掛けたのだ。 「一等席のお客さんはそのまま座っていて下さい。二等席のお客さんは馬車から降りて歩いて下さい。三等席のお客さんは外に出て、馬車を後ろから押して下さい。」

  私達が御国の仕事をするのに必要なのは三等席の乗客である。押してくれる人たちだ! 満足げに腰を降ろし、他の人たちが働くのを眺めている一等席の乗客ではなく、また、本当に働かなければならない時が来ても歩き去って行ってしまう二等席の乗客でもなく、 「一日中、労苦と暑さを」辛抱することを厭わない、三等席の乗客なのである。

 

  63.勇士の心を持つ若き英国人、ジョージ・アーレイは、中央アフリカの宣教に携わっていたのだが、ある日土人の一団に襲われた。ジョージ・アーレイはその時、10の弾丸が充填されていたウィンチェスター連発銃を持っていたので、その一団を彼の思い通りにすることも可能だった。けれども彼は平静に、そして迅速にその状況全体について思いを巡らし、宣教のためには、彼らを殺してしまう方が、彼らに命を取られてしまうよりも、害が大きいという結論に達した。そこで、まるでほふり場に引かれていく小羊のように、彼は抵抗しなかった。彼の死体が小川に発見された時、ライフルもその場にあった。そして10の弾丸がまだ充填されたままで残っていたのである。

 

  64.オーストリアとスイスとの間で戦われた、かのゼンパハの戦いは、まだライフルやピストルの時代以前のものだった。その戦いで、アーノルド・ウィンケルライドという勇敢なスイス兵は、国の為に高貴にもその命を犠牲にしたのである。スイス軍が非常に少勢であったのにひきかえオーストリア軍は多勢で、しかも彼らは、切れ目なしにうねのように槍を並べていた為、スイス軍は敵に近づくことも出来ずにいた。

  アーノルドは戦友に、自分の後について来るようにと告げた。勝利のための突破口を作ってやるからと言って。物凄い勢いでオーストリア軍の陣地に突進した彼は、大きく両腕を広げ、体中に敵の槍を浴びたのだった。そして、数多くの槍に刺し貫かれて、彼は地に倒れ伏した。そして、スイス軍は、このようにして作られた突破口から突き進んで行って、勝利をものにしたのである。

 

  65.私が死んだ後にほしい記念碑とは、世界中を歩き回る二本の足のついた記念碑である。つまり、イエス・キリストの救いを告げて回る救われた罪人たちである。−−ドワイト・L・ムーディー

 

  66.熱心さは、どんな状況の中にあっても最善の保護となる。誠心誠意のこもった態度は伝染する。もし他の人を引き付けたいと願うなら、自分自身を与えることだ。

 

  67.自分の心に火が燃えていないなら、誰の心にも火をつけることはできない。

 

  68.大いなることをなすには、熱意を持たなければならない。

 

  69. 「ババリア王国のヘンリー国王についてこんな話がある。ある時、宮廷での生活に飽き飽きしてしまった王は、修道院に入る決意をした。自分の前に姿を現したヘンリーに、院長であった忠実な修道士リチャードは院内での厳格な規則を伝えた。王は熱心に耳を傾け、そのようにして完全に神に身を捧げられるというのは大いに喜ばしいことだと熱っぽく語った。

  そこで院長は絶対的な従順こそが聖人になることの第一の必要条件だということを強調した。王は、あらゆる詳細に至って院長の意志に従順に従うことを約束した。すると院長はこう言ったのだ。 「では、あなたの王座に戻って、神があなたにあてがわれた職務を行いなさい。」  そうして王は再び王座に就いたのだった。その時から王が死ぬまで、王国の民は王のことを、 「ヘンリー国王は従うことを学ぶことによって、民を治める事を学ばれた。」と語り合ったと言う。

 

  70.ハチ公は、毎朝、主人のお供をして駅まで見送りに出掛け、夕方になると駅まで主人を迎えに来た、日本の犬でした。1925年のある晩、主人は駅に戻って来ませんでした。別の町で亡くなったからです。ハチ公は主人と出会ってまだほんの数ケ月しか経っていなかったのに、それからの10年間というもの、毎日夜になると駅まで出迎えに行き、一時間待った後で、悲しそうにとぼとぼと家に戻るのでした。

  ハチ公の忠実さは国民に感銘を与えました。そこで政府は、ハチ公が忍耐強く主人を待っていたその場所に、その像を建て、その後、当時の大日本帝国のすべての学校にハチ公の像を贈呈したのです。

 

  72.世界最悪の破産とは、熱意を無くしてしまった人のことである。

 

  73.従順は信仰の純度を検証するもの。

 

  74.偉大なるバイオリン奏者ニッコロ・パガニーニは、その愛用の驚嘆すべきバイオリンをジュネーブ市に遺贈した。ただ、もう二度とそのバイオリンを弾いてはならないという条件の下で。木というものは、使用され、扱われている内は少ししか傷まないが、使わなければ朽ち始める。だから、美しい音色を発したバイオリンは虫に食われ、無用のものとなってしまった。そのバイオリンは、他の人に奉仕することのない人生は、無用のものになるということを人に思い出させるものでしかないのである。

 

  75.時計職人の所に時計の針だけを持ってやって来た黒人の話がある。彼は言った。」 「この針を直してほしいんだがね。もう止まって6ケ月になるだよ。」「時計はどこにあるのですか?」 時計職人は尋ねた。「インジュン・クリークの家にあるだ。」  「でも、時計がなければ修理できません。」   「悪いのは針だけで、時計は何ともないと言わなかっただか? おらは針を持って来たでねえか。あんたはきっと時計をいじくり回して、金を沢山せびりたいだけなんだろう。針を返してけれ。」 そう言うと、この黒人はもっと話のわかる職人を捜しに行ってしまった。彼は全く愚かであった。だがこれは、内側から作り直してもらわずに、自分達の生活を正しくしてもらおうとしている人達と、よく似ている。彼らが自らを主の御手の中に委ねることをしないのは、その黒人の言った口実ととても良く似ている。代価がかかり過ぎるのを恐れるのである。彼らは言う、 「私達はただ、この癖やあの習慣をやめたいだけなのです。」 主なる職人はこう言われる、 「心を差し出さなければ、針(手)を正しく直すことはできない。」

 

  77.ある少年が溺れかかっていました。岸では母親が恐れと悲嘆とで心を乱していましたが、その脇にいたたくましい男性は、男の子の運命などには無関心のようです。母親は何回も何回も、息子を救って下さい、とその男性に言いましたが、彼はそうしようとはしませんでした。少年の必死のもがきも徐々に力尽きてきました。そして今では、弱まり、力なく水面に浮かんできました。すると男性は、川にさっと飛び込むと、少年を安全に岸まで連れて来ました。「 なぜ、もっと早く息子を救って下さらなかったのですか?」と、今は感謝の気持ちでいっぱいの母親が尋ねました。 「奥さん、この子がもがいていた内は救えなかったのです。そうしていたら、二人とも水の中で溺れてしまっていたことでしょう。でも、弱くなって、もがくことをやめた時、その時だったら救うのが簡単だったのです。」 私達からの助けがなくても、主は全く申し分なく私達を救うことができるのだということを悟るのは、私達が自分の行いに頼るのをやめ、力尽きて主に頼る時なのです。

 

  78.トランプに昂じている人たちと電車に乗り合わせていたクリスチャンが、一緒にやらないかと誘われた。 「悪いけど。私には自分の手がないのです。」「何を言ってるんだ?」 彼らはクリスチャンの手を指して言った。 「これは私のではありません。 主イエス・キリストのものなのです。私のものだった時には私もよくトランプをしたものです。でもキリストに心を捧げてからは、私の手はもうそのようなものには使われないのです。キリストはキリストへの奉仕の為に私の手を満たして下さったからです。」(ローマ6:13、12:1)

 

  79.遅い従順は、不従順の弟。

 

  80.何年も前のこと、ラブラドル半島にある最大の病院の南 100キロにある、あるローマ・カトリックの村に立ち寄りました。朝、私が出掛けようとしていると、そこの女主人は、夫がいないことを謝罪しました。どうしても仕事で朝早く家を出なければならなかったということでした。そして次の滞在場所に到着した時、その仕事がどんな類いのものであったかを私は初めて知ったのです。冬の巡回で次に到着した隣の村はメソジストの村でした。そこの私の宿泊先の主人が生活に困っているのは知っていたので、その質素な家で最初の食事をした時に、紅茶に入れる砂糖やパンに塗るバターがあるのを見て、随分驚きました。その時に秘密があらわになったのです。すなわち、あの凍てつくような日の夜明け、ローマ・カトリックの信者である私の友人は、自分自身の乏しい蓄えの中から砂糖とミルクの缶詰3缶を運んで、24キロの道を雪靴で歩いてやって来たのでした。それは 「往診中の医者」に差しあげる物が何もないことで、メソジストの友人が気まずい思いをしない為、又、私が一日の仕事の後でおいしい物を食べる事ができる為だったのです。

 

  84.トーマス・ハクスレーいわく、 「クリスチャンになるのに、たいした人物である必要はない。だが、その人の持っているすべてが必要とされる。」(ルカ14:33; ローマ12:1)

 

  85.草花をこよなく愛する一人の若い女性が、自分の庭先の石がきの下の所に珍しい品種のつるを植えたのですが、勢い良く大きく育ちはしたものの、一向に花が咲きませんでした。来る日も来る日も肥料をやり、水をやり、うまく花を咲かせようとあらゆる手だてを尽くしました。

  ある日の朝、そのつるの前にがっかりして立っていると、庭の向こうの家に住む、病気で寝たきりの隣人が話し掛けてきました。 「あなたの植えて下さったこのつるを私がどれだけ楽しませてもらっているかは、想像もつかないほどでしょうね。」 それを植えた女性が石がきの向こう側を見ると、そこには沢山の花が咲いていたのです。つるが石がきの間を抜けて、向こう側でその華やかな花を開かせたのでした。

  ここには、すべてのクリスチャンのための教訓があります。私達はしばしば、成果が見えないために、自分の努力が無駄になったと考えてしまいます。私達は、神への奉仕にあっては、私達の祈り、労苦、十字架が決して無駄にはならないことを学ぶ必要があります。それはどこかでその実を結んでおり、誰かの心がその祝福とその喜びとに預かっているのです。

 

  86.私のろうそく

        それは両端から燃えている

        夜明けまではもたないだろう

        だが、ああ、わが敵よ、おお、わが友よ

        何とまばゆい光を放っていることか

     −−エドナ・セント・ビンセント・ミレイ

 

  87.自分にできることはごく僅か!

        自分に言えることもごく僅か!

        けれども、神が要求しておられるもの

        それは、そのごく僅かなものだけ−−

        −−聞くこと、従うこと

 

  88.何年も前のこと、私はある寡婦の家に招かれました。彼女は自分の目に入れても痛くないほど、ひとり娘をかわいがっていました。その娘が、3歳の時、大変重い病気にかかってしまい、医者はもう助からないと言いました。この知らせがどれだけショックであったかは察することができます。でも、それに対してこの母親が取った反応を正しいとすることはできません。彼女は荒々しく反抗し、神を残忍だと非難したのです。−−ちょうど出エジプト記17:3に出てくるイスラエル人のように。彼女は娘の命を救うようにと神に言い張り、もしそうしてくれなければ、決して神を信頼することはしないと告げました。

  さて、神はその要求を飲まれました。すなわち、医者の予告にもかかわらず、娘は大きくなり、それからの13年間、普通の暮らしをしたのです。ところが、娘は悪い仲間と付き合い始めたのでした。そして、17歳の時に、とうとう大きなトラブルに陥り、母親に悲痛なる思いをさせました。

  その話の非劇的な結末は、その朝、彼女の家を訪れた際に、泣きじゃくる母親が話してくれました。 「ジェニーは死んでしまいました。自殺したんです。昨夜、自分の部屋で首を吊ったんです!」 そして数分間、体を震わせながら泣きじゃくった後でこう結びました。 「ああ先生、3歳の時に、神が娘の命を奪い去っていて下さったら、どんなに良かったことか。」

 

  89.人の心を揺り動かす人生の理想が、G・B・ショーの友人に宛てた手紙の言葉の内に見いだされます。 「人生の真の仕事、それは、自分でとてつもなく素晴らしいと認める目的のために用いられること。くずの山に捨てられてしまう前に徹底的に消耗し切ってしまうこと。また、世界が、自分を幸せにするために尽くしてくれないと愚痴りながら、病気や嘆きの熱病に冒される代わりに、自然の力となること。」 それをあなたの新年の目標としてみては?

 

  91.あなたのために

        私は命を与え 尊い血を流した

        それはあなたがあがなわれて

        死からよみがえるため

 

        あなたのために

        私は与えた この命をあなたに

        私のためには

        あなたは何を 何をくれたのか?

        私は与えた この命をあなたに

        私のためには

        あなたは何を 何をくれたのか?

