真理を探し求めて!

――人々が抱く最も大きな疑問の数々に対する答え!

 

わたしのもとに来なさい!

わしの寺においでなさい!

わしの修行所に来なされ!

私の回教寺院にいらっしゃい!

私の会社に来たまえ!

私の教会にいらっしゃい!

私の大学に来ないかね!

 

  ・「人生とは何なのだろうか? 私は何のために生きているのか? 私の人生には何か目的や計画があるのだろうか? もしそうなら、それは何なのだろうか?」

 

  このような疑問が、いつの時代にも人の心を悩ませたり、その想像力をかきたててきました。国籍や肌の色や宗教を問わず、私達人間はすべて、心の奥底では同じものを切望しています。永久に続く愛、真の幸福と心の安らぎ、そして真実と美と生きる目的を切望しているのです。

  ジャングルの奥地に住む原始的な民族から、最も近代的な高度社会の一員に至るまで、すべての人は、人生が進化論的に、偶然に発生したという説明ですませられるようなものでないことを、本能的に感じとっています。確かに現代においては、自分がどこから来たのかや人生の本質を知ろうとして、近代科学のめまぐるしく変わる理論や、しばしば互いに矛盾さえしている理論から答えを得ようとしている人が増えてきていますが、何千年にも渡って、人は、おもに宗教を心の慰めとしてきました。宗教を通して、人は、目には見えないけれども、きっと存在するに違いないと感じる超自然的な力を認め、崇拝してきたのです。

  真理や悟り、心の安らぎ、究極の真実を求めている人々のために、人間の宗教の多くは、あらゆる種類の信条や儀式などを提供しています。そのような宗教を通して、人は、自分が崇める目に見えぬ神、あるいは神々から恩恵を受けることを願い、その超自然的な助けを探し求めるのです。

 

  ・でも、私は 「出世」のことで精一杯なのだから、宗教のような時代遅れのものにかかわり合っている暇などあるでしょうか?

 

  めまぐるしく移り変わり、ますます複雑化し、コンピューター化していく現代の世界において、人間は経済的に楽をしようと、気違いじみた忙しさの中にいます。そのため、人生の意味や心の安らぎ、他の人々への愛、さらには自分自身の心の永遠の幸福といった「抽象的」な事柄についてゆっくり考える暇など全くなくて当たり前になっているのです! 結局のところ、そのようなことを考えるのは、最も人気のあるこの世の 「神」を求める足手まといになったり、大きな妨げになったりするからです。その神とは、世界中のほとんどの人々に崇拝と献身を強要している神、つまりお金と物質的な富のことです!

  多くの人は、まだ幼い子供の頃から、人生において幸福になるには、次のような方法しかないと、しっかり教え込まれています。1.)優れた教育を受ける。それも有名大学で学位を取るのが望ましい。2.)成功している会社や企業に入り、 「将来性のある」 仕事につく。3.)沢山のお金を稼ぎ、新車を買ったり、立派な家を建てて家具を揃え、あらゆる種類の贅沢品やハイテク電子製品でいっぱいにする。それは、「成功」のシンボルだから。−−このようにして金持ちになるには、あくせくと血と汗と涙の一生を過ごさなくてはならないものの、たいていの人は、それほど深刻に疑問を抱いたり、ためらったりすることもなしに、この生き方を選びます。というのも、自分の望んでいる富を手に入れさえすれば、ついに真の幸福と満足が得られると信じ込まされているからです。

  しかし悲しい事に、そのような人々は、幸福を手に入れる為にがむしゃらに努力してきたのに、自分がどうしても幸福になれない事に気づくのです。年月が経つ内に彼らは、会社や社会的な重圧が自分にストレスや不安をもたらすばかりで、心の安らぎや満足感を得る助けとはなっていない事に気づきます。また彼らの個人的な生活も影響を被り、自分の家族や愛する者達と共に過ごす時間さえありません。

  そしてついには、この世界とその全ての富と快楽は決して人の心を満足させはしないという事を悟って、愕然とするのです! 物は一時的に体を満足させることはできますが、人の魂を満足させる事はできません。人の魂は、喜びや安らぎや永久に続く満足感を切に求めており、物質的に豊かなだけではそれらを得る事ができないからです。

