イエスとは誰か?

 

  「このナザレのイエスは、金も武器も持たずして、アレキサンダー大王やシーザーやナポレオンをはるかにしのぎ、何億という人々を征服した。そして、学問を受けずして、人間や神に関する事柄に光明を投じた。今までの、すべての哲学者や学者の成し遂げたことを集めても、その偉業には及ばない。また、弁論術を学んだわけでもなかったが、彼の力強い命の言葉は、どんな雄弁家や詩人の言葉にもまさって世界の人々に影響をもたらし、後にも先にも、そのような言葉を語った人はいない。彼自身は、一度も自ら書き記したことはなかったが、その人生は、多くの人々に筆を取らせ、様々な説教や弁論、討論、学術書、芸術、賛美の歌のテーマとなった。古代および現代の偉人を全部集めても、イエスがもたらした影響には及ばない。」−−フィリップ・シャフ、著名な歴史家。

 

  ・イエスという人が、実在していたというのは確かなことなのですか?

 

  そうです! 偏見を持たない歴史家からすればイエスに関する歴史的事実は、ジュリアス・シーザーに関する歴史的事実と同様に、確かで明白です。新約聖書の中に、イエスに関する正確な記述が見られるだけではありません。何十にも及ぶ、聖書以外の古代の書物も、イエスが歴史上実在した人物で、一世紀の初期にパレスチナにいたことを裏付けているのです。

  聖書以外の古代の書物にある、イエスに関する数多くの記述について、ブリタニカ百科事典はこう記しています。

 

  「これらの個々の記述は、古代には、キリスト教に反対していた人々でさえ、イエスの歴史的実在性について何の疑いも抱いていなかったことを証明している。19世紀、20世紀になって初めて、何人かの著述家がイエスの歴史的実在性に異議を唱えたが、その根拠は不十分である。」

 

  ・イエスは、他の偉大なる宗教家や預言者や哲学者とどのように違っているのですか?

 

  イエスを一言で説明するとすれば、それは、イエスが「他に類を見ない存在」であるということです! イエスの教えは他のどんな教えとも異なっていました。また、自分自身のことを神の御子だと言ったのもイエス一人だけであったしイエスの行なった奇跡も、他に例を見ないものでした。そしてイエスほど世界に大きな影響を及ぼした人は他にいません。

  イエスの人生に関して、他に全く例を見ない際立った事とは、古代の預言者や予見者が、イエスについて、まさに何百にものぼる予告や預言 (注:神から直接啓示を受けて、それを公に述べること) をしたということです。イエスの誕生やその生涯と死については、イエスが生まれる何百年も前に詳細に渡って預言されていたのです。普通の人間がこのような預言をすべて成就するのは不可能でした!

  聖書の前半は「旧約聖書」として知られていますが、その旧約聖書の中の一連の書には、「メシヤ」つまり「救世主」について、300を越える預言が載っています。今世紀になって、考古学者が何百にものぼる古代の旧約聖書の写本を発見し、これらの預言が、このイエスという人が生まれる何世紀も前に書かれたのは間違いないということが立証されました。

  ここに、そうした明確な預言の一つを例にあげてみましょう。紀元前750年に、預言者イザヤは次のような驚くべき預言をしました。

 

  「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。」−−イザヤ7章14節

 

  その750年後、イスラエルのマリヤという若き乙女のもとに天使ガブリエルが現れ、マリヤがインマヌエルと呼ばれる男の子を産むと告げ知らせました。インマヌエルというのは、「神われらと共にいます」という意味です。イエスが地上に来られてから書かれた一連の書を「新約聖書」と言いますが、その中にはこう書いてあります。「マリヤは御使い(みつかい)に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしはまだ男の人と床を共にしたこともありませんのに。』御使いは答えて言った。『神の御霊があなたに臨み、いと高き方があなたをおおうでしょう。それゆえ、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と呼ばれるでしょう。』」−−ルカ1章26-35節。

  ですから、地上でのイエスの人生の始まり、つまり、彼の受胎と誕生さえも、比類なきものであったばかりか、奇跡的なものだったのです。イエスの母親となった、質素で、つつましやかな乙女は、一度も男性と床を共にしたことがなかったのにイエスを身ごもったのですから! 事実、聖書によると、マリヤの妊娠というショッキングな知らせに、彼女のいいなずけであった若いヨセフはひどく動揺し、そのことを知るとすぐに、婚約を破棄して、結婚式を中止しようと心に決めたほどでした! けれども、主の御使いがヨセフのもとにも現れ、彼に、マリヤと共にいて、彼女の身ごもっているとても特別な子供を育て、守るようにと告げたので、ヨセフはマリヤをめとることにしたのです。

  イエスの生まれる800年前に、預言者ミカは、この救い主がどこの村で生まれるかを預言しました。

 

  「ベツレヘムよ、あなたはユダの士族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める方があなたのうちからわたしのために出る。その方が出るのは昔から、いにしえの日からである。」−−ミカ5章2節

 

  イエスの地上での両親は、ベツレヘムの北、およそ150キロのところにあるナザレの町に住んでいましたが、マリヤの出産の日が近づいた頃、ローマ皇帝の勅令により、すべての人々が、帝国全体の人口調査のために、それぞれ先祖の町に戻って行くことになりました。神は、ローマ皇帝アウグストを使って、ミカの預言が成就するようにされたのです。ヨセフとマリヤはベツレヘムへと旅をし、そこに着くやいなや、マリヤの陣痛が始まり、福音書によると、「イエスはユダヤのベツレヘムでお生まれになった」 (マタイ2章1節) のでした。それは、預言者ミカが預言した通りでした。

  ミカの預言にはまた、「その方が出るのは昔から、いにしえの日からである。」とありますが、イエスご自身、「アブラハム(紀元前2千年頃)の生まれる前から、わたしはいるのである。」と言われました。−−ヨハネ8章58節。 アブラハムはユダヤ人やアラブ人の先祖で、彼が生きていたのは、イエスがマリヤのもとにお生まれになる2千年も前のことでした。ですから、イエスがここで言っておられたのは、人間の姿で地上にお生まれになる前に、ご自分が神と共に存在していたということだったのです。