 

  93.システィナ礼拝堂の高い天井に、比類なきフレスコ画を描いていたミケランンジェロは、足場に仰向けになって、何時間もかけては慎重にそれぞれの人物像の細かいところを欠点のないものにしようとしていた。この絵は遠くからしか見ることができないのに、いったいどうしてそんな人物像に無駄骨を折るのかと友人が尋ねた。 「結局、それが完全であろうとなかろうと、誰にわかるだろう?」 ミケランンジェロは言った。 「私にはわかる。」

 

  94.患者は、医者を受け入れていながら、同時に、その処方せんを拒むことはできない。

 

  97.賢い者は、不必要に危険に身をさらすようなことはしない。しかし大いなる危機に直面し、ある特定の状況下で、生きることにその価値を見いだすことができなければ、その命を捨てることも厭わない。

      −−アリストテレス

 

  98. 「あなたは何故にそのような見苦しい姿勢で立っているのか?」  ウェリントン卿が、だらけた姿勢で立っていた制服姿の将校に言った。 「私は今、非番です。」  将校は答えた。するとウェリントン卿は大声で怒鳴りつけた。 「英国将校に非番はない。将校らしい姿勢で立っていなさい。」

 

  101.ノアは旧世界において 120年間神の言葉を説いたが、救われたのは僅か8人だけだった。ロトは低地の町々に住む人々に説いたが、そこから選ばれたのは僅か3人だけだった。紅海を渡ったのは60万人の男と、そしてそれ以外にも女子供が大勢いたが、約束の地に入れたのは僅か2人だけだった。 (出エジプト記12:37) ギデオンは3万2千を従えてミデアン人と戦いに行ったが、勝利に預かることを許されたのは僅か300人だけだった。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」

 

  103.主のみわざのすべてを理解するのは私の力の及ぶところではないが、自分の良心に刻まれている御心に従うことは、私にもできる。それなら、私にも確かにわかる。そしてこれをする時、私は本当に平安でいられる。

 

  105.熱意は、真理が勝利するのに絶対不可欠なものである。

 

  106.私の宗教は、私の紅茶のようであってほしい−−熱いものであってほしいのだ!

 

  107.祭壇に火、また、供え物に塩が欠かせないように、クリスチャンにも熱意は欠かせない!

 

  108.初代のクリスチャンにとって、 「フェローシップ」とは、教会が後援している一週間おきの装飾的なつまらない交わりではなかった。つまり、歓談室での礼拝後の紅茶とビスケット、それに世間的常識を身につけたささいな会話ではなかった。それは、キリストの体である他のメンバーと無条件に命を分け合うことだったのだ。

 

  109.ペンテコステの前、弟子たちにとっては容易なことをするのも困難だったが、ペンテコステの後には、困難なことをするのも容易になった。

 

  110.もし聖霊を薬理学の教科書に入れることが可能であるなら、私だったら聖霊を刺激剤のカテゴリーに入れる。彼女にはそこがふさわしい。

 

  111.神が使って下さる者たちはまず、自分が使ってもらうに値しないという気持ちに襲われる。

 

  112.人は無にならなければ、神はその人をどんな者にすることもできない。

 

  113.キリストを真に知るなら、必ず、畏怖の念と恐れが伴うものである。真にキリストを知る者であれば誰でも、うわついた態度で御前にいることはできない。

 

  114.敵に占領された陣地−−この世はそのようなものだ。

 

  115.責任はすべて特権であり、特権はすべて責任である。

 

  116.私は、自分の原理に対して妥協してしまうよりは、むしろまつげにかびが生えるまで獄にいよう。−−ジョン・バニヤン

 

  117.もし火が消えかかっているなら、鉄を沢山火にくべたところでいったい何の役に立つのか?

 

  118.福音を恥とせず、また福音に対する恥辱にもなっていない者を、私はクリスチャンとみなす。

 

  119.もしあなたのキリスト教が快適であるなら、それは妥協したものである。

 

  120.容易なキリスト教といったものはない。もし容易であるならそれはキリスト教ではない。もしキリスト教であるならば、それは容易なものではない。

 

  121.キリスト教の適温は灼熱の温度である。

 

  122.キリスト教とは、流れに逆らって泳ぐことを厭わない者たちのための信仰、急進的な者たちの宗教である。

 

  124. 『十字架にかけられて』という言葉だけが、クリスチャンの生活を明確に描写している形容の言葉である。

 

  125.もしキリストにあるなら、また、キリストがあなたの内におられるなら、この世があなたの内に見るものはただキリスト以外の何者であってもならない!

 

  126.クリスチャンの任務とは、主イエスを、目に見え、理解でき、ほしいと思うようなものにすることだ。

 

  127.神は、秀でた才能を持っていることよりも、イエスによく似ていることを大きく祝福される。

 

  128.あなたと私は、主に似た者となることによって、神に関する真理を告げるために創造された。それが正常な状態である。あなたは今日、神に関していったい幾つの嘘をついただろうか?

 

  129.私達が弟子であることに十字架のしるしが一つも現れないなら、所有者が誰なのか疑わしい。私達はキリストの商標を押されているべきである。

 

  130.私達は教会には行かない。私達が教会である。−−ダッド

 

  131.この世から離れる秘訣は、キリストに付着することである。

 

  132.人は、キリストを愛せば愛するほど、ただキリストだけと一緒にいることを喜ぶようになる。恋人たちは、2人だけでいたがるものだ。

 

  133.キリストと一緒ならば、土牢も王座。キリストがいなければ王座も地獄−−マルチン・ルター

 

  134.キリストに喜んでもらうとは、キリストとの非常に深い交わりを持って人生を生きることによって、私達の歩みが、キリストの願いをすべてかなえたいとの熱意によって特徴づけられること。

 

  135.神は、私達が神を喜ぶ時、私達に喜びを見いだされる。

 

  137.私はどんなものを失おうと構わない。ただ、神が私の人生に御手をおいておられるならば。

                  −−ウィリアード・カンテロン

 

  138.キリスト教を宣教することだけが、私達がこの地上にいる唯一の理由である。

 

  140.スコットランドの北部に、幹線鉄道がある渓谷を横切っている場所がある。そこには高架橋が架けられていた。ある夜、物凄い嵐に見舞われて、渓谷の下の細流が怒涛のような激流と化してしまった。

  その晩、高地では、ある年若い羊飼いが、やっとの思いで嵐から羊を安全にかくまっていた。そして夜明けのずっと前に目覚めた羊飼いは、嵐の後の様子を見るために外に出た。そして丘の中腹まで登っていって気づいたのだが、何と、高架橋の真ん中の支柱が流されてしまい、橋が壊れていたのだった。列車が来る時間が迫っていたのを羊飼いは知っていた。もし警告してあげないなら、列車は墜落して粉々になり、多くの人命が失われてしまうことは目に見えていた。とにかく急いでその場所に行こうとした。間に合うかどうか気をもみながら。ようやく線路までたどり着いて耳を当ててみると、案の定、力強い列車の響きが聞こえるではないか。羊飼いは立ち上がって、精一杯に合図をしようとしたが、時間通りに列車を運行しようとしている機関士は進み続けた。列車はどんどん接近して来る。羊飼いは必死の思いで合図を送り続ける。そして、とうとう列車は羊飼いのいた場所まで来てしまった。しかしその時、羊飼いは何をしたのか? 物凄い勢いで迫ってくる列車の直前に身を投げたのである。機関士は急ブレーキをかけた。そして列車はその全長分進んだ所で何とか停止した。あまりの急停車だったので、眠っていた乗客は目を覚まし、何事が起こったのかと外に出て見た。そして機関士がこう語った。

   「間一髪のところでした。私達全員が死んでいたかもしれません。さあ、来て下さい。今夜、私達を救ってくれた人をお見せしましょう。」

  少し進んで行くと、ずたずたになった羊飼いの遺体があった。彼は、乗客の命を救うために、その命を捧げたのだった。

      (第一テサロニケ5:10; テトス2:13,14)

 

  141. 「神をまず第一に! 自分の関心事は、常に神の関心事の後に来なくてはならない。決して一番に来てはならない。」

 「まず神の国を求めなさい。」

  グラハム・スクロッジー博士が一度、このようなことについて話したことがある。すると、礼拝の終わりに、キリスト教を信じる若い女性が彼のところにやって来た。彼の話に大いに感動したからである。

   「では、何故すべてを委ねないのですか?」

スクロッジー博士は尋ねた。

   「もしそうするなら、二つの事をしなければならなくなるので、それが怖いのです。」  その女性は答えた。

   「それは何ですか?」

   「私、コンサート・ホールでピアノの演奏をしているのですけれど、それをやめなければならなくなるのが怖いのです。」

   「で、もう一つは?」

   「神が私を宣教師として中国に送られるようになるのが怖いのです。」

  聖書の使徒行伝10:14 を開くと、スクロッジー博士はペテロの答えの不合理さを彼女に説明した。奴隷は決して指図することはしない。だから、 「それはできません。」と言いながら、その後で 「主よ。」という言葉を用いることは不可能なのである。

   「では、その二つの言葉 『それはできません』を消して 『主』という言葉を残しておくか、 『主』という言葉を消して 『それはできません』を残しておくかして下さい。」

  鉛筆を手渡すと、彼は静かに部屋を出て行った。彼女は二時間のあいだ悪戦苦闘した。博士が戻って来て、彼女の肩越しに聖書のそのページを見てみると、それは涙で濡れており、 「それはできません」という言葉が消されていたのである。目を喜びできらめかせて女性は家に帰って行った。 「主よ」という言葉を繰り返しながら。彼女はもはや指図はしなかった。今では、彼女は主の弟子となっており、主も彼女の主となり、主人となったのである。

 (使徒行伝10:14,36; コロサイ3:24; 第一ペテロ3:15)

 

  143.抵抗している内は、らばは決して前進しない。人もまた同様である。

 

  144.これは、あるインディアン学校で教えていたメリーという名の教師に関する、本当にあった話です。学校にはもう一人別の教師がいましたが、メリーは彼女のことが好きではありませんでした。でも、ある日、心の中で何かが告げるのです。そんな感情を持つのはいいことではないと。その 「内側からの声」が主からのものだと知っていたので、それに聞き従うべきだと、メリーは学んでました。だから、それに従うことにしたのです。 「でも、私に何ができるだろう?」メリーは思案しました。

   「彼女に卵を一つあげなさい。」 そのような思いが心に浮かびました。でも、メリーにはそれが馬鹿げた考えに思えて仕方ありません。卵一つだけなんて! そのような贈り物をしたら、その先生は侮辱されたと感じてしまうかもしれません! 卵一ダース、それなら話は違います。でも、たった一個だけだなんて! メリーはそんな考えは拭い去って、その日の授業に出掛けました。

  でも、その晩、帰宅すると、自分の部屋の椅子にめん鳥が座っているではありませんか。コッコッと鳴くと、めん鳥は椅子から飛んでおりました。すると、椅子には卵が一つ残されていたのです。もう一人の教師に卵を一つあげなさいという、あの思いを思い出しました。−−しかも、神はその教師にあげるための卵をわざわざ供給して下さったのです! そこで、幾分不承不承ではあったものの、メリーはその卵を手にすると、その教師の家へと向かったのでした。

  この教師はもう結婚していて、子供も何人かいました。メリーが家に近づいて行くと、その内の一人が外にいました。それはメリーにとっては嬉しい事とでした。その少年になら卵をあげるのは容易なことです。 「この卵、お母さんに渡してくれる? お母さんにあげたいから。」

  翌日、その教師がメリーの所にやって来ました。 「どうして卵を下さる気になったの? とても新鮮なおいしい卵でしたわ!」 そこでメリーは自分が彼女のことを良く思っておらず、そのことについて何かをしなければと思っていたこと、また、それが神からの考えだと感じたことなどを説明しました。

   「ええ、それは本当に神様です。神様は、私達の家にほとんど食べ物がなかったことを知っておられたのです。みんなが食事をした後で、私のためには何も残っていなかったのですから。そんなところにあなたの卵が届いたのですよ! それを食べた時、どんなに幸せで、満たされた思いになったことか!」

 

  145.忠実であるには代価がかかる。アブラハムには一人子を手放すという代価がかかった。エステルにはその命を危険にさらすという代償があった。また、ダニエルもライオンの穴に投げ込まれるという代価が。シャデラクとメシャク、アベデネゴにも燃える炉に入れられるという代価が。ステパノは石で打ち殺された。ペテロも殉教者としての死の代価がかかった。パウロにもその命が代償となった。あなたにも、あなたの主であり王であられる方に対して忠実となるために、何らかの代価がかかるだろうか? (マタイ25:31; ルカ19:17; 第一コリント4:2; 黙示録2:10)

 

  146.主に導いて下さるようにと求めはするが、その後ですぐ自分で舵を取ってしまう人がいる。

 

  147. 「自らを神に委ねなさい。」、 「あなたのからだを生きた供え物として捧げなさい。」

  ある牧師がいた。彼には二人の娘がいた。ある月曜日の朝のこと、牧師はロンドンの書斎に座って、その前の日のことを考えていた。祝福のない悪い日だったからである。そして彼はとても不幸せだった。母親は下で朝食を作っていたが、子供たちの方を向くと、 「二階に行って、ダディーに朝食ができましたって言ってきてちょうだい!」と言った。そこで娘は二人とも二階に駆け上がって行った。でも、上の娘の方が妹よりも速くて、さっと書斎に駆け込むと、ダディーのひざに飛び乗って両腕を首に巻き着け、キスをしてこう言った、 「ダディー、朝ごはんよ!」 妹も息を切らせながらやって来た。でも、その状況を見て取るとさすがにうなだれてしまった。すると姉の方はちょっと意地悪っぽく妹に言った。 「ダディーは今日、全部私のものよ!」 でも、ダディーは妹の方に目をやると、ふさがれていない方の手を差し出したのだった。そして妹はさっと書斎に入って来ると、もう一方のひざに飛び乗ったのである。ダディーは妹を抱き締めると、腕でその体を抱え込んだ。そして、妹はお姉さんを見るとこう言った。 「ダディーは全部お姉さんのものかもしれないけど、私は全部ダディーのものよ。」

  どうだろうか。イエスは全部あなたのものだが、あなたは全部イエスのものだろうか?

