宝 P.783-790

 

天国、地獄、その中間!

  クリスチャンとして、私達は、自分達自身の良い行いや、義のわざによって救われたのではなく、神の愛と憐れみとによって救われたということを知っています。神は、御子(みこ)イエス・キリストを、私達の罪を背負って十字架の上で死ぬために、世につかわされました。だから、もし私達がイエスを信じ、イエスを心に受け入れるなら、許され、ヨハネ3:36で約束されているように、「御子を信じる者は、永遠の命を持つ(今持っている)」のです!

  イエスにおける神の愛の良きおとずれを耳にしておきながら、なおも強情で、反抗的で、心をかたくなにして、主の憐れみと救いとを完全に拒否する人が地獄に行って当然だというのは理解できます!イエスはこう言われました。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終わりの日に、その人をさばく。」−−ヨハネ12:48。しかし、昔から常に、以下のような疑問が、多くの誠実なクリスチャンや神の御言葉を学ぶ人々を悩ませてきました。

  「福音を一度も聞いたことのない人はどうなのですか? イエスの名前を耳にしたことすらなく、何も知らない、かわいそうな異教徒は? 神は愛であるはずなのに、その神がどうして、福音や救われる方法を聞くチャンスが一度もなかった人達まで、地獄の火と硫黄の池の永遠の拷問に送ることができるのですか?

  別の宗教を信じているけれども、いわゆる善良な人で、自分にできる最善のことをしている何億もの人達はどうなのですか? 誰も彼らに福音を宣べ伝えず、神の愛を示さなかったがゆえに、救われたいと思うこともなかった人達を、一体どうして神は地獄に送ることができるのですか? 彼らは、地獄の火で永遠に拷問を受けるのですか? 彼らは、主や主の言葉や真理のことを一度も聞いたことがなかったものの、親切で心優しく、神や仏をあがめ、その教えを行うために最善を尽くしていたのに、それでも地獄に送られるのですか?」

  いいえ。神は、そのような人達を地獄に送ったりはしません! その人達が皆、天国、すなわち、救われた人達のためだけの、あの素晴らしい天の都(黙示録21:24,27)に行くとは限らないかもしれませんが、彼らが皆、地獄に行くということはありません! 私は、聖書を詳細に渡って研究してきており、神は、イエス・キリストの真の福音を一度も聞いたことがなく、そのことについて全く知らない救われていない人達のために、別の場所を用意されていると堅く信じています!

  神は、彼らに憐れみを持たれ、チャンスを与えられるのです! 彼らに、この世において、福音を聞いたり信じたりするチャンスがなかったのであれば、主は必ず、彼らが来世において初めてのチャンスを受けるようにされます! あなたは次のような質問をするかもしれません。「でも、彼らは、一体どうやって地獄で福音を信じることができるのですか?」 その答えはこうです。幾つかの宗派では、彼らは死んだら地獄に行くと教えているかもしれませんが、そうではなく、何十億にものぼる救われていない人達の大半は、死んでも地獄には行かないのです。

  地獄という言葉を考える時、いったい何を想像するでしょうか? 私達は即座に、火の池、すなわち「ゲヘナ」のことを考え、硫黄と火の燃える所を思い浮かべます。「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」−−そこは、キリストを拒絶した、邪悪で、呪われた者たちが拷問に苦しむ所です。−−マルコ9:43-44及び黙示録21:8、14:9-11。教会の牧師の多くは、イエスを信じない人は全て、死んだ瞬間にこの実に恐ろしい火の池に投げ込まれると教えています!

  そのような地獄が存在していることには全く疑いの余地がありません! そして、例えばヒットラーやアンチキリストその他の、歴史上の獣のごとき邪悪な人々は、罰としてそのような場所に行って当然であるということにも疑いの余地はありません!しかし、何億にものぼる何も知らない異教徒や他の宗教を信じる人達はどうでしょうか? さらには、善良で道徳をわきまえ、一応クリスチャンでありながら、実際に自分の心にイエスを受け入れたことは一度もなく、それゆえ、救われていない人達はどうでしょうか! 彼らは、そのような拷問の場所に行って当然なのでしょうか? 答は、明らかに、ノーです!

