宝 P.791-801

 

嫉妬!

−−いかに対処するか!

   誰かや何かの事で、嫉妬という問題を抱えたことがない人はいません。嫉妬というのは、国籍や人種にかかわらず、誰もが持つ問題であり、人間が生まれながらにして持つ罪深い性質の一部です。もちろん、私達が嫉妬し始めるのは普通、愛する人からの愛や関心を失ってしまうのではないかという恐れを抱くからです。

  私達は、「その人を愛しているから嫉妬するんだ」とよく言いますが、たいていの場合は、私達が嫉妬するのは、単に、利己的な理由からではないでしょうか。嫉妬というのは、結局のところは、利己心、プライド、独占欲に他なりません。自分の嫉妬心をあえてあからさまに口に出したりはしないかもしれませんが、私達は心の中でこう考えているのです。「彼は私のものよ! 他の誰も彼を自分のものにすることなんかできないわ!」 「彼女を自分のものにする権利があるのは僕だけだ!」 

  神があなたを誰かと一緒にされ、二人がとても特別な愛の関係で結ばれていても、心や魂の必要や、情緒的な必要がすべて、あなた達二人の間だけで完全に満たされなければならないと言い張るのは、正しい事ではないし、思いやりのあることでもありません。あなたが愛しているその人は、他の人達のことも必要としており、クリスチャンとして、あなただけでなく、他の人達をも愛する義務がある、これが真実です。「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」−−ガラテヤ5:14。他の人達もまた、あなたの愛する人と時間をとり、ある程度の愛や関心を与えてもらうことを必要としているのです。これは、主の仕事において特に言えることです!

  今日の社会ではしばしば、嫉妬が美徳と考えられています。嫉妬のあまり怒り狂って恋人を殺すような度を越した嫉妬の場合は、すぐにそれが悪いとわかるのですが、私達は普通、嫉妬は自然の感情であって、誰かに対する愛の現れであると思いがちです。つまり、あなたが誰かのことを愛し、その人もあなたのことを愛しているなら、その人は、あなただけのものであって、もしその人が他の誰かを思いやったり、誰かに少しでも関心を寄せたり、あなたから見てあまりにも多くの愛を示すなら、あなたには、その人に嫉妬を抱く権利があるというのです。

  多くの人々は、嫉妬や独占欲が、「二人を結ぶ素晴らしい愛」のへたな表現に過ぎないと考えています。しかし、これは非常に誤った考え方です。嫉妬とは、愛する人を利己的に独り占めし、完全に、自分だけのものにしておきたがることです。ですから、神の御言葉によれば、美徳でも何でもありません! それは罪なのです!

  聖書には、「互いに挑み合い、互いに妬み (嫉妬し) 合って、虚栄に生きてはならない。」と書かれています。−−ガラテヤ5:26。「穏やかな心は身の命である、しかし妬み(嫉妬)は骨を腐らせる!」−−箴言14:30。 嫉妬というのは、私達をむしばんでいくものであって、精神的及び情緒的に悪いだけではなく、医学が証明しているように、心に悪感情を抱くなら、健康も損なってしまうのです!

  嫉妬や妬みというのはまた、他の人達の生活をも地獄のようにします! 「憤りはむごく、怒りは激しい、しかし、妬み(嫉妬)の前には誰が立ちえよう?」−−箴言27:4。嫉妬というのは必ず、周囲の人達を傷つけます。ことに、私達が愛しているはずの他ならぬその人を。「嫉妬は墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最も激しい炎です。」−−雅歌8:6。 嫉妬すると、人は狂ったように怒り、むごたらしくも復讐を試みることもあります。「嫉妬は、その夫を激しく怒らせるゆえ、恨みに報いる時、容赦することはない。」−−箴言6:34。

  最後に、聖書は、嫉妬や妬みに関して、次のように私達に警告しています。「妬みと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。」−−ヤコブ3:16。これは覚えておく価値があることですが、「妬み」(聖書で使っている嫉妬の同義語)の霊というのは、あなたの心や思いや人生に、悪魔の混乱や、「あらゆる悪」が入り込むすきを作ってしまうのです!