 (ローマ6:13;12,1;1)

 

  148.ある大都市で、偉大なバイオリン奏者が1,000 ドルもするバイオリンを弾くということが宣伝されていた。劇場はいっぱいに詰まった。音楽を聞きたいのももちろんだが、多くの人はその豪華なバイオリンを見るために集まってきたのである。バイオリン奏者が登場して演奏を始めた。そして人々はうっとりさせられてしまった。ところが、突然、バイオリン奏者はそのバイオリンを投げ捨てると、それを踏み付けにして、めちゃくちゃにしてしまい、さっさと舞台を去ってしまったのである。人々はあっけに取られた。あんなにも素敵で高価な楽器を壊してしまうなんて、きっと気がふれたに違いないと思った。するとマネージャーが出て来て、聴衆に向かってこう言った。 「皆様、バイオリン奏者はまだ 1,000ドルのバイオリンで演奏してはいないのです。皆様がたった今お聴きになったのは、中古品店でたった65セントで手に入れたものです。今、かの 1,000ドルのバイオリンを弾いてみせてくれます。」

  そして、演奏が始まった。しかし、その違いを少しでも聴き分けることのできた者はほとんどいなかった。その音楽を作り出しているのは、そのバイオリンではなくて、演奏者であることを、ただ聴衆に示したかっただけなのである。あなたもたった65セントのバイオリンかもしれないが、もし主にすべてを委ねるなら、主はあなたを使って音楽を奏でて下さるのだ。

 (使徒行伝4:13-14; ローマ12:1,2)

 

  149. 「私はどうして幸せではないんでしょう?」 自分の家にいた裕福な婦人は、かたわらに立つ中国の宣教師ゴーフォース博士に尋ねた。

   「あなたはすべてを主に委ねましたか?」 神の人が穏やかに尋ねた。

   「はい、私の知っている限りでは、すべてを委ねたと思いますが。」

   「確かですか? あなたのすべては本当に祭壇の乗せられていますか?」

   「私のすべては祭壇の上に乗せられていると信じます。」

   「ここにおられるあなたの娘さんを神が中国へ送られるとしても、それを厭いませんか?」 彼はその手を娘の頭に乗せながら尋ねた。

   「神が私の娘を中国の宣教師になされるですって? そんな、とんでもない。私は娘にそばにいてほしいのです。」 母親はびっくりして言った。

   「それなのに、あなたはすべてを委ねたと言っています。あなた自身の子供を神に捧げてもいないのに。そんな状態では、いったいどうして神の祝福と平安と喜びとを期待できるでしょう? あなたはあたかも、神と、あなたの娘さんに対する神の御心との間に立ちふさがって、神にこう告げているようなものです。 『ここまでは来ても構いませんが、これ以上は駄目です。私の家は差し上げます。お金も差し上げます。私もどうぞ差し上げます。でも、私の娘にだけは触らないで下さい。』 奥さん、それが神にすべてを委ねていることなのでしょうか?」

 (マルコ12:44、ローマ12:1、ピリピ3:8)

 

  150.あるクリスチャンが大いに当惑して祈っていたが、祈りの中では何の安堵も得られなかった。ひざまづいていた場所から目を上げて見ると、偶然に、 「感謝してみなさい!」と書かれたカードに目が留まった。彼は感謝した。すると、主が平安を与えて下さり、その煩いを取り去って下さったのである。(ピリピ4:6、第一テモテ2:1)

 

  151.クリスチャンのキャンプの集いに関して古い話がある。そこには、 「ガールズのスラックス着用禁止!」というサインが掲げられていた。−−すると、全員がショートパンツをはいてやって来たということだ! 彼女達は律法の文字には従ったが、その霊には従わなかった。−−ダッド

 

  155.神と交わりを持つということは、この世との戦いを意味する。

 

  156.私は人の為す圧政行為も、悪魔のたくらみも恐れはしない。−−ジョン・ノックス

 

  157.イエス・キリストに従うことには代価がかかるが、従わないことにはもっと代価がかかる。

 

  158.イエスは弟子達に三つのことを約束されている−−全く恐れを持たなくなること、素晴らしいまでに幸せになること、また絶えず災いに遭うこと。

 

  159.弟子とは、その師が生きた人生を生きることを学ぶ人のこと。

 

  160.弟子であるというのは、師が知っている事を知る以上のこと。それは師のような者になる事。

 

  161.弟子を作るとは、コピーを作ること。

 

  162.任務から逃れる者は利得も得られない。

 

  163.クリスチャンがイエスの良き知らせを伝える時、彼は悪魔の王国に対する裏切りのメッセージを伝えている。

 

  164.キリストの内に現れる神の恵みを証しする者は誰でも、サタンの支配を直接に攻撃していることになる。

 

  165.ある人を炎の中から救い出そうとするなら、熱い火を避けるのは不可能である。

 

  166.キリストの霊は宣教の霊である。私達はキリストに近づけば近づくほどますます熱心な宣教師にならなければならない。−−ヘンリー・マーティン

 

  167.人類に対する奉仕のために−−心は清く保てるが、手はいつも汚れているというのが、本当の宗教。

 

  168.何もなさず、何の代価もかからず、何の苦しみもないという宗教には、何の価値もない。

 

  169.人々が抱えている最も困難な仕事とは、自分たちの宗教を喉元から筋肉に移すこと。

 

  170.いつも正しいことのために立っていなさい。そうすれば、たとえ敗れても勝利する。

 

  171.誰でも、まず全能の神の御前にひざまずかないなら、胸を張って立つことはできない。

 

  172.神の律法の正目 (まさめ)に逆らって進む者は、たとえとげが刺さっても愚痴をこぼすべきではない。

 

  173.神が私達の責任になさるのは、私達が持っているものではなく、私達が持てたはずのものであり、また、現在の私達ではなく、なれたはずの私達である。

 

  174.人は、神の力によってなることのできる者になるという責任を神に対して負っている。

 

  175.神と和を講じたければ、悪魔と口論せずにいることは不可能である。

 

  176.ある人々は、喜んで神に仕えようという気持ちは持っているものの、あくまでも、神のコンサルタントとして仕えたいのである。

 

  177.サタンは私達が何を崇拝しようと構わない。それが神でない限り。

 

  178.私達は自分たちがしたいと望むことをすべてすることはできないが、神が私達に望まれることはすべてするべきである。

 

  179.良心は、神が良心の導き手であられる時にのみ、安全な導き手となる。

 

  180.全能なる神に対する負債を、完全に、全額、神に返済することのできる人はいない。だが、それを定期的に返済することは確かにできる。

 

  185.D・L・ムーディーが講話を終えると、ある教養の高い人が冷淡な口調でこう言ってきた。 「失礼ですが、今夜あなたの文法には11の間違いがありましたよ。」 ムーディーは答えた。 「そうでしょうね。私の初期の教育は非常に粗末なものだったからです。でも私は、主への奉仕の為に自分の知っている文法を残らず使っているのです。あなたはどうですか?」 (使徒行伝4:13; コロサイ3:17,23,24)

 

  186.

      私は言った 「野原を歩かせて下さい」

        主は言われた 「いや、町の中を歩きなさい」

         私は言った 「町には花はありません」

        主は言われた 「花はないが、冠がある」

 

         私は言った 「でも空は真っ黒です

        そしてただ騒音だけしかありません」

         私を送り返される主の目には涙があった

         「いやもっとある。そう、罪がある」

 

         私は言った 「でも空気は悪いし

        スモッグが太陽を覆ってしまっています」

         主は答えられた 「だが、魂は患っている

        そして闇の中で損なわれている」

 

         私は言った 「光が恋しくなります

        友だちだって私がいないと悲しむでしょう」

         主は答えられた 「今夜、選びなさい

        あなたを思って悲しむのはわたしであるのか、彼らであるのか」

 

         時間を与えて下さいと私は頼んだ

        主は言われた 「決断がそんなに難しいのか?

          あなたの導き手の歩みに従ったこと

        天国で難しいことには見えなくなる」

 

         私はもう一度野原を見た

        そしてそれから町に目を向けた

         主は言われた

        「わが子よ、あなたは委ねるだろうか?

        冠を得るために花を後にするだろうか?」

 

         私はこの手を主の手に任せた

 

        すると私の心に主は入って下さった

         今、私は聖なる光の中を歩む

        あんなにも恐れていたその道を

  ジョージ・マクドナルド

 

  188.神から何か得たいなら、その人は、から手で神に近づかなければならない。

 

  189.死んだ後で生きるには、生きてる内に死ななければならない。

 

  190.もしキリストに身を委ねないなら、混乱に身を委ねることになる。

 

  195.信者の人生はガイド付きの旅行。そしてアブラハムの、また私達のガイドとなるのは、熟練されたガイド。彼は、旅路の果てを知っており、それは視界にあり、そこにたどり着くための最善の道を知っておれれる。

 

  196.リビングストーン: 犠牲に関して

 

人生の大部分をアフリカで過ごしたことに関して、人々はよく私の払った犠牲を口にする。だが、私達が神に対して負っている多額の負債のほんの一部を返済することが、犠牲と呼べるのだろうか? 健康的な活動と、善をなしているという意識、心の平安、そして来世における栄光に満ちた未来に対する明るい希望という、最高の報酬がそれによってもたらされるのに、それを犠牲と呼べるのだろうか? 

  そのような観念、そのような思いの言葉など消え去ってしまえ! それは断固として犠牲などではない。むしろ特権と言えるくらいだ。この世の一般的な便宜や慈愛に先立って、懸念、病い、苦しみ、危険も時にはあるので、それゆえに立ち止まり、霊が揺らぎ、魂が沈むことはままあっても、それはただつかの間のこと。

  これら全てのものは、将来、私達の内に、また私達の為に現されようとする栄光に比べれば、口にするにも及ばない。私は決して犠牲を払ったことはない。御自身を私達に賜る為に、高き父の御座を離れられた方によってなされた大いなる犠牲を思い出すなら、私達はこのようなことを口にしているべきではない。

 

         「わがイエス、わが主、わが命、わがすべて、

        私は今再びわがすべてをあなたに捧げます。」

 

  上の言葉はリビングストーン医師の日記に記されていたものであるが、日付を見ると、それは、リビングストーンに、本国に帰るためのおそらくは唯一のチャンスを逃さないようにと説得しようとしてできなかったスタンリーが、リビングストーンのもとを去って行った日に書かれたものである。

 

  197.従順の道か、不従順の道か−−どちらに行きたいのかの決心がついていない人を導くのは、主にとってかなり困難なことである。

 

  199.主のぶどう園の労働者に対して神がかかえている一番大きな問題は、長期欠勤である。

 

  200.私達に理解できるほど神が小さいなら、崇拝するほど大きな方ではない。

 

  201.自分のペン、舌、行いによって何も善をなすことをしなかった時間を、私はむだに過ごした時間と見なす。

 

  202.私達の敵は四方を取り巻いているので、私達の武具もそのようでなければならない。

 

  203.真に改宗するなら、人には保安が与えられるが、だからと言って、警戒を怠っていいわけではない。

 

  204.もしそれが自分にとっての神の御心でないならば、それは決して、クリスチャンにとって正しいことではない。

 

  205.私に対する神の御心は、かつては溜め息をつくことだった。でも、今は歌を歌うこと。

          −−フランシス・リドレイ・ハバーガル

 

  206.御心を喜んで行いたいという気持ちのある人には、神はいつだってその御心を明らかにされる。

 

  207.たいていの人たちが御心を知りたがるのは、それをしたいからではなく、それを考慮したいからである。

 

  208.もし世界が真理に逆らって進むなら、私は世界に逆らって進む。

 

  209.神がモーセを使えるようになる為には、まずモーセをエジプトから連れ出すのももちろんだが、モーセからエジプトをなくすことも必要だった。

 

  210.神と条件を結ぶなら、それは必ず、あなたのではなく、神の側の条件でなければならない。

 

  212.神にあなたの人生を委ねなさい。神の方が、あなたより、それを使ってずっと多くのことができるから。

 

  213.人は神によって治められることを選ばなければならない。そうでなければ、圧政者に治められるように運命づけられてしまう。

 