  だからこそ金持ちや権力者は、しばしば最もみじめな人間であったりするのです。彼らはほとんどの人が、自分を満足させ、幸せにしてくれるだろうと考えるような物、すべてをすでに所有しています。彼らは、自分がほしいと思っていた物は、何でもすでに手に入れたのですが、悲しいことに、それらは自分の空しく、飢えた心を満たしてくれはしないということを悟るのです! ですから、そのような人達はもう、富の中に幸福を見いだせるという、希望さえ抱いていないのです! 有名な英国の詩人、バイロン卿もこのことを悟り、次のように嘆き悲しみました。 「私はすべての快楽の杯を飲み干し、あらゆる名声の杯も飲み尽くした。しかし、私は渇きの為に死のうとしている!」

  現代人の多くは、創造主、つまり神のことについて深く考えることなど殆どありませんが、突然自分に危機が訪れたり、悲劇が起こったなら、例えば、突然の事故や深刻な病気や家族の死といった、何らかの種類の個人的な大きな損失に見舞われたなら、その人達はいったい誰に助けを求めるのでしょうか? 銀行の預金がどんなに沢山あっても、死んでしまった人を取り戻すことはできません。家も土地も贅沢品の数々も、冷めた愛を再び燃え立たせたり、悲嘆にくれる心を癒すことはできません。そのような危機が訪れた時に、人々はよく、人生の真の価値がただの物質的な富をはるかに越えたものであることに目覚めるのです。

 

 

  ・すべての宗教は、根本的にはどれも同じではないのですか? それぞれ手段は違っていても、どれも最終的には同じゴールに到達するのではありませんか?

 

  人の基本的な必要や心の願いはみな同じであるものの、世界の主要な宗教はそれぞれ、その必要を満たすための手段を提供しており、それらの手段は互いに異なり、しばしば矛盾さえしています。最も普及している宗教を簡単に見てみると、次のような事が明らかになります。

  多くの宗教において、熱心な信者達は、定期的に礼拝の場所−−寺や神殿やモスクや教会など−−に行くことによって、心が必要としているものを満たそうとします。その礼拝の場所では、祈りがなされ、香がたかれ、おびただしい数のいろいろな慣習や儀式が執り行われます。

  様々な宗教に献身している人達の中には、弟子となって完全にその身を捧げるために、すべての世俗的な快楽や財産を捨てることさえいとわぬ人達もいます。多くの人達は、聖像や偶像やそれぞれの神や神々の像を崇めたり、それに助けを求めるよりも、自分自身の内に真理や現実性を探し求め、熱心な精神集中や黙想や瞑想によって、悟りを開こうとします。

  真理を探求する人の中には、ただ一つの神を崇拝する人もいれば、何百もの、さらには何千もの神々を崇拝する人もいます。また、世界の主要な宗教の中には、ただ道徳あるいは倫理上の哲学から始まったものもあります。そういった宗教の創始者達は、実は、人々が何らかの神を崇拝することなど、全く望んでいなかったのです。それなのに今日では、まさにその創始者達がまるで神であるかのように人々から崇拝されているのです!

  多くの宗教信者にとって最も高い望みであり、彼らが熱心に求めていることは、死んだ後も、来世において人格を備えた一つの存在として、幸福で素晴らしい人生を送ることです。また、人格をもった存在として生き続けるという考え方を軽蔑しているものの、死んだら自己というものが消滅して、宇宙の究極の存在と一体になる事を期待している人々もいます。

  また、死んだ後で、再び違う生物として生きるために地上に戻って来て、それを何度も何度も繰り返すと信じている人達もいます。彼らは、現在の人生は、何度も迎える誕生と生まれ変わりの一つにすぎず、完全に悟りの境地か救いに到達するまで、これが漠然と続くと信じているのです。また、人間は地上でたった1度の人生しか生きることができないので、その1回限りのチャンスに正しく生き、それによって、何とかして幸福な死後の人生が保証されるようにしなくてはならないと考える人達もいます。

  あまりにも多くの宗教があり、それぞれ説くことがかなり異なっていて、互いに矛盾さえしているために、真理を探し求めている人達はどれを選ぶべきかわからず、とまどってしまいます。特に、世界の主要な宗教のほとんどすべてが、自分達の方法こそ、悟りを開いたり、至上の幸福や救いを手に入れたり、天国に行くための唯一の真の方法であると主張しているのですから!

 

  ・真理を心から探し求めているのであれば、まず何をすべきでしょうか?