  イエスはベツレヘムで生まれましたが、ナザレという町で育ちました。そして記録によると、初めて大勢の人に向かって話をした時に、イエスは公然と、ご自分が、旧約聖書にあるメシヤについての預言を成就したと言われました。ナザレの会堂に行かれ、群衆の前に立たれたイエスは、イザヤ書の預言を読まれたのですが、そこのところでイザヤは、メシヤが主の御霊(みたま)に油注がれて、「貧しい人々に福音を宣べ伝え、打ちひしがれた心をいやし、囚人を解放し、盲人の目を見えるようにし、虐げられている者に自由を得させ、主の恵みの年を告げ知らせる」と預言しています。−−イザヤ62章1,2節。そして、新約聖書によると、イエスは、群衆に向かってこの預言を朗読された後、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した!」と言われたのです。−−ルカ4章18-21節。

  もう一つ、メシヤに関する際立った預言は、およそ紀元前千年、つまり、イエスがお生まれになる千年前に、イスラエルのダビデ王によってなされたものです。その預言において、ダビデ王は、自分自身は味わうことのなかった、残酷で、苦悩に満ちた死について、詳細に渡って予告しています。

  「わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。‥‥まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。彼らは、互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする。」−−詩篇22章14-18篇

  ダビデ王は、老衰で穏やかに死にました。ですから、この聖句の中でダビデ王が自分のことを語っていたのではないのは明らかです。けれども、彼は預言者だったので、メシヤ、つまりダビデ王の後に現れることになっていたキリストが、十字架の上で無残に死んでいかれる様子を極めて正確に預言したのでした。この預言において描かれている詳細の幾つかを、さらに細かく見てみましょう。

 

  「わたしは水のように注ぎ出され‥‥わたしの心臓は、胸のうちで溶けた。」 イエスは、私達のために御言葉という霊の水を注ぎ出して下さっただけではありません。新約聖書によると、イエスが死なれたすぐ後、まだ十字架にかけられていた時に、「一人の兵卒が槍でその脇をつき刺すと、すぐ血と水とが流れ出た」のです。−−ヨハネ19章34節。現代医学の権威者達によると、心臓破裂でも、極度のストレスや衝撃のもとで破裂した場合には、血液が、心膜、つまり心臓と大きな血管の根元を包み込む膜状の嚢(のう)に集まり、その血液は、血の固まりと水のような血清とに分かれるということがわかっています。それで、兵士がイエスの脇をつき刺した時に、彼の血は文字通り、「水のように注ぎ出され」たのでした。(このローマ兵士は、自分では知らなかったものの、「彼らはその刺した者を見る」という、預言者ゼカリヤがおよそ紀元前500年にした預言を成就したのでした。−−ゼカリヤ12章10節)

  「わたしの骨はことごとくはずれ」−−これは、十字架刑で最も恐ろしい事の一つなのですが、十字架にかけられると、体の重みのせいで腕が関節からはずれてしまうのです。

  「犬はわたしをめぐり、悪を行なう者の群れがわたしを囲んで」−−新約聖書には、邪悪で復讐心に燃えた、イエスの宗教上の敵である律法学者やパリサイ人が、イエスが十字架に釘づけにされている時に、イエスを取り囲み、イエスをあざけり、ののしったとあります。−−マタイ27章39-44節。

  「わたしの手と足を刺し貫いた。」−−この部分は、この預言の中でも最も驚くべきところです。ダビデ王の時代のユダヤ人は、十字架刑を行なってはいませんでした。宗教上のおきてでは、犯罪人は石投げの刑に処することが要求されていたのです。けれども神は、神の預言者であるダビデ王に、千年後にメシヤがどのように死ぬかを示されました。メシヤが、ダビデ王の時代には存在すらしていなかったローマ帝国の手にかかって、ローマ帝国の処刑法である十字架刑によって死ぬということを示されたのです。

  「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする。」−−新約聖書の福音書の中に、この預言が信じられないほど見事に実現している箇所を見つけることができます。「兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着(長くゆったりとした服)を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上のほうから全部一つに織ったものであった。そこで彼らは互いに言った。『それを裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう。』」−−ヨハネ19章23,24節。

  紀元前487年に、預言者ゼカリヤはこう預言しました。「わたしは彼らに向かって、『あなたがもし、よいと思うならば、わたしに賃金を払いなさい。もしいけなければやめなさい』と言ったので彼らはわたしの賃金として銀三十シケルを量った。」

−−ゼカリヤ11章12節。

  新約聖書によると、イエスが敵によって捕らえられた夜、「十二弟子の一人イスカリオテのユダという者が、祭司長達のところに行って言った。『彼をあなたがたに引き渡せば、いくら下さいますか。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。」とあります。−−マタイ26章14,15節。

  考えられますか! この出来事の起こる五百年以上も前に、神の預言者ゼカリヤは、イエスの敵がイエスを裏切った弟子ユダに支払った「賃金」の正確な額を預言したのです! ゼカリヤは次の節で、もっと詳細に渡って、驚くべき預言をしています。

  「主はわたしに言われた。『彼らによって、わたしが値づもられたその尊い価(あたい)を、陶器師に投げよ。』 わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮の陶器師に投げた。」−−ゼカリヤ11章13節。

  新約聖書には、「そのときイエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返した。彼は銀貨を聖所に投げ込んだのである。祭司長たちは、その銀貨を拾いあげてこう言った。『これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない。』 そこで彼らは、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。」とあります。 −−マタイ27章3-6節。銀貨30枚はまさしく、「主の宮の陶器師に投げられた」のです! ちょうど、5百年前にゼカリヤが預言した通りでした!