  悪魔は、「われらの兄弟を訴える者」(黙示録12:10) であって、あなたが嫉妬していると、他の人についての嘘を耳元でささやき、あなたの利己心や恐れにつけこんできます。そしてあなたがこれらの嘘に耳を傾けるなら、やがては、嫉妬している相手のほんのささいな行動まで勝手に解釈して、相手が全く考えもしなかったような意味にとるのです!あなたは、ちょっとした事や自分勝手な想像で、狂ったように嫉妬し、その結果、あなたの愛する人があなたを満足させようとどんなに努力しても、それは不可能になってしまいます! たいていの場合、嫉妬というのは、物事をはなはだしく誇張して、実際よりもはるかに悪く見えるようにします。そのため、嫉妬に狂っている人というのは、誰かが自分の好きな人をちらっと見ただけでも嫉妬を抱くほどになってしまうのです!

  小さなこともまるで大きな山であるかのように誇張するのが、悪魔の手口です! もし、悪魔の言わんとすることにしばらく耳を傾けるなら、あなたは完全に落胆し、混乱し、自分は何てかわいそうなんだろうという気持ちになります! あるいは、さらに悪いことに、自分を「傷つけている」と思う人達に対して、まるで火山の爆発のように、あなたの利己心や憎しみや、くやしまぎれの感情を爆発させてしまうのです!

  私達は、自分が受けて当然と思うほど愛や思いやりや関心を受けていないと感じる時に、嫉妬を抱きます! 利己的に、自分だけの個人的な幸福や、満たされない欲求のことを考える時、不平を言うようになります。「私は、もっと良い待遇を受けて当然なのに、ひどい仕打ちを受け、さんざんな目に合っている。」というように感じるのです。ですから、嫉妬というのは、実際には、不平の霊であり、それは、利己的な考え方の結果なのです。

  利己的な人は、自分は他の人よりも多くのものを受けて当然だと信じているので、何かを他の人に分け与えるのも喜びません。そのような人は、自分が何もかも独り占めして当然であるかのように感じるのです。「私以外の誰も、あの人と時間を過ごしたり、あの人から愛をもらったりはできないわ。彼は私だけのものなんだから!」 これは、まさに深刻な問題です。私達はクリスチャンなのだから、本当は、私達の持っているものはすべてイエスのものであるのに、人間の罪深い性質のゆえに利己的になり、自分のものだと思うものを独り占めにしようとするのです。

  覚えていて下さい。私達の愛する人達は、「私達のもの」であるだけではないということを。まず第一に、何よりも、彼らは主のものです! 真のクリスチャンは誰でもイエスと結婚していると聖書には書いてあります。(ローマ7:4) ですから、私達と私達の愛する人々とは、忠誠心や愛を、まず誰よりも主に捧げる義務があります。私達の主との関係というのは、他のいかなる関係にもまさって、さらには、結婚のきずなにもまさって、優先されなければなりません。(359ページの「イエスを第一に」を参照して下さい。)

  クリスチャンとして、あなた達双方が、主に仕えて、他の人達をイエスに勝ち取っているべき時に、あなたの夫または妻が他の人達に愛や関心を示していることについていやがったり、不平を鳴らしたりするのは、かなり利己的なことです! 結局のところ、愛や関心を示すことこそ、証しをしたり、魂を勝ち取る時に欠かせない事だからです!