 

  もし至高の存在、全能の神が確かに存在しているのかどうかわからないのだったら、まず最初のステップとして、神が存在するかどうか確かめることです。神聖なる創造主が存在するということを最も明確に証明しているのは、私達のまわりの世界や大宇宙、つまり目に見える創造物である自然だからです。

  次にあげる実話は、このことの良い説明となるでしょう。ロバート・A・ミリカン博士は、核分裂の研究でノーベル賞を受賞したアメリカの著名な原子物理学博士です。ある夜、博士の栄誉を称えるために開かれた晩餐会で、若いジャーナリストがこのような質問をしました。 「ミリカン博士、あなたは疑いもなく、ずば抜けた科学者であり、偉大な物理学者です。しかしながら、噂によると、あなたは今でも創造主というあの古い観念にしがみついていらっしゃるようですね。事実、神を信じていらっしゃるという噂ですが、それは本当ですか?」

  ミリカン博士は、しばらくの間沈黙して、その若いレポーターの顔をじっと見つめました。それから彼は、自分のチョッキの中から精巧な金時計を取り出し、こう言ったのです。 「この時計を作るのにさえ、知恵のある設計者、製造者が必要だった。それだったらこのように複雑かつ精密に規則正しく動いている大宇宙を造るのにも、きっと偉大な創造者が存在したに違いありません!」

  世界三大宗教によって聖なる書物とされている聖書にはこう書かれています。 「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、神の創造物において知られていて、明らかに認められるからである。」−−ローマ1章20節。 つまり、目には見えない創造主の存在は、その方が創造された、私達の目にするこの素晴らしい世界に現されているということなのです。創造主の造られた自然という素晴らしい創造物こそ、創造主が存在することの最高の証拠なのです!

  海も、空も、山も、谷も、木々も、花も、すべてが私達に何かを語っています! 澄みきった夜に空を見上げて、星や惑星や、宇宙の不思議を眺めていて、これらのものすべてが存在しているのには、きっと理由や目的があるに違いないと思ったことはありませんか? その全てが何かを意味し、物語っているということを? それらはこう言っているのです! 「ほら、神は存在している! 神の素晴しい創造物を見て下さい!」 と叫んでいるのです。聖書にはこう書かれています。

  「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざを示す。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに。」−−詩篇19篇1−3節。神のすべての創造物は、神の存在と神の力を証明し、神の威厳を示してきただけでなく、神が私達を愛し、私達に心を配って下さっていることを示してきました。私達が生きていく場所として、神はこのような美しい世界を与えて下さったのです!

 

  ・でも聖書は西洋の伝統的な本であって、キリスト教も、もともと西洋諸国の宗教ではないのですか?

 

  確かに聖書は、おもに西洋文化において信奉されてきましたが、そこにある真理はすべての人のために書かれたものなのです。実のところ、その起源は 「西洋」 ではありません。聖書のほとんどは、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸を結ぶ唯一の地である、中東のパレスチナの地にいた預言者や先見者達によって書かれました。

  偉大な創造主である神は、聖書の中の沢山の箇所で、世界のすべての国の人々に、次のように優しく呼びかけておられるのです。

 

    「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしはすべて生けるものの神であって、ほかには神はないからだ!」 −−イザヤ45章22節

 

  聖書は、あらゆる国の人々にはっきりとこう呼びかけています。「主の御名(みな)を呼び求める者は、すべて救われる。神はすべての人が救われて、真理を悟るに至る事を望んでおられるからである。神は人をかたよりみない方で、神を敬い、義を行う者はどの国民でも受け入れて下さる!」 −−ローマ10章13節、第一テモテ2章4節、使徒行伝10章34、35節。つまり、神はご自身

の愛と、平安と、祝福と救いを、人種や肌の色、国籍や身分に関係なく、私達すべての者に惜しみなく与えられるのです。

 

  ・けれども、今日のキリスト教の教会の中には、巨大な富や土地や建物などを抱える教会もあり、むしろ利己的で閉鎖的であるように思えますが。

 

  残念なことに、多くの教会は全くその通りです。今日、世界の人々が 「キリスト教」とみなしているものの多くは、質素で謙虚であられたイエスがご自身に従う者達に教えられた、元来の教えからひどく離れてしまっています。そして、現代の大半のクリスチャンの生き方と、イエスやイエスの弟子達の生き方とを比べてみても、類似点はほとんど見られません。

  イエスは、込み入った儀式をしたり、守ることが不可能なおきてを守るようにとは一度も説かれませんでした。また、貧しい人達を犠牲にして、仰々しい宗教の建物や大聖堂を建てなさいなどとも一言も言われませんでした! イエスはただ、最も大切な宗教上の務めとは、 「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」ことだと言われたのです−−マタイ22章37-39節。そしてイエスご自身、 「貧しい人達に分け与え、打ちひしがれた心をいやし、囚人を解放し、盲人の目を見えるようにし、束縛されていた人達を解放」して、愛と憐れみに満ちた生き方の手本を示されました−−ルカ4章18節。

 

  ・聖書に書かれている神が、自分達は神の象徴であると主張している教会のようなものではないとしたら、いったい神はどんな方なのですか?