  紀元前712年には、預言者イザヤが、神の御子の「墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は富める者と共にあった。」と預言しました。−−イザヤ53章9節。

  イエスの、憎悪に満ちた宗教上の敵達は、イエスが犯罪人、極悪人であると決めつけました。そしてイエスが死なれた時には、「同時に、二人の強盗がイエスと一緒に、一人は右に、一人は左に、十字架につけられた。」と聖書には書いてあります。−−マタイ27章38節。イエスの亡きがらが十字架からおろされた後、「アリマタヤの金持ちでヨセフという名の人が来た。この人がピラトの所へ行って、イエスの体の引き取りかたを願った。ヨセフは亡きがらを受け取って、彼の新しい墓に納めた。」−−マタイ27章57-60節。 「塚は富める者と共に」あったのです!

  イエスの生まれる千年前に、神の御霊はダビデ王を通して、救い主は死からよみがえると預言されました。「神は、神の聖なる者を陰府(よみ)に捨ておかれず、彼に腐敗や腐食を見させられない。」−−詩篇16篇10節。

  ダビデ王は死んでから墓に埋められ、彼の肉体は腐食し、朽ちました。けれども、イエスは死んで3日後に墓から甦られたのです! 悲しみの内にイエスの墓にやって来た者達に向かって、天使がこう言った通りです。「その方はここにはおられない。よみがえられたのだ。あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか?」−−ルカ24章5,6節。

  普通の人間に、自分の生まれる場所をあらかじめ選ぶ事などできるでしょうか? それに、自分の国を征服した国の役人に、ひどい苦痛を伴う死刑法によって自分を殺すようにとの命令をわざと下させる人などいるでしょうか? あるいはそうする事を望む人などいるでしょうか?  そして自分が死ぬ時に、敵が自分をあざけり、ののしるように取り計らうような人がいるでしょうか? ましてや兵隊達が、自分の衣服をくじ引きにし、また自分が死んだ後で自分の脇を突き刺すようにさせる人などいるでしょうか? けれども、ナザレのイエスはこれらの預言をすべて成就しただけではなく、ご自分の誕生や人生や御仕事(みしごと)や死やよみがえりに関する、300を越す明確な預言をも成就したのです! 真に、イエスはあらゆる面で「他に類を見ない存在」であったし、今なおそうなのです!

  モーセや釈迦や孔子やマホメッドなど、有名な宗教指導者や教祖の内で、自分が神だと言った人は一人としていませんでした。確かに、その死後に、信奉者達によって、神であるかのように崇められている人もいますが、誰一人として、自分が神であるとは言わなかったのです。けれども、イエス・キリストは唯一の例外でした。事実イエス・キリストは、自分が神の御子であり、人間の姿をした神であると言ったばかりではなく、世界の大勢の人々に、ご自分が実際に神の御子である事を確信させたのです。

  これがおそらく、イエスと、あらゆる時代の他のすべての偉大なる哲学者や教師、預言者、教祖との最も大きな違いでしょう。そうした者達の多くも、愛や神について語り、また教えましたが、イエスは、ご自身が愛である、世界に対する神の愛であると言われたのです。だから、神の愛そのものであったイエスは、ご自分が語っておられたことの意味を十分理解しておられたのです!さて、イエスが、正しかったか、ひどく間違っていたか、その二つに一つです。イエスが善良で真実を語られたか、あるいは、邪悪で人を欺き、嘘を語ったかのどちらかなのです!

  有名な知識人であり、ケンブリッジ大学教授を務めたこともあるC.S.ルイスは、そのことについてこう語りました。

 

  「イエスについて、人々はよくこんな愚かなことを言う。『私は喜んで、イエスが偉大なる道徳の師であることは認めるが、彼が自分を神だと言うのは認められない。』と。しかし、私達はそんなことを言うべきではない。ただの人間が、イエスが言われたようなことを言うなら、その人は『偉大なる道徳の師』などではない。自分はニワトリであるなどと言う者と同じレベルの、全くの気違いか、さもなければ、地獄の悪魔ということになる! あなたは決断を下さなければならない。この人が神の御子であったし、また今もそうであると信じるか、それとも、彼が気違いかそれ以下のものであると信じるかの決断を。

  イエスを愚か者扱いし、彼につばをかけ、悪鬼と呼んで彼を殺す事もできれば、彼の足元にひざまずき、彼を主なる神と呼ぶ事もできる。だが彼が偉大なる道徳の師だなどと、見えすいたお世辞を語らないように。イエスは、私達がご自身についてどのように考えるかを、私達自身の選択に任されてはおられないし、最初からそうされるつもりはなかった。」

 

  このような事に関して権威者には思えないものの、イエスが他に全く類を見ない存在であることをはっきりと認めた人に、世界の国々を征服した皇帝、ナポレオン・ボナパルトがいます。彼はこう語りました。

 

  「私は人間というものをよく知っている。私に言わせてもらえば、イエス・キリストは単なる人間ではない。この世界のどの人間も、イエス・キリストの足元にも及ばない。アレキサンダー大王、シーザー、カール大帝、そして私自身も、帝国を築き上げた。しかし、我々奇才の築き上げた帝国はいったい何を基盤としているのか? 武力である! イエスだけが、その帝国を愛という基盤の上に築かれた。そして今この時にも、イエスのためなら喜んで死のうという者が何百万といる。」

 

  ・けれども、どうして神はご自分の御子をこの世に送られたのでしょうか?

 

  神は私達を愛しておられ、私達が神の愛を知ることを望んでおられます。しかし宇宙の偉大なる創造主である神というと、あまりにも偉大すぎて、私達には理解しがたく、想像すらつかないという事を神は知っておられるのです! 神は、「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い!」と言われました。−−イザヤ55章9節。 神はまた、「いと高き天もわたしを入れることはできない!」と言われました。−−列王紀上8章27節。 私達の誰一人として、神がどれほど大いなる方で、どれほど素晴らしい方かということを理解することはできません。神は、人間の理解力や想像力をはるかに越えた方なのです!