  214.わが救い主キリストの思いが

         日々わたしの内に息づくように

         語ること、行うこといっさいが

         その愛と力で操られているように

    −−キャティー・バークレイ・ウィルキンソン

 

  215.犠牲とは、自分が一番愛している方に、自分の持つ最高のものを与える絶頂感のこと。

 

  216.福音に対して私達が公言する愛のしるしは、その進展を助けるために私達が払おうとしている犠牲の度合いである。

 

  217.要求されているのは生ける燔祭であって、それを少しでも下回るものであってはならない。貸付けではなく、贈り物であり、貧弱なものではなく、最善のものであり、死んだものではなく、生ける燔祭である。私達は血の滴りの一滴残らず、エネルギーを微量たりとも余さず、心臓の鼓動の一つ一つまで、神に捧げなければならない。

 

  218.もしイエス・キリストが神であり、私のために死んで下さったのであれば、彼のためにどんな犠牲を払っても、それが大きすぎることはない。

    −−C・T・スタッド

 

  219.人生は二者択一である。キリストと共に十字架につけられるか、キリストなしに自滅するか。

 

  221.神の召しを心に描く時、私達のほとんど誰もが、何か劇的で、革命的で、どきりとするようなものを考える。ダマスコに向かう途上の場面がすぐに思い浮かんでくる。空には大いなる光を見、天からの声を聞き、そのすへてのことが与えた革命的な影響力が使徒に対して働いて異邦人に及ぶのを心に描く。けれども、神の召しが来た時に、その毎日の生活と奉仕という聖なる地に立っていた人たちが非常に大勢いることを、私達は忘れている。神の召しがサムエルに来たのは、彼が毎日宮で仕えていた時だった。ダビデに来たのは、羊の囲いの中でだった。また弟子たちの何人かに神の召しが来たのは、彼らが網を繕い、また網を投げていた時だった。このすべての場合、その召しはことごとく彼らがその日々の任務の聖なる地に立っていた時に来たのである。

  昔からそうであったように、神は彼のギデオンを麦打ち場から召される。また彼のアモスをクワの木から、彼のモーセを羊の群れから、彼のマタイを税金の受領所から、彼のヨハネを祭司の家族から、彼のペテロを釣りの網から、彼のパウロをラビの学校から召される。そのように神は、今私達を農場から、商店から、店先や事務所から、専門職や貿易業から、講壇や公民館から召される。神は私達を少年期にも召されるし、成人になってからでも召されるし、年老いてからでも召される。誰にも果たすべき務めがあり、誰もが、もしキリストの業を行うなら、キリストの報酬を受けるようになる。

 

         「今日起こるすべての事の中に

         一つの召しがやって来る。

        それは、もし耳をすましていないなら、

         全く聞くことがないかもしれない。

        それは非常に穏やかで、

        低い声かもしれないので、

         何をしようとも、どこへ行こうとも

        耳を傾けていなさい。

 

         「神が来て、『あなたがしなければならない事がこれだ』

         と、あなたに語られる時には

        耳を傾けていなさい。」

 

  223.ある時セネカーク山脈に、あるインディアンが、狩りをしたり、わなをかけたりしながら、一人きりで暮らしていた。家族全員が白人の狩人たちに殺されてしまったため、彼は野蛮人のように育っていた。やがて、別の白人のわな猟師がやって来て、その山に住みつくようになった。この白人は親切で、忍耐があり、野蛮人の少年も次第に彼を信頼するようになり、また愛するようになった。ゆっくりとではあったものの、白人が教えるイエス・キリストを野蛮人の少年は愛するようになっていったのだった。そして、こうごうしい山の頂きを月明かりが照らす晩、インディアンの衣装を身にまとった若者は、その友の手を取って、静かに祈るのだった。そして立ち上がり、自分の新しい目的を、次のように告白し、その言葉を口にしながら、その行為をしたのである。

 

              「インディアン、毛布捨てる、

                インディアン、パイプ捨てる、

                インディアン、斧捨てる、

                インディアン、

                インディアン捨てる。」

 

  さて、私達も皆、その森の少年から教訓を学ぶことができる。キリストが私達に要求しておられるのは、私達の罪と利己主義と疑いとの昔の生活をある程度完全に修正したようなものではなく、キリストと共に全く新しい人生を歩むことなのである。 「インディアンはインディアンを捨てなければならない!」

 

  226.カレーのある灯台の番人が、その灯火の明るさを誇っていた。海上の約50キロ先でも見ることができたからである。ある訪問者が尋ねた、 「もし灯火の一つが消えてしまったら、どうなりますか?」  「決してそんなことはない!」そんなことを考えるだけでもぞっとするといったように、彼は叫んだ。そして遥か海上を指さすと 「むこうでは何一つ見ることができません。そこから世界中の色々な場所に船が出て行くのです。もし今夜、私の灯火の一つが消えようものなら、6ケ月以内に手紙が届くことでしょう。おそらくはインド、ひょっとしたらアメリカ、あるいは私が一度も聞いたことがないような場所から、何月何日の夜、これこれの時刻に、カレーの灯台の明かりが霞みました。番人がその任務を怠ったので、船が危険にさらされてしまいましたと! そうなんです。真っ暗な夜、嵐の時、私は時々海上を見て感じます。あたかも全世界の目が私の灯台の明かりを見つめているかのように。これが消えてしまうですって? 霞んでしまうですって? とんでもない! 断じてあってはいけません!」

 

  229.英国のある町の共同墓地に、多くの訪問者の注意を引く墓石がある。そこにはスウェーデンのナイチンゲール (訳注:鳥の名、美しい声で歌う人の意)と言われたジェニー・リンドが埋められており、墓石には 「私は知る。私をあがなう者は生きておられる」と刻まれている。

  ジェニー・リンドは1820年に生まれ、わずか17歳にして自国を離れ、その愛らしい美声によって、コンサート好きの人々を魅了したのだった。その聴衆の中には、しばしばビクトリア女王の姿が見受けられた。そして女王は花束を投げ与えては、 「驚嘆すべき声を持つ細身の少女」と呼ばれたジェニーにきわだった栄誉を与えたのである。ジェニー・リンドは、ヨーロッパの王家からは誉れを受け、また、あらゆる所から様々な贈り物をふんだんに与えられた。富はどっと流れ込んできた。しかし彼女は、成功すると、よくその後に人が陥ってしまう落とし穴に落ち込むことはなく、成功によって高慢になることも人につらくあたることもなかった。そして晩年になって、ある友人に宛てた手紙の中で彼女はこう書いている。 「私の絶えざる祈り、それは、私が人々に与えたものが永遠に彼らの中で生き続けるように、そして、賜物を受け取った人間ではなく、その与え手であられる神が人々の記憶に留どまるように、ということです。」

  ある作家はこのように評している。 「ジェニー・リンドの経歴の中で最も驚かせられるのは、それがかなり短いものだということです。英国のオペラで歌ったのはわずか2年間だけで、ロンドンでのデビューから実際わずか5年で引退してしまいました。もっとも、その後も2年ほどの間は時折り舞台に現れましたが、それはおもに慈善団体のためでした。」

  若い女性がそのような前途有望な仕事を捨てて、英国の片田舎での平穏な家庭生活に入るというのは、多くの人たちにとって奇妙なものに思えた。ある時、ジェニーが海辺に座って聖書を読んでいると、その美声を大いに崇めていた人がその姿を見てこう尋ねた。 「成功の極みで舞台を去ってしまったのは、どういう訳なのですか?」 そこでジェニーは次のように説明した。 「毎日の生活に追われ、私の心の中でこれが」−−開かれた聖書に手を置いて−− 「おろそかにされるようになった時、他に取るべき手段はありませんでした。」 何と素晴らしい答え、何と説得力のある説明だろうか! 富、栄誉、人気−−この世が大いなる価値を持つものとしているもの−−を捨てるようになったのは、この書がジェニーにもたらした知識、救い主の愛を知ったためだったのだ。

 

  233.昔は祝福を求めていたが、

              今は主を求めている。

         昔は感情を求めていたが、

           今は御言葉を求めている。

         昔求めたのは贈り物だったが、

           今はその与え手だけを求めている。

         昔は癒されたいと望んだが、

           今は主御自身がいればいい。

 

         永遠にあらゆるものを満たされるイエス

         を私は褒め歌う。

         すべてはイエスの内に、

           イエスはすべてのものの中に。

 

         かつては血が出るくらいに努力したが、

           今は全き信頼がある。

         かつては半分の救いしかなかったが、

           今は縁までいっぱいの救い。

         かつては不断にしがみついていたが、

           今は主が私を堅く保持される。

         かつては常に漂い、さまよっていたが、

           今、私の錨は降ろされた。

 

         以前は計画作りに多忙だったが、それが

           今では祈りに信頼が置かれている。

         以前は煩いに憂えていたが、

           それが今ではイエスに任せられた。

         以前は自分がしたい事が最初に来たが、

           それが今ではイエスの言われること

           が第一に来る。

         以前は絶えず求めていたが、

           それが今では止むことのない賛美に

           変わった。

 

         かつては自分が働いたものだが、

           今後はイエスが働いて下さる。

         かつては私が主を用いようとしたが、

           今は主が私を用いられる。

         かつては力を切望していたが、

           今は全能の神がおられる。

         かつては自分のために労苦したが、

           今はただ主のためだけに労苦する。

         昔はイエスに希望を託したが、

           今はイエスが自分のものだと知って

           いる。

         昔はこの灯りが消えかかっていたが、

           今は明るく光り輝く。

         昔はただ死を待つばかりだったが、

           今は主の再臨を喜び迎える。

         そして私の希望は

           あのベールの内側にしっかりと固定

           されている。

 

  236.私達に命じられているのは、自分の十字架を作ることではなく、担うこと。神は、その御心に従って私達に十字架を下さるのだから。

 

  237.キリストの十字架は、私がかつて負った中で一番快い重荷である。それはまるで鳥に翼が与えられたような、また、船に帆が与えられたような重荷なのだ。−−サムエル・ルサフォード

 

  238.自分をますます弱くするように備えなさい。自尊心を捨てて自分をますます卑しい者とするように備えなさい。自分が全く滅びてしまうように備え、その進行速度を速めてもらうように神に祈りなさい。

 

  239.自分の命を祭壇に乗せる時、死ぬ覚悟をして、それに備える時、人は無敵である。もはや失うものが何一つないからである。

 

  240.自分自身を与えるよりも、持ち物を与える方が容易である。

 

  241.神が私達に求められるのは、能力や不能力ではなく、私達がいつでも自由に使っていただける状態でいることである。

 

  242.自分のことについては何も計画を立てないこと、これが常に私の大望だった。

 

  243.神の御心の内には失敗は存在しない。御心の外には成功は存在しない。

 

  244.キリストがいて下さらなければ、一歩だに進むことはできないが、共にいて下さるなら、どこにだって行くことができる!

 

  245.弟子は、たとえ大いなる知能を持っていなくても許される。また、顕著な肉体的才能を発揮しなくても許される。けれども熱意がなければ、どの弟子も言い訳は許されない。もしその心が救い主に対する灼熱の情熱で燃え上がっていないなら、罪ありとされるのだ。

 

  246.人に確信を混ぜると、何かが起こる!

 

  247.熱心な救い主には熱心な弟子たちがいるべきだ。

 

  248.自分の救いが、自分の力、意図、努力、意志、業を全く越えたものであって、他の人の意志、意図、好みに絶対的に依存しているということを知るまでは、人は完全に謙遜な者となることはできない。

 

  249.もし神が私の友でなかったなら、サタンがこれほども敵対することはなかっただろう。

 

  250.手心を加えることなく、あなたの心の中に手を差し込んで、あがない主の御国の仕事を促進する助けとならないものをすべて、根こそぎにしてしまいなさい。

 

  251.神は私達が自分を低く評価することを望まれはしない。自分の評価をゼロとすることを望まれるのである。

 

  252.主の仕事には取るに足らないような割り当ては何もない。

 

  253.多く愛する者は多く働く。

 

  254.神は私の健康、休息の必要、その他多くの物の必要を、ことごとくご存知である・・・だが、たとえそういったものが一つもなくても、私は喜びを 

持ってそれを笑い飛ばし、たとえ健康がむしばまれても、驚くべき歓喜をもって喜ぶであろう。それは、何かの理由で他の人々が占有していない場所を満たさんがためである。−−C・T・スタッド

 

  255.私は自分の良い行いと悪い行いとを一緒にして山と積み重ね、その両者から逃げ去ってキリストに来た。今、キリストにあって平安がある。

 

  256.福音を説く者にとって、レクリエーションとは、草刈り機に対する研磨機のようなものだ。つまり、レクリエーションは、仕事に必要な分だけするべきなのだ。

 

  257.何の代価もかからない宗教には、何の価値もない。

 

  258.私達のお金の使い方によって、私達がどれだけ神を愛しているかがあらわになる。知識の深さや、祈りの長さや、奉仕の卓越の程度によってよりも、お金の使い方によって、私達の愛がもっとはっきりわかるのだ。

 

  259.従順の代価を支払うことは、不従順の代価を支払わずに済むこと。

 

  260.神の御心を行っているなら、神の計画に異議を唱える時間はない。

 

  261.従順とは何か? 自分の意志を捨て、他の人の意志に委ねること。

 

  262.真の従順には遅延もなければ、疑問を差しはさむこともない。

 

  263.クリスチャンの従順は他のすべての種類の従順とは異なる。それは奴隷や兵士の従順ではなく、本質的には、その戒めを与える人を知り、愛し、信頼する恋人の従順である。

 

  264.もし神から召されたのであれば、誰か従ってくる者がいるだろうかと、自分の肩越しに後ろを見て時間を費やしてはいけない。

 

  265.罪人がキリストによって肩から罪悪感という重荷を取り去っていただく時、その首には従順というくびきがかけられる。

 

  266.ちょうど主への従順が、主のための私達の愛を示すものであるように、それはまた私達が神を恐れていることを証明するものでもある。

 

  267.神は、ご自分のしもべがその人生において、無条件に異議をはさまず従うことをしなかったところに、悲しみをもってしるしを付けられる。

 

  268.神に対して従順であることは、神に対する誠実な至高の愛の絶対確実な証拠である。

 

  269.神が要求されるのは、ただ単なる従順ではなく、愛によって生じ、愛に動機づけられ、愛を表明する従順である。

 

  270.キリストの恋人たちは、その従順によってその愛を証明する。

 

  271.物にしがみつく所有欲は‥‥ちょうどキリストが両替人を宮から追い出されたような猛々しさをもって、私達の魂から剥奪されなければならない。

 

  272.自分自身のものとなるのではなく、自分自身の論理によって治められるのでもなく、神にその思いを委ねることを学んでいる者は、ああ、どれだけ進歩してきたことだろうか!