 

  真の神は、慈しみ深い神であり、親切で、優しく、あらゆる国にいる神の子供達一人一人を気づかっておられます! 聖書には、神は、あなたをご自分のいとしい子供のように愛しておられる愛情深い天の父であって、この美しい世界を、あなたが生活し、楽しむための場所として造って下さったと書いてあります。

  残念なことに多くの人々は、神は、ありとあらゆる所に目を光らせていて、こん棒を持ってみんなを追いかけ回しておられ、私達の間違いや罪や欠点を見つけるや否や、こっぴどく殴ったり、罰したりしようと構えておられると考えています。けれども聖書を読めば、それは全く真実ではなく、神は愛情深く、優しく、憐れみ深く、いつも人を許して下さる方だということがわかります。そして、神が誰かを追いかけ回すとしたら、それは、その人が神の方を向いて、神に心を開くのを願ってのことです。神は両腕を広げて、みんながご自分のふところに飛び込んでくるのを待っておられるのです!

  事実聖書には、「神は愛である!」と書いてあります−−第一ヨハネ4章8節。神は、ご自分の創造されたものが苦しんでいるのを見て楽しみ、私達に何の喜びや幸せも与えず、私達をみじめな存在にしようと望んでいるような冷酷な方ではありません! 神は、誰でも彼でも脅えさせて地獄へ送り込もうとしている残忍な暴君ではないのです。神は、愛の神で、すべての人を、ご自身の愛によって天国へ導こうとしておられます!

 

  ・その神はどこにおられるのですか?

 

  イエスは、 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである!」と言われました −−ヨハネ4章24節。神は、人間を越えた存在です。神と神の霊は、全宇宙をも超越しているからです!

  神は遍在しておられ、つまり、至るところに存在しておられ、全知全能です! どこにも神を閉じ込めてしまう事はできません。寺院や、祭壇や、神社といった宗教のための建物の中に閉じ込めることができないのは確かです! 神は言われます。 「わたしは天と地に満ちているではないか。見よ、天も、いと高き天もわたしを入れる事はできない! いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない!」−−エレミヤ23章24節、 列王紀上8章27節、使徒行伝7章48節。

  神は、偉大な、根本となる力であり、宇宙を導く光であり、全能の創造主であり、すべてのものを創造した大いなる愛の霊です。人間を創造され、私達にとって愛情深い父のような存在である神は、私達一人一人に対して、愛のこもった素晴らしい計画をお持ちです。神は、愛や命、自由、幸福を切に求める私達すべての人の心を最終的に満たして下さるのです! 神はあなたを愛しています!

 

  ・その 「偉大なる愛の霊」 以外にも、霊は存在するのですか?

 

  「偉大なる愛の霊」 とは、唯一の創造主であり、唯一の全能の神の事ですが、その他にも、それほど力を持たない霊の存在、霊の力が沢山あります。それらも、神が造られたものです。事実、霊の世界と呼ばれる、全く別の領域があるのです。そしてその中には、何千万にものぼる、数え切れないほどの霊達が住んでおり、彼らは、たいてい私達の目には見えないものの、確かに存在しているのです。天使や、かつては地上で普通の人間として生きていたけれども死んで天国に行った天の霊達といった良い霊達もいれば、悪い霊どももいます。悪い霊は、悪鬼や悪霊どもです! しかし、 「偉大なる愛の霊」 である神だけが、全知全能で至る所に存在する創造主です! 他の霊達はすべて、それほどの力を持ってはおらず、神が自分達に対して定められた範囲内でその力を行使しています。

  良い霊達、つまり神の天使達は、神のために忙しく忠実に働いています。一方、霊の世界の邪悪な軍勢、つまり悪鬼や悪霊どもは、神

に反抗し、悪魔あるいはサタンとして知られている、強力な、反逆の天使に従っています。悪魔とその軍勢は神に敵対しており、霊の世界で、神の善良なる軍勢と常に戦いを交えています。これらの悪鬼どもは、天使のように人間を愛し、助けて、私達を神に引き寄せようとするのではなく、人間をだまし、征服し、破滅に追いやるために、人間に悪影響を及ぼして、神に反抗させるための機会をいつも狙っています! 今日の病める社会に見られる混乱や残酷さや殺戮や破壊は、おもに悪魔とその軍勢のせいです!