  けれども、神は、私達を非常に愛しておられ、私達が神の愛や神の救いを知ることを望んでおられるので、ご自分がどのような方であるかを示すために、「ひとり子」であるイエスをこの世に送られました。

 

 

イエスの再臨

 

  聖書には、イエスが最初に地上に来られた時の事について、何百にも及ぶ預言が載っていますが、それだけでなく、イエスが二度目に地上に戻って来られる時の事についても、さらに多くの預言が載っています。その二度目の時には、イエスは、飼葉おけで眠る、柔和でおとなしい赤ん坊の姿でやって来られるのではなく、本来の姿である力強い王の王、主の中の主としてやって来られます! そして力によってこの世界の支配権を握り、人間による残酷で無秩序な統治に終止符を打たれるのです! イエスはこう約束なさいました「わたしはまた来る!大いなる力と栄光とをもって、雲に乗って来る。」−−ヨハネ14章3節、ルカ21章27節。

  イエスは私達に、数多くの「時のしるし」を与えて下さいました。私達は、そうした時のしるしに気をつけているべきです。そうすれば私達は、イエスがいつ戻って来られるかを知る事ができます。イエスは、ご自分が戻って来られるすぐ前に「あちこちで飢饉、疫病、地震」が急激に増加し、「福音が、全ての民に対して証しをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。」と言われました。−−マタイ24章7,14節。ちょうど現在、それが起こっています! また「知識が増す」ので、海外旅行が増えて、「多くの者が海から海へとさまよい歩き、こなたかなたへはせまわる」とも言われました。−−アモス8章11,12章、ダニエル12章4節。

  イエスはさらにこうも言われました。「まずひどい背教のことが起こり、悪人と詐欺師とは多くの人を惑わし、悪から悪へと落ちていく。そして、多くの人の愛が冷えるであろう。」 その結果、「地上では諸国民が悩み、人々は恐怖と不安で気絶するであろう!」 −−第二テサロニケ2章3節、第二テモテ3章13節、マタイ24章12節、ルカ21章25,26節。これらのしるしがすべて、現代において、かつてなかったほどに起こっているというのは明らかなことです!

  あなたには、今のこの世界の終わりを迎える用意ができていますか? イエスがまもなく戻って来られ、地上に、愛の王国を築かれますが、その備えはできていますか? もしまだなら、今日、イエスを心に受け入れて下さい! 明日では手遅れかもしれません!

 

 

  イエスはまさしく、宇宙の支配者かつ王なのですが、政府のお偉方や権力者のいる豪華な宮殿で生まれる事を選ばれはしませんでした。そうではなく、イエスは最もみすぼらしく、最も粗末な所でお生まれになったのです。馬や牛やロバに囲まれて、家畜小屋の汚い床でお生まれになり、ボロでくるまれ、動物に餌を食べさせる飼葉おけに寝かされたのですから。

 

 

  イエスの地上の父親であるヨセフは、質素な大工で、イエスは彼と共に暮らし、働き、私達人間と同じように生活し、人間の習慣や言語を身につけられました。そのようにしてイエスは、私達の暮らしをそのまま自ら経験されて、私達をより理解し、愛するようになられ、私達の限られた理解力のレベルで、私達と意志の疎通をするようになられたのです。イエスは人間を愛することを学ばれたのでした。イエスは私達の苦しみを実際に見て、私達に深い思いやりを持たれ、ただ病気の者や傷ついた者の体をいやすだけでなく、私達の魂や、悲しみに打ちひしがれた心をもいやすことを望まれました!

  イエスは、ご自分の地上での御仕事 (みしごと) を始められると、あらゆる所に行かれて良いことをされました。人々を助け、子供達を愛し、心の痛みをいやし、疲れた体を強め、できる限り多くの人々に神の愛をもたらされたのです。ご自分の教えを説かれただけではなく、人々の間で、一人の人間として、その教えの通りに生きられました。そして、人間の精神的な必要だけではなく、肉体的、物質的な必要を満たすのにも多くの時間を費やされました。病気の人を奇跡的にいやし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、らい病の人を清め、死んだ人を生き返らせ、また、群衆が空腹だった時には、彼らに食べ物を与えるなど、あらゆることをして、人々にご自分の命を捧げ、ご自分の愛を分け与えようとされたのです!

 

  ・人間のようにこの地上に住まい、暮らしていたのに、どうしてイエスが神だなどということがありうるのですか?

 

  イエスは言われました。「わたしと父とは一つである。」−−ヨハネ10章30節。マリヤのもとに生まれて人間の肉体を持って生きるようになる前には、イエスとイエスの天の父は共に天国におられ、非常に親しい交わりを持っておられました。けれどもイエスは、地上に降りて来られた時、そうした父子の交わりを放棄しなければならなかったのです。

  聖書にはこう書いてあります。「初めに言(ことば、イエスのことを指す)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。‥‥そして言(イエス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」−−ヨハネ1章1,2,14節。

  ちょうど捕らえられて十字架にかけられる前に、もうすぐ天の父のもとに戻る事ができると知っていたイエスは、こう祈られました。「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。‥‥天地が造られる前からわたしを愛して下さったのですから。」−−ヨハネ17章5,24節。

 

  ・イエスはなぜ、新約聖書の福音書の中で、ご自分のことをよく「人の子」と呼ばれたのですか?