  先に触れたように、嫉妬というのは、何の根拠もないものであることがよくあります。あなたは、自分の愛する人の行動や動機をすっかり誤解し、その結果、その人がどこか他に愛を求めていて、自分のことはもう以前ほどは愛していないのではと心配したり、恐れたりし始めます。けれども、それはすべて、あなたの想像に過ぎないかもしれないのです! もし、あなたがこの種の嫉妬や恐れに身を任せてしまうなら、悪魔はあなたの恐れに付け込んで、あらゆる嘘を語り、あなたを完全に悩まし、一つ一つの取るに足らないささいな事を実に大きな出来事のように見せます。

  たとえば、妻達の中には、自分の夫が、秘書と恋愛関係にあるのではないかと絶えず恐れ、夫が秘書にごく普通の礼儀を示したり、親切にしたり、彼女の勤勉な働きに感謝の意を表したりしただけで、狼狽してしまう人がいます。この種の過度の嫉妬は、愛する人に対する信頼の欠如が原因です。また、主に対する信頼の欠如の結果でもあります。

  解決法は、そのような悲観的で恐れに満ちた霊から救い出されるように、必死に祈って、主に求めることです。それに屈服してしまってはいけません! 嫉妬にかられ、そのえじきになりそうになる度に、それをイエスの御名によって制するのです!もしあなたが一人でそれに立ち向かえるほど十分強くないなら、その時には、あなたの試練や、霊的な戦いについて他の人達に告白し、そういった束縛から自由になれるよう、一緒に祈ってもらうことです! 「互いに罪を告白し合い、また、お互いのために祈りなさい。悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう!」−−ヤコブ5:16、4:7。

  もちろん、愛する人との正直なコミュニケーションは欠かせません。嫉妬の悩みがあるなら、プライドを捨て、正直にそのことを相手に打ち明けるべきです。正直に話し合うなら、相手の人が、あなたの恐れや敵からの嘘を打ち消したり、何であれ、そもそもあなたが疑惑を抱くきっかけとなったことについて説明をする機会もできるでしょう。

  あなたの夫または妻が、あなたのことで嫉妬していることがわかったら、できる限り愛情深く、思いやりのある態度を取るようにして下さい。相手にとってできる限り容易なものにしてあげるよう努めるべきです。もし、あなたが相手の立場だったらどのように感じるかを想像し、それから、「人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにしなさい。」−−(マタイ7:12) 相手の人にできる限り愛を示し、絶えず、あなたが彼あるいは彼女を愛していると言って、安心させてあげることです。常に優しくしてあげ、相手のために祈り、思いやりを欠かさないようにして下さい。

  次に持ち上がって来る質問は、あなたの恐れが現実のものとなり、あなたの夫または妻、あるいは恋人が、誰か他の人と関係を持ったり、恋に陥っているということがわかった時には、どうすべきかというものです。その場合、どうすべきでしょうか?もちろん、状況によって異なりますし、それに関係している人達にもよりますが、次に挙げるのは、それに対する基本的なアドバイスです。

  もしあなたが、夫ないし妻を、あなた以外の他の人との関係を許すほどに愛しているなら、問題は小さなものとなることでしょう。しかし、もしそうでない場合は、嫉妬は文字通り、あなたの心を引き裂き、あなたの家庭までも引き裂いてしまいます!大半の人は、それほどに非利己的な愛は持っていないので、嫉妬が原因で破局を迎える夫婦が数え切れないほどいます! たいていの人々は、そのような状況においては、離婚し、家庭を崩壊させてしまうか、あるいは、便宜上や世間体のために、名目上の結婚を続けていくのですが、結局は、互いに憎しみを抱いたり、冷めた態度で接するようになります。

  多くの人が、嫉妬や妬みやプライドのとりことなって、結婚関係や、さらには自分の人生まで、すっかり台なしにしてしまうのは悲劇としか言いようがありません! その一方で、純粋な愛、憐れみ、許し、そして正直さや、相手に対する理解が、多くの結婚を救ったのでした。それらがなかったなら、自分の伴侶が、誰か他の人との恋愛関係に陥っているとわかった途端、嫉妬とプライドによって、夫婦関係は破綻していたことでしょう。聖書には次のように書かれています。「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない!」−−第一コリント13:8。試練に悩む時、ただ主に目を向けて、助けと導きとを主に求めさえするなら、主は、結婚問題を解決するための、信仰と力と愛と理解とを与えて下さることでしょう。