  悪魔に導かれた邪悪な霊の軍勢は、人間が神を知り、愛と光と救いの永遠なる神の王国に入るのを阻止しようと必死になっています。聖書には、サタンは 「この世の神であり、神を信じぬ者達の思いをくらませて、神の真理の輝きを見えなくしている」とあります−−第二コリント4章3、4節。

  ですから、あなたが心から真理を求めているのなら、霊の世界の現実を探る時、とても注意深くあり、しっかり善悪を見分ける力を持つことが非常に大切です。そうでないと、悪魔、あるいは悪魔の偽りの霊どもによって、妨げられたり、欺かれたりしてしまうからです!

 

  ・世界の諸宗教が信じている他の神々はどうなのでしょうか?

 

  先にお話した様に、今日多くの人達が崇拝するようにと教えられている「神々」が、実際には、その宗教を創始した人間である場合もあります。これらの神扱いされている人々は、自分が神だとは一言も言わなかったのですが、彼らが死んで何世代もたつと、彼らに対する信者達の尊敬の念がだんだん増大し、ついに彼らが神とみなされ、崇拝されるまでになったのです! しかしこれらの創始者達は、そのような事は全く望んでもいなかったし、考えてもいませんでした!

  他の宗教、例えば多数の神々を崇拝している世界の主要な宗教では、それらの神々に関する伝説がもともと、霊の世界で実際に起こった出来事や戦いに基づくものであったという可能性も大いにあります。これらの神々の多くは、そしてその神々にまつわる古くからの話は、もともとは実在した霊や、目に見えない霊の世界で起こった過去の戦いや出来事に基づいていたかもしれないのです。

  しかし、正確な記録が十分になかったために、時がたつにつれて、これらの話は口伝えを経る内に、かなり誇張されたり、歪められたりし、今日では、全く信じられないような伝説になってしまっています。けれども霊の世界には、私達人間に比べたら、実際に 「神」や 「女神」のようであって、超自然的な存在である霊達が、何千万も存在しているという事実に変わりはありません。善良な霊もいれば、邪悪な霊もいます。そしてその双方が、人間に救い、あるいは呪いをもたらそうとして、霊の領域で戦いを繰り広げているのです!

  もちろん、世界の大宗教の中には、人格を持った神を信じてもおらず、崇拝もしていないものもあります。それらの宗教においては、神は、宇宙の基礎をなす 「至高の原理」とか 「究極的法則」とか 「絶対的なもの」として考えられています。全能者である神についてのこのつかみがたい概念によると、たいてい神は、人間の様々な必要や、個々の人間、個々の状況からは全くかけ離れた存在として見られています。しかし聖書には、真の神は私達一人一人のことを気にかけておられ、 「父がその子供を憐れむように、主はおのれを愛する者を憐れまれる」とあります−−詩篇103篇13節。

  また宗教によっては、自然の中に見られる驚くべき美しさや調和を認め、創造された物である自然そのものが神に違いない、私達の目に見えるものすべてが、神の現れ、あるいは神の一部であるに違いないという結論を出しています。このような考え方は、実際のところ聖書に書いてあることによく似ています。聖書には、 「神は万物よりも先にあり、万物は神にあって成り立っている。万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである。われわれは神の内に生き、動き、存在している!」とあります−−コロサイ1章17節、ローマ11章36節、使徒行伝17章28節。神は、万物を造られた大いなる力なので、ある意味では神は、天の巨大なる星雲から微々たる原子の結合力にいたるまで、あらゆる物の一部であり、またあらゆる物は神の一部です!

  目には見えない創造主と、その創造主が造られた目に見える物との間に密接な関係があるのを認めて、幾つかの宗教は、太陽、月、山、風、季節といった創造物そのものを敬い、崇拝します。けれども聖書によれば、私達は神ご自身を崇拝し、神ご自身を直接知り、神ご自身と身近な関係を持つことができるのです。ですから、 「創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕える」必要はありません−−ローマ1章25節。私達が、神の手によって造られた素晴らしい自然を賞賛し、それに感嘆するのを神は喜ばれますが、造られた物をあがめ、崇拝しておきながら、それを創造された方には目もくれないというのは、神は望まれません!