 

  イエスがご自分のことを人の子と呼ばれたのは、イエスが人間であり、私達と同じように女性の体から生まれ出たからです。イエスは私達と同じような体や感情、それに、私達と同じような肉体的限界を持っておられ、私達と同じように疲れや痛みを味わわれました。

  すべてを創造された方でありながら、ご自分の限りない力を捨てることもいとわず、小さく無力な赤ん坊となられ、あらゆる知恵や知識の源である方でありながら、読み書きを習わなければなりませんでした。イエスは、天においては、数限りない天使達に崇拝され、宇宙のあらゆる軍勢を思いのままにあやつることができたのに、天のご自分の御座を去り、人々に仕える者となられ、嘲笑され、あざけられ、迫害され、最後には、他ならぬ、イエスが救おうとされた人間達の手にかかって殺されたのです。

  聖書にはイエスについて、「この大祭司は、私達の弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私達と同じように試練に会われたのである。」とあります。−−ヘブル4章15節。 想像できるでしょうか! 神の御子が、私達にその愛や、憐れみや、思いやりを示し、私達が、子供にも理解できるような簡単な言葉で主の真理を理解するのを助けるために、この世の人、人類の一員、肉体を持った人間となられたのです。

 

  ・聖書では、イエスのことを「言(ことば)」と呼んでいますが、どういう意味なのですか?

 

  神は常に、様々なものを通して人々に語ってこられました。神の創造物である自然の美しさや驚異を通して、神の預言者やメッセンジャーを通して、また、書かれた御言葉を通して。けれども、神ご自身がどのような方であるか、神の愛がどのようなものであるかが一番はっきりとした形で現されたのは、御子であるイエスを通してです。そしてその御子を神は「言」と呼ばれました。

  言葉は、私達が自己を表現し、自分の考えや感情や性格を表す手段です。ですからイエスは、神が私達に対してご自分を表す手段なのです。私達とコミュニケーションを取るために神が取られた最も際立った手段、つまり、この世にご自身の愛を伝えるために神が選ばれた手段は、ご自分の御子イエスを送ることだったのです。

 

  ・それではイエスは、神からのメッセージ、神の愛を私達に伝えるために地上にやって来られたのですか?

 

  そうです。けれどもイエスは、私達に神のメッセージや教えや神の愛を伝えられただけではありません。私達にとって、イエスご自身が、神のメッセージであり、神の愛なのです。

  生きた言葉であるイエスは、私達に理解できる形で、神の私達への思いを明らかにされました。たとえば、イザヤ53章3節には、「彼は悲しみの人で、心の痛みを知っていた。」とあります。イエスは、友人に悲しみがあったり、人々が苦しんでいるのを見て、涙を流されました。救い主を拒み、それゆえに破滅への運命をたどることとなった都エルサレムのためにさえも、涙を流されたのです。

  イエスはとても憐れみ深い方で、とても思いやりがあり、優しい心を持っておられました。いつも、ご自分のまわりに集まってくる群衆を助けていたので、疲れ果て、力尽きてしまわれた時もありました。ある時には、少し休息をとって元気を取り戻すために、人のいない所に退こうとなさいましたが、聖書によると、イエスはご自分の助けを必要としている群衆をごらんになり、彼らの有り様を深く憐れんだとあります。イエスは、人々のことを哀れに思い、ご自分が疲れ果てているにもかかわらず、出て行って、ご自分のところに来る者をす

べていやされ、彼らに、神の愛の王国の素晴らしい御言葉を教えられたのです。−−マタイ9章36節、マルコ6章31-34節。

  また、生ける言葉であるイエスを通して、偽善に対する神の怒りが爆発した時もありました。イエスは、当時の宗教体制の独善的な指導者達に対してこう言われたのです。「もしわたしがきてあなたがたに語らなかったならば、あなたがたは罪を犯さないですんだであろう。しかし、わたしが来て、あなたがたのことを暴露した今となっては、あなたがたには、その罪について言いのがれる道がない!」−−ヨハネ15章22節。

  実際のところ、イエスは普通、律法学者やパリサイ人といった、権力を持ち、豪華な衣服をまとった、高慢で裕福な宗教指導者達とは、あまりかかわったりなさいませんでした。ただ、彼らの方が、イエスが教えを説いておられる群衆の中にまぎれ込んで、イエスをわずらわせようと、悪意に満ちた質問をしてきたり、疑いを差しはさんだり、非難を浴びせてきた時だけ、彼らを相手にされました。そういう時には、イエスは公然と、彼らが「盲人を手引きする盲人」(マタイ15章14節) だとして彼らのことを暴露し、容赦なく、彼らを叱責されました。時には、彼らが「白く塗った墓のようで、外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである!」とさえ言われました。 −−マタイ23章27,28節。これらの宗教指導者達は、自分達が町でも最も「正しく聖なる」者であると考えていたのですが、イエスは、彼らが本当は偽善者で、嘘つきで、貧しい者を虐げ、欺く者であると暴露されたのです。このことが、彼らを激怒させたのは言うまでもありません。

  しかし、たいていの時、イエスは、自己満足している宗教家達は避けて、貧しい人々、普通の人々を助け、愛し、彼らに語りかけ、彼らをいやし、食べ物を与えられました。そして何よりも大切なことには、彼らが切に求めていた、心の問題に対する答え、つまり、愛や許しや真理を与えられたのです。

  聖書には、イエスは漁師や酔っ払いや売春婦や取税人や罪人(つみびと)といった人達と共にいて、彼らに教えを説かれ、「大勢の群衆は喜んでイエスに耳を傾けていた。」とあります。−−マルコ12章37節。しかし、イエスが宮に行き、宗教指導者達に教えを説かれると、彼らはイエスをやじって追い出し、ついには、十字架にかけて殺したのです!

 

  ・イエスと同じユダヤ人の宗教指導者達が、どうしてイエスを拒んだのですか?