  新約聖書の中には、地獄や黄泉(よみ)という言葉が22回出て来ますが、その中で、原文のギリシャ語の「ゲヘナ」、すなわち火の池にあたるものは、わずか11回だけだと知ったら、あなたは驚くかもしれません。その他の11回は、原文では「ヘーデス」という言葉が使われていて、その文字通りの意味は、「目に見えない状態」あるいは「目に見えない世界」なのです。−−それは火の池のことではありません! 旧約聖書で、一貫して陰府(よみ)と訳されている言葉もまた、ヘブル語の原文では火の燃える地獄のことを言っているわけではありません。ヘブル語の原文で用いられている「シェオール」という言葉もまた、「目に見えない状態」とか、霊の世界を意味しているのです。

  もう一つの非常に重要な点は、「墓」という言葉に関してです。それは、英語の旧約聖書には合計65回出てきます! その内の34回は、実際に死んだ人が埋葬されるお墓のことを意味しているのですが、残りの31回は、「人々が墓に下って行く」といった表現をしているところで、ヘブル語の原文では「シェオール」が使われています。−−つまり、それは霊の「目に見えない世界」のことなのです!

  この、間違って「地獄」や「墓」に訳されてしまっている「目に見えない世界」というのは、何なのでしょうか? 明らかにそこは、目に見えない霊の世界のことであり、死んで他界した霊が住んでいる所です! ですから、その人が恐ろしいほど邪悪な人でないのなら、死んだ時に、まだ救われていないその人の魂はどこに行くのでしょうか? 彼らは、ヘーデス、すなわち、目に見えない世界へ行くのです。即座に地獄の火の池の中に投げ込まれることも、墓という穴の中に閉じ込められたままとなることもありません。そうではなく、彼らは、目には見えない霊の世界へ行くのです。

  「一度だけ死ぬことと、死んだ後裁きを受けることとが、人間に定まっている」−−ヘブル9:27。しかし、この裁きというのは一体いつ起きるのでしょうか? 多くの牧師が主張するように、人が死んだ直後なのでしょうか? いいえ! 黙示録20:5,11-15 には、救われていない死人というのは、至福千年の終わりになるまで、よみがえって裁きを受けることはないとはっきり書いてあります! そして、至福千年というのは、まだ始まってすらいません! ですから、それまでの間、救われていない死人というのは、いったいどこでその裁きを待っているのでしょうか? 黙示録20:12-13を見るとその答がわかります。「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉(ヘーデス)もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、裁きを受けた。」ですから、ヘーデス、すなわち霊の世界というのは、待っている所であり、救われていない死人はそこで、裁かれて、自分の最終的な場所に送られるのを待つのです。そして、その裁きというのは、至福千年の終わりの「大いなる白い御座の裁き」の時まで起こりません!

  聖書にこれほども明確に書いてあるのに、教会はどうして私達にこの事を告げないのでしょうか?天国と地獄の他にもどこか行く場所があるという事を、彼らはどうして認めたがらないのでしょうか?なぜでしょうか? 救われていない人々、信者になる可能性のあった多くの人々が、教会の偽りの教義のせいでキリスト教に背を向けてしまいました。人々は、無知の赤ん坊や子供達も含めたすべての人達を地獄の火に送り込むような神は信じることができなかったのです! 教会は何とひどい事をしてきたことでしょうか! 教会がいかに、その教義によって、多くの人が神の公平さと恵みと憐れみを知るのを妨げてしまったかを考えてもみて下さい! 「あなたがたは、もし私達と同じように信じないなら、真っすぐ地獄の火に投げ込まれるようになる!」と言っているのです。聖句によれば、その中間の場所があることが非常に明確であるにもかかわらず!

  すると、次の質問が持ち上がってきます。「福音を一度も聞いた事のなかった人が、霊の世界で自分の最終的な裁きを待っているのなら、彼らがそこでイエスを信じ、罪の許しを受け入れ、救われて解放される事もあるのですか?」それに対して「あります」と答えると、あなたは驚くかもしれません!彼らが死んで、次の世界で目覚め、自分が間違っていたこと、イエスこそが真理であるということを知り、その時に、誰かが福音を告げさえするなら、彼らはきっと信じることでしょう! しかし中には、哀れな失われた罪びとが一度死ぬと、その人の「恵みの時」というのは永遠に終わり、その人は、たとえ自ら望んでも、もはや真理を信じる事も、救われる事も出来ないと主張している人々もいます!

  けれども、もしこれが本当にその通りで、彼らが救われる見込みが全くないのなら、どうしてイエスご自身、「獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝える」ために、十字架刑から復活までの三日三晩、地の心臓部で過ごされたのでしょうか? 第一ペテロ3:18-20 には次のように書かれています。「キリストもあなたがたを神に近づけようとして、自らは義なる方であるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のために死なれた。こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、昔ノアの箱舟が造られていた間、神が忍耐をもって待っておられたのに従わなかった者たちのことである。」

  第一ペテロ4:5-6 にはまた、次のようにあります。「神は、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためである!」 このことを考えてみて下さい! イエスは、地球の中心部で、3日間、救われずに死んで獄に閉じ込められていた者たちと共に過ごされ、「彼らに福音を告げ知らされた」のです! 「福音」というのは、「良い知らせ」、すなわち、救いの良き知らせのことです!