 

  273.それならば、真の自由の本質とはいったい何なのか? それは、自分がしたいと思っていることをするために自由であることではなく、自分がすべきであることを実行することで喜びを見いだすに至ることである。

 

  274.人生における主要なテストとは、人と神との双方に対する奉仕ではなく、双方に対する愛である。

 

  275.偶像崇拝は、被造物がその創造者に対してなすことのできる最大の侮辱であると、聖書は至るところで語っている。

 

  276.人は、その創造者に反抗すると、何か他に崇拝するものがひどく必要となり、自分自身の神々を作ることによって、この本能を満たそうとする。生ける唯一の真の神よりも、人はこういった生命のない操り人形の方を好むのである。操り人形は人に糸を引かせてくれるからだ。

 

  277.私達が当然すべきことを行わないということは、すべきでない事をするのと同じくらい悪い。

 

  278.キリストによく似た者となるには、キリストと時間をたっぷり過ごすこと。

 

  279.私達はただキリストに仕えればいいのではなく、キリストと似た者になるべきである。

 

  280.主イエス・キリストの美が、クリスチャンとしてのその日々の生活に複写されるまでは、どんなクリスチャンも霊的にそのあるべき状態に達していない。

 

  281.神から一つでも物を差し控えるなら、それは窃盗である。すべての物は神のものだからだ。

 

  282.神の場所を奪うものは何であれ、場違いなものだ。

 

  283.聖であるとは、キリストに似ることでなくて何であろうか?

 

  284.聖なる者になるとは、キリストに似ること。

 

  285.クリスチャンは世の光である。しかし、スイッチが入ってなければならない。

 

  286.幸福の根は、奉仕という土壌の中で最も深く伸びる。

 

  287.性格は、制御され、引き具をつけられ、しつけられるまでは、その最高点に到達しない。

 

  288.人の力の大きさは、神に委ねることの度合いで決まる。

 

  289.私は、キリストの御国に関するのでなければ、自分の持ち物、または所有物に何らの価値をも置くことはしない−−デービッド・リビングストーン

 

  290. 「御国が来ますように」と祈ることができるようになるためには、 「この国が去りますように」と祈る気持ちがなければならない。

 

  291.キリスト教とは、自分に関して知っていたことをすべて、イエス・キリストに関して知っているすべてのものに完全に委ねてしまうこと。

 

  293.狂気とも思えるほどのエネルギーと熱意とを持って人の魂を救う仕事に取り組まないなら、私の語ることを信じたり、それから永遠の利益を儲けたりする人がいないどころか、私のことに気づく者さえ一人もいないであろう。−−ウィリアム・ブース

 

  295.過度の熱意によって、主への奉仕で消耗

し切り、平均寿命に達する前に死んでしまったとしても、神に栄光あれ。私達の地上での時間がそれだけ減り、その分、天国での時間が増えるのだから。

 

  296.教会の至高の必要は、一世紀も二十世紀も全く変わってはいない。教会は、キリストのために燃える人たちを必要としている。

 

  297.熱狂というと、ギャンブラーのそれが一番に挙げられるが、イエスのためのギャンブラーは、神に感謝すべきことに、決して癒されたことがない。

 

  298.死ぬ準備ができている人のように生き、また、生きる準備ができている人のように死ぬのを、助けて下さい。

 

  299.霊的な羊飼いであるための第一の必要条件は、良い羊であること。

 

  300.クリスチャンの生活とは、メーキャップのように、私達の個性の外面に適用されるものではなく、内側の変遷から生じた結果である。

 

  301.神がある人を義人と宣告される時、神は直ちに彼を義人にする仕事に着手される。

 

  302.私達は神の消耗品である!−−その燔祭の供え物として焼かれるために創造され−−神の目的を達するための道具として造られたのである−−つまり、死ぬことによって、人が生きるために−−ダッド

 

  303.神が導かれる所では、神が供給される。もし神の方向に従っていくなら、神には、私達を扶養する責任がある。でも、その計画表に載っていない出費に関しては、神に責任はない。

 

  304.神はその臣下から完全なる忠誠を強要される全体主義的統治者である。

 

  305.クリスチャンは実のなる木になぞらえられるべきであって、クリスマス・ツリーになぞらえられるべきではない。

 

  306.今現在の十字架や安楽さも、永遠の物事を私達が当然そうすべきであるようにただ信じた時に受けるほどの強烈な印象を与えはしない。

 

  307.人は、最善を尽くしている時以外は、当然すべきことさえもしていないものだ。

  −−トマス・カーラエル

 

  308.ある宣教師がインディアンの特別保留地で福音を説いていた。そして後ろの方にはしゅう長が座っていた。説教が進むにつれて、このインディアンのしゅう長は聖霊による良心の呵責を感じるようになり、前に出て来るとこう言った。 「インディアン、しゅう長、私、ポニー、イエスにあげる。」 そう言って後ろに戻ると、また腰を下ろした。だが、宣教師は決してその手を緩めなかった! ますます激しく説教すると、やがてインディアンのしゅう長がもう一度前に走って来た!  「インディアン、しゅう長、私毛布、イエスにあげる!」 そう言うと、また後ろに戻り、腰を下ろした。宣教師はなおも説き続けた。このインディアンのしゅう長の良心のか責は聖霊の激しい力によってますます深まり、とうとう走って来ると、頭飾りを外し、宣教師の足下に置き、こう言うのだった。 「インディアン、しゅう長、私、これ、イエスにあげる。」 そして後ろに戻り、また同じように座った。

  やがて、インディアンのしゅう長は目に涙を溜めて、前に走ってやって来た。そして体をばっと地に投げ出すと、こう言ったのだった。 「インディアン、しゅう長、イエスに、私、あげる!」 宣教師はとうとう自分が要点を伝えたことを知った!−−そして、下におりて行くとしゅう長を両腕に抱き締め、涙を流して、一緒に祈ったのだった!

 

  310.ウィノーナ・レークで、モリソン博士が、福音の真理を説いたり教えたりして回った世界一周旅行のことを話すのを聞いたことがある。モリソン博士がこの旅行に出掛けたのは、ちょうどルーズベルトがアフリカに行ったのと同じ時期だった。モリソンは港という港で福音を宣べ伝えた。ルーズベルトがアフリカに行ってしたことと言えば、それは少し探検をして、水牛を二、三頭撃ち殺したことだけだった。戻って来た時、ルーズベルトは他に類を見ないほどの歓迎祝賀会を受けた。州知事や市長に迎えられ、楽団の演奏を受け、無数の人々が彼を歓迎するために波止場に押し寄せた。

  モリソンが帰国した。州知事は彼に会いに来なかった。市長も会いに来なかった。警察もそこにはいなかった。消防署も彼の帰国に気づかなかった。旗も振られなければ、笛も鳴らされなかった。彼の帰国を待つ親族もいなかった。ニューヨークでは、ルーズベルトは列車に乗り、出身地で同様の歓待を受けた。行く先々で称賛と栄誉を与えられて。

  モリソンも列車で出身地に帰った。でも何の歓待もなかった。待つ人もいなかった。彼が戻ったことに気づいたのは小荷物室の主任だけで、その人もただいつもの調子で「やあ、元気か!」と言っただけだった。

  モリソンは言った。 「私は重い荷物を手に持って、一人で歩いて行った。ルーズベルトの帰国と私の

帰国とをどうしても比べないではおれなかった。あの旅で神は私に、一万の魂をキリストに導くという特権を与えて下さった。それなのに、ただ一人として私を出迎えてくれる人はいない! 誰も私のことなんか気にかけてはいないのだ。突然、私は立ち止まった! 今まで考えたこともないような栄光に満ちた真理が心を捕らえたのである。そして、気がついてみたら、私はゆっくりと、喜びに満ちて、大きな声でこう言っていたのだった。 「そうだ、たぶん、まだ帰国してはいないのだ! 故郷にはまだ戻っていないのだ!」

 

  311.国王ジョージ5世が軍備縮小に関する会議を開いていた時、ニューヨークでは特別の部屋が用意され、国王のメッセージがアメリカに中継されるようになっていた。だが、その決定的な瞬間に、ある人がケーブルにつまずいて、それを切ってしまった。そのケーブルを修理するには20分の時間が要される。何かがなされなければならなかった。

  そこに、責任者であったビビアンという人がいた。彼はその切断されたケーブルの間に立つと、一方を片手にもう一方を反対の手に握った。そして、国王のメッセージが自分の体の中を流れている間ずっとその場に立っていたのである。そして彼は床に倒れ、病院に担ぎ込まれた。彼の体は、国王のメッセージを中断なしに伝える為の道具として用いられたのである。

 (ピリピ1:20、第二テモテ2:21)

 

  312.私は、死ぬ時には、すっかり使い尽くされた状態になっていたい。懸命になって働けば働くほど、私の人生は満ち足りたものとなる。私にとって、人生ははかないろうそくではない。それは言わば、一瞬の間この手に握られる光輝くたいまつのようなもの。だから、それを将来の世代に手渡す前に、私はそのたいまつをできるだけ明るく輝かせたい。

 

  313.もしメンバー全員が自分と全く同じような者だったとしたら、私の組織はいったいどんな組織になってしまうことだろう?

 

  314.多くのクリスチャンは、神の御心を、絶対に飲まなければならない苦い薬だと考えている。神の愛の慈しみ深い証拠だとは考えないのである。

 

  315.好きなものに人は似る。私達は自分の好きなものに似たものとなっていく。

 

  316.この世に合わせるという態度を克服するには、イエスに合わせるしかない。

 

  317.その列車の車掌はボタンホールにばらの花を刺していた。するとプラットホームに酔っ払いがやって来て、そのばらを引ったくってしまった。車掌の頬は赤くなったが、けれども何も言わなかった。それを見ていた人が 「どうやって感情を押さえたのですか? 何も言いませんでしたね。」と尋ねると、車掌はただ簡単にこう答えたのだった、 「勤務中ですから。」  クリスチャンとして、私達はそれを覚えておくべきである。どこにいようと、また何が起ころうと、私達は常に 「勤務中」なのである。

 

  318.白人と黒人の混血の若い娘が、ある日、競売にかけられていた。娘は背の高い、すらっとした美人だった。せりは激しさを増し、せり値は一気に上昇していった。そして最後に、所有権を争う人はたった二人だけとなった。一人は、背の低い無礼者で、毒づいたような調子で、毎回、相手側のせり値よりも高い値をつけようとしていた。もう一方は、洗練された態度の平穏な人だった。そしてとうとうせりが終わった。実に多額のせり値をつけたその紳士に、その娘がせり落とされたのである。紳士に、その娘の所有権が明記された証書が手渡された。そして、競売人は娘を小突くようにして、その新しい主人の前に押し出した。娘は、高ぶった挑戦的な態度で、あたかも体中で彼への憎悪を表しているかのように紳士の前に立つのだった。ところが、娘の表情が突然に変わった。まず驚嘆したような表情になり、そしてそれは全く信じられないといったような顔付きに変わったのである。その主人が所有権証書を引き裂いてしまったからだ。そして優しくほほ笑んで、今ではおののき震えているその娘に、「さあ、いい娘だ、君は自由なんだ。君を買ったのは、君を自由にしてあげるためだったんだよ。」と言ったのである。あまりにもあっけに取られてしまって、言葉も出ない娘は、ただぼう然と立ち尽くすばかりだった。そして、言葉では表せないような幸せを涙で表して、娘は心の底からこう言ったのである、 「ああ、ご主人様、私は生涯あなたを愛し、あなたに仕えます!」 紳士の優しい行為は、所有権証書がなせなかったことを成したのだ。主イエスは、あなたを愛して、サタンの奴隷にされていたあなたを自由にするために、とても大きな代価を払ってあなたを買い取って下さった。あなたも娘と同じ言葉をイエスに言うだろうか?  「主よ、私は生涯あなたを愛し、あなたに仕えます!」と。