 

  イエスは、人々がすべき事とは、ただ「心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」ことであると教えられました。(マタイ22章38-39節) この新しい戒めは、人々を、宗教指導者達による横暴な抑圧や支配から解放しました。イエスの教えは、既成の宗教の支配下から人々を救い出したので、こうした動きを見て、宗教指導者達は恐れと妬みでいっぱいになったのです。彼らはこう考えました。「イエスをこのまま放っておくなら、みんなが彼を信じるようになるだろう。その上、ローマ人がやって来て、私達の宮も私達の影響力も奪いとってしまうであろう!」−−ヨハネ11章47,48節。

  これらの強い敵意を抱いた宗教上の敵達はついに、イエスを捕らえさせ、民衆を煽動したという、いわれのない告発をして、彼を裁きにかけさせました。ローマの総督は、イエスの無罪を認めましたが、影響力を持つ大祭司らに圧力をかけられ、説得されて、やむなくイエスを十字架刑に処する事にしたのでした。イエスの敵達が彼を捕らえにやって来た時、イエスはこう言って、弟子達を安心させました。「彼らは、わたしの父の許しがなければ、私に指一本触れることすらできない! わたしが父に願うなら、父はわたしを救い出すために、天の使い達を何万人もつかわして下さる!」−−マタイ26章53節。けれどもイエスはそうはされず、死ぬ事を選ばれました。−−あなたや私のために! 誰かがイエスの命を奪ったのではありません。イエスは、自らの自由な選択によって、ご自分の命を犠牲にし、ご自分の命を捧げられたのです。−−ヨハネ10章11,17,18節参照。

  けれども、イエスが死んでも、恨み深く、復讐心に満ちた敵どもは満足しませんでした! イエスに従う者達がイエスの死体を盗み出し、イエスが以前に言われていた通り、死からよみがえったなどと言うことが絶対にないように、これらの偽りの宗教指導者達は、イエスの墓の入り口に巨大な岩を置き、そこを見張るために数人のローマ兵士を配置したのです。しかし、そうした企ても無駄に終わりました。他ならぬその見張り達が、最も素晴らしい奇跡の目撃者となったのです。−−イエスの死体がその冷たい墓に収められて三日後に、イエスは死からよみがえられ、死と地獄と墓に対して素晴らしい勝利を収められたのです!

 

  ・こうした、イエスに関する驚くべき過去の歴史が真実だとしても、それがどうだというのでしょうか? 現代に生きている私にとって、何かためになることでもあるのですか?

 

  聖書の中の、イエスの地上での人生について書かれているのと同じ箇所に、イエスがご自分について、具体的に、また非常に明確に語られた言葉を幾つも見つける事ができます。そしてあなたは、それらの言葉を文字通りに受け取り、今すぐにそれを試してみる事ができるのです。ここに、イエスご自身の言葉をいくつか挙げてみましょう。

  「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇の内を歩くことがなく、命の光を持つであろう。」−−ヨハネ8章12節

  私達の誰もが、以前に暗闇に入り込んでしまい、明かりがあったらと思ったという経験をしたことがあります。明かりがあれば、多くの危険を避けることができるし、どこかに落ちることもなく、安全に歩くことができます。さて、私達の心についても同じことが言えます。私達が神を知らず、神とのつながりを持っていないなら、私達の心も闇に閉ざされているのです。

  あなたは、あなたの人生にある闇をすべて取り除いてしまいたいですか? 電気をつければ、一瞬の内に、暗かった部屋から暗闇が去ってしまうのと同じように、イエスを受け入れるなら、心の中の闇、つまり圧迫感や恐れや悪などがあなたの人生から消え去ります! ひとたび「世の光」であるイエスを心の中に受け入れるなら、悪の持つどんな力も、人生の暗い体験も、その光を消し去ることはできないのです!

 

  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた!」マタイ28章18節

 

  悪魔も、あらゆる邪悪な霊どもも、イエスの名前を耳にしただけで震え上がってしまいます!イエスに、心の中に入って下さいとお願いしなさい。そうすれば、あなたは自分の内に、まさしく最も偉大で、最も強力な

力を持つようになるのです。イエスはあなたの友人であり、あなたを愛しておられ、あなたを助け、あなたの魂をその光で満たしたいと思っておられます!

 

  「わたしは戸である。わたしを通って入る者は救われる。」−−ヨハネ10章9節

 

  イエスは、閉ざされた戸でもなければ、鍵のかかった戸でもありません。ですから、そこから入るために、力ずくで戸を開けようとしたりする必要はありません。イエスという戸は開かれています! ですから、ただイエスを通って、自由に、愛と光の天の御国に入って行けばよいのです! あなたがその戸をくぐりさえするなら、イエスは永遠の命という贈り物を下さり、あなたは自分がイエスのものであり、天国に行くという事を知るでしょう! 今生きている人達の中にも確信を持って、イエスのこの言葉が、真実だと証言できる人達が何千万といるのです!

 

  「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」−−ヨハネ6章35節

 

  心の奥底では、大半の人々が、自分の人生に何かが欠けていると、感じています。表面的には、お金、地位、友人など、自分を幸せにしてくれるはずのものは何でも持っているかのように見えますが、それでも、心の中には、何ものも満たすことのできない空しさや飢えがあるのです。

  イエスは、ご自分が命のパンであり、私達の心の「飢えや渇き」を完全に満たして下さると言われました。自分の人生に入って下さいとイエスにお願いするなら、この言葉が真実であるとわかるでしょう。イエスの愛はたちまち、あなたの飢えた心を満たして下さいます! あなたの味わってきた寂しさや、空しさ、満たされない思いは、今まで味わったこともなかった、永遠に続く幸せ、安らぎ、喜びにとってかわることでしょう!

 

  「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」−−ヨハネ

14章6節

 

  これは驚くべき言葉です。しかし、実は、この言葉は、新約聖書全体の核心とも言えるのです。つまり、イエスだけが、永遠の命や、救いへの道、神との一体化への道なのです。

 

  ・けれども、そんなことを信じるのは、心が狭くて、考えが偏っている証拠ではないでしょうか?

 

  全くその反対です。イエスとその生涯と教えは、あらゆる人のためであり、心が狭いとか、偏っているというのとは程遠いものです!実際のところ、イエスが「わたしを信じる者は、誰でも滅びることがない!」と宣言されたので、排他的で、自分達以外の民族に対して偏見を抱いていた宗教指導者達やラビ(教師)達は、イエスと同じユダヤ教を信じていたものの、そのイエスの言葉にひどく憤慨しました!イエスと同じ民であるユダヤ人は、その指導者達から、いわゆる「異教徒」達を軽蔑し見下すようにと教えられていましたが、イエスはしばしば、その「異教徒」達を助け、彼らと親しくされたのでした。

 

  イエスの時代の宗教指導者達や教師達は、極めて偏狭な人々でした。彼らは、辛辣で、狭量で、律法主義的で、自分達だけが神や神の御国を完全に独占していると考えていたのです。そしてイエスは彼らに面と向かって、神の御国は彼らから取り上げられ、他の者達のために、つまり、東西を問わず、世界中のあらゆる者達のために開かれると言われたので、彼らを激怒させ、そのため、彼らはイエスを始末しようと心に決めたのでした。−−マタイ8章11,12節、21章42,43節。

  神はご自分の御子を私達のもとに送られました。それは、あらゆる人々、あらゆる国の人々、あらゆる民に、神がどのような方かを示し、私達に、ご自身の偉大なる愛を惜しみなくもたらすためでした!「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世(あなたや私)を愛して下さった。それは、御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」−−ヨハネ3章16節。

 

  ・しかし、イエスの名前は出さずに、ただ「神」とだけ言って、「神の愛」について話すことはできないのですか? どうして、イエスの名前を出さなくてはいけないと言うのですか?

 

  イエスが本当に神の御子で、神が世界に対してご自身がどんな方かを明らかにするために、自らイエスを選ばれたのであれば、イエスの名前を使うようにと言っておられるのは、神なのです! 「わたしを愛するなら、わたしの子を愛しなさい。」というのは、神が出された条件であって、私達が出したものではありません。聖書には、「それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。」とあります。−−ヨハネ5章23節。

  神は、私達の偉大なる、心優しく、愛情深い天の父であり、私達一人一人をこよなく愛しておられます。そして、神を自ら知り、神と親しくなることから得られる、素晴らしい愛と喜びと満足感を、私達全員が味わい知ることを望んでおられるのです。

  けれども、悲しいことに、私達は全員、何か悪いことをした経験があり、他の人達に対して、さらには、天の父である神に対しても、利己的であったり、愛に欠けていたり、不親切であったことがあります! 神は御言葉の中でこんなふうに言っておられます。「すべての者は、間違いを犯したため、神の完璧さに至らなかった。」−−ローマ3章23節。

  神は、私達がどれだけ善良になろうと頑張っても、誰一人として、自分の力で、完璧な神の御前に来るほど善良になることはできないと知っておられます。けれども、イエスは完璧な方です。そして、イエスは地上に来られ、苦しみ、私達のために十字架の上で死んで下さり、私達が自分の過ちのために受けて当然だった罰を私達の代わりに受けて下さいました。ですから私達は、イエスの許しと、永遠の命という贈り物を受け入れさえすれば、すべての失敗が許され、私達の偉大なる愛情深い天の父と和解することができるのです!

  私達がどんなに悪くとも、私達がどんなひどいことをしたとしても、関係ありません。ただイエスに許して下さいとお願いし、イエスを心に受け入れるなら、私達は許され、救われるのです。つまり、私達は、今ここで神の素晴らしい愛や安らぎを味わうようになるだけでなく、死んでからも、天国で、絶えることのない愛や幸せを永遠に渡って持つようになるのです!

  預言者であれ、教師であれ、賢人であれ、何かの教祖であれ、普通の人間には、イエスのなされたようなことは到底できません! ご自分の御子を通して、私達の失敗をあがない、私達が受けて当然の罰を私達に代わって受けることができたのは、神ご自身だけでした。神だけに、人間となられた御子イエスを通して、それをすることができたのです。だからこそ、イエスだけが、正当に、ご自分が「道であり、真理であり、命である」と言うことができるのです。

  これ以外に、神と和解する方法はありません。神は、他の条件は受け入れられません。人類のためにどうしても起きなければならなかった事が、イエスを通して起こり、それが起こったことによって、もう二度と同じ事が起こらなくてもよくなったのです! ですから、私達は確信を持って、人類の最大の病の治療法は一つしかない、それはイエスだけであると言うことができるのです!

  例えば、様々な病理学者の研究グループがそろって、ガンの原因と治療法を発見しようと懸命に取り組んだとして、あるグループが、特に自分達が際立って頭脳明晰だったからというのではなしに、治療法を発見したとします。その場合、そのグループが、自分達の発見したことを他のグループに、さらには、全世界に報告するのは、心が狭く、考えが偏ったことでしょうか? もちろん、そんなことはありません! それどころか、彼らがその発見を秘密にしておくなら、それこそ、全くもって愚かで、利己的で、愛に欠けた、不正なことです!だからこそ、イエスを自ら見つけた私達は、最善を尽くして、イエスのことを他の人達にも教えようとするのです。

 

  ・キリスト教には、キリスト教徒が、罪や、不寛容、戦争、残虐行為、分裂を繰り返すという何世紀にも渡る暗い歴史があるというのに、良識ある人間がどうしてクリスチャンになれるのでしょうか?

 

  時代を越えて、何千万という人々が、イエスを受け入れ、イエスを愛するようになり、イエスの力によって、他の人達を愛し、彼らに奉仕するという、素晴らしい人生を送るようになりました。けれども残念なことに、一般的に言うと、確立された教会のキリスト教は、イエスが最初に、ご自分の使徒達やご自分に従う者達に与えた使命を果たすのを、みじめなほどに怠ってきました。神の愛を、それを必要とする世界の人々に分け与えるという使命を、果たさないでいるのです!

  いわゆる「クリスチャン」の団体や宗派のほとんどは、内部でのつまらぬ争いや、利己的に富を蓄積することや、やたらとお金のかかる豪華な教会の建物を建てることなどに夢中になり、事実上、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ!」というイエスの戒めを忘れ、見失ってしまいました。

  私達の目的は、宗教団体のメンバーとなるようにとあなたを説き伏せることではありません。イエスは宗教ではありません! 事実、イエスご自身は決して、宗派や階層制の聖職組織を始めたりはなさいませんでした! イエスはただ、あちこちに行き、良いことをされ、人々を助け、できる限り多くの人に神の愛を与えられたのです。イエスは、どんな会堂も、モスクも、教会も、宮も建てられなかったし、週の特定の「聖なる日」に特定の群衆を集めるということもされませんでした。

  「聖なる日にわたしの教会にいらっしゃい!」という看板を掲げたこともなければ、そう言って宣伝したこともなかったのです。イエスはただ「わたしのもとにきなさい!」と言われました。−−マタイ11章28節。イエスは、その時代の強力で腐敗した宗教体制と妥協することを断固として拒まれ、それとはかかわることなしに働かれました。そして、長い間、宗教体制から見捨てられてきた、貧しい人々や普通の人々に、神の愛と真理を教えられたのです。

  ある時イエスは、サマリヤの「聖なる」山で神を礼拝すべきか、それとも、エルサレムのユダヤ人の宮において神を礼拝すべきかと尋ねた女に、こう言われました。「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。今がその時である。神を礼拝する者は、霊とまこととをもって礼拝すべきである。−−父はこのような礼拝をする者たちを求めておられるからである!」−−ヨハネ4章21-23節。イエスは、神を礼拝するのに、形式や儀式や特別な宗教の建物は全く必要ではなく、ただイエスの言葉の光に従い、私達の心の中で、霊とまこととをもって、神を愛し、礼拝すれば良いと、はっきり言われたのです。

 

 

  ・イエス・キリストが本当に神の御子であり、救いへの道だと確信できるようになるには、どうしたらいいのでしょうか?

 

  私達は、イエスの生涯に関する様々な側面に触れてきました。これを読んで、あなたの信仰が芽生え、成長するよう願っています。先にも言ったように、ナザレのイエスに関する歴史的事実は、偏見を持たずに、事実を真剣に考慮する人なら誰でも否定することはできません。

  イエスが生まれる何世紀も前に与えられた、300を越す、イエスの誕生や生涯や御仕事や死やよみがえりについての詳細に渡る旧約聖書の預言が成就したということもまた、心から真実を探し求めている人なら、否定することができません。

  また、イエスに従っていた者達は、イエスが死んで意気消沈していました。しかし、その後で信じられないようなことが起こり、その小さな一団が、大勢の伝道者の集まりへと成長し、ローマ帝国がいくら弾圧しても、伝道の波を止めることはできなかったということも、否定しようがありません。初め、弟子達は、自分達の主(しゅ)が残酷にも敵の手にかかって十字架にかけられたことで、すっかり気落ちし、失意のどん底にありました。彼らにとっては、もう希望も消えうせ、夢も砕けてしまったかに思えました。

  けれども、イエスの亡くなった3日後に、彼らの信仰は劇的に再燃し、地上のどんな力も、それを消し去ることはできませんでした!そして、イエスに従っていた一握りの者達は、世界中に出て行って、福音(良き知らせ)を宣べ伝えたのです! 神は、私達に神の真理を教え、神の愛を伝えるために、御子をこの世に送って下さったばかりか、御子イエスは、私達のために苦しまれた後で、墓からよみがえられた、だから、イエスを受け入れ、信じる者達は、イエスのおかげで救われ、天国に行くことになっており、決して死を恐れる必要はない、という福音を!

  新約聖書には、イエスはよみがえられた後で、500人の前に姿を現されたとあります。−−第一コリント15章6節。 「神がイエスを死人の中からよみがえらせた」という知らせは、イエスの最初の弟子達によって大胆に宣べ伝えられ、世界中に知れ渡りました。−−使徒行伝13章30節。

  これらの事実を、頭の中で納得するだけでは十分ではありません。イエスが、ご自分の言われた通り神の御子であるということに絶対的な確信を持つには、あなた自身、イエスを試してみることが必要なのです! イエスに、あなたの心に入って、あなたのしたすべての過ちを許し、あなたの人生をイエスの愛と安らぎと喜びによって満たして下さいとお願いして下さい。そうすれば、イエスは答えて下さいます! イエスは御言葉の中でこう言っておられます。「見よ、わたしは(あなたの心の)戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入る。」−−黙示録3章20節。イエスのことを頭で理解しようとする必要はありません。ただイエスに心の中に入っていただけばいいのです!

  イエスの愛や光、命、喜び、永遠の幸せ、救いがほしいと思うなら、あなたの心の中にイエスを受け入れて下さい。今すぐに、そうする事ができます! イエスは救いを、この世でも最も簡単な事とされました。あなたは何の努力をする必要もありません。ただ受け取るだけでいいのです。そして全ての事が理解できなくても、聖書には、神の愛は「人知をはるかに越えている」と書いてあります。−−エペソ3章19節。 神の愛を受け取るのに、神を理解する必要はないのです!

  あなたはイエスを受け入れますか? 受け入れるなら、イエスはあなたの人生において最も尊い存在となられることでしょう! 常にあなたと共にいてくれる、最も近い友人となって下さるのです! この短い祈りを祈って、イエスを今受け入れて下さい。

 

  「イエス様、私には助けが必要です。私は自分で自分を救うことはできません。あなたは神の御子で、あなたを通して、私も、愛である神を見つけ、その神を知ることができると聞きました。イエス様、私の心からすべての恐れや憎しみを追い出すには、あなたの愛が必要です。すべての暗闇を追い出すには、あなたの光が必要です。そして、私の心を満たし、満足させてくれる、あなたの平安が必要です。イエス様、今、心の扉を開きますから、どうか私の心の中に入り、永遠の命という贈り物を与えて下さい! イエス様、あなたが、私のなしたすべての過ちのために苦しんで下さり、私を許し、私の祈りを聞いて下さったことを感謝します!イエス様のお名前によって祈ります。アァメン。」

 

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