  他界した者たちに、信じて救われる可能性がないのなら、どうして神の御子ご自身が彼らに宣べ伝えなどされたのでしょうか? 彼らが悔い改めて、自分の罪を悔い、許しと救いを受け入れて、その閉じ込められた状態から解放されることが可能でなかったならば、どうしてイエスは彼らに福音を宣べ伝え、救われる方法を告げられたのでしょうか? 救われる可能性がなかったのなら、福音を宣べ伝えても何の意味もなく、イエスはただご自分の時間を無駄にされたということになります!

  イエスはなぜ、彼らに福音を宣べ伝えられたのでしょうか? 一応、彼らにも福音を告げておき、終わりのない霊の獄の中で、彼らが永遠に渡ってもっと惨めな思いをするためだったのでしょうか?イエスがわざわざそこに降りて行って、福音、すなわち、救いの良き知らせを獄に閉じ込められた者どもに宣べ伝えられたのは、少しの望みも与えないことによって、彼らをもっと辛い気持ちにさせるためであったと、あなたは本当に思いますか?

  イエスが彼らに福音を宣べ伝えられたというのは、神の言葉である聖書から確かであって、私は、彼らがイエスの言葉を信じたならば、彼らはそこから解放されたに違いないと信じています! すでに触れたように、彼らの中には、ノアの時代から何千年もの間待っていた人達もいたのです! イエスが来られる前に、救われる方法を一度も聞かないまま死んでいった何千万人もの人々が、イエスご自身から福音を聞く機会を持ったのです! そして彼らはそれを受け入れ、信じたなら、その罪が許され、獄に閉じ込められた状態から解放されたのでした!

  獄に閉じ込められていた霊どもと、霊の世界で待っている霊たちは、その時に福音を聞くチャンスがあったのですが、おそらく彼らは、今もそれを聞いていることでしょう! そして聖書によれば、最後の大いなる白い御座の裁きの日までは、救われていない人達に、真理を受け入れる機会が与えられるようです! 黙示録20:12,15には次のように書かれています。「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。数々の書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これは命の書であった。この命の書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(そして覚えていて下さい。その大いなる白い御座の裁きというのは、この世では救われることのなかった人達のためだけであり、この世でイエスを受け入れた人達は、この最終的な裁きの 1,000年も前のキリストの再来の際に、すでに天に引き上げられているのです。)

  聖書には、もし彼らの名がその命の書に書かれていないなら地獄に投げ込まれる、とあります! ですから明らかに、その最終的な裁きの時に、命の書に名が記されている人達もいるわけです。もし命の書に書かれている人が一人もいないのならば、この時にわざわざそれを持ち出す必要があるでしょうか? どうして、彼らを皆、すぐ地獄の火の池に投げ込まないのでしょうか? どうして命の書が出されるのでしょうか? ただ、「最終的な点検を行い、御座の前に立つ人達の一人として救われてはいないことを確認するため」ですか? いいえ、そうではありません!

  生きかえって最後の裁きに直面する人々には、明らかに二つの種類の人々がいます。すなわち、命の書に名前が書かれている人と、書かれていない人です。命の書にその名前の載っている人達とは、救われずに死んだけれども、霊の世界に行ってから罪を悔い改め、主を受け入れた人達に違いありません。もちろん、その他の、悔い改めて真理を受け入れるつもりなど毛頭ない、この上もなく堕落し、強情で、反抗的な邪悪な者たちは、地獄へと落とされます! それは明らかです。しかし、この大いなる白い御座の裁きにおいて、命の書に名前が書かれている人達はどうなるのでしょうか? その人達はどこに行くのでしょうか?

  黙示録21章と22章には、イエスを信仰により信じる事によって救われた者たちだけが、新しいエルサレム、すなわち、祝福された者たちの永遠の天の都の中に住むと書かれています! しかし、そこには、美しい新しい地に住むようになる人達のことも書いてあります! 「地の王たちは、自分達の光栄をそこ(都)に携える」−−黙示録21:24。もし教会の言うように、その時には、この世で救われ、それゆえ天の都で楽しむことのできる救われた人達と、この世で救われることなく、それゆえ呪われて地獄に送られる者たちの2種類しか存在しないなら、それらの「地の王たち」というのは、一体誰のことなのでしょうか?