  また何百万もの人々が、瞑想によって悟りを開こうとします。誠実に真理を求めてこうした道をたどる人々の献身的な態度は賞賛に値しますが、深い瞑想をして忘我の境地に入るのは危険です! なぜなら、自分の追求している超自然的な霊の力を実際に見つけるかもしれないものの、同時に、深い瞑想をして無我の境地に至ると、霊の世界の目に見えない軍勢に対して無防備になってしまうかもしれないからです。唯一の神、真の神の霊によって守られていないなら、簡単に誤った方向に導かれて、欺く霊どもの餌食となり、ついには悪鬼にとりつかれてしまうこともあります!

 

  ・どんな宗教でも、心から信仰しているのに間違っているということが、どうしてありうるのでしょうか?

 

  聖書によると、サタンである悪魔は大ペテン師であり、よく「光の天使に擬装」します−第二コリント11章14、15節。悪魔は自分の嘘を真実であるかのように見せかける為に、巧妙にも、嘘に沢山の真理や良いことを織り交ぜます。確かに、悪魔の悪霊どもの多くは、明らかに邪悪で、凶暴で、破壊的なのですが、悪魔はよく、真理を巧みに使って人の心を引きつけ、そして人をだまして惑わしのわなにかけては、自分の手中にうまく誘い込んで、餌食にしようとするのです。

  もし悪魔が、良い事や真実を一つも語らなかったら、そのあからさまな嘘を鵜飲みに人はほとんどいないでしょう! だから悪魔は、自分の嘘を砂糖でくるむのです。そうすれば一見おいしそうに見えるし、最初は実際においしく感じるけれども、結局はひどい消化不良を起こしてしまうことになるのです! 事実、それは全くの毒であり、完全に飲み込むなら、あなたの体は生き続けても、魂は死んでしまうでしょう!

  そういうわけで、あなたが真理を探し求めているなら、まず、あなたを愛し、救いたいと望んでいる真の神、愛の神を見つけなくてはなりません! 形式的な宗教や、宗教の儀式やしきたりが、素晴らしい喜びや愛や安らぎで心を満たしてくれることは決してありませんが、一度、生ける神と生き生きとしたつながりを持つなら、あなたの心はそれらでいっぱいになるのです!

 

  ・多くの宗教は、真に神を喜ばせ、神に近づくには、苦しい修業を積む事が欠かせないと教えていますが、それは真実ですか?

 

  いいえ! 前にも述べたように、神は愛であり、神はあなたを本当に愛しておられます。そして、あなたが幸福であることを望んでおられるのです! そもそも神があなたをこの美しい世界におかれたのもそのためなのです! 神は、あなたが人生を楽しむことを望んでおられます。だから、楽しみを味わうための感覚や神経をあなたの体に備えられ、素晴らしい環境をあなたに与えられました。神は、あなたが自分に与えられた人生を楽しみ、また永遠に神を愛し、神との交わりを楽しむようにと、あなたを造られたのです!

  けれども悲しい事に、大勢の人達は、神が自分の幸福を望んでおられるという事を知らないでいます。宗教というと、次の話に出てくる若者の持っているようなイメージしか抱いていないのです。「実に厳格で信心深い祖父と一緒に教会に行った青年が、その帰り道に、近所の人の飼っているラバの所で立ち止まると、その鼻をなでながら、ラバにこう話しかけたのでした。 『お前も、きっととても信心深いんだろうね。だって、こんなに憂うつそうな顔をしてるんだから!』」

  多くの人は、信心深くなったり、聖人のようになるには、人間のすべての幸福やいかなる種類の楽しみをも否定しなくてはならないと考えています。中にはひどく極端に走って、楽しみは全て罪深く、邪悪なものであると信じ、他の人にもそう教えている人々さえいます!そして、多くの苦しみや苦痛を味わい、苦行を積み、自己抑制をしなければ信心深いとは言えず、全くの苦痛と苦悩を味わっていなければ、神に近づくことはできないと考えているのです! 神に感謝することに、聖書にはそのようなことは書かれていません!

  しかしながら哀れにも、自己抑制や苦行をしなければという強い思いに取りつかれ、実際に沢山の釘の上に座ったり、自分の頬に串を刺したり、熱く焼けた石炭の上を歩いたり、自分を鞭打ったり、さらには自分を十字架に釘づけにしたりまでする人もいます! 自分が苦しめば苦しむほど、 「信心深く」、 「聖く」なり、神に近づくと考えているので、故意にあらゆる種類の肉体的な拷問を苦しむのです!