  聖書にはこう書いてあります。「愛はすべての罪をおおうものである。」(第一ペテロ4:8)。 そして、多くの愛と理解は、確かに、どんな種類の対人問題に対しても解決の鍵となります。けれども、裏切られたり、傷つけられたと感じている人が、相手を許せないとか、理解できないとか言うならば、その人は、自分には真の愛、神の愛がないと言っているのも同然です! なぜなら、神からの、超自然的で奇跡的な、無限の、驚異的な愛というのは、十分に許すことのできる愛だからです! 事実、許すとは、愛することなのです! イエスご自身、主の祈りの後で次のように言われました。「もし人を許さないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちを許して下さらないであろう!」−−マタイ6:15。

  ですから、神のために、あなたの愛する人のために、さらには、あなた自身のためにも、プライドや嫉妬が引き起こした一瞬の怒りによって、その人との関係を終わりにしてしまう前に、まず、その代価を考えてみて下さい! イエスは言われました。「わたしが好むのは、憐れみであって、いけにえではない!」−−マタイ9:13。離婚したり、相手を独善的に非難するよりも、「間違った」相手を憐れみ深く許し、理解しようと試みる方がどれだけ良いことでしょうか! 「罪のない者が、まず石を投げつけるがよい。」−−ヨハネ8:7。 (神の許しと憐れみと恵みと愛について学ぶには、 228ページの「神の愛の律法」を読んで下さい。)

  けれども、悲しいことに、現代人の多くは、そのような問題に直面した時に、賢く愛のこもった対応ができないようです。だからこそ、祈って主に呼ばわり、主に解決していただくことが唯一の真の解決策なのです! もし救われているなら、あなたは主の子供であって、主が自分を愛して下さっていると知っています。主は、他の誰にもできないほど、あなたのことを心から気にかけて下さっているのです!

  その事がどれだけあなたを傷つけようとも、状況がどれだけ困難に見えようとも、あなたが祈って、そのことについてイエスに心を注ぎ出すなら、イエスは、あなたから混乱や怒りや動揺を取り去り、心の安らぎを与えて下さいます! (イザヤ26:3、詩篇119:165。) 真に主を信頼し、愛しているなら、あなたは、無限の知恵を持たれる主が、何か理由があって、その事が起きるのを許されたに違いないという信仰を持つことができるはずです。私達を主に近づけるために、主がこれらの事が起きるのを許さることがしばしばあるからです。当初は困難に見える事でも、あなたの人生に起きるすべての事は、主のご計画の一部なのです。主は言われます。「神を愛する者達にとっては、万事が共に働いて益となる。」−−ローマ8:28。こういったことさえも益となるのです! (93ページの「万事は共に働いてあなたの益になる」を参照)

  以下は、あなたが主に要求することのできる神の御言葉からの素晴らしい約束の幾つかです。「わたしが主に求めた時、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを救い出された。」−−詩篇34:4。「あなたの荷を主に委ねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決して許されない。」−−詩篇55:22。 「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思い煩いを、いっさい神に委ねるがよい。」−−第一ペテロ5:7。

  その状況に関して、もしかしたら自分にも幾らか責任があるのかもしれないと、自分自身に問いただしてみるのは役に立ちます。もしかしたら、あなたが十分に愛情を示さず、思いやってあげなかったために、あなたの夫または妻は、どこか他で、自分が必要としている真の愛や優しさや満ち足りた感情−−そして肉体的な満足も−−見つけなければならないと感じたのかもしれないからです! もしそうなら、主は、もっと犠牲的な愛や思いやりを持つことをあなたに教えるために、さらには、相手に対して真の愛や感謝の気持ちを持たせるために、そのような事が起きるのを許されたのかもしれません。

  二人の関係において、あなたが最善を尽くしたにもかかわらず、あなたの夫または妻が、別の人と親密な関係を持つことを必要としている場合でも、あなたはやはり理解ある姿勢を保つべきです。さて、この事を直視しましょう。共に働き、いつもよく一緒にいる二人が、お互いに引きつけられることは、よくあることです。しかし、あなたの愛する人が他の誰かと恋愛関係にある理由が何であれ、あなたが嫉妬を抱いたり、それをやめるようにと強要したり、その人を独り占めにしようとすることは、少しも問題解決には役立ちません。なぜなら、あなたが利己的になり、怒って、自分の愛する人を非難したり、自分の思い通りにコントロールしようとするなら、たいていの場合、相手をますます自分から遠ざけることになるからです。

  だからこそ、祈って主に呼ばわり、主に解決していただかなくてはなりません。主だけが、唯一の解決策を持っておられるからです! 主と主の御言葉に目を向けて、このような状況において必要な、力と信仰と信頼を与えていただきなさい! 最もつらい試練の時にあって、神の御言葉は、この上なく素晴らしい慰めです! もしあなたにもっと多くの信仰が必要なら、御言葉を読み、それにしがみつき、暗記することです。そうすれば、主はもっと多くの信仰を与えて下さるでしょう!−−ローマ10:17。

  もしあなたが一人でそれに耐えようとするなら、気も狂わんばかりになったり、愛する人に対して、憎しみや敵意を抱くようになってしまいます。そして、憎悪でいっぱいになるなら、それは、あなたの人生や結婚関係、子供達の人生、あなたの将来、さらには、あなたの神との関係まで破壊してしまうことさえあるのです! 聖書は私達にこう警告しています。「苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないように気をつけなさい。」−−ヘブル12:15。

  嫉妬のあまり怒りを爆発させ、早まってあなたの結婚関係をぶちこわしてしまう代わりに、必死に祈って主に呼ばわり、主からの愛と許しと理解によって、この状況を乗り越えさせて下さるよう主に求めなさい。私達の内、誰一人として、最初からその種の愛や許しや理解を持っている人はいません。しかし、イエスはそれを持っておられ、あなたが心からイエスに呼ばわり、一心に主の助けを求めるなら、主は与えて下さいます。主はこう約束されました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」−−ヨハネ14:27。 「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」−−ピリピ4:7。

  忘れないで下さい。あなたはイエスのものです。−−そしてあなたの愛する人も、もし救われているなら、イエスのものです。ですから、状況がどうであれ、二人の人生はいずれも主の御手の内にあるのです。そして主は、どうにかしてあなたを主にもっと近づけるために、このテストを許されています。相手があなただけのものではなく、まず何よりも主のものであるということに気づくなら、主が問題を解決して下さり、双方の人生において、主の完全な御心を行って下さると信頼するのがもっと容易になることでしょう! ですから、あなたはただ単に主を愛し、信頼しなければなりません!

  純粋で非利己的な愛と、嫉妬深い独占欲との違いは、次に挙げる聖書の物語を読むとよくわかります。

  ある日のこと、二人の女性が、賢いソロモン王に相談に現れました。二人とも、生まれたばかりの一人の赤ん坊が自分の子であると主張して譲らなかったのです。聖霊によって導きを受けたソロモン王は、ある命令を下して、その女達の反応をテストしました。その赤ん坊を半分に裂いて、二人の女にそれぞれ与えよと言ったのです。赤ん坊の本当の母親はこれを耳にして、子供への愛のゆえに胸が張り裂けそうになり、自分が母親であると言い張るのをやめて、自分自身の幸福を放棄しようとしました。彼女は、「閣下、お願いでございます! その子を殺さないで下さい! 赤ん坊をその女に与えて下さい!−−ただどうかその子を生きさせてやって下さい!」と叫んだのでした!

  もう一人の、母親ではない方の女は、王の命令を聞くと、「そうでございます! その子を半分に分けて下さい! もしその子が私のものにならないのなら、どちらのものにもなるべきではありません!」と言ったのでした。二人の女の言ったことを聞いて、ソロモンは、剣を振り上げる兵士の方を向いて、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。その女がその母なのだ!」と命じたのでした。−−列王紀上3:16-28。

  あなたは、この二人の女性のどちらに似ているでしょうか? 自分自身の利己的な幸福や満足を求めるあまり、あなたが愛していると言う人の時間や愛や関心を他の人達と分け合うよりは、むしろその人を殺してしまう方を選ぶのでしょうか? それとも、あなたは本当にその人を深く愛していますか?  自分自身の幸福よりもその人の幸福の方を望み、その人が幸福と満足を得られるようにするためなら、喜んでその人をあきらめる−−少なくとも一時的に−−ほどまでに、その人を愛しているでしょうか?

  それが、ソロモンが、その赤ん坊にふさわしいのは誰かを判断した方法でした! 赤ん坊を受け取るのに本当にふさわしかったのは、その子を手放してもよいから、少なくともその子が幸せに生きることができるよう、命を助けようとした女性の方だったのです! けれども、実の母親ではなく、その赤ん坊を真に愛してはいなかった女性は、自分のことばかり考え、その子がどうなろうと構いませんでした。その子が他の人のものになるくらいなら、殺してしまっても構わないとさえ考えたのです! そして、結局その女は赤ん坊を自分のものとすることはできませんでした!

  高慢で、利己的で、嫉妬深い人々というのは、自分の愛する人が誰か他の人のものになるくらいなら、むしろ、その人を殺してしまうか傷つける方を選びます。これは、彼らには、真の愛、クリスチャンの愛、イエスの愛がなかったことを証明しています! 彼らが本当に愛していたのは、自分だけだったのです! さて、あなたは、自分が嫉妬している相手を、実際に肉体的に殺すことはないかもしれませんが、「妬みは骨を腐らせる」のであって、それは、ゆっくりと、確実に、その人との関係をむしばみ、壊していきます。辛らつな言葉を浴びせたり、感情的になったり、不平を鳴らしたり、非難したり、冷たい態度を取ったり、愛を示さなかったりすると、やがてはその人との関係にひびが入り、取り返しのつかないことになってしまうのです。嫉妬し、自分のことをかわいそうに思う人がちょっとした言葉や仕草で、相手の注意を引いたり、同情を買おうとしても、結局は同じ結果に終わります。

  嫉妬している人というのは、必ずと言っていいほど、自分が愛していると主張する相手に、仕返しとして、何か傷つけるような事をしようとします。そして、相手が自分の望む通りにしてくれず、無理強いしたり、コントロールすることもできないと、今度は、相手にも気まずい思いをさせて「お互い様」にするために、相手が傷つくとわかっている事、苦しむとわかっている事を、故意に、あからさまに行うという手段に訴えるのです!

  それこそ、相手が他の人達に愛や関心を示し過ぎていると不平を言ったり、自分のことはもはや愛していないとこぼしたりする時に、あなたがしていることです。長い目で見れば、あなたは、自分が愛していると主張する相手を踏みにじってしまうことになります! 少なくとも、その人が自分に寄せていた愛と信仰を踏みにじり、おそらくは、その人の自信を喪失させてしまうことにさえなるでしょう!

  しかし、あなたが極度の嫉妬を抱いているのであれ、「軽い」嫉妬を抱いているのであれ、それを野放しにしておくなら、実に深刻な問題となり得ます。絶えず嫉妬し、特にそれが抑えきれないほどの怒りにまで発展するなら、もはやそれは単なる利己心やかんしゃくではなく、霊的なものであり、邪悪な霊によって引き起こされているのです! 嫉妬という悪霊どもがいることを知っていましたか? 実際に存在するのです! そしてそれらの悪鬼は、嫉妬によって人の気を狂わせてきました! 実際、嫉妬の悪鬼は、自分が「愛している」と主張する相手に対して殺意を起こさせたりもします!