  黙示録22:2には、天の都には「命の木があって‥‥その木の葉は、諸国民をいやす」とあります。一体どんな諸国民が、いやしを必要とするのでしょうか? 救われて、復活した不滅の体を持つ者たちの誰一人としていやしを必要としたりはしません。黙示録21:4で、「もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」と約束されているからです。では、いやしを必要とする諸国民というのは誰なのでしょうか?

  それは、明らかに、都の外にいる救われていない人達のことを言っているのです! 都の外にいる王達と諸国民とは、地獄、すなわち火の池に行くほど悪くはないけれども、まだ生まれ変わってはおらず、キリストを信じるキリストの花嫁になってはいないので、天の都の中に住んで楽しむ権利のない人達です! 「王たち」とその「諸国民」というのは、明らかに、まだイエスを受け入れておらず、主の救いの贈り物を受け取っていない人達なのですが、憐れみ深い神は、そういう人達を地獄に送ることはなさらず、その美しい、新しい地において、主と主の愛とを学ぶ機会を彼らに与えられるのです。

  天の都の外でさえ、エデンの園のような素晴らしいパラダイスになるのであり、そこに行き着くことになった人々は、疑いもなく、地上の天国にいるように感じ、神の憐れみを深く感謝することでしょう! それらの人々は、まず霊の世界で非常に長い間待たなければならないでしょうが、彼らはついに解放され、主の愛と憐れみを有り難く思うようになるのです。私達、救われた者達は、命の木の癒しの葉っぱを彼らの所に持って行って彼らを癒します。そしてやがては、彼らもまた、神やその救いのことを十分知るようになり、そうなると、神ご自身が住まわれる素晴らしい天の都に入って、そこでの生活を楽しむことができるようになります! これこそ、全知全能で、愛情と憐れみに満ちた神のイメージに一致すると思いませんか? この世でイエスを受け入る機会も与えられず、またその事について聞く機会すら与えられなかった人すべてが、恐ろしい地獄に永遠に送られることになるという、教会の、残酷で、聖書に反した教義よりも、はるかに良いと思いませんか?

  地獄、すなわち霊的な罰を受ける場所である火の池は実際に存在しますが、そこには、本当に最も邪悪な者たち、つまり、ヒットラーやアンチキリストや悪魔やその堕落した天使たちのような、最も反抗的で、あからさまに不従順で、邪悪で、残酷な、恐ろしい怪物のごとき者たちだけが行くのです! それらの者たちは皆、火の池に投げ込まれることでしょう。それは確かです! 聖書には、その事が明確に記されています。最も邪悪な者たちには、「火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である!」−−黙示録21:8。

  火の池というのは、まさに最悪の者たちだけのための罰です! 火の池に投げ込まれるからには、かなり邪悪な罪びとで、神に対して公然と反抗し、悔い改めの機会を再三再四受けても、それを常に拒み続けた者たちに違いありません。神の愛に服従することを拒んだ、ごう慢で、反抗的な罪びとであり、悪名高き詩、“Invictus(インヴィクタス)”の中の言葉のように、「我が頭は血まみれになろうとも、服従することを知らず! 我こそは、我が運命の主なり!」と、悪魔自身のように挑戦的に叫ぶ者たちなのです!

  実際に最終的に、地獄、すなわち火の池に投げ込まれる者達というのは、地獄に行かなくてもすむように神があらゆる手だてを尽くされたにも拘わらず、逆らい続け、ひたすら地獄への道を進んで行った者たちです! 彼らは、どうしてもその悪しき道を捨てませんでした!−−救われて、悔い改めるようにと、愛情深く、憐れみに満ちた神が、何度も、救われ、悔い改めるための機会を与えられたにも拘わらず、地獄に行くと心に決めてしまったのです!

  あなたはどうでしょうか? あなたは、神の御子イエス・キリストを通して、神の愛と許しを受け入れたでしょうか? もしそうなら、あなたは救われており、死んだ時には天国に行きます! けれども、もしあなたがイエスを受け入れていないなら、どうか、今、イエスを信じて、イエスの霊をあなたの心の中に受け入れて下さい! あまりにもその決断をするのが遅くなり過ぎて、自分の最終的な運命が決まるまで、霊の世界で千年も待たなければならないことのないように! どうして、地獄に行っても構わないとか、天の都のまわりを取り巻く新しい地において生き続けるのを許されるだけでいいなどと思うのでしょうか? あなたはむしろ、救われて、言葉では言い表せないほど美しい天の都、すなわち新しいエルサレムで、神ご自身と一緒に住み、その素晴らしい、楽園での喜びを心ゆくまで満喫したいとは思いませんか? あなたにもできます! 今、イエスを受け入れて下さい!−−黙示録21:3、22:14。 永遠の救いによって、神があなたを祝福されますように!−−イエスの御名で、アァメン!