  確かに私達には、犠牲を払ったり、苦しんだりする必要のある時もありますが、聖書にある神の言葉によれば、私達はある種の功績を得たり、神の恩顧に預かる手段として、故意に苦しみを味わう必要はないのです! もし私達が苦しむことがあるとするなら、それは何かの理由で神がそれを許されるからですが、たいていは、他の人を助けるために自分を犠牲にしたり、自己を惜しまず与えたりしたことの結

果としてなのです。それは、私達が必ずしもそういった苦しみを求めたり、望んだり、それによって自分が何らかの功績を得たり、高潔な人間になると考えるからではありません。

 

  ・では、自己抑制や犠牲や苦行を積むことが救いへの道ではないのであれば、自己を救うためには、一体どうしたらいいのでしょうか?

 

  自分を救うためにできる事は何もありません! あなたは自分で自分を救う事はできないのです! それなのに人間の宗教の大半は、人間は根本的には善であり、正しい者であって、自分自身を救いに至らせることができるという考え方を基盤としています。実のところ、世界の諸宗教の思想や信条を念入りに分析してみると、宗教には二つの種類しかないという確かな結論に達します。つまり、 「自らを救おうとする」宗教と、 「神のみが救える」と信じる類いのものです!

  世界の宗教の大部分は、その信奉者達に、信心や善行、自分自身の神聖さ、苦行や自己抑制によって、あるいはその特定の宗教の規則や伝統を守ることによって、自らを救う事ができると教えています!しかし、自分で救いを得られるほどに善良だった人というのは、未だかつて一人もいません! 「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。」 −−伝道の書7章20節。

  人間を創造された時から神は、私達一人一人が、神と直接親しい関係を持ち、神とコミュニケーションを取ることを望んでおられました。神は、ご自分が私達の最も親しい友となり、神の愛や忠実さや思いやりを、私達がいつも頼りにすることを望んでおられたのです。

  しかし神は、私達を無理矢理に神の友達にしたくはありませんでした。神は人間を、何にでも自動的に従い、神を敬うロボットか何かのようなものにすることも容易にできたのですが、神を愛し、神に従うことを、私達に強いたくはなかったのです。神が、善と悪の両方が存在するのを許されたのも、私達一人一人が選択をし、自らの意志によって神を愛し、神に従うか、あるいは、背いて自分勝手な道を進むかのいずれかを選ぶことができるようにするためでした。

  悲しいことに、私達は誰しも、時には間違った選択をしてしまいます。そして、利己的に振る舞ったり、不親切な行為をしたり、愛のない行いをすることによって、他の人だけではなく、神ご自身をも傷つけてしまうのです。私達が間違った方向に歩むと、私達の愛情深い天の父であられる神を本当に悲しませます。

  しかし、私達が不完全で、多くの悩みや問題を抱えているにもかかわらず、神はなお私達を愛して下さり、私達の近くにいることを望まれ、私達の最も親しい助力者や友であることを望まれています。けれども、たとえ私達が自分自身の信心や善行や苦行などによって神に近づき、神と一つになり、神によって 「悟りを開き」 、神からの救いを手に入れようと、どれだけ熱心に、また真剣に努力しても、私達は常にこのゴールに達するには至らないのです。 「すべての人が罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。」−−ローマ3章23節。私達がどれだけ善良で正しい人間になろうと努力しても、また、どれだけ厳しく自己を鍛錬して、神聖さや救いの境地に到達しようと奮闘してみても、自らを救うというのは全く人の力の及ぶところではないのです!

 

  ・それでは、救われるためにはどうしたらいいのでしょうか? それとも、神から永遠に隔てられたままでいなければならないのでしょうか?

 

  神はあまりにも偉大で、崇高で、万能で、人間の限りある知性や理解力をはるかに越えているので、神や神のやり方というものを、私達が完全に理解するのは不可能です。神はこのように言っておられます。 「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い!」−−イザヤ55章9節。しかし神は、私達を助け、私達の親しい友となることを切に望まれたので、私達に神の愛を示し、人間として私達と共に暮らし、人間の肉体をまとって、神ご自身がどのような方かを示すことのできる方を送って下さいました。

  神は私達をこの上なく愛しておられるので、私達が神から隔てられたまま苦しまなければならないというのは望んでおられません。神の愛なしには、私達の心は真に満たされることなく、空しいままで、死んだような状態になってしまいます。そこで、人間に神の永遠の命と救いとをもたらすために、神はご自身の御子 (みこ)イエスを、約2千年前に地上に送られたのでした。