  しかし、嫉妬というのは、誰しも少しは持っているものです。ですから、あなたが嫉妬しているからといって、必ずしも嫉妬の悪鬼がついているということではありません。けれども、嫉妬がある程度まで達し、嫉妬に駆られるままに行動するなら、その時には、悪鬼があなたをコントロールし、あなたは自制力をなくしてしまって、暴力的になり、嫉妬を抱いている相手を傷つけるまでになるのです! ですから、「悪魔に機会を与えてはいけません!」−−エペソ4:27。覚えていて下さい。たとえ、嫉妬しやすい性格だとしても、あなたはそれを抑えることができるということを!−−クリスチャンであるなら、なおさらのことです! 「あなたは、自分を強くしてくださるキリストによって何事でもすることができる」のですから!−−ピリピ4:13。

  時に嫉妬は、霊的な影響を及ぼすほど強力になることがあり、人に対して強い支配力を持ち、その人を束縛し、がんじがらめにすることができます。もし、あなたが長年嫉妬の問題に悩まされてきたなら、一人で祈っても、嫉妬を取り除くことはできないかもしれません。ですから、その時には、そういった束縛から解放されるように、他の人にあなたのために祈ってもらうか、またはあなたと一緒に祈ってもらう必要があります。一人で祈ったり、聖句を引用したり、それについて他の人達に話すだけでは、勝利を得られない場合は、もしかしたら、聖書のヤコブ5:14-16にあるように、 自分に「手を置いて」もらい、皆で団結して、必死に祈ってもらう必要があるかもしれません。 (736ページにある「悪癖を克服する!」という読み物の終わりにある解放のための祈りを参考にして下さい。)

  嫉妬が神からのものではないことに気づいて、それに立ち向かい、それと戦うための力と助けを主に求めるなら、嫉妬が心に入るのを拒むことができます。こう言えばいいのです。「サタンよ、おまえを制する! ここから出て行け! 私はおまえに屈することも、おまえの邪悪な思いを受け入れることもしない!」 問題は、あなたが本当に勝利したいかどうか、また、敵が嘘を言ったり、恐れを吹き込んだり、大袈裟なことを言って信じさせようとしても、それと戦う気持ちがあるかどうかです!

  あなたが邪悪な嫉妬に強く束縛されていても、神はあなたを解放することができます。だからと言って、解放のための祈りをしてもらった後には、もう嫉妬の問題で悩まなくてすむというわけではありません。嫉妬というのは、人間の陥りやすい弱点で、その醜い頭を再びもたげようとすることがよくあるからです。しかし、あなたは、自分の意志で、それに屈服するのを拒むことができます。嫉妬は、もはやあなたをコントロールすることはありません。あなたがそれをコントロールできるのです!−−祈りと御言葉とによって!−−「もし子(イエス)があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは本当に自由な者となるのである!」−−ヨハネ8:36。

  かつて、かの有名な福音伝道師であるビリー・グラハム氏の夫人に、ある人がこう尋ねました。グラハム氏は、神の愛を他の人達に伝えるために、長い間、家を留守にすることもしばしばだけれども、夫とゆっくり過ごす時間がないと不満に思うことはないかと。すると、夫人は非常に賢明な答えをしました。「誰か他の人と沢山の時間を過ごすより、少しの時間でもビリーと一緒にいられる方がいいんですもの!」

  あなたには、自分の伴侶を、神と神の奉仕のために他の人達と分かち合うほどの沢山の愛がありますか? あなたはグラハム夫人のように、「誰か他の人と沢山の時間を過ごすより、少しでも彼と一緒にいられる方がいい」と言うことができるでしょうか? もしそうなら、神はあなたを祝福して下さいます!−−なぜなら、それこそ、真のクリスチャンの愛だからです!

  神があなたを祝福し、あなたに神の素晴らしい愛を与えて、あなたを強めて下さいますように! そして、あなたを嫉妬から自由にして下さいますように! イエスの御名で、アァメン!