 

  319.過去の著名人たちが後世に残した名言は、私達のモットーとなっている。歴史によると、議会でヘンリー・クレイがある法案を提唱しようとしていた時、一人の友が彼に対してこう語ったということだ。 「クレイ、もしそんなことをしたら、君の大統領になるチャンスは潰れてしまうぞ。」

 

  クレイは、 「だが、この法案は正しいものではないのか?」と尋ね、そして、その法案が正しいものであることを確認すると、こう語ったと言う、 「私は大統領になるよりも、むしろ正しくありたい。」

 

  320.神への愛と神への従順とは、互いに実に深くかかわり合っているので、そのどちらを取ってももう一方が必ず関係してくる。

 

  321.神に対する従順は、神に対する誠実な至高の愛を何よりも絶対確実に証明してくれるものである。

 

  322.神の心さえ愛を渇望している。

 

  323.神にあなたの愛を与える時には、その愛という骨に必ず従順という肉がついているようにしなさい。

 

  324.愛を証明するものは、愛する相手のために苦しむ能力である。

 

  325.主の奴隷になることは王となること。

 

  326. 「ああ神よ、私を導きたまえ」と熱っぽく祈る人は多いが、祈り終わると自分で舵を握る。

 

  327.主イエスの、クリスチャンの人生におけるあり方には3通りある。すべてのクリスチャンの人生に、イエスは存在している。あるクリスチャン達の人生においては、イエスは、際立った存在である。また、ごく少数のクリスチャンの人生においては、イエスは最も優位に立つ存在である。

 

  328.もし以前ほど神の近くに暮らしていないなら、どちらが動いたのか推測する必要がある。

 

  329.もしあなたがクリスチャンであることを訴えられて裁判にかけられているとしたら、あなたを有罪に定めるに十分な証拠があるだろうか?

 

  330.人々があなたを知れば知るほど、イエスをもっと良く知る事ができるような生活をしなさい。

 

  331.天国の宝は、地上の宝を手放すにつれて、高く積み上げられる。

 

  332.私は、自分の手の内に多くのものを抱えていたが、その多くは失ってしまった。だが、神の御手にたくしたものは、今もなお所有している。

 

  334.人生はテニスのゲームに似ている。サーブ(仕える)をうまくやる選手は、滅多に負けることがない!

 

  335.福音は豊かな命を、そして火刑柱での死をももたらす。自由を、そして幽閉状態をもたらす。また、平和を、そして剣をもたらす。

 

  336.殉教者の死を遂げるより、殉教者の人生を生きることの方がもっとずっと大切である。

 

  337.イエスはあなたにその命を投資された。あなたは幾らかでもインタレスト (興味、配当金) を支払っているか?

 

  338.神が捜しているのは燃やすことのできる芯である。油も火もただなのだから。

 

  339.虚偽のために報われるより、真理のために苦しむ方がずっといい。

 

  340.もし本当に神を愛するなら、必ず忌み嫌うようになるものが出てくる。

 

  341.もしイエスのために立つことが難しいと感じるなら、ひざまずいてみなさい。

 

  342.群衆は普通間違った道を進む。神の、また人間の歴史が示しているところによると、正しい道を進むのは、群衆に逆らっている神の義を持つ少数派なのである。

 

  343.キリストのために何ができるか、それは、奉仕のテストである。キリストのために何を苦しむことができるか、それは、愛のテストである。

 

  344.価値のある奉仕とは、代価のかかっている奉仕である。

 

  345.奉仕とは、作業着を着た愛のこと。

 

  346.愛する人に対する奉仕は決して苦役となることはない。

 

  347. 150年前に、英国のレスターシャーのある小さな村で、一人の謙虚な牧師が亡くなった。彼は、大学に行ったこともなければ、学位を取ったこともなく、村の忠実な牧師に過ぎなかった。その会衆の中に、牧師が特別に注意を払い、神の御言葉を教えてあげていた若い靴直し人がいた。この若者は、後に現代で最も偉大な宣教師の一人として名を揚げるようになった、かのウィリアム・カーリーであった。そして、この聖職者には息子がいたが、この息子にも父親は忠実に教え、絶え間なく励まし続けたのである。息子の性格と才能とはその父親に影響されること大だった。そして息子は、ロバート・ホール、すなわち、その当時最も偉大と歌われた大衆雄弁家であり、その説教は政治家たちの決断に影響を与え、又、その説教が実に並外れたものであったように、その性格も実に聖徒のそれを思わせるものだったのである。その村の牧師はたいした事を何一つ成し遂げはしなかったかのように見える。人々をあっと言わせるような信仰復興を成したわけでもなかったが、その忠実な証しと敬神的な生活は、インドにカーリーを与え、英国にロバート・ホールを与えたことと大いに関係しているのである。

 

  348.匿名の作家が、19世紀のポーランド人ラビ、ホフェッツ・チェイムを訪れたアメリカ人旅行者のことを記している:

  ただテーブルと長椅子があるだけで、後はただ本が山積みにされているだけの、実に質素なラビの家を見て、そのアメリカ人旅行者はこう尋ねた。 「ラビ、家具はどこにあるのですか?」

   「あなたの家具はどこにあるかね?」 ラビはそう聞き返した。

   「私のですって?」 アメリカ人は当惑した。 「でも、私はここを訪れているだけですよ。ここはただ通り過ぎていくだけです。」

   「私もだ。」 ホフェッツ・チェイムは答えた。

 

  350.愛は柵を越えて

          危険な場所にも入っていく。

 

  351.贅沢で自らを甘やかしている人を、神は滅多に用いられないようだ。

 

  352.クリスチャンとなるのに偉大なる精神は必要ない。だが、精神を全部捧げる必要がある。

 

  353.天国全体は、神の御心を見いだしてそれを行おうとする者を助けようと待ち構えている。

 

  354.従順は、私達の肉体的な生命の腐敗過程を止めはしないが、霊的な生命の腐敗を停止させることはできる。

 

  355.19世紀、ロンドンにある当世風の地区に建つロスチャイルド家の屋敷の前を通り過ぎた人たちは、軒と壁の一部が未完成のままであることに気づいたものだった。その時に浮かぶ疑問は、 「世界指折りの金持ちでも、そのマンションの軒と壁の部分を終えるための資金に不足したのだろうか? それとも、怠慢のせいなのだろうか?」であった。

  その理由は実に単純ではあるが、示唆に富むものである。ロスチャイルド卿は正統派ユダヤ人だった。そして人の言い伝えによれば、信心深いユダヤ人の家は、必ずその一部を未完成のまま残さなければならないのだ。つまり、その家に住む者は、ちょうどアブラハムのように、この地上では旅人であり寄留者に過ぎないのだということを示す、人々に対するテスティモニーのためである。

 

  356.カリフ・オマルは言った、 「これらの書物はコーランに一致しているか、していないか、そのいずれかだ。もし一致しているなら、これらの書物は必要ない。また、一致していないなら、これらは絶対に有害なものだ。それゆえに、処分してしまえ!」

  そこでカリフ・オマルは大いなるアレキサンドリア蔵書の70万に及ぶ写本の処分を命じたのだった。

 

  357.中国への初の宣教師だったロバート・モリソンが、船から中国のある港に上陸した時、船長がこうせせら笑った。 「そうか、あなたは中国に感銘を与えようと思っているんですってね。」

  それに対してモリソンは穏やかにこう答えた、「いいえ、でも、神はそうして下さると信じています。」

 

  358.私はただの平均的人物に過ぎないが、平均的人物よりも勤勉に働く。

                    −−セオドア・ルーズベルト

 

  359.トルバルセンは、 「どれがあなたの最高の彫刻ですか?」と尋ねられて、 「次のだ。」と答えたという。

 

  360.チャールズ・ディケンズは、その成功の秘訣を尋ねられてこう答えた。 「私は、人生で試みてきたものを、たとえそれが何であっても、心を尽くして良くなそうと努めてきた。また、自分が身を捧げたものは、たとえそれが何であっても、完全にそれに身を投じてきた。」 これはただパウロの勧告を別の言葉に言い換えたものに過ぎない。 「何をするにも、心から働きなさい。」 パウロは奴隷に手紙を書いていたのであり、奴隷にとっては自分の魂を傾けて仕事に打ち込むのは容易なことではなかった。パウロが彼らに思い起こさせようとしていたのは、彼らが人のためにではなく、神のために働いているのだということである。 「あなたがたは主キリストに仕えているのである。」 (コロサイ3:23)

 

 

  361.それはちょうどあの適齢期を過ぎた独身女性のようだ。彼女はある日、こう尋ねられた。 「以前には、いつだって取り乱し、イライラして、心配ばかりしていたのに、いったいどうして今はいつも平安で満たされて、幸せそうにしていられるの?」 するとその独身の女性は言った。 「あがくのをやめたんです。」 つまり、夫を得ようとして 「あがくのをやめた」のだ。もし神の善良さを持っているなら、善良になることについて心配するのをやめた時、つまり、人々にどう思われるだろうかと心配するのを止めた時、神があなたを神のために十分善良な者にしてくださるのである。−−ダッド

 

  362.スコットランド人の宣教師J・アレキサンダー・クラークは、アフリカから戻って来て、アフリカ人についての非常に心打たれる話をしてくれた。そのアフリカ人は、雌ライオンに食い裂かれ、もう少しで命を落とすところだった。クラーク氏はその傷の手当をしてあげて、彼が回復するのを見ると、そこを立ち去って行った。3ケ月後、そのアフリカ人はクラーク氏の所へ戻って来ると、 「アフリカのジャングルにはおきてがあります。つまり、命を救われた者は命を救った者のものとなるのです。私は死んだも同然でした。でも、今、生きています。私はあなたのものです。ここに私の6人の妻と子供達がいます。また家畜もいます。どうぞ望み通りになさって下さい。」 あなたもキリストに対してそのようにすべてを委ねることをいとわないだろうか? 私達がどうして力と奉仕に欠けているのか、その理由はここにある。私達、あがなわれた者たちは、あがなってくださった方のものだということを、認めないのだ。

 

  363.何年か前のこと、南部の家畜商人が二人で、ある年取った黒人の家に車で立ち寄ると、庭で結構な乳牛が草を食べているのに気づいた。一人が言った、 「おじさん、この乳牛を買いたいと思うんだが、これはおじさんのかい?」 年寄りの黒人は答えた、 「いや、あれはわしの牛でねえだよ。主の牛ですだ。わしはただ主の為に、世話をしてるだけですだよ。」

  その年寄りは、家令であることの大いなる原理を把握していた。私達は実際、何一つ所有していないのだ。何であれ、自分たちが所有していると思っているもの、それはただしばらくの間、私達に貸し出されているだけなのだ。 「地と、それに満ちるものとは、主のもの」だからである。

 

  364.ある若い女性が、献身という主題に関して、福音伝道者と話をしていた。 「私は主に自分をすべて捧げる勇気などありません。そんなことをしたら、主は私を中国に送られるかもしれないからです。」 

すると、神の人は言った。 「もし、ある寒い凍えるような朝に、一羽の小鳥が半分凍ったようになって、あなたの部屋の窓をつつき、中に入れてもらって、食べさせてもらうことを求め、そうすることによって自分自身を完全にあなたに委ねてくるなら、あなたはいったいどうしますか? あなたはその鳥を手の中で握りつぶしてしまいますか? それとも、住む場所と食物と暖と世話とを与えてあげますか?」  「ああ、わかりました。そうなんですね!」 その場を立ち去って行った女性の顔は輝いていた。その二年後、女性はまた同じ福音伝道者と会って、前にそんな話をしたことがあるのを彼に思い出させた。聖なる喜びの伴った輝きに満ちた表情で、彼女は言った。 「で、ご存じですか。私、中国に行くんです!」

 

  365.クリスチャンには、やる気と同様、誘惑に負けない意志の力も必要である。

 

  367.私は月並みの説教が好きではない。人の説教を聞くなら、あたかも蜂と戦っているかのように、その人が行動するのを見たい。

                    −−アブラハム・リンカーン

 

  368.救いとは 「かぶと」であって、ナイトキャップではない。

 

  369.神に仕えているからといって、あなたが神に恩恵を施しているわけではない。仕えさせて下さることによって、神の方があなたに栄誉を与えておられるのである。

 

  370.奉仕とは、私達がこの世で占拠している場所のために支払う家賃のようなもの。

 

  371.私達が救われたのは、仕えるためであって、仕えられるためにではない。

 

  374.もし私達が、クリスチャンとしての生活においてあらゆる点で正しくても、激戦の最中のある特別の点で真理のために立ち上がることを拒むなら、私達はキリストに対する裏切り者である。

    −−マルチン・ルター

 

  375. 「キリストのための仕事」

        1.畑は広い。マタイ13:38.

        2.必要は大きい。ヨハネ4:35.

        3.時は今。ガラテヤ1:10.

        4.召しは緊急を要する。マタイ20:6.

        5.仕事は色々ある。第一コリント12:12.

        6.パートナーは全能。第二コリント6:1.

        7.手段道具は備わっている。ルカ19:15.

 

  376.船は大海にあっても安全である。大海が船の中にあるのでない限り。同様に、クリスチャンはこの世にあっても安全である。この世がクリスチャンの中にあるのでない限り。

 

  377.すべてを主に委ねるというのは、人生の最大の安楽の中にあっても、死ぬことをいとわず、また、人生の最大の試練の中にあっても、喜んで生きていこうとする気持ちを持つのを可能にしてくれる、主イエスとの関係のことである。

 

  378.あなたの命を神に捧げよ。神はそれを使ってあなたにできる以上のことをして下さる!

 

  379.

        神の子となるのには何の代価もかからない。

        イエスがその代価を支払って下さったから。

        弟子となるのには持っている全てが代価となる。

        すべてを犠牲にすることが。

 

  380.もし主イエスが毎日毎瞬仕えるに値する方でないのなら、どんな日のどんな瞬間にも仕えるに値する方ではない。

 

  381.弟子であることは、この世から軽んじられることをいとわないようになるまでは、ダイナミックなことではない。さらに、弟子であることは、この世から軽んじられるまでは、ダイナミックなものではない。そして、その逆もまた然りである。つまり、弟子であることも、ダイナミックなものになるまでは、この世から軽んじられることはない。

 

  382.神の御心は、神の恵みがあなたを保つことのできないような所に、決してあなたを導くようなことはない。

 

  383.主の奥義は、主に近く生きる者たちのためのものである。

 

  384.神の栄誉と栄光のために生きる者は、称賛も報酬も求めてはいない。しかし、結局最後にはその両方を得ることになる。

 

  391.キリストのしもべたちは、いつでも、どこでも、福音を宣べ伝えよとの命令の下にいる。

 

  392.

        もしイエスがあなたの家にやって来て、

          一日か二日過ごされるとしたら・・・

        もしイエスが思いがけずにやって来られたなら、

         あなたはいったいどうするでしょう。

        勿論、そんなにも栄誉あるお客様なのですから、

         一番良い部屋にお通しすることでしょう。

        また、出す食事も一番最高のものであることは、

         言うまでもありません。

        そして、来て下さって本当に嬉しいと、

         何回もイエスに告げるでしょう・・・

        でも・・・イエスが来られるのを見る時、

         あなたは戸口で迎えるでしょうか?

        私達の天からの訪問者を迎えるために、

         歓迎の大手を広げて?

        それとも、イエスを中へ通す前に、

         幾つか物を整頓するでしょうか?

        雑誌を隠して、

         かわりに聖書を置いたり、

        やかましいテレビを消して、

         イエスに聞こえなかったことを望んだり、

        また、大声で、性急な言葉を

         言わなかったら良かったと思うでしょうか?

        そして、世俗的な音楽を隠し、

         かわりに賛美歌の本をだすでしょうか?

        そして、どうでしょうか・・・

         もし救い主が一日か二日、

         あなたと一緒に過ごされるとしたら。

        あなたは、自分がいつもしていることを、

         そのまま続けてできるでしょうか?

        また、いつも言っているようなことを、

         そのまま続けて語れるでしょうか?

        毎日の生活が何一つ変わりなく、

         続いていくでしょうか?

        家族のいつもの会話も

         同じペースで続けられるでしょうか?

        また、食事のたびのお祈りが

         しどろもどろにならないでしょうか?

        あなたは、いつも歌っているような歌を歌い、

         いつも読んでいるような本を読むでしょうか?

        そして、自分の思いと霊とを養っている物を

         イエスにも教えてあげるでしょうか?

        また、自分の計画していた通りの場所へ

         イエスを連れて歩けるでしょうか?

        それとも、たぶん、一日か二日、

         あなたの計画を変更してしまうでしょうか?

        イエスに自分の親友と会っていただくことが、

         あなたにとっては喜びでしょうか?

        それとも、イエスが帰られるまでは、

         彼らに訪問を待ってもらうでしょうか?

        あなたはイエスにずっと、いつまでも、

         いてほしいと思うでしょうか?

        それとも、

        イエスがとうとう立ち去って行かれる時に、

 

         安堵の溜め息をもらすでしょうか?

        あなたがいったい何をするのか、

         それを知るのは興味深いものです。

        もしイエス本人がやって来て、

         あなたと一緒に時間を過ごされたとしたら。

 

  393.聖ドミニクにまつわる話にこんなのがある。ドミニクがある町にやって来て福音を説いていると、人々は彼を捕らえて殺そうとした。金を払って偽りの証人を立て、ドミニクに敵対する証言をさせて、彼を訴えたのである。偽の証人は言った。 「お前は盗人だ!」 ドミニクは答えた、「ああ、そうだとも。」偽の証人は言った、 「お前は嘘つきだ!」 ドミニクは答えた、 「その通り、私は嘘つきでもあった!」  「お前は邪悪な人間だ!」  「そうだ、その通りだ!」

  彼らが訴えてくるすべてのとがめだてに対して、ドミニクは答えた。 「その通り! 私は悪い、全く邪悪な人間だ。罪人だし、このすべてに当てはまる。」 「お前は死んで当然だ!」 ドミニクは答えた、 「ああ、その通り!」 そしてこう付け加えた、 「でも、神は私を許して下さった。イエスは私のために死んで下さったのだから。これらの悪事に関して、私はそのすべてに当てはまる。神とその慈しみがなかったら、私はもっとひどいことだろう!」−−ダッド

 

  396.イエス・キリストは、あらゆるものの主となるのでない限り、全く主などではない。

 

  399.聖霊はただあなたの人生の内に住んでおられるだけだろうか。それとも、聖霊があなたの人生を治めておられるのだろうか?

 

  400.私は、自分が人生の最後の一時間を生きているとしたら怖くてしないと思うようないけないことは、絶対にしないと決めている。

 

  401.すべてのことに神の御手を見ることのできる者は、すべてのことを誰よりも良く神の御手に委ねることができる。

 

  403.眠りにつく前に、自分にこう言いなさい。 「私はまだ自分のゴールに到達していない。そして、そうするまでは、安楽な気分にはなれず、ある程度の不満を感じるだろう。」

 

  404.何世紀も前のこと、イタリアにアントニオ・ストラディバリというバイオリン製作者がいた。ストラディバリは、自分の製作所を持てるようになった時、この製作所からは、人間の手と技能とで作り出せる内で完璧に近いものに出来上がったバイオリンしか出さないと決めた。ストラディバリは言った。 「神は、その音楽を世に送り出すために、バイオリンを必要としている。もし私のバイオリンに欠陥があるなら、神の音楽は損なわれることになる。」

 

  405.1737年の12月18日に他界したアントニオ・ストラディバリが、クレモナの作業台にかがみ込んで誓った言葉は、200年以上を経過してもなお有効である。

   「他のバイオリンを製作する者たちは他に大勢でるだろうが、これ以上のものは誰一人作ることがないだろう。」

 

  406.私に魂を与えたまえ、さもなくば、わが魂を取り去りたまえ!

 

  407.神のために自分を捨てる者は、決して神に捨てられることはない。

 

  409.母親は子に対する奴隷でなくて何であろう? 妻は夫に対する奴隷−−連れ合い−−でなくて何であろう? 羊飼いは羊の群れに対するしもべでなくて何であろう? 農夫は牛の下にひざまずき、その牛に仕える。そして牛は農夫を−−まるでしもべのように−−その足元に従えた女王のようだ。教師はクラスのしもべである。リーダーは従う者たちのしもべである! 主よ、私達が群れのしもべ、あなたの子供たちの奴隷となるのを助けたまえ。−− 「互いにいつくしみ、互いに尊敬しあう」ことによって。主よ、あなたは私達のしもべです。私達すべての者の世話をなし、仕えられるよりは、むしろ仕えて下さっておられるのです! あなたは最高の見本です!−−謙遜と憐れみとの一番素晴らしい見本です!−−ダッド

 

  410.全能者は、自分では何一つできない人間の赤ん坊として地上に現れた。彼はただ横たわり、体をばたばた動かし、物をじっと見たり、泣いたりすることしかできず、また食べさせてもらい、おむつを変えてもらい、他の子供たちと全く同じように話すことを教わらなければならなかった。・・・そのことは、考えれば考えるほど、ますます信じられないほどの驚異となってくる。

 

  411.日々進歩を遂げ、昨日自分が何をしたかではなく、今日どんな前進ができるかを考える人はさいわいである。−−ジェローム

 

  412.私は経験から言うのだが、神の御心を知ることの95%は、それが何であるかを知る前に、もうそれをする準備をしているということにある。

 

  413. 「殉教者は、死ぬから殉教者なのではなく、殉教者だから死ぬのである。」

 

  417.私達は、私達の愛する方が全く休息も安楽も得られなかった世界に、それらのものを求めるべきではない。

 

  418.安楽は神の民にとって決して良いものではない。

 

  419.キリストをすべてのものに勝って価値あるものとしない者は、キリストを全く価値あるものとしていない。

 

  420.罪以外には何も恐れず、また神以外には何も願望していない説教者を100人与えよ。彼らが聖職者であろうと、平信徒であろうと、全く構わない。黄泉 (よみ) の門を揺るがし、地上に天の御国を打ち立てるのは、そのような者たちだけだからだ。

  −−ジョン・ウェズレー

 

  421. 「天にいます」−−もしこの地上の物事にあまりにも心を奪われてしまっていて、そこに宝を蓄えていないなら、そう祈ることはできない。

   「われらの」−−もし霊的に、他の人達との交わりのない密閉された家に住んでいるとしたら、そう祈ることはできない。

   「父よ」−−もし毎日の生活の中でその関係を実証していないなら、そう祈ることはできない。

   「御名があがめられますように」−−もしその御名をもって呼ばれているこの私が聖なる者でないならば、そう祈ることはできない。

   「御国が来ますように」−−その到着を早めるために自分にできる限りのことをしていないなら、そう祈ることはできない。

   「御心が行われますように」−−もし自分のための御心に対して異議を唱えたり、憤ったり、不従順であるなら、そう祈ることはできない。

   「天に行われるとおり、地にも行われますように」−−もしこの人生を主への奉仕に捧げる備えができていないなら、そう祈ることはできない。

   「わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与え下さい」−−もし私が、主に信頼せず、不正を行ったりして自分の食物を得ようとしているなら、そう祈ることはできない。

   「わたしたちに負債のある者を許しましたように、わたしたちの負債をもお許し下さい」−−もし私が誰かに対して恨みを抱いているなら、そう祈ることはできない。

   「わたしたちを試みにあわせないで」−−もし自らを試みられるような場所に置いてしまうなら、そう祈ることはできない。

   「悪しき者からお救い下さい」−−もし私が祈りの武器を持ち、霊的な領域でその悪と戦う備えができていないなら、そう祈ることはできない。

   「御国と」−−もし私が忠誠なる臣下としての規律ある従順を王に与えていないなら、そう祈ることはできない。

   「力と」−−もし人から何をされるだろうかとか、近所の人たちからどう思われるだろうかと恐れるなら、そう祈ることはできない。

   「栄光とは」−−もし自分自身、栄光を自分のものとして主張していないなら、そう祈ることはできない。

   「とこしえにあなたのものだからです」−−もし私の地平線が時間的な物事によって縛られているなら、そう祈ることはできない。

 

  422.アメリカの沿岸警備隊の記録の中でも際立っているのは、ケープ・バターンの部署の署長をしていたパット・エセリッジの話である。ある物凄いハリケーンの夜だった。海上15キロほどの所のダイヤモンド・ショールズという危険海域を通過していた船からSOS信号が出されているのを、見張りが発見した。そこで救命ボートを出せとの命令が発せられた。ところが救助隊員の一人が抗議した。 「パット署長、そこに出ていくことはできますが、絶対に戻って来れません。」

   「諸君、われわれは戻って来なくてもいいのだ。」この返答は歴史に響き渡ってきた。

  主イエスは私達に進軍命令を出された。全世界に福音を宣べ伝えよと命じられたのだ。イエスはそのメッセンジャーたちに、それが容易ことだとは約束されなかった。また、基地に無事戻って来るという保証も与えてはおられない。−−しかし、イエスは確かに、 「行け!」という命令を下されたのだ。

 

  423.神が捜しておられるのは、装飾用ではなく、実を結ぶクリスチャンである。

 

  424.もし天才が出現するなら、私達は天才が持つ不手際に大目を見なければならない。だが、この世は決してそれをしない。この世は天才を求めるが、その天才に他の人たちと全く同じような者になってほしいのである。

 

  425.殉教者ジム・エリオット。 「決して失うことのないものを得る為に、いつまでも持っていることのできないものを与える者は、愚か者ではない。」

 

 

  427.キリストの羊たちは、その耳と足とに印がある。彼らは主の声を聞き、主に従う。

 

  428.理解するのは後回しにできるが、従順はそうはいかない。

 

  429.信仰と従順とは同じ包装紙に包まれている。神に従う者は神を信頼する。神に信頼する者は神に従う。

 

  430.私は奇跡を行うより、むしろ従いたい。    −−マルチン・ルター

 

  432.昔むかし、東方の王国の中心に美しい園がありました。一日の涼しい風の吹く頃、園の主人は散歩に出掛けました。園に宿るすべてのものの内で、一番美しく、他の何よりも愛されていたのは、優雅で気品に満ちた竹でした。竹は年を追うごとにますます美しさと優雅さとを増し加えていったのです。また竹は、主人が自分を愛してくれていること、そしていつも自分を見て喜んでくれていることを知っていました。しかも、竹は謙虚で、そのするすべてのことに気品があったのです。また、風が吹いて園の中にお祭り騒ぎを起こすと、竹はしばしばその気高さを脇に置いて、踊ったり、楽しそうに身をしならせたりして、我を忘れ、体全体でその喜びを表現したのでした。竹は先頭に立って園の踊りを導き、またそれが主人の心の至上の喜びでもあったのです。

  ある日、主人自身が竹を観賞するために近寄って来ました。何事なんだろうという期待感のこもった目で、竹は愛情たっぷりにその大いなる頭を深々と地に下げました。主人は言いました。 「竹よ、竹よ、私はお前を使いたい。」 竹は答えました。 「ご主人様、準備はできています。何なりと私をお使い下さい。」 主人はおごそかな声で言いました。 「竹よ、私はどうしてもお前を切り倒してしまわなければならないんだ。」 あまりの戦りつに竹の体は震えます。 「き、きり倒す‥‥わ、わたしを? ご主人様、あなたが園の何よりも一番美しく造って下さった、この私をですか? 私を切り倒すだなんて、それだけは、それだけは勘弁して下さい。ご主人様、あなたの喜びの為に、私を使って下さい。でも切り倒すのだけは!」 主人の声はますますおごそかなものになりました。 「もし切り倒さなければ、お前を使うことはできないのだ。」  園は静まりかえっています。風も息をひそめています。竹はゆっくりとその堂々たる、栄光の頭を下げました。ささやくような声がします。 「ご主人様、もし切り倒さなければ私を使えないのであれば、どうぞ、御心のままになさって下さい。切り倒して下さい。」  「竹よ、いとしい竹よ、お前から葉も枝も切り落とさなければならない。」  「ご主人様、ご主人様、どうかそれだけは勘弁して下さい。私を切り倒して、この美をちりに横たえても結構です。でも、私から枝や葉も取り去ってしまわれるのですか?」  「竹よ、もしそれらを取り去らなければ、お前を使うことはできないのだ。」 太陽はその姿を隠してしまいました。息を飲んで、その会話に耳を傾けていた蝶も、恐れて飛び去って行ってしまいました。竹はいったい何が起こるのかと身を震わせながらも、小さな声でささやきました。 「ご主人様、切り落として下さい。」 「竹よ、竹よ、私はお前を二つに裂き、中にあるものをすべて取り出してしまおう。もしそうしないなら、お前を使えないのだから。」  「ご主人様、ご主人様、それならば、そうして下さい。」

  そこで園の主人は竹を切り倒し、枝を切り落とし、葉をすべて取り去っり、そしてそれを二つに切り裂くと、その中のものをすべて取り除いてしまったのでした。そして、優しく竹を担ぎあげると、輝く透き通った水の涌き出ている泉まで運んで行きました。主人の園は、水の巡りが悪いために渇き切っていたのです。主人は、一方の端を泉の中に、もう一方の端を園の水路の中に入れて、その愛しい竹を優しく横たえました。泉は高らかに歓迎の歌を歌いました。竹の切り裂かれた体を通って、その澄んだ光り輝く水が、それを待ち望む渇いた地へと躍るように流れ下って行ったのです。そして稲が植えられ、日々が経過しました。新芽が伸び、さあ、収穫の時です。その日、かつてあれほどにも栄光に満ちて、かの堂々たる美を誇っていた竹が、今では砕かれて謙虚になったことによって、尚一層、その栄光を増し加えていたのでした。かつて美しかった時、竹は豊かな命を持っていました。でも、その砕きの過程を経て、竹は今、その主人の世界のための豊かな命の水路となったのです。

 

  433.あなたは、自分を雇いたいと思うほど、毎日自分の仕事をしっかりやっているだろうか?

 

  435.世界を動かすクリスチャンたちは、世界に動かされることのない者たちである。

 

  439.霧のため、あるパイロットが飛行機を着陸させるのに苦労していた。そこで空港側はレーダーで彼を誘導することに決定した。地上からの指示を受けていた時、パイロットは突然、その進路に高い柱が立っていたのを思い出し、パニック状態でそのことを管制棟に訴えたのだった。でも、それに対する応答は素っ気ないものだった。 「指示に従って下さい。障害物はこちらで何とかします。」 問題や障害物のために、神の御言葉に従うことを躊躇するクリスチャンが何と大勢いることだろうか? もし私達がただ従うなら、神は問題や困難を処理してくれる能力を持っておられるのである。

 

  440.人生の変化は二通りに受け取ることができる−−つまり、意気揚々とか、それとも、敗北的に! あなたが打ちのめされているのは、あなたがすべてを委ねていないからであり、それによって落胆、疑い、恐れ、そして信仰の欠如に通じる扉が開かれてしまっているからである! けれども、たとえどんな代価がかかろうとも、あなたはそんな状態から立ち直らなければならない!−−たとえファミリーにお願いして、手を置いてもらい、必死に祈ってもらって、その後で戦わなければならないとしても。なぜなら、御心に委ねていないというのは、危険な下り坂だからである! 主の御心に委ねていないというのは、自己正義である! かいつまんで言うなら、あなたは、 「私は主よりも良く知っている! 自分の意志の方が主の御心よりも大事だ!」と言っているわけである。それが自己正義なのである! そしてもし自分の心をこれに開いてしまうなら、悪魔が洪水のように入り込んできて、あなたは押し倒されてしまうであろう。また、もう一方で、もしあなたがイエスにすべてを委ねるなら、その時イエスはあなたの人生をコントロールされ、あなたに平安を与え、どんな状況にあろうと、あなたを幸せにしてくれるであろう。

  すべてが自分の思い通りに進んでいるなら、あなたは偉大なクリスチャンでいることができる! でも、主は時に、私達が実際はそんなに素晴らしくはなく、そんなに偉大でもなく、実際まったくのへまな存在であることを思い起こさせたり、示したりするために、こういった状況に私達を落とし込ませられることがあるのである! そして主は、私達には勝利できないということを示されるために、ありとあらゆることをなさる。まるで、自分たちが何かするたびにますます泥の中に深くはまり込み、悪化の一途をたどっていくような感じで! それはちょうどあり地獄のようだ。つまり、もがけばもがくほど私達はますます深みにはまり込んでいき、まもなくすると頭まですっぽりと埋もれてしまう。でもその時初めて、ただ主だけが私達を引き出すことができるのだと悟るのである!

            −−ピーター

 

  441.もしあなたが、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主と主の御仕事、また主の御国とを第一に置いているなら、他のことは何一つそれほどの違いをもたらすことはない。その時、主は、あなたに祝福をもたらして下さることができる。そういった祝福を主はあなたに任すことができるからである。でも、自分のすきや主とのあなたの関係を捨てて、逃げ去って行き、何かの個人的なリレーションシップにかかわってしまうなら、主はそれを祝福なさらないし、敵は、それを妨げるものとして利用することができる!

  あなたはまず主を第一に置かなければならない。あなたが必要としている慰めや平安を見つけられる場所は、ただ主の内だけである。他の状況や人はすべてあなたを失望させる。−−あなたの仕事やすべてのものは。もしあなたが自分の希望を人間のリレーションシップに置くなら、それらは失望をもたらす。どうしてもそれらはうまくいかないからである! そうなっているのだ! 主は賢いお方である。主は、その空しさを満たすものはただ主だけであるように、また他の何も満足を与えることがないように、物事を意図されている! だから、ただ主を愛し、主を第一に置いて、主に、主がもたらしたいと思っておられる状況をすべてもたらしていただくことだ。

  私達は、恋に陥る方法と恋に陥ない方法とを、つまり、リレーションシップを持つ術とリレーションシップを持たない術とを知る必要がある。あなたが誰か年中セックスする相手を持っていようと、あるいは刑務所に入れられていて、セックスの相手が全然いまいと、実際何の違いがあると言うのか? それによって、あなたは主に仕えることをやめたり、主を愛さなくなってしまうと言うのか?−−そうであるべきできではない! 何故なら、大事なのは主だけだからである! 実際、他のすべての物はそれほどの重要性を持つべきではない。それは一番てっぺんに付け足されているクリームに過ぎないからである!

  あなたが目をイエスに留めている限り、また、前進を遂げ、主の道と主の御心にとどまり、自分の仕事、メイト、恋人によって脇道にそらされたりしていない限り、主はそういったものをすべて供給され、あなたが必要としているものを与えて下さる。だが、それらのものはそれほど重要なものではない。だが、もし目をゴールから離してしまうなら、あなたの有用性は減少するか、失われてしまう。−−あなたの主との接触も、御言葉との接触も、他の人達との関係も、すべてのものが害を被るのである! しかし、主と主の御国を第一に置いている限り、他のことは万事順調に行くのであり、すべてが適所に収まるようになる。

            −−ピーター

 

  448.私はイエスの為に一生懸命働いたので、

        しばしば高ぶって口にしてしまう。

        細い道を歩むために、

        私は多くのものを犠牲にしてきたと。

        富も名声も放棄したし、

        あなたにとって私は多くの価値があると。

        その時、

        主の声が優しくこう語るのを聞いた、

 

         「わたしは栄光の御座を後にした、

        わたしをそれを犠牲とみなす。

        わたしの手は、あの悲惨な十字架で

        怒りをもって刺し貫かれた。

        あなたももちろん、苦しみはした。

        だが、それほどの苦しみを味わったと

        思っているのか?

        わたしが飲んだ悲しみの杯に

        あなたはまだほとんど触れてもいない!

 

  455.あの甘美な平安を、

        また信仰が増し加わるのを求めて、

        あなたは熱心に、心から祈った。

        でも休息も、全き祝福も、手に入ることはない。

        すべてが祭壇に置かれるまでは。

        あなたのすべては

        いけにえの祭壇に置かれているか?

        あなたの心は御霊が支配しているか?

        祝福を受けるのは、

        平安と甘美な休息を持てるのは、

        あなたの体、魂が主にすべて委ねられる時。

 

        御言葉の光の中を、主と歩み、

        常に平安と満足を持ちたいのなら、

        主の御心を行って、災いから免れたいのなら、

        あなたのすべては祭壇に置かれなければならない。

        ああ、私達が祈って求めたその祝福の内、

        主が何を授けて下さるか、

        それは決してわからない。

        私達の体、魂を、主が完全に支配され、

        私達のすべてが祭壇に置かれるまでは。

 

        私達のすべてが祭壇に置かれる時に、

        主が天国から送られるその愛のすべては、

        又、主の足もとで共にする甘美な交わりの中で、

        私達の心が味わうその幸せは、

        決して言葉に尽くせない。

 

  461.主よ、御心の通りに、御心のままに!

        あなたは陶器師、われは土くれ。

        どうか御心のままに、われを練り、固めたまえ。

        すべてを委ね、静かに待つこのわれを。

 

        主よ、御心の通りに、御心のままに!

        主よ、今、われを探り、試みたまえ。

        主よ、雪よりも白く、われを洗いたまえ。

        御前にぬかずくわれを。

 

        主よ、御心の通りに、御心のままに!

 

        われを統べ治めて、御霊で満たしたまえ!

        それによって皆の者が、われの内に、

        ただキリストだけを見れるよう!

                  −−アデレイデ・A・ポラード

 

  467. (預言)あなたたちが主をほめたたえていた時、主は、あなたたちがすべてを与えていることに対して、あなたたちをほめたたえておられた。 「これらの者たちはわたしにすべてを与えている! わたしにすべてを与えている者たちは、その与えたものの幾倍もを、豊かに与えられるであろう。そして、彼らがわたしの家に来る時には、想像を絶するほどの、また、求めるもの、心に描けるものすべてを越えた報酬を受け取るようになる!」

 

  469.ちょうど子供が涙を浮かべて、

        おもちゃを直してほしいと言って来るように、

        私も自分の破れた夢を主のもとに携えて行った。

        でも、主に信頼して

        それを直していただく代わりに

        私はその場にとどまって、

        自分のやり方で主に手を貸そうとした。

        そして、ついにはそれをひったくると、

        こう叫んでしまったのだ、

         「どうして、そんなに時間がかかるのですか?」

        主は言われた、

         「わが子よ、わたしに何ができるというのかね?

        あなたはそれから手を離して

        私に委ねようとしない。」