  イエスは、神の聖霊によって奇跡的に身ごもった、マリヤという名の若い処女のもとにお生まれになりました。イエスは成長し、ご自分を通して天の父の姿を現され、目に見えない偉大な創造主がどのような方であるのかを、私達の目に見える形で示して下さいました。イエスは、神が愛であることを現されたのです。あらゆる所へ行って良い行いをされ、人々を助け、私達全ての人間に対する神の偉大な愛について教えられたのでした。

  そしてついに、救いの良き知らせを世に伝えるという、ご自分の任務を果たされたイエスは、ご自分の命を犠牲になさいました。残酷にも、独善的で冷酷な宗教上の敵たちによって十字架にかけられたのです。そしてその亡きがらが墓に収められてから3日の後、イエスはよみがえられ、死と地獄に対する永遠の勝利者となられたのでした!

  聖書は、私達にこう告げています。「神はそのひとり子(イエス)を賜ったほどに、この世(あなたや私)を愛して下さった。それは、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」−−ヨハネ3章16節。あなた自身が愛の神ご自身と、生き生きとした素晴らしいつながりを持つには、たった今イエスを信じて、イエスの永遠の命の贈り物を受け取るだけで良いのです!

  イエスは言われました。 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」−−ヨハネ15章13節。イエスは、あなたが、あなたをこの上なく愛しておられる愛の神から隔てられたまま苦しまなくてもいいように、あなたのために自分の命を捧げてくれた、あなたの友だったのです! もしあなたも、直接、神の偉大な愛に触れ、全ての悩みや問題に対する答えを見い出し、あなたが今までに犯した全ての過ちを許してもらいたいと思うなら、神の御子イエスを信じ、イエスをあなたの心の中に受け入れて下さい。イエスは言われました。

 

    「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない!」 −−マタイ11章28節、ヨハネ14章6節。

 

  あなたにとってこれは単純で、子供っぽく思えるかもしれませんが、偉大なる宇宙の創造主は、ご自分の愛と真理と救いをあなたや私に与えるために、このような方法を選ばれたのです! 誰でも神の愛を受け取れるようにと、本当に簡単にされたのです。幼い子供でも、おじいちゃんでも、おばあちゃんでも、貧しい農民でも、大富豪でも、無学な原住民でも、知的な科学者でも、東洋人でも西洋人でも、北の諸国の人でも、南の諸国の人でも、誰にでもわかるようにされました! もちろんあなたにもわかるようにされました!

  イエスを受け入れることはとても簡単で、イエスは、 「あなたがたは自分を低くして、幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできない!」 と言われました。−−マルコ10章15節。あなたも、心を謙虚にして、神の愛や喜び、心の安らぎ、満足感、そしてイエスを通して得られる、永遠の命という贈り物を受け取りたいですか?

  イエスはあなたを愛しておられます。だからあなたが次の簡単な祈りを心から祈って、イエスに心の中に入って下さいとお願いするなら、この素晴らしい贈り物をたった今、あなたに与えて下さいます。

 

   「イエス様、私には助けが必要です。私には自分を救うことはできません。あなたは神の御子(みこ)で、あなたを通して神の愛を見つけ、神の愛を知ることができると聞きました。イエス様、私の心の中から、全ての恐れや憎しみを追い出すために、あなたの愛が必要です。全ての暗闇を追い出すために、あなたの光が必要です。あなたの平安で私の心を満たして下さい。イエス様、今、私の心を開きますから、どうぞ中に入ってきて、永遠の命を与えて下さい! 私の全ての過ちのために苦しんで下さり、それを許して下さり、祈りを聞いて下さったことを感謝します! イエス様のお名前によって祈ります。」

 

  イエスが心に入って下さった今、あなたには、新しく素晴らしい人生が始まりました! 聖書にはこうあります。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである!」 第二コリント5章17節。

  もっとイエスのことを知り、またイエスが誰であって、なぜ神がイエスをこの世に送られたのかを詳しく知りたいと望まれるなら、この小冊子をあなたに差しあげた人から、 「イエスとは誰か?」 という素晴らしい小冊子を受け取って下さい。または今日、私達に手紙を書いて、それを求めて下さい。宛て先は下記の通りです。神があなたを祝福され、あなたに愛、喜び、安らぎを与えて下さいますように! 私達はあなたを愛しています。そして、あなたからのどんな質問にも、喜んでお答えしたいと思っています。

 

宛て先: